「天職一芸~あの日のPoem 200」

今日の「天職人」は、岐阜市美殿町の「漬物屋主人」。(平成十八年八月十五日毎日新聞掲載)

母のいつもの割烹着 抜け殻のよに脱いだまま      買い物にでも行ったかな 宵が迫れば哀しくて      電気も点けず玄関で 母の抜け殻顔埋め         仄かに匂い感じてた あれは漬物野菜の香

岐阜市美殿町、大正年間の創業・漬物佃煮の美殿屋。三代目主人の加藤実さんを訪ねた。

店先の看板に『キャベツの塩漬けあります』。

「直ぐに売れちゃうもんやで、一番食べ頃のもんしか出しとかんのやて」。実さんは、漆塗りの桐溜めと呼ぶ陳列箱の傍らで微笑んだ。

三代続くキャベツの塩漬けは、全国に数多(あまた)ある漬物屋の中でも、美殿屋だけのオリジナルとか。

古くからある柳ヶ瀬の呑み屋でも、重宝がられる逸品だ。

実さんはこの家に長男として誕生。

やがて東京の大学へと進んだ。しかし四年生の年、父が胃潰瘍による輸血で肝炎を患い、一年休学して家業を手伝った。

父の復帰を待ち復学し、二十四歳で帰郷。そのまま家業に従事した。

キャベツの塩漬けは、二種類。

夏場は一ヶ月、冬場には三ヶ月を費やし、常温の塩漬けで自然に乳酸菌が発酵した深漬け。

それと一週間の塩漬けで冷蔵する、まだ緑が残る浅漬けもある。

父が塩を振り、実さんは石の上げ下ろしを行い、見よう見真似で漬け方を学んだ。

「暮れのキャベツが一番やて。年が明けると硬くなるし、梅雨時は傷む」。

四斗樽一杯分のキャベツは、やがて二斗樽三分の二にまで体積を減らす。

昭和五十九(1984)年、市内の百貨店に勤める清美さんと結ばれ、二男を生した。

「そんなもん、両手両足の指使っても足らんほど見合いしたんやて」。それでも一つとして、ものにならなかった。

そんなある日。友人から清美さんを紹介された。

「ご縁なんやろねぇ」。二人はまるで引力の赴くまま互いに惹かれあい、わずか半年で添い遂げた。

ある日のこと。ネット上で、キャベツの塩漬けを販売しないかとのお誘いが。

「よくよく考えると、真空パックに詰めたら味が変わるし、そもそも賞味期限なんてよう付けんし」。

寒くなれば漬け上がるまでに、三ヶ月も要する商品。それを量販すれば、これまで一ヶ月かけて販売していた商品が、あっと言う間に品切れとなってしまう。

実さんは悩み抜き、結論を出した。

「家の客は祖父の代から続いとんのやで、売り切れになってお客さんを待たせたらいかん。それに対面販売じゃなきゃあ、漬物本来の値打ちも下がる」。ネット販売を見合わせた。

「こればっかし見とるでしょ。だからものの見方まで、キャベツの塩漬けと同じになってまうんでしょう」。前掛け姿に、何とも人懐っこい笑顔。

「お節介やけど、『キャベツの塩漬けは、塩水に灰汁(あく)が出とるで、水洗いしてから食べてや』って。それにもう一言『漬物をお守りしてやってや』と、必ず付け添えるんやて」。

店先には、今が食べ頃、完璧な状態の漬物が並ぶ。

「漬物を悪くするには、一日もいらんのやて。漬物は生きとんやし。だから空気に触れたばかりの最初の味と、二~三日経ってからでは味も変わる。それが漬物好きの、本来の楽しみ方やて」。

三代に渡って極め抜いた、素朴なキャベツの塩漬け。

素朴さゆえ、紛い物など通用せぬ。

今日も職人は、思いの丈を込め一握りの塩を振る。

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「天職一芸~あの日のPoem 199」

今日の「天職人」は、名古屋市西区の「玉子サンド職人」。(平成十八年八月八日毎日新聞掲載)

テルテル坊主軒に下げ  リュックにおやつ詰め込んで   遠足前は大わらわ 明日天気になるように        玉子の焼ける音がして 寝惚け眼で台所へ      ちょっと歪(いびつ)な出来だけど 玉子サンドのお弁当

名古屋市西区、創業昭和七(1932)年の喫茶西アサヒ。二代目玉子サンド職人の加藤順弘(まさひろ)さんを訪ねた。

「玉子サンドなんて、そう、美味しいもんじゃないって。そのかし手間はかかるけど。二人連れが二つ頼もうとするもんで、『まあ、一つにしときゃあ。一つ食べて足らんかったら、もう一つ頼みゃあええがね』って言ったるんだて」。何とも商売っ気の無い口ぶりだ。

「ごっつおさん!」。隣の席の客が誰にともなくつぶやいた。そして飲み終えたコーヒーカップをカウンターへと片付け、小銭をバラバラッと広げて店を出て行った。 順弘さんは、入れ替わるように来店した客が、おしぼりを自分で取り出し、いつもの席へと着く姿を見送りながら、黙って軽く頭を下げた。

「皆昔からの顔馴染ばっかだで。放っといても、好きにしとってくれるんだわ」。

順弘さんは、昭和十五(1940)年に、六人兄弟の次男として誕生。

「おふくろの手料理なんて、食べた記憶がないわ。昔は夜中の十二時頃まで店開けとったでなぁ。菓子工場に問屋、それにメリヤス工場と商人の町だったで、ここが情報交換の基地だったんだわ。だで毎日忙して、家族揃って食事した記憶なんてあれへんて」。

名物女将として角界や芸能人にまで、幅広く慕われた母きぬゑさんは、店を切り盛りしながら六人の子を育て上げた。

昭和二十八(1953)年。街頭テレビから吠える力道山の勇姿に、人々は足を止め歓喜の声を上げた。

「家にもカラーテレビがやって来てなぁ。まだカラー放送が、一日たったの五分程度しかなかった時代だて。力道山のプロレスが始まる頃には、超満員で劇場と一緒だわ。だで始まる前に木製の丸椅子を五十脚ほど運び込み、それを並べてからそろばん塾へ行ったもんだわ」。

順弘さんは東京の大学を出ると、帰郷し家業に就いた。

「当時七~八軒店があって、やらざるを得んかったんだて」。

名物玉子サンドの卵焼きは、一人前に玉子三個。

玉子に塩を加え、玉子本来の甘さを活かし、ふんわり焼き上がるよう、四十数回掻き混ぜる。「二十五回だと白身が残るし、百回だと今度は白身が崩れてまうで、四十回ちょっとが一番は跳ねっ返りがあってええんだわ」。

次にフライパンにバターを強火で溶かし、溶き玉子を加え、永年の勘だけを頼りにふっくらと焼き上げる。

「熱に負けると玉子がペラペラんなるし。玉子を可愛がらなかんて!空気玉が出来て割れたらかんし、玉子の吹き上がりを見ながら素早くまとめ込んでかんとな」。

見事ふんわり焼き上がった、厚さ三㌢もある玉子焼き。

写真は参考

次は、いよいよサンドイッチの組立作業だ。

まずは薄切りパンの上に、玉子サンドの名脇役、キュウリのマヨネーズ和えが敷き詰められる。

とは言えこのキュウリも、なかなか手間の掛かったものだ。

塩揉みし、丸一日おき、それを絞ってアメリカ製のマヨネーズ「ダーキー」で和えたシロモノ。

そこに真打ち、フカフカ玉子を載せ、真っ白なパンを被せれば七十年前の魅惑の味が出来上がる。

「七十年前は、これがハイカラな味だったんだわさ」。

平成の玉子サンド職人は、何の気負いも無く只照れ臭そうに笑った。

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「天職一芸~あの日のPoem 198」

今日の「天職人」は、岐阜市神田町の「帳簿屋店主」。(平成十八年七月二十五日毎日新聞掲載)

色鉛筆のピンクだけ いつも一番先に減り        とても哀しい顔で泣く お絵描き好きの妹が       泣き疲れたら夢の中 寝てる間に入れ換えよ      こっそりぼくの鉛筆と 目覚めて笑顔戻るよに

岐阜市神田町の加木鉃(かぎてつ)帳簿店、三代目店主の中村鉃正さんを訪ねた。

夕暮れの柳ヶ瀬バス停前。

バスを待つ勤め帰りの人たちが列をなす。

その頭上には、恵比須さんと大黒さん、それに大福帳の描かれた、大きな浮き彫り看板が横たわる。

まるで移り行く時代の変遷を、しっかと見守り続けるように。

「この『箸取らば 主人と親の恩を知れ 己(おの)が力で喰ふと思ふな』は、父が遺した我が家の家訓なんやて」。鉃正さんは、額入りの墨書を指差した。

「加木鉃の『鉃』は、お金を失ってはいかんと、金偏に『矢』と書く『鉃』やし」。

創業明治三十(1897)年。

初代の祖父の時代には、障子紙・筆・蝋燭から雑貨や果物までを取り扱った。

しかし鉃正さんの父が、十四~十五歳の年に祖父は三十八歳の若さで他界。

「今の高校生にも満たない年やし、父は果物の競りも出来ずに、それで帳面一筋に。祖父の時代の屋号『柿鉃』を改めたんやて」。

鉃正さんは昭和三(1928)年、五人兄弟の長男として誕生。

「戦時中は品物が入らず、空箱でも売れたし、ちり紙積んどくだけで飛ぶように売れて売れて。それだけ貴重品やったでねぇ」。

昭和二十二(1947)年、高校を上がるとそのまま家業に従事した。

「まだまだ和帳(わちょう)や大福帳の時代やった。それに金津園の遊郭があった当時は、大福帳買いに来ては『奥さん、表紙の上書きしてまえん』って言うんやて。奥さんが上書きする方が、お金も子を産むから縁起がええと」。鉃正さんは、往時を振り返るように笑った。

写真は参考

戦後の統制経済も解除され、町に復興の兆しが見え始めた。

「昭和二十七(1952)年頃からやろか。徐々に商品が供給され出したのは」。

昭和三十(1955)年、重子さんを妻に迎え一男一女を授かった。

「当時は柳ヶ瀬も、全盛期やったんやて。店も映画館の終わる、夜十時頃までは開けとったし」。一宮のガチャマン景気が後押しした時代。

「昔は年度末になると、入学やら就職やらで高価な万年筆を揃えたり、鉛筆をダース単位の箱で買ったり。ノートも十冊単位で飛ぶように売れたもんやて。でももう今は、そんな事もない。年がら年中お祝いみたいな時代やし」。

時代の変遷に合せるように、帳簿も和帳から洋式帳簿へ。そしてリーフ型と呼ばれる、穴開き式の帳簿からコンピューター出力へと。

「帳簿専門やで、学生は少ないんやて。今では算盤も年にほんの少ししか売れませんし。電卓の時代ですしねぇ。縮んでってまう一方ですわ。こんな商売」。鉃正さんの横顔に淋しさが浮かんで消えた。

「それでも最近では、大福帳を扱う店が減ったせいか、遠くからでもわざわざ買いに来てくれる方もおるんやて」。

大福帳の長帳は、長さ約四十㌢、幅約十二㌢。郷土が誇る美濃和紙で綴じ上げられた逸品。

古来からの大福帳の用途を越え、インテリア小物の一つとしてや、展覧会の芳名録とするなど、新たな用途が広がり始めている。

商売の基本は、お客様との信頼関係の履歴そのもの。

客の顔を思い浮かべ、帳簿に手書きする手間こそが、客を顧みると書く「顧客」への第一歩なのかも知れない。

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「天職一芸~あの日のPoem 197」

今日の「天職人」は、名古屋市千種区の「羅紗(らしゃ)張り職人」(平成十八年七月十八日毎日新聞掲載)。

ビリヤード台横座り 葉巻くゆらす伊達男        点取る女給に目配せて ツバをもたげるハバナ帽    キューを巧みに操れば ハイカラモガが遠巻きに     台を囲んで大歓声 ナインボールのマス割りに

名古屋市千種区で、ビリヤード用品全般を扱う日本玉台本社。ビリヤード台の羅紗張り職人、加藤大一郎さんを訪ねた。

写真は参考

「昔のビリヤードは、呉服屋さんや料亭のご主人とか、旦那衆の粋な遊びだったでねぇ」。

大一郎さんは昭和十八(1943)年、五人姉弟の末子として誕生。

ビリヤード用品の製造から輸出入を手掛ける家業、多くの職人たちに囲まれて子供時代を過した。

昭和三十四(1959)年には、直営のビリヤード場も開業。

大一郎さん十六歳、青春時代が幕を開けようとしていた。

「まだあの頃は、ゲーム取りさんとか、点取りさんと呼ばれる女給さんが沢山おってねぇ。時給よりもチップの方が多い、そんな風俗営業の時代だったで」。

大学の頃から職人の手伝いを始めた。

「しばらくすると、ポール・ニューマン主演の映画『ハスラー』が公開され、ボーリングブームに引っ張られ、全国各地でビリヤードブームも巻き起こったんだわ。だから関東や九州まで、台の設置で出張ばっかり」。

一台四百㌕にも及ぶ台を、分解してトラックに山積みし、全国各地を巡った。

「現地に着いて台を組み立て、水平取ってからいよいよ羅紗張り」。

まず石板(せきばん)の水平を確かめ、台の脚の水平を取り直す。

そしてウール七十%、ナイロン三十%の羅紗布を使用して石板を包むように張り込む。

「この羅紗生地の割合が、一番玉も滑るんだわ。逆にウール百%では、キューの先が当たると破れやすいし、ナイロン五十%だと、今度は玉が滑りすぎるで」。

羅紗の織目が真っ直ぐになるよう、縦目と横目を水平に張り、石板の土台に釘で打ちつけて止める。

石板の多くは、厚さ二十五㍉のブラジル産スレート。

現地ブラジルでの磨き方が荒いと水平は狂い、台の設置時に磨き直すこともしばしば。

「スレートは、湿気を吸っても水平が狂うでね」。

永年の勘だけを頼りに、四方に羅紗を張る力を加減する。

写真は参考

昭和四十二(1967)年、北海道出身で名古屋の短大を出たばかりの弥生さんが、大一郎さんの元へと永久就職。

「姉の旦那と家の主人が友達だったから、それで」。二人は、一男一女を授かった。

しかしオイルショックと共に、一世を風靡したボーリングもビリヤード熱も、アッと言う間に失墜。

それから苦難の時代は十四~十五年も続いた。

昭和六十一(1986)年、映画「ハスラー2」が封切られると、瞬く間に各地にプールバーが出現。

深夜営業も解禁となり、オールナイトで酒を飲みながら、ビリヤードを楽しむ若者等で賑わった。

「ビリヤードは、運動神経と記憶力のスポーツ。玉がどこに当たって跳ね返って、次にどう転がってどこへ当たったか。そんな何十万通りもあるコースと、キューを打ち出す時の力加減。それを身体で覚えんとねぇ」。 大一郎さんがキューの先で、玉を狙う真似をした。幾つかの大会で賞を手中に収めた兵(つわもの)だ。

「七十万円程のビリヤード台を、一台買うくらい練習すれば、少しはモノになるかしら」。妻が傍らで笑った。

ナインボールを順に、ローテーションで入れ込む技を「マス割り」。

完全無欠の技を目指すハスラーの憧れだ。

写真は参考

羅紗張り職人の狂いのない目と勘は、ハスラーが繰り出す玉筋とボールの行方を占う。

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「未知しるべ」

人生とは、その要所要所で、常に右へ行くか左へ向かうかを選択し、その結果として今があるのでしょうね。

だからあの時、あっちの道を選んでさえいたらとか、今更考えて悔いて見ても詮無いことです。

逆にどんなに名声や地位を欲しいままにした方であったとしても、すべてが完璧に自分の思い通りになることなんて無いのではないでしょうか?

まるで弥次郎兵衛のようなもの。

何かを得れば、その分気付かぬだけで、ちゃんと何かを失っているものではないでしょうか?

この世にいつか暇乞いをする日が訪れた時、せめて弥次郎兵衛の振り子が真っすぐになり、穏やかに人生を締めくくることが出来れば、それが何よりのように思えてきます。

しかし邪な考えや、妬みや嫉み、そんなものに心を奪われたまま、人生の幕を引かなければならぬ人もいることでしょう。

失うことを恐れるよりも、失った時にまだ自分には余分なものがあったんだと思いたいものです。

未知は、どこまで行っても未知のままです。

誰にもどうなるか分からないから未知なのでしょうね。

皆様の目の前に現れる「未知しるべ」が素敵な未来へと続きますように!

今夜は「未知しるべ」お聴きください。

「未知しるべ」

詩・曲・歌/オカダ ミノル

背中越しに君を抱けば 甘い髪の馨りがした

腰に回した指先 震えるほど愛しい

力ずくで君を奪い 地の果てまで連れ去りたい

戯れと笑われようと それしかぼくに出来ない

 未知しるべなき二人の道 幸せは追うものじゃない

 二人で泣いてそして笑えば それだけでも幸せは訪れる

たとえ二股の分かれ道が 行く手を惑わそうと

君の手握り締めて 信じた道を行くだけ

急な岩場が続くならば ぼくは君の翼になろう

この世の風を集めて 君と二人羽ばたくだけ

 未知しるべなき二人の道 幸せは追うものじゃない

 明日を祈り今日を生きよう それだけが二人だけの未知しるべ

 未知しるべなら二人生きた その証の足跡でいい

 明日は今日を思いのまま 生きた者への褒美だと信じて

続いては、長良川国際会議場大ホールでのLive音源から「未知しるべ」お聴きください。

★今夜お誕生日をお迎えの、オータムオキザリスさんに、ささやかなお祝いソングを歌わせていただきます。

お誕生日本当におめでとうございます!

★毎週「昭和の懐かしいあの逸品」をテーマに、昭和の懐かしい小物なんぞを取り上げ、そんな小物に関する思い出話やらをコメント欄に掲示いただき、そのコメントに感じ入るものがあった皆々様からも、自由にコメントを掲示していただくと言うものです。残念ながらさすがに、リクエスト曲をお掛けすることはもう出来ませんが…(笑)

今夜の「昭和の懐かしいあの逸品」は、「駄菓子屋の思い出」。

ぼくの子供時代の家の近くには、お好み焼きも焼きそばも、ついでに味噌おでんからトコロテンまで、なんでもありの「トシ君家のオバチャン家」と呼んだ、駄菓子屋がありました。

そこには日用品のチリ紙から文房具に、一文籤までなんでもござれの、子どもたちの楽園でした。

たまぁ~のたまぁ~に、よっぽどお母ちゃんが機嫌がいいと、一緒にオバチャンのお好み焼きを食べに連れて行って貰ったものでした。

ある日の事。お母ちゃんとお好み焼きが焼きあがるのを、大きな鉄板台の前に陣取り、オバチャンの手さばきを見ていた時でした。

真っ黒な鉄板を拭く雑巾のような台拭きを眺めていると、何処からどう見ても股引の社会の窓が見えるのです!

こっそりお母ちゃんにその事を告げると、それを見た途端お母ちゃんはぼくに「あれはオジチャンの股引やで。もう古くなったから、台拭きに格下げになったんやわ」と大笑い。

今の時代だったら、そんな物を見つけたら・・・。

昭和の時代は、緩やかだったものですね。

今回は、そんな「駄菓子屋の思い出」。皆様の思い出話を、ぜひお聞かせください。

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クイズ!2020.09.01「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」

いやいや意外な事に、苦肉の策のクイズ「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」が好評?で、皆様からも数多くのコメントを賜りました。

そこで益々気をよくして、ぼくからの一方的なブログではなく、皆様にもご一緒に考えていただいてはと、『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』をしばらく続けて見ようと思います。

でもクイズに正解したからと言って、何かプレゼントがあるわけではございませんので、どうかご了承願います。

そこで今回の『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』はこちら!

今回は、フードロスを無くそうと取り組んだ、究極の残り物クッキングです。

和食の基本中の基本とも言える、ある物を出した後の残り物を使って、ちょいと韓国風にして、ごま油とお醤油でキリン一番搾りのあてにして見ました。

ところがどっこい、侮るなかれ!

これがまたまた絶品の掘り出し物となっちゃったんですから、何事もやって見るべきですねぇ。

って、そんなところがヒントでしょうか?

さて、お目の高い皆様のお答えや如何に!!!

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「天職一芸~あの日のPoem 196」

今日の「天職人」は、愛知県豊田市足助町の「カステーラ屋女将」(平成十八年六月二十七日毎日新聞掲載)。

瀬音涼しき足助川 岸の紫陽花雨に咲く         昔家並の軒先で 雛の燕が母を呼ぶ           茶でも如何と暖簾越し 噂話に講じつつ         茶請け一切れカステーラ 味噌の風味に里心

愛知県豊田市足助町、和菓子の加東家(かとうや)、初代女将の加藤綾子さんを訪ねた。

「そこら中、江戸時代からの埃が積っとるだに」。そう言って老婆は、座布団を勧めた。

嫁の美子さんを傍らに従え大笑い。

「江戸の頃この家は、造り酒屋で、幕末の加茂一揆ん時に、あの床柱が切り取られて、蔵から酒が川のように流されたらしいだぁ。私ら戦後にこの家買ったで知らんだけど」。

綾子さんは大正十(1921)年に、近隣の旧阿摺(あすり)村に生まれた。

そして昭和十五(1940)年、和菓子の渡り職人として腕を磨く、故・正四さんの加藤家へと嫁いだ。

新婚間もない二人をまるで引き離すかのように、翌年夫は招集され戦地へ。

「今の北朝鮮へ行ったきり。その後、復員者から『加藤さんは夏服着とったで、恐らく南方へ行っただぞ』って」。

日毎敗戦色も深まり、やがてラジオから流れる玉音放送に、この国の総ての民が咽び泣いた。

「主人が終戦を迎えたソロモン諸島は、皆餓死して一割も生きとらんと聞かされて、そんでも諦め切れんだぁ。だもんで近くの抱き地蔵さんへ毎日通っただて。そしたらある日、お地蔵さんが『夫は生きとる』って言わっせるだぁ。それから三日後、主人からの手紙が届いただわ」。

先に戻った傷痍軍人に、夫が託した手紙だった。

「しばらくしたら、ガリッガリに痩せた夫が、ひょっこり帰って来ただぁ。地獄から」。綾子さんの瞼が微かに潤んだ。

翌年には長女が、続いて二人の男子が誕生。

代用物資を調達しては、菓子作りの真似事が再開された。

「香嵐渓のお土産にと、芋飴を餡にした最中を作っただて。でも満足に包装紙も紐も無いだに。だで、楮(こうぞ)の皮が入ったシベ紙に包(くる)んで、竹皮裂いて紐にして。あまりに情け無い時代だったわ」。

昭和二十六(1951)年、戦後の配給時代が徐々に終わりを告げようとしていた。

「キューバ糖しか手に入らん時代。中に虫が入っとるだで」。正四さん考案の、味噌風味のカステーラ、名代の逸品「かえで路」がこの年、産声を上げた。

「香嵐渓の参道に、紅葉が散る風景を、心に描いて作り上げただに」。

今尚、看板商品として、先代の味は二男哲久(のりひさ)さんに受け継がれる。

小麦粉に水で溶いた白味噌と、砂糖と蜂蜜を混ぜて練り上げ、型に流し込み芥子の実を振り掛け、オーブンで一時間かけて焼き上げる。

「夫は最後に息引き取る寸前まで、焼き菓子の試作品を作り続け、名前まで考えとっただわ」。享年五十八。正四さんは、戦争に蝕まれた職人人生を、少しでも取り戻さんとばかりに、今際の際まで菓子作りに専念したという。

「あっ、あれが三代目を継ぐ泰幸(やすゆき)だわ。あの子が高校の頃、夫が戦地で作って持ち帰った、檳榔樹(びんろうじゅ)の箸を持たせてやっただ」。綾子さんは得意げな表情で、孫へと振り向いた。

「あの子は小さい頃から、お爺さんの戦時中の話が好きやったで。他所へ修業に出た時も、ちゃんと持ち歩いて、今も大事に使っとるだに」。母美子さんも自慢げ。

硬質な材とも言われる檳榔樹の箸は、素朴な味噌カステーラの味を、三代に渡って護り続ける職人の気骨。

陰を日向にそれを支える、天晴女将二代の朗らかさ。

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「天職一芸~あの日のPoem 195」

今日の「天職人」は、三重県桑名市の「魚屋」。(平成十八年六月二十日毎日新聞掲載)

夕立過ぎた店先は 前掛け姿主婦たちが         刺身に煮物塩焼きと 我先群れる安売りに        へいらっしゃいの掛け声と 捻じり鉢巻きゴム長で    客の注文手際よく 出刃振る粋な魚屋さん

三重県桑名市の鮮魚店、魚良(うおりょう)の二代目店主水谷茂良さんを訪ねた。

「『おい、娘おるかぁ?』って、お客さんらがやってくるんさ。誰の事やろって思たら、家の婆さんの事なんやさ」。幾分額の後退した、大きなおでこをピカピカ光らせながら、男はあっけらかんと大笑い。

「親父が良平やったで、魚良なんやさ」。

茂良さんは赤須賀の、浅蜊・蛤・蜆を主とする漁師町で、昭和二十九(1954)年に誕生。

「親父は復員後、駅前の闇市で魚屋はじめて。その後、昭和四十八(1973)年に駅前再開発でここへ」。

長男故の反撥心か?

工業高校から大学は経済学部へ。「まあ、今となっては何の役にも立てへん」。

この店に移転した十九歳の頃から、それでも毎日店を手伝った。

「魚捌くのなんて半年やさ。魚なんてどれも、骨組みは皆一緒ですやん」。

魚屋の朝は早い。日も明けやらぬ四時起き。

名古屋市熱田区の中央卸売市場で、四季折々に水揚げされた活きの良い魚を見極める。

「秋の魚が一番。値も安いし脂も乗って、とにかく旨い!魚屋が食べたいって思える魚を買(こ)うとかんと」。いくら新鮮で眼がギラギラしていても、肝心の身が細っていては駄目。

「わしら年がら年中、魚の良し悪しを見とんのやで、お客さんも安心やさ」。

道具は出刃に刺身庖丁と切身庖丁。三本の庖丁で、仕入れたばかりの魚が手際よく捌かれて行く。

写真は参考

「百㌘千円も二千円もする高級魚なんかより、わしは一匹二百円もせんような鰯や秋刀魚が一番ええわ!」。

仕入れから戻ると、午前中は刺身や切身を捌き、皿盛りや値付けに追われる。

それが終われば今度は、魚を焼いたり煮たり。一日中立ちっぱなしの作業は夜八時まで続く。

茂良さん三十歳の昭和五十九(1984)年。実家から歩いて一分の距離に育った直美さんと、目出度く結ばれ一男一女を授かった。

「これの実家の母親に、よう遊んでもうて。『三十歳になっても独り者じゃあかん。しゃあないで家の娘、嫁にやろか』って」。茂良さんは照れ笑い。

「私、ボランティアで嫁いだみたい」。桑名の真っ黒な蜆を、見事な手付きで選り分けながら、直美さんも笑った。

「家の実家は蜆捕りの漁師やったでな」。直美さんは片手に乗せた蜆を振り、その音だけで良し悪しを聞き分け、傷んだ蜆を弾き飛ばす。

「この幻の『桑名の身蜆』は、もうそこらじゃ売ってないんさ。手間やでなぁ」。茂良さんが剥き身のパックを指差した。

赤須賀で水揚げされた蜆を、一晩水道水に浸けて砂を出し、翌朝湯がいて剥き身に。

「昔の時雨煮は、赤須賀で揚がった蜆やったけど、今はもうほとんど輸入もんやさ」。

だからこそ、「幻の桑名の身蜆」と言われる由縁だ。

「ああ、あれが家の看板娘なんさ」。茂良さんは店先で客と親しげに話す、母千代子さんを指差した。

「ああやってお客さんと、他愛も無い話するんが、一番愉しいんやさ。仕事はキッツイけど、その分こうして潮の香りに包まれとんやで」。

小さな店内に、三人の屈託の無い笑い声が、いつまでも響いていた。

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8/25の「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」正解はこちら!

「高野豆腐のバターソテー&夏野菜の味噌クリーム煮」

今回もお目の高い皆様からは、ニアピンのお答えが多数寄せられました。

中には、見事に「高野豆腐」を見抜かれた方もおいでになったほどです。

封を切ったまま、保存庫で随分眠っていたままの高野豆腐がございました。

いかに保存食とは言え、そろそろ何とかせねばとずっと思っていたものです。

そこで今回は、冷蔵庫の野菜室に入っていたトマトと、前の晩のビールのお供の枝豆を使って、こんな「高野豆腐のバターソテー&夏野菜の味噌クリーム煮」に挑んでみました。

といっても、まったくなぁ~んてこたぁない、簡単な残り物クッキングです。

まず高野豆腐をお湯で戻し、よく絞って水を切り、一口サイズに切り分け、フライパンでバターを溶かし、ニンニクの微塵切りで香りを立てて、高野豆腐をソテーしブラックペッパーを振っておきます。

次にそのフライパンでトマトと鞘から取り出した枝豆を軽く炒め、そこに掛けて味噌付けて味噌と生クリームを入れて一煮立ちさせたら完了。

ぼくは「角久の味噌カツソース」しか無くって、それと生クリームで間に合わせて見ました。

なかなか仄かな甘味噌と生クリームがいい仕事をしてくれまして、高野豆腐もモッチリとバター風味をまとい、キリン一番搾りにゃあなんともピッタリなおつまみとなりました。

これだったらお子様にも喜んでいただけそうなお味です。

ぜひぜひお試しあれ!

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「ええっ?滋賀県にも『愛知』が???」

これは幟で「愛」の文字が隠れてしまっていますが、近江鉄道の「愛知川駅」のちゃんとした駅舎です。

ちょっと野暮用があり、初めて米原から近江鉄道に乗って見ました。

なかなかのローカルさを満喫しながら、車窓からの眺めも随分楽しませていただけました。

そこで「愛知川」と書いて「えちがわ」と言う駅を知り、地名を知ることが出来たのです。

何とこれは、愛知川の駅舎の前にある郵便ポストです。

愛知川の伝統工芸「びん細工手毬」を模したポストとか!

こちらが本物の、「びん細工手毬」ですが、実に奇麗な物でした。

明治の初期に始まったものとか。

係りのオバチャンに聞くと、綿をボールのように真ん丸に丸め、その表面に刺繍をあてがい、球体の手毬から中の綿を抜いてビンの中に入れ、再びセッセセッセとビンの中の手毬に綿を詰めて真ん丸にしてあるんだそうです。

明治の初期と言えば、ビードロがガラスと呼ばれ、多少は庶民の手が届くようになったとはいえ、まだまだ高級品だったのでしょうね。

なかなかリフレッシュできた小旅でした。

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