「天職一芸~あの日のPoem 320」

今日の「天職人」は、三重県志摩市阿児町の「魚の行商人」。(平成21年5月12日毎日新聞掲載)

大漁旗が船に舞う 濁声(だみごえ)響く競り場では       目利き自慢が札を刺す 安乗港は朝未だき            鰹鯖鯵スルメ烏賊 母は軽トラ積み込んで           行って来るよと行商へ 女太助のお通りだい

三重県志摩市阿児町の魚の行商人、浜口小波さんを訪ねた。

写真は参考

「小波ちゃん。家はこの活きのいい、鰹一本丸ごともうとくわ」。

「わしとこはそやなあ、鯵にしとこか」。

三重県南伊勢町、五ヶ所湾に面した空き地。

軽トラックを、年老いた女たちが取り囲む。

「あんた手え痛(いと)て、鯵捌けんやろ。あんたとこの流し場貸してもうて、捌いといたろ」。

「ほうか、そりゃすまんなぁ。おおきに」。

小波さんは老女の家の流し場に陣取り、慣れた手つきで魚を捌く。

写真は参考

「歳入(としい)って来ると手が震えて、包丁握れやん人らもあるでな」。

小波さんは昭和22(1947)年、安乗港の漁師の家に長女として誕生。

中学を上がると直ぐに、地元の漁業関連の職に就いた。

「ちょうど真珠養殖が盛んでな」。

東京五輪を翌年に控えた年だった。

それから6年。

娘はいつしか大人の女へ。

「もの心ついた頃から知っとる、漁師の主人に恋心を打ち明けられて。まあ今思えば、中恋愛ってとこやさ」。

8八つ年上の武久さんと結ばれ、一男二女を授かった。

「行商に出るようになったんは、子どもらの手が離れるようになった昭和53年頃からやさ。お父さんが漁で持って来たもんを軽四に積んで、最初は面白半分で持って回ったんが始まり。とりあえず鰹持って、南島町に向けて走って行ったもんの、何処でどう売ったらええんかも分からん。そしたら親切なお爺さんが、漁協のマイク借りて『活きのいい鰹が入りました』って近所に放送したらええと。20本ほど持って来た鰹が、あっと言う間にみな売り切れてしもて」。

小波さんは見事、ビギナーズラックを引き当てた。

それからは毎朝、安乗、波切、和具の三港を巡り、旬の魚を仕入れ海沿いを走る。

写真は参考

「昔は山の方へも、行商しに出掛けてったもんやけど、山の人らは魚が無くても過せるんやさ。せやで魚は海辺へ持ってくのが一番や。その代わり、浜の人らは魚の鮮度がようわかるで、正直な商売せんと通用せん。『これは大敷もん(大敷網漁)か?』ゆうてな」。

今でも週に4日の巡回は欠かしたことが無い。

「お客さんらは親戚みたいなもんや。亭主の愚痴聞いてやったり、世間話したり。お陰でよおけお友達が出来たよ。こないだなんて、最初に漁協のマイクを教えてくれた、あのお爺さんが死んだと聞いてな、行商ついでに香典届けに行って来たんやさ」。

ところが平成2年、最愛の夫が51歳の若さで他界。

「まだ子育て中やったで、悲しんどる暇も無い。子どもらに金は要るで働かなかんし。お陰と商売は大忙しで、お客さんが待っとってくれたでな。せやで今思うと、どんだけお客さんに救われたことか」。

小波さんは、穏やかな海を見つめて笑った。

女一心太助の天秤棒にゃ、同じ目方の桶二つ。

一つは鮮魚の活きのよさ、もう片方にゃ、浜の女の深情け。

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「天職一芸~あの日のPoem 319」

今日の「天職人」は、岐阜県郡上市白鳥町の「民宿女将」。(平成21年4月28日毎日新聞掲載)

階段下の踊り場で 「晩御飯よ」と声がする           丹前羽織り膳に着きゃ 宿の娘が膝の上            「三月(みつき)も過ぎりゃ民宿は 半ば家族も同然」と     女将の酌にホロ酔えば 我が子恋しや里心

岐阜県郡上市白鳥町、民宿のさとう。二代目女将の佐藤奈々子さんを訪ねた。

「じゃあ行って来るわ」。

「おおきに。気い付けて」。

久しぶりに里帰りした倅が、再び都会へと帰るのだろうか。

走り去る車を、じっと見つめる年老いた母。

「何言っとるの。あれはお客さんやて」。奈々子さんが大笑い。

「家のお客さんはたいがい『行って来ます』って、帰って行きなるねぇ、一己さん」。

女将は調理場の夫に同意を求めた。

「ああ?おう、ほうやほうや」。妻の声が届かぬか、夫は適当な相槌で煙に巻く。

奈々子さんは昭和16(1941)年、旧高鷲村で4人姉弟の長女として誕生。

だが物心が付くか付かぬかの3歳で、父を旧ビルマの戦地で失った。

「顔さえ思い出せんのやで、抱いてもらった記憶なんてねぇ」。

中学を出るとすぐ農協に勤務。

3年後には役場へと転職。

そこでも3年目を迎え20歳が過ぎた。

すると叔母から見合いの話が。

「裸電球の下でお見合いしたんやて。叔母が『奈々子、オリ(俺の方言)が若かったら、絶対一緒になった』って言いないてねぇ。背も高くて顔もいいし、小林旭みたいでそりゃあもてたらしいよ」。

静まり返った調理場に咳払いが一つ響いた。

昭和37年、白鳥町の小林旭こと一己さんの元に嫁ぎ、3人の男子を授かった。

ところが……。

「2目の子が生まれた時やわ。どうもコレが出来たみたいで」。奈々子さんが小指を逆立てた。

「それで子どもら連れて、実家へ20日ほど帰ったったんやて」。まるで他人事のように、大きな声で屈託無く笑い飛ばした。

「今でも気に入らんことがあると、たまにあの事をチクチクッと言ったるよ」。

民宿の創業は、昭和26年。

「最初は、油坂スキー場の民宿として、冬場の土日だけ。嫁に来た頃は、夜中に竈(くど)でご飯炊いて、スキー客のお昼用におにぎり握ったもんやて。水は冷たいし、腕まで真っ赤に赤切れて」。

週末には観光バスが、愛知からのスキー客をこの地へと運んだ。

「ちょうどここは、九頭竜へ向かう交差点にあるもんやで、店先にパンや牛乳を置いとったんやわ。そうしたらダム工事のトラックの運チャンが、パンと牛乳で一服しもって『お母ちゃん、ここでご飯したら』って。田舎のもんしかよう作れなんだけど、それから細々と食堂を開いたんやて。その内に九頭竜から出る五色石を仕入れに、造園屋さんらが来るようになって。そしたら今度は泊めて欲しいって」。

昭和43年から通年での営業が始まった。

「この辺はダムの工事で、長期滞在が多くてね。長い人やと1年近く。だからそんな人には『一緒にご飯食べよう』って声かけてあげて。花見に行ったり、一緒に洗濯物干したり。まるで家族が増えたみたいで楽しいよ」。

一己さんお手製の「鶏ちゃん」

奈々ちゃん女将の民(たみ)の宿は、三つ指で傅(かしず)きはしない。

だがそれ以上に、値千金の笑みを持って、何人(なんぴと)をも出迎えてくれる。

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「天職一芸~あの日のPoem 318」

今日の「天職人」は、名古屋市西区の「本田マコロン本舗主」。(平成21年4月21日毎日新聞掲載)

放課後告げるチャイムより 先を競った畦の道          どんなおやつか腹が鳴りゃ 蛙も慌て飛び跳ねる         土間に見知らぬ履物が 客の茶請けは?上物か?         流しの隅で菓子箱を 覗きゃマコロンやったねホイ

名古屋市西区、大正13(1924)年創業の本田マコロン本舗。二代目主の本田輝宜(てるたか)さんを訪ねた。

「この人とデートすると、いっつもマコロンの匂いがしてねぇ。オーデコロンみたいにウットリするような、洒落たもんならええのに」。妻の言葉に夫は苦笑い。

「私の田舎は三河湾の佐久島で、この人が高校の友人7人と毎年キャンプに来とったわけ。高2の時かな?私が海水浴場で貸しボートのバイトしとったら、この人が水道の場所を聞きに来てねぇ。それがきっかけ」。

妻は高校を卒業すると、名古屋の短大へ。

「昔は私がこの人に夢中で追っ駆け。でも今はその逆」。

17歳の夏に芽生えた恋は、7年後に結ばれ二男を授かった。

「今になって思うわ。何で選り取り見取りに7人も男がおったのに、この人にしたんやろかなあって」。

妻はコーヒーと自慢のマコロンを差し出した。

昔ながらの半円球。

こんがり焼き上がった焦げ茶色。

「昔は高級菓子。でも今は駄菓子だわ」。夫が寂しげにつぶやいた。

確かに他の菓子に比べ値段が張り、中々買って貰えなかった代物(しろもの)だ。

懐かしさに一口頬張って見る。

カリッとした表面を噛み砕けば、後はサクッと崩れ出すような食感。

ピーナッツの香ばしさと、上品な甘味が広がる。

「私が子どものころ遠足行く時なんて、6粒だけしか持たせて貰えんくってねぇ。だで嫁に入ったらようけ食べれるわって思ったもんだわ」。

昭和の下町風情を今に残す木造工場。

小路が突き当たる屋根には、町内の安全を屋根神様が見守る。

輝宜さんと妻幸江さんの開口一番。

人懐っこい妻と寡黙な夫の掛け合いに、すっかり引き込まれた。

輝宜さんは昭和25(1950)年、次男として誕生。

高校を出るとそのまま家業に入った。

袋詰めに配達の毎日、やがて22歳で製造へ。

「フランスの焼き菓子マカロンを真似て、父が昭和の初めに作り出したのが和製マコロン。でも肝心の商標を『本田マコロン本舗』で取ってまったもんで、マコロンだけを名乗る類似品は規制できん。そんだで最盛期は名古屋に3軒もあったって」。

昭和の庶民にとって、ちょっと高嶺の花であったマコロンの製造は、落花生の選別に始まる。

まず木屑・鬼皮・小石を取り除き、渋皮を炒り一晩寝かす。

翌日釜で再び炒り、渋皮と芽を落とし粉砕機で細かく潰して、また一晩寝かせる。

翌日、混合機に砂糖・小麦粉・卵・マーガリン・ベーキングパウダー・シナモン(昔はスピリッツを使用)を一緒に入れ、練り上げる。

それを球断機で切り分け表面に粉を塗し、鉄板の上に並べて長さ6間(約10.8㍍)のトンネル罐で焼き上げ、再び粉を振り、缶に入れ一晩寝かせば完成。

昭和の庶民の味マコロンは、この工場で3泊4日じっくり育まれ、平成の世へと生まれ出でる。

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「天職一芸~あの日のPoem 317」

今日の「天職人」は、三重県伊勢市の「伊勢音頭最中職人」。(平成21年4月14日掲毎日新聞載)

神と民とが入り乱れ 神都華やぐ伊勢音頭            歩き疲れて立ち止まる 妻の目当ては伊勢最中         「餡が溢れんばかりだわ さすが紅谷ね。いい仕事」       どこかで聞いた台詞(せりふ)真似 妻は二個目を平らげた

三重県伊勢市、伊勢音頭本舗「紅谷(べにや)」。三代目、最中職人の辻幸保さんを訪ねた。

「こないだも、子どもらと歩いとったら『年金いくら貰(もう)とるの?』やと。頭もツルピカやで、老けて見られてもしゃあないけど、あんまりやさ」。幸保さんは、見事に照り返る頭部を撫で回しながら笑った。

「『この甘さがたまらん』ゆうて、ご贔屓(ひいき)にして下さるご住職がおられましてな。『葬儀の最中は、紅谷やないとあかん』って。こないだなんかこの頭で配達に行ったら、坊(ぼん)さんと間違われてえらい目に合うとこやったんやさ」。

幸保さんは昭和36(1961)年、3人兄妹の長男として誕生。

「元々魚屋やったんを、祖父の兄が潰してもうたんさ。花街で遊びすぎてな。それで昭和10年頃から、紅谷の前の屋号の扇月(せんげつ)清風堂をここに開業したんや。1階が和洋菓子の販売で、2階がパーラー。当時はもの凄いお客さんで、天井が抜けるほどやったらしい。でもあかんわ。戦争が激しなって砂糖も手に入らんで」。

戦後は、紅谷と屋号を代え再出発。

昭和20年代半ばには「伊勢の銘菓も数あれど、一に指折る伊勢音頭」と、紅谷の最中は歌に詠まれる人気に。

昭和58年、大学を出ると東京製菓学校で2年間学び、家業に就いた。

跡継ぎの目途も立ち、それ今度は嫁取りとばかりにお膳立ても整う。

早速見合いの席で、固唾を飲んで相手の到着を待ち侘びた。

だが一目顔を見合わせた途端、ビックリ仰天。

「アレ?小学生の頃、ようおちょくったった子やないやろか。それが元で、この子の兄貴によう虐められたけど。でも知らん間に、えらい別嬪さんになってもうて」。幸保さんの心は一瞬で釘付け。

昭和61年、ゆかりさんと結ばれ、一男二女を授かった。

「不景気になると最中がよう売れるんさ。甘いもん食うて、せめて気持ちだけでもほっとしたいんやろか?今しは、どこも糖分控えめの3等割が主流やけど、家は今でも同等割のまんまや」。

幸保さんは包み紙を開け、最中を2つに割って差し出した。

黒く艶光りする餡が、最中の種(餅子を搗いて伸ばした煎餅風の皮)一杯に押し込まれている。

寸分の隙間も無く、種から餡が飛び出すほどだ。

そのまま齧り付けば、濃厚でまったりとした甘さが、口中を覆い尽くす。

このまま呑み込むのが躊躇われる美味さだ。

伊勢音頭最中は、製餡所に依頼して茹で上げた国産小豆に、1日掛けて同等割の砂糖を混ぜ上げる作業に始まる。

2日目は寒天と水飴を加え餡の仕上げ。

後は最中種に、甘味をたっぷり身にまとった餡を、溢れんばかりに詰め込めば、昭和初めから庶民に愛される続ける最中の完成。

亡き母は、善哉(ぜんざい)をおかずに飯を食うほどの餡子好きだった。

日頃の無沙汰を侘び、命日こそは紅谷の最中を携え、ご機嫌伺いにでも出向くとするか。

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「天職一芸~あの日のPoem 316」

今日の「天職人」は、岐阜市加納八幡町の「茶店の団子職人」。(平成21年4月7日毎日新聞掲載)

家族総出で川堤(かわづつみ) 花見の宴大賑わい        そこもかしこも赤ら顔 湯呑み叩いて座敷唄           花見弁当食べ飽きて 兄と堤で蓬取り              母が案じてお迎えに 花見団子を振りながら

岐阜市加納八幡町の「だんごや」、四代目団子職人の森島豊美(とよみ)さんを訪ねた。

幕末の中山道を彩った、あの皇女和宮の輿入れ行列は、延べ50㎞にも及んだとか。

道中和宮は、加納宿本陣に宿泊し、中仙道を江戸へと下った。

その宿場外れに、江戸末期から続く茶店の団子屋がある。

「今も駅名にも茶所(ちゃじょ)という名があるくらい、茶店がよおけあったそうやわ。昔は、団子から餅菓子、天麩羅や焼き芋も出しとったらしい」。その名も「だんごや」の主、豊美さんは、店先で団子を焼く妻を盗み見た。

「十年前までは、テーブルも置いたったんやて。でも暇持て余しとるお婆さんなんかやと、団子一本で話しが長なるでかんわ」。夫婦は顔を見合わせ笑った。

豊美さんは昭和24(1949)年、次男として誕生。

高校を出ると直ぐ、他所の和菓子屋で修業に。

それから4年、職人としてこれからという矢先。

「父がもう歳やで帰って来いと。団子屋は、1日中立ち仕事で体力がいるもんやで」。

以来、日本の四季を彩る歳時記に合わせ、季節感漂う団子や餅で庶民の小腹を満たし続けた。

昭和54年、同県羽島市出身の恵子さんを妻に迎えた。

「昔からみたらしだんごは甘辛いもんやと思っとって、ここのを口にしたらお醤油味だけやもん。最初は『不味い!』って思ったけど、1本食べたらもう病み付き」 。

今が旬の花見だんごは、米粉をぬるま湯で手練りすることに始まる。

写真は参考

「それをボチ(生地の塊)にして、1時間蒸してから搗くんやて」。

次にボチ1に対し2の割合で砂糖を混ぜ、生地が熱いうちに手で練り込む。

「冷えると生地が締まってまうで。でも熱いで手なんて真っ赤やて」。

15分ほど手練りし、ボチを大きめに切り分け、再び40分ほど蒸し、塩を振りながら搗く。

次にボチを3等分にし、まず白を搗き、食紅を入れて赤を搗く。

最後に蓬を入れて緑を搗き、団子状に丸め3色を串に刺せば、昔の味と寸分違(たが)わぬ花見だんごが出来上がる。

「ここのはみんな美味しいよ。それに安全やし。保存料も添加物も入っとれせんで。何と言っても粉がええでねぇ。ほんだで噛んどると、後から甘味が出てくるんやて。奥さん、わし、おだんご7本包んで。それとあんころ餅と草餅も3個ずつ」。

客の老婆は団子自慢をひとしきり。

そう言われれば、確かに次々に訪れる客は、何はともあれまずみたらしだんごを所望する。

中には離乳食にと買い求める客もあるほど。

「団子作って37年。でも満足行く出来は、月に3~4回やわ。毎日同じ粉と水の量やに、季節で異なるんやで。団子も生きもんやでなぁ」。

五代目はと問うた。

「子宝を授からなんだでなぁ」。夫はこっそり妻を見やった。

「でも近所の子が『ぼくが後継ぐ』って」。妻が傍らで笑い飛ばした。

この世に角張った団子は無い。

どんな時でも団子のように、人の世もまあるく、ただ、まあるくありたいものだ。

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「天職一芸~あの日のPoem 315」

今日の「天職人」は、名古屋市中区大須の「芝居小屋主」。(平成21年3月31日毎日新聞掲載)

母の密かな愉しみは 年に一度の旅芝居             贔屓(ひいき)役者の幟旗(のぼりばた) 小屋にはためきゃ気も漫(そぞ)ろ                          朝も早よから鏡台で 鼻歌混じり紅を注す            まるでお盆と正月が 一緒のような忙(せわ)しなさ

名古屋市中区大須、七ツ寺共同スタジオ小屋主の二村利之さんを訪ねた。

足の踏み場も無い小さな古本屋。

主人はさっきから、うら若い女性客と話し込んでいる。

女性の方は劇団員風で、来年の公演日程を相談しているようだ。

「お盆だったら、他の借り手もどうせないから、ちょっとは安くしたげられるよ」。

何と商売っ気のないことか。

公的な劇場では、いくら借り手がない日とはいえそうは行くまい。

「この猫飛横丁(ねことびよこちょう)って古本屋が、小屋の連絡事務所みたいなものでね」。利之さんは、人懐こそうに笑顔を向けた。

利之さんは昭和20(1945)年5月、空襲警報が連日鳴り響く中で産声を上げた。

高校生になると新劇、そして大学へ進むとアングラ芝居(アンダーグラウンド演劇)の黒テントや唐十郎の紅(あか)テントなど、前衛的な演劇に傾倒して行った。

その後大学を出ると、24歳で名古屋タイムズ社の文化部記者に。

「本当は芸能記者志望。でも、そんな都合のいい仕事ばかりじゃなくってねぇ。当時の文化部は家庭欄の担当で、レジャーから趣味までとにかく幅広く、自分で選り好みなんて出来なくって。他の記者と違って、あたしは器用にあれこれと取材がこなせなくってね」。

そんな頃仕事の片手間に、テント劇団の公演準備を裏方として手伝った。

「野外会場を借りる手配をしたり。新聞社の名刺を出すと、相手も信用してすんなり貸してくれてねぇ。でもそれが会社にバレちゃって」。

26歳でそそくさと退社。

「東京なんかじゃ小劇場運動が興って、小さなスタジオが出来てね。じゃあ、そんなスタジオ作るかって」。

さっそくトラックの大型免許を取得し、資金稼ぎに奔走した。

「でもそんな簡単に資金なんて出来るもんじゃない」。

しかし利之さんの前に、良き理解者が現れた。

「今のスタジオの大家さんが、一代で財を築いた方で『権利金も敷金もええわ。貸したげる』って」 昭和47年、ついに大須の下町に前衛文化の拠点が華開いた。

「芝居を見ながら飲み食いが出来て、劇団員の寝泊りも出来る小屋。それが七ツ寺共同スタジオ。芝居が跳ねて役者と共に酒を酌み交わすのが唯一の楽しみだった」。

やがて、つかこうへい、東京ボードビルショーなども来演した。

昭和56年、スタジオに出入りしていた文学少女のむつ子さんと結ばれ、一女を授かった。

「若い役者たちから母親のように慕われてねぇ。時には厳しく評論したり、とにかく面倒見がよくって」。

しかし5年前、脳溢血に倒れ還らぬ人となった。

利之さんは亡き妻を偲びながら、今も小屋を守り続ける。

明日の役者や演出家たちは、自らの才能を信じ、台詞の一語一句に己(おの)が魂を吹き込む。

利之さんの37年は、そんな役者を我が子のようにそっと見つめ続けることだった。

誰よりも芝居に恋した、男のけじめとして。

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「天職一芸~あの日のPoem 314」

今日の「天職人」は、三重県南伊勢町贄浦(にえうら)の「からすみ職人」。(平成21年3月24日毎日新聞掲載)

隣の家のおばちゃんが 里の土産とカラスミを         「こんなに美味いものはない」 そういいながら差し出した    母の居ぬ間に妹と ちょっと端っこ齧(かじ)ったろ      「兄ちゃんなんや磯臭い」 「塩味効いたういろやろ」

三重県南伊勢町贄浦、からすみ加工販売のやまきち。三代目からすみ職人の中村和人さんを訪ねた。

「秋口になると昔はボラ網漁ゆうてな、山の上から見張りしとってさ。ボラの群れが来ると、港に向かって合図すんやさ。そうすると漁師らが足の速いミトブネで群れを追い駆け、石ぶっつけてボラ網へ追い込むんさ」。和人さんは、妻の淹れたコーヒーを啜った。

「ボラで一番金んなんのはからすみやけど、身も美味いんやに。春は刺身にチラシ寿司、それに塩焼きや唐揚げ。中でも一番はシャブシャブ。ところが今しは昔と違(ちご)て、身が市場で売れやん。四日市公害が問題んなって以来、臭いゆうてな」。

和人さんは昭和32(1957)年、3人兄弟の長男として誕生。

大学を出ると名古屋のスーパーマーケットに就職。

青果部門を担当した。

ところが昭和58年、母がクモ膜下出血に倒れ急ぎ帰郷。

そのまま家業に従事することに。

母の病を案じた帰郷とは裏腹に、密かな想いも認(したた)めていた。

その年、学生時代からの憧れだった、美人で3つ姉さんのひで子さんに恋心を打ち明け、見事本懐を遂げ結ばれた。

その後、双子の男子とさらに弟が誕生。

「ぼくが1800gで次男が1300g。大きなってお父さんとお母さんに聞いたら『お前らアオリ烏賊みたいにしとったでぇ』だって」。

双子の兄が大笑い。

何とも明るい一家である。

作業場はまるで家族の居間のようだ。

からすみ作りは、10月初旬から12月初めが勝負。

「ボラが10月頭から11月の初旬にかけて上って来るでな」。

昔は浜でもボラが大量に上がった。

「昔のことやで、雄雌まとめて船ごと全部で10㌧ほど買うたるんやさ。せやで当りも外れもごちゃ混ぜ。酷いと雌が3割に雄が7割とかで、勘定合わせんわさ」。

今は雌だけ選別されたものを買い入れる。

「腹触ってみるとようわかるに。ちょっと押しただけで精子が出るのが雄やで。でも中にはオカマみたいなんもおるんやさ」。

高級珍味からすみは、まずボラの腹を割くことに始まる。

「この人と違てな、義父は腹割くのがへたくそやってな。せやでいっつも卵まで傷だらけ。しかたないで義母が、傷を絹糸でよう縫うとったもんやに」。

ひで子さんがそう言いながら笑った。

「左手の人差し指の腹に右手で出刃の背を添え、指を先に押し出しながらスーッと割くのんがこつやで」。

次に血を抜き、塩漬けにして常温で2~3日保存。

続いて水に浸けては引き揚げ、2~3日かけて塩出しを繰り返す。

「塩が効き過ぎると固となるで、芯を残さんようにな」。

そして仕上げは板の上に並べ、10日ほどたっぷりと天日干し。

「同じ卵でも、別嬪さんもおりゃあ、18の生娘もお婆もおるで。形も味も全部違うんやさ」。

職人技と自然が育てたからすみは、艶やかな橙色(だいだいいろ)に色付き輝く。

贄浦に浮かぶ茜雲のように。

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「コロナで規模は縮小されても、三寺まいりは祈りの静かな祭典!」

来たる1月15日は、飛騨市古川町の「三寺まいり」です。

しかし今年は、コロナの影響もあり規模縮小とのことです。

でも地元飛騨古川の方々にとってこの「三寺まいり」は、何があっても無くとも、200年以上も前から続く独特の伝統風習。

親鸞聖人のご恩を偲び、町内の3つの寺、円光寺・真宗寺・本光寺を詣でるならわしであり、掛け替えのない静かな雪闇に、そっと和蝋燭を灯し手を合わせ祈る祭典です。

その昔野麦峠を越え、信州へ糸引きの出稼ぎに行った年頃の娘たちが、この日は着飾り瀬戸川の川べりを歩き、三つの寺に手を合わせ良縁を期したそうです。

それがいつしか「嫁を見立ての三寺まいり…」とまで、飛騨古川の小唄にも唄われるようになり、縁結びが叶うおまいりとして全国に知られていったものです。

ぼくは仮初めにも、未だ飛騨市さんから「観光大使を辞退願いたい」とのお言葉もありませんので、厚かましくも飛騨市さんに何のご恩返しも出来ないまま、「飛騨市観光大使」を名乗らせていただいております。

大恩ある飛騨市の皆々様に申し訳ない限りです。

せめて今ぼくに出来ることは、ぼくの唄の「三寺まいり」をブログにアップさせていただくくらいです。

でもいつか、いつの日か、飛騨市の皆様のご恩に報いるつもりです。

「三寺まいり」

詩・曲・歌/オカダ ミノル

瀬戸川に 明りが燈る 雪闇浮かぶ 白壁土蔵

 千の和灯り 千の恋 千の祈り 白い雪

飛騨古川 三寺まいり 娘御たちの 願い叶えや

瀬戸川に 灯篭流し お七夜(しちや)様に 掌を合わす

 千の和灯り 千の恋  千の祈り 白い雪

寒の古川 三寺まいり 娘御たちに 縁紡げや

 嫁を見立ての 寺詣り 小唄も囃す 白い息

飛騨古川 三寺まいり 娘御たちの 願い届けや

どうかどうかコロナを一日も早く乗り越え、再び皆様と共に飛騨古川の「三寺まいり」に詣でることができますように!

今年も遠くからではありますが、飛騨古川の地に向かって手を合わせたいと思います。

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「天職一芸~あの日のPoem 313」

今日の「天職人」は、岐阜県下呂市金山町の「福引せんべい職人」。(平成21年3月17日毎日新聞掲載)

紅白あとの除夜の鐘 年に一度の夜更かしも           この日ばかりは咎(とが)め無し お炬(こた)で家族水入らず  御節お雑煮初詣で 参道脇の駄菓子屋で             福引せんべいねだっては どれどれどれにしましょうか

岐阜県下呂市金山町、創業昭和6(1931)年の福引せんべい「三盛(みつもり)屋」。三代目主の土屋清春さんを訪ねた。

写真は参考

プニュ~ッ、プニュ~ッ。

妙な音のする作業場を覗き込むと、時間が昭和のまま止まっていた。

タイル貼りの焼き台を挟むように、夫婦が寡黙にせんべいを焼き続けている。

年季の入った焼き台は、六面柱が横に寝た状態で設置され、六面の鉄板を手動で回わしながら順に焼き上げるよう工夫されている。

「だいたい六面がグルグルッと1回りすると、せんべいが順に焼き上がるようになっとるんや」。

そう言いながら男は、1番上に回ってきた鉄板の上蓋を跳ね上げ、生地の入った四角い受桶(うけおけ)ごと、レールを這わせ鉄板の上へと導く。

桶の底に開いた2つの穴から、鉄板の上へと生地を器用に流し込む。

そして跳ね上げた鉄板の上蓋で生地を挟んで閉め、せんべいがプニュ~ッと鳴き声を発すれば、六角柱の焼き台を手前に回す。

すると対面の妻が1回りした鉄板から、焼き上がったせんべいを取り出す。

見事に卒の無い作業手順だ。

そしてせんべいがまだ冷めやらぬうちに、生地の四辺を重ねあわせるように緩やかに折り曲げ、こんもりとした三角形へと形成する。

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「この中にお御籤(みくじ)や玩具を入れ、封をするように包み込んみ、後は自然に乾燥させたら完成やわ」。

福引せんべいは、郡上の正月に欠かせぬもので、縁起菓子として古くより親しまれ続けた。

三角形の三隅は、大河ドラマではないが「天・地・人」と定められ、自然の恵みに感謝し家族の幸せを祈るものだとか。

清春さんはこの家の長男として、東京五輪に日本中が沸いた昭和39年に誕生。

高校を出ると名古屋の専門学校へ。

そして昭和59年、名古屋の警備会社にエンジニアとして入社。

それから2年、恵子さんと名古屋に所帯を構え、二男一女をもうけた。

「26歳の時やったわ。木工屋の親戚の爺さんから『お前が社長やぞ、継いどくれ』って誘われて。それで地元に帰って工場まで建てて。木工なんて免許もなんもいれへんもんで」。

ところが不況の煽りで元請けが倒産。

ついに見切りを付け家業へ。

「小さい頃から祖父や父の姿を見とったで、後は見よう見真似やわ」。

福引せんべいの命は、生地と焼き。

祖父の代から使われ続ける木桶で、小麦粉と砂糖に重曹を混ぜ水溶きする。

それを柄杓(ひしゃく)で汲み上げ、笊(ざる)でダマを漉(こ)し受桶へ。

後は熟練の勘だけが頼り。

「六面ある鉄板にも、みんな癖があるんやて。だでそれぞれに番号付けといて、癖見て焼かんとな」。

どの福引せんべいも一見同じような出来栄。

だがどれ一つとっても、焼き上がりの顔も違えば、こんもり膨らんだ三角形の形も異なる。

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機械製造ではない手作りの証だ。

職人はただただ幸あれと願いを込め、今日も手捻りで福を包み込む。

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「天職一芸~あの日のPoem 312」

今日の「天職人」は、三重県志摩市的矢の「的矢牡蠣職人」。(平成21年3月10日毎日新聞掲載)

牡蠣殻割れば故里の 磯の香りが立ち込める           母から届く小包は 凍てつく冬のお御馳走(ごっつお)      そのままジュルリ吸い込めば 浜の懐かし味がする        母なる海が育んだ 伊勢御饌(みけ)つ国的矢牡蠣

三重県志摩市的矢で大正8(1919)年創業の、清浄的矢牡蛎「佐藤養殖場」。四代目の佐藤文彦さんを訪ねた。

幾重にも突き出た岬が、的矢湾をやさしく抱(いだ)く。

凪いだ海に200基もの筏がたゆたい、海鳥たちがゆるりと舞い飛ぶ。

「何とも言えやん、ええ景色ですやろ。爺さんはこの海を誰よりも愛し、この海に一生を捧げたようなもんですんさ」。文彦さんは、眩い陽射しを照り返す海を眺めた。

文彦さんは昭和44(1969)年、東京都新宿区で長男として誕生。

大学を出ると生協へ入社。

トラック一杯に生鮮食料品を積み込み、毎日販売に明け暮れた。

「『就職するなら、一生勤めるつもりで探して来い』って言われ、そのつもりでおったのに。3年したら、元々体の弱い父が『跡継いでくれ』って」。

平成7年、祖父が生涯を捧げた的矢の海へ。

佐藤養殖場の歴史は、「垂下式牡蛎養殖法」を開発し、昭和28年に紫外線で海水を殺菌する浄化法で特許を取得した、祖父忠勇(ただお/故人)の人生そのものでもあった。

忠勇は、大学の水産科で養殖とプランクトンを学び、やがて養殖真珠に取り組まんと的矢へ。

しかし養殖真珠の壁は厚く、挫折を繰り返した。

一人また一人と、養殖真珠を当てこすった山師が去る。

しかし忠勇はただ一人、暮れなずむ的矢の海を眺め続けた。

その時、朽ち果てた真珠筏に目が奪われた。

そこには何と牡蠣の稚貝が付着。

この日から、的矢牡蠣の歴史は刻まれ始めた。

的矢牡蠣の養殖は、宮城県松島から10月末に稚貝を仕入れることに始まる。

「夏に牡蠣が抱卵する頃、種とり言うてなあ、海中にホタテ板(貝殻)を沈めて、稚貝がくっつく習性を利用すんやさ。だいたい大潮から大潮までの2週間ほどかけて。小指の爪ほどに成長した種牡蠣を仕入れて、的矢の筏に吊り込むんさ」。

翌年秋口には、ホタテ板1枚に20個ほど牡蠣が成長。

それを一旦引き上げ、選り分けて牡蠣籠に移し、再び海中へと沈める。

そのまま1~2ヶ月もすれば、色艶もよく大きく育ったプリプリの的矢牡蠣が誕生する。

「毎年10月から出荷用の牡蠣を水揚げして、爺さんの特許浄化法で、一昼夜かけて紫外線で滅菌した海水シャワーを浴びせ続けるんやさ」。

出荷は3月末まで続く。

「昔は1年に300万個も売れたけど、今はその半分やなあ」。

文彦さんの「清浄的矢牡蛎」は、鮮魚市場には出回らない。

「生牡蠣は鮮度が命やで、爺さんの代から、相対の直販専門やわ。有名ホテルや料亭、あとは全国各地の、先代からの個人のお客様」 。

文彦さんは平成18年に地元の昌美さんと結ばれ、湾を見渡せる場所に新居を構えた。

「的矢の海は、爺さんの研究通りプランクトンが豊かやで、日本一の牡蠣を育ててくれるんやさ」 。

文彦さんの伊勢訛りも、今ではすっかり板に付いたようだ。

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