今日の「天職人」は、名古屋市千種区の「串かつ屋夫婦」。(平成十八年六月六日毎日新聞掲載)
首のタオルで汗を拭き プハアとビールを一息に へいお待たせと黄金色 頑固親父の串かつ屋 ソースの海に沈めたら アツアツのままかぶりつき ビール一気に飲み干せば 今宵の憂い泡と消え
名古屋市千種区の串かつの多古八(たこはち)、二代目店主の加藤清司郎さんを訪ねた。

覚王山日泰寺へと続く参道。
毎月二十一日の弘法様の縁日は、今尚多くの人で賑わいを見せる。
「最初は店先で、持ち帰りように串かつ揚げとったんだて。親父が『小遣い銭拾いだ~』って言うで」。 清司郎さんは、ロイド眼鏡を外しながら笑った。
「串かつだけだったのに、知らんとる間にお客さんが『ご飯食べたい』とか、『大根おろしくれ』『野菜炒め作ってちょ』って。だからこの献立は、みんなお客さんが勝手に作ったの」。傍らで妻の孝子さんが壁の献立を指差した。

清司郎さんは昭和七(1932)年に誕生。
戦後新制中学を上がると、路面電車の架線工事に職を得た。
五年後の昭和二十七(1952)年に退職し、今度は旧スバル座の映画技師に。
「社長と仲よかったでな」。 戦後復興を朝鮮特需が後押しする中、本格的な邦画ブームが到来した。
連日の大入り満員。参道には人が溢れ出した。
誰もが明日を信じ、ささやかな未来を託し、今日を倹(つま)しく行き抜いた。
昭和三十五(1960)年、父が多古八を定年後の小遣い稼ぎにと開店。
「当時串かつ一本八円だったで、多古八だって」。
昭和四十二(1967)年、岐阜県羽島市出身の従姉妹を妻に迎え、一女を授かった。
その三年後、映画技師を辞し父に乞われ店を継ぐことに。
「まんだ映画全盛の頃だったで、俺りゃあ串かつ屋なんてやりたなかったわさ」。
持ち帰り専門のはずが、客の要望に応え、いつしか店内も拡張。
「どえらけねぇ満員で。そんでも儲かれへんでかんわさ。えりゃあばっかで」。清司郎さんは妻を見つめて笑った。
多古八名代の串かつは、赤身の腿肉だけを使用。
肉を串に刺し、うどん粉と卵を混ぜた衣を付け、パン粉を塗してラードでカラッと揚げる。
「揚げたての串かつに、どての味噌を絡めて食べるのが一番人気だわさ。カレーのソースもあるけど、それもお客さんの発案」と、孝子さん。

「あの『ピータマ』ってのは、ヤーサンって渾名(あだな)のお客さんの好物。ピーマンと卵の炒め物だけど、何だしゃんこいつがまたよう売れるでかんわさ」。
昭和四十(1965)年代から五十(1975)年代にかけ、多古八の絶頂期は続いた。
「弘法さんの縁日には、一日千五百~二千本くらい揚げとったて。だで縁日の一週間前から、家族皆総動員して仕込んで」。
しかし昭和が終わりを告げる頃から、参道を行き交う人波にも翳りが生じた。
「昔はお客さんも家族同然で、和やかだったでねぇ。三日も顔見んと、『久しぶりだねぇ』って。それに比べたら、今は何だか世の中全体が、ギスギスしてまった感じだわ」。孝子さんが夫を見やった。
店に通い詰める学生が、郷里に戻ると、帰りがけに両親から多古八のもう一人の両親へと、土産を持たされることもしばしば。
「実の娘は一人っきり。でも大学に通っとる間の四年間、我子のように育てた子らは数え切れんて」。夫婦は見詰め合って思い出し笑い。
「まあわしで終わりだわ。こんなえらい仕事」。
「でもお金に代えられん物を、お客さんからようけ貰ったもんね、お父さん」。
開けっ放しの店先。
参道を梅雨の湿った風が吹き抜けた。
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