今日の「天職人」は、岐阜市日ノ出町の「支那そば屋」。(平成十九年十月二十三日毎日新聞掲載)
給料後の日曜は 母も朝から紅を注し 家族三人バスに乗り 目抜き通りの百貨店 とは言え母の行く先は 均一売り場の八十円 散々悩み「また今度」 〆は月一 支那そば屋
岐阜市日ノ出町の支那そば屋、丸デブ総本店三代目の神谷房昭さんを訪ねた。

「家は宣伝やったらお断りやよ」。
いきなり挨拶代わりに、そんな言葉で迎えられた。
「は~いッ、おおきに~ッ!」。
午後三時を過ぎても客足が絶え無い。
「お待ちどうさん」。
盆に載ったラーメンが運ばれて行く。テンコ盛りのスープが丼から盆に溢れ出す。
品書きはラーメンとワンタンのたったの二品だけ。

いずれも三百五十円と目を疑いたくなる。(平成十九年十月二十三日当時)
「ラーメンなんて大衆的な食べ物やで、具をあれこれ入れて高い値段にするよりも、安くて美味しくお客さんに召し上がってもらって何ぼのもんやって。創業以来それで名を売って通してまっとるでねぇ。今更変えてまうと、お客さんから叱られるんやて。『余分なことするな!』って」。房昭さんは、前掛けで濡れた手を拭った。
房昭さんは昭和29(1954)年に三人兄弟の長男として誕生。
高校を出ると繊維問屋に勤務。
「まあいずれは家を継がんなんとは思っとったでねぇ」。
二年後、家業へ。
丸デブの創業は大正6(1917)年。
東京の支那そば屋で修業した祖父が、郷里に戻って開業したのが始まり。
「まだ東海地方にラーメン屋自体が無くって、引き売りから始めて相当苦労したらしいわ。それでも柳ヶ瀬の歓楽街に店を構えたもんで、粋な旦那衆に持て囃されてったらしいわ」。
房昭さんを遮るように母笑子さんが口を挟む。
「同じ町内に三人デブがおったんやて。一人が蕎麦屋の大将で、一人はうどん屋の大将。そしてもう一人が家の義父(おとう)さん。義父さんがよう肥えとったもんで、お客さんから『丸デブ』って屋号付けられたそうやわ」。
昭和56(1981)年、銀行員だった康子さんを見初め、妻に迎え男の子を授かった。
「それが取引先の銀行やないんやて」。母がこっそり笑った。
「もうお客さんも四代目になっとるし。中には『お前んとこのそばは、お袋のお腹ん中におる時から喰うとった』って言うお客さんもおるんやて」。九割近くが常連とか。

丸デブの支那そば作りは、毎朝の麺打ちに始まる。
小麦粉・塩水・潅水(かんすい)で手捏ねし、打ち粉を振り機械で麺帯(めんたい)に延ばし、切刃を通してやや太みのある麺に仕上げる。
次に鶏がらでスープを取り、チャーシューを溜りで煮上げる。
注文が入れば、丼にチャーシューの煮汁タレとスープで味を調え、茹で上げた麺を浸す。
仕上げに刻み葱・蒲鉾・チャーシュー三切れを載せ、一杯二分半で完成。
「テンコ盛りのスープの理由か?そうやなぁ、戦後喰うもんも無い時代、空腹を満たしてもらうためやったんやないかなぁ」。
晴れの日も雨の日も、庶民と共に九十年。
丸デブの頑固なまでの商いは、多くの庶民が今日も護り続ける。
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