「天職一芸~あの日のPoem 259」

今日の「天職人」は、岐阜県美濃市の「大衆食堂」。(平成十九年十二月四日毎日新聞掲載)

母が寝込んだ夕暮れに 灯りも点けず父を待つ          夕餉(ゆうげ)の支度いつもなら ガミガミ母の声がする

「鬼も休日」そう笑い 父に引かれて食堂へ           炒飯二つ粥一つ 岡持(おかも)ち提げて帰り道

岐阜県美濃市の美濃食堂。二代目店主の古田省三さんを訪ねた。

卯建つの屋並みが続く一角。

引っ切り無しに家族連れが、店内へと吸い込まれていく日曜の昼下がり。

北風を孕んで暖簾が揺れた。

「家の名物『チキンのり巻き』は、衣にパリッとした海苔を載せたもんで、昭和2年の創業からのヒット商品やて」。省三さんは、白い帽子を取りながら笑った。

白髪の長い髪は、まるで画家のようだ。

省三さんは昭和14(1934)年、四人兄弟の長男として誕生。

「板場の経験なんて無い親父は、雇い入れた渡り職人から技術を学んで、良いとこ取りやわ」。

先代は地元の食材を活用し、創作料理を次々に生み出していった。

省三さんは京都の大学へと進学。

しかし途中肋膜炎を患い、郷里へ戻って闘病の憂き目に。

しかしその時出逢った、献身的な看護婦が後の伴侶に。

大学を出ると公務員となり、岐阜市役所で福祉関係の職に就いた。

「店は弟に託すつもりやったで」。

二十六歳の年に看護婦だった八千子さんと結婚し、一人息子を授かった。

「父が作り上げた店をこのままにしとってええんやろかって、二年間ほど悩みぬいたもんやて」。

ついに三十歳で役所を辞し家業へ。

「子供の頃から親父の手付きを見て育って来たもんやで、鰻なんか一週間で捌けるようになったほどやて」。

名物「チキンのり巻き」は、新鮮なささ身を絶妙な厚みに切り分けることに始まる。

「衣に対するささ身の厚みがポイントなんやて」。

次に小麦粉と卵に秘伝の材料を加えて衣を作り、ささ身を包んで海苔を載せ油で揚げる。

「海苔のパリッとした食感と見た目の艶が何とも食欲をそそるんやて」。

地元で親子三代に渡って愛され続ける、チキンのり巻きの完成だ。

だが平成14(2002)年、影となり日向となり一家を支え続けた妻が他界(享年62)。

「すっかり落ち込んでしまって。息子が店を畳んだらどうかって。それでもぼくはこの仕事に執着があって。父が作った店に、まだ幕を降ろしたくなかったんやて。それに孫の守だけで生甲斐を失いたくなかったし」。

張り合いも連れ合いも失い、抜け殻状態のまま、パート従業員に頼りながら店を続けた。

それから4年が経った去年7月。

夏風邪を拗らせ肺炎で入院。

医師から息子と旧知の和子さんが呼び出され「何時息が止まるかわからん」と宣告が。

直ちに専門の医療機関へ転院。

「もうあかんと思って、彼女に頼みこんだんやて。『仕事辞めて、俺の看病してくれ』って」。

それが、省三さん67歳のプロポーズだった。

その後の再検査では、何処にも異常が見当たらない。

「人生捨てたもんやないって。嫁は来てくれるし、病気も治ってまうもん。なぁ、和ちゃん!」。

新婚ホヤホヤの新妻が、調理場の中で照れ臭そうに笑った。

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「天職一芸~あの日のPoem 258」

今日の「天職人」は、愛知県碧南市の「型付師」。(平成十九年十一月二十七日毎日新聞掲載)

玄関先でランドセル グラブに替えて一目散          「宿題せんと飯抜くぞ」 背中に迫る母の声           空き地の球場日暮ても 白いボールを追い駆けた         一途に明日を夢に見て 打っては投げた草野球

愛知県碧南市の野球工房イソガイスポーツ。グラブの型付師、磯貝善之さんを訪ねた。

「昔はちょっとした空き地で、棒っ切れと柔らかなゴム鞠さえあったら直ぐに野球だったわ。でも今は公園でキャッチボールも出来んのだで」。グラブを革紐で編み込みながら、男は寂しげにつぶやいた。

善之さんは昭和43(1968)年、二男坊として誕生。

「兄が幼い頃に病気で他界したもんで、実質は一人っ子みたいなもんだわさ」。

地元の高校を卒業すると、三重県鈴鹿市の総合スポーツ店で、店頭販売の修業に。

「この店を創業した父は、スポーツ用品全般を幅広く扱ってきたんだけど、時代と共にテニス用品とかほとんど売れんくなって。自分は小学校からずっと野球少年だったから、いつか野球用品一筋に特化したいと思い始めて」。

21歳の年に帰郷し、家業に従事した。

「最初はどうやって野球用品専門に、特化すべきか悩んだもんだわ。グラブにグリス塗って炬燵で温っためて柔らかくしたり」。

選手の使いやすさを試行錯誤で追求する毎日が続いた。

ある日のこと。人伝にプロ選手のグラブに、型を付ける職人の話しを聞いた。

善之さんはすぐさま福岡へと向かった。

型付師の江頭重利さんを訪ね、通い弟子となり技を会得。

「とにかく見て覚えるだけ。後は師匠から客に対する心構えやヒントを聞いて」。

善之さんの探究心は、型付だけに留まらず、グラブ本体の製造にも向けられた。

「23歳頃からだったかなぁ。奈良県の但馬にある、グラブの製造工場へ何回も足を運んで、その工程を見学させてもらうんだわ」。

見学を終え家に戻るとグラブを解体しては、組み立て方を己が目で確かめた。

平成4(1992)年、中学の後輩だった真弓さんと結婚し、一男一女を授かった。

平成7(1995)年、店舗の改装に合わせ、総合スポーツ店から野球専門店に。

念願だったオリジナルのグラブ製造も手掛けた。

「最初は一から十まで全部自分でやっとった。革と革を糊付けしたりして、こっちの手が離せん時に客が来たりして気が散るだわ。だで今は、手形に合わせて縫い合わせる所まで外注して、組み立てから仕上げの型付までをここでやっとるだて」。

グラブ作りは、まず客の手形を平面に描き出すことに始まる。

次に平板なグラブの本体を工場で縫い合わす。

それが納品されると、親指と人差し指の間にウェブ(網)を取り付け、グラブの内側にも革が柔らかくなるようグリスを塗り込み、革紐で組み立てる。

そして43~44℃の湯でグラブを湯揉み。

2日間の乾燥後、型付台で叩いて革紐を締め直し、再び丸一日乾燥し完成。

「最初の一揉みが一番肝心。息を止めて揉まなかん。それでグラブの一生が決ってまうで」。

誰よりも野球を愛する型付師が、少年のように笑った。

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「天職一芸~あの日のPoem 257」

今日の「天職人」は、三重県桑名市の「ゴーカート整備士」。(平成十九年十一月二十日毎日新聞掲載)

エレベーターのドアが開く 十円玉を握り締め      デパート屋上まっしぐら 乗り場へ急ぐゴーカート    既に子どもで数珠繋ぎ 列に並んで待ち惚け      やっとの事で番が来て あっと言う間に一回り

三重県桑名市でゴーカートの販売修理を手掛ける「Team KEIN’S」の代表、近藤浩二さんを訪ねた。

通りに面した大きなガラス窓。

自転車を乗り付けた父と息子が、まるで魂を絡め盗られたかのように瞳を輝かせ、真っ赤なフォルムのゴーカートに見入っている。

「カートは人間の五感を剥き出しにして、サーキットを最高二百㌔のスピードで走り抜ける、人間の限界と瀬戸際で鬩(せめ)ぎ合うレースだから。一度その魔力に魅せられれば、獲り憑かれたも同然」。浩二さんは、窓の外の親子を見つめた。

浩二さんは昭和35(1960)年、農機具販売を手掛ける家の長男として誕生。

「祖父が鍛冶屋やったで、昔から物造りに興味があった。それで小学校の時、家にあった農機具をバラしたんだけど、よう組み立てられず益々興味が芽生えてしまって。小学生の分際で、自転車を解体して溶接してみたり、独学で木製のレーシングカー造っては、一輪車やリヤカーのタイヤ付けて坂を転がしてみたり」。

いつかは己が手で、『レーシングカーを造り上げたい』そんな途方も無い夢を抱いた。

高校に上がると、今度はオートバイのエンジンを拾い集め、通販で部品を取り寄せてオートバイの組み立てへ。

役場に申請しナンバーも所得し公道を駆った。

卒業後は岐阜県高山市の専門学校で自動車工学を学び、20歳の卒業と同時に何の伝手(つて)も持たず冨士スピードウェーに乗り込んだ。

「日本のトップチーム『チームルマン』のメカニックを担当するセルモに直談判して」。晴れて四輪レースを支える整備士としてデビューを飾った。

昭和58(1983)年、23歳の若さで、高山の専門学校時代に知り合った、志織さんを妻に迎え二女を得た。

それからしばらく後、仲間のレーサーが不慮の事故で他界。

「レースは生死ギリギリの境目のショーで、車は走る棺桶のようなもん。自分たちメカニックが、部品に触り調整するその手加減一つで、車のコンディションが微妙に変わってしまうんだから」。メカニックとしての責任の重さを痛感した事故だった。

昭和62(1987)年から3年間、フリーのメカニックへ。

元F1レーサーの鈴木亜久里や二輪チームのメカを担当した。

「やっぱりレース界の恐怖を目の当たりにして来たから、30歳になつたら足洗うって決めとってね」。浩二さんは懐かしげにつぶやいた。

その後サラリーマンへと転進。

写真の現像を生業(なりわい)としながら、その狭間で今度はゴーカートと出逢うことに。

平成9(1997)年、郷里の桑名に戻りKEIN’Sを開業。

「まあ、行き当たりばったりの人生だったけど、夢を追い駆け、いつかその夢を追い越すことがぼくの夢」。

浩二さんの夢を載せたカートが、サーキットにエキゾーストノイズを響かせ走り抜けて行く。

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「昭和を偲ぶ徒然文庫 6話」~「まあちゃんのママゴト」

「魔法の茶の間」2011年7月21日(オカダミノル著)

わが家の卓袱台

昭和の半ば。

欧米人は日本の住宅事情を、「ウサギ小屋だ」と揶揄。

だが当時の日本人は、どんなに蔑まれようと、見事に高度成長を成し遂げた。

我が家の両親もその時代を生き、社会の底を這うようにぼくを育て上げた。

恐らく父母の唯一の愉しみは、家族が寄り添う一時(ひととき)だったことだろう。

六畳一間のアパート。

台所も炊事場も便所も共同。

風呂は銭湯通い。

折り畳み式の丸い卓袱台を囲み、倹しい食事を分け合った。

写真は参考

夜も更ければ、卓袱台を折り畳み、煎餅布団を並べた寝床へと早変わり。

それが昭和半ばの高度成長を影で支えた、「魔法の茶の間」である。

寝食も苦楽も綯い交ぜに、それでも明日を信じて夢見た家族の団欒。

昭和も三十年代に入ると、三種の神器が登場。

やがて我が家にも、月賦で手に入れた白黒テレビがやって来た。

「じゃあ、スイッチ入れますで」。

電気屋のオヤジの声に、茶の間で正座しブラウン管に目を凝らした。

するとザザーッという音と共に走査線が走り、ゆっくりと映像が浮かび上がる。

さしもの母も威儀を正し、二礼二拍手一礼でテレビ様に礼を尽くしたほどである。

白黒テレビの放送から58年。

カラー化からデジタルの世へ。

画像の鮮明さには、まったくもって目を瞠る。

だが豊かさの影で、失ったものも数多い。

茶の間に卓袱台、そして何よりテレビを取り巻く家族の姿だ。

果たしてそれは喜ぶべきか?

茶の間が家族の居場所だった、そんな時代を生きたぼくには到底分からぬ。

今よりずっと貧しかったあの時代。

だが茶の間はいつも、今とは到底比べ物にならぬほど、家族みんなの笑い声で溢れ返っていた。

生まれ育った原風景ともいえる、まだまだ貧しかった昭和半ばを、こんなにも心苦しいほど愛しく思えてしまうのは、そろそろお迎えが近付いた証でしょうか?

あの頃は、手塚ワールドに描かれた未来に、憧れてならなかったものでした。

しかしどうでしょう?

少なくとも手塚先生が描かれた世界が、現実のものとなって来た今、世界中の人々は本当に豊かになって幸せを享受しているのでしょうか?

今でも手塚先生がご健在であれば、これから先の未来を教えていただきたいものです。

昭和半ばを生きた少年少女は、誰しもが手塚先生の描いたアトムやウランちゃん同様、手塚先生の子どもであったのです。

もしかしたら手塚先生は、ドラマ「JIN」のように、未来から昭和半ばの混迷期においでになった方だったのではなかろうかと、ふと思うこの頃でもあります。

悍ましい未来ならば、決して覗き見たくもないものですが、ほんのちょっぴりでも明るく希望の持てる未来ならば、こっそり覗き見て、それを糧に今日を倹しく生きたいと願うばかりです。

今夜は、そんな昭和半ばの心の原風景を歌にした「まあちゃんのママゴト」お聴きください。

『まあちゃんのママゴト』

詩・曲・唄/オカダミノル

垣根に背伸びぼくを呼ぶのは ドングリ眼のまあちゃん

ラジオ体操に遅れるわと おませな口ぶりを真似た

 お昼寝の後は決まって 自慢のママゴト広げて

 プラスチチックのオムレツ差し出し 「さあ、召し上がれあなた」

今夜は娘も夢の中さ たまにゃ二人でどうだい

当たり目安酒酌み交わせば 娘が起き出し「私も」

 起き抜けの後は決まって 自慢のママゴト広げて

 塩化ビニールの海老フライを 「さあ、召し上がれあなた」

ねぇまあちゃんやっぱり 遺伝子は侮れないね

小さな君と瓜二つの おませな横顔愛しい

★毎週「昭和の懐かしいあの逸品」をテーマに、昭和の懐かしい小物なんぞを取り上げ、そんな小物に関する思い出話やらをコメント欄に掲示いただき、そのコメントに感じ入るものがあった皆々様からも、自由にコメントを掲示していただくと言うものです。残念ながらさすがに、リクエスト曲をお掛けすることはもう出来ませんが…(笑)

今夜の「昭和の懐かしいあの逸品」は、「卓袱台の思い出」。

わが家の一番古い記憶の中の卓袱台は、丸い直径90cm程の、木製の折り畳み式のものでした。

そのちっぽけな卓袱台を囲み、家族三人でささやかな朝餉と夕餉を囲んだものです。

このちっぽけな卓袱台の利点は、面積が狭いせいもあって、どんなおかずも大皿にテンコ盛り。中央にデーンと据えられ、家族三人でそれを突き合う。だから嫌いな物は箸でこっそり両親の正面に移動させ、あたかもちゃあんと食べた振りをしてごまかせたのも好都合だったものです。そして何より、食後の洗い物が少なく済んだのは、いつも赤切れだらけだった母にとって、好都合であったことでしょう。

それがいつしか長方形でデコラ張りの折り畳み式のテーブルに代わり、やがて炬燵の付いた卓袱台へと進化していったものでした。

皆々様の卓袱台の思い出話を、ぜひお聞かせください。

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クイズ!2020.11.03「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」

いやいや意外な事に、苦肉の策のクイズ「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」が好評?で、皆様からも数多くのコメントを賜りました。

そこで益々気をよくして、ぼくからの一方的なブログではなく、皆様にもご一緒に考えていただいてはと、『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』をしばらく続けて見ようと思います。

でもクイズに正解したからと言って、何かプレゼントがあるわけではございませんので、どうかご了承願います。

そこで今回の『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』はこちら!

これまた恐れを知らぬ手抜きぶりの、残り物クッキングです。

先週の残り物をさらに一捻り!

広島名物の逸品をちょいとパクッテ真似てみました。

ちょっとモダンななぁ~んちゃってイタリア~ンな作品に仕立てたつもりですが、盛り付けも下手糞なため皆様の目にどんな風に映っていることでしょう???

ぼくが子どもの頃に通っていた、一文菓子屋のトシ君家(ち)のお好み焼きは、広島焼き風のお好み焼きの皮で挟んだ焼きそばを、モダン焼きと称しておりました。

しかもトシ君家のオバチャンが作る、お好み焼や焼きそばの品書きの中で一番高価なメニューで、誰もがみな「一度はいつかモダン焼きを」が合言葉だったものです。

さて、ヒントを各所に散りばめたつもりですが、皆様方のお答えや如何に!

皆様からのご回答を、首をながぁ~くしてお待ちいたしております。

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「天職一芸~あの日のPoem 256」

今日の「天職人」は、岐阜市金園町の「神輿職人」。(平成十九年十一月十三日毎日新聞掲載)

祭囃子と鱗雲 秋の実りを祝うよに           揃いの半被ワッショイと 神輿揺らして畦を行く     鎮守の杜の境内は 飲めや唄えの無礼講         炊き出し終えた母さんの 頬もほんのり紅葉色

岐阜市金園町の唐箕屋(とうみや)社寺工務店、三代目神輿職人の高崎勝則さんを訪ねた。

「日本人にとって祭りは、平和の象徴そのものなんやて。神輿担ぎながら皆で『今年もよう頑張ったなぁ』とか、『また来年まで頑張ろう』って。昔は町中の人らが総出で、氏神さんの御霊を入れた胴を担ぎ上げ、そうやって互いに励ましたり支え合ったりしたもんや」。勝則さんは、通りを隔て赤く色づき始めたばかりの金華山を見つめた。

勝則さんは昭和31(1956)年に後継ぎの一人っ子として誕生。

高校卒業後、工業専門学校に学び、4年間名古屋の設計事務所に勤務した。

「やがては家業を継がなかんで、奈良の鵤(いかるが)工舎で五年、社寺建築の修業をしたんやて」。

鵤工舎とは、天下にその名を馳せた宮大工、故西岡常一棟梁の一番弟子であった小川三夫氏が率いる匠集団。

勝則さんは兄弟子たちと寝食を共にした。

「最初の二年程は、兄弟子の飯炊きと賄いばっか。暇見つけては、刃物砥いだり削ってみたり切ったり。こっそり兄弟子の手付きを真似て覚えんるやて」。

先輩職人たちの技術だけではなく、同時に仕事に対する頑なな姿勢や心持までも身体に叩き込んだ。

「だって山ん中やし、晩は酒呑んどるか砥ぎ物しとるかだわさ」。

職人たちの道具や材料へのこだわりを、酒を酌み交わしながら夜毎学んだ。

「手の大きさや体格はまちまちやで、その職人の力量に応じて道具も工夫を重ねて作り上げるんやて」。

昭和59(1984)年、関市出身の理恵子さんを妻に迎え、翌年帰郷し父の元で家業に入り、二男一女を授かった。

神輿は下から順に、台輪、胴、井桁に組む担ぎ棒、屋根に分かれ、釘一本使わぬ木組みで固定される。

一方それぞれの部材は、塗師、飾り金具職人、箔押し職人、彫刻師といった専門職の手に委ねられ、神聖な神をお迎えする屋形へと姿を整える。

そして最後に鳳凰や宝珠の彫金細工を冠し、約四ヵ月の時を費やして完成。

一般的な神輿は、幅奥行き共に1.2㍍四方、高さ1.4~1.5㍍ほど。

中京型は、四方に紅白の伊達巻を飾り廻らせるものもある。

「15~16年前のバブル期がやっぱり最盛期やったて。企業や商店も皆お金がありあまっとった時代やったで。豪華さを競い合っとったでねぇ。それに比べて今は、神社の祭礼用や町内の氏神さんのお祭り用の神輿が中心やわ」。

中には年代物の神輿の修理も持ち込まれる。

「昔の神輿を修理させてもらうと、当事の職人たちの声が聞こえてくるみたいな気がするもんやて」。

勝則さんは、組み立てられたばかりの真新しい神輿を見つめた。

「祭り神輿は老若男女の楽しみの一つ。昔の元気を取り戻して、小粋に町を練り歩いて欲しいもんやて」。

元気を出してワッショイ!ワッショイ!

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「天職一芸~あの日のPoem 255」

今日の「天職人」は、名古屋市中村区名駅の「剥き物師」。(平成十九年十一月六日毎日新聞掲載)

三面鏡を前にして 母は紅注し髪を結う        「お前が嫁に行くんか」と 笑い転げて父が言う     結納祝う宴膳(うたげぜん) 野菜細工の鶴と亀     姉はこっそり涙ぐみ そっと幸せ噛み締める

名古屋市中村区名駅、野菜細工専門店の鈴亀。二代目剥き物師の鈴木竹春さんを訪ねた。

名古屋駅前の早朝。

柳橋市場界隈は、鮮魚を積んだ荷車やトラックが絶え間なく行き交う。

その一角。

学生服姿の少年と母親が屈み込み、店先に並ぶ商品を見つめている。

「すっげぇ!これって全部野菜?彫刻してあるの?」。少年は目を輝かせ、食い入るように眺め続けている。

「野菜の剥き物なんて、料理の引き立て役だって。芸術品とは違うんだで。野菜の命が尽きたらそれで終いだわ」。竹春さんは、一坪にも満たない店先で笑った。

竹春さんは昭和25(1950)年、愛知県安城市で魚屋の長男として誕生。

「元々板場職人だった父が、魚屋を開いて、その傍ら昭和30年頃から筍で亀を、長芋で鶴を細工しては、ここの市場の店先を借りて売っとっただ」。

やがてそれが人伝に評判を呼び、さまざまな冠婚葬祭用の剥き物にと注文が寄せられた。

「それでここに店を開いたんだって。当事は屋号も無く、お客の要望に応えて縁起物の細工をする毎日だわ。そしたら知らんとる内に鶴亀の『亀』が渾名になって、そいつがいつの間にか屋号へ」。

竹春さんは高校を卒業すると一年間父の剥き物を手伝い、その後一年間調理師学校へ。

20歳の年に家業に復帰し、父の手先を盗み見て細工技を身に着けた。

「だって幼稚園の頃から細工を見て育ったし、長男だったでやがては後取るもんだと思っとったでなぁ」。

それから五年後、隣町から厚子さんを妻に迎え、男子三人を授かった。

剥き物の素材は、筍、山芋、薩摩芋、大根、南瓜、西瓜にリンゴと四季折々で様々。

道具は、面取り包丁、細工出刃、丸抜き、刳り抜き、角鑿、丸鑿で、鶴亀は元より十二支、節分の鬼、孔雀、菊、菖蒲、芍薬と季節柄に応じ客の注文をこなす。

「彫れるもんなら何でも彫るわさ。素材の特徴を引き出しながら」。

屋号でもある亀の剥き物は、生の筍を半分に割く事に始まる。

筍の自然な形を利用しながら、まず亀甲を描き出し、次に頭と足へ。

足の爪や顔の細かな表情を細工すれば完成。

およそ一個を15~20分で仕上げる。

「野菜は生きとるで、手早くせんと痛んでってまうで」。

竹春さんにとって野菜は、まるで活け魚のような生き物そのものだ。

「火を通す炊き合せ用は、包丁を入れすぎると煮崩れてまうで注意せんとかん。飾り用は何より見てくれが重要やで、細かい所まで入念に細工せんとかんし」。

店先の入り口では長男基之さんが寡黙に包丁を捌き、剥き物を仕上げ続ける。

「あんまり力入れて剥き物造ると、後で食べれんくなるんだわ。情が移ってまって」。

小さな店で肩寄せ合う親子剥き物師は、野菜たちに己が技で剥き物と言う晴れ着を纏わせる。

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10/27の「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」正解はこちら!

「きんぴらごぼうのクリームパスタ」

今回は、なぁ~んの捻りも無い、超手抜きな残り物クッキングでした。

牛肉のコマ切れと、ささがきごぼうとピーラーで薄くしたニンジンの、ごくごく一般的なきんぴらごぼうを、酒のあてにと作ったものの、これまた厄介にもたぁ~くさん出来てしまうのが困り物。

しかし食品ロスを無くすことを目標としておりますので、残ったきんぴらをあれやこれやと工夫せねばなりません。

そこで今回は、何にしようかと考えることも省エネで、なぁ~んの捻りも無く、「きんぴらごぼうのクリームパスタ」に!

しかしこれが侮ることなかれ!絶妙な美味しさとなっちゃったんですから、捨てたもんじゃあありません!

まずタッパーに入った残り物のきんぴらごぼうを、フライパンでごま油をたっぷりと注いで炒めなおし、そこにあとは生クリームを注いで一煮立ちさせれば、きんぴらごぼうソースの完成。

後は茹で上げたパスタを湯切りし、オリーブオイルを塗して皿に盛り付け、きんぴらごぼうソースをたっぷり注げば完了。

お醤油と味醂の仄かな甘みが生クリームに溶け出し、パスタに纏わり付いたままお口の中へ!!!

白ワインがまたまた進んじゃいましたぁ!

きっとお子様にも好評のはず!

ぜひきんぴらごぼうが残ったら、思い出してみてくださいな!

今回は、ほとんどの方がホールインワンやニアピンでしたねぇ。

ご回答、ありがとうございました。

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「天職一芸~あの日のPoem 254」

今日の「天職人」は、津市美杉町の「郵便配達人」。(平成十九年十月三十日毎日新聞掲載)

月末近い下宿屋で 即席麺を二つ折り          冷や飯混ぜて炊き上げて 朝晩二食餓え凌ぐ       月が替われば軒先で バイクの音に耳澄まし      「書留です」の一声を 首を伸ばして待ち侘びた

津市美杉町の郵便配達人、境光司さんを訪ねた。

写真は参考

「『ええなあ、あんたら郵便屋さんとオマワリさんは。誰からも“さん”付けで呼んで貰えるんやで』って、農協や役場の奴らによう羨ましがられたもんやさ」。光司さんは得意げに笑った。

正式には、郵便事業㈱津支店興津配達センターの外務員だ。

光司さんは農家の長男として、昭和27(1952)年に同町で誕生。

中学卒業を間近に控え両親が離婚。

高校を出ると大阪へと向かい信用金庫に入行。

三年間の寮生活が始まった。

しかし古里に残る年老いた独り暮らしの母が気掛かりで、二十一歳の年に職を辞して帰省。

「半年ほどは母が勤める久居の瓦屋で、二㌧車転がして配達しとったんさ。母親は瓦の営業やさ」。

半年ほどすると、今度は興津郵便局のアルバイトに。

「叔父が勤めとったもんやでさ。『忙しいで手伝(てったい)いに来てくれんか?』『ほな、行きますわあ』ってな調子で」。

22歳の年に興津郵便局の職員補充で国家公務員試験に合格。

「そうは言(ゆ)うても郵便配達はせなかんし、貯金も簡保も何でもせんならんのやさ」。

来る日も来る日も、川上、石名原、杉平、三多気、興津、そして奈良県境の太郎生の混合区約千二百世帯を駆け巡った。

写真は参考

「四人で一区三百戸を配達すんやで」。

区域内千二百世帯の道順から、どこの誰が何人家族でどうしているかを克明に記憶する毎日。

「そんでもそれは企業秘密やさ。今しは個人情報の守秘義務があるでなおさらやけど」。光司さんは、オートバイのサイドミラーを見つめながら呟いた。

「そんでも昔はのんびりしとったもんやさ。『昼飯用意したるで食べてきい』とか、『お茶飲んで一服してきい』って。中には『餅搗いとるで上がって待っとり』とか、子供が懐いてもうて『オッチャン来てくれたわぁ』ってなもんで」。つくづく昔が懐かしげだ。

毎朝8時15分に津から郵便車が到着。

すぐさま荷降ろし。

次に配達順に区分する「順立て」へ。

そして午前10時には郵便局を出発し、受け持ち地区の巡回配達を終え、午後3時半頃局へと戻る。

その途中午前11時40分には、局に残った者が集まった郵便物を津へと発送するため、郵便車に積み込む「差し立て」作業が待ち受ける。

郵便局の外務員としての勤めも板についた昭和56(1981)年、同町出身の秀代さんを妻に迎え二男をもうけた。

雨の日も風の日も、台風だろうが、郵便配達に休みは無い。

写真は参考

「40㌢の大雪の日は、鞄を肩に掛けて行ける所まで歩いて配達すんやさ。郵便が届くのんを、心待ちにしてくれとる人がおる以上」。

多い日は二千通とか。

「郵便は翌日配達が基本やで」。

既にこの道33年の郵便配達人は、どこか誇らしげに遠くの山並みを見つめた。

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「天職一芸~あの日のPoem 253」

今日の「天職人」は、岐阜市日ノ出町の「支那そば屋」。(平成十九年十月二十三日毎日新聞掲載)

給料後の日曜は 母も朝から紅を注し          家族三人バスに乗り 目抜き通りの百貨店        とは言え母の行く先は 均一売り場の八十円      散々悩み「また今度」 〆は月一 支那そば屋

岐阜市日ノ出町の支那そば屋、丸デブ総本店三代目の神谷房昭さんを訪ねた。

「家は宣伝やったらお断りやよ」。

いきなり挨拶代わりに、そんな言葉で迎えられた。

「は~いッ、おおきに~ッ!」。

午後三時を過ぎても客足が絶え無い。

「お待ちどうさん」。

盆に載ったラーメンが運ばれて行く。テンコ盛りのスープが丼から盆に溢れ出す。

品書きはラーメンとワンタンのたったの二品だけ。

いずれも三百五十円と目を疑いたくなる。(平成十九年十月二十三日当時)

「ラーメンなんて大衆的な食べ物やで、具をあれこれ入れて高い値段にするよりも、安くて美味しくお客さんに召し上がってもらって何ぼのもんやって。創業以来それで名を売って通してまっとるでねぇ。今更変えてまうと、お客さんから叱られるんやて。『余分なことするな!』って」。房昭さんは、前掛けで濡れた手を拭った。

房昭さんは昭和29(1954)年に三人兄弟の長男として誕生。

高校を出ると繊維問屋に勤務。

「まあいずれは家を継がんなんとは思っとったでねぇ」。

二年後、家業へ。

丸デブの創業は大正6(1917)年。

東京の支那そば屋で修業した祖父が、郷里に戻って開業したのが始まり。

「まだ東海地方にラーメン屋自体が無くって、引き売りから始めて相当苦労したらしいわ。それでも柳ヶ瀬の歓楽街に店を構えたもんで、粋な旦那衆に持て囃されてったらしいわ」。

房昭さんを遮るように母笑子さんが口を挟む。

「同じ町内に三人デブがおったんやて。一人が蕎麦屋の大将で、一人はうどん屋の大将。そしてもう一人が家の義父(おとう)さん。義父さんがよう肥えとったもんで、お客さんから『丸デブ』って屋号付けられたそうやわ」。

昭和56(1981)年、銀行員だった康子さんを見初め、妻に迎え男の子を授かった。

「それが取引先の銀行やないんやて」。母がこっそり笑った。

「もうお客さんも四代目になっとるし。中には『お前んとこのそばは、お袋のお腹ん中におる時から喰うとった』って言うお客さんもおるんやて」。九割近くが常連とか。

丸デブの支那そば作りは、毎朝の麺打ちに始まる。

小麦粉・塩水・潅水(かんすい)で手捏ねし、打ち粉を振り機械で麺帯(めんたい)に延ばし、切刃を通してやや太みのある麺に仕上げる。

次に鶏がらでスープを取り、チャーシューを溜りで煮上げる。

注文が入れば、丼にチャーシューの煮汁タレとスープで味を調え、茹で上げた麺を浸す。

仕上げに刻み葱・蒲鉾・チャーシュー三切れを載せ、一杯二分半で完成。

「テンコ盛りのスープの理由か?そうやなぁ、戦後喰うもんも無い時代、空腹を満たしてもらうためやったんやないかなぁ」。

晴れの日も雨の日も、庶民と共に九十年。

丸デブの頑固なまでの商いは、多くの庶民が今日も護り続ける。

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