今日の「天職人」は、名古屋市中川区の「竹細工職人」。(平成十九年六月五日毎日新聞掲載)
小さな両手すり合わせ まるで何かを念ずよに 両の掌(てのひら)繰り出せば クルクル上がる竹蜻蛉(たけとんぼ) 春のそよ風羽根に受け 大きく空に舞い上がる 君はキャッキャと追い掛ける 夏の気配の蓮華畑
名古屋市中川区で明治二(1869)年創業の籠由商店。三代目竹細工職人の高田定雄さんを訪ねた。

「こんな太っとい指しとったら、女にもてんて」。そう老人は、節くれ立った掌を差し出した。
定雄さんは昭和七(1932)年に四人兄弟の長男として誕生。
「御園座の裏手で生まれて、戦時中の道路疎開で観光ホテルの裏っ側へ。そしたらそこが今度は空襲で焼けてまって」。
戦火を避け母の在所に疎開中のことだった。
「卒業証書貰ったもんで、両親に見せたろうと思って実家に戻ったら焼け野原だて。両親はどこ行ってまったかと探しとったら、防空壕から顔を覗かせとったわ」。その夏戦争は終わった。
その後、第一工業学校へと進学。
「そんでもかんわ。預金封鎖の時代だったし、月謝も納められん。でも父にそんなことよう言えんかったわ」。十五歳の年に中退し、家業に入った。
「最初は父のゆうなりだわさ」。蛙の子は蛙。見よう見真似で父を模倣した。
「真竹は岡崎市の額田か岐阜県明智のもんがええ」。
製品の寸法に合わせ真竹を切り落とし、苛性ソーダで煮て脂を落とし天日に一週間晒す。
それを両刀鉈で割り、製品の仕様に応じて籤(ひご)へと割く。
「これは笊蕎麦の笊に当たる『サナ』だわ。夏場が最盛期だで」。
サナは幅約十五㌢、長さ約二十㌢。
まず三分五厘の竹をさらに四本に割き、抜き板の上に並べる。
「竹の癖を見ながら、青みの色合いを揃えんと」。
次に編み台の上に長さ約十五㌢の竹籤を一本ずつ並べ、綿糸を巻いた糸巻きの独楽で、籤の両端と真ん中の三箇所を編み上げる。
独楽の自重を錘に籤二十六本を編み、その両端に幅約一㌢弱の縁竹を取り付ける。
いずれの独楽も永年の手垢で、艶々な光を放つ。
「戦時中の疎開先で、大水が出て流れ着いた材木を、父が独楽にしたんだわ」。定雄さんは艶のある独楽を手に取り、しみじみとつぶやいた。
昭和三十四(1959)年、三年程の交際を経て美智子さんと結婚。
「馴れ初めなんて、そんなもんロマンスだがや」。
当時青年団の団長だった定雄さんは、知多へのバス旅行を計画。
そのバスガイドが美智子さんであった。しかし子宝には縁が無かった。
「そんなもん、子供の作り方を学校で教(おそ)えてまえなんだで」。
寡黙に作業場の座敷ではや六十年。
定雄さんの指先は規則正しく籤を繰る。
「商品の数なんて無限だわさ」。

ホテルや料亭の季節料理を盛る手付き籠や、料理の盛り付けを引き立てる飾りの袖垣、魚籠(びく)から買い物籠まで。職人の閃きが新たな商品を生み出す。

「こんなもん、利口な人のやる事じゃないって」。定雄さんは片時も指先を緩めず笑った。
ある正月前の繁忙期、鋸の目が潰れた。
しかし馴染みの目立て職人は病の床。
「違う目立てに頼んだんだけど、全然切れえへんでかんわ」。
困り果てたところに、腕利き職人が紹介された。
その後、その職人との二人三脚が始まった。
「『お前さんが死ぬまで、わしがやったるで』って言ってくれるんだわ」。
職人と職人の技。
互いの技を慮り、薄れ行く古き時代の幕切れに抗い続ける。
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