「天職一芸~あの日のPoem 235」

今日の「天職人」は、名古屋市中川区の「竹細工職人」。(平成十九年六月五日毎日新聞掲載)

小さな両手すり合わせ まるで何かを念ずよに      両の掌(てのひら)繰り出せば クルクル上がる竹蜻蛉(たけとんぼ)                      春のそよ風羽根に受け 大きく空に舞い上がる      君はキャッキャと追い掛ける 夏の気配の蓮華畑

名古屋市中川区で明治二(1869)年創業の籠由商店。三代目竹細工職人の高田定雄さんを訪ねた。

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「こんな太っとい指しとったら、女にもてんて」。そう老人は、節くれ立った掌を差し出した。

定雄さんは昭和七(1932)年に四人兄弟の長男として誕生。

「御園座の裏手で生まれて、戦時中の道路疎開で観光ホテルの裏っ側へ。そしたらそこが今度は空襲で焼けてまって」。

戦火を避け母の在所に疎開中のことだった。

「卒業証書貰ったもんで、両親に見せたろうと思って実家に戻ったら焼け野原だて。両親はどこ行ってまったかと探しとったら、防空壕から顔を覗かせとったわ」。その夏戦争は終わった。

その後、第一工業学校へと進学。

「そんでもかんわ。預金封鎖の時代だったし、月謝も納められん。でも父にそんなことよう言えんかったわ」。十五歳の年に中退し、家業に入った。

「最初は父のゆうなりだわさ」。蛙の子は蛙。見よう見真似で父を模倣した。

「真竹は岡崎市の額田か岐阜県明智のもんがええ」。

製品の寸法に合わせ真竹を切り落とし、苛性ソーダで煮て脂を落とし天日に一週間晒す。

それを両刀鉈で割り、製品の仕様に応じて籤(ひご)へと割く。

「これは笊蕎麦の笊に当たる『サナ』だわ。夏場が最盛期だで」。

サナは幅約十五㌢、長さ約二十㌢。

まず三分五厘の竹をさらに四本に割き、抜き板の上に並べる。

「竹の癖を見ながら、青みの色合いを揃えんと」。

次に編み台の上に長さ約十五㌢の竹籤を一本ずつ並べ、綿糸を巻いた糸巻きの独楽で、籤の両端と真ん中の三箇所を編み上げる。

独楽の自重を錘に籤二十六本を編み、その両端に幅約一㌢弱の縁竹を取り付ける。

いずれの独楽も永年の手垢で、艶々な光を放つ。

「戦時中の疎開先で、大水が出て流れ着いた材木を、父が独楽にしたんだわ」。定雄さんは艶のある独楽を手に取り、しみじみとつぶやいた。

昭和三十四(1959)年、三年程の交際を経て美智子さんと結婚。

「馴れ初めなんて、そんなもんロマンスだがや」。

当時青年団の団長だった定雄さんは、知多へのバス旅行を計画。

そのバスガイドが美智子さんであった。しかし子宝には縁が無かった。

「そんなもん、子供の作り方を学校で教(おそ)えてまえなんだで」。

寡黙に作業場の座敷ではや六十年。

定雄さんの指先は規則正しく籤を繰る。

「商品の数なんて無限だわさ」。

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ホテルや料亭の季節料理を盛る手付き籠や、料理の盛り付けを引き立てる飾りの袖垣、魚籠(びく)から買い物籠まで。職人の閃きが新たな商品を生み出す。

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「こんなもん、利口な人のやる事じゃないって」。定雄さんは片時も指先を緩めず笑った。

ある正月前の繁忙期、鋸の目が潰れた。

しかし馴染みの目立て職人は病の床。

「違う目立てに頼んだんだけど、全然切れえへんでかんわ」。

困り果てたところに、腕利き職人が紹介された。

その後、その職人との二人三脚が始まった。

「『お前さんが死ぬまで、わしがやったるで』って言ってくれるんだわ」。

職人と職人の技。

互いの技を慮り、薄れ行く古き時代の幕切れに抗い続ける。

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「天職一芸~あの日のPoem 234」

今日の「天職人」は、三重県桑名市の「桑名箪笥職人」。(平成十九年五月二十九日毎日新聞掲載)

幼心に憧れた 二軒隣りのお姉さん           いつもと違う出で立ちは 白い内掛け角隠し       祝いの声に送られて 玄関先で暇乞い          黒塗り車しんがりは 紅白巻きの桐箪笥

三重県桑名市で昭和六(1931)年創業の田中木工所。二代目を継ぐ桑名箪笥職人の田中太美泰(たみやす)さんを訪ねた。

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車が主役の力任せな幹線道とは異なる、今では裏通りと成り果てた旧街道。

その名も馬道。

緩やかに曲がりくねる道に沿い、昔の名残を浮かべる民家や商家が連なる。

道幅は、当然車など存在しなかった時代のままだ。

だからか、何故かやさしい気持ちになる。

「員弁と東海道を結ぶ街道やったで、そりゃあ往時はようけえ馬車や大八車が行き交(こ)うて賑おうたもんやさ」。太美泰さんが、今では人影も疎らとなった馬道を眺めながらつぶやいた。

太美泰さんは昭和二十六(1951)年、三人兄弟の長男として誕生。

家業を手伝いながら夜学の大学を卒業。

婚礼家具問屋で二年間、小売販売の修業を続けた。

そんな青春の真っ只中、休みを利用し若者に人気の小京都高山へと、一人旅に向かった。

「娘さんの二人連れが、近くの席に座ってなんや楽しそうにしとったもんやでさ。他にすることもあらへんし、声かけたったんやわ。そしたら東京のOLさんやってなあ。まあえらい話しが弾んでもうて」。

別れ際、小売販売の職場であった百貨店名を告げ、帰りに寄ってくれたら名古屋城でも案内しようと。

すると数日後、二人の娘が百貨店を訪れた。

「その片割れが家内ですんやわ」。太美泰さんは大きな身体を縮めるように照れ笑いを浮かべた。

二年間の奉公で仕事を覚え、伴侶の目途も立ち家業に。

父の元で桑名箪笥職人としての修業を開始。

そして二年後の昭和五十二(1977)年、富子さんを妻に迎え、三人の男子を儲けた。

桑名総桐箪笥の特徴は、桐以外の材を一切使わず、すべて一貫した手作りにこだわる点だ。

特に胴や引き出しは、縦横二枚の板を凹凸で組み合わせて接合する、古来からの技法「あり組」が取り入れられ、引き出しの底板止めには木釘が用いられる。

あり組

「昔は檜葉とか竹で木釘を作り、米糠で炒って強度をつけたもんやさ」。

さらに箪笥最上部の上置き引き戸の鏡板には、乾漆板戸の蒔絵が施され雅やかな風情を惹き立てる。

また開き扉も特徴的で、四方が額縁状に組み込まれており、取り付けが最も難しい「段付丁双(だんつきちょうばん)」の金具で固定されている。

「桐の最適な伐採年数は、だいたい七十~八十年。樹齢が百年になると桐の木自体が劣化してもうてあかん。冬の葉の無い時に切り倒して、二~三年放置してから製材せんと。桐は灰汁が出て黒なるで、茹でて灰汁を飛ばすんさ」。

桐は他の樹木に比べ、含水率が低く湿気から衣類を守るには最適とか。

「古人の知恵はたいしたもんやさ」。

桐材の木取りに始まり、胴・引き出しの順にあり組を用いて組み立てへ。

次に夜叉五倍子(やしゃぶし)の実を煎じた液に砥粉(とのこ)を混ぜて塗り上げ、金具を慎重に取り付けロウ引き仕上げへ。

三週間にも及ぶ手作業を経て、一棹の桑名総桐箪笥が完成する。

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紅白の幕に覆われ、嫁ぎ先へと向かう花嫁箪笥。

手塩にかけて育て上げた娘に、幸多かれと願う両親の祈りを封じ込めながら。

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「天職一芸~あの日のPoem 233」

今日の「天職人」は、岐阜県各務原市の「チャルメララーメン職人」。(平成十九年五月二十二日毎日新聞掲載)

北風運ぶチャルメラが 炬燵のごろ寝酔い覚まし     慌てて羽織る丹前に 欠けた丼「おい親父」       釜から上がる湯煙が 凍て付く夜を遠ざける       鳴門チャーシュー海苔メンマ 醤油の香り縮れ麺

岐阜県各務原市のチャルメララーメン職人、ダイマンラーメンの上野一吏(かずさと)さんを訪ねた。

写真は参考

静かな住宅街に響くチャルメラ。

それに釣られる犬の遠吠え。

建て付けの悪い引き戸が軋む。

下駄履きで「お~い、親父!」「へい、毎度」。

丼鉢が擦れ合う。

「あっ『今日はこの家、何杯だな』って真っ暗な夜でもわかるんだわ。お客の顔はわからんでも、丼の顔が見えちゃうんだから」。

一吏さんは昭和十六(1941)年、旧満州で食堂を営む家の長男として誕生。

しかし戦局は日々悪化。

昭和十九(1944)年、一家は逃げるように母の在所の鹿児島へと引き揚げた。

「父の食堂を軍の上層部が利用しとったから、戦局の状況を早く入手出来したんだろうな。だから命拾いやて」。

昭和二十二(1947)年、父の在所の岐阜市へ。

「駅前の北側一帯は、ハルピン街と呼ばれる満州からの引揚者ばっかり」。

高校を出ると、父と共に家業の菓子製造へ。

しかし問屋相手の薄利な商売に見切りを付け、昭和三十九(1964)年に廃業。

「知人にこれからは自動車だって勧められて」。

一吏さんは自動車部品販売に転職。

それから三年、今度は東京へ。

「ビールや清酒会社で製造ラインの組み立てと、その保守管理の仕事やわ」。

二年後、秋田県出身の範子さんと結ばれ、一男一女を授かった。

しかし三十一歳の年に腎臓病を患い、岐阜に舞い戻り六年に及ぶ闘病生活が始まった。

「退院してからもしばらくは放心状態でねぇ」。

一日五時間程度の事務職で家計を支えた。

昭和五十六(1981)年四十歳で一念奮起し、親類の援助を得て食材の宅配を開始。

「その傍ら、何か手に職を付けようと、調理師免許を取ったんやて」。

そんなある日。

「夜鳴きラーメンが来て、作るのを見とったら『こんなもん俺にも出来そうだ』ってな調子で」。

チャルメラ販売元締めの門を叩いた。

チャーシューや具の仕込から、引き売り方法を学び三年後に独立。

真新しいラーメン車に自慢のチャーシューとラーメン百二十食を積み込み、犬山・小牧・江南・可児・各務原へ。

今でも曜日とコースを定め、一日七十㎞の引き売りを続ける。

朝十時頃から自慢のチャーシューを煮込み始め、夕方五時になると半被を羽織ってチャンコロ帽を被り出陣。

チャルメラが奏でる郷愁の音を響かせながら住宅街の辻々を巡る。

「ラーメンはチャーシューが命。その煮汁がラーメンスープの旨味を惹き立てるんだで。ある時肉屋が『チャーシュー売らせてくれんか』って言いに来たほどやて」。

写真は参考

客が丼片手に玄関を飛び出すと、まず麺を湯がきながら丼を湯煎。

程よく温まった丼にチャーシューの煮汁垂れとスープを入れ、そこに麺を湯切りし注ぎ込む。

仕上げにガランと呼ぶネギ・メンマ・蒲鉾・ゆで卵・チャーシューの具を彩りよく配す。

「こんでも楽しみに待っとる客もおるで、無断欠勤は出来んわ。食べ物の恨みは怖いで」。

法螺は吹くけどチャルメラは吹けんと嘯(うそぶ)きながら、チャルメラ職人はラーメン車を走らせた。

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「天職一芸~あの日のPoem 232」

今日の「天職人」は、名古屋市東区の「噺家」。(平成十九年五月十五日毎日新聞掲載)

観音様の帰り道 路地の奥から寄席囃子         木戸脇燈る提灯に 雷門の亭号(ていごう)が      高座に上がる噺家に 待ってましたの掛け声が      ここは下町情け町 泣いて笑えば日も暮れる

名古屋市東区の噺家、雷門小福(本名・中島捨男)さんを訪ねた。

「お呼びがかからな、噺家なんて開店休業。おタロ(金銭)も貰えへんし」。小福さんは、年季の入った笑顔を向けた。

小福さんは昭和九(1934)年、東区の下町に誕生。

大通り一本隔てた北側には、徳川園が広がる。

「あっちは上町のお坊ちゃま。あたしもあっちで生まれとったら、こんな仕事なんてしとらんかったわ」。

中学時代、防火宣伝の絵画コンクールで全国一に。

「それで演劇クラブの書き割り描かされて」。

しばらくすると役者に欠員が出て、裏方から役者へ転向。

「こっちの方が目立つでねぇ」。

中学を出ると看板屋勤めの傍ら、青年劇団に所属し芸の道へ。

「主役を取るのは大変だし、これでは飯も食えん」。

将来に悲観的だったそんなある日。

演劇部の恩師の招きで、桂文楽の一席に触れた。

「『これだ!』って思ったわ。だって自分で問いかけて自分で返事すりゃあええんだで」。

噺家への道を模索し、十八歳で初代三遊亭小円歌に入門。

「師匠の高座は歌謡ショーの前荷(まえに/前座)専門。緑のスーツ姿で立体落語と称しては十八番(おはこ)の『ボロタク』。所詮金持ちの手慰み芸だったで」。

そうとは知らず住み込み弟子で一年。

食事は縁側。リンゴ箱に新聞紙を貼った飯台で、冷や飯に梅干一つ。

「喫茶店へお供すると、師匠がコーヒー一杯頼んで。カップの下に少し残して『ほら、お飲みよ』って。あたしなんかそれを白湯で薄めた極薄のアメリカン」。

落語の稽古どころか内職仕事と掃除の毎日。

「もうこの師匠じゃあ駄目だって。師匠の弟弟子にあたった、『山のあなあなあな』の歌奴を頼りに上京したんだけど、結局追い返されちまって。今更帰るに帰れず埼玉県の大宮でパチンコ屋に住み込んでねぇ」。

それから一年後に名古屋へ。

昭和二十九(1954)年、二十歳の年に初代雷門福助に入門し小福を襲名。

「東京深川の列記とした雷門だけどね、うちの師匠は女と博打で失敗して、師匠の実家がある名古屋大須に都落ちしたわけよ。だから弟子入り当初は、あたしも師匠の家に住み込み。三年辛抱したら東京へいかしてやるって約束で、修業しながらただ働きのボイラー焚き」。

ひたすら東京の高座に上がる日を夢見た。

「ところが三年経ったと思ったら『おまえさんねぇ、礼奉公ってのがあるだろう』ってんで、また一年ただ働き」。

しかしその見返りか、お勝手女中をしていた妻花子さんとの縁組が薦められた。

地方巡演を続けながら二年後の昭和三十五(1960)年、二十六歳の若さで芸能プロを設立。

芸人の呼び屋を務める傍ら、出稽古を重ねて話芸を磨いた。

そして昭和五十一(1976)年、四十二歳で晴れの真打へ。

その後は地元大須演芸場で高座を張り続けた。

昭和六十三(1988)年、師匠福助が死去。

東京本家からは福助襲名話が持ち上がった。

「そりゃあ嬉しい話しだったけど。小福の名に愛着もあったし。生涯このまんまで通そって」。

平成七(1995)年には脳梗塞に倒れた。

「平衡感覚が衰えちゃってねぇ。そしたら次は肺気腫。あたしはどうにも昔っから欲深だからねぇ」。小福師匠は大声で笑い飛ばした。

降り注ぐすべての運命(さだめ)を遍(あまね)く受け入れ、笑いにすり替えた噺家人生。

「なごや雷門」の亭号は、噺家の矜持にかけ小福師弟の心意気が護り抜く。

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「昭和を偲ぶ徒然文庫 2話」~「All for you」

先週から毎週火曜日の夜10時には、「昭和を偲ぶ徒然文庫」と題して、過去に新聞に掲載した雑文をご紹介させていただきます。

どうかよろしくお付き合いのほど、お願い申し上げます。

「忌わしき戦争の記憶」2011年3月24日

「堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ…」

特別養護老人ホームの談話室。

テレビの終戦記念特番で、玉音放送の件(くだり)が流れ出した。

父はいきなり立ち上がり、直立不動のまま虚の三八式歩兵銃を両手に戴き、捧げ銃(つつ)の構えのまま嗚咽を漏らす。

時ならぬ父の姿に、周りの老人があたふたと杖を頼りに立ち上がった。

忌まわしき戦争の記憶は、どれだけ心の奥底に封じ込めようと、馬鹿正直にも体は、己の意思と裏腹に反応するのか。

敗戦から半世紀以上を経た今となっても。

父は亡くなる数年前から認知症が進み、夢と現(うつつ)の狭間に生きていた。

ぼくは無礼にも、そんな父の一進一退を、よく天気になぞらえたものだ。

だから母の七回忌を終え、その足で父を訪ねた時は、手の施しようも無い「土砂降り」状態。

母の供物が詰め込まれた、お下がりのお重を開き、立ち尽くす父に差し出した。

「どこの親切なお方か知りませんが、ほなこの牡丹餅頂戴します」。

父は胡乱(うろん)な眼(まなこ)のまま、牡丹餅に舌鼓を打つ。

…今日は息子の顔すら思い出せんのか?…

「あのー、厚かましついでにこの牡丹餅、もう二つ貰えませんやろか。今日は家内の七回忌でしてな。大好物やったでせめて供養にと」。

…あっ!

土砂降りの中を彷徨いながらも、母の命日だけは忘れずにいてくれた…

赤紙一枚に命を弄ばれ、焼土に帰しどうにか手にした、母との倹しい暮らし。

吉凶相半ばの父の人生。

「勝ち負けより、お相子(あいこ)でええ」。

その時初めて、父の口癖だった言葉の、本当の意味を知った。

どれだけ人類が過去からの智の遺産を積み重ね、叡智を欲しいままに極めたところで、争いや諍い、それと愚かしい戦争というものが、各地で今なお繰り返されるのはなぜでしょう?

悲惨な戦争の記憶が薄れゆく度に、戦争に対する恐怖や憎悪まで薄れてゆくようで、不気味な思いを抱いてしまいます。

とは言え、ぼくがこの世に産声を上げたのは、先の玉音放送にこの国の民が泪し、そして誰もがもう家族を一人として戦争で失わなくても良いと、心から安堵したあの日から、たった12年後のこと。

当然のことながら、父は戦地で生死の淵を彷徨い、母は空襲から命からがら逃げ惑った、そんな戦争の渦中に身を挺していたわけです。

父は戦地での出来事を、死ぬまで一切語ろうとはしませんでした。

今になって見れば、それこそが何をかいわんやだったのだと思えてなりません。

しかし多くの無辜の民が流した血の上に、この平和な世が今なお辛うじて曲がりなりにも続いていることを、忘れることがあってはなりません。

それが先の戦争で、尊い命を奪われた方々への、唯一出来る供養でしかないのです。

戦後75年。

昭和は平成へ、そして平成は令和と改まりました。

しかし先の戦争の苦渋と、国民がすべからく味わった塗炭の苦しみを、単に歴史の一頁として葬り去ることだけは、何がどうあれあってはならぬ事だと思います。

愛するすべての人のために、争いや諍い、それに愚かしい戦争が二度と繰り返されないことを切に祈りつつ、今日は「All for you」歌わせていただきます。

「All for you」

詩・曲・歌/オカダ ミノル

 All for you この命懸けて君を守るよ

 All for you 不器用だからそれしか言えないけど

夢ばかりでゴメン見果てぬ事ばかり だけど願い続ければいつか叶うはず

諦めちゃダメさ祈りが零れ落ちる だから合わせた手と手は決して解かない

 All for you この命懸けて君を守るよ

 All for you 不器用だからそれしか言えないけど

 All for you 命の限り君と生きていたい

 All for you 掛替えのない愛を君だけに

今が辛くても明日だけ信じよう たとえこの先に何が待ち受けてようと

ぼくには何にも誇れるものなどない だけど君を守り抜く力だけはある

 All for you この命捧げ君に誓おう

 All for you 照れ臭すぎてそれしか言えないけど

 All for you 命尽きるまで君と生きていたい

 All for you 掛替えのない愛を君だけに

続いては、CD音源から「All for you」をお聴きください。

★今日は、10月8日にお誕生日をお迎えになる「まさこ」さん、そしてちょっと遅ればせながら先週の9月28日にお誕生日をお迎えになられた「あいうえおばさん」の、お二方のお誕生日をささやか~にお祝いさせていただきます。

★毎週「昭和の懐かしいあの逸品」をテーマに、昭和の懐かしい小物なんぞを取り上げ、そんな小物に関する思い出話やらをコメント欄に掲示いただき、そのコメントに感じ入るものがあった皆々様からも、自由にコメントを掲示していただくと言うものです。残念ながらさすがに、リクエスト曲をお掛けすることはもう出来ませんが…(笑)

今夜の「昭和の懐かしいあの逸品」は、とても逸品とは言えませんが「あなたの家の戦争の記憶」。

昭和の時代の半ば頃までにお生まれの方であれば、きっとご両親やお爺ちゃんお婆ちゃんであれば、戦争のあった時代をご存知でいらっしゃったはず。

子ども心にご両親やお爺ちゃんお婆ちゃんに聞かされた、そんな「あなたの家の戦争の記憶」について、何か思い出されることがあったら、ぜひお聞かせください。

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「天職一芸~あの日のPoem 231」

今日の「天職人」は、三重県津市の「銅板表札職人」。(平成十九年五月八日毎日新聞掲載)

カンカラカンと槌音を 響かせながら思い出す      初めて君を抱いた時 晴れ着白粉(おしろい)七五三   銅板叩く表札は 君が選んだ人の姓           いつの間にやら大人びた 巣立つ娘に幸あれと

三重県津市、建築板金の小堀工房。二代目建築板金士で、銅板表札を手掛ける小堀昇市さんを訪ねた。

写真は参考

「銅板細工は風雨に晒され、長い年月を経る度に表情が違(ちご)てくるんさ。まるで子供が成長するみたいに、酸化して緑青(ろくしょう)をまとってくんやさ」。昇市さんは、叩き出したばかりの表札を取り上げた。

昇市さんは昭和三十七(1962)年に、二人兄妹の長男として誕生。

中学二年の時に父が建築板金士として独立した。

「高校二年の時に銅板細工の魅力に取憑かれたんさ。工場の職人が銅板叩き出すのんに見とれて。そしたらなんや見よう見真似でも出来る気がしてきて。当時付き合っとった彼女の誕生日に、ミッキーマウスの銅板プレートを二ヵ月掛けて叩き出して、時計を付けてプレゼントしたんやわさ。材料はなんぼでも売るほどあったもんやで、それにただやったしなぁ」。昇市さんは照れくさそうに笑った。

高校を出ると精密機械製造の仕事に従事。

「フライスとか旋盤の仕事やで、ミクロの精度が求められる世界やさ」。しかし六年後に退職し家業へ。

「寡黙な作業やったし、なんやも一つ魅力がないんさ。中でも一番嫌やったんは、中間管理職にさせられて若い者と上司とのサンドイッチ状態になったでやさ。ストレスやわ。体重なんか二十㎏も減ってしもて」。

家業に戻ると父と共に建築の外装関係の施工を担当した。

「小さい頃はプラモデルが大好きで、部品を溶かしては改造するほどやった。それで小学校五年の時、将来は大工になりたいって言うたら、担任が『それでは駄目だ。なるんやったら建築士になれ』って。なんや先生にみんな見透かされとったみたいやわさ」。

建築板金の仕事は、雨樋や水切り、外装や屋根の金属部までと幅広い。

「古い神社の屋根とかの銅に緑青が葺いとるやん。そうなるまでに最低三十年はかかるんやさ。気の遠くなるような時間をかけて、自然が手を加えてやがて美しい緑色へと変わってくんやで。大自然は偉大な芸術家なんさ」。

平成元(1989)年、中学の同級生だった輝美さんと結婚。

花嫁道具の一つには、ミッキーマウスの銅板プレートが。

十年の時を経て、作者の元へと舞い戻り新居の壁に飾り付けられた。

「今はもう、時計は壊れてもうて動きませんけどなぁ」。

二人の愛の歴史を刻んだ時計は、その役目を終えた。

やがて二男一女が誕生。昇市さんは忙しい家業の傍ら、三十五歳の時に一級建築士の資格を取得した。

小学校の恩師の助言通りに。

「設計を請け負った家が完成するまでに、銅板で表札を作ったんやさ。自分のサイン代わりに」。

引渡しの晴れの日に、施主の苗字が浮かぶ銅板表札は取り付けられる。

写真は参考

まるで建築士の銘を刻むように。

銅板表札一枚に丸一週間。

手袋をはめポンチと鏨と金槌だけの道具で、裏側からコツコツと文字を叩き出す。

写真は参考

新品の銅板は、素手で触れるだけで指紋が残るほどデリケートな金属とか。

「表札一枚作るのにいくらも貰えるもんと違いますやろ。まあ、趣味みたいなもんやろな。でもいつかは、子供に自慢できる作品遺したいしなぁ」。

壁の処女作を見つめ、照れくさそうにつぶやいた。

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クイズ!2020.10.06「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」

いやいや意外な事に、苦肉の策のクイズ「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」が好評?で、皆様からも数多くのコメントを賜りました。

そこで益々気をよくして、ぼくからの一方的なブログではなく、皆様にもご一緒に考えていただいてはと、『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』をしばらく続けて見ようと思います。

でもクイズに正解したからと言って、何かプレゼントがあるわけではございませんので、どうかご了承願います。

そこで今回の『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』はこちら!

ちょっと今回の残り物クッキングは、ぼくの下手糞な写真だけでは、中々判断しずらそうな気がいたします。

赤っぽく見えるソースのようなものは、イタリア~ンなソースではなく、イタリア料理には欠かせない赤い野菜のカット缶に、ナマステな各種のスパイスパウダーを加えて煮込んだものです。本来は、茶色や黄色っぽい色が定番ですが、今回はカット缶の赤い野菜の色の方が勝ってしまっています。

またその上に添えられた直角三角形の物が、これまたちょっと厄介な代物でしょうか?これは、ご飯でも無く、ナンやチャパティー、それにロティーと言ったものの代わりにと、付け添えたものです。

それとこげ茶色のものは、前の晩の酒のつまみの残り物を二度揚げしたものです。

さて、観察眼の鋭い皆様には、どんなものに映りましたでしょうか?

皆様からのご回答をお待ちいたしております。

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本日、22:00の深夜ブログのアップは、明日10月07日22:00に変更させていただきます。

都合により、火曜日を今週だけ、水曜22:00のアップとさせていただきます。

誠に申し訳ありません!

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「天職一芸~あの日のPoem 230」

今日の「天職人」は、岐阜市金園町の「切符売り」。(平成十九年五月一日毎日新聞掲載)

夜の柳ヶ瀬灯が燈る 浮かれ男が酌婦連れ        車乗り付け颯爽と 一張羅着て見栄を張る        夜更けのバス停酔いどれが 夢から覚めてスカンピン   財布の小銭掻き集め どうにかバスの切符買う

岐阜市金園町、岐阜バスの広瀬屋発売所。広瀬治子さんを訪ねた。

写真は参考

かつて全国にその名を轟かせた日本一の歓楽街、岐阜市柳ヶ瀬。

東西南北に路面電車と路線バスが走り、地方の町から多くの人々を柳ヶ瀬へと送り込んだ。

写真は参考

その一角、徹明町のバス停。

郡上・関方面へと向かう路線バスが発着する。

ビルの軒下歩道脇。ひっそり佇むように七十五㌢四方ほどの木箱が置かれている。

「店番しながら街灯の零れ灯で新聞読んどると、スーッと掌が伸びて来て『いくらですか?』って、聞かれたんやわ。回数券渡そうとしたら『取りあえず一回見てもらえばいいんです』って。どうやら辻占と間違えとったみたいなんやて」。治子さんは、二代目を継ぐ夫の直巳さんを見つめて笑った。

夫婦はバスを待つ老人たちに、気さくに挨拶を交わす。

まるでそれが日課のように。

直巳さんは、大島家の二男として昭和二十四(1949)年に誕生。

高校二年の年に、親類の子供に恵まれなかった広瀬家に養子入り。

菓子屋を営む広瀬屋は、昭和二十六(1951)年頃よりバスの券売も始めていた。

「本当は大学へ行きたかったんやて。でも養子に出されたで、菓子屋と券売も手伝わなかんし」。だが養子とは名ばかり。

「それから十年は、実家で暮らしとったで『通い養子』の手伝いやて」。直巳さんは懐かしげに嘯(うそぶ)いた。

昭和五十(1975)年、親類の紹介で治子さんを娶(めと)り、二男一女を儲けた。

「新婚当初は、主人の在所の新家で一年。でも流産しかかって、広瀬のこの家に同居になったんやて。だから親が二世帯分も花嫁道具用意して。三種の神器から茶碗に茶箪笥まで、トラック二台分も。父は物入りやったわ。まるで二回も主人のとこへ、嫁入りしてまったみたいなもんやて」。治子さんは子育ての傍ら、夫と交代で店先の券売に精を出した。

「昔のバス代は今の十分の一ほどやったけど、当時にしたら高い乗物やて。子供会の潮干狩りとか、デパートに買い物とか。取って置きのお出掛けの日に乗る、晴れの日の乗物やったんやで」。

しかし高度経済成長に乗じ、やがてマイカーブームが到来。

乗り合いバス離れが加速していった。

「昔は朝七時から夜の十時まで店出しとったんやて。バスを待つ人らでこの歩道が通れんほどの賑わいやった。だで夜の十時になるとうまいことタイミング見て店閉めんと、いつまでたっても客が絶えんのやで」。直巳さんはバス通りを見つめた。

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「それが今では夜の八時過ぎたら、二~三人なんやて」。治子さんはバスを待つ老婆に笑顔を向けた。

「まあこの商売も近々終いやて。柳ヶ瀬も衰退したまんまやし高齢化やで」。直巳さんは寂しげに笑った。

「もう回数券もICカードに代わってまった。バス会社の合理化か知らんけど、年寄りには使い難(にく)いんやて。だってこれまでズーッと一番バスに乗ってくれとった人らが、いつの間にか年老いて高齢者になっただけやのに。ICカードなんてもんは、バス会社が年寄り切捨てた証しなんやて」。

切符売り夫婦は日がな一日券売所に座し、年老いた馴染み客がバスの乗り降りを無事終えられるまで、我がことのようにそっと見届け続ける。

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「天職一芸~あの日のPoem 229」

今日の「天職人」は、愛知県岡崎市の「鋸目立て職人」。(平成十九年四月二十四日毎日新聞掲載)

シャカシャカシャカと庭先で 大工の棟梁鋸を引く    メリヤス一丁地下足袋で 首に手拭い鯔背だね     シャカシャカシャキン次々と 同じ長さに材を切る    そよ風吹いて大鋸粉(おがこ)舞い 春の陽浴びてキラキラリ

愛知県岡崎市、今泉鋸目立の今泉幸人さんを訪ねた。

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「鋸の目が落ちて『洗濯板』になると、引き肌が荒れて電鋸の音も変わって来るだぁ。目立てを済ませたばっかだと、おとなしく『シーン』と回っとるだで。それと目に木垢(きあか/脂)が付いてまうと『カッスカッス』と鳴くだぁ。まあ半世紀もこの仕事しとるで、鋸の音聞くだけで目の具合も手に取るようにわかってまうだわ」。幸人さんは、輪になった長さ七~八㍍の製材用大型鋸刃を撓(しな)らせた。

幸人さんは昭和十六(1941)年、鳳来町の農家で五人兄弟の二男として誕生。

中学を出ると材木屋を営む叔父から、「手に職を付ければ食いっぱぐれも無いで、目立て職人になれ」と。

「当時、豊橋は材木の町で、ようけ加工場があったじゃんね」。

昭和三十一(1956)年、夜具と衣類を持って製材所へ住み込み修業に入った。

「毎日、親方の自宅の掃き拭き掃除ばっかりだわ。見習いだもんで、給料なんか一銭も貰えんだで」。

それから半年。目立て職人の師匠が退職。

近所の鋸加工所へと移り、幸人さんも師匠に付き従った。

そこでも一年半は無給のまま。

「来る日も来る日も自転車の荷台に、輪になった長さ七~八㍍・幅二十㌢の刃を折り畳み、十枚ほど積んで三軒ほど製材所へ配達するだぁ。毎日十~十五㎞も自転車漕いで」。

夜七時に工場へ戻ると、兄弟子たちの使い走りが待ち受けていた。

「配達の途中でクリーニング屋の小僧とすれ違うだぁ。あいつらはいいだぁ。糊の効いたパリッとしたYシャツ着て。わしらぁ、黒ずんだ作業服でよれよれなんだで。わかるらぁ」。

無給の見習い修業から二年が過ぎた。

「やっとひと月に五百円貰えるようになっただぁ」。

しばらく後、同級生らと再会した。

「あいつら月に一万九千円も貰っとんだて。だもんでピシッとした背広着て、吊りバンドに白黒コンビの革靴履いて颯爽としとんだわ。恥ずかしいでわしは、裏返しにジャンパー着とったって」。

目立ては手鋸と、製材所の電動用帯鋸に分かれ、幸人さんは帯鋸専門の目立てを学んだ。

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「まずは、刃先の広がり具合を整える『アサリ出し』を学んで、切り出す材に応じた刃と刃のピッチを覚えるだぁ。杉や檜は刃のピッチが細かい方がええし。一端になってやっと、刃の抜き型のコマで帯鋸の鋼を打ち抜いて目を立てるだぁ」。

昭和三十六(1961)年。それでも二十歳の頃には一端の目立て職人に成長。他所の鋸目立て加工所が、職工として引き抜いた。

「昔は製材所が、それぞれ目立て職人を抱えとっただ。でも徐々に合理化とかで、職人を置かんようになってまった」。

昭和四十四(1969)年、三重県尾鷲市出身の節子さんを妻に迎え、一男二女をもうけた。

その翌年に独立、現在も得意先の製材所の目立てを請け負う。

「鋼の腰が悪いと『ゼコゼコ』言うし、黒檀や欅みたいな堅い木だと『キャンキャン』と鳴くだぁ。まあええかげん年だし、身体はいっつか定年だて」。

目立て一筋、早や半世紀。

幸人さんは鋸が発する鳴き声一つで、刃の状態を誰よりも正確に読み取る。

天晴れ耳が命の目立て職人!

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