10/13の「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」正解はこちら!

「坊ちゃんカボチャとベーコンのとろ~りパンプキンスープ with こんがりシナモントースト揚げ」

郡上から届いた宿儺カボチャと坊ちゃんカボチャ。

宿儺カボチャは天婦羅やフライにして、キリン一番搾りのお供に!

秋酣を満喫中です。

そして真ん丸っちくって可愛らしい坊ちゃんカボチャを使って、外側の硬い皮を器に刳り貫き、中身をスープにして、一枚だけ残って冷蔵庫で保存したままだったトーストを、揚げパンにして添えちゃえってなもんで、ハロウィンをちょいと先取りしてみました。

ところが!

坊ちゃんカボチャの中の実を刳り貫きやすいようにと、丸ごとレンジでチンしすぎてしまい、カボチャの器の底が割れてしまったのです!アッチャー

しかたがないので、身だけをスプーンでほじくり出し、フードプロセッサーですりおろし、そのまま鍋の中へと移して牛乳を注ぎ入れ、細切りにしたベーコン、コンソメに白ワインと生クリームを加え、とろ火で一煮立ちさせれば出来上がり。

後はスープ皿に盛り付け、上から彩でサンドライトトマトをパラパラッと散らせば出来上がり。

次に冷蔵庫の中でグンニャリしていたトーストを細目に縦切りにし、油で揚げてから、グラニュー糖とシナモナパウダーを振り掛ければ、こんがりシナモントースト揚げの完成です。

カボチャ本来のほんのりとした甘さと、シナモントーストが辛口の白ワインに殊の外ピッタリで、ついついグラスを重ねてしまいました。

今回もお目の高い皆様には、ほとんどニアピンの方が続出でした。

ありがとうございました。

次回も鋭い回答を期待しております。

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「天職一芸~あの日のPoem 241」

今日の「天職人」は、名古屋市中区大須の「歌舞伎一座 座頭(ざがしら)」。(平成十九年七月十七日毎日新聞掲載)

桟敷にデンと陣取って 幕が開くのを待ち侘びる     父は浮かれて冷酒を 湯呑で煽り赤ら顔         芝居も山場佳境入り 贔屓(ひいき)役者の大見得に   ここぞとばかり屋号飛び 舞台へ落ちるお捻りが

名古屋市中区大須、スーパー一座、座長の原智彦さんを訪ねた。

「当たり役は天下を転覆させるような国崩(くにくず)しの敵役、平将門とか清盛かな」。

原さんは昭和二十一(1946)年、長野県大桑村で六人兄妹の五番目として誕生。

父の転勤で小学二年の年に名古屋へ。

高校を卒業すると、電力会社の火力発電所に勤務。仕事の傍ら自分探しを続けた。

「二十四歳の時、愛知県美術館にゴミの作品を出品したんだわ」。まさに昭和四十五(1970)年、都市部を中心に和製ヒッピーが闊歩した時代だ。

前衛的な作品は、保守的な人々の物議を醸した。

「その時、演出・脚本の岩田信市さんと出逢ったんだって。そのまんま意気投合だわ」。

翌年、上司に惜しまれながらも会社を辞した。

「当時レインボー党ってのをみんなで作って、名古屋市長選の立候補者を公募したんだわ」。選挙カーはリヤカー。選挙事務所はTV塔前の公園。七色のテントにカラフルな衣装が党員のユニフォームだった。

予備選が行われ、岩田氏を候補として擁立。5千票を得たものの残念ながら落選。

「選挙も日常の一部として、いたって真摯に市長選に取り組んだんだけどなぁ。そりゃあ時には、公園で野点や踊りに紙芝居も演じたりしたけど」。連日、市政のあり方を熱く論じ合った。

「その後はチリ紙交換や便利屋。オリジナルアクセサリーを作って販売したり。でもこれが実は大当たり。そのおかげで喰わせてもらえたみたいなもんだわ」。

一ヶ月の内一週間だけ思いっきり働き、残りの三週間を自分に投資。

インド放浪にも三度出掛け、物質的な貧しさをものともしない少年の目の輝きに触れ、日本人としての価値観の在り方を自分に問うた。

二十七歳の昭和四十八(1973)年、岩田氏が経営するロック喫茶のアルバイト店員だった舞子さんと結ばれ、一男一女をもうけた。

五年後、大須に拠点を移し大道町人祭りを仕掛け、翌年一座を旗揚げ。

三十三歳の座長が誕生した。

その後のヨーロッパ公演では、ロンドンを皮切りに足掛け七年かけ七ヵ国で日本語版「マクベス」他を二百三十回上演。

「ちょうどイギリスでパンクが流行り出した頃だったんだけど、それよりもっとパンキーだと言われてさ。一流紙が『日本は車だけじゃなく、ついに文化も輸出』と題した記事を掲載するほどだったって」。

生活の一部に組み込まれているヨーロッパの演劇。

それを日本でも実現したい。

原さんの思いは大須師走歌舞伎となって実現し、今年でちょうど二十周年を迎える。

一ヵ月間の公演を控えた六年前、右足アキレス腱を切断。

ギブスを着けたまま病院を抜け出し舞台へ。

摺足(すりあし)・六方(ろっぽう)・見得と、山場の重要な所作も、右足を庇いながら演じ続けた。

さらに昨年、今度は胃癌に倒れ胃の四分の三を摘出。

「死を間近に感じて悟ったって。全力出しっ放しではいかん。ある程度力まず力を抜かんと。アキレス腱切った時も、だから真っ直ぐ立てたんだって」。

今やっと役者として、再出発の門を潜ったと嘯(うそぶ)きながら笑い飛ばした。

「九十歳で踊っとる夢見たんだて。それが俺の宿命かな」。

還暦を迎えた座頭は、今日も演芸場の舞台に挑む。

大須オペラ「カルメン」を引っ提げて。

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「天職一芸~あの日のPoem 240」

今日の「天職人」は、三重県熊野市の「那智黒碁石商」。(平成十九年七月十日毎日新聞掲載)

碁盤を挟む父と祖父 互いに口も開かずに        短い煙草揉み消して 長考の末碁石打つ         囲碁がそんなにおもろいか 兄と二人で首傾げ      祖父のいぬまに盤を出し 五目並べで大人ぶる

三重県熊野市の岡室碁石、四代目主の岡室洋一さんを訪ねた。

七里美浜

那智の黒石は、三重県熊野市神川町で産し、北上川から熊野川へと流れ下り、太平洋を臨む七里御浜(みはま)へと流れ着く。

写真は参考

「その昔の一説には、伊勢路から熊野三山詣でに向かう人たちが、御浜の砂浜で黒石を拾い那智山の熊野那智大社に奉納したのが、那智黒石の始まりとか」。洋一さんは、工場の片隅で椅子を勧めた。

洋一さんは昭和九(1934)年、山林業を営む家に七人兄妹の六番目として誕生。

地元の高校を卒業すると、慶応大学の工学部へ進学。

「当時は熊野から東京まで、和歌山をぐるっと大阪へ回ってから東京へ。ですから片道二十三時間ほどかかったものです」。

大学を出ると東京の小さな貿易会社に入社した。

二年後、家業の山林業を受け持つ番頭が他界。

「父が急ぎ上京しまして、貿易会社の上司に直談判して会社を辞めさせられ、有無も言わさず連れ帰られました」。

昭和三十五(1960)年に帰省し山林業へ。

二年後、和歌山県出身の敬子さんを妻に迎え、一男二女を授かった。

一方、碁石製造は、昭和二十六(1951)年に洋一さんの父が神川町に工場を開設し、やがて兄が製造販売会社を設立。

その後の高度経済成長の追い風を受け、昭和四十(1965)年代に入ると、兄は次々に事業を拡大させていった。

「砂利販売の会社や、輸出用スリッパの販売会社に手を染めて、借金も次々に膨らんで。それで困り果てて経営を兄から姉婿へ、そして父へとバトンタッチしたんです」。

洋一さんも山林業の傍ら、碁石製造も手伝い父を支えた。

しかし昭和四十三(1968)年、碁石の製造から撤退する憂き目に。

「宮崎県日向のお倉ケ浜で採れたはまぐりが激減し、最高級と称された国産白石が製造出来なくなって。黒石みたいなもんは、白石ほど値の付く物と違いますから、その後は日向の碁石屋に頼んで黒石の加工もお願いするようになりました。だから今は製品になった碁石を仕入れる卸売りです」。

山林と碁石、洋一さんの二束の草鞋生活は、昭和五十六(1981)年に父が他界する年まで続いた。

そしてその年、父の跡を継ぎ四代目の主に。

那智の黒石は、黒色硅質頁岩(こくしょくけいしつけつがん)で、鑿で割ると板状になるのが特徴。

「昔は四角く切って、四つの角と四つの辺を八角に鑿で斜めに割って鉋掛けして角を落としていました。それから面取り機の登場、そしてコアドリルと呼ぶもので板状の黒石を丸く抜くようになりました」。

碁石の一組は、先手の黒石が百八十一個に、後手の白石が百八十個。

日向のはまぐりから製造する白石は、蝶番(ちょうつがい)の方から順に花・月・雪と呼ばれ、雪が最上級とされる。

肉厚な一つの貝から一~二個しか取れない貴重品。

「日向のはまぐりは、貝で言う年輪のような目切れが真っ直ぐ。最上級の雪印の厚さは十一.三㍉。三年かけて一組出るかどうかで、値段も一千万円の代物です」。

洋一さんは秘蔵の逸品を取り出した。

写真は参考

布石からヨセへの手筋の妙が碁ならば、生を授かりやがて世を去るまでが浮世の妙か。

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「天職一芸~あの日のPoem 239」

今日の「天職人」は、岐阜県美濃加茂市の「釜飯立ち売り人」。(平成十九年七月三日毎日新聞掲載)

発車のベルが急き立てる 釜飯売りも大わらわ      窓越しに君 不安顔 つり銭掴み飛び乗った        蒸気を上げて汽車は出る 野山に汽笛轟かせ       二人一つの釜飯は 割り箸キッスの魅惑付き

岐阜県美濃加茂市で駅弁を製造する向龍館。飛騨路名物、松茸の釜飯をホームで流し売る原口民生さんを訪ねた。

高山線美濃太田駅。

高山へと向かう下りホーム。

「間も無く四番線には、普通列車高山行きが…」。アナウンスが流れ出す。その声と同時に、首から四角い盆を吊り下げ、釜飯の立ち売り人もホームの花道へと繰り出した。

「まだ普通列車やでのんびりしとれるんやけど、特急は一分の停車時間に、大急ぎで積み込まんなんのやで」。民生さんは、駅弁に駆け寄る客を巧みに捌きながら笑った。

「この列車が出たら、あっちのホームへ行ったらんなん。さっき向こうで手振っとったで」。

民生さんは昭和二十三(1948)年、警察官を父に五人兄弟の末子として佐賀県で生まれた。

その後父の転勤に伴い鹿児島で高校を卒業。その足で姉を頼り大阪へ。

新聞配達を続けながら自らの天職探しに明け暮れた。

「あの頃は何にでも興味があったで。デザイン学校行ったり、タレントスクールへ通ってみたり」。その後二十四歳の年に、広告関係の仕事に就いた。

「それから二年後やったかな。広告を取りに行った先の、子供向け百科事典の販売会社から誘われて」。転職し岐阜へ。

それから三年後。二十九歳の年に、今度は別の百科事典の出版社から、販社としての独立を持ち掛けられ美濃加茂市へ。

昭和も終盤に差し掛かかり、子供向け百科事典の売れ行きにも翳りが射し始めていた。

ついに三十六歳で見切りをつけ、潔く販社を畳んだ。

「それからは、工場勤めに向いとらんもんで、何やっても長続きせん」。

線路工夫に土木作業員と、本物の天職を追い求め原口さんは流転を繰り返した。

「その日もちょうど仕事探して、ブラブラ歩いとったんやて。そしたら店の窓に急募の貼り紙があったもんで、そのまんま飛び込んだんやわ」。

駅で釜飯を売り歩く前任者が辞めたばかりで、原口さんはその後任となった。

「もともと客あしらいは上手いほうやったし」。原口さんは四十九歳にして、やっと水の合う職に流れ着いた。

飛騨路名物として名高い松茸の釜飯は、竹の子・松茸・鶏肉・わらび等をご飯に混ぜ、じっくりと炊き上げた薫りたつ逸品。

「高速道路が開通して、今ではお客も三分の一だわ.。みんなバスやマイカーだでねぇ」。

昔は売り子だけでも五人もおり、昼前までに百個を販売する盛況振りだったとか。

「今は多い日でも一日百八十~百九十個がやっと」。

昔ながらの陶器製の釜は、昨年末よりセラミック製に、木蓋もプラスチックに変わり果てた。

「それも時代の流れやろ。昔の陶器製に比べたら、こっちの方が幾分軽てええけど」。

原口さんは茶化しながら、帆布のベルトを首に回した。

「ほんでも常連もおるし。『お~い。兄ちゃん、また来たで。一つ土産にもうとこか』って、関西の方も見えるし。病院の見舞いだとか。ホームでは色んな人生とすれ違うで楽しいわ」。

およそ半世紀を掛け、やっとたどり着いた天職「釜飯の立ち売り」。

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「天職一芸~あの日のPoem 238」

今日の「天職人」は、愛知県知立市の「茶碗屋女将」。(平成十九年六月二十六日毎日新聞掲載)

嫁入前の荷造りが 遅々と進まぬそのわけは       別れを惜しむ物ばかり 父母に兄妹泣き笑い      「想い出なんか置いて行け」 やる方もなく父が言う   一つ頷(うなず)き妹は こっそり隠す欠け茶碗

愛知県知立市の恵比寿屋、三代目女将の小久江(おぐえ)好子さんを訪ねた。

旧東海道。

池鯉鮒(ちりゅう/知立)の宿。

黒く色褪せた町屋がわずかに残る。

「『今日の弘法さんは、何頭走ったか?』って言うくらい、昔はこの左馬の茶碗が痛風除けのお土産としてよう売れたって」。好子さんは、店先のご飯茶碗を取り上げた。

「新しい窯に初めて火入れする時、左馬の茶碗を焼いて窯元が縁起物として配ったのが本物。これはそのご利益にあやかろうと真似た茶碗だわ」。

好子さんは岐阜県土岐市の沼田家で、昭和十五(1940)年に誕生。

「陶器処で生まれて、まさか茶碗屋に嫁に来るとは」。

戦後復興が急を告げる中、高校へと進学。

「当時、主人は大学を出たものの就職難で、土岐の製造会社に勤務しとったんやわ。そんな関係からか、私の家庭教師だったんだわ」。

それが縁で結婚を誓い合ったのかと問うてみた。

「ぜ~んぜん!そんな気さらさらあれへん」。

高校卒業後は、タイピストの専門学校へと通い、昭和三十四(1959)年に名古屋の三菱重工へ入社。

「会社の中を歩いとったら、そこでまた主人とピタ~ッと逢って」。

それからはご主人善彦さんの猛攻が続いた。

しかし「電話があっても居留守使って、結納も親に返してくれって頼み込んだほど。まだ若かったし結婚なんて考えられんかったでねぇ。でも赤い糸で繋がっとるかも知れんとは、何となく感じたんやわ」。

店の前に一台の軽トラックが止まり、老人が満面に笑みを浮かべ降りて来た。

「ねぇ、善彦さ~ん。あんた私を浚(さら)いに来たんやったよねぇ」。「そうだよ~っ!」と、照れるでもなく夫。

何とも聞いているのが馬鹿らしいほどの鴛(おしどり)ぶりだ。

「みんな釣った魚に餌やらんって言うけど、この人はボーナスが出るとポーンと渡して、お前の好きなもの買って来いって。私がそんなことよーせんの知っとるもんで」。

昭和三十七(1962)年に結婚し二女を得た。

恵比寿屋の創業は明治初期。

「茶碗屋としては三河地方で一番古いらしいわ。祖父がよく自慢しとったで。それが証拠に、あれが当時のイナイ棒(天秤棒)だわ」。好子さんが天井の梁を指差した。直径五㎝ほどの天秤棒が何本も梁の上に横たわる。

「義父は早朝四時頃から自転車に乗って、瀬戸の作家を巡って買い付けに出掛けとったらしいでねぇ。だで目利きも鋭かったわ。私らはあかん。駄物以外わからへん」。

ご飯茶碗に抹茶茶碗、湯呑に急須や土鍋まで、ありとあらゆる陶器が山積みだ。

「祖父の代からの古い瀬戸物が一杯あるもんで『売ってくれんか』とか、『古瀬戸やけど買うてくれんか』とか、いろんな人が見えるわ。でも『財産無くすで古い物には手を出すな』が義父の遺言やったで、売り買いようせんわ」。

棚の上に居並ぶ狸の置物。

「杖は転ばぬ先の杖。笑顔は厄除け。大福帳は喰いっぱぐれないように。大きな金玉は金運に恵まれるようにって、縁起物の神の化身だわ」。

陶器の産地から三河へと、赤い糸に導かれ早四十五年。

女将の口から澱みの無い売り口上が流れ出た。

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「昭和を偲ぶ徒然文庫 3話」~「泪にCheers」

「『リンゴの唄』に希望の光」2011年4月21日(オカダミノル著)

 「♪赤いリンゴにくちびる寄せて だまって見ている青い空…♪(歌/並木路子、霧島昇)」。

ご存知昭和の歌謡史を代表する「リンゴの唄」だ。

空襲で家も家族も失い、焼け野原でただ呆然と立ち尽くす人々に、「それでも今日を生き抜け」と、希望の火を燈した不朽の名曲である。

先月十一日、東日本を襲った大震災と大津波。

その惨状を並木さんが目にしたら、きっと直ぐにでも、天国の階段を駆け降りて来ただろう。

かつて阪神淡路大震災の折、被害が甚大であった神戸市東灘区の小学校校庭で、車のヘッドライトをスポットライト代わりに浴びながら、被災者を励まそうとこの曲を歌ったように。

当時の彼女は七十三歳。

「リンゴの唄」のデビューから数え、ちょうど半世紀が経とうとしていた。

オリンピアの聖火が世界平和の象徴であるとするならば、彼女が半世紀を賭け歌い継いだ「リンゴの唄」は、被災者の塞ぎ込んだ心に燈る希望の灯かり、「聖歌」であった。

同時にそのリズムは、復興へと歩み出す槌音だったに違いない。

「♪リンゴは何にも いわないけれど リンゴの気持ちはよくわかる リンゴ可愛いや 可愛いやリンゴ♪」

リンゴの産地東北で、耳を澄ませば春風に乗って、空の彼方から並木さんの歌声が、被災者の耳元へときっと届くことだろう。

「どんな時でも、明日を信じて共に生きよう」と。

幼子は、倒(こ)けつ転(まろ)びつ伝い歩きを始め、やがて確かな一歩を踏み出すもの。

鳴き砂さえ涙を涸らした東北にも、明日はきっと訪れる。

あの日、2011.03.11、ぼくはラジオのスタジオでの生放送中に、あの東日本大震災の瞬間に立ち会うこととなりました。

何とも不気味な横揺れが、結構長く感じられたものです。

それから時を追うごとに、TV画面からは目を覆いたくなるほどの惨状が繰り返し放送され、未だにその残像が瞼に刻まれています。

皆々様はあの日あの時、どこでどなたと何をなさっていらっしゃいましたか?

紙一重の生と死。

あの時は、否が応でも考えさせられたものです。

そして得た結論は!

いつ天に召されるかは、神のみぞ知るものとすれば、今日が、明日がその日であったとしても、悔いることのないように、将来どうありたいかばかり、見果てぬ夢ばかりを描いておらず、今日を、今を少しでも悔いを残さぬように、今日、今出来ることを出来る範囲で果たすことだと、そんな結論を得たものでした。

だから「頑張り過ぎずに頑張りゃあいい」んです。

人は絶望の淵に追いやられても、命ある限り生き抜かねばなりません。

その絶望の淵とは、何も災害ばかりではなく、こんな世の中、一番忌み嫌うべき人災だってあります。人が何気に放った刃のようなたった一言の言葉が、大きく相手の心を抉ってしまうことだって、天災に劣らぬほどの人災です。

避けて通りたくとも避ける事さえ儘ならず、真っ向から受け止めざるを得ないことだってあります。

そんな時皆々様は、どのように傷付いた心を解き放たれようとされますか?

ぼくは知らぬ間に、子どもの頃口ずさんだ唱歌を諳んじながら、大空を仰ぎ見てしまいます。

少なくとも今ほど穢れを知らず生きていた、そんな純真だったころの唄をせめて口づさみながら。

それがぼくにとってのエールソングなんでしょうねぇ。

今夜は、弾き語りで「泪にCheers」をお聴きください。

「泪にcheers」

詩・曲・歌/オカダ ミノル

こぼれ落ちた 泪の数だけ 幸せが 君を待ってるはず

素直なままの心で  誰の目も気にせず 君は君らしく

戻れない もどかしいあの日 悔やんでも 心晴れやしない

明日だけただ信じて  君の明日は 君だけのもの

 泪にcheers 差しつ差されつ 酒ですべてを 呑み込めばいいだけ

 泪にcheers 酔い潰れても ぼくが傍に いるから

掴み損ね 転げ落ちた夢も 掴めるまで掴み続けれりゃいい

もう駄目と 溜息落とせば 叶うものさえ 潰えてしまうだろう

生きていれば 誰もが夢抱く トキメキに心躍らせては

やがていつか 傷付く怖さに 怯えないで心まで閉ざさないで

 泪にcheers 君の哀しみ 最後の雫   枯れ果てるまで流そう

 泪にcheers 泣き疲れても ぼくが傍に いるから

 泪にcheers 差しつ差されつ 酒ですべてを 呑み込めばいいだけ

 泪にcheers 酔い潰れても ぼくが傍に いるから

続いては、CD音源から「泪にCheers」お聴きください。

★毎週「昭和の懐かしいあの逸品」をテーマに、昭和の懐かしい小物なんぞを取り上げ、そんな小物に関する思い出話やらをコメント欄に掲示いただき、そのコメントに感じ入るものがあった皆々様からも、自由にコメントを掲示していただくと言うものです。残念ながらさすがに、リクエスト曲をお掛けすることはもう出来ませんが…(笑)

今夜の「昭和の懐かしいあの逸品」は、これまた逸品ではありませんが「なぜかふと口ずさんでしまう唱歌の思い出」。

とくに最近、知らぬ間に子どもの頃に習った、唱歌を口ずさんでいる自分に気付くことがあります。

特にウォーキングをしている時や、車を運転している時など。

ぼくの場合は、「みかんの咲く丘」や「ふじの山」だったりします。なぜか薄ら覚えの歌詞を口ずさむと、穢れを知らなかった子どもの頃の純な気持ちが、ほんのわずかですが蘇ってくるようで、なんとも素敵です。

皆々様は、いつどんな時に、子ども心の唱歌を口ずさんだりなさいますか?今回はそんな「なぜかふと口ずさんでしまう唱歌の思い出」について、思い出話をぜひお聞かせください。

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クイズ!2020.10.13「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」

いやいや意外な事に、苦肉の策のクイズ「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」が好評?で、皆様からも数多くのコメントを賜りました。

そこで益々気をよくして、ぼくからの一方的なブログではなく、皆様にもご一緒に考えていただいてはと、『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』をしばらく続けて見ようと思います。

でもクイズに正解したからと言って、何かプレゼントがあるわけではございませんので、どうかご了承願います。

そこで今回の『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』はこちら!

旬のほんのりと甘~い野菜のスープです。

何だか昭和の学校給食のようなランチになりました。

でもどこか懐かしくってほっこりしたランチを楽しめました。

さすがにこのメニューにビールって感じじゃないので、白ワインをいただいて見ました。

今回もお目の高い皆様のニアピンなお答えが続出するのではと、ヒヤヒヤものです。

皆様からのご回答をお待ちしております。

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「天職一芸~あの日のPoem 237」

今日の「天職人」は、三重県四日市市の「舞踏場小屋主」。(平成十九年六月十九日毎日新聞掲載)

ミラーボールに跳ね返る 光を浴びた舞姫は       ダンスホールに舞い降りて 熱い視線を独り占め     ワルツにラテン舞姫が 軽くステップ踏む度に      ドレスの裾も翻(ひるがえ)り 溜め息落とす男たち

三重県四日市市のダンスホール「シャル・ウィー・トキワ」。小屋主の前川カズエさんを訪ねた。

「毎日がバラ色の舞踏会みたいなもんやね」。カズエさんは、背筋をピンと伸ばした。

カズエさんは昭和三(1928)年、大安町の農家で七人姉弟の長女として誕生。

尋常高等小学校を出た昭和十八(1943)年、名古屋の航空機会社で事務職に就いた。

泥沼と化した戦況は、日に日に悪化の一途。

「三河大地震が収まったと思ったら、今度は空襲の嵐やわ。友達と手ぇ繋いでお宮の境内まで逃げて、大きなご神木に必死んなって抱きついて。いっぺん田んぼ道を逃げ回ってたら、爆弾が落ちて気ぃ失ってもうて。しばらくして顔上げると、友達も泥っぺたけの顔上げて『私らまだ生きとるねぇ』って泣き笑いしたもんやわ。周りには死体がゴロゴロしとったのに」。

熱田大空襲の翌日、命からがら実家へと舞い戻った。

終戦の翌年、地元の電気メーカーの事務職として再就職。

「旦那に上手に見つけられたんやさ」。

同じ職場の故貞一さんと、昭和二十四(1949)年に結ばれ、三人の男子をもうけた。

「生活難の時代やったでねぇ。旦那が勤める会社の電化製品の、銘板作る内職で必死やさ。当時は二十円のイワシ一匹買うのんもやっとこせでな」。

ところが一転、世は高度成長時代へと雪崩れ込み、三種の神器として「テレビ・冷蔵庫・洗濯機」が飛ぶような売れ行きに。

貞一さんは会社を辞し、常盤工芸を設立。

電化製品の銘板を主力商品に、時代にうねる高波に乗じ家業を安定させていった。

「子供が中学生の頃やったろか。旦那が社交ダンスをかじり出して、『お前もどや?』って誘われて、ほんのちょっとだけ通ったんやわ。でも仕事も大忙しやったもんだからそれっきり」。

どうにか自分の時間が持てるようになったのは還暦の年。

わずかばかりの時間を拾い集め、仕事の合間を縫って夫と連れ添いダンスホールへと通った。

だが今から十三年前、最愛の夫が死去。

それでもカズエさんは、息子に譲った家業に七十歳まで従事した。

翌平成十一(1999)年、ダンスホールを開設。

「周りの友人らもみんな、これから高齢化するばっかりやし私もその部類やで、そんなら自分らで楽しんだろかって。そしたら息子が『最後の人生やで、あんたの好きにしなはれ』ってゆうてくれたもんやで」。

カズエさん所有のビル一階に七十坪のダンスフロアが誕生した。

「最高齢は私やさ。それでも足と頭の運動になるし、呆け防止にもええから」。

小家主の仕事はと問うてみた。

「そんなん、もっぱらおしゃべりとダンスやわ」。カズエさんは少女のように笑った。

「家におるだけやったら、モンペはいてしまいですやろ。でも煌びやかな衣装一枚羽織るだけで、たちまち女に戻れるんやで」。

働きづめの七十年に報いた自身への褒美。

それが舞踏場だった。

ついにこのホールで最愛の夫とステップを踏むことは叶わなかったものの、まるで人生を巻き戻すかのようにカズエさんの軽やかなターンは続く。

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「天職一芸~あの日のPoem 236」

今日の「天職人」は、岐阜県高山市の「手燭(てしょく)職人」。(平成十九年六月十二日毎日新聞掲載)

稲妻落ちた停電で 辺り一面闇の中           母は慌てて手探りで 蝋燭見つけ火を燈す        小さな灯かり寄り添えば 父は毎度の十八番       障子に映る影狐 団扇に揺らぐ暑い夜

岐阜県高山市、銅工房滝村。手燭職人の滝村幸次さんを訪ねた。

囲炉裏端。

熾(お)きの残り火と、和蝋燭に燈(とも)し出される柔らかな明かり。

テレビもラジオも無かった静かな時代。

炎に揺れる影を見つめ、網戸越しに虫の音を聞きながら、更け行く夏の夜を見送った。

「蝋燭の火がゆらゆら揺れて、柔らかな灯かりに包まれると、そんだけで何や落ち着くもんや。普段セカセカしとるもんで余計にそう感じるんさね」。幸次さんは、少年のような満面の笑みを向けた。愛妻の冨士枝さんも、これまた夫に劣らぬ笑顔を添える。

幸次さんは昭和二十二(1947)年、靴職人の家の五人兄弟の末子として誕生。

中学を出ると板金屋の見習い修業へ。

「まわりから職人になった方がええぞって言われたもんで」。

屋根、壁、樋(とい)の建築板金を学んだ。

一通り技術も身に着いた三年後、金沢の板金屋へ。

「賃金も良かったし、都会へ出てみたかったんやさ。でも名古屋や東京は好きじゃなかったでのう」。

車庫の二階に住み込み、板金の腕を磨いた。

再び三年後の二十一歳の年、母が病床に伏し高山へと帰郷。

昭和四十三(1968)年、高度経済成長期の真っ只中、板金職人として独立した。「もう腕も一端やったし、人に使われるのは面白ないで」。

とは言え、弱冠二十一歳の若造。老獪(ろうかい)な職人の世界では、まだまだ雛同然だった。

「何か特徴的なことせんと、何時まで経っても舐められるで」。

そんなある日。春日灯籠から漏れる、蝋燭の何とも優しい明かりに目を奪われた。

「奈良へ出かけて行ったりしては、釣り灯籠とかを独学で勉強し初めたんやさ」。

知り合いの金具職人を訪ねては、その技を真似て銅細工に応用した。

やがて灯籠から燭台、手燭、懐中燭台、香皿へと、作品の域を拡大。

「まあ得手は灯籠と、この通称ブラブラって呼んどる自在手燭やさ」。

自在手燭とは、昔ながらの手燭の応用版。

蝋燭の倒れ止めを付けた燭台は、柄と一体の外枠と、柄と切り離した内枠に燭台を鋲(びょう)で固定したものだ。

だから廊下を持ち歩こうが、燭台は常に水平を保つ。

柄は最大九十度曲がり、鴨居に掛けることもできる。

「やっぱり手燭には、和蝋燭の赤じゃねぇと面白くねぇんさ」。

燻(いぶ)し出された銅の手燭と、和蝋燭表面の赤が何とも対照的だ。

独立から三年。

二十四歳の年に冨士枝さんと結ばれ、二男をもうけた。

「左官職人の紹介でさ、そんでもってイチコロやさ」。

手燭はまず、銅のフラットバーを曲げてコの字に加工。

コの字の外枠と内枠を銅の鋲でかしめて溶接。

次に銅板をいも槌(金槌)で叩いて皿を作り、コの字の内枠に鋲でかしめる。

皿の中央には銅の丸棒を叩き出した心棒をかしめ、薬品で燻し上げグラスウールで磨けば完成。

「わしゃあもう、何時逝ってもええんやて。わしが生きた証に『幸』の字の刻印打ったるで。子供らもそれ見たら、親父の作品やってわかるでな」。

そう言って職人は妻を見つめた。

和灯かりに負けるとも劣らぬ、満面の笑みを浮かべながら。

*この取材後、幾度となく高山を訪れる度、「幸次君、冨士枝ちゃん」と呼びつつ、酒を酌み交わすほどの友人となりました。今は残念ながら、コロナの影響でなかなか逢えなくて残念な限りです。

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10/06の「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」正解はこちら!

「角麩の素揚げと二度揚げ唐揚げ添えトマトカレー」

前の晩のつまみにした、鶏のから揚げの残り物と、特売でついつい買い込んでいた角麩を素揚げして、カットトマト缶2缶に、成城石井で買ったギャバンの手作りカレー粉セットを加えたトマトカレーに添え、彩で缶入りのスイートコーンを散らせば、「角麩の素揚げと二度揚げ唐揚げ添えトマトカレー」の出来上がりです。

ぼくは晩酌のつまみ代わりにいたしましたので、ライスもナンも無いまま、その代わりが素揚げした角麩という塩梅でいただいて見ました。

ギャバンの手作りカレー粉セットは、ちょっとマイブームで、スパイスをお好みでブレンド出来ちゃうスグレモノです。

小分けされた小袋に、20種類のスパイス(ターメリック、クミン、コリアンダー、みかんの皮、フェネグリーク、フェンネル、シナモン、カエンペッパー、ガーリックグラニュー、ジンジャー、デイル、オールスパイス、カルダモン、クローブス、スターアニス、セイジ、タイム、ナツメグ、ブラックペッパー、ベイリーブス)が入っていて、カレー粉をカスタマイズしちゃうってぇわけです。

ぼくはまだ素人のため、全種類を全部使って説明書による20人分のカレー粉を作って、小瓶に入れて冷蔵保存し、カレーが食べたくなったらその瓶からスプーン2~3杯を加えて、自分好みに味付けして楽しんでいます。

これで500円くらいですから、とってもリーズナブルですし、インスタントのカレールーのような胸焼けも無く、あと口が何よりさっぱりしているからご機嫌です。

今回は、この「角麩の素揚げと二度揚げ唐揚げ添えトマトカレー」をあてに、キリン一番搾りをグビグビと煽ってしまいました。

今回もいつにも増して、観察眼の鋭い皆様方のニアピンが多かったですねぇ!

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