「天職一芸~あの日のPoem 380」

今日の「天職人」は、愛知県知多市の「釣りエサ屋」。(平成22年7月31日毎日新聞掲載)

「晩のおかずは任せとけ」 寝巻き姿の母に告げ         夜も世も明けぬのに颯爽と 父はエサ屋へ大急ぎ         待てど暮らせど引きは無し 餌だけ食われ帰り道        「手ぶらじゃかん」と釣りエサ屋 生簀(いけす)覗いて品定め

愛知県知多市、釣りエサ友松。主の友松昭治さんを訪ねた。

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確かにこの店のはずだが。入り口を少し開け、声を掛けるが一向に応答が無い。

こっそり耳を凝らすと店の奥から、気持ちよさそうな鼾が聞こえて来るではないか。

「雨降りの昼間は客がこんで、うつらうつら仮眠ベットで居眠りしてまうんだわ」。昭治さんは、大きな伸びを一つした。

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昭治さんは昭和14(1939)年、大分県中津市の農家で5人兄弟の次男として誕生。

中学を出ると線路工夫に。

「卒業式の明くる日から、鶴嘴(つるはし)担いどったって」。

18歳になると今度は、北九州市へ出て沖仲仕に。

さらに4年後の昭和36年には、大阪難波の天ぷら屋に住み込んだ。

「そんなもん、いつまでたっても海老の皮剥きばっかだて」。

翌年、さっさと飲食業に見切りを付け土木作業員に。

それから3年後。

同郷出身の佳子さんと所帯を持ち、姉を頼って名古屋へ。

「倉庫で麦や米の積み下ろし作業だわ」。

やがて一男一女に恵まれた。

それからフォークリフトの免許を取得し、平成4年に退職するまで、数社を股に掛け家族を支え抜いた。

「51歳になった平成元年だわ。この店の道挟んだ前で、『たこ焼の友ちゃん』を始めたんだて。だって給料は振込みだで、みんな女房の懐に入ってまうだろ。でも店やっとりゃあ、小遣いちょろまかせるがあ」。

だが、たこ焼きを焼いた経験すら無い。

「そんだで、昔たこ焼き焼いとったおばちゃん見つけ出して来て。そしたらこれがどえらい売れるんだって。近くには海釣り公園や、マリンパークがあるもんで、客から『釣りエサないんか?』ってよう言われてな。そんなら、エサも売るかってなもんで」。

ところが肝心の、エサの仕入れ先がわからない。

「毎日、問屋探しだわ」。

やがて3軒の問屋にたどり着いた。

「東浦の問屋からは、四国で養殖したイシゴカイ、アオムシ、カメジャコ、それにインドネシアから輸入するストロー。常滑からもイシゴカイに中国産のアオムシ。静岡からは、冷凍のアミエビ、注しエサ用のオキアミだわ」。

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徐々に常連客も付いた。

「朝4時に店開けに来ると、もう4~5人客が待っとるんだて」。

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秋冬は黒鯛にセイゴ、春から夏に掛けてはキス、メバル、タコが上がる。

「常連の多くは、自分の釣り船持っとる人らだわ。中には定年後に毎日来る客もおるって」。

1杯500円のエサで、日がな1日釣り人たちは波間に竿を延べる。

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「でも10年前から、たこ焼きがさっぱり売れんくなってまってな。それで今は釣りエサ一本だわ」。

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2年前暮れのことだ。

「あんたとこのエサ屋から火出とるで!って、近所のもんが慌てて飛んで来てなあ」。

心無い放火で店舗が焼失した。

「一時は、店畳もうかと思ったて。でもそんなこと知らずに、客は楽しみにエサ買いに来るで、まんだ閉めるわけにもいかんわ」。

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「天職一芸~あの日のPoem 379」

今日の「天職人」は、岐阜県関市の「白銀師」。(平成22年7月24日毎日新聞掲載)

(やいば)(まみ)える武士(もののふ)は 鯉口切ったその刹那              (つか)に命を握り締め 生死の間合い推し量る            (はばき)に刻む鑢目(やすりめ)に 武運を祈る白銀師(しろがねし)               鞘に隠した護符となれ 神よご加護を(つわもの)

岐阜県関市の兼吉刀剣、白銀師しろがねしの小坂稔さんを訪ねた。

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こぢんまりとした町にも関わらず、やたらと鰻屋の暖簾を見かける。

「そうやて。ここらは、刀鍛冶が多かった町やで、窯業の盛んな所と同じように、鰻屋がよおけある。刀鍛冶は、夏でも冬でも汗だくんなって、()()で火を焚かなかんでな。刀匠が刀工たちを引き連れて、鰻食わせて精をつけさせた名残やわ」。稔さんが、(やすり)を掛ける手を止めた。

稔さんは刃物問屋を営む父の元で、三人兄弟の長男として昭和21(1946)年に誕生。

大学を出ると剃刀の製造会社に入社。

品質管理を担当したが、わずか2年で退社し家業へ。

「その頃家では、プラスチックの成形と、打ち粉や油、それに拭い紙なんか、刀の手入れ具を製造しとったんやて。おまけに家のお爺は、馴染みの客から『刀研いでくれ、鞘や(はばき)作ってくれ』と頼まれて、お袋に手伝わせながら、ここらの職人に口利いとったんやわ。だからお爺が死んだら、母がお爺の仕事をやらせて欲しいと言い出してな。そしたら、そんなもん女の仕事やないやろってことになって、気付けばまんまと母にそそのかされ、ぼくにお鉢が回って来て。でもその内、鞘とかの木工よりも、研ぎや(つば)とか金目のもんの方に興味が沸いてな」。

昭和58年、知り合いの世話で雅代さんと結ばれ、男子を授かった。

翌年、自己流で製造した鎺を持ち、白銀細工の師の門を潜った。

「『作業見に来てもええ』って言われ、足しげく通ったもんやて」。

だが師匠は、手取り足取り奥義を授けるわけではない。

ただひたすら見て盗む毎日の繰り返し。

東京へも8年通い続け、研鑽を積んだ。

鎺とは、刀身が鍔と接する部分の金具である。

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鞘の鯉口いっぱいの幅で、鞘から刀身が抜け落ちぬよう、押さえの役を果たす。

「材は銅か銀や。銅は丈夫で長持ちするけど、緑青が吹く。銀は銅ほど丈夫やないが、錆びず刀にやさしいんやて」。

鎺作りは、鍛冶砥ぎを終えたばかりの刀身から、鎺を巻く(まち)の採寸に始まる。

刃から(むね)への身幅、()(まち)(むね)(まち)と。

まず銅板を2つ折りし、刃区と棟区に、銅の(まち)(がね)を噛ませ銀蝋付け。

「身幅は小さめに作り、縦横に金鎚で叩き伸ばし、鑢で削って刀身と一体にするんやて。そして鎺の銅の上から、薄い18金の銀割りを着せ、磨き上げて鑢入れ。縦横斜めに溝を入れたりして、地域や人物を表すような色んな意匠を凝らすもんやて」。

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鎺が取り付けば、柄巻師の手により中心(なかご)に化粧が施される。

「鎺なんて、鯉口切って抜き身にせんと見えーへん。だから鎺が見えた時は、命を斬り結ぶ瞬間や。それくらい、ほとんど誰の目にも留まらん所の金具ですら、武士たちは鑢目の意匠にこだわったもんなんや。そう思うと鑢目模様が、武士のお守りに見えるで不思議やて」。

白銀師は、蛍光灯の灯かりに鎺を翳した。

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「天職一芸~あの日のPoem 378」

今日の「天職人」は、愛知県豊橋市の「カステーラ職人」。(平成22年7月17日毎日新聞掲載)

月命日のお仏壇 祖母の好物山のよう              桃や葡萄にカステーラ 舌なめずりで手を合わす         供物の下がり待ちきれず 祖母にゴメンとカステーラ       セロハンめくり(かぶ)り付きゃ 「罰当たりが!」と大目玉

愛知県豊橋市、昭和40(1965)年創業の、カステーラの三景。女将の森下悦子さんを訪ねた。

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店先に漂う甘く芳醇な香り。

子どもの頃はこの匂いに釣られ、カステーラの焼き上がる時間を見計らい、何度も店の前を行き来した。

カステーラを頬張った、あの得も言われぬ食感を思い出し、その香りを腹一杯に吸い込もうと。

昭和半ばの時代、カステーラはまだまだ高級品。

だから病人の見舞いか、仏事でもなければ、めったやたらと口に入る代物ではなかった。

ふっくらもっちりと、舌に纏わり付く馨しさが堪らない。

「主人の焼くカステーラは、昔ながらの味やゆうて、皆さんご贔屓にしとくれやす」。悦子さんが、鮎菓子を包装する手を止めた。

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「この鮎菓子は、豊川の天然もんをモデルにしたるじゃんね。京都風に(えら)が張り出すように、皮を焼き上げて直ぐに折り曲げたるで、活き活きしとるらあ。でも家内が皮で求肥を包むと、(なまず)になってまうだ」。主の睦美さんが顔を出し大笑い。

睦美さんは、同県豊根村の農家で、9人兄弟の4男として昭和11年に誕生。

昭和26年、中学を出ると豊橋市内のパン屋で修行に就いた。

「まんだパンなんて、食券で買わなかん時代やった」。

10年後、叔父の世話で京都市の京菓子大極殿へ。

不慣れな土地に住み込み、修行に明け暮れた。

「3年したら兄が、ここの土地を買ってくれただ。急いで八卦見に屋号の相談したら、日本三景くらい有名になるようにと『三景』にせえと」。

東京五輪に沸き返った翌年、念願の店を現在地で開業。

翌年には、京都から悦子さんを迎え妻に迎え、二男一女を授かった。

「家内は大極殿で、事務員しとっただ。でも開業した1年目は、店がちゃんと回ってくか不安だったじゃんね。だもんで最初は1人で店を切り盛りして、ちょっと自信のついた翌年に、家内を迎えただあ」。

開業当初からの名代の逸品、三景のカステーラ作りは、材料の攪拌に始まる。

小麦粉、卵、砂糖、水飴、蜂蜜をきっちりとした分量で配合し、永年の経験に物を言わせて攪拌。

それを杉の正目で作った四角い木枠に、トタンを内張りした型に流し込む。

「焼き上がると、杉の木のいい香りがするだ」。

そして300度に熱したオーブンで、約1時間ほど焼き上げる。

「アルミの型では、木型のように上手く焼き上がらんだ。それに冬と夏、雨と晴れとでも、食感に微妙な違いが生じるで、後は火加減と永年の勘が頼りじゃんね」。

毎日5㎏が焼き上がる。

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「クリスマスだけ、常連さんに頼まれて、ケーキを150個も作るだあ」と、睦美さん。

「とにかく大忙しで、お寺に嫁いだ娘の旦那も、住職やけど手っとうてもうて。あっちは仏さんやで、その時期は閑じゃんね」。

東海道を下り、吉田の宿に嫁いだ京女も、今じゃすっかり三河の女。

ジャンダラリンの三河弁に、京言葉がはんなり入り混じる。

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「天職一芸~あの日のPoem 377」

今日の「天職人」は、岐阜県富加町の「関の刀匠」。(平成22年7月10日毎日新聞掲載)

トントンカンと(かな)(どこ)に 赤い火花が弾け飛ぶ           白装束に烏帽子(えぼし)()け ()()の刀匠玉の汗            中心(なかご)に刻む鑢目(やすりめ)の 美濃関鍛冶の鷹羽(たかのは)は             折って鍛えし刀匠の 矜持(きんじ)をかけた一振りよ

岐阜県富加町で明治35(1902)から続く刀匠、三代目丹波兼にわかねのぶさんを訪ねた。

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幣紙(へいし)が垂れる藁縄の結界。

刀匠の聖地、()()では紅蓮の炎が勢いを増す。

「砂鉄から鋼を製鉄する(たた)()の神は、金屋子(かねやご)神と呼ばれる、えらい醜女(しこめ)の姫さんやったんやと。だで昔から、別嬪さんを連れてったらいかんと、言われたもんやて。それに鋼を生む火床を、昔の人は女陰を意味する『(ほと)』と呼んだとか」。兼信さんが、その由来を語った。

兼信さんは昭和28(1953)年、10人兄弟の7男として誕生。

「遅がけの子やったで、いつも父親に付いて回っとったらしい。確か小学5年の頃や。父と客人の話しの中で、跡取り話しが出て。そしたら急に父が『これがやるやろう』と。『お父ちゃん、俺に期待しとるんや』と思ったもんやて」。

大学を出ると、72歳の父に弟子入り。

「先代が病を患うまで16年間、教えていただきました」。

兼信さんは実父に対し、無意識に敬語を使った。

父である前に、今も師である証しだ。

「本当は、『早よ覚えんと死んでまう』と、切羽詰まっとったでな」。

古式日本刀の鍛錬は、刀匠と3人の先手(さきて)による、鋼の折り返し鍛錬に始まる。

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まず刀匠が火床の横に座し、(ふいご)を操り火床の温度を上げる。

そして梃子(てこ)(ぼう)の先に付けた、鋼を火床で沸かし(融点まで熱する)、それを(かな)(どこ)の上に取り出し、1番手から3番手までの先手が順に、大鎚で打ちつける。

刀匠は小鎚で、先手の打つ位置を示す。

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大鎚で打ち、そして折り返し、また火床で鋼を沸かし、不純物を全て焼き尽くす。

「その内に鋼の声が聞こえるんやて。『もういいよ』と。すると鋼の表面が羊羹みたいに滑らかになるんや」。

次は、鍛え上げた鋼の塊を重ねて沸かし、当鎚(あてづち)を打って鍛接する「作り込み」。

続いて刀の長さと身幅、そして厚みを整えながら「素延(すの)べ」。

それを横座(刀匠)が、火床で赤め小鎚で打つ「火造(ひづく)り」へ。

「火造ったままの凸凹を、(せん)(やすり)(なら)す」。

そして刃に焼刃土(やきばつち)を被せ、刃文の文様が出るように、土を薄く掻き取り、850度で10分間焼入れ。

水に浸けて「火取り」し、刃文を硬く仕上げる。

さらに150度で加熱し、「(あい)()り」へ。

「刃先に粘りを出すんやて」。

次に「鍛冶押し」と呼ぶ研ぎを行い、中心(なかご)を鏟と鑢で整え、化粧鑢で美濃地方の特有の鷹羽(たかのは)鑢目(やすりめ)を入れ、(たがね)で表に「兼信」の銘、裏に年号を刻む。

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「刃文は神代(かみよ)の時代から、たったの5種類しかないんやて。神代の直刃(すぐは)、平安末期の小乱(こみだれ)、鎌倉中期の丁子(ちょうじ)、鎌倉末期の()ノ目(のめ)、南北朝の(のたれ)。関の孫六は、尖刃(とがりは)の互ノ目や」。

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この一連の作業で、優に15日以上が費やされる。

 独り身を通した兼信さんに、跡継ぎはない。

「火床も炭を継ぎ足さんと、消え行くのが定め。それと一緒やて」。

刀匠は、己の鍛え上げた業物を、感慨深げに見つめた。

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「天職一芸~あの日のPoem 376」

今日の「天職人」は、三重県伊勢市常磐の「いばら饅頭職人」。(平成22年7月3日毎日新聞掲載)

母は部類の餡子好き 畑仕事の帰り道              菓子屋の前で品定め おはぎさわ餅柏餅             中でも特に好物の いばら饅頭目がのうて            端午の節句過ぎるのを 今か今かと待ち侘びる

三重県伊勢市常磐、いばら饅頭の島地屋餅店。三代目女将の島地きよさんを訪ねた。

「柏餅が終わると『いばらまだ?いばらまだ?』ゆうてな。端午の節句が終わると、もう待ちきれやんお客さんらが、買いに見えるんやさ」。きよさんは、にっこり笑って表通りを見つめた。

きよさんは同県度会町の農家で、8人姉弟の長女として昭和10(1935)年に誕生。

「あんな頃は、『産めよ増やせ』の時代やったでな」。

農業を手伝いながら高校を出ると、花嫁修業の和裁を学んだ。

昭和31年、21歳で島地家に嫁入り。

一男三女を授かった。

「主人は教員を目指しとったんやけど、18歳の年に義父が亡くなって、家を継がんなんゆうて進学を断念したんやさ。何でもな、義父はえらい酒飲みやってな。戦時中は満足な酒も手に入らんやろ、それで仕方無しにメチルに手出して。せやで今際の際の言葉は『あっ、真っ暗になってしもた』やったとか。周りにおるもんらが、慌ててマッチ擦って見せたそやわ。それから統制が解除されるまでは、干したサツマイモを粉にして、お団子にしたりしてな。闇物資は取り上げられるで、そりゃあもう大変やったらしい」。

いばら饅頭は、元々伊勢地方に伝わる庶民の菓子で、昔は田植えの済んだ野上がりに、各家々で作られた。

「どこの家もなあ、子どもらが山行って、いばらの葉を取って来たもんやさ」。

いばらとは、サルトリイバラの楕円形の葉で、サンキラ(山帰来)の葉とも呼ばれる。

根は、利尿、解熱、解毒に効果がある生薬だ。

いばら饅頭作りは、毎朝5時半からの仕込みに始まる。

まず小麦粉を熱湯で手煉りしながら、砂糖と1つまみの塩を加える。

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「砂糖を加えやんと、皮が割れてもうて、水泡が出るんやさ」。

次に自家製の餡を1玉ずつに握り、それを生地で包餡し、塩漬けいばらの葉2枚で挟むように包み、10分間蒸し上げれば完成。

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毎朝7時半には店が開き、ほっこり蒸し上がったばかりの、いばら饅頭が店頭に居並ぶ。

毎朝100個前後が製造されるが、残念ながら売り切れ御免の商品である。

「今しは、仕込から製造まで、みんな嫁がしてくれるでな。せやで今日こさえた分だけ、1日かけてボチボチ2人で売らしてもうとんやさ。大量生産する大手とちごて小商いやで」と、きよさん。

「でもなあお義母(かあ)さん『それが安心やでええっ』て、そんなお客さんがおるんやで、ありがたいことやに」。嫁の朗子(あきこ)さんはそう言いながら、冷えた麦茶といばら饅頭を勧めた。

いばらの葉を1枚めくり、無作法にもかぶり付いた。

するといばらの葉が仄かに香り、艶と張りのある皮の向うから、柔らかな餡が口の中にまったりと広がる。

伊勢人の、秋口までのお愉しみ。

市井(しせい)の銘菓、いばら饅頭もう一つ。

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「天職一芸~あの日のPoem 375」

今日の「天職人」は、愛知県豊橋市の「チンチン電車運転士」。(平成22年6月26日毎日新聞掲載)

運転席の真後ろが 幼いぼくの指定席             「発車オーライ」チンチンと マイク片手に車掌さん       指先確認真似ながら ぼくの気分は運転士           「チンチン電車お通りだい」 それゆけ道のド真ん中

愛知県豊橋市の豊橋鉄道で、昭和47(1972)年からチンチン電車の運転士を続けた、森島とめひろさんを訪ねた。

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昭和を駆け抜けた、天下御免のチンチン電車。

交通量の多い大通りでも、道の中央を威風堂々たる姿でひた走ったものだ。

だがそれも東海地区では、もはや唯一、愛知県豊橋市に残るだけとなってしまった。

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「元々が、しゃんべぇ(遠州弁=喋り好き)だで、車掌時代もワンマンカー運転せるようんなってからも、お客さんと接することが全然苦んならんじゃったでねぇ。昔はお婆さんなんかが、『これ、余ったやつだけど、あんたに上げるわ』って、差し入れしてくれたこともあっただ」。留廣さんだ。

昨年定年で退職し、現在は車庫内で電車を移動させる、操車係りを務めている。

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留廣さんは昭和24年、静岡県浜松市で5人兄弟の3男として誕生。

中学を出るとそのまま、豊橋鉄道に入社し車掌として乗務した。

「真っ黒な車掌鞄を肩から吊り下げて、パンチ(切符に穴を開ける鋏)を西部劇のガンマンみたいに、右手でクルクルッと回して。当時は車内にマイクがあれへんもんで、大声を張り上げて案内せんとかんじゃんね」。

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東京五輪が終わったばかりの時代、チンチン電車の運賃は、大人が12円、子どもが6円だった。

それから6年。車掌が乗務したツーマンから、ワンマン運行の時代へ。

「他の車掌は配置換えしてったけど、私は好きな電車から離れられず、運転士を希望しただあ」。

昭和47年に運転試験に合格。

「見習いの頃は、先輩の運転士が同乗して、通常ダイヤの合さ縫って回送電車で練習しただ」。

ワンマンに切り替わったとは言え、まだ電車はツーマン時代のまま。

「車掌が乗っとった時代ならええけど、運転士一人きりだもんで。バックやサイドのミラーを取り付けてまうまでは、勘だけで走っとっただわ」。

豊橋駅前から赤岩口まで、毎日7.5往復を運行した。

昭和51年、渥美線豊橋駅の出札に勤務する、窓口担当のマドンナ公子さんの心を射止め結婚。

三男を授かった。

「労働組合のキャンプで、初めて口利いただ」。

37年間、退職の日が訪れるまで、留廣さんは白手袋を着け、行路表(運行ダイヤ)を手に、大好きなチンチン電車を走らせた。

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「何でチンチン電車かって?それは、車掌が乗務しとった時代の名残だって。車掌が呼鈴の釦を、チンチンと2回鳴らせば発車。チンが1回だと止まれ。チンチンチンチンと連打すれば緊急の合図。だもんでチンチン電車だわ。もう今では、チンチンなんて鳴らんけどな」。

中学を出て45年、ひたすら同じ道を走り続けた。

「どんなに街や人が変わろうと、未だに何一つ変わらんのは、初めて公道を電車で走った、あの時の線路だけらあ」。

それが留廣さんの愛した、豊橋レイルウェイズ。

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「天職一芸~あの日のPoem 374」

今日の「天職人」は、三重県伊勢市八日市場町の「小西萬金丹当主」。(平成22年6月19日毎日新聞掲載)

御蔭参りの昔から 伊勢の土産は数あれど            何は無くとも伊勢暦 伊勢白粉(おしろい)に萬金丹             初瀬参宮別街道 上り下りの旅枕               山海(やまみ)の幸の御食(みけ)つ国 つい食べ過ぎて萬金丹

三重県伊勢市八日市場町に今も残る、大和大掾だいじょう小西萬金丹本舗。奥の間に十六代目を継ぐ4男小西治さんと、長女で十五代目を務めた佐藤瑞子みずこさんを訪ねた。

伊勢神宮へと続く旧参宮街道。

切妻造りの商家が、今もひっそり時の流れに抗うように佇む。

開け放たれた座敷には、漆黒の立て看板に、「まんきんたん」の金の文字。

伊勢の霊薬「小西萬金丹」は、遥か330年以上もの昔から、全国で常備薬とし重宝がられた生薬だ。

「私は長女でしたで、昭和36(1961)年にこっから嫁に行ったけど、弟らはみんな勤めに出てもうて。だから母が亡くなってからこの人が跡継ぐまで、私がボチボチ店番して。元々小さい時から、家業に興味もあったでな」。瑞子さんが傍らの治さんを見つめて笑った。

「私は58歳まで、伊勢の市役所に勤めしてましてな。せやで当主ゆうても、まだ新米ですんさ」。治さんは照れ臭げだ。

伊勢国司、北畠家の家臣であった日置越後守清久は、主家滅亡後に医道を志した。

そして堺の小西家で秘方を譲り受け、姓を改め延宝4(1676)年に創業したのが小西萬金丹の始まりだ。

「戦時中、私がまだ小学校の低学年の頃やわ。ガンジャ(製丸師)さんが寒の厳しい頃にやって来て、1月ほど滞在するんやさ。それで萬金丹の生薬を、クルクルッと器用に丸めて丸薬にしてな。その手付きを見るのが好きやって、飽きやんと1日中眺めとったんやさ」。瑞子さんが目を輝かせた。

萬金丹の製造は、まず主原料となる阿仙、甘草、桂皮、丁子、陳皮など、乾燥した固形の薬草を、石臼や()(げん)で卸し、粉にする作業に始まる。

次に馬毛の網の()篩器(ふるいき)にかけ、さらに木目の細かい粉にする。

そして練り鉢に移し、寒梅粉と繋ぎになる米粉を足して手練り。

練り上げた原料を製丸機の中へ入れ、心太突きの要領で小穴から6~7㍉程度押し出し、細刃の刃物で切り取って、製丸台の上へ1列ずつ順に並べる。

それを繰り返し、製丸台の上が一杯になったところで、取っ手の付いた平板を被せ、円を描くように丸薬に仕上げる。

「まるでその手付きが神技のようでな。ガンジャさんの傍らで、くっついてよう見よったもんさ」。

しかし平成19年の薬事法の改正に伴い、庶民の伝統薬は、健康維持食品へ。

(もっ)(こう)の代わりに阿仙を増やして。今しは富山の製薬会社さんに、委託で作ってもうとんやさ。でも薬効は、昔と代りませんに」。と治さん。

奥座敷には、江戸時代の貴重な製薬道具から、製丸機までが一堂に保存されている。

「この人は独身やで、私とこの娘が継いでくるとええんやけど。ご先祖さんが遺した、伝統の家業やでな。壊したるんと、壊れてくんのとは違うで」。

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瑞子さんは、享保8(1723)年に宮家より賜った、大和大掾の許状を見つめた。

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「天職一芸~あの日のPoem 373」

今日の「天職人」は、三重県亀山市御幸町の「味噌焼きうどん職人」。(平成22年6月12日毎日新聞掲載)

七輪炙り鉄板で 味噌焼きうどんジュージューと         月に一度の給料日 父はすっかり赤ら顔             味噌の絡んだトンちゃんを せっせと父がほじり出し       うどんキャベツは母とぼく 皆で仲良く突き合う

三重県亀山市御幸町の亀とん食堂、二代目主の村主すぐり浩二さんを訪ねた。

昼時、どこからともなく味噌と脂の焦げる匂いが、商店街の食堂から漂う。

埃だらけのウィンドーに、亀山名物「味噌焼きうどん」の但し書きと蝋細工の見本。

名物ならばその由来はと、発祥の店を探した。

駅の北側をしばらく西へ向うと、「亀とん食堂」なる暖簾を掲げた店を発見。

店の脇から、味噌と脂の匂いが襲い掛かってくる。

店内は既に満席。

まだ昼だというのに、ジョッキ片手の赤ら顔が鉄板を突く。

「ご注文は?」と問われ、迷うことなく、味噌焼きうどんを所望。

すると「何の?」と切り返された。

「・・・何のって?そりゃあ、うどんでしょ」。

あまりの頓珍漢なやりとりを見かね、隣りの客が解説を買って出た。

「ここにはなあ、『味噌焼きうどん』と言うメニューはないんや。まず初めに好きな焼肉を注文するんさ。トンちゃんや牛ホルモンにカルビとか、何でも好きなんを。それとうどん玉を頼んで、肉とキャベツのブツ切り炒め、そこへうどん玉を放り込んだら味噌焼きうどんの出来上がりやさ。これがここらの(もん)が、昔から食べよる本物。それをB級グルメで町興しとか言い出して、あちこちで売り出すようになったんさ」。

そう言うと隣の客は、美味そうにビールを飲み干した。

「はいっ、トンちゃんにうどん玉。お待っとうさん」。浩二さんが、コンロに火を点けた。

浩二さんは昭和15(1940)年、名古屋市で5人兄弟の4番目として誕生。

大学を中退すると楽器販売会社に勤務。

だが昭和37年、父の在所の亀山へ家族で移住。

母がその年に開業した、亀とん食堂を手伝うことに。

「最初は普通の食堂で仕出し弁当とかもしよって。昭和44年からやわ、ホルモン専門店にしたんわ」。

昭和49年、鹿児島出身の千鶴子さんと結ばれた。

「あれが三代目になる、女房の弟の倅や」。

「爺、オイは継ぐなんち、まだ一言も言うとらんとよ」。甥の(はぎ)木場(こば)明さんが、笑いながら打ち消した。

味噌焼きうどんの由来を問うた。

「そんなもん、味噌焼きうどんなんて、決まったもんは無い。知らん間にお客さんが、焼肉にうどん玉放り込むようになっとったんやで。そしたらそれが美味いもんで評判になって。ええっ?味の決めて?そりゃあ肉に絡める味噌やろ」。

亀とんの味噌ダレは、八丁味噌、醤油、砂糖、焼酎、酒、味醂、ニンニク、一味、胡麻油、胡麻を調合。

「それともう一つ、最大の隠し味は何と言ってもこれやさ」。浩二さんは悪戯っ子のような表情を浮かべ、ビールを取り上げた。

「ここが味噌焼きうどん発祥の地かって?元祖は、家よりちょとだけ先にやり出した、この先の兄の店やわ」。

味噌ダレに溶け出した肉の旨味が、真っ白なうどんに纏わり付く絶品の味。

気取らぬ店の、気負わぬ庶民のおご馳走(っつお)

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「天職一芸~あの日のPoem 372」

今日の「天職人」は、岐阜県高山市の「朴葉みそ職人」。(平成22年6月5日毎日新聞掲載)

破れ障子の穴ぼこを 朝日が射抜き顔照らす           布団被って寝返れど 母のまな板トントンと           やがて(くど)から炊き立ての ご飯の匂い立ち込めて         囲炉裏囲めばグツグツと 五徳の上の朴葉みそ

岐阜県高山市、明治二十三(一八九〇)年創業の醸造元角一。四代目朴葉みそ職人の日下部達彦さんを訪ねた。

飛騨焜炉(こんろ)の炭火に炙られ、朴の葉の上で味噌がグツグツと煮え、やがて焦げ始める。

口中にドッと生唾が湧き上がり、お腹の中がグルグルッと活発に動き始めた。

「子どもの頃の朝飯と言えば、おかずは朴葉みそやさ。長ネギ、椎茸、豆腐、鰹節に切干大根と。具は何でもええんです。その家その家にある物を、みその上に載せるだけ。おかずが味噌やで、わざわざ味噌汁作らんでええし。手間要らずで滋味豊富な一品やさ」。

「代々味噌屋でしてな。朴葉みそは昭和45年に祖父が観光客向けとして商品化したんやさ。ちょうどアンノン族の、国内旅行ブームが始まった頃から。昔この飛騨では、家々で作った自家製味噌を、朴葉に載せて焼いて焼味噌にしたり、樽の中で凍ったまんまの漬け物出して、朴の葉の上で溶かしながら食べたもんやさ。それとなあ、古漬けの酸っぱい白菜やカブをまたじ(片付け)する時、一昼夜水に浸して酸味と塩分飛ばし、醤油と砂糖で炒め煮した『煮たく文字』とか。昔は山国の貧しいとこやったで、古漬けでも捨てんと一工夫。これもまた飛騨の庶民の味やさ」。

達彦さんは昭和38年、3人兄姉の末子として誕生。

東京の専門学校を出ると、味噌の専業問屋で修業。

5年後、埼玉県の酒のディスカウントショップの販売へ。

「まあ今思えば、親に対するささやかな抵抗みたいなもんで」。

2年後家業に就いた。

今や土産物でも常に上位を占める朴葉みそは、まず基本となる味噌作りに始まる。

大豆は一昼夜水に浸け、6時間蒸し上げる。

米も蒸し上げ、米糀菌と塩を混ぜ、豆と共に木桶に仕込む。

そして10ヶ月~1年間、味噌は深い眠りにつく。

「普通の味噌は塩分濃度が11~13%。家のは8.4%と控えめなんやさ。それに十割(とわり)糀やで、大豆と米が1対1。だから普通の味噌より糀が多い分、糀の仄かな香りと甘味が出るんさ」。

そして熟成した味噌に砂糖、還元糖、調味料を混ぜて攪拌し、朴の葉2枚を添えれば、角一自慢の朴葉みその完成。

「先代の話やと、戦前戦後の食糧難の時代は、糀味噌ゆうたら超高級品で、病人にしか食べさせられんほどやったらしいわ」。

平成4年、埼玉県から博子さんを妻に迎え、二女を授かった。

「昔飛騨の山師は、弁当と味噌を朴の葉に包み、山に入ったそうですわ。それで弁当開いて、朴の葉で味噌炙って食べはったとか。昔の人は偉いもんや。朴の葉に殺菌効果があることを知っとったんやろか?家が昭和45年に朴葉みそ売り出した頃は、毎年10月になると『朴葉買い受けます』って広告出してな。朴葉を120万枚ほども買い込んだそうやで」。

飛騨の名物数あれど、も一度食べたや朴葉みそ。

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「天職一芸~あの日のPoem 371」

今日の「天職人」は、愛知県豊橋市入船町の「ネオン管職人」。(平成22年5月29日毎日新聞掲載)

男やもめの旅の宵 夜の長さを持て余し             下駄を鳴らして漫ろ行きゃ ネオン瞬く花の街          男心を(もてあそ)び 揺れてネオンが袖を引く              どうせ一見(いちげん)ばかりなら 惚れた女の名の店へ

愛知県豊橋市入船町、昭和十五(一九四〇)年創業のトキ工芸社、四代目ネオン管職人の土岐光吉さんを訪ねた。

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街にネオンの灯が瞬き出すと、居ても立ってもいられない。

そんな若かりし日もあった。

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哀愁漂う、儚げな淡い灯かりの下。

今夜も、男と女の恋物語が生まれる。

「ネオン管の修行は、ちょうど30歳になってから、単身で広島へ。そしたら親方から、『そんなもん20歳までに来んとあかん』って、いきなり言われて。もう歳食い過ぎとったし、体の柔軟性も無く、固まってまっとったで」。

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光吉さんは昭和32年、3人姉弟の長男として誕生。

「父はペンキ屋継いだもんの、『いつまでもペンキ屋だけじゃ食って行けん』と、戦後しばらくして看板屋に鞍替えただあ」。

高校を出ると、脇目も振らずに家業へ。

時代は高度経済成長から、安定成長期へと向い、郊外型の大型ショッピングセンターの進出が相次ぎ、屋外看板の需要も拡大した。

「だいたいネオンサインは、同じ看板でもワンランク上。でもネオン管職人が少なく、外注で頼むと手間賃だけで4割持ってかれるだ」。

昭和61年、知人の紹介で理恵子さんを妻に迎え、一男一女を授かった。

「家族も増えることだし、いつまでもネオン管外注しとれん」。

新妻を残し、単身広島へと向った。

「とにかく40日間、地獄の味わいだわ。周りはみんな一回りも歳が若いらあ」。

とにかく一日も早く技術を手に、家族の元へ戻りたい一心で、誰よりも早く技術を身に着けた。

直径わずか14㍉、長さ1670㍉のネオン管製作は、まずネオンで描く文字原稿を、原寸大の版下にする作業に始まる。

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「昔はネオンと言ったら、ネオンガスを入れた赤色と、アルゴンガス入れた青色のたったの2種類。でも今は、ガラス管の内側を、顔料で色付けしたものもあって、色数がようけ増えた。それでも、さすがに金銀の色は出せんだあ」。

次に文字の形状に合わせ、ネオン管をバーナーで炙りながら曲げ、管の両端に電極と排気口を取り付ける。

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「とにかくネオンは曲げが命。曲げたら今度は焼き。200~250度がガラスの融点だで、そのちょい手前まで焼いて、管の中の微生物を焼き殺し、ガスを注入するだ」。

そして排気口を密閉し、管が冷めるのを待って通電。

丸2日仮点灯を続け、クラック(割れ目)や、ネオンの色(むら)がないか確認。

「念入れて点検せんと、ビルの屋上とかへ取り付けてまって、不具合に気付いたら大事(おおごと)らあ」。

そしてチャンネル文字など、屋外看板の躯体(くたい)に取り付け完了。

「それでも青色のネオン管に鳥が突っ込んだり、虫が寄って電極突っついて、漏電したりするだで」。

観光客を虜にする100万ドルの夜景。

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人はなぜか、遠くで瞬くネオンの灯りに、様々な思いを馳せ心を揺らす。

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