「2021初春のお慶びを申し上げます!」

2021年を無事に迎えることが出来ました。

今年のぼくのお正月飾りです。

左には、毎年ゴッド君が送ってくださる「鬼柚子」。

そして市田柿の串柿。

さらにわが家のベランダ菜園で頑張って実を結んでくれた、天突き南蛮にお神酒と塩です。

それと相対した壁には、藍染めのベコちゃんタペストリーです。

どうかどうか、ここに集ってくださる皆々様に、2021年が素晴らしい年でありますように!

そして一日も早く、再び皆々様とお逢いできますように!!!!!!!

ちなみに!

手作り酢レンコンに、収穫間もない天突き南蛮を使って見ました!

唐辛子の香りがとっても良くって、そしてビリッと来る辛さが酒のあてには堪りませんでしたぁ!

今年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。

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「天職一芸~あの日のPoem 302」

今日の「天職人」は、名古屋市熱田区の「曳(ひ)き売り釜炊き豆腐職人」。(平成20年12月16日毎日新聞掲載)

「トーフートフトフ」。

濁声(だみごえ)が ラッパ奏でて路地を行く          犬の遠吠え長い影 釣瓶(つるべ)落しに迫る宵         引き戸を開けて子供らが 路地へ駆け出す長屋から        オヤジに鍋を突き出して 「豆腐一丁、揚げ二枚」

名古屋市熱田区の、二代目曳き売り釜炊き豆腐職人の林正光さんを訪ねた。

写真は参考

 昭和の夕暮れは、豆腐屋のラッパの音と、「トーフー トフトフ」の濁声と共にやって来た。

子らは鍋を両手で抱え、豆腐屋を追い駆ける。

「今じゃあ曜日を決めて、ご近所を回っとるだけだわ。」。正光さんは、自転車から木箱を下ろした。

正光さんは昭和10(1935)年に、名古屋市中村区(現・笹島操作場跡地付近)で5人兄弟の長男として誕生。

「尋常小学校の頃だわ。戦争も末期で大豆も配給。やっとの思いで豆腐をでかした途端、ガラスを外してまって、手突っ込んで盗んでっててまうんだて」。

戦後の安寧(あんねい)と引き換えに、空襲に焼け出され新川町へと町ぐるみで移住。

新制中学を出ると、昭和25年に変圧器の製作所に勤務。

しかしわずか3ヶ月で父に呼び戻された。

「当時はまんだ大豆を、足踏みローラーの臼で挽いとった時代だて。痔を患っとった親父にはちょっと重労働だし、ちょうど豆の統制も外れた時だったで、豆腐屋の再出発だわ」。

毎朝3時に起床。

前日から水に浸しておいた大豆を臼で挽き、竃(かまど)に大鋸粉(おがこ)を入れて火を熾(お子)し、沸騰したお湯に大豆をそっと浮かべる。

写真は参考

「大豆が鍋の底へ行ってまうと焦げるでかん」。

やがて大豆が加熱され、湯の上辺へと浮き出す。

「次に油と硝石灰(しょうせきばい)の、泡消しを入れたると豆乳になるんだわ」。

それを布でこしてオカラを取り除き、苦汁(にがり)を入れる。

「今の豆腐屋は、本物の苦汁なんて使っとらんって。だいたいは、あらけにゃあことに硫酸マグネシウムだわ。だけんど俺んとこはほんもんの苦汁だぞ」。

次に型箱に流し込み、重石をして20~30分。

水槽へあけ固くなったら切り分ける。

「10℃以下の水でしっかり冷まさんと腐敗のもと。豆腐は生きとるで」。

写真は参考

一斗缶1つに28丁。

それを3箱自転車の荷台に積み込み、上から木箱を被せて出発だ。

「昔はよう売れたで、リヤカーを自転車の横に付けとった」。

正光さんは作業場の竈を見つめた。

昭和30年、空襲で焼け出された町内一行は、現在地(熱田区)へと移転。

「結局、笹島の貨物駅に引っ掛かるもんで、ここが代替地だって。そんだで町内のお宮さん持って、みんなして移住だわさ」。

奇(く)しくもまた新たな出発となった。

「初めの頃は曳き売りしても、顔がにゃあで1日に1丁だて。まあ、たあけらしいでかん」。

顔が出来るまでに、10年を費やしたとか。

昭和39年、尾西市出身の久子さんと結ばれ、三人の男子に恵まれた。

「豆腐はよ、箸で挟めなかん。今の豆腐は、蒸気で火傷させとるだけ。俺とこみてゃあに、釜と炎でちゃんと炊いとんのは、もう愛知県内どっこもあれへん。豆腐の秘訣は煮方と固め方だわ」。

写真は参考

林家の味噌汁は今でも豆腐一丁。

正光さんが半世紀をかけた、渾身(こんしん)の木綿豆腐からは、薄れ行く昭和の名残と味がする。

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「遅ればせながら、今年のわが家のHarvest festival!」

まだ実が真っ赤に色付かないままの、小さなものもありましたが、そろそろ刈り入れかと、収穫することにいたしました。

これがわが家のベランダ菜園で収穫できた、「天突き南蛮」です。

今夜中に玄関の正月飾りの一つとして加え、魔よけの役目を担ってもらい、年が明けて飾り収めを終えたら、ペペロンチーノになんぞ活躍していただこうと思っています。

ちなみにこちらが、昨晩のフキノトウの天婦羅です!

ごっつぉ様でした!!!

今年一年、何とか何とか生き延びることが出来ました。皆様からの心温まるコメントの数々に、大変勇気をいただけたことに、心より感謝申し上げます。

そしてこのブログをご訪問して下さる皆々様にとって、来年が一際良い年となりますよう、心より祈っております。

どうぞ皆様、良い年をお迎えください!!!

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「今朝郡上から、早くも大好物のアレが届きましたぁ!今夜は天婦羅で一杯だぁ!」

まだパジャマ姿のままコーヒーをゆっくりと啜っていると、「ピンポーン」。

郵便局のゆうパックが届いたようです。

えっ、こんな朝っぱらから?と訝しげに段ボール箱を開けて見てビックリ!

予期せぬ早春の兆しの便りじゃないですか!

ジャジャーン!!!

大好物のフキノトウじゃないですか!

こりゃもう堪りません!

今夜は天婦羅にして、新潟新発田の辛口の日本酒で一献と洒落込みたいものです!

ありがたや、ありがたや!

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「天職一芸~あの日のPoem 301」

今日の「天職人」は、三重県伊勢市の「山村ヨーグルト」。(平成20年12月9日毎日新聞掲載)

ぼくのクラスのマドンナが 風邪をこじらせ寝込んだ日      プリント抱えお屋敷へ 家(うち)の長屋と大違い       「ご褒美よ」っておばちゃんが 白いプリン?を差し出した    初めて食べて「甘酸っぱ!」 あの娘(こ)の好きなヨーグルト

三重県伊勢市、大正8(1919)年創業の山村乳業。二代目主、山村鹿雄さんを訪ねた。

「今し4000軒ほどやろか。毎朝牛乳やヨーグルト積んで、配達させてもうてますんさ」。鹿雄さんは、昭和の面影を色濃く残す事務室で微笑んだ。

鹿雄さんは大正15年に、12人兄弟の7番目として誕生。

尋常高等小学校を出ると、昭和17(1942)年に鳥羽市の電気関係の会社に入社。

「そのうちに空襲がひどなって、空から米軍が『日本が負ける』って書いた、ビラ撒(ま)いてきよるんやさ。みんなが『そんなもん拾(ひろ)たらかん!』ちゅうてな」。

いよいよ敗戦も間近になると、B-29の襲来も激しさを増し、神々住まう伊勢の都を焼き尽くすほどの勢いに。

「ちょうどその頃、牛が10頭ほどおって、焼けてもうたらかなんで、首の鎖切って放したったんさ。そんでも牛たちは呑気なもんで、隣りの畑で芋の葉食べとったんやで」。

しかし焼夷弾に焼かれた火の手は、鹿雄さんの牛舎にも迫る。

「隣組の人らが『わしんとこは丸焼けや。まだ、あんたとこは大丈夫やで』って、バケツ持って駆けて来て。そしたら肝心の水があらしませんのさ。そのうち『これやっ!』って、牛のションベンの溜まり場から、バケツに汲んで消火してなあ。それで何(な)とか類焼を防げましたんさ。せやけどその後が、かなん!えらい臭(くっ)そてなあ」。

戦後は牛の餌用に、母と一緒に草を刈り、近所から人参の葉をもらい集め牛に与えた。

「配給が続く食糧難で、栄養が行き届かん時代。みんなこっそり牛乳を買いに並んだもんやさ」。

昭和31年、経済白書の副題に「もはや戦後ではない」という言葉が登場し、高度成長時代へ。

同年、近在から郁子さんを妻に迎え、二男一女を授かった。

昭和34年、行く末を左右する大きな転機が到来。

「岐阜大の先生が、ヨーグルト製造の教えを広めにやって来たんやさ」。

当時、1週間の授業料が35万円。

多額な授業料を工面し、新しい時代へと漕ぎ出した。

それが山村ヨーグルトの誕生。

まず無菌状態の培養機の中で、フラスコに注いだ牛乳と、第1次マザースターター(ブルガリア菌1に対し、ラクチス菌2の割合)と呼ぶ菌を入れ培養。

次に孵卵器(ふらんき)に入れ5~6時間。

固まったところで脱脂粉乳と生乳、それにズルチン(創業当初のみ使用)を加え攪拌(かくはん)し蒸気殺菌へ。

そして瓶詰めにしたヨーグルトを冷却し翌朝配達。

今でも昭和のままの、味わい深さが口の中に溶け出す。

現在は三代目の豊裕さんと、妻の美佳さんが家業を継ぎ、ヨーグルト誕生からはや半世紀。

今では美佳さんが開発した豆乳ヨーグルトも加わり、一日に1500本を製造する。

食の安全が問われる時代。

だからこそ、親子二代8つの眼(まなこ)が、我が子に接するような厳しい眼差しで、製造から配達までを見守り続ける。

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「天職一芸~あの日のPoem 300」

今日の「天職人」は、岐阜市日ノ出町の「お好み焼き屋主」。(平成20年12月2日毎日新聞掲載)

週に一度の楽しみは 小銭を集め土曜日に            連れと外食駄菓子屋で 婆さんが焼くモダン焼き         鉄板前に陣取って 一部始終に固唾呑む             一喜一憂豚肉の 行方を巡り右往左往

岐阜市日ノ出町のお好み焼き・鉄板焼き「正村」二代目主、正村秀一さんを訪ねた。

「♪雨の降る夜は 心もぬれる……♪」

ご存知名曲「柳ヶ瀬ブルース」。

その発祥の地、柳ヶ瀬劇場通り。

昼時や夕方には、あちこちの店から美味そうな匂いが立ち込め、漫(そぞ)ろ歩く客の袖を引く。

「お好み屋がお客さんに、お好み焼かせとったらかんて。そんなもん卑怯だわさ。お客さんを参加させて共犯にしてまったら、たとえ店の味が不味(まず)くても、お客さんは何んも言えんで」。秀一さんは、大声で笑った。

秀一さんは昭和27(1952)年に長男として誕生。

「昭和35年に父が、ここで店を始めたんやて。最初はスマートボール屋で、やがて大判焼き屋へ。それで昭和43年頃、家を建替えた時にお好み焼きに鞍替えたんやわ。あの頃は9時の開店から焼きそば食べに来る人らもおって、一日中てんてこ舞いやて。映画館が跳ねた夜10時頃までよう賑わってましたわ」。

大学卒業後は商社マンを夢見た。

しかし父の一言に脆(もろ)くも潰(つい)えた。

「お前なあ、大学出て給料いくらや?月12~13万と違うか?ほんなもん家なら日曜1日で稼げるわ」と。

まんまと父の口車に乗せられ、割烹料理店で板場修業に。

昭和54年に27歳で家業に戻り、その2年後、旧巣南町(現・瑞穂市)出身のみどりさんと結婚。

二男一女を授かった。

「あの当時は放っといても次から次へと客が来て、流れ作業で1日中お好み焼いとった」。

それが普通だと、次第に感覚が麻痺して行った。

「そのうち私が焼いた物を、家の子どもから『いらん!』って言われて。自分で気が付かんかっただけで、正直不味かったんです」。

時代は商店街から、郊外型の大型ショッピングセンターへ。

柳ヶ瀬全体の客足が減り、売り上げも年々下降の一途。

「現実を認めるまでに3年かかりました。このままでは廃業だって」。

ついに平成7年、材料卸の社長に相談した。

すると「やっとわかったんか!」と一喝。

「目から鱗(うろこ)でした。それから各地のお好み屋巡りして」。

ついに開眼。

秀一さんは父のソースも麺も、プライドも捨て「魂込めて自分が一番美味いと思えるものを作る」と決意。

今では客が店先に並ぶほどの繁盛店に生まれ変わった。

正村のお好み焼きの主力は広島風。

水抜きしたキャベツの食感が決め手。

まず生地を鉄板に敷き、カツオ粉を振りキャベツと天カスを四段重ね。

さらにモヤシと天カスを積み、カツオ出汁をかける。

次に肉を被せ水溶き小麦粉をかけ、上下を引っくり返して押し焼く。

それを別に焼き上げた焼きそばの上に載せ、さらに卵の上に移し変え、引っくり返してソース、青海苔、紅生姜を振れば完成。

「お客さんの『ここのは美味い』の一言だけが、心の支えやって」。

苦難の末にたどり着いた、正村自慢の庶民の馳走(ちそう)。

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「天職一芸~あの日のPoem 299」

今日の「天職人」は、愛知県豊橋市の「濱納豆(はまなっとう)職人」。(平成20年11月25日毎日新聞掲載)

隣の家(うち)のご隠居は 朝風呂浴びて縁側で         納豆あてに盃を グイと煽って「極楽じゃ」          「坊主お前も摘んでみ」 黒く萎(しな)びた豆を噛む      皮の中から味噌の味  それが豊橋濱納豆

愛知県豊橋市で明治末期創業の、濱納豆製造元、國松(くにまつ)本店。三代目女将の國松勝子(まさこ)さんを訪ねた。

「この子らは、自分から何んにも言いません。始終寡黙(かもく)なまま。それが豊橋名産の濱納豆。でも一旦、一粒口に含めば、とても雄弁に語り出します。時には料理の主役として、また時には脇役に。色んな役柄を見事に演じきるのよ」。勝子さんは、まるで我が子を自慢するかのような口調で、濱納豆を差し出した。

糸引き納豆とは異なり、粘々(ねばねば)と糸は引かない。

だからちょっと見には、歪(いびつ)な丸薬のようだ。

さっそく真っ黒に皺の寄った納豆を、一粒手に取り口の中へ。

生乾きの納豆は、貪(むさぼ)るように唾液を吸い上げ、やがて薄皮が溶け出し、中から塩味の利いた味噌のような香りと味が、ふわっと口中に広がる。

一粒の濱納豆は、まるで小さな味噌樽だ。

「とにかく新生児と一緒で手が掛かります。3~4時間毎に白太(しらた=杉の白木)の正目で作ったロジ(大豆に麹を付ける浅い升目の木箱)の淵に溜まった大豆と、真ん中の大豆に満遍なく麹菌が付くように混ぜ合わさんといかんですから」。傍らで三代目当主の伸一さんも、溺愛振りを発揮。

伸一さんは昭和12(1937)年、4人兄弟の長男として誕生。

高校に入ると、三代目を継ぐかどうかの後継問題に心を揺らした。

「高度経済成長期を、目前に控えた時代でしたから、いつまでもこんな物(もん)作っとっていいんだろうかって」。

大学では機械科に学び、昭和35年に、地元の製鋼圧延を手掛ける会社に入社。

それから7年後、豊橋生まれの勝子さんと結ばれ一男二女に恵まれた。

「私の実家が醸造の原料となる製粉をしていて、ここの家とも取引があったんです。それに父が、ここの初代十兵衛さんを尊敬していたこともあって、『その孫なら』ってことで、後はトントン拍子」。

勝子さんは嫁ぐと同時に、義父母と共に濱納豆作りに励み、育児もこなした。

名代の逸品、濱納豆作りは、まず大豆を水で7~8時間かけ冷やかすことに始まる。

次に蒸籠で蒸し上げ、一晩寝かせ翌朝、人肌の温度へ。

そして炒った大麦の粉に麹菌を塗(まぶ)して麹を作り、ロジに入れ人肌の温度となった大豆に、満遍なく混ぜ合わせる。

それを3~4時間毎に、ロジの淵と真ん中を満遍なく繰り返し混ぜ合わせる。

「とんでもなく心をかけんとできませんって」。

肝心要の麹作りは、今でも伸一さんの手によるものだ。

そして徐々に水分が抜け出し、麹菌の胞子がまっ黄色になった段階で、篩(ふる)いに掛けゴミを取り除き、塩水に浸け半年から10ヶ月。

最後の仕上げは、天日干しで旨味引き立て、醤油で味付けした生生姜を加えれば完成。

「お茶漬けは天下一品ですって」 。

濱納豆は1年の歳月と、蔵人の深い愛情に育まれ、味噌と異なる風合いを宿し、この世に生まれ出(い)でる。

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歳忘れ!「残り物クッキングクイズ!」

久しぶりの「残り物クッキングクイズ!」です。

冷蔵庫の掃除をしていると、まぁ次から次へと出てくる出てくる、中途半端な残り物の数々。

そこで今回は、こんな「残り物クッキング」にトライしてみました!

冷凍庫の片隅には、去年郡上から届けていただいたお正月に欠かせぬモノが!

これを一手間加えてイタリア~ンにしてみました。

冷凍庫の片隅に閉じ込められていた、粒粒くんや、野菜室で萎びかけていた野菜と、前日ガッツリと食べきれなかった大好物のアレも加えて!

パスタの残りの瓶入りの赤いソースに、岩牡蠣を白ワインとブルーチーズでボイルした、残りのソースで伸ばして使ってみました。

するとどうでしょう!

これが何とも絶品な美味しさで、ついついキリン一番搾りをグビグヒと煽ってしまった出来栄えとなりました。

お目の高い皆々様のお見立てをお待ちいたしております。

でも正解だからと言って、何か賞品があるわけでもありませんが!

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「天職一芸~あの日のPoem 298」

今日の「天職人」は、三重県四日市市の「出張髪結い」。(平成20年11月18日毎日新聞掲載)

小春日和の縁側で 舟こぐ母の髪を梳(す)く          黒髪自慢母なれど 見る影も無く雪化粧             目覚めた母は手鏡を ためつすがめつ眺めては          目を輝かせ紅を注(さ)す 乙女時代に立ち返り

三重県四日市市、ぱーま屋金太郎笹川店の主、井上修二さんを訪ねた。

昭和半ばの年末は、障子の張替えに始まり、年に一度の大掃除。

中でも御節の材料の買出しは、とにかく大変だった。

母に手を引かれ、人混みの中を行ったり来たり。

母は何軒も品定めの上、一円でも安い店へと買い回わった。

それが終われば二日もかけて御節作り。

いよいよ大晦日ともなれば、慌しさの隙を突き、母は髪結いへ。

年に一度の髪を結い上げ、モンペに割烹着という勇ましい姿で、行く年を見送った。

「あんな時代は、どこもそんなもん。だから大晦日の美容院はてんてこ舞い」。修二さんが懐かしげにつぶやいた。

修二さんは鹿児島県で2人兄弟の次男として昭和38(1963)年に誕生。

生後1歳の年に、家族揃って四日市市に移り住んだ。

高校を卒業すると、名古屋のぱーま屋金太郎本店で美容師の見習いへ。

「とにかく会社勤めが嫌で、調理師とかデザイナーとかに憧れて。で、たまたま髪型とかに興味があって、選んだんが今の美容師です」。

下働きをしながら通信教育で学び、21歳で美容師免許を取得。同じ年に兄と共に、暖簾分けで現在の美容室を開業。それから3年後には、岐阜県下呂市出身の美子さんと結ばれ、二男一女に恵まれた。

「昔、お客として来とったんですわ」。

それから平成2年に独立し、いよいよ一国一城の主に。

ちょうど世はまさにバブルの絶頂期。

誰もが浮かれ果てていた。

「工業都市の四日市は、どこの工場も人手不足。だからどんどん外国人労働者が増えて来て。特に7~8年前からは、ブラジルやペルーなど南米系の人らが増え出して。そこの公団なんか9割がブラジルの方ですに」。

そう言えば斜め向かいには、ポルトガル語の看板が掲げられた教会が。

「お客さんも時代と共にどんどん変わって。今は地元の方に交じって、南米系の方も来られます」。

修二さんは、時代の移り変わりを肌で感じ取っていた。

そんな2年前のある日。

客から相談が持ちかけられた。

「お客さんのお母さんが入院されて、シャンプーしに来て欲しいって。元々うちの店に通(かよ)とてくれた方が、身体悪してもうて来てくれやんやろかと」。

写真は参考

修二さんは仕事を終えると、依頼のあった客宅へと向かった。

写真は参考

「床に敷物して、カットクロス巻いて。店とは違うんで、ぼくがお客さんの周り360度をぐるっと回って。もともとお客さんやったで、好みのスタイルは知ってますし。終わるとカット代はいただきますが、出張料金は取りません。すると『悪いね、悪いね』って何度も感謝されて」。

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将来は息子に店を委ね、自分が高齢者の送迎をしたいと願う。

「髪は女性にとって何より大切なもんやし、髪を結って女を取り戻してもらわんと」。

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「天職一芸~あの日のPoem 297」

今日の「天職人」は、岐阜県八百津町の「栗金飩(くりきんとん)職人」。(平成20年11月11日掲載)

秋の里山色付けば 旬を求めて旅人が              八百津湊(みなと)に舟を着け 軒を覗いて品定め        物知り顔のご隠居が 八百津が生んだ栗金飩           茶巾絞りの薀蓄(うんちく)を 主相手に釈迦説法

岐阜県八百津町で明治5(1872)年創業の緑屋老舗、五代目栗金飩職人の白木功一さんを訪ねた。

岐阜県八百津町。

木曽川が東西に横たわり、大きく蛇行した川溜まりには、町の南端が突き出し、往時の舟溜まり跡としての名残がわずかに残る。

「大正の始め頃までは、坂を下った湊から舟で犬山へ。そっから電車に乗り換えて、名古屋の明道町や新道まで駄菓子を卸に行ったそうやわ。そんな頃は川舟も300艘ほどあったらしい」。功一さんは、白衣姿で上品な笑みをこぼした。

功一さんは昭和17(1942)年に、3人兄弟の長男として誕生。

「栗金飩は、美濃地方で家が一番初めに作り出したそうやわ。そこの大仙寺のご住職が、度々京都の本山へ出掛けられては、家の先祖に助言して下さり、大正初めには今の栗金飩が誕生しとったらしい。祖父の話によれば、大正時代の中津川には、まだ栗金飩がなかったそうやわ。現に中津川にある老舗の妹さんが、八百津に嫁いで見えて、よう家の栗金飩を買って贔屓にして下さったらしいで」。

昭和35年に高校を卒業すると、父の元で修業を始めた。

「まあ、まずはお一つどうぞ」。

何はともあれ、出来立ての栗金飩を頬張ってみる。

ほっこりとした栗の香りが鼻先を掠め、舌の上で茶巾絞りの栗が跡形も無く崩れ去り、栗のほのかな甘さが広がる。

確かにこれほど素朴で、力みのない栗金飩には、ついぞお目にかかったことが無い。

この美味さの秘訣は?

「近在で採れる栗しか使いませんから。地元の農家50軒で契約栽培し、1年分の25㌧を賄(まかな)ってます。栗の毬が開き、実だけが落ちた分だけ毎日拾い集めて使う、ただそれだけのことやて」。

すべては大地の摂理に委ね、我々はただその恵みに預かるだけ。

「今日入荷した栗は、明日、栗金飩に仕上げるんやて。素材の一番の美味さを損なったらいかんから」。

毎朝4時には、栗を洗って蒸し始める。

そして栗を半分に割り、中から竹べらで実を取り出し、鍋に砂糖を入れてながら30分ほど、煮詰めないように炊き上げる。

「香りが飛ばないように、ほっこり炊くのがこつやわ」。

炊き上がれば茶巾に1個20㌘の割合で取り分け絞れば完成。

1回の作業で約30㌔、それを1日に8~10回も繰り返す。

夕刻までに約7000個。

素朴な秋を彩る絶品が絞り上がれば、我先にと秋を求める客の元へと消えて行く。

功一さんは昭和44年に、美濃加茂市出身の美恵子さんと結ばれ、一男一女を授かった。

「長男がやがて六代目を継いでくれるもんやで」。

創業136年の暖簾と、代々伝え抜いた秘伝の味は安泰だ。

「秋の彼岸が近付くと、『栗金飩まだか?』って待遠しそうなお客さんの顔見るのが、本当に一番なんやて」。

老職人は誇らしげに客を迎えた。

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