9/29の「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」正解はこちら!

「広東風のなぁ~んちゃって海鮮朝粥」

昨年7月の夏休みに訪れた香港。帰国日の翌日には、ぼくが滞在していた九龍の尖沙咀のメインストリートで、ついに大規模な民主化デモが行われたものです。

つまりそう考えると、自由だった最後の香港のラストシーンに、ぼくは居合わせたことになったのです。

そしてその後は、新型コロナが!

香港滞在中の朝は、尖沙咀の裏路地を巡っては、色々な店の朝粥を味わったものです。

そこで胃腸にも優しい朝粥を真似てみようと試みたのが、この「広東風なぁ~んちゃって海鮮朝粥」でした。

まず具材に使えそうなものは無いものかと、冷蔵庫の中を眺め回し、油揚げ、万能ネギ、冷凍のブラックタイガーを取り出して見ました。

油揚げは賽の目切りにして、カリッカリになるまで油で素揚げしておきます。

そしてブラックタイガーは、殻を剥き背ワタを取り、4等分に切り分け、しばらく紹興酒に浸しておきます。

次にお米をといで炊飯器に入れ、おかゆモードの目盛まで水を張り、鶏がらスープの素と紹興酒に浸した海老を紹興酒ごと入れて、お粥モードで炊き上げます。

炊き上がったら丼に盛り付け、小口切りの万能ネギと、カリッカリに素揚げした油揚げを上からパラパラッと振り掛ければ完了。

わが家には残念ながら、松の実や干し海老に干し貝柱、そしてキクラゲなんぞが底を突いており、使えませんでしたが、それらの残り物があったら、炊飯器に投入するだけで、美味しい風味と味わいが醸し出せるはずです。

それと今回は大いなる手抜きで、炊飯器のお粥モードで炊いたため、お粥のスープがほとんどなくなってしまったのが、唯一の心残りでもありました。

時間と手間を惜しまず、鍋で生米からお粥に仕上げれば良かったと、悔やまれてなりませんでしたが、とっても胃腸には優しい朝ご飯となりました。

不思議にもお米のパワーが全開で、すっかり夏バテ気味だった胃腸の調子も元通りとなりました。

今回もお目の高い皆々様には、すっかり見抜かれてしまったような、お見事なお答えもお寄せいただけました。

ありがとうございました。

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「天職一芸~あの日のPoem 228」

今日の「天職人」は、三重県四日市市の「舞踏衣装屋」。(平成十九年四月十七日毎日新聞掲載)

華麗なドレス靡(なび)かせて 優雅にワルツ君が舞う  ステップだけを目で追って 心は君と踊り出す     ホールの隅で黙々と 慣れぬステップ繰り返す     「踊りましょう」と突然に 舞姫の手に身を委(ゆだ)ね

三重県四日市市、舞踊衣装専門店のハイファッション光。三代目の店主、長谷川進さんを訪ねた。

写真は参考

「日頃はよう着やんような派手な服着て、人前で優雅に踊るんやで。そりゃあライト浴びて緊張感が出るし。皆に見られとる思(おも)たら、心が高揚して来ますやろ。一日中テレビの前で、ボーッとしとったら老いてまいますやん」。進さんは豪快に笑い飛ばした。

「祖父が端切れや糸偏関連の商いを始めたんやさ。それから戦後は、既製品の婦人子供服へ」。

昭和二十九(1954)年、進さんは三人兄弟の長男として誕生。

やがて地元の工業高校へと進んだ。

「当時、鉄鋼関係が好況やったんで、鉄の勉強をしようと思とったんやさ。そしたら、あれよあれよと言うとる間に鉄鋼が冷え込んでしまって、洋服の勉強に切り替えたんさ」。

高校を出ると岐阜市の婦人服メーカーに就職し、生産部門を担当した。

「ファッションは季節が一般と反転してますやろ。せやで大変やったわ。呆れるほど暑っつい時に、冬場のウールを汗びっしょりかいて運ぶんやで」。

二年後、やがて家業に戻った時のためにと、岐阜市内の婦人服小売店に職場を移し修行を重ねた。

翌、昭和五十(1975)年。進さんが二十一歳の年に父親は病に倒れ、急遽暇乞いをして家業に舞い戻った。

「まだ若造やったし、父の病気が平癒するようにと、神頼みの教会通いやさ」。

やがて神頼みに新たな願いが加わった。

いつしか教会長の娘に惹かれていたからだ。

「私らの業界は派手やけど、彼女は保母をしていていつも質素で、おまけに親切で優しかったんやさ」。

昭和五十六(1981)年、輝美さんと結ばれ一男一女を授かった。

間も無く訪れたバブル景気に乗り、事業は拡大の一途。

最盛期には十三店舗を構え大忙しの毎日が続いた。

「とにかくよう売れた。百貨店がよう売らんような、ちょっと際どい物を売るんやさ。ディスコのお立ち台娘のボディコン系とか。それでもあかんわ。バブルが弾けてもうて。大手百貨店が入って賑わっとったビルも、ビルごと閉店してまうんやで」。

後退する景気の余波で、いくつかの店は閉店に追い込まれていった。

「この店は元々ダンス好きやった母親が、ダンスやカラオケ用の衣装を専門に扱ってましたんや。私も何かしら特徴のある店作りしてかんとと思(おも)とったとこやったもんで、次第にこっちに力を入れるようんなったんさ」。

写真は参考

普段着からは到底かけ離れた、煌びやかな非日常的な原色の衣装が所狭しと並ぶ。

「試着して出てきて『ねぇねぇ見て見て』って言う人もおれば、ダンスやっとる人は鏡みながらステップ踏んでみたり。似合(にお)とるもんは似合とると言えるけど、似合とらんとはやっぱ言えやんで、別のもんを着てもらうんやさ。それで『こっちの方がもっとよう似合とるわ』ってな具合に、上手いこと誘導せやんと」。

進さんは娘の貴子さんと、ラテンのペアを組んで三年になる。

写真は参考

「せやけどもうじき娘が嫁ぐもんやで、相手失ってまうんやさ」。

貴女もエプロンをドレスに着替えて。

さあ、シャルウイダンス!

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「天職一芸~あの日のPoem 227」

今日の「天職人」は、岐阜市美殿町の「鮎菓子職人」。(平成十九年四月十日毎日新聞掲載)

蓮華畑の向こうには 農家の庭で泳ぐよな        緋鯉に真鯉風に揺れ 菖蒲の風呂に柏餅         長良の夏を告げるよに 鵜飼提灯火が燈りゃ       鮎菓子求め人の列 手土産提げて千鳥足

岐阜市美殿町、慶応元(1865)年創業のおきなや総本舗。五代目鮎菓子職人の林昌尚さんを訪ねた。

「和菓子屋は和菓子作りだけに精出しとればそれが一番なんやて。あれもこれもと欲出して、和洋折衷のような菓子作るようになったら終い。客の味覚の変化には敏感やないといかん。けど、売れるからと時代に阿(おもね)って、洋風の和菓子作りに走ったらいかん。長男の嫁がアメリカ人なんやて。その嫁も言うんやわ。『和菓子を洋風にしたら、折角の和の美しさがなくなる』って。嫁は茶華道も習う、日本人以上に日本人らしい人や」。昌尚さんは、店の奥の坪庭を見つめた。

昌尚さんは昭和十八(1943)年、四人兄弟の三男として誕生。

大学卒業が間近に迫った頃、三代目の父が体調を崩し、卒業と同時に店へと戻った。

そして既に四代目を継いでいた十歳年上の長兄、英太郎さんの元で修業を開始。

「初めの頃は、明けても暮れても洗い物ばっかり。前の晩に小豆を洗って、翌朝鍋にかける毎日」。そんな単調な毎日であったが、自然と火加減や季節毎の砂糖の分量の違いを敏感に感じ取って行った。

昭和四十五(1970)年、同市出身の八重子さんと結ばれ、一男一女を授かった。

「ちょうど鵜飼開きの日が、結婚式やったんやて」。

当時店先には路面電車が走り、関市や美濃市からも岐阜一番の繁華街柳ヶ瀬を目指し、多くの人々が押し寄せた。

「夜の十一時頃まで人が溢れかえって、店も遅くまで開けとったもんやわ。名古屋からタクシーで乗り付ける人らもおったほどやに」。柳ヶ瀬の栄華は、バブル時代の前半まで続いたそうだ。

昭和六十一(1986)年に五代目を襲名。「兄が体調を崩したもんだから」。

戦前から続く名代の鮎菓子は、端午の節句の柏餅と入れ替わり、鵜飼開きに合わせ店頭に九月末まで並ぶ。

そして暑い暑い岐阜の夏は、やがて終わりを告げる。

鮎菓子の皮は、小麦粉・卵・砂糖に重曹を混ぜ合わせ、一文字と呼ぶ銅板の焼き台で横に四つ、縦に三つを一度で焼き上げる。

「鮎を腹から二つに開いた大きさに、お玉の底で水溶きした小麦粉を、お好み焼きの要領で広げるんやて。最初の皮を一つ焼けば、銅板に焼き跡が付くから、後はそれに合わせて焼いてくだけ」。

一方、求肥(ぎゅうひ)は、餅粉を水で戻して蒸し、砂糖を混ぜて粘りを出して羊羹舟に空け、一晩おいて固める。

「皮が焼けたら棒状に伸ばした求肥を皮で包み、尻尾をキャッと折り曲げて、焼き鏝で口と目を入れるんやけど、どれも手でやるもんやでみんな顔が違うんやて」。昌尚さんは照れくさげに笑った。

一日に多い日は千匹。

ひと夏でおよそ四万五千匹を焼き上げる。

「添加物は一切使わないから、賞味期限は三日。砂糖の分量一つで、日持ち具合も変わる。まあ何でも美味しい物は、日持ちせんもんやて」。

一番の喜びは、出来立てを求めた客が、店の前で頬張ってくれる瞬間とか。

「いつまで経っても、一端の職人になれたとは思えんのやわ」。

老職人は居住まいを正し、自分に言い聞かせるよう謙虚につぶやいた。

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「天職一芸~あの日のPoem 226」

今日の「天職人」は、三重県桑名市の「墓石職人」。(平成十九年三月二十七日毎日新聞掲載)

父の背中を流すよに 手水(ちょうず)をかけて墓掃除  問わず語りに無沙汰侘び 伸び放題の草むしり      母の好物餡コロに 父に煙草を供えては         線香代わり火を燈し 彼岸の入りに手を合わす

三重県桑名市、墓石の石市商会。根来英太郎さんを訪ねた。

「残念やけど、家に鉄砲の術は伝わっとらんのやさ」。根来衆を祖とする、十五代目の墓石職人は、柔らかな笑顔を向けた。

写真は参考

無造作に後ろで束ねた白く長い髪。

鋼のように引き締まった細い身体。まさに老獪な根来法師としての遺伝子が、何気ない風貌に宿っているようだ。

根来寺

「代々根来市蔵を、家は四百年以上に渡って襲名してきてましたんさ。まあ私もそろそろ市蔵に改名して、息子に跡を譲らんと」。

英太郎さんは昭和十一(1936)年に、七人兄弟の末子として誕生。

「真ん中の五人が病死して、二回り違いの姉と二人なんさ」。

初代根来市蔵が、和歌山県北部から桑名の地に移り住んだのは、元和(げんな)六(1620)年のこと。

東別院の建立に合わせ、石工としてこの地に根を下ろした。

「祖父も父も養子続きでしてな。祖父母の間には子が出来やんだもんで、祖父と芸者の間に出来た娘を養女に迎えたんが母ですんさ。でもそのまんまやと、根来市蔵の血が絶えますやん。それじゃあと、ご先祖の地から根来市蔵の血を受け継ぐ者を探し出し、婿養子に迎えたんが父ですんやさ」。

気も遠くなるような根来一族四百年の系譜は、語り尽くせぬ苦難の歴史でもあった。

昭和二十九(1954)年、英太郎さんは高校を出ると、石都岡崎市で住み込み修業に入った。

「本当はサラリーマンになる気でおりましたんやけどなぁ」。

三年後、桑名へと舞い戻り家業に従事。

「東京オリンピックの昭和三十九(1964)年前後から、石屋にも機械化の波が押し寄せて来て。だんだん昔ながらの職人がいらなくなてってさぁ。もう今では、墓石を据え付けさえすればええんやで」。

昔の重労働に比べれば、トンボ(石を運ぶ荷車)での運搬もなく、鑿による手彫りも空気彫りや機械彫りへと移行し、作業効率は飛躍的な改善を見せた。

「おんなじように見える墓石でも、桑名までは名古屋型、桑名から先は伊勢型に分かれるんさ。名古屋型の三段に対し、京都・大阪型は二段組みと違てくるし。中央の大きな竿石の上んとこも、陣笠型とか二方丸・四方丸・丸面と色々やで」。

参考

中央の竿石の正面に水入れ、その下に香立、両脇に花立と配置し墓地に設置される。

「あの昔の陣笠型の石見てみ。角が欠けとるやろ。あれなぁ、昔の有名な博打(ばくち)打ちの墓石なんさ。せやで博打好きが、あやかりたて墓石削(はつ)ってったんやさ。清水一家の森の石松の墓みたいに」。

昭和四十(1965)年、地元農家からたづ子さんを嫁に迎え、一男一女を授かった。

「どえらい立派な身上になっとったら、もういっつか潰れてもうとるわさ。四百年も永い間、なんとか潰れやんとやってこれたんは、大きくもなくそこそこの商いで来た証やさ。そやでよう息子にも言うたるんやさ。『自分からは絶対に名門やとか言うんやない。それは同等以上になってから言わなかん。それと、昔は良かったとか言うたら愚痴になるだけやで』と」。

「どえらい」立派な身上を誇示した徳川家は、十五代を持って我が世を明け渡した。

だが桑名の根来市蔵は、既に十六代。

驕る事無く謙虚に、今も家業を受け継ぐ。

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「天職一芸~あの日のPoem 225」

今日の「天職人」は、岐阜市美園町の「乳母車屋」。(平成十九年三月二十日毎日新聞掲載)

ガタゴト揺れる畦の道 妹乗せて背伸びして       押し手操りバス停へ 父のお迎え乳母車        「籠にしっかり摑まれ」と 父は勢い走り出す      奇声を上げて角曲がりゃ 門前の母仁王立ち

岐阜市美園町、明治後期創業の河村ウバ車店、三代目女将の河村慶子さんを訪ねた。

写真は参考

ショーウィンドー越しに籐製の乳母車が並ぶ。

そう言えば一度も私は、乳母車に乗った記憶が無い。

だから幼心にも羨(うらや)んだものだろう。

昭和三十四(1959)年、伊勢湾台風が東海地区に襲来。

当時名古屋市の南区で暮らしていた両親は、二歳にも満たない私を抱えたまま、家財道具を全て流されながらも命からがら逃げ惑ったそうだ。

だから高価な乳母車などもっての外。

家族三人の日々の暮らしが手一杯であった。

それに小さな小さな共同アパート暮らし。

仮に乳母車があったにせよ、留め置く場所にも窮したはずだ。

「みんな多かれ少なかれ、あんな時代はそんなもんやて。そこにある藤四重の乳母車なんて、それこそ立派な門構えのあるような、農家のお家でしか必要ありませんでしょう」。慶子さんは、頑丈な籐製乳母車を指差した。

写真は参考

慶子さんは昭和十六(1941)年、紙関係を商う小関家の二女として誕生。

短大を出ると直ぐに家業の手伝いに。

それから二年後、嫁入り話しが持ち上がった。

「実家の母の知り合いと、姑が同級生やったもんで」。

当時、鉄鋼関係の会社に務めていた吉夫さんと結ばれた。

「嫁に来た頃は、まだ義父が籐細工の職人をしてまして。私が接客と店番担当」。

しばらくすると、吉夫さんは会社を辞し、慶子さんの実家の仕事に従事することに。

「まるで主人と私が入れ替わったみたい」。

慶子さんは義父と共に店を守った。

藤四重に藤三重。

乳母車の籠の両脇が、四重三重に太く編み上げられ、側面に鶴や宝船等、縁起物の意匠が施された日除けの幌付きという超豪華版。

「昔はこの殿町にも、塗りの紋描屋(もんかきや)があったんやて。孫の初立(ういだ)ちにお里が乳母車用意して、藤四重の両脇に嫁ぎ先の家紋を入れて贈ったもんやわ」。

戦後のベビーブームは、昭和四十(1965)年代前半へと続いた。

「それでも昭和四十五(1970)年頃からは、頑丈な乳母車からだんだんベビカーへ。乳母車では折り畳んで、車に入れられんでねぇ」。

写真は参考

乳母車の籠は籐製。ほとんどがインドネシアからの輸入品だ。

「籐はシャムとかボケという種類に分かれるんやわ。シャムは横に使う弾力性のある硬いもの。台座の周りに使うのがボケ。皮を剥いで太い方から順に、太民(ふとみん)・中民(ちゅうみん)・幼民(ようみん)と呼ぶんやて」。

今では一つの県に一人いるかいないかまでに減ってしまった籐職人が、力を込めて編み上げた籐製乳母車。

ほとんどが注文生産とか。

慶子さんは乳母車が納品されると、籐籠の内側に赤ちゃんが怪我をしないようにと、冬はキルトに夏は木綿のカバーを取り付ける。

明治から昭和の初めまで、一人の乳母が数人の子供の面倒を見ることもしばしばだった。

それに最適なのが籐製の深い籠で、一度に数人の子供を運んだことから「乳母車」とも。

「やはりお子さんには四重の乳母車でしたか?」と問うた。

「残念ながら子宝に恵まれなくって。でも子供が出来ても、新品はおろしませんて。商売もんやで」。

三代目女将はこっそり笑った。

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「天職一芸~あの日のPoem 224」

今日の「天職人」は、愛知県蒲郡市の「模型屋」。(平成十九年三月十三日毎日新聞掲載)

入り江に浮かぶブイ目掛け 模型ボートが波を切る    スピード上げて旋回し ゴール目指してまっしぐら    老いも若きも入り混じり 少年のよな瞳して       操縦桿(そうじゅうかん)を握り締め 船の行方に無我夢中

愛知県蒲郡市のちどりや模型、店主の酒井正敏さんを訪ねた。

写真は参考

「飛行機はちょっと間違うと、直ぐに逃げてってまうだ。これまでに三回も逃がしたったわ。いっぺんは警察から。まあいっぺんは、遊覧船が拾って来てくれただわ。それに比べりゃあボートは、操縦が効かんようになったって、沈まんときゃあ浮いとるだで」。ラジコン模型に呆けて早や、半世紀と二年。正敏さんは、少年のように澄んだ瞳を輝かせた。

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正敏さんは昭和三(1928)年、海運業を営む家に五人兄弟の長男として誕生。

やがて家業は、海運から石炭販売へ。

尋常高等小学校を上がり、勤労動員の豊川工廠で終戦。

しばらく家業の石炭販売に従事することに。

「昔っから模型が好きで、特にラジコンのスピードボートに夢中だっただぁ」。

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挙句に好きが講じて昭和三十(1955)年、石炭販売の傍ら模型店を開業。

「あんな当時模型屋なんて、豊橋と岡崎に一軒ずつあった程度だわ。だったら自分で店開いたろかって。だもんで模型の品揃えは、み~んな俺の欲しいもんばっかだっわさ」。またしても年老いた少年は、悪戯っ子のような笑顔を向けた。

「だって模型屋なんて、日曜日と平日の晩にしか客は来んだで」。

この年、市内から妻を迎え二男を授かった。

その後昭和三十七(1962)年から、家業の廃業に伴い建築会社に勤務。

「名古屋の会社だったもんで、仕事の合間に抜け出しては、明道町まで行って仕入れてくるだぁ」。

ラジコンのスピードボートは、真鍮(しんちゅう)板をハンダ付けして船体部分を形作り、エンジンを取り付ける。

次に甲板を被せて塗装。

後は無線を取り付ければ完了。

「ラジコンでも飛行機は操縦が難しいだぁ。何でかって?そりゃあ飛行機は上下左右に操らなかん。けど船のレースは、片っ方に舵切っとりゃあええだで」。

昭和四十(1965)年当時、ラジコンヘリ一台で二十万円だったとか。

大阪万博で大忙しだった日本食堂の駅弁が、二百円の時代のことだ。

「それが十万円のヘリじゃあ飛ばんだぁ。中には大会出場に入れ込んでまって、田畑み~んな売り払ったのもおっただぁ」。

全盛期の自慢は、全長一.二㍍、重さ七㎏、ガソリンを燃料とするボート。

平均速度七十~八十㎞のスピードで、三河湾のさざ波を我が物顔で蹴散らしたほど。

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「そんでもまあかんわ。年取るとそんな重たい船、危ないで抱えられん。海に落っこちてまったら一貫の終いだで」。

今ではマニアに、複雑な模型の作り方を手ほどきする毎日。

「まあそれにしても、万引きはしょっちゅうだわ。酷いのは、箱だけ残して中身を根こそぎ持ってってまうだで。今じゃあゲーム感覚みたいなもんらしい。もう歳も歳だし年金暮らしだで、呆け防止に店開けとるだけだわ」。

海を渡る春一番が、ほんの一瞬凪いだ。

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一生物の遊びと出逢い、半世紀以上を惜しげも無く、ラジコン模型に捧げた。

店先に立つ七十八歳の万年少年は、飽きることなく遊びなれた港を静かに見つめ続けた。

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「昭和を偲ぶ徒然文庫 1話」~「だからもう」「守ってあげる」

今週から毎週火曜日の夜10時には、「昭和を偲ぶ徒然文庫」と題して、過去に新聞に掲載した雑文をご紹介させていただきます。

どうかよろしくお付き合いのほど、お願い申し上げます。

「日本初、美濃電女性車掌」 2011年2月24日

♪汽笛一声新橋を♪ とは、のちの世で謳われた鉄道唱歌。

それも明治5(1872)年9月12日(グレゴレオ暦10月14日)、新橋―横浜間に日本初の鉄道が開通したればこその賜物である。

当時、新橋―横浜間の所要時間は、約一時間。現在の二倍以上を要した勘定だったとか。

それから時代を下ること約半世紀。

大正7(1918)年4月18日。

岐阜県の美濃電気軌道(通称/美濃電)に、日本初の女性車掌が登場したというではないか!しかも元号が大正に改まったとは言え、まだまだ男尊女卑の風潮を色濃く残す時代に。

いやはや天晴れ!美濃電。

つまり昭和61(1986)年施行の男女雇用機会均等法より半世紀以上も前に、美濃電ではいち早く女性車掌の導入に踏み切り、全国の鉄道会社に先鞭をつけていたのだ。

♪私は東京のバスガール発車オーライ♪

コロムビア・ローズの歌でお馴染みの「東京のバスガール」は、はとバスのガイドさんがモデルとか。

その元祖の誕生は、東京青バスが全国初として、バスガール25名を採用した大正9年のこと。

美濃電の女性車掌より、遅れること2年。

しかしこうした女性登用の裏には、避けて通れぬ時代背景もあった。

美濃電の女性車掌誕生の年には、第一次世界大戦が終結。

国土が戦火に塗れなかった日本は、大戦景気に沸き、乗務員が不足。

その解消手段が、女性車掌の登用だったのだ。

しかし、とは言え日本初の女性車掌導入が、岐阜県の美濃電であった事と、それが女性の地位向上に一役買った史実も、岐阜県の誇りの一つとして、決して忘れてはならぬ。

ぼくが子どもの頃は、まだまだバス通りとは言え、都心部を離れると概ね砂利道で、しかもレトロなボンネットバスでした。

ウインカーは、矢印の矢が下向きに格納されている所から、木製だったのかプラスチック製だったかの⇒が、右へ左へと90°左右に飛び出す仕組みの物でした。

もちろん乗降口は一か所で、ドアの後部の小さな小さな仕切られたスペースに、女性の車掌さんが乗り合わせていたものです。

黒い車掌鞄を斜めにかけ、器用に改札鋏を操る姿に、子どもながらに憧れたものでした。

ワンマンカーも交通系ICカードも無い時代。

中には、改札鋏を西部劇に出てくるような、早打ちガンマンのように、トリガーガードに指を通してガンスピンを繰り返すかのように、改札鋏をものの見事に何度も回転させ、颯爽と切符を切る車掌さんもいたものです。

お母ちゃんにせがんでせがんで、やっと買って貰った車掌さんセット。ブリキ製の改札鋏で真似たものですが、本物の車掌さんの腕前には到底敵いっこなかったですねぇ。

ボンネットバスの木製の床からは、いつも油の匂いが立ち込めていたことも、今思い出しました。

そんな昔話はさておき、今日の弾き語りでは「だからもう」と「守ってあげる」をお聴きいただきます。

「だからもう」

詩・曲・唄/オカダ ミノル

何も言わなくていい ぼくが側にいるから

自分を責めてみても 昨日は何一つかわらない

長い旅の途中の 港で立ち尽くして

ぼくが漕ぎ出す船を 君が選んでくれただけ

 今さら出逢いが 遅すぎたなんて 心欺(あざむ)き 続けて生きるよりも

 だからもうぼくだけを 信じ続けて  生きてごらんよ 君が君らしく

人が何を言おうと 君は君でしかなく

ぼくもぼくでしかない ふたりで一つを生きるだけ

有り余る時間もなく 微かな残り灯だけ

だから片時でさえ 愛しく心が求め合う

 いつかふたりが この世を去ろうと  君を愛した 記憶は消せはしない

 だからもうお互いを 想い続ければ  何もいらない 君さえいてくれたら

 月明り頼りに 沖へと向おう 君が生まれた 星座を目指しながら

 だからもういいよ すべて哀しみは 泪と共に 海へと還(かえ)せばいい 

「守ってあげる」

詩・曲・唄/オカダ ミノル

今日は昨日の続きじゃない 明日へと続く大切な一歩

君の踏み出すこの道の先が 石ころだらけならぼくが取り除こう

 恐れる事など何も無い 信じる物さえ見失わなきゃ

 何時でもどんな時でも君の側には 誰より君を愛するこのぼくがいる

たとえ誰かが君を責めても この世の誰もが君を詰(なじ)ろうと

世界中を敵に回そうと 君一人になろうとぼくは君の味方

 恐れる事など何も無い 二人の心を信じ合えば

 何時でもどんな時でも君の側には 誰より君を愛するこのぼくがいる

 人目気にして生きるより 身構えながら怯(おび)えるより

 君は心の向くまま君らしくいて 必ずぼくがいつでも守ってあげる

 君は心の向くまま君らしくいて 必ずぼくがいつでも守ってあげる 守ってあげるよ

★毎週「昭和の懐かしいあの逸品」をテーマに、昭和の懐かしい小物なんぞを取り上げ、そんな小物に関する思い出話やらをコメント欄に掲示いただき、そのコメントに感じ入るものがあった皆々様からも、自由にコメントを掲示していただくと言うものです。残念ながらさすがに、リクエスト曲をお掛けすることはもう出来ませんが…(笑)

今夜の「昭和の懐かしいあの逸品」は、「路面電車とボンネットバスの思い出」。

ぼくも子どもの頃は、市電の運転席の真横に陣取り、シルバーのポールにしがみついて運転士さんの一挙手一投足に見入って憧れたものでした。

皆様は、路面電車やボンネットバスにどんな思い出がございますか?

ぜひコメントをお寄せ願います。

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クイズ!2020.09.29「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」

いやいや意外な事に、苦肉の策のクイズ「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」が好評?で、皆様からも数多くのコメントを賜りました。

そこで益々気をよくして、ぼくからの一方的なブログではなく、皆様にもご一緒に考えていただいてはと、『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』をしばらく続けて見ようと思います。

でもクイズに正解したからと言って、何かプレゼントがあるわけではございませんので、どうかご了承願います。

そこで今回の『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』はこちら!

季節の変わり目ってぇのは、こんなノー天気なぼくでさえ、時として体調の微妙な変化を感じる時があります。

特に胃腸の具合がちょっとなぁ、なぁ~んて時には、もっぱらこんな朝食を用意することもあります。

しかしこれがまた沢山できちゃって、ついつい残っちゃうものなんです。

するとぼくは、小麦粉やら卵を混ぜて、フライパンでお好み焼みたいに薄っぺらく焼いて、チヂミのようにしてビールのあてにしちゃいます。

さあ今回は、とても分かりやすい気がいたしますが、皆様のお答えや如何に!

皆様からのご回答をお待ちいたしております。

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「天職一芸~あの日のPoem 223」

今日の「天職人」は、三重県桑名市の「餅匠」。(平成十九年三月六日毎日新聞掲載)

ホイサホイサの掛け声に 杵振り降ろす若衆の      頬にほんのり赤み差し 真白き湯気が立ち上る     ふっくら餅が搗き上がりゃ 椀を片手に子が並ぶ     大根卸し小豆餡 黄粉黒糖お好みで

三重県桑名市、お餅の大黒屋。三代目餅匠の後藤泰雄さんを訪ねた。

「黒棒とか餅菓子は、元々『朝生(あさなま)』ゆうて、朝作ったもんをその日の内に食べるもんやったで、保存料とかは今も一切使こてません」。

大黒屋は昭和七(1932)年創業。

泰雄さんは昭和四十八(1973)年に三人兄弟の長男として誕生。

「父は商売人と職人が半々。祖父は不器用なほど一徹な職人。だからお婆さんは祖父を店頭によう出さんかったほどですわぁ。何でって?お愛想もできやんし、お客さんから『これ焼き立てですか?』と聞かれると、『そんなに冷たいんが欲しけりゃあ、明日の朝また来てくれ』って平気で言うような人やったらしい」。傍(はた)で聞いているとまるで喧嘩を売っているようだったとか。

泰雄さんが中学三年になった年、初代の頑固職人はこの世を去った。

泰雄さんは大学へと進学。しかし大学二年の暮れ、父の胃癌が再発。

已む無く中退し、家業に従事することに。

「三つ子の頃から店ん中チョロチョロして、まあ門前の小僧みたいなもんですわぁ」。

入退院を繰り返し闘病を続ける父に付き、餅匠としての極意を学び取ろうと必死。

しかし父の身体は日に日に蝕まれていった。

病室に商品を持ち込んでは、小さくした餅を父の口に運び入れ「どうや?」と問いかける。

「駄目出しばっかやさ。とうとう最後の最後まで、褒めてもらえやんだ。『巨人の星』の父、一徹みたいな人でしたから。『見て覚えて、技を盗め』が口癖やったし」。

翌年、若干二十一歳の泰雄さんに店を託し、父は還らぬ人となった。

大黒屋創業当時から続く名代の逸品「黒棒」。

幅約七㌢、高さ約五㌢、長さ約四十五㌢。艶光する焦げ茶色。巨大な海鼠のような棒状の餅菓子だ。

「北勢地域特有の、農家に伝わった冬場のおやつとか。だから『懐団子』とか、懐に入れるから『ネコ』とか、色んな呼び名があったらしい」。

上新粉と沖縄産黒砂糖だけの天然無添加。素朴で懐かしい味わいの逸品だ。

まず上新粉に湯を入れ、練りながら蒸し上げる蒸練機(じょうれんき)で生地作り。

次に熱々のうちに黒砂糖を生地に馴染ませ、上白糖を加え甘みを調える。

そうして完成した生地を、今度は臼で一分半ほど搗き、取粉を入れた半切りで成形。半切りとは、盥(たらい)状の浅く広い桶。

「ぼくも黒棒が大好きで、学校帰りに友達が遊びに来ると、必ず皆して食べよったほど。…でももしかしたら、それ食べたさでぼくん家に遊びに来とったんやろか?」。

とにかく朝生ゆえ、出来立てが絶品。

だが冷めて硬くなっても、一㌢ほどの厚さに切り、ホットプレートで焙ればこれまた香ばしさが引き立つ。

「一~二月が一番売れますわ」。毎年十一月から春の彼岸までの限定品。

泰雄さんは二十六歳の年に、東員町出身の妻知美さんと結ばれ、二人の娘を授かった。

「『帰りに黒棒持って来て』って、よう女房から電話が入るんやわ。娘らにも人気やけど、女房が一番黒棒好きかも知れやんわ」。

素朴な味ゆえ、どんなまやかしも一切通じぬ。

ただただ呆れるばかりの直向さ。

三代続く黒棒作り。

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「天職一芸~あの日のPoem 222」

今日の「天職人」は、岐阜市今小町の「化粧品屋」。(平成十九年二月二十七日毎日新聞掲載)

ヨチヨチ歩き七五三 君は晴れ着に紅注して       カランコロンと下駄鳴らし 得意満面千歳飴       お宮参りのその後は 帯も曲がって裾開(は)だけ    みたらし団子頬張れば 紅もいつしか醤油色

岐阜市今小町、化粧品の白牡丹。店主の白橋政子さんを訪ねた。

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鼻をくすぐる甘い香り。入り口を一歩跨げは、そこは女の園。政子さんは、明るい笑顔を惜しげもなく振りまいた。

とても齢(よわい)八十には見えぬ達者な岐阜美人。

「私なんて田舎の娘やで、ボワ~ッとしとるだけ。そりゃあ化粧品や道具は売るほどあるけど、元の土台がこれやで綺麗になるにも限界があるんやて」。再び愛らしい笑顔を広げた。

政子さんは大正十四(1925)年に、同県美濃市で酒屋を営む後藤家の、六人兄姉の末っ子として誕生。

高等女学校から専攻科を卒業し、十九歳で国民小学校の教壇に立った。

それから三年。見合い話が持ち込まれた。

「あんな頃は、男一人に女はトラック一杯の時代やで。好きな人なんて選べませんわ」。たった五分のお見合いで、交わした言葉は一言「コンニチワ」。

実家の父が諭した。

「運命は命を運ぶと書くやろ。自分で運ぶもんや」と。

昭和二十二(1947)年、白橋敏夫さんと結ばれ、三女に恵まれた。

「稲葉神社で結婚式挙げたんやて。でも同じ日に三組も結婚式があって、どれが主人なのかわからへんのやわ。今でも娘に言われます。『何で他の婿さんに付いてかんかったの』って」。

翌年、店を開店。

「まだ配給の時代でした。ちょこちょこっと化粧品や石鹸が入って来ても、あっと言う間の一時間で売り切れ」。

資生堂に当時、権利金三千円を納め、登録番号六番を得た。

「銀座の資生堂まで年二回、美容の勉強会に」。しかしその無理が祟ってか、早産で最初の子を亡くした。

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徐々に統制が解除され、戦後の復興も本格化。

「まああの当時は、朝六時に店開けて夜十時まで。休みはたったの元旦一日。娘を背負って店番したもんやわ」。

年に一度の待ちに待った休日となる元旦。決まって朝早くに一人の女性が訪れた。

「歌手の中条清さんのお母さんなの。よりによって元旦の朝やって来て、お遣い物の化粧品や石鹸の詰め合わせを買いに。本当はありがたいんやけど、こっちはやっと訪れた年に一度の公休日やで。それでも邪険にするわけには行きませんでしょう」。政子さんは懐かしそうに笑った。

昭和三十(1955)年代に差し掛かると、化粧品も飛ぶような売れ行きに。

「当時五千円したヘアブラシが、一日で百本売れたんやわ」。昭和四十(1965)~五十(1975)年代がピークとなった。

来年で開店六十年。今では客も二代目三代目に様変わり。

「やたらと暗~い顔して、まるで家出?って格好で入って来て。ご主人と喧嘩したとか、姑とやりあっちゃったとか。色々聞いてあげて宥(なだ)めたり。夕飯でも食べて行きなさいって言うと『あっ、帰ってご飯の仕度せんと』ってすっかり元気になって急いで帰って行くんやて」。

人それぞれに抱えた悩みや憂い。

女は苦悶を化粧で覆い隠し、まるで悩み知らずのような慈悲深い笑みを湛(たた)える。

「『化粧品も買えたけど、お母さんの話し聞けて元気も買った気がするわ』って言われるのが一番嬉しいんやわ」。

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八十一歳現役の美容部員は、顔の化粧だけじゃなく、心の奥のくすんだ滲みさえ見事に消し去る。

持ち前の笑顔と人柄という、心の化粧法で。

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