「天職一芸~あの日のPoem 400」

今日の「天職人」は、岐阜市玉宮町の「百貨店主」。(平成22年12月25日毎日新聞掲載)

小さな頃のクリスマス イヴの靴下枕元             サンタ見たさに寝たふりが 何時の間にやら高鼾(たかいびき)         あっと気が付きゃ靴下に 見覚えのある包装紙         「サンタの町も同じ名の 百貨店でもあるんやろ」

岐阜市玉宮町で昭和41(1966)年創業の富士屋デパート。創業者の竹中一二三さんを訪ねた。

子どもの頃、父の給料後の日曜が待遠しかった。

朝から余所行きに着替え、駅前のデパートへ。

お目当ては、屋上遊園の乗り物と、大食堂のお子様ランチだ。

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「家のデパートは、屋上遊園やなしに屋上菜園やて」。一二三さんの言葉通り屋上には、野菜や果物が所狭しと植えられている。

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一二三さんは昭和11(1936)年、本巣町の農家で7人兄弟の3男坊として誕生。

中学を出ると、名古屋のメリヤス問屋で小僧に。

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「しばらくすると、関東の得意先を巡る出張やわ。そしたら群馬の高崎市に、富士屋洋品店ってえのがあって、よう流行(はや)る繁盛店やった。そこの社長に、『何でこんなに流行るんや』って聞いたら、東京へ直接仕入れに出掛け、いいもんを安売るでだと教えられて」。

それならばと、「田舎から5万、友人から5万、自分のなけなしの貯金叩いて5万。全部で15万で、デパートの前身となる富士屋メリヤスを昭和33年に開業したんやて」。

中々抜け目の無い一二三さんは、高崎から嫁まで持ち帰った。

この年、靖子さんと結ばれやがて三男一女が誕生。

「これが富士屋洋品店で販売しとったんやて。そしたら見初められてまって」。一二三さんは、妻に聞こえぬよう声を潜めた。

恐らく眉唾物だろう。

一二三さん21歳、靖子さん19歳の人生の船出と、独立開業という商売の船出でもあった。

「開店したらとにかく売れて売れて。レジに客が行列してまって、段ボールに金を放り込んどったて」。

毎朝7時から深夜0時まで、高度経済成長と歩調を合わせ、若い夫婦は働き詰めの毎日に追われた。

「その内に『あれはないか?これはないか?』って言われるようになって。無いって言うのが癪に障るで、『よおし、30分待っとってくりょ。その間に探して来たるで』って。気がつくと、タバコ、酒類、切手、米穀の販売許可も取ってまっとって、だったら富士屋メリヤスやなしに、何でも扱えるようにデパートにしたろまいって」。

昭和41年、富士屋デパートが誕生した。

開店初日の式典では、クス玉の中から本物のニワトリが10羽も飛び出し大騒動。

あまりの人出にパトカー4台が駆け付け、警官20名が警備にあたる物々しさ。

「ここで商売始めて創めてはや52年。お客さんが『昔からパンツはここのんに決まっとる。他所のパンツじゃあかん』って言ってくれるのが一番やて」。

ここには、洒落たデパートと違い、ショーウィンドーやブランド物などない。

1階売り場の一等地には、レジと開けっ広げな事務所が居座る。

壁には孫が書いた習字が翻り、生鮮食品から日用雑貨に、肌着と何でもあり。

だから庶民の百貨店。

「てぇげえ、何がどこにあるかなんて、誰もわからんて。わし以外はな」。

夫婦共白髪で生涯現役を貫く、天晴れ岐阜の萬商人。

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「天職一芸~あの日のPoem 399」

今日の「天職人」は、愛知県清洲市須ヶ口の「ソース醸造所」。(平成22年12月18日毎日新聞掲載)

恵ちゃん()のおばちゃんは ご近所一のハイカラさん       昼のお呼ばれオムライス 卓上ソース掛け放題          それに引き替え我が家では なにかにつけてお醤油派       天ぷら炒飯目玉焼き 挙句の果てにコロッケも

愛知県清洲市須ヶ口で1928(昭和3)年創業の太陽食品工業。石川まささんを訪ねた。

昭和半ばの洋食と言えばコロッケ。

ソースをドボドボにしては「もったいない!」と叱られたものだ。

「祖母の話だと、昔ソースは薬局で売ってたって。まあ匂い自体は漢方薬みたいやでね」。眞美さんは、帳簿付けの手を止めた。

「あら、そう。私はそんなこと、初めて聞いたわ」。

二代目女将の早川和子さんが、長女を見つめ笑った。

和子さんは昭和4年、同県津島市に誕生。

昭和23年、東京女子専門学校(現、東京家政大学)を出ると、母校で家政科の教壇に立った。

昭和27年、知人の紹介で守男さん(享年83)と結ばれ、やがて一男二女が誕生。

だが長男は、生後間も無く他界した。

「嫁に来た頃義父は、朝から業務用の瓶を洗って、それにソースを詰めてました。そして釜に大鍋掛けて、一晩中火の番しながら原料を煮込んでたもんです」。

敗戦からわずか7年、統制経済の解除からもまだ2年目のことだった。

しかしその後この国は、驚異的な勢いで高度経済成長へと走り出す。

「幼い頃、毎朝トラック一杯のトマトが来て。祖父は単車で営業に、全国各地を飛び回る毎日。私の顔もわからんかったほど」。眞美さんが懐かしげに窓の外を見つめた。

「ここらは大手の天下だから、家のソースは静岡から関東、そして西は関西中国方面へと、逃げ延びるようにして得意先を開拓して。そしたらあのB-1グランプリで有名になった、富士宮の焼きそば屋さんがこぞって使ってくれて。それ以来、全国からのお取り寄せも増えましてね」。

和子さんは、創業当時から代わらぬ、瓶詰めソースを誇らしげに手にした。

「祖父は昔、このラベルに『世界に誇る』って入れてましたが、業界から誇張せんといてくれって指導されたとか」。親子は顔を見合わせ大笑い。

世界に誇る太陽ソースの作り方は、野菜と果物をじっくり煮込むことに始まる。

そしてシナモン、セージなど10種類の香辛料を製粉機で挽き、それを2つに分割。

「昔は、それこそ薬研で挽いてました。香辛料を生かしたまま使いたいから」。

和子さんは義父と夫の、頑ななソース作りを受け継ぐ。

そして片方の香辛料には酸を加え酸分解。

もう一方は、炊き込んだ原料にカラメル、液糖と共に加え沸騰。

次に酸分解を終えた香辛料の入りの木桶に移し変えて熟成。

その後香辛料を3回漉し、約1ヶ月を費やせば完成。

やはり一族は、天ぷらもソースかと問うた。

「そりゃあ家は、てんぷらもみんな何でもソースです」。

現場で製造を手伝う、孫の石川達也さんが胸を張った。

町の小さなソース工場。

だから製造量にもおのずと限りがある。

だが侮るなかれ!

誰よりもソースを愛し続けた、親子三代の舌が、幻の味を今も守り続ける。

世界に誇れ!太陽ソース。

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「天職一芸~あの日のPoem 398」

今日の「天職人」は、三重県桑名市本町の「酒酛さかもと饅頭職人」。(平成22年12月11日毎日新聞掲載)

宮へ七里の渡し場は 上り下りの旅人で             桑名城下も大賑わい 「まずはどこぞで茶を啜ろ」        桑名宗社の楼門に 老舗(しにせ)とらやの佇まい             蒸籠の湯気が吹き上がりゃ 「饅頭(まんじ)おくれ」と人だかり

三重県桑名市本町、宝永元年(1704)年創業の「とらや饅頭まんじゅう」。十一代目酒酛さかもと饅頭職人の安達仁兵衛さんを訪ねた。

「まんじ(饅頭)トンゴ(10個)おくれ」。

腰の曲がった老婆はガマ口を開き、慣れた手付きで饅頭代を支払う。

「いつもおおきに」。

これまた主も親しげに見送る。

「昔ここらは遊郭やったで、そこへ足げく通う旦那衆らが、土産にってようこうてくれたそうや」。

仁兵衛さんの幼名は年始男。

平成12(2000)年、戸籍上も「仁兵衛」に変え十一代目を襲名した。

昭和36(1961)年、3人兄弟の長男として誕生。

高校を出ると、京都の老舗和菓子店で5年の修業を積み、昭和49年に家業に入った。

「まあどこもせやけど、口伝で教えられて、後は毎日見よう見真似で覚えやんと」。

とらや饅頭の命は、何と言っても酒母(しゅぼ)元種(もとだね)作りに極まる。

「酒母を作るには、酒税法の定めで免許がないとあかんのやに」。

創業以来、300年以上守り抜かれる伝統の元種作りは、毎晩甕に仕込まれる。

「まず、もち米をお粥さん状に炊き、米麹を合せ発酵。するとやがて乳化し、米が水に浮いて分離してくるで。そしたら酒母がまだ元気なうちに、米汁を甕に移し変え、元汁にすんやさ。まあ後は季節によって、温度と時間がちごて来るけどな」。

翌日、元汁に砂糖と小麦粉を混ぜ生地作り。1時間半ほど寝かせると、プクプクと発酵が始まる。

すると次は包餡。

「北海道産小豆の漉し餡を、生地で包むんやけど、生地が柔らかい汁のような状態やで、タラーッとなっとる。せやでまず生地を鉢から、竹の棒で水飴練るように台へと引っ張り上げ、丸く型抜きしてから餡を包み込むんやさ。」。

次に炭火のホイロで再び発酵。

「酒酛の力で、皮がぷっくり浮いてくんやさ」。

それを蒸籠で10分間蒸し上げれば、東海道を上り下る旅人たちに、こよなく愛され続けた、300年変わらぬ味わいの名代の逸品が完成する。

「酒酛饅頭の特徴は、皮がちょっと酸っぱいけど、餡と一緒に食べるとそれが絶妙の味を醸し出すんやさ。餡にコクがあるし、そりゃ蒸し上りがなんちゅうても一番贅沢やわ」。

保存料など使わぬため、日持ちは2日。

「かと(硬く)なっても、米麹で作ってあるで、しがむ(よく噛む)とまたちごた味わいが出てくんやさ。せやで漁師は、わざわざ硬いのおくれゆうてな」。

気になる跡取りはと問うた。

すると「その前にまずは嫁を貰わんとな。せやけど、いつまでも90近い看板婆さん(母)と二人じゃ都合悪いで、近いうちに嫁もうて子作りに励まんと」。

子どもの頃は、饅頭の摘み食いで歯もなかったとか。

「しかもいっつも蒸し立ての、一番旨いとこばっか!どうにも摘み食いの癖は、この年んなってもちっとも治らんのやさ」。

菓子匠は、子どものような眼をして笑った。

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「天職一芸~あの日のPoem 397」

今日の「天職人」は、岐阜市京町の「冷やしたぬき蕎麦職人」。(平成22年12月4日毎日新聞掲載)

狸に狐 月見蕎麦 昆布(こぶ)と鰹の出汁の香に            つい袖引かれ立ち止まりゃ 伊吹颪も雪混じり         「外がどんなに寒くとも 更科と言や冷やしでしょ       『たぬきダブルと熱燗ね』」 オヤジ見たいに君が言う

岐阜市京町、昭和3(1928)年創業の更科。三代目主の水野信さんを訪ねた。

既に午後3時を回ったと言うのに、次から次へと客が暖簾を潜る。

そして席に着くや否や、口々に「冷やしたぬきダブル」「俺、トリプル」と所望し、大きな薬缶から、慣れた手付きで湯呑みに茶を汲む。

「ここの店の冷やしたぬきは、1週間もせん内に、また無性に食べたなるんやて。ひょっとすると病み付きにさせようと、なんぞ薬でも盛ったるかも知れん」。

隣りの客は連れの女に、さも訳知り顔で自慢した。

「ちょっと●▲さん!人聞きの悪いこと言わんといて?」。主人は冗談まじりに常連客に返す。

信さんは昭和33年、二人兄妹の長男として誕生。

「創業当時は、柳ヶ瀬の日ノ出町に店があったんやけど、戦災で焼け出されて、戦後ここへ移転したんやて。初代が娘を亡くし、跡取りも失くしたんで、両親を両貰いしたそうやわ」。

高校を出ると直ぐ、家業に従事した。

ところがその直後両親が離婚し、初代までが息を引き取った。

「最初は母の手伝いしながら、無我夢中で仕事を覚えて…。否応無しに代替わりやて」。 

昭和55年、青年会で知り合った久美子さんと結ばれ、二男一女が誕生。

「元々この辺は、うどんや支那そばがよう出て、日本蕎麦は出ん方やったんやて。ところが昭和40年頃から、自然発生的に今の冷やしたぬき蕎麦が誕生して。それが今じゃ、7割以上が目当てにしてくれる、家の名物になったんやで」。

確かに女性でも、当たり前のようにダブルの大盛りを所望する。

冷やしたぬき蕎麦作りは、毎朝6時から出汁を煮出す作業に始まる。

まず大鍋に水を張り日高昆布を入れ沸騰させ、室鯵、潤目(うるめ)(いわし)(そう)()(がつお)を煮出し、一番出汁を取る。

次に蕎麦粉100㎏の製麺。

「水で練るんやなく、熱湯を冷ましたお湯の方が、蕎麦の香りが飛ばんのやて。そして麺切り。包丁切りの方が、麺の上下が窪んで、出汁が絡み易くなるで」。

次に溜り醤油、味醂、砂糖を混ぜて煮詰め、半月寝かせた返しと、一番出汁を合せ、御前(ごぜん)(じる)を仕込む。

一方で、油揚げを煮付け、たぬき用だけのために天かすを揚げる。

後は客の注文に応じ、茹で上げた蕎麦を冷水で締め、大きな丼によそい御前汁を掛け、油揚げ、天かす、刻みネギ、練り山葵を盛り付ければ出来上がり。

「自家製麺へのこだわりは、初代兼次郎が作り出した太麺の歯応えを守りたいで」。

柔らかくもっちりとした太麺に、伊勢うどんを思わせる濃厚でコクのある出汁が絡み、このためだけに毎朝揚げる天かすのサクサク感が、見事なハーモニーを奏で喉の奥へと押し寄せる。

麺、出汁、油揚げ、天かす、どれ一つ手抜きなど無い。

すべて主の目が届く自家製だ。

そんな舞台裏の苦労は語らずとも、客が誰より知っている。

それが客足途切れぬ、繁盛店の所以なのだ。

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「天職一芸~あの日のPoem 396」

今日の「天職人」は、愛知県一宮市の「木魚職人」。(平成22年11月27日毎日新聞掲載)

母の命日仏壇に おはぎを供え香を焚く             娘は膝に腰掛けて 両手合わせて南無南無さん          テープの経に口合せ 和尚の節を真似てみる           娘は撥でポクポクと 木魚叩いてご満悦

愛知県一宮市の加藤木魚工房。二代目木魚職人の加藤保さんを訪ねた。

「木魚作りはなんちゅうても、座るが修業の第一や」。

男は板木(ばんぎ)と呼ぶ作業台の、煎餅座布団の上に座し、両足で大きな木魚の頭を押え、中彫り鑿で(あな)を穿つ。

保さんは昭和22(1947)年、4人兄弟の末子として誕生。

「親の影響か、もう小学校の低学年の頃には、ナイフでコケシなんかの木彫りをしとったでなあ」。

高校を出ると、姉の嫁ぎ先でアクセサリー製造に携わった。

しかし3年後、好きだった木彫りが忘れられず、父と兄の元へと戻り、木魚職人としての修業を始めた。

「最初の2~3年は、在家用の小さい木魚の中彫りばっか。そんでもこれが一番難しいんだって。あんまり力任せに彫ると、穴が開いてまうし。弱気でやっとると、今度は十分に彫れんでかん」。

苦節10年。

一端の木魚職人として、昭和53年晴れて独立。

その年、知人の紹介でみどりさんを妻に迎え、一男一女を授かった。

「まあ今では、木魚に手を当てただけで、孔の厚みまでわかるって」。

一宮の木魚製造の歴史は、明治時代に京都市で修業した職人の手によってもたらされたとも。

また第二次世界大戦中、名古屋鶴舞の師匠の元で、一宮の者が修業し持ち帰ったとも、諸説ある。

しかしいずれにせよ、国内で木魚を手作りしているのは、もう愛知県だけとか。

その大半が一宮近郊で、1軒だけ西三河地方に残る。

尾張特有の木魚の鯱彫りは、まず樹齢何100年という楠や桑の原木を、2~3年寝かせることに始まる。

そして輪切りに木取りし、当て木をしながら平鑿で全体を丸く彫り出す。

さらに(まめ)(がんな)で全体を丸く削り出す。

そして縦挽き(のこ)で孔の口を挽き、中彫り鑿で丸1日掛かりで中を彫る。

それから自然乾燥で1年。

乾燥を終えると、再度豆鉋で丸く仕上げ。

次に型紙を当て、渦や鱗の細工を写し、外側に鋼が付いた丸鑿で細工彫りへ。

「普通の鑿と違って、鋼の位置が逆なんやて」。

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親からの形見分けという15~16本の丸鑿で、約1週間を掛け、最大の見せ場である鱗が、見事に彫り上げられて行く。

そして粗い目から細かい目へと、3種類のサンドペーパーで磨き上げ、油性ワックス掛けへ。

それが乾燥すれば、柔らかい束子と布で磨き上げる。

「こっからが肝心の、最後の音付けやわ。孔の口をあんまり切り込むと低温になるで、口の厚みを削りながら音を付けてかんと。それに乾燥が足らんと、音が上がってまって(ひび)が入るで」。

こうして口に(ぎょく)を咥えた鯱彫りが完成する。

「木魚はええ出来でも、新品の撥やと音が硬なっていかん。人間も撥も、石頭じゃいかん。やっぱり木魚は、ボワンボワンと、包み込むような音がせんとな」。

静謐とした本堂に響く木魚は、浄土と俗世を繋ぐ祈りの音色。

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「天職一芸~あの日のPoem 395」

今日の「天職人」は、岐阜市美殿町の「天カレーうどん職人」。(平成22年11月13日毎日新聞掲載)

美殿花街宵の口 行き交う人は襟を立て            「お~寒寒」と足早に 暖簾潜って「天カレー!」                  「カレーうどんに天ぷらと 誰が最初に言ったやら        わしもわしもとせがまれて 何時しか店の名物や」

 岐阜市美殿町、手打ちのごと。二代目主の鈴木康司さんを訪ねた。

「岐阜の天カレーうどんを知らんとは、そりゃ潜りや」。

知人にからかわれ、その店を訪ね天カレーうどんを所望した。

すると「明後日休みやに、新聞が天カレーの取材に来るんやと」と、主が仲居につぶやいた。

「そりゃええがね、宣伝になって。なに新聞?」と仲居。

「毎日の天職一芸ゆう、その道一筋のわしみたいなもんの取材らしいわ」。

「ほな天カレー食べさせたるんやろ」。

「でも休やでなあ」。

「なら取材とは別の日に、きっと食べに見えるんやわ。だって食べな書けんやろ。はいっ、お待たせ。天カレーね」。

何と間の悪いことだ。

今さら名乗れはしない。

何はともあれ、天カレーうどんに挑むことに。

大振りの丼には、長さ23㌢もある特大の海老天が1尾、中央に横たわっている。

ルーに浸し一口頬張った。

どうせ衣の嵩上げかと齧り付くと、端しまで身が詰まっているではないか。

一見、カレーと天麩羅に違和感を覚えたが、どっこいこいつが病み付きになる味だ。

カレーと天ぷらうどんが、一度で二度味わえるから堪らない。

2日後、改めて取材に出向き、特大の海老天について尋ねた。

「仕入れした中の、一番大きな海老に合わすで、小さいと2匹分を繋いどるんやて」。康司さんが種明かし。

「あんた一昨日(おととい)、そこへ座っとった人か」。

冒頭の件を語ると、何とも罰が悪そうに笑った。

康司さんは昭和18(1943)年、愛知県大治町で3男坊として誕生。

中学を出ると、名古屋の公設市場のうどん屋で修業に就いた。

翌昭和34年、名古屋駅前の田毎に移り、本格的な修業へ。

「駅前の田毎は、旅館や寿司屋に料亭と、手広う商っとったんやて」。

2年後、栄のうどん屋へ。

ところが昭和40年、店の立ち退きで職を失った。

「ちょうどその頃、ここで田毎を開業するでって誘ってまって」。岐阜での寮生活が始まった。

「たった10坪の店に、職人と仲居で10人以上もおったんやで」。

昼から夜中まで、客足が引かなかった。

昭和43年、近くの喫茶店で勤めていた、文子さん(享年60)に惚れ抜き結婚。

二男を授かった。

「朝昼晩と、コーヒー浸けやわ」。

平成14年、先代の引退を受け主となった。

柳ヶ瀬美殿町名物の、天カレーうどんの決め手は、鰹、室鯵、鯖節を長時間煮詰めた出汁と、徳大の海老天。

注文が入ると玉ねぎ、ネギ、かしわの角切り、蒲鉾を出汁で煮てカレー粉を加える。

そして一煮立ちしたら、水溶き片栗粉で餡に。

次にうどん玉を釜揚げし、丼に移して海老天を載せ、カレー餡を掛ければ出来上がり。

「20年ほど前に、お客さんが『カレーに海老天載せてくれ』って。そしたら、他のもんまでわしもわしもって。品書きに無い物は出せません、なんて偉そうな事いわんと、お客さんの好みに合わせるのが職人やて」。

客の我侭から生まれた、庶民好みの名物天カレー。

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「天職一芸~あの日のPoem 394」

今日の「天職人」は、三重県松阪市飯高町の「でんがら職人」。(平成22年10年10月30日毎日新聞掲載)

梅雨も盛りの半夏生(はんげしょう) 庭木に宿る雨蛙 田植えも終えた縁側じゃ 家族総出で茶の宴 餡の匂いが立ち込めりゃ 「でんがらまだか」子が騒ぐ 「さあ蒸したてを召し上がれ」 (ばあ)ばが盆を差し出した

三重県松阪市飯高町のおふく茶屋。女将の中前たつゑさんを訪ねた。

「ここらは都会とちごて、ハイカラなもんなんてありませんのやさ。一山越えたら、そこは大和(やまと)(奈良県)やし」。森の静寂に抱かれる中、たつゑさんがこの地方に伝わる郷土菓子の「でんがら」を差し出した。

「ここらでは、野上がり饅頭ゆうんさ。昔は田んぼが一段落する半夏生(はんげしょう)を待って、銘々の家々で作って食べたもんやさ。子どもの頃は、それが待遠してかなんだ」。

でんがらとは、朴の葉に包んで蒸した、柏餅のようなもので、四角い形が特徴だ。

由来は、「(でん)上がり」が訛ったとも、また朴の葉で包み、細く割いた棕櫚の葉で十文字に結ぶため、「田」の字に見えるからとか。

たつゑさんは昭和16(1941)年、9人兄弟の下から2番目として誕生。

中学を出ると、家業である農林業を手伝いながら、花嫁修業を積んだ。

昭和40年、遠縁にあたる信次さんに嫁ぎ、二男一女を授かった。

「ちょうど平成に改まった頃やった。義母を中心に地元の主婦5人が集まって、飯高町の伝統食であるでんがらこさえて、村興ししよゆうことになったんさ」。

翌平成2年には、たつゑさんも仲間に加わった。

「初代の人らが、なあんも無いところから、一から始めやしてな。さぞかし、大変なことやったろと思いますわ」。

平成12年、義母らの引退でたつゑさんが、女将を務めることに。

「初代の方らから『でんがらの火を消さんといてな』って、えらい責任の重いバトン渡されてもうてな。今しも5人のベテラン主婦で、みなで助けおうてやっとんやさ。えっ?歳か?確か、上が80歳越えで、一番わこても62歳やな」。茶屋にたつゑさんの笑い声が響いた。

飯高町名物のでんがら作りは、朴葉を6月頃に山から一年分取って、塩漬けする作業に始まる。

次に小麦粉、米粉、餅粉、片栗粉と熱湯を入れ手捏ねする。

そして小豆を1時間炊き上げ、漉し器で漉し、砂糖を混ぜてもう一度煮て漉し餡に。

次に餡を一口大に丸め、切り分けた生地を掌で伸ばし、餡を包み込み四角に形成。

それを広げた朴葉で包み、細かく割いた棕櫚の葉の紐で、十文字に結んで約25分間蒸し上げれば完成。

「何で四角かって?昔は丸うしよった時もあった。せやけど棕櫚の紐できつく結ぶと、真ん中だけがくびれてもうて、雪だるま型になってしもて。せやもんでいつの間にか、今しのような四角い長方形になってったんやろ」。

天然無添加の素朴なでんがらは、白と蓬の二種類。

「遠方から里帰りする人らは、必ずでんがら食べに寄っとくれるんさ。私らもそれが楽しみでな。中には何10個と持って帰る人もおるんやさ。帰って冷凍しといて、でんがらが恋しなったら、解凍してまた食べるんやと」。

遠き古里の味「でんがら」。

朴の葉をめくった瞬間、今は亡き母の匂いがした。

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「天職一芸~あの日のPoem 393」

今日の「天職人」は、三重県松阪市の「恋文代筆屋」。(平成22年11月20日毎日新聞掲載)

いつも電車で乗合わす 名前も知らぬお嬢さん          何時の間にやら片思い つい駆け込んだ代筆屋          改札口で待ち伏せて 「好きです」と声震わせて         恋文出して気が付けば 「ママ何それ?」とはしゃぎ声

三重県松阪市の恋文代筆屋、中村透さんを訪ねた。

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「女道楽なら、まだカッコよろしで。でもわしの場合は筆道楽。せやで筆見るとなんやムラムラしてもうて、つい手が出てまうんやさ。そやなあこの60年間で、5~600本はこうたやろな」。透さんは、大きな筆箱を広げた。

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透さんは昭和10(1935)年に誕生。

「兄弟は8~9人で、たぶん上から3~4番目やろ。昔のことやで、ええ加減なもんやさ」。

楷書の得意な少年として育った。

「父が坊主で、それもあってか、筆と硯がいつも置いてあったでな。でも子どもの頃は、『おまえとこの親父は、人が死んで銭儲けしとる』ってようからかわれたもんや」。

中学を出ると、津市の親方の下で住み込み修業に。

「修行に入ったら、直ぐに親方から『お前は文字書き専門や』と言われて。月に最高でも500円の小遣いやった。せやで散髪して映画見たら仕舞いや」。

5年の修行を終え、職人の駆け出しとなった。

「昭和31年の4月や。初めてもうた給料が、40倍の2万円も入っとって、えろうびっくりしてもうてな」。

明けても暮れても、トラックに会社名を書く毎日が続いた。

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「多少歪んどってもかめへんでって言われて。ちょうど津に陸運局があったもんで、尾鷲や四日市からも新車が登録のために、次々とやって来て大忙しやった」。

昭和38年、知り合いの紹介で玲子さんと結ばれ、二男一女を授かった。

翌年、晴れて独立開業。

「自動車の文字書きから看板、香典袋、表札、それと弔辞の挨拶文に結納の目録まで。とにかく何でも書きよったさ」。

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徹さんは文字書き一つで、一家5人を支えぬいた。

「昭和41年頃やったやろか。『ごめんください』ゆうてな、自衛隊の制服着た若者が入って来たんやさ。『わしは字が下手やで、彼女に手紙書いてまえんか』ゆうて」。

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男は便箋3枚を取り出した。

「そんなん恋文なんてもん、自分のんもよう恥ずかして書かなんだに。それにしてもあんまり真剣やったで、和紙に墨で書いて折り畳むようにしてやったんさ。そりゃもう甘い言葉が綴られとって、こりゃあ硬い字ではあかん、そう思て行書で書いたんやさ」。

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すると男が代金を問うた。

「せやけど、車みたいに10年20年と使うもんやなし、恋文なんて1回こっきりのことやで、安うしといたったさ」。

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その後、男が現れることはなかった。

「結ばれとってくれりゃええが。まあ、わしが真心込めて書いた、初めての恋文やったで、きっと思いは通じたやろ」。透さんは遠くを見詰め、無邪気に笑った。

「なんちゅうても、わしら文字書きの代筆屋にとったら、筆が命やさ。軽自動車1台分ほどするええ筆つこたら、たちまち人気が出て、仕事もはよなるし、腕も上がる。まあお迎えが来る日まで、まだまだ書き続けやんと」。

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代筆一筋60年。

しかし後にも先にも、たった一回限りの恋文代筆屋。

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「天職一芸~あの日のPoem 392」

今日の「天職人」は、愛知県豊田市北篠きたささだいら町の「一閑張(いちかんば)()(たい)漆器職人」。(平成22年11月6日毎日新聞掲載)

講釈(こうしゃく)垂れのご隠居は 骨董好きの変わり者            いつもぼくらを呼付けて 茶道具眺めご満悦           ぼくの目当てはただ一つ 薀蓄(うんちく)聞いたその褒美        一閑張(いっかんば)りの(じき)(ろう)に 隠し置いたる京饅頭

愛知県豊田市北篠きたささだいら町、笹平工房の一閑張いっかんばたい漆器職人、安藤則義さんを訪ねた。

国道を川沿いへ分け入ると、桜並木が続く。

秋を待ち侘びた虫の音と、川のせせらぎ。

まるで俗世の穢れが、洗い流されるようだ。

「主人は今、紙を漉いてますので、一段落したら参ります」。晶子夫人の案内で座敷に通された。

床の間から座敷の棚まで、漆器が居並ぶ。

窓辺に差し込む朝の光を薄っすら身に(まと)い、淡い光沢を漆が照り返す。

「ちょっと手が放せなかったもので」。則義さんが、徐に座についた。

則義さんは、旧小原村(現・豊田市)で三男坊として昭和22(1947)年に誕生。

「戦前、七宝焼工芸家の藤井達吉(たつきち)さんが、旧小原村に疎開してみえて。父はその人柄に惹かれ、私が生まれて間もない頃に、大工の生業を捨て師事したそうです。『お前は大工だから、刃物が砥げるし、何かと有利や』という理由だけで」。

中学を出ると下宿し、高校大学へと進学。

「最初の頃は、もう跡取りもいるから、私は外へ出ればいいんだと思ってました。でも大学出る頃になると、無性に古里小原村が恋しくなって」。

卒業と同時に実家へ舞い戻り、父の手伝いを開始。

職人道へと、のめり込んだ。

昭和49年、知り合いの紹介で、東京から晶子さんを嫁に迎え、一男一女が誕生。

一閑張りとは、江戸初期に明より渡来した漆工、一閑の名が冠せられたもので、木型を使い和紙を張り重ね、型から外して漆を塗った漆器を指す。

「その中でも、和紙を自分で漉いて、紙だけで仕上げる紙胎漆器は、ぼくと兄だけじゃないかな」。則義さんは何の気負いもなくつぶやいた。

小原和紙の一閑張り紙胎漆器の皿作りは、小原和紙を簾で漉くことに始まる。

そしてそのまま自然乾燥へ。

「紙床で和紙を圧縮しないから、繊維の密度が高まらず、腰のないフエルト状になる。だから皺も伸びやすく、糊漆の吸収がいい」。

次は欅で木型作り。

轆轤(ろくろ)を引き、凸面の型を作り、剥離材を装着。

凸面に麻布を水張りし、その上から和紙を2枚水で張り、型の周りだけを米糊で、木型を覆うように接着。

乾いたらその上から和紙を2枚、(わらび)(のり)で接着。

乾燥した上から和紙5枚を糊漆で張り乾燥させ、また和紙5枚を糊漆で重ね張る。

そしてもう一度乾燥後、和紙2枚を糊漆で張り乾燥させ、さらに和紙2枚を糊漆で張り合わせる。

そして木型に糊付けした和紙を剥がし、凸面と麻布との間に(へら)を入れ、木型から剥離し、麻布を取り去る。

次に周りのバリ(余分な部分)を処理し、ベンガラと漆を混ぜた赤呂漆を塗り、その後、呂色漆を3度塗り重ね仕上げへ。

すると和紙18枚は、木地にも劣らぬ堅さを得る。

「平らな皿1枚仕上げるのに3ヶ月。ちょっと細工物の(じき)(ろう)なんかだと、まあ1年はかかりますな」。

職人は、低木の(こうぞ)を和紙に代え、千代に生き続ける新たな命を、己が一刷毛の漆に託す。

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「天職一芸~あの日のPoem 391」

今日の「天職人」は、岐阜県郡上市栗巣の「山葵下ろし職人」。(平成22年10月23日毎日新聞掲載)

山葵下ろしのせいにして 父はボロボロ涙した         「晴れの席よ」と母の声 金の水引鶴と亀           「お転婆者と案じたが 見違えるほど綺麗だ」と         父は手酌で赤ら顔 箸も付けずの祝い膳

岐阜県郡上市栗巣の頑固屋、山葵下ろし職人の鷲見すみ明さんを訪ねた。

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穢れを知らぬ真っ黒な(まなこ)を見開き、ヨチヨチ歩きの幼子が駆け寄る。

男はたちまち相好を崩し、体の大鋸(おが)()を払い抱き上げた。

「孫とちゃいますに。これでも娘なんやさ」。明さんは、照れ臭げに娘に頬ずりをした。

明さんは昭和35(1960)年、兼業農家で4人兄弟の3男として誕生。

専門学校を出ると、陸上自衛隊明野航空学校で航空整備を担当。

昭和58年、国家試験に合格し航空管制官となった。

その後、各地の駐屯地で勤務し、平成6年に退官。

「ヘリの操縦免許を取りたくって、バイトして留学資金を貯めとったんです」。

翌年35歳で渡米。

平成8年、操縦免許を取得し帰国した。

「不景気で就職先がなくって。そしたらバイト先だった運送会社から、新事業を一緒に始めんかと誘いが」。

だがその準備中に、高熱が続きお多福風邪に。

郡上へと舞い戻り、1ヶ月の養生を続けた。

「新事業も断念し、これから何をしようかと、半年ほど悩み抜いて鬱状態になってしまって」。

すると地元の知人から声が掛かった。

「サメの皮で、山葵下ろしやってみんか」と。

だが全くの未知の世界。

何はともあれ、サメの皮探しから始めた。

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「そしたら刀剣の柄巻師さんを紹介してもらえて。その方と一緒に、東南アジアを探し回ったんやて」。

サメ皮の仕入先は見つかったものの、下ろし作りは全くの素人。

「試行錯誤の連続やさ。他所の下ろしを取り寄せて研究したり。でも他所のは、サメ皮が剥がれやすいんやわ」。

またしても接着剤探しに奔走する日々が、3ヶ月も続いた。

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「山葵は口に入れるもんやで、サメ皮を貼る接着剤の成分は、食品衛生法で定められた無害な物じゃないといかんし」。

商品化までに、延べ2年以上の歳月が費やされた。

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平成18年、美代子さんと結ばれ、やがて一女が誕生。

「お多福風邪をこじらせたで、子が出来たって言われ、最初はほんまびっくりやったわ。でも神さんが、授けてくれたんやろな」。

山葵下ろし作りは、広葉樹の(しら)()で加工された下ろし板の、サメ皮を張り付ける接着面を、1つ1つ手で加工することに始まる。

「接着面をきれいに加工し過ぎると、摩擦力が弱まってサメ皮が剥がれ易くなるんや」。

そしてサメ皮の裏面にも、同様の処理を施す。

次に下ろし板とサメ皮に接着剤を塗布し、陰干しで乾燥。

さらにもう一度接着剤を塗布し、乾き切る寸での所で万力に掛け、その後圧着したまま2~3日陰干し。

最後にサメ皮のバリ(余分な部分)を研磨機で落とし、皮の表面に飛び出した接着剤を、千枚通しを使い1穴1穴取り除けば完成。

気も遠のくほど細やかな作業だ。

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「サメ皮の表面には、無数のちっこい毛穴のようなもんが開いとって、そこから接着剤が滲み出るで」。

どんなに頑張っても、1日50個が限界とか。

山葵下ろし職人の足元には、愛娘がいつまでも纏わり付いていた。

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