「天職一芸~あの日のPoem 266」

今日の「天職人」は、三重県伊勢市の「海苔問屋主人」。(平成20年1月29日毎日新聞掲載) 

火鉢の上でチンチンと ヤカンのお湯が音立てる         丸い卓袱台取り囲み 顔突き合わせ朝ご飯            まずは卵をかけようか? それとも海苔を巻こうかな?      茶碗片手に決めかねた 幼き冬の朝未だき

 三重県伊勢市の海苔問屋かねやす、三代目主人の笠井幹夫さんを訪ねた。

「どこやらの業界と違(ちご)て、海苔の入札には談合なんて一切ありませんのさ。だから買い付け人の眼力一つ。私も若い頃は、とんでもない物をようつかまされたもんですわ」。

幹夫さんは明治41(1908)年創業の海苔問屋で、昭和20(1945)年7月に一人っ子として誕生。

空襲警報が鳴り響き、人々が命からがら逃げ惑う敗戦の直前だった。

高校を卒業後、慶応大学へと進学。卒業後はそのまま大学院へ。

だがそこを一年で中退し、今度は東京芸大の大学院へと転校した。

「まだ父も若く、直ぐに家を継ぐ必要も無かったので、クラッシックを志しましてね」。

理解ある両親に恵まれ、幹夫さんは声楽の道を歩んだ。

テノールだったという声音には、奥深い響きが感じられる。

「わたしは三大テノールのドミンゴやなく、シミンゴですわぁ。ドミンゴがドまで出るとすれば、私はシまでしか出ませんでなぁ」。

だがさすがに、一人っ子の宿命から逃れることは出来なかった。

「23歳の頃から、入札の時期になると東京から戻っては父の手伝いをしたもんです。でも父は何にも言わん人で、とにかく見よう見真似でしたわ」。

昭和51(1976)年、秋田県出身のかず枝さんと結婚。男子二人を授かった。

馴れ初めは大学院三年の時の大学祭だったとか。

大学でコーラス部のかず枝さんと知り合い、半年後には結婚の約束を交わした。

「だんだん親も年を取って来て大変そうでしたし、大学院修了したら家へ戻ろうと思ってましたから」。

結婚の翌年、父は病に倒れ他界。

「子どもが生まれてちょうど二ヵ月でした。今思えば、それがせめてもの親孝行やろなぁ」。

海苔問屋の仕入れは、12月初旬頃の一番摘みから、春先まで年9回の競りで決する。

「有明より伊勢湾の方が、わずかに海苔の出来が遅いんやさ」。

寿司屋向けの板海苔には、8~12%の水分が含まれており、それを70℃で4時間乾燥機にかけ、水分を2~3%に飛ばして焼き海苔に仕上げる。

「真っ黒な海苔を炭火で焼くと、綺麗な緑色になるんやさ。美味しい海苔の見分け方は、第一に色艶。次に香りと味と柔らかさ。『香り良ければ味も良し』って、まったくその通りや」。

得意先の多くは関東。

老舗小売の海苔店に産地問屋として、神々住まう伊勢の海で揚がった、黒々と艶を放つ逸品を納め続ける。

「不思議なもんで、昔から食卓に海苔がないと始まらないくらい、家はみんな海苔好きで。ある時息子に言われましたわ。『海苔屋じゃなかったら、跡継がんかったわ』って」。

創業100年の伝統が裏付ける信頼の逸品は、四代に渡る店主の見事なまでの眼力が支え続ける。

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「天職一芸~あの日のPoem 265」

今日の「天職人」は、岐阜県郡上市八幡町の「肉桂(にっけい)玉職人」。(平成二十年一月二十二日毎日新聞掲載)

回覧板を抱え持ち 母のお遣い妹と               角の大きなお屋敷を 目指して駆けた雪の中          「あらまあこれはご苦労さん」 ご隠居さんは駄賃にと      丸い缶蓋取り外し 懐紙に包(くる)む肉桂(ニッキ)玉

岐阜県郡上市八幡町本町の肉桂玉職人の田口大介さんを訪ねた。

 漆喰土蔵に囲まれた石畳の坂下から、宗祇水と呼ばれる湧き水の清らかな水音が出迎える。

真夏の徹夜踊りで知られる昔屋並みが続く一角。

「明治20(1887)年の創業当事は、大間見屋と書いた屋号やったんですが、昭和の始めに祖父が創業家から買い取って『大』を『桜』に代えてそれ以来、肉桂玉の『桜間見屋(おうまみや)』となって私で六代目です」。大介さんは、作業場の奥へと導いた。

120年の年月に染み付いた、ニッキの香りが店の端々から漂う。

大介さんは三人兄妹の長男として、昭和37(1962)年に誕生。

高校を出ると直ぐ、高山市の飴屋で住み込み修業へ。

「同じ飴屋って言っても、細工物が中心で。20人程の職人に混じって、一から教わりました」。

2年間の修業の後、郷里に戻り家業の肉桂玉作りに従事した。

昭和62(1987)年、友人の紹介で美加子さんと結ばれ一女が誕生。

「今は名古屋で勉強してますが、ゆくゆくは婿さんもらって七代目継いでもらえるとええんやけどなぁ」。

桜間見屋の肉桂玉は、白と黒の二種類。

ザラメの白と、黒砂糖の黒。

「普通の肉桂玉はグラニュー糖を使うんですが、家のは後味がさっぱりするザラメを使ってます。だからグラニュー糖に比べて作り難いんですが、その分口の中で溶け難く長持ちするんやて」。

肉桂玉は真鍮釜にザラメと、それが溶け切るギリギリの分量だけ水を入れ、一煮立ちさせ火を止め少量の水飴を入れる。

「普通は一対一の割合ですが、家の場合水飴を極端に少なくして、飴の表面を溶け難くするんやって」。

真空釜で余分な水分を飛ばし、冷却板に流し込み肉桂の原料液を注ぎ入れる。

「飴を折り曲げながら、香りを満遍なく付けるのが肝心やて」。

ある程度固まってきたら細く伸ばし、球断機にかけて丸める。

「型の悪い物や、玉の中に空気が入ってしまったものを識別し、表面にグラニュー糖を塗(まぶ)せば完成やわ」。

郡上踊りの夏場から秋の紅葉シーズンは、観光客で賑わい最盛期を迎える。

毎日この作業を繰り返し、150~200㎏の肉桂玉を製造。

「肉桂はクスノキ科で、樹皮を剥ぎ取って乾燥させたもの。でも日本の肉桂は根っこの部分にしか辛味が無く皮は使えんのやて。それで家のは、味と香りがどこのよりも優れとる、中国原産のカシアを使っとるんやわ」。

大介さんが出来たての肉桂玉を差し出した。

口に頬張ると、表面のザラザラしたグラニュー糖がさっと溶け去り、中からほんのりとニッキの香りが口中を支配する。

懐かしくもエキゾチックな芳香に包まれ、心なしか身体全体が癒されてゆくようだ。

添加物など一切無い、天然色に輝く一粒の肉桂玉。

我が身は至福の甘さとしばしたゆたう。

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「天職一芸~あの日のPoem 264」

今日の「天職人」は、愛知県半田市の「鰯味噌職人」。(平成二十年一月十五日毎日新聞掲載)

「鰯の煮付けもう一つ それと熱燗お代わりね」         空徳利を振りながら 倅が嫁に声かけた            「お前の魚嫌いには 母さんいつも手を焼いた」         ところが今じゃ一端に 旬を貪る魚喰い

愛知県半田市、いわし専門店の円芯(まるしん)の宮下明洋さんを訪ねた。

「元々鰯とニンニク、それに葱と生姜は相性が抜群だで、八年前に赤味噌足して見たったんだわ。それからこの鰯味噌を料理として出すようになったら、ある日板場まで客の一人が入り込んで来て、『うちの会社で商品として発売したい』って。まぁ、そんな風に言ってもらえりゃあ、板場冥利に尽きるってもんだけどなぁ。でも果たして大量生産してどうだか?倅と二人して、一日おきに手練りで作っとるで美味(うま)いんやないかなぁ」。明洋さんは、蒸篭(せいろ)の上蓋を取りながらつぶやいた。

中には程よく蒸しあがった豆腐と、赤味噌仕立ての鰯味噌が、甘辛い芳醇な香りを放つ。

「まぁ何はともあれ味見しやぁ」。

明洋さんは昭和19(1944)年、中国の奉天で三人兄妹の長男として誕生。

終戦を目前に、父が除隊し福岡市へと引き揚げ、その後終戦へ。

戦後の混乱の中、父は半田市出身の戦友に誘われるまま、リュック一つで家族を伴い同市へと移住を決めた。

そして昭和23(1948)年JR半田駅前に、わずか8坪の小さな大衆食堂「丸信」を開業。

父は軍刀を出刃に持ち替え、一家の暮らしを支えた。

昭和37(1962)年、高校を卒業すると福岡市で割烹店を構える叔母を頼り、板場修業を開始。

3年後には、花板を志し名古屋の料亭へ。

ここでやがて伴侶となる米沢出身の仲居ミサヲさんに一目惚れ。

23歳で一旦郷里の半田へと戻り、料理旅館の板場で更に腕を磨き続けた。

それから2年後の昭和44(1969)年。

25歳でミサヲさんを嫁に迎え、料理旅館を辞して独り立ち。

「まぁ、自分の腕試しも兼ねた流れ板だって」。

だが2年後、父が体調を崩し急遽家業を継ぐことに。

それを機に「丸信」の屋号に、いつも人の輪の芯となる店でありたいと「円芯」の字を当てた。

「ちょうど長男が生まれた年やったって。当時は店に来る客って言ったら、みんな親父の客だわ。やれ『ラーメンくれ』だとか、中にはご飯持って来て『おかずだけくれ』ってな客ばっかり」。

料亭で修業を積んだ明洋さんの心は、大衆食堂と高級料亭との客筋の狭間に揺れ続けた。

「親父の客から俺の客に、完全に入れ替わるまで5年はかかったって」。

その後は出世魚のように店を広げ、平成13(2001)年に現在地へ。

名代の鰯味噌は、明洋さんと長男の二人がかりで一日おきに6㌔を仕上げる。

まず赤味噌、ニンニク、鰯のすり身に葱と生姜を混ぜ合わせ、鍋で弱火に掛けながら焦げ付かせぬよう約1時間手練りを繰り返し、秘伝の調味料を配合し定番の味を引き出す。

「最初の頃は配分がわからんもんで、定番の味に仕上げるまでに一ヶ月かかったって。素材が持つ旨味の足し算じゃ無く、どうやったらそれが掛け算になるかが決めてだわ」。

大衆魚の鰯は、板前の確かな舌と技で、見事な逸品へと生まれ変わった。

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クイズ!2020.11.10「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」

いやいや意外な事に、苦肉の策のクイズ「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」が好評?で、皆様からも数多くのコメントを賜りました。

そこで益々気をよくして、ぼくからの一方的なブログではなく、皆様にもご一緒に考えていただいてはと、『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』をしばらく続けて見ようと思います。

でもクイズに正解したからと言って、何かプレゼントがあるわけではございませんので、どうかご了承願います。

そこで今回の『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』はこちら!

これはちょっと難しいと思います。

難しさのメインは、手前の白い団子状の物体です。

郡上からお送りいただいた、秋の味覚の〇○をフードプロセッサーでペースト状にして、あのイタリア~ンな「〇〇。〇」風にして見たものの、ご覧の通りの有様です。

しかし食感の弾力は今一だったものの、それなりに美味しくいただけました。

さてさて、今回の残り物クッキングとは???

皆々様からの、想像を逞しく巡らせたご回答をお待ちいたしております。

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「お休みいたしま~す!」

今夜10時の予定でアップする「火曜の深夜ブログ」ですが、諸事情により明日か明後日の午後10時とさせていただきます。

誠に申し訳ございません。

ただし、コロナやインフルエンザではございません。

明日か、明後日か、明々後日までには、ご覧いただけると思います。

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「天職一芸~あの日のPoem 263」

今日の「天職人」は、三重県伊勢市の「自転車預り所」。(平成二十年一月八日毎日新聞掲載)

一本線のセラーに チェックのマフラー白い息          踏み切り越えてチリリンと 路地を彼女が行過ぎる        駐輪場の定位置に 彼女を見つけ大急ぎ

「おはよ。今日も一緒だね」 毎朝偶然装った

三重県伊勢市の自転車預かり所、小島美智子さんを訪ねた。

写真は参考

「おばちゃん、おおきに。さいなら~っ」。セーラー服姿の女学生が自転車に跨る。

「女の子同士でちゃんと連れ添うて帰るんやよ」。

三重県伊勢市駅にほど近い、旧道に面した一角の夕暮れ。

高校生たちは思い思いに挨拶の言葉を残し、自転車預かり所を後に家路へと向かう。

「家で買(こ)うてくれた子らの自転車だけを預かっとんさ」。美智子さんは、土間に突き出した座敷で笑った。

「学生さんは朝と夕方しか、自転車出し入れしませんやろ。一般の人らやってみい、ず~っと店番せんならんでかなんわ。それにあたしもいつ出掛けるかわからんでな」。

美智子さんは大正14(1925)年、下駄職人の家に誕生。

「父は亡くなった皇后様に、お履物を献上したほどの腕前やったんさ」。

やがて後の大妻女子大学を卒業し、戦後間もない国民学校で教鞭を執った。

昭和24(1949)年、親類の紹介で自転車店を営む小島家に嫁ぎ三男をもうけた。

「戦後間もない頃のこの辺りは、空襲で焼け野原やったんさ。ほやからして今じゃあこんなボロ家ですが、当事は周りから御殿と言われたもんやで」。

写真は参考

夫は自転車販売と修理に明け暮れ、美智子さんは店の奥で「小島塾」を開き家計を支え続けた。

「自分の子どもを姑に預けといてなぁ」。

その後40年に渡って小島塾は、地域の子ども達を見守り続けた。

「今の子らは気の毒やさ。私らはテスト出すにしても100点取れるように考えたもんさ。でも今はどう足掻いても100点なんてとれやん。それでは子ども等が自信を失くすばっかやさ。それが満点取れてみぃ、やれば出来るって自信が付いて、ほやったらもっと頑張ったろかってなるやろ」。

一番生徒の多い時は、一度に17人を数えたほど。

平成11(1999)年、夫が他界。

「『敗戦で捕虜になって一旦死んだはずが、命貰って還って来たんやで』が夫の口癖。黙ってポケットん中にお小遣い入れといたると、いつの間にかあれしませんのさ。近所の子らにせっせとお小遣いやって歩いて。あたしにはブラウス一枚も買(こ)うてくれやんだに」。

美智子さんは土間の片隅に片付けられたままの、修理道具を見つめた。

夫の死後、自転車販売と修理業は廃業。

その後、自転車預かりへ。

「あたしらの年金だけでは、税金さえも払ろてけやんで、子供らの自転車預かったお金を足しにせやんと」。

入り口の引き戸が開き、女子高生が引っ切り無しに訪れる。

「おばちゃん、おおきになぁ。また明日」。

口々にそう言って、冬の黄昏に染まって行く。

「時折りあの子らの籠ん中へ、俳句捻って入れといたるんやさ」。

どんな句が詠まれているかと問うと、「あかん、それは秘密やわ」。

82歳の才女は笑い飛ばした。

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「天職一芸~あの日のPoem 262」

今日の「天職人」は、岐阜市長住町の「ホルモン屋女将」。(平成十九年十二月二十五日毎日新聞掲載)

色付く街に賛美歌と 恋人たちのはしゃぎ声           あんな時代もあったなと ネクタイ緩めコップ酒         レバーにネギマ ホルモンと 上司の愚痴をアテにして      酒を煽って憂さ晴らし オヤジ二人のクリスマス

岐阜市長住町のホルモン水谷本店。二代目女将の水谷信子さんを訪ねた。

「おお~い、酒二杯に串三本やで勘定おいとくわ」。

夜も更けた光景かと思いきや、まだ昼下がりの午後二時半だ。

名鉄岐阜駅を西に入ったビルの谷間。

歩道に突き出した煙突からは、炭火に爆ぜる美味そうな肉汁の香りが漂う。

歩道をゆけば、ついつい袖を引かれそうになるのが人情。

それが証拠にこんな真昼間から、店内はもう鈴鳴り状態。

店から溢れ出した客用に、ビールケースに板を載せた簡易テーブルが組み立てられ、客も手慣れた様子で丸椅子を運び出し、歩道脇に陣取ってコップ酒を煽る。

「家の名物は何てったって、厚切りレバーやて」。信子さんが、串盛りを差し出した。

「まあお茶菓子代りに食べてみたって」。

確かに串に刺さったレバーの厚みは、2㌢近くもある。

まるで学校給食に添えられていた、三角形のチーズ大の大きさで、おまけに惜しげもなく一串に二切れという大胆さ。

これで一本百円とは、鈴鳴り人気にも合点がいく。

信子さんは昭和18(1943)年、一文菓子屋を営む後藤家に誕生。

中学を出ると化粧品屋に勤務し、看板娘として販売を担当した。

ちょうど娘盛りの20歳を迎える頃の事だ。

「練炭屋に夫を紹介されたんやて」。信子さんは心なしか照れ臭げだ。

「旅館をやってた叔母が『下見してきたるわ』って、この店にこっそりやって来て夫の品定めやて。それで『三郎さんなら間違いない』って、太鼓判押すもんやで」。

昭和38(1963)年、水谷家の二代目三郎さんに嫁ぎ、二女を授かった。

「当時も店はてんてこ舞い。だから娘二人は住み込みのオバサンに任せっぱなし」。

高度経済成長期を支えた男たちは、ホルモン屋でまずは景気を付け、ネオン瞬く柳ヶ瀬へと繰り出していった。

「よう明治気質の義父から教わったもんやて。『飲み過ぎた人に売っちゃいかん』って。だから今でもそれは肝に銘じとるんやわ」。

平成12(2000)年、夫が他界。

「もう二代限りで終わりにしようかって思っとったんやて。そしたら娘婿が、『俺が会社辞めて継ぐ』って涙浮かべて言ってくれたんやわ」。

信子さんは言葉を詰まらせながら、誇らしそうに焼き場の娘婿を見つめた。

「わしなんか忘れたくらい昔から、ほとんど毎日通っとるって。値上がりせんし、隠居の身には助かるんやて。だから勘定も自己申告みたいなもんやって」。

帰り際に常連客の老人が笑い飛ばした。

思い思いの客がそれぞれの人生を引っ提げ、小さな丸椅子に腰かけ赤ら顔で串を頬張る。

ここでは会社の看板や、身分の上下など一切通用しない。

だからこの店が大人たちの止まり木であり、楽園であり続けるのだ。

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11/03の「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」正解はこちら!

「残り物の残り物!イタリア~んな広島焼き擬きのモダン焼き~アラビアータソース添え」

皆々様には、大変あれやこれやとお考えを巡らせてしまいましたが、実はなぁ~んてぇこたぁありません!

先週の「きんぴらごぼうのクリームパスタ」が残ってしまい、そいつを更に一捻りしただけの、なんともお粗末極まりない、超超手抜きな残り物のこれまた残り物クッキングでございます。

まずは、残っていたきんぴらごぼうのクリームパスタをボールに移し、そこにとろけるチーズと生クリームを加え、フライパンで軽く炒めておきます。

次にフライパンに油をひき、小麦粉、玉子、生クリームを混ぜたお好み焼きの皮の上に、フライパンで炒めたきんぴらごぼうのクリームパスタを、広島焼きの焼きそばのように乗せ、再び混ぜた小麦粉、玉子、生クリームを上から被せ、ひっくり返して焼き上げ、最後に市販のアラビアータソースを彩に添えれば完了。

とんでもなく超手抜きな、残り物の残り物クッキングではありましたが、これがまた妙に後を引く美味しさで、ついついキリン一番搾りをグビグヒと煽ってしまったものです。

まぁ、よくよく考えれば、焼きそばもパスタも麺に変わりはないわけで、見た目はともかくそれなりに中々どうしてな逸品となりました。

悩みに悩み抜かせてしまいましたが、沢山のご回答をお寄せいただき誠にありがとうございました。

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「天職一芸~あの日のPoem 261」

今日の「天職人」は、愛知県岡崎市の「アコーディオン弾き」。(平成十九年十二月十八日毎日新聞掲載)

ちょっとそこ行くお嬢さん 肩を落して項垂れちゃ        綺麗な顔も台無しだ 少し停まってお聴きなさい         失くした恋を悔やんでも 今更元へ戻れない           ならば明日の出逢い期し ラブソングでも奏でましょう

愛知県岡崎市のアコーディオン奏者、杉浦多美夫さんを訪ねた。

「今のは霧島昇の『誰(たれ)か故郷を想わざる』だわ。あんたら知っとる?」。多美夫さんが問うた。

「この音色は、激動の昭和そのものだって。苦しくて辛い時代に、元気と勇気を与えくれただ」。

両肩から13㌔もある、自慢のアコーディオン「ホーナーゴラ」を軽々と下ろしながら笑った。

多美夫さんは昭和8(1933)年、石工を父に三人兄弟の次男として誕生。

両親は地元の石材会社に勤務し、家族を支えた。

ところが小学六年の年、父が急逝。

母の細腕を頼りに中学を卒業すると、母の勤める石材会社に入社。

夜学生として工業高校の定時制に通った。

「仕事を夕方で切り上げ、5㌔ほどテクテク歩いてくだわ」。

昭和24(1949)年、記念すべき初任給は2,000円。

夜学を終え一目散で家へと駆け戻り、月給袋ごと封も切らず母へと手渡した。

翌年、元プロ歌手津田二郎師の歌謡塾へ。

「週に1回30分のレッスンを受けに通ったもんだぁ。最初の25分間は発声や基礎練習。最後の5分で好きな歌を唄って、先生の指導を受けるだ」。

それから五年間で、NHKのど自慢へ26回も出場。

5回合格の鐘を鳴らした。

「当事はのど自慢ブームだったもんで、一曲50円もする楽譜を買って伊藤久男の『オロチョンの火祭り』を唄ったもんだって。でもあんな当事、色恋の歌はご法度だし、プロより上手く唄っても鐘は2回しか鳴らんだわ」。

三河各地で開催されるのど自慢会場を荒らし回った。

「その内、アコーディオンの音色に惹かれてまっただ」。

写真は参考

のど自慢荒しの傍ら昭和27(1952)年には、当事の給料の10倍にも当たる2万円でアコーディオンを購入。

「修学旅行の積み立て金を崩して、母親に1年分の小遣い前借りさせてまって」。寝る間も惜しみ独学で奏法を学んだ。

昭和31(1956)年、地元の仲間とタンゴバンドを結成。

仕事を終えるとキャバレー巡り。

「岡崎のキャバレー双竜へと、自転車に楽器積んで走ってくだぁ。石材屋の社長が苦労人で、普通だったら二束の草鞋を咎めるところが『お前は偉いなぁ。晩もバイトに精出して』って、逆に励まされただ」。

昭和35(1960)年、バンドで貯めた金を結婚資金に、職場で見初めた尚子さんに求婚し二女に恵まれた。

それから間も無く半世紀。

「父母もぼくも育ててもらった会社に、今は娘婿が勤めさせてもらっとるだ。親子三代に渡って。本当感謝せんとかんわ」。

多美夫さんは徐に愛器を抱き、左手で蛇腹を開いた。

写真は参考

腹一杯にアコーディオンが空気を吸い込み、せつなく物悲しい独特な音に、右手の四十一鍵でメロディーを奏でる。

日毎遠ざかる昭和半ばのセピア色の風景が、瞼の奥に広がっては消えて行く。

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「天職一芸~あの日のPoem 260」

今日の「天職人」は、三重県度会郡大紀町の「牛乳配達夫」。(平成十九年十二月十一日毎日新聞掲載)

ガチャゴトガチャと瓶が揺れ 牛乳配達オッチャンの      チャリンコ停まる庭先で 木箱がコトン 音立てた        コケコッコーと寝惚け鶏 今頃朝を告げて鳴く          庭先母の下駄の音 ぼくは布団で丸くなる

 三重県度会郡大紀町の松田商店、大内山牛乳配達夫の松田憲光さんを訪ねた。

「学校給食の脱脂粉乳が、とんでもなくまずいし臭っさいもんでさ、教室へ運ぶ途中のドブによう放ったったもんやさ」。

昭和半ばに生を受けた児童にとって、脱脂粉乳とあちこち凹んだアルミのカップは、好むと好まざるとに拘らず忘れ得ぬ存在と言えよう。

憲光さんは昭和30(1955)年、食料品店を営む家の長男として誕生。

「保育園時代の同級に、今は俳優になった小倉久寛がおってさ。小中学生時代は一緒に野山を駆け巡ったもんやさ」。

高校を卒業すると父が営む食料品店を手伝った。

「20歳の頃から結婚するまでの13年間は、店を手伝いながら毎朝3時半に起きて、新聞配達もしよった。いつの間にか身体が時間を覚えてしまって、目覚しいらずやさ」。

25歳を迎えた頃だった。

大内山牛乳の宅配と、店卸をしていた配達人に欠員が。

「どうせ新聞配るついでやし、ほならオラがしよかって」。

新聞と牛乳の配達、そして乳製品の店卸配送と父の食料品店での販売。

毎日わずか3~4時間の睡眠時間で、一日身を粉にして働き詰めた。

「大内山牛乳は飼料も飼育もピカイチやで、牛乳の味が絶品なんさ」。

憲光さんは大きな瓶から新鮮な牛乳をグラスに注いだ。

勧められるままにグラスを干した。

口中に濃厚な味わいと、ほんのりとした甘さが広がる。

平成元(1989)年、近くのスーパーでレジ打ちをしていたみづほさんを見初め求婚。

男子二人を授かった。

「いつまでも独り身だと、周りからあれこれ言われるんさ。それで終いに面倒臭なって来て」。

接客に追われる妻を盗み見ながら、照れ臭そうにつぶやいた。

平成8(1996)年、国道沿いに山海の郷が開業し、乳製品を中心とする店を出店。

「昔ながらの市場やさ。でもこの対面販売が一番」。

この年大内山牛乳に、地元色を打ち出した商品作りを持ちかけた。

「『手作りのビンバタ(ビン詰めバター)作ってくれんか』って」。

昔ながらのチャーン製法で、じっくり時間を掛けて練り上げた、無添加の素朴なビン入り「大内山手作りバター」が誕生。

「小倉がテレビ番組で紹介してくれたもんで、遠方からもようけ注文が入ったんやさ」。

憲光さんの朝は、今尚早い。

4時に起き出し軽トラに牛乳を積み込み、2時間かけては村の端から端まで約250軒の家々を巡る。

それが終わると今度は店卸の配達から、自分の店の切り盛りへ。

そして夕配の牛乳を配り終え、長い一日を終える。

「今でも3~4時間以上、寝たことなんてないんやさ。それも新鮮な牛乳のお陰やろか?」。

妻を見つめ憲光さんは笑った。

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