「天職一芸~あの日のPoem 207」

今日の「天職人」は、名古屋市中村区名駅の「昆布問屋」。(平成十八年十月十七日毎日新聞掲載)

グツグツグツと揺れながら 土鍋の蓋を吹き上げて    真白き湯気がシュワシュワワ 秋の夜長に立ち込める   湯豆腐掬う君の頬 お猪口二杯で桜色          虫の音合わせ鍋の中 ヒラヒラと舞う出汁昆布

名古屋市中村区名駅、昆布問屋の木村昆布、三代目主人の木村守良さんを訪ねた。

「浜で空を睨みつけ、旗持ちが大きく旗を振るとそれが出漁の合図。そしたら港から一斉に昆布船が、沖へと向かってくんだわ」。例え予報は雨でも旗さえ揚がれば、雨雲を蹴散らし北の海原に青空が広がる。旗持ちは水揚げした昆布が、その日のうちに乾くと確信した時だけ、威信を掛け旗を振る。守良さんが、昆布漁の写真を指差した。

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木村昆布は昭和元(1925)年創業。

先代夫婦はなかなか子宝に恵まれず、男女の養子を得た。

守良さんは昭和二十二(1947)年、親子ほど年の離れた義兄姉の下に誕生。

父四十六歳、母四十三歳の高齢出産であった。

「もう母親参観日が嫌で嫌で。だって友達から『お婆さん来とるでぇ』っていわれるもんで」。

大学を卒業すると、明治気質の父の厳命で直ちに店へと入った。

「今はこんな恰幅ですが、昔はガリッガリで。仇名も『モヤシ』。学生の頃、伊良湖岬で皆と写真撮影しとったら、私だけ風に飛ばされてまって」。  

昭和四十六(1971)年、隣の西区から洋子さんを妻に迎え、一男一女を授かった。

「檀家寺の坊さんの紹介。だで、式は神前なのに仲人が寺の坊さんだわさ」。傍らの妻を見つめて大笑い。

「信号が三つとも青なら、三分で里帰り出来るんだでねぇ。嫁入りの時は、ご先祖様にお参りして、それから嫁菓子撒いたわよねぇ」。妻も懐かしげ。

昭和四十七(1974)年、二十七歳になった守良さんは良質な昆布を求め、北海道の日高・函館と昆布産地に漁師を訪ね歩いた。

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「まあ今では、全体の八割が北海道産だわね」。

日高・利尻・道南・羅臼が、最も良質な昆布の産地。

「高級品は羅臼昆布で、中級が日高昆布だわ。それぞれ揚がる浜によって、等級も違ってくるでねぇ」。店内にはもちろん、一等級中心の高級昆布が居並ぶ。

「この共巻(ともまき)は、広げると昆布が船になるように出来とって、中に具材を入れて昆布の出汁をたっぷり含ませ、料理の器として高級料亭では使うんだわ」。

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昆布の種類は約十三種類。それを加工した商品ともなれば、ゆうに五百~六百種類に。

「下手な品は、暖簾に掛けて置いとけん。家のお客は北海道にもあるんだわ。北海道で揚がった昆布が柳橋まで運ばれ、また北海道のお客んとこへ運ばれるんだで、運賃だけでも二倍だわ」。

昆布は陸に揚がると一斉に、大量消費地を目指す。

だから北海道と言えど、総てが手に入るわけではない。

羅臼昆布

「昆布は健気だわ。岩場に小さな根を付けて、荒波に揉まれながら葉を伸ばすんだで。日照と海水温によるらしいけど、一日で三十~四十㌢も成長するらしいで」。

守良さんは昆布を、まるで我が子のように愛おしむ。

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秋の夜長のように一向に尽きる気配もない、守良さんの楽しげな昆布噺。

そこに昆布一筋八十年の、「商いに飽きない」老舗の秘訣が隠れているようだ。

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「天職一芸~あの日のPoem 206」

今日の「天職人」は、名古屋市中村区の「刃物商」。(平成十八年十月三日毎日新聞掲載)

トントントンとまな板の 規則正しい音がする      今日はいいことありそうだ 母の気分も上々で      今日は何だか不規則な 庖丁捌き乱れ気味        ぼくのせいかと気を揉めば 父の帰宅が午前様

名古屋市中村区名駅、料理庖丁専門の萬打刃物商(よろずうちはものしょう)、丸五庖丁店三代目店主の田中義雄さんを訪ねた。

誰もが寝静まったままの未明。

ミッドランドスクエアから、ほんのわずか東。

柳橋の名古屋駅前中央市場には、ひっきりなしにトラックが行き来し、その間を縫うように鮮魚を積んだネコと呼ばれる台車が牽かれて行く。

店先から漏れ出す、裸電球の柔らかな灯り。

大都会の片隅で、夜明け前の営みが今日もまた始まっった。

「家は市場ん中の便利屋だで、人体以外なら何でも売るよ。たまあに『ネズミ捕りあるか』とか『針金分けてくれ』って客もくるけど」。義雄さんは、脚立を椅子代わりに座した。

丸五庖丁店は、福井県武生市で庖丁職人として修業した、祖父五平が明治末期、苦労の末にこの地で創業。

義雄さんは昭和二十五(1950)年、三人姉弟の長男として誕生。

しかし義雄さんが二歳になった年、父は病で他界。

祖父と母の故ひろ子さんが、店の切り盛りに追われた。

だがそれから七年後、祖父も鬼籍に。

「当時庖丁は、お爺さんの弟子が、まだここで作っとったでねぇ」。

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義雄さんは大学を出ると、母を手伝い店を継いだ。

「ぼくが知らんとるうちに『庖丁があるんだったらまな板もいる。それなら鍋も』って。次から次へ、調理道具が増える一方」。

何種類の商品があるかと問うたが、首を傾げた。

「でもさあ、最近の百円ショップは、本当にようやるなあって感心するわ。家なんて鍋の柄一本でも百五十円~二百円はするのに。あそこは鍋そのものが百円だもんねぇ」。

毎朝五時の開店。夕方五時まで、毎日十二時間の営業。

「昔馴染みの県外の客が、たまあに来るもんだで、夕方まで店開けとんだわさ。他所はみんなだいたい、昼で仕舞いだわ」。

昭和五十九(1984)年、中区大須出身の由美子さんを妻に迎えた。

「子供もおらんで、夫婦二人で安気にやってますわ」。妻を見つめ微笑んだ。

結婚から八年。女手一つで、家業と家族を支え続けた母が他界。時代は平成へと移ろい、庖丁人の世界にも変化が生じた。

「まあ最近は、魚もおろせん板前が多なって。バイトでも出来るようにって、刺身でも加工場でもう切ったるんだで、後は盛り付けだけ。昔のように庖丁を使い分ける板前も減ってまって」。

棚に収まる数十種類の庖丁。

出刃、薄刃、柳刃、蛸引き、鱧切り、鰻割き。

いずれの和庖丁にも丸に五の刻印。

「この鰻割き庖丁なんか、地方によって形がみんな違うんだて」。

名古屋型は刃渡り五㌢程の小型。

大阪型は柄のない切り出し小刀。

東京型は薄刃で長く、京都型は鉞(まさかり)型とか。

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土地土地で水揚げされる魚と、その土地の流儀や捌き方で庖丁も異なる。

「旨い」を極める板前は、己が職人魂を庖丁の切先へと委ねる。

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「天職一芸~あの日のPoem 205」

今日の「天職人」は、岐阜県関市板取の「炭焼き職人」。(平成十八年九月二十六日毎日新聞掲載)

沢に煙が立ち昇りゃ 森も紅注し色気づく        長閑な秋の青い空 鳶もヒュルリと輪を描く       炭焼き小屋の職人は 昼の一服手を休め        ワッパの飯を平らげる 色付く森をご馳走に

岐阜県関市板取の、三代目炭焼き職人、長屋善一さんを訪ねた。

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「炭焼き小屋は、沢底辺りで近くに水が流れる場所でないとかん。泥捏(こ)ねて窯を造らんなんで」と、老人は玄関先に腰掛けた。

善一さんは大正十三(1924)年、九人兄弟の長男として誕生。

尋常高等小学校を上がると軍事教練へ。

昭和十九(1944)年、徴兵で航空隊に入隊。

「福島で防空壕ばっか造らされて、最後は蜜柑畑で受講中に終戦やて」。

「除隊して戻ったもんの、食糧難で十三人の大家族がろくに食うもんもないんやで。百姓したり炭焼きして、何とか凌いどったわ。それでも田んぼが一町歩ほどあったもんで、米だけは何とか自給出来たんやて」。

余った米は供出逃れに、隣の厩(うまや)で飼葉(かいば)の中に隠し込んだ。

板取の炭焼きは、明治後期に始まった。

コナラ・樫を原木に、取り分け高級とされる白炭(しろずみ)を産した。

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「硬い炭やで、黒炭に比べ、火持ちが五倍も違うんやて」。

高級料亭や鰻屋に、重宝がられた。

「でも重労働でえりゃあばっかや」。

戦後復興の槌音と共に、暮らし向きにも徐々に明るさが兆し始めた。

昭和二十三(1948)年、隣の家から米子さんが嫁いだ。

だが子宝には恵まれず、やがて養女を迎えた。

今から五十年前までが、炭焼きの最盛期。

毎年九月末から翌年五月中頃まで、煙が立ち昇った。

「毎朝三時に起き出して、小田原提灯ぶら下げて、真っ暗な山道を一~二時間かけて山へ分け入ったもんや。窯が千度に焼けて暑っいもんやで、丸裸でチンコに蕗(ふき)の葉巻いて前掛け一枚やて。全身真っ黒にして、灰神楽みたいやった」。

炭焼き窯の中で、千度に達した真っ赤な炭。柄振(えぶ)りと呼ぶ、鈎(かぎ)の手状の掻き出し棒で取り出して、炭の粉と土を混ぜた素灰(すばい)を被せ密閉。

一時間ほどで、炭の熱が完全に奪い取られ白炭に。

「萱で編んだ炭俵に出来上がった白炭を詰め、夕方三~四俵も背中に負んで山を下ったもんやて。それから今度は、夜鍋して草鞋編んだもんやで」。

戦後の復興から、成長期へ。

「昭和も三十二~三十三(1957~8)年頃やろか。燃料革命で、炭作ってもぜんぜん売れんくなってった」。

昭和三十四(1959)年、土木会社に入社し作業に従事。

しかし昭和四十(1965)年、現場で負傷し入院。

離職を余儀なくされ、一年近く療養の憂目に。

当時役場では、砂防堰堤(えんてい)を造るため補助監督を探していた。

昭和四十一(1966)年役場に職を得、三年後正職員に採用された。

「まあ、これも怪我の功名やわ」。

養蚕の指導等を経て、昭和六十(1985)年に定年退職。

その後、林業組合に身を置き十年が過ぎた。

「昔炭焼いとった山に、親類が道路を付けるって言うもんやで。そんならって、年寄りの炭焼き仲間で窯造ったんやて」。

半世紀前に火を落とした炭焼き小屋から、再び沢筋に沿うよう煙が棚引いた。

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時代が流れるまま、生き抜くため身を任せた人生。

流転の末、流れ着いた先は・・・。

産卵のため清流板取川を遡上した、まるで鮎の如き炭焼き職人。

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「天職一芸~あの日のPoem 204」

今日の「天職人」は、愛知県岡崎市の「紙屋主人」。(平成十八年九月十九日毎日新聞掲載)

矯(た)めつ眇(すが)めつ千代紙を 眺めて君はうっとりと                          母のお古の雛様に とっかえひっかえ着せ付ける     母の手助け着せ替えも 無事に終わって満足げ      満面の笑み雛を抱き 君はシャッターまたせがむ

愛知県岡崎市、創業百四十八年の安藤紙店五代目主人、安藤寿高(よしたか)さんを訪ねた。

「この道は、岩津天神から足助を通って、長野の飯田へと続く昔の塩街道だったもんで。路面電車が走って、その脇を牛車が荷物積んでガタゴトガタゴトッと。ついでに店の前でボットンっと、糞垂れてくもんだあ」。寿高さんは、交通量の多い玄関先の車道を見つめた。

寿高さんは昭和二十九(1954)年、三人兄弟の長男として誕生。

「紙店になったのは、昭和二十三(1948)年からだわ。昔は、味噌醤油からチリ紙まで扱う萬屋だったで」。

街道を上り下る牛車が、店先で味噌や醤油を渦高く積み上げた。

寿高さんは昭和五十一(1976)年に大学を出ると、商社に入社。

「親父と一緒に仕事しとった叔父が、急死したもんだで一年後には家業に戻っただわ」。

戦後の急速な欧米化の波は、和紙から洋紙へと。

印刷技術も、日進月歩の勢いを極めていった。

「ドンガッチヤ、ドンガッチャと、ギロチン断裁機は、休む間も無く規則正しい音を刻んどっただ。伝票類やチラシにと、印刷用の洋紙加工に追われっぱなしだったで」。

寿高さんは、土間伝いの帳場に腰掛けた。

昭和五十三(1978)年、高校の同級生だった銀行員の幸代さんと結ばれ、一男一女を授かった。

「それからの十年は、紙屋も印刷屋も、みんな激変の時代だわさ。ワープロからパソコンへと時代が進化して、洋紙も印刷の業務用から、個人のプリンター用紙へと変わってまっただ」。

用途は時代の流れに移ろえど、大量生産が可能な洋紙は、安価で新たな時代に符合した。

「まあこんな生漉(きず)きの多色雲竜紙(たしきうんりゅうし)とか、雅やかな京友禅柄和紙なんて、とんと売れんくなっちまったもんだあ」。

とは言え、和紙がこの世から消え去るわけではない。

「書道の先生やら、手工芸の方。美濃の白和紙なんかは、大凧に使われたり、高級料亭の障子紙に。最近では外国への土産物としてや、観光客の外国人がこぞって買ってくもんだあ」。

大量生産の洋紙に比べ、一枚一枚を手で漉く和紙の価格は、洋紙の何十倍と、なんとも高額な紙だ。

「だけんども、『和紙』と呼ばれるように、日本独特のもんだで、外国の人らには京の雅やかさが感じられて、それでうけるんだろうな」。

もっとも帳場に、洋紙のノートでは如何にも不釣り合いだ。

「こんな水引だって、同じ色のもんでも長さも太さもまちまちで、何十種類ってあるもんだで」。寿高さんは帳場で背伸びして、梁の上に渡した水引入りの箱を引き摺り下ろした。

「最近じゃあ、水引をようけ使ってくれた結納屋さんも、どんどん店閉めてってまうでねぇ」。傍らで母澄子さんが、こっそりぼやいた。

物の本によれば、水引を掛ける風習は、日本独自の礼儀であり、「自分を正しくして、先様を敬い、これに奉仕する」室町時代に花開いた文化の名残とも。

水引を「真結び」にして、その両端を「結び切り」にする弔事。

相対し慶事には、「蝶結び」。

いずれも和紙の熨斗(のし)袋だからこそ似合う、我が日本の奥床しい心配りかな。

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「My Fanny」⇒「All My Family」

表題の「My Fanny」⇒「All My Family」って、なんのこっちゃーって疑問を抱かれるのも確かでしょう。

実は以前のラジオの深夜放送でも、幾度かお話しした記憶がありますが、「My Fanny」も「All My Family」も歌詞こそ違えども、メロディーはまったく同じものです。

これらの曲が出来たのは、23~24歳の頃であったと思います。

最初に出来たのが「My Fanny」です。

これは名古屋の柳橋にあったちょっと英国風のパブの店名「My Fanny」だったかただの「Fanny」だったかを、ちょっと仮想の国境を超えた国の恋人の名に拝借したものです。

当時もぼくは無知だったため、英国における「Fanny」にはちょっと卑猥な意味合いが含まれているとも知らず、その音感の響きの良さと、「Fanny」の持つ良い方の意味合いだけで、仮想の恋人の名に拝借してしまったものでした。

もしかすると柳橋の英国風パブは、洒落を利かしてそんな卑猥な意味合いで命名されていたのかも知れませんが!

いずれにせよ、そんな異国の美女「Fanny」との、仮想Love Songでした。

ところが当時、ぼくのワンマンコンサートをプロデュースしてくれ、デモ・レコーディングなどにも力を貸してくださっていたプロデューサー氏から、「もっとさぁ、フヘン的な歌詞じゃなきゃダメだよ」と言われたものでした。

さてこれまた厄介な、「フヘン的」ですが、「普遍的?」「不変的?」「不偏的?」???

同じ「フヘン」の発音ながら、こんな3つもまったく別の意味の言葉があるわけですから、口で言われたら???えっ、それって「普遍」「不変」「不偏」となってしまうものです。どうせならば、紙に文字を書いて説明して下されば良いものを!

ですからぼくなりの解釈で歌詞を作り直したのが、後発版の「All My Family」です。

今日はまず弾き語りで、本当のオリジナルだった「My Fanny」をお聴きください。

「My Fanny」

詩・曲・唄/オカダ ミノル

夜空を駆ける流星よ あいつを連れ去る船の

行く先を照らして 遥かなる海を越え大陸まで

 Oh My Fanny 出逢った時から 別れが来ると 気付いていたさ

 Oh My Fanny 生まれ変われたら 青い瞳で 愛せたらいいね

短い命を散りばめて 夜を渡る流星よ

お前にわかるはずさ この俺のやるせなさそして愛しさ

 Oh My Fanny 俺の人生に ひときわ輝く 出逢いと別れ

 Oh My Fanny 抱き合えばただの 所詮男と女でしかない

 Oh My Fanny 俺の人生に ひときわ輝く出逢いと別れ

 Oh My Fanny 生まれ変われたら 青い瞳で愛せたらいいね

そして続いては、ヤマハのスタジオウイングで収録した、まだ歌詞を変更する前の「My Fanny」のデモ・レコーディング音源をお聴き願います。が、しかし!ぼくの操作ミスで前半を少し消してしまったため、不完全なままで申し訳ありませんが、大目に見ていただければ幸いです。

そして続いては、弾き語りの「All My Family」です。

「All My Family」

詩・曲・唄/オカダ ミノル

 All My Family 風を従えて 夜を駆け抜け 夢を彷徨い

 All My Family 輝く明日が 訪れるまで 唄い明かそうよ

恋人よ君の頬伝う 一筋の光は きっと夜空に降る

煌めく星になると信じておくれ

恋人よ君の哀しみは 今風に抱かれ 果てしない宇宙(そら)へ

旅立つよだから泪見せないでよ

 All My Family 風を従えて 夜を駆け抜け 夢を彷徨い

 All My Family 輝く明日が 訪れるまで 唄い明かそうよ

恋人よ君の口笛に 星たちも集う 寄せる波の調べ

真夜中に響き渡る風のシンフォニー

 All My Family 風を従えて 夜を駆け抜け 夢を彷徨い

 All My Family 輝く明日が 訪れるまで 唄い明かそうよ

 All My Family 風を従えて 夜を駆け抜け 夢を彷徨い

 All My Family 輝く明日が 訪れるまで 唄い明かそうよ

続いては、ラジオの深夜放送でもよく流させていただきました、ヤマハオールスターズ版の「All My Family」をお聴き願います。

★そして今日は、9月14日月曜日にお誕生日をお迎えになられます、ウメピョンさんからお祝いソングをリクエストいただきましたので、ささやか~なお祝いをさせていただきます。

もちろんウメピョンさんより数分前に産声を上げられました、「ほうずき」さんのお祝いも併せてさせていただきます。

お二方、お誕生日おめでとうございます。どうか素敵な1年をお過ごしください。

★毎週「昭和の懐かしいあの逸品」をテーマに、昭和の懐かしい小物なんぞを取り上げ、そんな小物に関する思い出話やらをコメント欄に掲示いただき、そのコメントに感じ入るものがあった皆々様からも、自由にコメントを掲示していただくと言うものです。残念ながらさすがに、リクエスト曲をお掛けすることはもう出来ませんが…(笑)

今夜の「昭和の懐かしいあの逸品」は、逸品ではありませんが、「怖いながらもちょっぴり愉しかった台風の思い出」。

ところで皆様は、台風10号の被害はございませんでしたか?続けざまに押し寄せた、台風9号、そして10号で被害に遭われた奄美地方や沖縄、そして九州の皆様に、心よりお見舞い申し上げます。

まさにわが家は伊勢湾台風で家財道具のすべてが浸水し、命からがらアパートの二階へ避難して、なんとか助かった経験がありましたから、台風が近付いているとなると、そりゃあもうお父ちゃんもお母ちゃんもただ事じゃありませんでした。

お父ちゃんも台風が上陸しそうだと知ると、会社を早引けして家に戻り、家の玄関から全ての窓に戸板を打ち付け、胴縁で補強したものです。

あまりに慌てて、自分が家に入る勝手口まで戸板で封じてしまい、ずぶ濡れになってまた戸板を外して、家の中へと飛び込んできたことも、一度や二度じゃなかった気がいたします。

安普請な家でしたから、台風が近付くと風の唸り声やら、家のあっちこっちが軋む音に脅かされたものです。

それに今よりももっと簡単に停電になり、真っ暗な茶の間に夏目ロウソクを燈し、三人家族が身を寄せ合うように、ささやかなおにぎりとみそ汁の夕餉に舌鼓を打ちつつ、台風が無事に通り過ぎるのを祈ったものでした。

その時の両親の気持ちまではわかりませんが、ぼくは家族三人が寄り添って、息を殺すようにラジオに耳を傾け、おむすびを頬張っている時が、台風の日の密かな楽しみでもありました。

でももう、二度とそんな事は出来ないと思うと、どうにも懐かしさが込み上げせて仕方ありません。

皆々様は、台風直撃の日は、どんな風にお過ごしでしたか?

今回は、そんな「怖いながらもちょっぴり愉しかった台風の思い出」。皆様の思い出話を、ぜひお聞かせください。

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クイズ!2020.09.08「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」

いやいや意外な事に、苦肉の策のクイズ「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」が好評?で、皆様からも数多くのコメントを賜りました。

そこで益々気をよくして、ぼくからの一方的なブログではなく、皆様にもご一緒に考えていただいてはと、『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』をしばらく続けて見ようと思います。

でもクイズに正解したからと言って、何かプレゼントがあるわけではございませんので、どうかご了承願います。

そこで今回の『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』はこちら!

今回のヒントは、『9月1日の「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」正解はこちら!』の中にありました!

これまた頭頂部の薄毛でお悩みの、落ち武者殿にデリバリーして差し上げたいほどの逸品でした。

もうきっと勘の鋭い皆様には、お見通しでしょうねぇ。

皆様からの鋭いお答えをお待ちしております。

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「天職一芸~あの日のPoem 203」

今日の「天職人」は、三重県津市の「朧染(おぼろぞ)めタオル職工」。(平成十八年九月十二日毎日新聞掲載)

小さな君は横向いて すやすやすやと夢心地       ピンクのタオル口に寄せ 時折り吸って満足げ      いつしか君も中学生 クラブで疲れうつ伏せ寝      布団を掛けて覗き見りゃ 顔の下にはあのタオル

三重県津市、おぼろタオルの職工の小林正さんを訪ねた。

「娘がまだ小さい時、乳離れするまでタオルの端っこをよう吸うとったもんやさ」。正さんは、懐かしそうな表情を浮かべて笑った。

正さんは会社員の家庭で、昭和十五(1940)年四人兄弟の長男として鈴鹿市に誕生。

高校の紡織科に学び、卒業後は縁あって昭和三十四(1959)年に、おぼろタオルへと入社した。

「当時はガチャマン景気も終わった後の、鍋底景気の時やったで、就職口があらへんでなぁ」。とは言え、当時は現在の三倍、百八十名の社員数を有した。

おぼろタオルは、明治四十一(1908)年創業。

創業者の森田庄三郎が、文字や図柄を横糸だけで描き出す織り方「元祖朧染め」の専売特許を得たことに始まった。

その名の通り、文字や図柄がおぼろげに浮かび上がる、独特な織り加工技術で、タオルが水分を吸うと意匠が色鮮やかに浮かび上がった。

「伊勢型紙と伊勢木綿をひっつけて、何かええもんが出来やんかと、それが発明のきっかけやったらしい」。

正さんは入社後、機織・加工の一貫工程の現場で一年間実習に明け暮れた。

その後三年、織りの製織部門を経て現場管理へ。

管巻(くだまき)と呼ぶ、ビームに糸を揃えて巻く整経作業や、動力織機の整備と修理に追われた。

昭和四十二(1967)年、二十六歳で職場恋愛を実らせ、洋子さんを妻に迎え娘二人を授かった。

「今じゃ、孫が五人もおるんやで」。好々爺(こうこうや)が微笑んだ。

「昭和四十五(1970)年までは、朧染め一本やったんさ。企業の社名を刷り込んだものや、慶弔事に使てもうて」。

しかしその後は時代の波もうねり、ファッション性が問われ、刺繍入りやブランド商品が台頭。

「濡れた顔や身体拭けれたらよかったもんが、次第に付加価値が求められるようになってったんやさ」。

昭和四十八(1973)の最盛期には、一日で一万枚を製造。

しかしオイルショツクを境に、中国等からの輸入品に押され、次々と国内のタオル工場は閉鎖を余儀なくされていった。

「それでも海外の技術では、極細四十番手の高級綿糸による加工が出来やんのさ」。

細番手の糸を使うほど、ボリューム感が出て、柔らかく肌触りも良く、吸水性も高まる。

「太番手は綿の質が悪いんさ」。

国内のタオル生産は、愛媛県で六割、次いで大阪府南部の泉州で三割、残りの一割が三重県とか。

「三重県にも昔は二十社ほどあったけど、今しは三~四軒ほどやろか」。

平成十二(2000)年、小林さんは晴れて定年退職。

しかし会社は、タオル作りの熟練工を引き止めた。

「今はタオルの設計やら、問屋にデザインの提案したり。これしか出来やんでなあ」。

巨大な自動織機が居並び、規則的な音を刻みながら綿糸が織り込まれてゆく。

純白の小さな綿埃が、工場の上空へと舞い上がる。

そしてやがて梁や柱に、ゆっくりゆっくりと舞い降り、雪のように静かに降り積もる。

「タオルはその家その家で、家族の匂いが染み込むもんやで。娘が小さい頃、タオルの端っこ吸うとったんは、母親の匂いを感じて、安心しとったからやろなぁ」。

タオル一筋に約半世紀。

老職工は今日もせっせと、穢(けが)れを知らぬ純白のタオルを紡ぎ上げる。

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「天職一芸~あの日のPoem 202」

今日の「天職人」は、岐阜市神田町の「精肉屋」。(平成十八年九月五日毎日新聞掲載)

御節も飽きた三箇日 呑んで食っちゃ寝また飲んで    父は炬燵で高鼾き 母は丹前羽織らせた         鉄鍋ジュッと音立てて 霜降り肉と醤油の香       父は炬燵を抜け出して 早くもビール煽り出す

岐阜市神田町、飛騨牛の岐阜屋。五代目店主の石原達已さんを訪ねた。

「岐阜屋の飛騨牛生レバーは、私のコレステロールを高めた好物で、医者から『食うな!見るな!』って言われた逸品もんなんやって」。友人が自慢げにそう断言。

「それは嬉しい評判です。もっとも飛騨牛の生レバーは、そうそう小売されてませんから。家でも週に二回しか、店頭に並ばない貴重な商品です」。達巳さんは、得意客の評判に満足げ。

元々岐阜屋は、大垣藩士であった初代が、明治初頭に髷を落とし、岐阜市小柳町へと移り住んで牛鍋屋を開業。

やがて明治末期に精肉の小売へと転じた。

達已さんは、昭和二十三(1948)年に岐阜屋の一人息子として誕生。

「二代目以降、養子ばっかで、初めての男子やったんやて。だから小さい頃から、後継ぐもんだと擦り込まれてました」。

名古屋大学経済学部を卒業し、愛知県岡崎市の精肉屋へと修業に。半年後に岐阜屋へと戻り、家業に就いた。

一頭の牛を背割りした半頭分は枝肉と呼ばれ、そこから部位毎に切り落す脱骨作業へ。

さらにすき焼き用やステーキ用にと、用途ごとにスライス。

「昔は馬喰(ばくろう)さんが、産地で牛を買い、生きたまま持ち帰って屠殺場へ。それをバラして、二週間から一ヶ月くらい、白黴が生える頃まで熟成させたもんやて」。

飛騨牛とは、県内で十四ヵ月以上肥育された黒毛和牛を指し、日本食肉格付協会が肉質の等級を定める。

AとかBは、脂の付き具合が薄いとA。厚いものはB。

さらに霜降りの度合が多いものを五等級。四等級から下がるほど、霜降りの度合は少なくなる。

この格付の中でも飛騨牛は、A・Bいずれかで五等級から三等級までを呼ぶ。

「家はいずれも、Aの五か、Bの五しか置いてません」。

創業百年以上を誇る、『飛騨牛の岐阜屋』を名乗る者の誇りにかけて。

「昔はよう高山と岐阜の競りを往復しては、枝肉を仕入れたもんやて」。

岐阜市内にある、県の畜産公社の競りは月曜。高山市では毎週木曜に競りが開かれた。

昭和四十九(1974)年、達已さんは道路を一本南に下った隣町から、同級生の伸子さんを妻に迎え、一男二女に恵まれた。

「友達の友達やったで。結婚するまで女房の実家では、隣町のライバル店の肉屋が贔屓だったんだわ。でも女房が嫁いでからは、家の肉に変わったもんだで、ライバル店から『得意先を奪われた』って、よう嫌味を言われたもんやて」。

ショーケースの向うで、客と対座する妻をこっそり盗み見、達已さんは照れ笑い。

高度経済成長からバブル期へと、高級な飛騨牛は引く手数多(あまた)。

「最盛期の暮れは、一ヵ月で二十頭ほど捌いたろうか。正月のすき焼き用にな。冬場は脂が乗って、肉自体の甘味も増すもんやで」。

しかしバブル崩壊や、O-157にBSE問題と、風評被害の余波を受け売上げも半減。

飛騨牛の生産にも狂いが生じ、ここ二~三年は逆に高騰傾向へ。

「冷蔵庫に何にも無いと、すぐ肉料理やでなぁ」。

妻に悟られぬよう、こっそり声を潜めた。

「一番食べ盛りの時には金が無い。逆に歳いってお金が出来た頃には、量より質で美味しいお肉がちょっとあればよくなるし」。

良質であればあるほどに、肉の水気は少なく、仄かに甘味をまとう、王道を行く飛騨牛。

何はともあれ、特別な日のおご馳走(っつお)だ。

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9/01の「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」正解はこちら!

「なぁ~んちゃって、アンニョンハセヨ!出汁昆布のチヂミ with Honey Babeのしゃぶしゃぶ用薄切りバラ肉ソテー」

今回は皆様、緑色の物体に随分とお悩みになられたようでした。

和風出汁をひく時に、ぼくの場合どうしても鰹の荒節と昆布の出汁殻に困ってしまいます。

これまでにも鰹の荒節の出汁殻で、なぁ~んちゃって鰹のフリカケに挑んで見たり、昆布の出汁殻を佃煮にしたりしましたが、いつもいつも中々手間を掛けて二次加工するのも難儀な代物です。

しかし食品ロスを減らしたいとの思いもあり、何か突拍子もない利用法が無い物かと編みい出したる作品がこの、「なぁ~んちゃって、アンニョンハセヨ!出汁昆布のチヂミ with Honey Babeのしゃぶしゃぶ用薄切りバラ肉ソテー」です。

いつにも増して、長ったらしいネーミングですが、作り方は超簡単!天晴手抜きクッキングです。

まず和風出汁をひいた後の昆布を、小口切りにしてフードプロセッサーの摺り下ろしモードで細かくします。

それをボールに移し、白ごま、鶏ガラスープの素少々、小麦粉と片栗粉を少々入れ、よく混ぜ合わせます。

次にフライパンにごま油をひき、薄っぺらなお好み焼のように焼き、少し焦げ目が付いたら皿に移します。

別のフライパンにもごま油をひき、Honey Babeのしゃぶしゃぶ用薄切りバラ肉を焼いて、昆布チヂミの上にのせ、紅ショウガを彩で添えれば完了。

Honey Babeはこちらを↓

https://hayashifarm.jp/info/1105784

ぼくはタレを餃子の浸けダレのように、醤油、酢、ラー油でいただいて見ました。

これがまあ、摺り下ろした昆布がなんともモッチリとした食感となり、表面がカリッカリで中はモッチリお餅のようで、しかもゴマのプチプチ感も加わり、なんとも嬉しい仕上がりとなりました。

当然ながらキリン一番搾りにドンピシャな逸品となり、ついついグビグビとグラスを空けてしまったものです。

しかしよくよく考えて見ると、昆布の摺り下ろしがメインですから、身体にもよさそうですし、髪の毛にもよさそうな気がしたものです。

今回は、何が何でも落ち武者殿にデリバリーして差し上げたい気になったものです。

皆々様のご回答も、随分お悩みになられながらも、とてもニアピンの方もおいでになり、お目の高さにはビックリでした。

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「天職一芸~あの日のPoem 201」

今日の「天職人」は、愛知県岡崎市の「男川やな女将」。(平成十八年八月二十九日毎日新聞掲載)

つくつく法師夏は逝き 梁場(やなば)の木々も色付けば 川面の落ち葉追うように ゆらゆらゆらと秋茜      聖なる川で身篭って 梁の川床落ち跳ねる        我が子だけでも護らんと 儚き定め鮎の母

愛知県岡崎市、男川(おとがわ)やなの女将、梅村成美さんを訪ねた。

「主人は、川の上(かみ)の方から流れて来ました」。旦那との馴れ初めを尋ねると、まるで落ち鮎のことのようにバッサリ。成美さんが笑った。

成美さんは、昭和二十二(1947)年、梅村家の一人娘として誕生。

短大を出ると、市内の小学校四校で教鞭を振るった。

昭和四十五(1970)年、冒頭の落ち鮎のように例えられた亘さんと結婚。

「同じ町の人だったから、何となく見知ってはいて。それよりも忙しくて、恋愛する暇なかったし」。見合いからわずか七ヶ月、岡崎城の竜城(たつき)神社で挙式。

「当時は洋風の結婚式場なんて無くって、白無垢に文金高島田。本当はウエディングドレスが着たかったんだけどねぇ」。挙式を終えると父は、成美さんだけを車に乗せ、実家へと連れ帰った。

「父は私を、新婚旅行に行かせたくなかったんだ」。成美さんはそう思った。

一人取り残された新郎も、周りの列席者も、呆気に取られるばかり。

ただ九州へと旅立つ、飛行機の搭乗時刻だけが刻々と迫っていた。

「家に着いたらビックリ。父がウエディングドレスに着替えろって。慌てて着替えて、庭で記念撮影して」。その後、大慌てで空港へ。何とか事なきを得、その後二人は、二女二男を授かった。

男川やなは、昭和五十一(1976)年、国・県・旧額田町が出資する、自然休養村整備事業の一環として、梅村家の土地に漁業権者十名が組合を発足し開業した。

それから十年。

もともと観光施設経営とは、畑違いの船頭ばかり。来場者の減少で翳りが。しかし公的資金の投入された施設。閉めたくも閉められない。

平成二(1990)年、成美さんの父で当時漁業組合長を務めていた百(ひゃく)さんが、脳梗塞に倒れた。

「『誰もやなを継ぐ者がおらんでも、他所者だけにはやらせん!』って、病床の父が知人に。それが教員を辞めてやなを継ぐきっかけかなあ」。成美さんは、川面を見つめた。

翌年、教職を辞し男川やなの女将に転身。

「でも大変だったわよ。何もかも別世界だから。今までどれだけ世間知らずだったか、思い知らされたもの。あの頃はよく、やなの上で一人泣いたものだわ」。

板場の調理人さえ雇うこともならず、見よう見真似で鮎に串を打った。

「最初のお客さんは、そりゃあ酷いもんよ。尻尾の跳ね上がった焼き上がりじゃなくって、ノッペーっと平ったい焼き上がりだもん」。

だが、それでもと通う客が、成美さんを支え続けた。

「はいっ!いらっしゃい!」。

引っ切り無しに訪れる家族連れ。客捌きの巧みさに、元教員の面影は無い。

「この川にどれだけ淋しさや哀しさを流して、代わりに上から嬉しさや喜びを運んでもらったことか」。

時折り店を訪れる教え子。誰もが必ずこう口にする。「私、わかる?」。

成美さんは、記憶の糸を手繰り寄せ、化粧の奥に面影を探す。

「タカちゃんやない?」。その一言は、時の隔たりを瞬時に埋め合わせる。

一年魚とされる鮎。

その身を切り刻むように遡上し、子を成し儚き生涯を終える。

まるで成美さんの人生そのもの。

教員と言う仮の姿をまとい、町という河口に下りて子を育て、また再び魂の故郷へと遡上した。

訪れるべくして訪れた定め。

遅い早いではない。

いつか本物の自分と、巡りあう瞬間さえ見逃さなければ。

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