「冬の醍醐味が届きましたぁ!」

まずはご覧ください!

今年もゴッド君から、広島の岩牡蠣が届きましたぁ!

もう毎年のことながら、感謝感激雨霰です!

せっかく新鮮な岩牡蠣ですから、そのまま生でチュルッと行きたいのもやまやまですが・・・。

どうにもぼくの体質には、生牡蠣はちょいと・・・。

そこで今年も、ちょいとお値打ちなシャルドネの白ワインを1.5ℓと、ブルーチーズを買い込んで、白ワインとブルーチーズでボイルしていただきました。

もちろん一度にこんなにも食べきれるわけもありませんから、白ワインとブルーチーズの旨味を身にまとった牡蠣を殻から外して、冷凍保存しておきました!

まぁしかしそれにしても、冬の醍醐味にすっかり心奪われ、キリン端麗グリーンとヴィラマリアのソービニヨンブランがグビグヒと進んでしまいましたぁ!

ゴッチャン、今年もありがとうね!!!

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「天職一芸~あの日のPoem 295」

今日の「天職人」は、愛知県弥富町又八(現・弥富市)の、消えゆく昭和の貴婦人「白文鳥繁殖家」。(平成20年10月7日毎日新聞掲載)

片一方の靴下に 願いを託し枕元                母に言われるまでもなく 早寝を決めてサンタ待つ        寝惚け眼(まなこ)を見開けば 枕の側に籠の鳥         赤い嘴(くちばし)白い羽根 貴婦人のよな白文鳥

愛知県弥富市で白文鳥の繁殖家を務める三代目の大島静雄さんを訪ねた。

愛知県弥富町又八は、手乗りの白文鳥、繁殖の里。

最盛期の昭和40年代には、弥富町だけでも300軒の農家が副業とした。

しかし現在ではわずかに7軒。

高齢者が細々と繁殖を手掛ける。

「まあわしで仕舞いだわ。又八のみんなで守って来たもんを、今わしの手で消そうとしとるんだで」。老人は鳥小屋の中から白文鳥の雛を取り出し、皺深い目元に薄っすらと涙を浮かべながら寂し気につぶやいた。

白文鳥の歴史は幕末に遡る。

元治元(1865)年ごろ、犬山藩の武家屋敷へ奉公に上がっていた「八重女(やえめ)」という女中が、又八の大島新四郎方に嫁ぐ際、桜文鳥を貰い受け持参した。

やがてそれが繁殖を繰り返す中、突然変異の亜種として白文鳥が誕生。

「それを繰り返しかけ合わせ、昭和の始めから今の白文鳥として世に送り出したんだわ。他の文鳥とは違い貴婦人みたいで値が張るで」。

静雄さんは大正14(1925)年、この家の長男として誕生。

終戦後大学を出ると、小中学校の教壇に立った。

3年後、名古屋市港区から美代子さんを妻に迎え、二男六女を授かった。

「今は孫が15人に曾孫が3人もおるで、よう名前も覚わらんわ」。

静雄さんが三代目を名乗れるのは、妻美代子さんの支えがあったればこそ。

家事に子育て、おまけに舅姑(きゅうこ)の世話と野良仕事。

その合間を縫い白文鳥の世話に明け暮れた。

「わしは定年後、公民館で5年館長を務め、65歳でようやく三代目らしい白文鳥の世話を始めたんだわ。女房に教(おそ)えてまって」。

白文鳥の80年の歴史は、決して平坦な道程ではなかった。

終戦直前の空襲で鳥小屋が焼かれ、餌にもこと欠き壊滅状態に。

「そんでも近所の家に10羽ほど隠してあったんだて。戦後はその10羽から再出発だわさ」。

戦後白文鳥は平和の象徴として、一大ブームを巻き起こした。

「だが今度は伊勢湾台風だわ。鳥小屋が水に浸かってひっくり返ってまって、鳥もみんな逃げ出して。いよいよ今度こそ壊滅かと。そしたら2階で飼っとった農家の文鳥が助かって」。

再び昭和40年代に大ブームが到来し、台湾への輸出も盛んになった。

しかしその後、台湾で繁殖が始まり、逆輸入の憂き目に。

「わしら昔も今も1羽たったの1000円だわ。鳥屋じゃあ、つがいで8000円もするに。技術も手間も愛情も、人一倍かかるのに儲けはあれせん。だから若い者(もん)らは誰(だあれ)もせえへんて。それに今の子らは、手乗り文鳥よしか、テレビゲームの方がええんやで」。

弥富名産の白文鳥。

最後の繁殖家は苦しげにつぶやいた。

「もうわしに出来ることは、この村で白文鳥が誕生したことを、後の世に残すことだけだわさ」。

昭和を生き抜いた白文鳥は、間も無く空の彼方へと消え入ろうとしている。

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「天職一芸~あの日のPoem 294」

今日の「天職人」は、津市大門の「天むす屋女将」。(平成20年9月30日毎日新聞掲載)  

紅葉色付く境内で 床机(しょうぎ)に君と二人掛け       差しつ差されつ美酒に酔い 往く秋惜しむ虫の音に        経木の包み君は解き 紅葉を皿に天むすを            キャラブキ添えて移し変え 「秋をお一つ召し上がれ」

津市大門「天むすの千寿」二代目女将、仲村磯路さんを訪ねた。

午前十時。

開店のため暖簾を出そうとする店員を押しのけるように、待ち侘びた一番客が店内へと雪崩れ込む。

カウンターで仕切られた、小さな調理場。

中央の柱には下向きで扇風機が回り、その風を受けながら真っ赤な掌が次から次へと天むすを握り上げる。

「ご飯は炊き立ての熱(あっつ)い方が握りやすいんやさ。そやでいつの間にか掌が真っ赤に熱で焼けてもうて」。磯路さんは年季の入った両の掌を、扇風機に翳した。

天むすの由来は、昭和30年代初頭に遡る。

当時天ぷら屋を営んでいた初代女将の水谷ヨネが、忙しい中でも栄養のある昼食を夫にと、車海老の天ぷらを切っておむすびに握ったことに始まる。

「先代は元芸者さんで、旦那さんと駆け落ちして満州へ。戦後引き揚げてここで天ぷら屋を開いたんです。いつも口癖のように『本妻よりも早よ死なしてはならん』言うて、旦那さんにえらい尽くされたそうなんさ」。

三代目を継ぐ磯路さんの長女、福田尚美さんは注文に追われる母を見つめた。

「昭和43(1968)年頃から母がここで働くようになって、それから10年程して母が二代目を継がしてもうたんです。だから名古屋大須の分家は、それから後に初代から暖簾分けしてもうたんやさ」。

尚美さんは同県紀北町で昭和40(1965)年に誕生。

昭和60(1985)年、専門学校を出て医療事務に就き、2年後、母の店を本格的に継ぐことに。

名代の天むすの決め手は、何と言っても海老。

まず頭と背腸(せわた)を取り皮を剥く。

衣の生地に絡め、特注油でカラッと揚げる。

「昔は伊勢湾で水揚げされた小ぶりで甘い『ダルマ海老』でしたんさ。でも今はもう取れやんで『アカシャ海老』なんさ」。

客の注文を受けてから海老を揚げ、磯路さんの年季の入った掌が、小ぶりな天むすを握り上げ海苔を巻き付ける。

「三角の頂点を人間の首に見立て、両肩にショールのように海苔を巻くんやさ。初代が天むすを商品化した頃、丁度皇后様のご成婚の時やって、それをテレビで見てヒントにしたそうやわ」。

ヒノキの皮に紙を手貼りした経木に、握りたての天むすを六個とキャラブキを添え、ヒノキの皮紐で捻り止めれば完成。

「一度で最高に食べはったんは、お相撲さんの50個やったやろか」。

天むす5個で2膳の分量。

多い日は2500個から3000個が握られる。

尚美さんは平成6(1994)年、志摩市出身のプロゴルファー寿和さんと結婚。

一女に恵まれた。

「結婚したての頃、夫はツアーで不在がち。私はきりきり舞いで母と天むす握って」。

尚美さんが掌を広げた。

磯路さんの真っ赤な掌に比べ、ずいぶんと桃色だ。

日本一天むすを握り続けた母の掌には、まだまだ到底及ばない。

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「天職一芸~あの日のPoem 293」

今日の「天職人」は、三重県志摩市の「波切節燻(なきりぶしいぶ)し職人」。(平成20年9月23日毎日新聞掲載)

朝一番の号砲が 運動会を触れて鳴る              母は早よから台所(だいどこ)で 弁当作り大わらわ       蛸足ウインナー卵焼き 「おかかむすびでいいよね」と      母は鰹を削り出し タマが足下ニャアと鳴く

三重県志摩市の波切「波切節のまるてん」、三代目燻し職人の天白幸明さんを訪ねた。

大王崎の荒々しく入り組む海岸。

断崖を見下ろす突端の集落、三重県志摩市の波切。

真っ黒な鰹の燻し納屋が、秋晴れの空に一際映え渡る。

「『お前は生まれ育ちも顔も、れっきとした海賊育ちやで』って、よう親父からそう言われ続けましたんさ」。幸明さんは、潮焼けの赤ら顔で笑い飛ばした。

「もともと大王崎波切は、九鬼水軍の本拠地。鰹節の製造も盛んやって、船に積んで江戸や上方へと運んどったんやさ。ところがある時、嵐で船の到着が遅れてもうて、鰹節に黴が吹いてしもたんや。しかし黴が吹いた鰹節が、これまた何とも美味い。その偶然の産物が今の波切節やさ」。

江戸では本枯節(ほんがれぶし)、上方では荒節、鬼鰹と呼ばれ持て囃された。

幸明さんは三人兄弟の長男として、昭和34(1959)年に誕生。

「ちょうど伊勢湾台風の年やって、畳10枚積み上げた上で母に抱かれたまんま夜を明かしたらしいんさ」。

大学時代に文政5(1822)年の「諸国鰹節番付表」と出逢った。

「諸国の鰹節番付に混ざって、志摩波切節が行司の大役に記されとったんやさ。何でやろうと思って興味が沸いたんと同時に、波切に生を受けた者として天命を感じてもうて」。

大学を出ると修業のため名古屋の食品卸商社へ勤務。

昭和59(1984)年、高校の後輩であった裕美さんを妻に迎え、二女を授かった。

ところが昭和62(1987)年、母の容態が悪化。

急遽帰省し家業に就いた。

「いきなり本物の味を覚えろって、日本橋にんべんの鰹節を食べさせられて。それがまた、何とも言えん芳醇な香がして。元々にんべんの初代は四日市出身で、日本橋に出店する前、波切で修業したらしいんさ。それからも全国各地の鰹節も取り寄せては、味の特徴を研究して」。

幸明さんは、作り手・売り手・消費者が一体となった鰹節作りに腐心。

売り手の言いなりとなって安価な商品作りに流されず、波切の先達が伝え遺した本物の味と技法を守り抜いた。

波切節は一本釣りで揚がった鰹を、船ごと買い付けることに始まる。

「巻網漁やと鰹同士がぶつかり合って、内出血して品質が落ちるんやさ」。

水揚げされた鰹を背節(雄節)腹節(雌節)に捌き、魚体の節を目で確かめ蒸籠(せいろ)に並べ、ウバメガシなどの薪をくべた手火山(てびやま)で約1時間かけ一番火で燻す。

次に5~6段積みの蒸籠を上下入れ替え二番火へ。

この燻し作業を10~15回繰り返す。

そして黴付け部屋へ移して異なる黴を付け天日干し。

丸1年かけ1番黴から5番黴まで、ただただ黴付を繰り返し自然界の職人たる燻しの神に全てを委ねる。

「神殿の棟木と交差するように並ぶ装飾用の材を『かつお木』と呼ぶんやけど、それが黴付けて屋根の上で天日干しするのにそっくりなんさ」。

御餉国(みけつくに)の燻し職人は、誇らしげに自慢の逸品を手にした。

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「天職一芸~あの日のPoem 292」

今日の「天職人」は、津市半田町の「精進料理」。(平成20年9月9日毎日新聞掲載)

棚田の稲穂色付けば そよかな風に秋茜             寺へと続く路地端で 真っ赤に揺れる彼岸花           母の供養の七回忌 経に舟漕ぐ子どもたち            腹を空かせて待ち侘びた 精進膳に舌鼓

津市半田町の高西寺、二十二代住職の小泉智英(ちえい)さんを訪ねた。

「精進(しょうじん)とはお経読みやで、生物の根元である魂=『精』が『進』む料理、それが精進料理なんやさ。肉や魚やなしに、雨の日も風の日も大地に根を張って生きて来た、四季折々の植物の命をありがたくいただかせてもらうもんや」。法衣を身に纏った住職が手を合わせ、仏のような慈悲深い笑みをたたえた。

高西寺は開闢(かいびゃく)700年とも800年とも伝えられる天台真盛宗の古寺。

智英さんは昭和3(1928)年、名古屋市で役者相手に旅館を営む家で五人兄弟の三番目として誕生。

「5歳の頃、この寺が叔母の家やって、養子にもらわれて来たんやさ」。

地元の旧制中学を出ると、名古屋の第八高等学校へと進学し、インド哲学を専攻した。

「終戦の年の初めに養父が亡くなり、寺の仕事もせんならんし、学校へも片道4時間かけて通わんならん。そうこうしとるうちに空襲が酷(ひど)なって、伊勢大橋も爆弾で落とされてもうて」。初秋の風に揺れる庭木を眺めながら、63年前を振り返るようにつぶやいた。

昭和26(1951)年、23歳で本山より、住職を正式に拝命。

翌年、岐阜県海津町より遠縁の幸子さんを妻に迎え三女が誕生。

徐々に戦争で荒んだ人々の心の傷も癒え、食べるだけで精一杯だったギリギリの時代は昭和30(1955)年代に入って幕を降ろした。

やがて高度経済成長の槌音と共に、日々の暮らし向きにも豊かさが感じられるようになり、人々は先祖供養や法事にも心を砕く余裕を得た。

「元々初穂料をいただいて、法事料理としてお出ししとったのを、昭和43(1968)年に調理師免許を取得して、それから本格的に一般の方にもお出しするようにしたんやさ」。

写真は参考

10品目に及ぶ、心のこもった料理。

磨き上げられた漆器の八寸には、四季折々の食材が見事な天然色の美しさを放つ。

「この辺りの七里四方で採れるもんを、ありがたくよばれやんと」。

その土地で育った野菜を、その土地の水で煮炊きし、その土地の気を胸一杯に吸い込みながら箸を進める。

写真は参考

何とも贅沢過ぎる静かな時間と、人はただただ向き合う。

隣りの座敷から食事を終えたばかりのご婦人たちの話し声が聞こえた。

「あの人らは大阪からおいでんなって、食事の前に私が法話を面白おかしくさせてもらって、それから食事してもうたんやさ」。

関西や名古屋からも、四季折々の旬の精進料理を楽しもうと、小旅行を兼ね女性客が訪れる。

「まあ、これもいっぺん召し上がってみて」。

写真は参考

柿の蔕(へた)の部分が蓋になり、中身が刳り抜かれ大根の膾(なます)が盛り付けられている。

「柿を冷凍にして、2~3年熟成してつこてあるんさ。柿は木偏に市と書くほど、市中のどこにでもあるでな」。

茶華香道の作法と、仏道の精神が合い塗れ、この国の美意識が料理となって膳を彩る。

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「天職一芸~あの日のPoem 291」

今日の「天職人」は、三重県松阪市大黒田町の「びっくりうどん職人」。(平成20年8月26日毎日新聞掲載)

父と自転車二人乗り 真っ暗闇を港へと             釣り糸垂れて防波堤 獲らぬ狸の皮算用             空魚篭(からびく)提げて朝陽浴び 父と帰りにうどん屋へ    盥(たらい)のような丼の びっくりうどん腹一杯

三重県松阪市大黒田町、稲葉屋びっくりうどんの三代目、林武男さんを訪ねた。

伊勢参宮道と熊野古道へと通じる、追分からほど無い松阪市大黒田町。

「おお~い、びっくりさん。なんやもう仕舞いなん?」。

暖簾を仕舞い込もうとしている店主の背中に、客が声を張り上げた。

それもそのはず、時間はまだ昼の一時を回ったところ。

「ここ7~8年ほど前から、朝6時に店開けて昼は1時半頃まで。それでたいがい売り切れ御免やわ。昔は夜も遅まで開けとったけど、今しはバイパスやら何やら新しい道ができてもうて、人の流れも変って誰あれも歩かへん」。武男さんは親しみのある笑顔を向けた。

びっくりうどんは、祖父が大正時代に「安て、ようけあって、美味い」を信条に、洗面器のような丼にうどんを並々と盛り付けた名物だ。

「本当の屋号は稲葉屋やけど、商品名のびっくりうどんの方が名が通っとんやさ。せやで周りの者(もん)らに、子ども頃から『びっくりの倅や』って呼ばれよったし、今しは『びっくりさん』やわ。コックリサンとはちゃいまっせ」。

武男さんは昭和13(1938)年、4人兄弟の長男として誕生。

昭和28(1953)年、中学を出ると直ぐ家業に就いた。

「あの頃は丼をリヤカーに積んで、一日に50~60軒も出前せんならんのやで。自転車やと丼が重とてかなんのやさ」。

昭和40(1965)年、鳥取県出身の京子さんと結ばれ、女子三人を授かった。

「今もなぁ有り難いことに、一番下の娘が手伝(てっと)うてくれとりますんさ」。

びっくりうどんの朝は早い。

夜中の3時半に起床しそのまま仕込が始まる。

まずは鰹節と煮干で1時間半かけて出汁をとり、祖父の代から受け継がれる甕へ。

客の好みに応じ、濃い口2甕、薄口1甕が満たされる。

「そうこうしとると5時頃に製麺所から生うどんが届くもんやで、それを40分かけて湯がき、水に冷やして玉うどんを作るんやさ」。

すると間も無く一番客が、午前6時の開店と同時に姿を現す。

「朝早いお客さんは、タクシーの運転手さんやら現場へ出向く前の建設作業員やったり。人生色々やで」。

大半の客が名物びっくりうどんやカレーびっくりを次々と所望する。

まず注文が入るとうどんを温め、直径25㌢ほどの洗面器のような丼に入れる。

次にうどん汁(つゆ)にネギ・牛肉・筍・竹輪・鳴門を入れて炊き、水溶きカレー粉を加え一煮立ちさせれば、夏バテも吹き飛ぶ人気のカレーびっくりが完成。

一日に200食が、わずか午前中だけで完売となる。

「常連さんはカレー好きが多いんちゃうやろか。だから店ん中がいつでもカレー臭いんと違う?よう友達に言われるもん。『あんたが来るとカレーの匂いするわ』って」。

この店に30年勤めるという、パート従業員、木村すみこさんが笑った。

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「天職一芸~あの日のPoem 290」

今日の「天職人」は、三重県桑名市の「アイスまんじゅう職人」。(平成20年8月19日毎日新聞掲載)

麦わら帽に半ズボン 黄ばんだシャツのランニング        アイスまんじゅう噛り付き タモを小脇に蝉を追う        寺の境内木の上で 和尚の「喝!」に縮こまる          生きとし生ける物たちの 儚さ説かれ蝉放つ

三重県桑名市、大正12(1923)年創業の和菓子処「寿恵広(すえひろ)」。三代目の青木活人さんを訪ねた。

肌を突き刺すような真夏の陽射しと暑さ。

町中を蝉時雨が覆い尽くす。

「こうも暑(あっ)ついと、かなんなぁ。アイスまんじゅう一つ貰(もう)うてくわ」。病院からの帰り道だろうか。老人が項垂れながら店先でつぶやいた。

「しばらくそのまんまにしといて、ちょっと溶け出して緩んで来てから食べてや。歯が折れてまうとあかんで」。活人さんは、冗談めかして笑った。

「家のアイスは空気入れて攪拌したカスカスの物と違(ちご)て、とにかく硬(かった)いんやさ。本当は冷凍庫から出して、15分ほど待って食べてもらわんとあかん。だから風呂入る前に冷凍庫から出しとくんさ。そうすると風呂上りに丁度ええ頃合の軟らかさになるで」。

活人さんは昭和34(1959)年、三人姉弟の長男として誕生。

「最初の頃は菓子の卸をしていて、メーカー物のアイスを販売しとったらしいんさ。そして昭和13(1937)年頃から、アイスキャンディーの製造販売を手掛けるようになって、アイスまんじゅうは昭和25(1950)年頃からやに。自転車に冷蔵箱積んで幟旗掲げた移動販売や、映画館で幕あいの立ち売りやさ」。

大学を出るとコンピューター会社に入社。

大手製鉄会社の情報技術部門へ出向となった。

家業とはまったくもって、似ても似つかぬ仕事。

「元々機械いじりが好きやったし」。

昭和60(1985)年、大学時代の同級生で大阪出身の悦子さんと結ばれ、一男一女を授かった。

「馴れ初めは?って、互いに合唱をやってまして、そのジョイントコンサートで知り合(お)うて。妻はアルトで、わたしがベース。バリトンは臨時記号とかあって、音の動きが難しいもんやで」。店先で客あしらい中の妻を、こっそり盗み見ながら照れ臭気に笑った。

翌年、退社し家業へ。

「父が師匠ゆうても、子どもの頃から正月の餅なんか手伝(てつど)うてましたし、身体の何処かが家の仕事をちゃあんと覚えとるんさ。それに夏場のアイスまんじゅう作りは『技術よりも慣れ』やで」。

真夏の風物詩「寿恵広のアイスまんじゅう」は、型が6個付いた容器にミルクを注ぎいれることに始まる。

次にマイナス30度の冷凍液の入った水槽に入れ、少し固まり出した所で小豆と棒を差し入れ、再び冷凍液の中で40~50分凍らせる。

6個付き容器が10セット、それを4つの水槽で一度に凍らせ240個が完成。

夏の最盛期には、一日3000個が製造される忙しさ。

「おおきにありがとう。こうして新聞紙二枚重ねで2回巻いといたるで、ゆうに1時間は溶けませんに」。

店先では、親子連れと親しげな会話が続く。

蝉時雨もいつしか法師蝉へ。

しかし秋はまだ遠い。

ならば、もう一踏ん張り。三世代に愛され続けるアイスまんじゅうで。

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「天職一芸~あの日のPoem 289」

今日の「天職人」は、岐阜市神田町の「駅前飯店」。(平成20年8月5日毎日新聞掲載)

月の最後の日曜日 「何処で食べるか?」父は問う        駅前ビルの階段を 昇った後で振り返り             母は小さく吹き出した 「どうせ決めてるくせして」と      駅前飯店指定席 酢豚に餃子ニラ卵

岐阜市神田町、中華料理「駅前飯店」。主の田中豊さんを訪ねた。

「よっこらしょっと」。

少し腰の曲がった老婆が、テーブル席に腰を下ろした。

椅子の脇には、はち切れんばかりに膨れ上がったレジ袋。

中には数種類の薬袋(やくたい)がぎっしり。

「ようやっとたどり着けたわ」「お久しぶりやねぇ。どうですか、お身体の具合は?」「ええも悪いも、こんなもんやて。月に一回、医者の帰りに寄らせてまうのが、もう唯一の楽しみなんやで。今日は酢豚にしてまおか」。

ここは名鉄岐阜駅の道路を挟んだ向かい側。

パン屋の横の階段を二階へと昇れば、昭和の面影が顔を覗かせる。

「もう開店から36年やで、お客さんもおんなじように年食われてまっとるでねぇ」。豊さんは、少し前屈みで優しく微笑んだ。

豊さんは昭和22(1947)年、靴職人の長男として誕生。

中学を出ると名古屋の中華料理店に住み込みの修業に。

東京五輪を翌年に控えた年だった。

「最初は店の裏で、お婆ちゃんと一緒に目ショボショボさせながら、明けても暮れても玉ネギの皮むきばっかり」。

ひた向きで真面目な性格ゆえ、日々の修業で見る見る腕を上げ、先輩料理人と肩を並べ中華鍋を揮った。

「料理人が多かった店やで、ガスコンロ毎に料理人も決まっとったんやて」。

昭和44(1969)年、名古屋の職場を辞し、現在地の華陽ホテル中華部に入社。

翌年、慰安旅行で大阪万博へ。

「そん時のバスガイドが私。集合時間よりもえらい早く戻って来る人がいて、後で分かったんですがそれが主人やったんです」。妻博子さんは、冷たいお茶を差し出しながら笑った。

「最初のデートはこの店。主人が酢豚を作ってくれて」。

昭和47(1972)年2月に結ばれ、一男一女を授かった。

それから5ヶ月後、ホテルから店の権利を買い取り、「駅前飯店」は独立。

夫婦とも弱冠24歳のおおいなる船出だった。

「その頃は店の前を路面電車が走って、繊維街も柳ヶ瀬も全盛期。全国からようけ行商さんが仕入れに来られて」。

サラリーマンや事務員、家族連れから出張族と多くの客で賑わった。

駅前飯店の中華は、どれも昔ながらの定番の味が最大の魅力。

「私はこれしか作れませんし、この仕事しかないでね。家のラーメンはシンプルそのもの。細麺に鶏がらと煮干のスープで、薄切りチャーシューとメンマに葱だけ。具を沢山入れればいいってもんでもないし」。豊さんは謙虚につぶやいた。

盛り付けの派手さや、具の多さに頼らぬ正統派。

ゆえに30年以上も、客は懐かしさを求め足繁く通う。

「10年ほど前に、食い逃げされたんやて。店の一番奥に堂々と座って、ビール飲みながら料理も4~5品取って。店の外にあるトイレ行ったまま帰って来んわね。汚れたジャンパーだけ置き去りにして」。

夫婦はあっけらかんと、懐かしそうに笑い合った。

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「天職一芸~あの日のPoem 288」

今日の「天職人」は、三重県桑名市寺町通りの「鶏肉屋主」。(平成20年7月29日毎日新聞掲載)

コケコッコーと朝まだき 庭の鳥籠鳴き声が           慌てて籠に毛布掛け 近所迷惑気を揉んだ            露天ピヨピヨひよこたち 母にせがんで持ち帰りゃ       あっと言う間に鶏冠(とさか)生え 何時の間にやら鶏屋行き

下町風情が残る三重県桑名市常磐町。昭和8(1933)年創業の鶏肉卸小売「鳥文本店」、二代目主の澤田良之さんを訪ねた。

下町風情が今も残る桑名市寺町通り。旧道の緩やかな湾曲に沿って、商家の家並が続く。

「鶏も風邪ひくと洟(はな)垂らしよるんやさ」。良之さんは白衣を正しながら笑った。

良之さんは昭和21(1946)年、6人兄妹の3男として誕生。

中学を出ると同県四日市市の寿司屋へ。

「板場仕事が好きやったもんで」。

その後、名古屋の寿司屋に移り、再び四日市市の寿司屋へと店を代え腕を磨いた。

「20歳の時やったんさ。親父から『家やるもんがおらんけど、何(な)としよ?』って。それで家の仕事も手伝うようんなって」。

二年後、まるで予期したかのように父が病に倒れそのまま引退。

「それからは自分で仕入れに行って、生きとる鶏買(こ)うて。昔は店の裏で、チョチョイと捌いては店に並べとったんさ。でも今はあかん。平成3(1991)年に食鳥処理に関する法律ができたもんで、裏で鶏捌いても、腹ん中の臓物は何処へも移動出来やん。つまりお客さんにも売れやんのさ」。

鳥文の鶏は、赤鶏が主力。

毎週月・水・金と岐阜県養老町まで仕入れに出向く。

「ガッチキ合う(人でごった返す)のが嫌いやもんで、朝5時には家を出るんさ」。

鶏の商品価値を見定める目は天下一品。

永年の勘で鶏の顔と体を瞬時に見分ける。

「鶏も人間も一緒や。顔付きがキリッとしとることがまず第一。次に赤身に血が混じっとらんかよう見んと。雄は体が大きく骨太で身が白い。それに引き換え雌は、骨が細くて脂ののりがええ。せやで雌の方がやっぱ一番美味いんやさ。それに私も女性の方が好きやもんで」。

仕入れた鶏は、モモ・ムネ・ササミ・ガラ・セセリ(首肉)の部位ごとに、刃渡り15㌢の捌き包丁で切り分けられる。

「生のまんま食べてもらう物(もん)は、一日冷蔵庫で寝かすんさ。そうせやんと肉が突っ張って美味くない。一日寝かすとまろやかに柔らかくなって、しっとり感が出るんやさ」。

良之さんは包丁の刃を上に向け、ヤスリ棒で器用に刃を研ぎ始めた。

「あんまり刃が立ち過ぎると、骨まで削ってまうで、ヤスリで刃を丸くせんと」。

昭和49(1974)年、27歳の年に見合いし、そのまま百合子さんを妻に迎え二男を授かった。

「お陰様で次男が三代目を継いでくれてな。私が鶏を捌いて、妻がつくねやモモを焼いて、息子が唐揚げや鶏肉コロッケの揚げ物担当やさ」。

夕餉の惣菜を求める客と、親しげな会話が飛び交う。

「家の鶏はスーパーに比べたら高いですわ。それでも『お前んとこの鶏が一番美味い』ゆうて買うてかれるんやで。ありがたい話しですわ。儲けに走って欲出したら終い。コツコツと誠実に、鶏が餌啄(えさついば)むように商売させてまわんと」。

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「天職一芸~あの日のPoem 287」

今日の「天職人」は、岐阜県美濃市の「模型飛行機職人」。(平成20年7月22日毎日新聞掲載)

海を見下ろす丘に立ち 南の風を待ち受けた           プロペラ回しゴム巻いて 模型飛行機掲げ持ち          稲穂揺らして風が舞う ぼくらは息を止めたまま         機体を風に横たえて プロペラ放す夢飛行

岐阜県美濃市、模型飛行機製造のヨシダ。二代目主の吉田斉さんを訪ねた。

卯建(うだつ)の家並が続き、カフェやファッション小物店も、風情ある景観を穢さぬ様ひっそりと商いを営む。

「家も何屋やろうって、よう観光客の方が硝子窓から覗いとるんやて」。斉さんは、表を漫ろ行く観光客に目をやった。

斉さんは昭和27(1952)年、二人姉弟の長男として誕生。

「親父は戦地から復員して、裸一貫で美濃和紙の行商を始めたんやて。そのうちに模型飛行機の翼用にって、強度の高い美濃和紙に手差し印刷して、メーカーに納め出したのが始まりやわ」。

小学校の高学年になると、模型飛行機の本体作りに没頭。

「プラモデルが世に出るまでは、模型飛行機全盛期やったでね。男坊主はみんな、空を自由に飛び回る飛行機に憧れたもんやて」。

昭和38(1963)年頃、取引先メーカーが倒産の憂き目に。

当然負債も負った。

「何より問屋が困り果ててまったんやて。それで親父に『模型飛行機メーカーやってくれんか?』って」。

戦後平和の象徴は、団塊の世代を筆頭として、町中に溢れかえる子どもの姿だった。

模型飛行機は学校教材としても取り上げられ、てんやわんやの大忙し。

昭和49(1974)年、斉さんは大学を出ると家業に就き、父と共に機体やプロペラの研究と改良に励んだ。

子ども達の大空駆ける夢を、ゴム動力のプロペラに託し。

「そうやねぇ。ゴムがたった0.1一㍉太いだけで、パワーは全然違ってくるんやで」。斉さんはそう呟き、プロペラをくるくると回しながらゴムを捩じ上げ、そっと手を離した。

機体が静かに上空を飛行し始める。

「だいたい1分半くらいは飛ぶようになっとるんやて」。

店内上空をゆっくり旋回する姿は、実に由々しい。

「まぁ、ラジコンみたいに自分で操縦出来んで、翼の角度で少しずつ調整せんとあかんのやわ」。

滞空時間を競う、定番商品のグランプリにスーパーアロー。

その他31~32種類の商品がここで生み出される。

昭和58(1983)年、同県羽島市出身のえり子さんを妻に迎え、女子二人を授かった。

「何の因果か、長女は航空会社に勤務しとるんやて」。斉さんは一人大笑い。

「そうそう。ちょっとこれ見てくれん?今から117年前に、この『カラス型飛行器(「機」でなく「器」の表記は、発明者である二宮忠八氏の命名)』は、ライト兄弟の実験飛行より12年も早く、空を飛んだんやて」。

写真は参考

ダビンチを始め、古くから人類は空への夢を見続けた。

写真は参考

そして明治36(1903)年、ついにライトフライヤー号の有人飛行で、空への旅を現実のものとした。

南の空から沸き上る入道雲。

少年のぼくには甘い綿菓子に見えた。

いつか大人になって大空に飛び立てたなら、雲の綿菓子を腹一杯食べようと心に決めたものだ。

遠い遠いあの夏の日に。

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