「天職一芸~あの日のPoem 193」

今日の「天職人」は、名古屋市千種区の「串かつ屋夫婦」。(平成十八年六月六日毎日新聞掲載)

首のタオルで汗を拭き プハアとビールを一息に     へいお待たせと黄金色 頑固親父の串かつ屋      ソースの海に沈めたら アツアツのままかぶりつき   ビール一気に飲み干せば 今宵の憂い泡と消え

名古屋市千種区の串かつの多古八(たこはち)、二代目店主の加藤清司郎さんを訪ねた。

覚王山日泰寺へと続く参道。

毎月二十一日の弘法様の縁日は、今尚多くの人で賑わいを見せる。

「最初は店先で、持ち帰りように串かつ揚げとったんだて。親父が『小遣い銭拾いだ~』って言うで」。 清司郎さんは、ロイド眼鏡を外しながら笑った。

「串かつだけだったのに、知らんとる間にお客さんが『ご飯食べたい』とか、『大根おろしくれ』『野菜炒め作ってちょ』って。だからこの献立は、みんなお客さんが勝手に作ったの」。傍らで妻の孝子さんが壁の献立を指差した。

清司郎さんは昭和七(1932)年に誕生。

戦後新制中学を上がると、路面電車の架線工事に職を得た。

五年後の昭和二十七(1952)年に退職し、今度は旧スバル座の映画技師に。

「社長と仲よかったでな」。 戦後復興を朝鮮特需が後押しする中、本格的な邦画ブームが到来した。

連日の大入り満員。参道には人が溢れ出した。

誰もが明日を信じ、ささやかな未来を託し、今日を倹(つま)しく行き抜いた。

昭和三十五(1960)年、父が多古八を定年後の小遣い稼ぎにと開店。

「当時串かつ一本八円だったで、多古八だって」。

昭和四十二(1967)年、岐阜県羽島市出身の従姉妹を妻に迎え、一女を授かった。

その三年後、映画技師を辞し父に乞われ店を継ぐことに。

「まんだ映画全盛の頃だったで、俺りゃあ串かつ屋なんてやりたなかったわさ」。

持ち帰り専門のはずが、客の要望に応え、いつしか店内も拡張。

「どえらけねぇ満員で。そんでも儲かれへんでかんわさ。えりゃあばっかで」。清司郎さんは妻を見つめて笑った。

多古八名代の串かつは、赤身の腿肉だけを使用。

肉を串に刺し、うどん粉と卵を混ぜた衣を付け、パン粉を塗してラードでカラッと揚げる。

「揚げたての串かつに、どての味噌を絡めて食べるのが一番人気だわさ。カレーのソースもあるけど、それもお客さんの発案」と、孝子さん。

「あの『ピータマ』ってのは、ヤーサンって渾名(あだな)のお客さんの好物。ピーマンと卵の炒め物だけど、何だしゃんこいつがまたよう売れるでかんわさ」。

昭和四十(1965)年代から五十(1975)年代にかけ、多古八の絶頂期は続いた。

「弘法さんの縁日には、一日千五百~二千本くらい揚げとったて。だで縁日の一週間前から、家族皆総動員して仕込んで」。

しかし昭和が終わりを告げる頃から、参道を行き交う人波にも翳りが生じた。

「昔はお客さんも家族同然で、和やかだったでねぇ。三日も顔見んと、『久しぶりだねぇ』って。それに比べたら、今は何だか世の中全体が、ギスギスしてまった感じだわ」。孝子さんが夫を見やった。

店に通い詰める学生が、郷里に戻ると、帰りがけに両親から多古八のもう一人の両親へと、土産を持たされることもしばしば。

「実の娘は一人っきり。でも大学に通っとる間の四年間、我子のように育てた子らは数え切れんて」。夫婦は見詰め合って思い出し笑い。

「まあわしで終わりだわ。こんなえらい仕事」。

「でもお金に代えられん物を、お客さんからようけ貰ったもんね、お父さん」。

開けっ放しの店先。

参道を梅雨の湿った風が吹き抜けた。

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「天職一芸~あの日のPoem 192」

今日の「天職人」は、三重県津市の「生ハム職人」。(平成十八年五月三十日毎日新聞掲載)

土曜の昼の放課後に 母から十円貰っては        市場の中を肉屋へと ハムカツ買いに一目散       千切りキャベツ従えた ハムカツ様のお出ましだ     たっぷりソース振掛けて 丼飯でかぶりつく

三重県津市の松阪ハム、工場長の橋本覚さんを訪ねた。

「元々動物が好きでなあ。子供の頃はよう豚相手にお医者ゴッコしたもんやさ」。

覚さんは同市の兼業農家で、四人姉弟の長男として昭和二十一(1946)年に誕生。

久居農林高校畜産科に学んだ。

「当時は動物性蛋白をよっけ取れって時代やったし」。

昭和三十九(1964)年、卒業後松阪ハム(旧伊勢湾飼料畜産)へ入社。

東海道新幹線が開通し、第十八回オリンピックが開幕。

「ハムの製造は一年前に始まったばかりで、技術的に未熟やったもんで、冷蔵庫が不良品で一杯になっとんさ。『これじゃあかん!なとしても独り立ちせんと』って」。

ハムを覆うビニール製のケーシングの中で、肉とつなぎの魚肉がくっつかず加熱の度に離水した。

昭和四十(1965)年頃の主流は、豚・マトン・馬肉に、メバチマグロやカジキマグロを主原料としたプレスハムと、真っ赤なウインナーソーセージ。弁当のおかずには欠かせぬ一品だった。

ところが昭和四十年代も後半には衰退期へ。

「徐々に品質が低下して、お客離れんなってさ」。入れ替わるように、ロースハム・ベーコン・粗挽きウインナー・焼き豚が主力の座へ。

日本人の食への趣向が変わり行く中、橋本さんは昭和四十六(1971)年に妻を得、二人の男子をもうけた。

「昭和五十五(1980)年頃には、欧州式の本格的な商品が求められるようんなってな」。

三十五歳になった昭和五十六(1981)年、本場西ドイツのシュツットガルトの地、キューブラー社で七ヶ月に及ぶ修業に就いた。

「最初の半年間は、プッツェン言うて、器具の洗物と骨抜き、それに骨場へ捨てに行かされる雑用ばっかやさ。ほんで日本へ帰る一ヶ月前んなって、やっと技術的なことをやらせてもうて」。

満足に言葉も通じぬ異国。

朝五時から夜六時までの過酷な作業。雑用の隙にマイスター達の仕事振りを盗み見ては、夜毎日記に綴った。

『日本に帰ったら、日本人好みの生ハムを作ろう。まだ日本には無いものを』。

帰国後、さっそく生ハム作りに着手。

「ところがこれが全然売れやん。時代がも一つ早すぎたんやろな」。

しかしその後も改良を重ね、現在の製品へと松坂ハムを導いた。

生ハム作りの基本は、永年の目利による豚肉の仕入れ。

骨抜きをして脂と筋を取り除き、ロース・バラ・腿・腕・ヒレに分割。

次に赤肉から脂肪を切り落し、円筒形に成型し塩と発色材を肉にすり込む塩漬(えんせき)作業へ。

百㌕の肉に三㌕の塩がすり込まれる。

そして二~三℃で一週間冷蔵。

次にピックレーキと呼ばれる旨味付け。

塩と五種類のハーブと香辛料が調合され、二時間煮込んで抽出された液体に肉を付け込み再び一週間。

次の充填では、円筒形で通気性のあるケーシングに肉を入れ、室温十五℃湿度七十五%でぶら下げて丸一日乾燥。

さらに十八℃前後のスモーク室で丸二日。仕上がりまでゆうに三週間。

松阪牛のハムは無いかと問うた。

「松阪牛は良すぎるで、そのまま食べた方が旨いやろ。まあこれ食べてみ。今、試作中やけど」。

橋本さんの秘蔵作品。

松阪牛の霜降り生ハムだ。

初めて味わう未知なる食感。

しかし後数年もすれば、名高い高級レストランの前菜として、再びお目にかかるかも知れない。

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「天職一芸~あの日のPoem 191」

今日の「天職人」は、岐阜市金町(こがねまち)の「茶屋店主」。(平成十八年五月二十三日毎日新聞掲載)

寝惚け眼の朝ご飯 卓袱台囲む父と母          海苔に味噌汁生卵 割れば双子に大騒ぎ         母は湯飲みに茶を注ぎ 茶柱立ったと浮かれ顔      思えば貧しい昭和だが いつも茶の間に笑い声

岐阜市金町の明治屋茶舗、二代目の茶屋店主の藤森春美さんを訪ねた。

「♪夏も近付く八十八夜♪」

立春から疾(と)うに八十八夜も過ぎ、季節は早入梅の到来を予感させる。

新暦五月二日頃の八十八夜は、日本独特の暦日で、古来より茶摘や養蚕、それに野良仕事にとっての一つの目安とされた。

「今は一年でも一番重要な、荒茶の買い付けをしる季節ですでねぇ」。春美さんは、妻が差し出した茶を旨そうに口に含んでつぶやいた。

初代は岐阜市御浪町の茶舗で修業を積み、昭和三(1928)年に高野町にて創業。春美さんは昭和六(1931)年、二人兄弟の長男としてこの家に生まれた。

子宝に恵まれ、家業も順風満帆。

それから三年、初代は岐阜駅から北に延びる金町の一等地に、新店舗を構えた。

しかし時代の荒波は、何人たりとも諍(あらが)うことも出来ぬ、忌まわしい戦争という渦の中へと引き込んで行った。

「岐阜空襲で店も何もかも、みんな丸焼けやて」。

春美さんは遠くを見つめるように笑った。

戦後は俄仕立てのバラックで営業を再開。戦後の復興の槌音に合わせ、家業も再び隆盛を極めた。

「戦争や敗戦で身も心も荒んどっては、いいお茶なんて飲む気にもなれませんて」。

東京の大学を卒業すると、跡継ぎとしての帰省を前に、静岡県の牧の原茶園で製茶の工程を修業。

「と言っても、わずか三ヶ月半やったけど」。春美さんは品よく笑った。

「八十八夜に手摘みされた一番茶を、深蒸しとか中蒸しに分けて蒸す。次に機械で茶葉を揉み、形揃えしてバスケと呼ぶ真っ赤に熾った炭火の上の鉄板で、火入れして乾燥させれば荒茶の出来上がり。今はみんな機械がしるんですけどね」。

昭和二十八(1953)年、茶所の本場で修業を終え家業に就いた。

「茶葉の産地は、地元の揖斐茶に白川茶。それに静岡茶や宇治茶と、伊勢茶に九州の八女茶。抹茶や玉露はかぶせって言って、茶を摘む二十日程前から黒いビニールで覆って直射日光を抑えるんやて。昔は藁掛けやったけどね。だから円やかな味になる」。

一方、太陽の陽をしっかり浴びる煎茶。煎茶を摘んだ後に残る、大型の葉や茎で作る番茶。店先で芳ばしい香りを振りまく、番茶を高温で煎るほうじ茶。

「お茶の種類はまだまだありますよ。後はお客さんの好みに合わせ、荒茶を買い付けて低温倉庫に保存して、次の年の八十八夜まで大事に寝かせとかんと」。

春美さん二十五歳の昭和三十一(1956)年、羽島市出身の圭子さんを妻に迎え、一男一女を授かった。

「私は田舎の出やで、最初は商売が苦手やったんやて」。今年金婚式を迎えた妻は、すっかり堂に入った手付きの茶筅捌き。「まあ一服どうぞ」。

店の奥には、茶と墨書された張り紙の茶箱が居並び、明治初期頃まで使われたと言う茶壷が、茶葉へのこだわりを信条とする茶屋の姿勢を裏付けるようだ。

茶溜りに残る翡翠の雫。

小さな泡と泡が隣り合わせ、やがて静かに消えて逝く。

まるで最高の茶飲み仲間を得、四方山の茶飲み種(ぐさ)に明け暮れた一日を、静かに終えるように。

金婚式を迎えた老夫婦。もう十三年連れ添って、共に米寿を祝いつつ「八十八の升掻(ますか)き」と洒落こめば、茶屋商いも大繁盛。

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「夢なら醒めないで」

浜辺の木陰で波の調べを聴きながら、昼間っからビールを煽って、思う存分うたた寝が出来たら、さぞや幸せなことだと思います。

そんな束の間の惰眠を貪っている時には、どんな夢がお似合いなんでしょうか?

或いは、電車に揺られながら、軌道音を子守歌代わりに、こっくりこっくりするのもいいものです。

しかし隣に座ったオッサンが眠りについて、電車が揺れる度にこっちにもたれ掛かって来られるのだけは、どうかご勘弁願いたいものです。

皆様夢は良くご覧になりますか?

夢を克明に覚えていらっしゃる方もお見えになりますが、ぼくは夢を確かに見てはいたと記憶していても、その内容が全く思い出せない事がおおくあります。

まあもっとも、眠りにつく寸前まで酒を煽ってしまうからかも知れませんが!

中にはその日見た夢を、夢辞典なるもので調べられる方もおいでになるようですが、ぼくにゃあ至難の業ってぇとこでしょうねぇ。

正夢に予知夢に逆夢。

でもどうせなら、少し希望の持てるような夢を見たいものです。

それでも酒を飲まなかった子どもの頃は、よく夢を見ていた気がいたします。

何か宝物を手に入れる寸でのところで夢から醒め、あと一歩だったのにと口惜しい思いをしたこともありました。

そして出来得ればその夢の続きを見たいと、何度も何度も願ったりもしたものですが、それが叶った試しは無かった気がいたします。

皆様は最近、どんな夢を最近ご覧になられましたか?

今夜は、「夢なら醒めないで」をお聴きいただきましょう。

「夢なら醒めないで」

詩・曲・歌/オカダ ミノル

「夢なら醒めないで もう少しだけ」 泣き疲れて眠る 君のうわ言

言葉に出来ない 心の痛みなら 夢の深い淵に 沈めちまえよ

 一途な想いだけが 空回り 手繰れば手繰るほどに 擦り抜ける

「夢なら醒めないで もう少しだけ」 泣き疲れて眠る 君のうわ言

届かぬ想いだと 惑わされないで 心の居場所も 揺らいでしまう

拘り続ければ 明日への一歩 踏み出せないままに ただ立ち尽くす

 どんなに不器用でも 構わない 慌てず塞がないで 君らしく

「夢なら醒めないで もう少しだけ」 泣き疲れて眠る 君のうわ言

 どんなに不器用でも 構わない 慌てず塞がないで 君らしく

「夢なら醒めないで もう少しだけ」 泣き疲れて眠る 君のうわ言

続いてCD音源の「夢なら醒めないで」お聴きください。

★毎週「昭和の懐かしいあの逸品」をテーマに、昭和の懐かしい小物なんぞを取り上げ、そんな小物に関する思い出話やらをコメント欄に掲示いただき、そのコメントに感じ入るものがあった皆々様からも、自由にコメントを掲示していただくと言うものです。残念ながらさすがに、リクエスト曲をお掛けすることはもう出来ませんが…(笑)

今夜の「昭和の懐かしいあの逸品」は、「初めて食べたインスタントラーメンの思い出」。

何でも今日は、「即席ラーメン記念日」だとか。

昭和33(1958)年の今日、日清食品が世界初の即席ラーメン「チキンラーメン」を発売したんだそうです。

皆様は、どんなインスタントラーメンを最初に召し上がりましたか?

ぼくは小学生になってからだったように気がします。ちなみにぼくが生まれた翌年に、チキンラーメンが誕生したわけですから、随分と遅いインスタントラーメンデビューだったことになります。

最初に食べたのは、チキンラーメンではなく、確かお母ちゃんが鍋で煮てくれた、「出前一丁」だったような気がいたします。

カップヌードルが誕生するのは、もう少し後の世の事でしたねぇ。

TVのコマーシャルを見て、どうしてもどうしても食べてみたくて仕方なく、お母ちゃんにねだったものです。

今思えば、本当にチャーシューもネギもなく、ただのインスタント麺にスープと一緒に入っているゴマ油を垂らしただけの素ラーメン。

味気なかったものの、ものすっごく美味しかったものです。

今回は、そんな「初めて食べたインスタントラーメンの思い出」。皆様の思い出話を、ぜひお聞かせください。

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クイズ!2020.08.25「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」

いやいや意外な事に、苦肉の策のクイズ「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」が好評?で、皆様からも数多くのコメントを賜りました。

そこで益々気をよくして、ぼくからの一方的なブログではなく、皆様にもご一緒に考えていただいてはと、『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』をしばらく続けて見ようと思います。

でもクイズに正解したからと言って、何かプレゼントがあるわけではございませんので、どうかご了承願います。

そこで今回の『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』はこちら!

今回はまったくもってベジタリアンな作品です。

トマトと一部の●製品を除けば、ほとんどがアルモノから作られているものを使用しております。

このアルモノは、とてもスグレモノで、ぼくらの食卓には欠かせぬ食品です。

まぁ、これがヒントでしょうか?

でも観察力に富んだ皆様には、お見通しかも知れませんけどね。

さあ、皆様の頭には、どんなモノが浮かびましたでしょうか?

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「天職一芸~あの日のPoem 190」

今日の「天職人」は、愛知県西尾市の「映写技師」。(平成十八年五月十六日毎日新聞掲載)

お煎キャラメル買(こ)うたるで 父は幕間に売り子呼び ぼくの機嫌を取り成して 仁侠映画もう一本       肩で風切る帰り道 父は銀幕役者まね         「今帰(けえ)った」と粋がるも 仁王を前に頭垂(こうべた)れ

愛知県西尾市の西尾劇場。三代目館主であり映写技師の青山弘樹(こうき)さんを訪ねた。

駅前に聳える真っ黒な甍。裏通りには、浮世を隔てる昭和の残像。

「映画見た老夫婦が帰り際、『初めて婆さんと、ここでデートした日を思い出したわ。ありがとう』って」。

思い出は、風景や建物に人の表情や言葉が重なり、記憶の片隅へと刻み込まれる。

「『お母さんもお爺ちゃんに連れられて、ここでよく映画見せてもらったわ』って、息子連れのお母さんがあっちこちキョロキョロ眺め回して。まるで面影でも探すように」。 弘樹さんは、所狭しと駄菓子の広がる、タイル張りのロビーの小さな椅子に腰掛けた。

西尾劇場は昭和十五(1940)年九月二日、関西歌舞伎の女形(おやま)、片岡仁左衛門の柿落(こけらお)としで幕を開けた。「廻り舞台はもう動きませんけど」。

翌年真珠湾攻撃が始まると、娯楽の殿堂は一気に軍による戦意高揚の場として利用された。

戦後はGHQの監視下に置かれ、戦意喪失を目的にアメリカ映画の上映が奨励された。

ハンバーガーとジーンズ、ポニーテールにツイスト。

豊で自由奔放なアメリカ文化が、銀幕を通して日本中を席捲した。

昭和二十六(1951)年、サンフランシスコ講和条約が調印され、日本の独立が回復。

邦画制作が活況を帯び始めた。

「当時は映画もやれば歌謡ショーも。立会演説会から旅芝居まで。美空ひばりが来演した時には、特別列車が出る騒ぎだったほど」。

弘樹さんは昭和三十七(1962)年、三人姉弟の長男として誕生。

「裏が自宅なんで、小さい時からモギリやビラ貼り手伝ったり。でも毎日毎日、友達の誰よりも早く新作が見られましたし。サーカスが来たり、カンガルーのキックボクシングや、ストリップに女子プロレスまで、映写室からこっそり盗み見たもんですわ」。

まるでシチリア島を舞台にした名画「ニューシネマパラダイス」の日本版のような少年時代だった。

地元高校を出ると、東京の大学へ。

「学者を志し、大学院を十年掛けて二つも梯子してまして」。研究に明け暮れる中、「父倒れる」の知らせが。

すぐさま帰郷。脳梗塞で半身不随となった父に代わり、そのまま映写機を回した。

「二台の映写機で、交互にフィルムをかけかえて。画面の右上に出る黒いポッチの一回目が予告で、二回目が終わりの合図。それにピタッと合わすのが、技師の腕でね」。

時代劇に怪獣物、仁侠物から恋愛物へと、時代と共に名作が生まれては、人々の記憶の彼方へと消えて逝った。

昭和三十三(1958)年当時、全国に映画館は八千館。

映画人口は、年間十二億人だったとか。

「昔は仁侠映画の主役が、悪者をバッタバッタと切り倒すクライマックスに、『いよーっ!鶴田!』って、歌舞伎の大向こうのような粋な掛け声が上がって」。

年季の入った真空管のアンプを、弘樹さんがそっと労わる。

「何とも心地いい音なんです」。

ふと「結婚は?」と問うて見た。

「研究と映画に明け暮れ、まだ一人身のままです。誰かいい人いたらいいんですけど」。誰よりも映画館で上映する、映画を愛した男は照れ臭そうに笑った。

たった三十五㍉の小さな小さなフィルムは、映写機を通し、視界の全てを覆う迫力で、途方もない大きな夢や愛を描き出す。

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「天職一芸~あの日のPoem 189」

今日の「天職人」は、三重県伊賀市の「土鍋陶工」。(平成十八年五月九日毎日新聞掲載)

七輪の上ゴトゴトと 土鍋が音をたて出せば       母は包丁トントンと 葱を刻んで振り掛ける       風邪をこじらせ寝込んだら 母の得意な味噌おじや   フゥーフゥー冷まし口元へ 妙にこそばいやさしさが

三重県伊賀市で明治中期頃創業、五代目土鍋陶工の稲葉直人さんを訪ねた。

「土鍋は、手取りの感覚が一番。次に芸術的な意匠ですね。料理を作りたくなったり、思わず蓋を上げ炊き上がりが見たくなる様な」。 直人さんは、粘土でカサカサに荒れた手を擦り合わせた。

直人さんは昭和三十五(1960)年、二人兄妹の長男として誕生。

「父の代は、型物の量産が主で、萬古焼きの製造卸でした。だから子供の頃は、焼物に興味がなかったんです」。

しかし高校へと進学した二年目に、父が他界。

「どうにも跡を継がんといかんのやろなぁって」。 母と祖父母が家業を切り盛りし、京都の夜間大学へと進学。昼間は陶房で雑用をこなした。

二十二歳で京都市立工業試験場に入り、陶芸の基本を学んだ。

「九州や萩の立派な由緒ある窯元の息子やら、脱サラして陶芸を志す者やらと一緒で、刺激を受けましてねぇ。それまで焼き物っていったら、型物とばっかり思ってましたから」。

一年後に京都府立陶工訓練校へと進み、轆轤(ろくろ)の回し方から土練りを学んだ。

「その頃ですね。焼き物に可能性があるんだって感じたのは」。

翌年二十四歳で帰省し、家業である土鍋の型物量産製造に従事した。

「これやない!もっと他のもんをやりたい!」。

休みを返上し自問自答を繰り返し、土鍋の一品物への挑戦が始まった。

「ここらの土は、木節(きぶし)粘土と言って、伊賀独特の黒い土なんです。大昔ここらは、琵琶湖の底やったとかで。吸水性が高く、耐火性に優れ火に掛けても割れず、焼き締まりにくい。だから鍋には最適でも、器には不向きでね。それやったら誰もやっとらん、土鍋の一品物を目指したろうって」。

心地良く、そして美味しく炊けて、料理を作りたくなるようなそんな土鍋。

家族で鍋を囲む団欒を想い描き、直人さんは轆轤を回した。

「上手く炊けるか?掴み易いか?、重過ぎず蓋は取りやすいか?洗い易いか?」。直人さんの試行錯誤は重ねられた。

「戻って二年程、そんな日々の繰り返しで」。

直人さんの土鍋造りは、まず木節粘土の土練りに始まり、鍋と蓋を轆轤で成型。

一~二日ほど陰干し。

鍋の底を鉋(かんな)で削り落とし、一日置いて鍋の耳と、蓋の取っ手に水を塗って取り付け、形を削り出す。

再び天日で四~五日乾燥させ、七百度で素焼き。

釉薬を掛け、筆で細部に絵付けを施し、内蓋の真ん中に『直』の一文字をしたため焼成へ。

ガス窯で十四時間かけて焼き上げ、同じ時間をかけ冷却。

最後に紙やすりをかければ完了。

「ご飯を炊くんやろかとか、野菜を煮るんやろかとか、まず使う人の用途を考えて。次に何人で鍋を囲むんだろうかと想い描き、それを意匠に反映して轆轤を回します。だって使ってもらってなんぼですから」。

市松模様に日月、黒織部の鯰柄と、直人さんの土鍋は団欒の要として、家族の笑い声に囲まれる。

平成十(1998)年、三十八歳で東京出身の聡子さんを妻に迎えた。

「毎日ぼくの作った鍋を使って、ご飯から味噌汁まで。自由な発想で鍋料理を愉しんでくれてます」。

一番良き理解者だ。

鍋と蓋は二つで一つ。

夫唱婦随。

土鍋一筋の陶工は、日常の暮らしの中に芸術を極め続ける。

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8/18の「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」正解はこちら!

「心太のなぁ~んちゃって冷製スープボンゴレ」

ちょうど心太職人のブログ記事をアップしていたこともあり、それと日置江のヒロちゃんからも「この暑さで食欲もゲンナリ↓たまにゃあアッサリしたクッキングもお願い!」とリクエストもあり、だったらチュルチュルっと心太を使ってやれぃ!ってなもんで挑んで見たのが、この「心太のなぁ~んちゃって冷製スープボンゴレ」です。

まず深めのフライパンでバターを溶かし、ニンニクの微塵切りで香りを立て、よく砂出しをしたアサリをさっと炒め、次に白ワイン、水、コンソメ(ぼくはコンソメもブイヨンも切らしておりましたので、鶏がらスープの素で代用して見ました)、ハーブミックス、ブラックペッパーでお好みに調味し、サラダ用のミックスビーンズを入れて一煮立ちさせます。

次に冷水でフライパンごと粗熱を取り、具とスープをボールに移し替え、冷蔵庫でヒンヤリするまで冷やします。

スープのボンゴレビアンコが冷えたら、後は心太を冷水で水洗いし、スープボウルに移して上から冷やしたスープボンゴレの具とスープをたっぷり注ぎ入れれば完成。

これがまた甘酸っぱい心太とは異なり、何とも言えぬイタリア~ンな海藻パスタとなり、ついついキリン一番搾りも進んでしまいましたぁ!

今回も観察力に長けた皆様の回答には、唸らされるばかりでした。

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「天職一芸~あの日のPoem 188」

今日の「天職人」は、岐阜市神田町の「栗粉餅職人」。(平成十八年五月二日毎日新聞掲載)

病の床の母の手が 日毎小さく成り果てる        庭の毬栗眺めては 秋はまだかと繰り返す        毬が色付き落ち出せば 母の好物栗粉餅         初物買うと励ませど 彼岸待たずに召され逝く

岐阜市神田町、明治三十七(1904)年創業のベンテンドー。四代目栗粉餅職人の高井啓光(よしみつ)さんを訪ねた。

「家は代々、高富町(現山県市)大桑(おおが)の土田さんちの栗だけしか使っとらんのやて」。 啓光さんは、鼻先でずり落ちそうになった眼鏡を、指先で持ち上げた。

店内には繰り返し耳馴染みのいいメロディーが流れる。

「♪ベンテンドーの栗粉餅 ベンテンドーの栗粉餅♪」。

懐かしさが漂う曲調に、つい聴き入ってしまう。

「昭和三十四(1959)年頃には、もうテレビやラジオで宣伝に流しとったらしいですわ。久里千春さんが歌って」。

啓光さんは昭和三十五(1960)年、三人姉弟の長男として誕生。

地元小学校を上がると、静岡県の中学へ。

「男の子は外へ出さなかん」とする、先代の厳しい掟の前に、十二歳のいたいけな少年は、親許を離れ寮生活を余儀なくされた。

大学を出ると今度は、愛知県岩倉市の洋菓子店で修業を開始。

「元々創業時は和菓子一本。戦後、父の代から洋菓子も始めて。昔は二階でパーラーって言うか、珈琲屋もやっとってね」。

三年の修業を経て、二十六歳の年にドイツへ武者修行に。

「本当はフランスに行きたかったんやて。でも当時のヨーロッパは失業が多くって。貿易関係の義兄の紹介で、西ドイツのシュツットガルト郊外の『カッツ』という洋菓子店が『三ヶ月だけなら引き受けてもいいぞ』って」。

ドイツ人の兄弟弟子と、二人部屋で寮生活が始まった。

例え三ヶ月とはいえ、言葉も通じぬ異国での修業から、啓光さんは多くの技を学び取った。

「ドイツ菓子は、他のヨーロッパのように、見た目の派手さを競うんじゃなくって、生地自体の美味しさにこだわるんやて」。

ドイツでの修業を終える頃、一人の日本人女性が「カッツ」を訪ねた。妻、朝代さんだ。

「元々両親が知り合いで、見合いみたいなもんやて。婚約中にドイツで修業して、それを終える頃妻が合流し新婚旅行へ」。そのまま二人は、ヨーロッパ各地を一ヶ月かけハネムーン。帰国後に式を挙げ、男子二人を授かった。

ドイツから戻ると、父の元で本格的に名代の「栗粉餅」を始めとする和菓子作りを学んだ。まず栗を蒸し、半分に切ってスプーンで実を掘り出す。実を潰して荒簁(あらどおし)から細簁(ほそどおし)へと順に目を細かくして栗粉へ。

白餡の栗蜜をつなぎ程度に加え、裏漉(うらご)しして粉状に。

搗きたての一口大の餅を、栗粉の上に転がし満遍なく塗せば出来上がり。

「毎朝六時から蒸し始め、一日二千個ほど。売り切れたら終いやて」。

年間三㌧の栗が、啓光さんの手を経て珠玉の逸品「栗粉餅」へと生れ変わる。

「昔の生栗は、九月から二月までやて。でも今は冷凍技術もようなったで、年中ありますわ。でも毎年天候によって、栗の甘味も採れる量も違ってくるし。中国の栗では硬すぎて。やっぱり大桑の栗が一番向いとる。その土地の恵みを素材に、その土地に生きる者の手で、お菓子に加工させて貰うのが一番」。

「井の中の蛙たるな」。

先代の教えと家伝の栗粉餅は、井の外に出た四代目に確(しか)と受け継がれた。

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「天職一芸~あの日のPoem 187」

今日の「天職人」は、名古屋市中区の「製本師」。(平成十八年四月二十五日毎日新聞掲載)

父が綴った日記から 喜怒哀楽が零れ出す        一つページをめくる度 家族模様がよみがえる       「還らぬ父を野辺送り 形見の皮のジャンパーで     父の日記を装丁す」 新たな日記筆はじめ

名古屋市中区の恒川製本所、二代目製本師の恒川雄三さんを訪ねた。

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繁華街に埋もれる様な町屋。茶の間の奥の作業場には、製本前の学術論文が渦高く積み上げられ、大型の断裁機や箔押し機が周りを取り囲む。

「野依さんがノーベル賞をとった時の、あの論文の製本は、2日で仕上げたんだわ。ほらあ職人冥利だったわさ」。 雄三さんは、機械と材料の谷間に胡座(あぐら)をかいた。

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「ここがわしの指定席だで」。何とも柔らかな笑顔は、そのまま人の良さを表す。

雄三さんは昭和十三(1938)年に、四人姉弟の長男として誕生。

小学一年の三月に空襲で焼け出され、母の在所の岐阜県各務原市へ。

「焼夷弾三発も喰らってまって。学生帽に戦闘帽、おまけに防空頭巾まで三つも被っとったのに、身体中火傷してまったて。意識失って気が付いたら、目と鼻と口だけあけて、包帯でぐるぐる巻きだわさ。ミイラみたいに」。

戦後名古屋へと舞い戻り、中学を出ると父の元で修業を始め、夜間高校へと通った。

「東京の岩波文庫で金文字押しの勉強したんだわ。たったの二週間だったけど」。

ほとんどが手作業の製本作業は、簡易に綴じられた論文の分解に始まる。

そして余分な箇所を取り除き、余白を糸でかがって背をボンド付け。

ボンドで厚みが増した背は、ハンマーで叩き均(なら)す。

「おんなじ高さにせんとさいが」。

一冊分の原稿を均し終えたら、それを包むようにきき紙と呼ぶ見返しを貼る。

天(あたま)と地(けした)、そして背の反対側の小口の三方を断裁し、背の丸みを出しながら膠(にかわ)とボンドで背固め。

表紙の芯となる段ボールの四隅を、ハサミで丸く切り落しクロスや鞣革(なめしがわ)をボンドとうどん粉糊で表紙貼り。

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題字や背文字に合わせて凸版の活字を組み、二百度に熱した箔押し機で印字。

見返しと表紙を貼り付けて、背の両端に溝を焼き付け五分ほどプレス機へ。

「表紙の角に丸みをつけるのんは、誰(だあれ)もよう真似せんですわ」。

昭和三十八(1963)年、岐阜出身の絹代さんを妻に迎え、一男二女を授かった。

「両親と子供、おまけに住込みの職人の面倒見ながら、ジグザグミシンで綴じを手伝ってねぇ」。絹代さんが懐かしそうに微笑んだ。

「昔の職人の日当は、にこよん(二百四十円)で、製本一冊が三百二十~三百三十円。そんな頃は何とかなったけど、今はもう日当も出んて。世の中バブルとかって浮かれとっても、私ら一冊もんだでそんなもん儲かれへんて」。

雄三さんは己が言葉を笑い飛ばした。

「この国の和綴じは、湿気の多い風土に適して、大したもんだて。水にも滲(にじ)まんええ墨さえ使ってあれば、和本は水に浸かってもちゃんと修復が利くんだで」。

和本を箱型に包み込むような「帙(ちつ)」は、洋書の硬い表紙に当たる。

「たまあに、革装を頼まれる方がおるけど、『湿気(しけっ)てまって直ぐに黴(かび)るでやめときゃあ』って言ったるんだわ」。

この道四十年の職人は、何の気負いもなくやさしく笑った。

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「本を読む人らは、読まん人より出世が早いんだて。ほんとに」。

数多(あまた)の研究者達が紡ぎ出した論文。

老製本師は今日も、人類の知産として黙々と綴じ上げる。

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