「癒しのおにぎりランチタイムのお相手!」

最近のマイブームは、おにぎりを持って公園のベンチに腰を下ろし、木漏れ日を浴びながら子供たちの騒ぎ声や、鳥達の鳴き声に耳を傾けることです。

とある公園のベンチでおにぎりを頬張っていると、足元に一羽の鳩がやって来て、地面んの草むらを啄んでいたのです。

まったく物怖じせず、逃げようともせず、まるでぼくがおにぎりの一部をこぼしてくれるんじゃないだろうかと、そんな思いもあってぼくの足元をグルグル回っているようです。

それでも一向にご飯が零れ落ちて来ないので痺れを切らしたのか、ぼくが腰かけているベンチの背もたれに飛び乗り、こっちを向いてクゥークゥーッと!

あまりの人懐こさに癒されて、「また明日、古いお米を持ってきてやるからまたおいで」と、ついつい鳩を諭している自分に気が付いたものです。

そして昨日また、鳩との約束通り、古いお米を少しだけ忍ばせて、件の公園のベンチに腰掛け、おもむろにおにぎりを開き掛けたのです。

すると15m~20m先から、一目散に昨日の鳩がまたしてもぼくの足元めがけて駆けてくるじゃないですか!

後で気が付いたのですが、わざわざ走らなくったって、ちょいと羽を広げりゃひとっ飛びだったのに、変な奴ですよねぇ。

鳩とは言え約束は約束ですから、おにぎりを頬張りながら、古いお米をパラパラッと足元に撒いてやると、あっという間に啄みつくし、物欲しそうにまたぼくを見上げるじゃないですか!

仕方なくまた一つまみお米を与えても直ぐに食べ尽くしてしまう有様。

とは言えぼくだっておにぎりを食べてるわけですから、鳩に餌付けばかりしてられません。

すると鳩は羽ばたいて、ぼくが座るベンチに飛び乗り、これまた物欲しそうな目線を送って来るじゃないですか!

ついにぼくも根負け!

「あっ、そうだ!」

名無しの鳩じゃあちと可哀そうかと思い、ならば勝手に名付け親になってやれっと!

ぼくは「サブレー」と名付けてやりました。

な~んでかって?

もう大半の方はお気付きでしょうが、「鎌倉の鳩サブレ」からのパクリです。(トホホ)

そしてサブレーサブレーと呼びながら、試しに掌に米粒を乗せて、サブレーの口元に差し出してやりました。

最初は驚いたように一歩後ろずさったりもしましたが、何もされないと知るや、ぼくの掌の米粒をツンツンと啄み始めたじゃないですか!

嗚呼今日の、おにぎりランチが待ち遠しい!

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「天職一芸~あの日のPoem 410」

今日の「天職人」は、三重県伊賀市の「伊賀組紐織子」。(平成23年3月12日毎日新聞掲載)

町を歩けば格子から 糸をトントン叩く音            窓に面した高台(たかだい)で 織子(おりこ)は座して紐を組む            亀甲柄に乱れ菊 まるで譜面か(あや)()きは             両手広げて糸を繰る 伊賀の弾琴織子町

三重県伊賀市で明治末期創業の松島組紐店。二代目織子の松島文代さんを訪ねた。

南に向いた窓からは、何万本の燭光でもとうてい敵わない、柔らかく大らかな春の陽射しが、組紐を織る高台を照らす。

「そりゃあいちんちじゅう、黙―ったまんま糸を組んどんやで、ポカポカ陽気に誘われて眠とうもなってくるに。そやでそんな時は、今日の晩のおかずどないしよとか、気を紛らわさんと。でも不思議と、どんな時でも組み口だけは、ちゃんと見とるんやでな。力の入れ具合がちごてくるとあかんで」。文代さんは、(たけ)(べら)で糸を叩きながら組み口を指差した。

文代さんは昭和15(1940)年に沖家の次女として誕生。

中学を出ると組紐店で織子の修業を始めた。

「実家の父が柄出しさんやってな。えっ?柄出しさんか?それは、組紐で描く亀甲柄とか市松模様とかを組む、音楽でいう譜面のようなもんが綾書きゆうて、その手順を考える職人やさ。右の何番目の糸と左の何番目の糸を組んでてな具合に。今しそんなん、みなコンピュータやでな。私ら高台には、小学1年から座り続けとんやで、自然と体が覚えてもうとるでな」。

住み込み修業は10年に及んだ。

「そこで主人と知りおうて、一緒んなって独立したんが昭和40年やさ」。(やす)(たか)さんと結ばれ、男子を授かった。

「組紐は織り始める前の、下回しの仕事が大変なんさ」。

生の絹糸を糸繰りし、柄色に合わせ染色。

ヘイジャクと呼ぶ糸合わせ行い、糸玉に巻き取り組み糸に。

作業は20工程に及ぶ。

「織子は高台いう舞台に載せてもうて、紐を組む女優のようなもん。せやけど一番手間で大変なんは、下回しする男衆の黒子やに」。

織子の作業は綾書きに基づき、左右60個の糸玉を配置することから。

「上段が表、下段が裏の色やさ」。

そして紐の始点を玉に結び(えん)ぶりを拵え、それを高台の前方に取り付けられた、鳥居型の(ぬき)に巻き付け固定する。

後は綾書きに記された手順に沿い、左右上下の糸を組む。

「糸を組んでは箆で叩いて箆止めし、段々に組み上がって来ると、鳥居さん(貫)に巻き上げてくんやさ」。

1メートル50センチの帯紐を組む場合、倍の3メートルを織り上げる。

「最後の仕上げは、縁ぶりを解いて、ほてから始点を糸で括って、その先っちょを(ふさ)にすればやっと完成やさ」。夫の育敬さんが傍らで笑った。

一日7時間の単調な織り作業が、惜しげもなく丸3日費やされ、帯締めの美しい柄が浮かび上がる。

「そんでもな、織子してる時が何より楽しいよ。せやけど織子は手が命や。ささくれだったらあかんし、体調が悪いと目が飛ぶでな」。

文代さんは、家伝の亀甲柄の綾書きを、そっと指先で繰った。

織子が絹糸で奏でる弾琴の音は、(いにしえ)から受け継がれる美の模様となり、眼の奥深くへと響き渡る。

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「天職一芸~あの日のPoem 409」

今日の「天職人」は、岐阜県関市新町の「伊深志ぐれ職人」。(平成23年3月5日毎日新聞掲載)

父の遺影を卓袱台に 母は湯呑みで茶を啜る          (さかずき)満たし好物の ()(ぶか)()ぐれをそっと添え           連れ添い生きた半生を 問わず語りで泣き笑い          貧乏所帯火の車 苦労も母の宝物

岐阜県関市新町で明治中頃創業の大黒屋、3代目志ぐれ職人で坊主ぼうしゅの小原達夫さんを訪ねた。

岐阜県関市の中心部を東西に貫く旧街道。

南は(ばい)(りゅう)寺山(じやま)、北に安桜山(あさくらやま)

もう直ぐ待遠しい春は、南から北へと駆け抜ける。

そう山に冠された名そのものが、古からの物語を感じさせるようだ。

小高い山に挟まれ、昔ながらの商家や民家が(ひし)めく。

思わず小童(こわっぱ)だった昭和半ばの自分と、出くわしそうな気がする。

表通りを2本南へ下ると、風呂屋の先に控え目な商家が眼に入る。

目当ての「()(ぶか)()ぐれ本坊(ほんぼう)大黒屋」だ。

「家の商品は、伊深志ぐれ1つきりだけです。でもその種類は365種。なぜかって?毎日生麩を同じ分量、同じ味付けにして志ぐれを煮ても、日によって季節によって、微妙に味が変わります。志ぐれが生きものの証しでしょうな」。

達夫さんは昭和23(1948)年に4人姉弟の長男として誕生。

高校を卒業すると、そのまま父の下で家業に就いた。

「元々祖父は麩屋でした。ところが戦前戦中と、父は時代の激流に翻弄(ほんろう)され。戦後既に両親も他界した関へと戻り、回覧雑誌屋を始め、2年後には武儀高校で英語の教鞭を執ったそうです。しかしインフレで生活は困窮を極め、翌年上京し三井建築金物に就職。しかし2年後に勤務先が焼失し、まだ2歳になったばかりの私を連れ、再び関へと舞い戻ったんです。それからは生きるために、子どもの頃の記憶を手繰り、細々と店を再興。ところが父は商売が下手でして、ついに食うにも困り果て、伊深(美濃加茂市)の里の正眼寺(しょうげんじ)へと辿り着いたんです。そこで精進料理の大家でもある、梶浦(かじうら)(いつ)(がい)老師と巡り会い、教えを請い半年がかりで完成させたのが伊深志ぐれです」。

達夫さんのお父上は苦学の末、昭和7(1932)年に東大を卒業。

世が世であれば、然るべき職と地位を手にし得たはずだ。

「さて、商品名をどうするかとなり、老師は元徳2(1330)年頃に伊深で修業を積んだとされる『関山(かんざん)()(げん)禅師(ぜんじ)より関山志ぐれはどうだ?』と。

写真は参考

すると父は、『それは恐れ多い。ならば伊深志ぐれで』と」。

昭和31年晩秋のことだった。

昭和53年、先代が鬼籍に入り三代目を襲名。

2年後には、近在から妻を迎え、一男一女を授かった。

全国広しと言えど、ここでしか手に入らぬ伊深志ぐれ作りは、まず生麩を指先で千切り取り、湯の中へ放り込む作業に始まる。

沸騰させ麩を固め、水を切って絞り、()()りの付いた大釜に醤油、砂糖、生姜を入れ煮付ける。

煮上がれば、扇風機の風で煽って冷ます。

「怒って煮ちゃあ駄目です。鍋に麩を入れた時には、『頼むぞ』と、毎日声を掛けてやるんです」。

真っ黒に煮上った歪な志ぐれは、鶏の笹身のような歯応えで、二つと同じ顔は無い。

畑が生んだ丘の蛤、伊深志ぐれ。

親子二代の手塩と精進が育んだ、滋味(きく)すべし美濃関の名肴(めいこう)なり。

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「天職一芸~あの日のPoem 408」

今日の「天職人」は、名古屋市中区大須の「衣桁いこう職人」。(平成23年2月26日毎日新聞掲載)

黒紋付の父と母 初の仲人大役と                父は祝辞を忍ばせて 空で何度も繰り返す           「時間ですよ」と急かされて 衣桁(いこう)の羽織り取り上げて      二礼二拝の神頼み まるで鳥居か空衣桁

名古屋市中区大須で、明治34(1901)年創業の鈴木木工所。4代目衣桁職人の鈴木規夫さんを訪ねた。

呉服屋のショーウインドーをたまたま目にした折、何とも違和感を覚えた。

その正体が何であるのか、一旦気になると、もうどうにも居ても立ってもいられない。

何とかその正体を見破らんと、今一度呉服屋の入り口を繁々睨め回した。

すると晴れ着姿のマネキンに目が釘付け。

「間違いない、これだ」。

異様な波長の正体は、身動ぎ一つせず、瞬くこと無く商店街の通りを見詰めたままだ。

「そりゃあやっぱり呉服は、衣桁に掛けるのが一番収まりがいいですわ」。規夫さん)は、「まあ、お掛けになって」と、座面に帆布を張った()(しょう)を広げた。

胡床とは、テレビドラマの戦国武将が、陣幕の中で腰を下ろす、一人掛け用の折り畳み式の椅子である。

規夫さんは昭和40(1965)年に、3人兄弟の長男として誕生。

「家がそのまんま作業場でしたから、子どもの頃からよく手伝ってました」。

大学院で建築設計を学び、設計事務所に勤務し一級建築士の資格を取得。

「学生の頃に清洲城や、セビリア万博に出品した安土城の設計を担当して。事務所に入ってからは、西尾城や寺社仏閣を手掛けました」。

それも(えにし)か平成6年、西尾市出身の恵美子さんと結ばれ、一男一女を授かった。

その後30歳で独立し、寺社仏閣専門の設計事務所を開設。

「家業を手伝いながら自分の設計もしてと、二束の草鞋状態でした」。

平成15年、病の父を庇い、家業を継いだ。

「父が寝たきりになったから。父が永年勘だけで作って来た衣桁や反物掛け、胡床、几帳台などの木工品を、自分の手で一から合理的に設計しなおしたんです。私一人でも加工し易いように」。

衣桁とは、細木を神社の鳥居のように組んだ、高さ約1.7メートル、幅約1.8メートルほどの自立式木枠の着物掛け。

衣桁作りは、まず天棒となる洋材のラミンの丸棒に、臍穴を開ける作業から。そして両端に切込みを入れ、反り上がり部分の材を貼り付け磨き上げる。

次に縦棒の上下に臍を削り出し、中央の横棒用に臍穴を開ける。

そして下段の角材の面を取り、脚と共に縦棒用の臍穴を開け、漆仕立てに塗装すれば完成。

「組み立て式にしてありますから、使用時に組み立て、必要がなければ取り外して片付けることもできます」。

主に呉服屋、結婚式場、博物館、それに世界各国にある日本大使館などからも注文がある。

「和風旅館などでは、衣桁に呉服を掛けて、間仕切りとして利用されるようです」。

さらに施主の要望によっては、本漆仕立てや、天棒の両端に錺金具をあしらったり、蒔絵を施すものもある。

写真は参考

衣桁と着物。

掛けると掛けられる関係は、一つになることで実用性を越え、室内を雅に彩る装飾品に生まれ変わる。

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「天職一芸~あの日のPoem 407」

今日の「天職人」は、三重県伊勢市大湊の「火造り和釘鍛冶」。(平成23年2月19日毎日新聞掲載)

カンカンカンと鍛冶場から 規則正しい鎚の音          お(とう)が背中丸うして 小さな和釘叩き出す            赤めた鉄が飴のよに 小鎚一つで七変化             ()(かす)(かい)(おれ)(いなご)(くぎ) 打出の小鎚和釘鍛冶

三重県伊勢市大湊、昭和初期創業の久住商店。三代目火造ひづくり和釘鍛冶の久住勇さんを訪ねた。

『『吊るくす折れ釘はないか?』とか、『鴨居の反り留めに使う()(かす)ないか』って、宮大工があれやこれやゆうてくんのやさ。無いゆうのんも癪やで、ついつい勘考してもうてな。せやでいったい何種類の和釘を拵えたかなんて、とんとわからしませんに」。勇さんは、()()で赤めた鉄の番線をヤットコの先に挟んだ。

そして金床の台座に宛がうと、小鎚一本を振り下ろし、あっと言う間に起用に巻き(がしら)釘を打ち出す。

写真は参考

「この巻き頭いうのんは、雨戸用やさ」。

金鎚で打ち込む頭が、巻き寿司のようにクルクルと丸められている。

長さ約13ミリ、頭の幅約7ミリ足らずの和釘が、たったの小鎚一本で、ものの数10秒で打ち出される。

「1日で1000本はやれやんと、とても一人前とは言えやんのさ」。

勇さんは昭和17(1942)年、7人兄弟の末子として誕生。

中学を出ると、父と共に鍛冶場に座した。

「一番上の兄貴が跡継いどったんやけど、途中でやめてもうてな。最初のうちは、火床へくべたるコークス割り専門やさ」。

相手が小さな和釘ゆえ、大きなコークスでは火力が上がりすぎるからだ。

「昔は電柱を引っ張る梁とか、筏から真珠貝吊るす、もう錆びてあかんようになった鉄線集めて来て、火床で赤めて釘にしよったもんやさ」。

和釘の種類は数多ある。

板と板を横に合わせる「(あい)(くぎ)」。

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これは長さ約1.5センチで、両端を尖らせたものだ。

垣根に用いる「(かい)(おれ)」は、長さ約2センチ、頭がL字型に曲げられている。

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何とも親しみが湧く名前の「(いなご)(くぎ)」。

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これはコの字型の針先を、2本ともL字に叩き出して曲げたもので、吊天井に用いられる。

また釘の長さが約30センチと、やたら大きな「瓦釘」。

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寺院などの鬼瓦止めで、頭が鍬のように幅広い。

床の間の掛け軸用は「二重折れ」。

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これは針先がJ字状に直角に二度折り曲げられたものだ。

一方L字状に直角に一度折り曲げた物は、名札を掛ける「折れ釘」。

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さらに和船用の落とし釘と呼ぶ平釘や角釘。

「いずれも洋釘とちごて、打ち込む針が丸やなしに、みな角やでどれもはってき(入って行き)にくいけど、その代わりに抜けぬ(に)くい。せやで錆びれば錆びるほど、材に食らいついて行きよる」。

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和釘に釘抜きは無い。

だから宮大工は、己が金鎚一振りに神経を集中させる。

昭和49年、近在から久代さんを嫁に迎え、一男一女を授かった。

(ふいご)を足踏みして火床に火(おこ)し、土べたに埋めた金床目掛け、しゃごんで(しゃがんだ)まんま一日中、小鎚振り下ろすきっつい仕事やさ」。

和釘鍛冶職人は、半世紀に渡り和釘1本で、日本の伝統建築と家族を支え抜いた。

「他所へ勤めに出とった倅も、帰って来てくたんやさ」。

四代目の誠さんの手付きを眺め、勇さんは微笑んだ。

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「天職一芸~あの日のPoem 406」

今日の「天職人」は、岐阜市南蝉の「夜市の露地野菜売り」。(平成23年2月12日毎日新聞掲載)

伊奈波神社の参道も 粉雪舞って雪化粧             戸板の上の露地野菜 春まだ遠き岐阜()(いち)            どてら羽織(ばおり)で馴染み客 「寒いやろで」と(まがき)越し         椀の甘酒差し出せば 夜市の親爺手を合わす

岐阜市南蝉の農夫で夜市の露地野菜売りをする、北川ひろむさんを訪ねた。

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「おーっ、今日は店出しとるよ。そやそや、6時頃までやったら開けとるで」。

老人は野良着のポケットに、携帯電話を仕舞い込んだ。

「最近はこんなん持たされてまって。馴染みの客が『今日やっとる?』って掛けてくるんやて」。

伊奈波神社の参道夜市で、自家栽培の露地野菜売りを始めはや57年。

弘さんは昭和6(1931)年、同市鷺山の農家で5人兄弟の3男として誕生。

11歳の年に、叔父の家へと養子入り。

昭和21年、尋常高等小学校を出ると、家業の農業を手伝った。

「しばらくすると、鳶の仕事も掛け持ちしてな」。

そして昭和29年、丹精込めて栽培した露地野菜を、夜市に持ち込んだ。

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「伊奈波は昔から夜市が立っとって、隣り近所のもんらがみな店出しとったんやて」。

弘さんは自転車でリヤカーを引き、長良橋を渡り金華山西麓へと毎晩通った。

「まんだ家の近くの金華橋が出来とらなんだもんで、えらい遠回りやったって」。

翌年、近在から富美恵さんを嫁に迎え、やがて一男一女を授かった。

「とにかく当時は、日曜でもようけ売れて大忙しやったて」。

以来、鳶を辞し、作物作りと夜市の野菜売りで一家を支え抜いた。

「オジサン、これ大きいなあ。サトイモか?」。

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歩道に籐編みの乳母車を止め、馴染みの老婆が品定めを始めた。

「そやそや、今さっき畑からもじいて来たとこやで、新鮮でええ出来やに」。

「ほうか。今日は雪が降り出してまったで、ひょっとしたら休んどるやろかと思っとったんやて。でもよかったわ。店開けとってくれてたで。そういやああんた、こないだ休んだやろ。みんな馴染みのもんらが、風邪でも拗らしとれせんやろかって、気揉んどったんやに。もう無理したらあかん。あんたも年なんやで」。

「そう言うあんたも、年えろうかわらんやろに」。

「そやなあ。わっちが嫁入りして来た時には、あんたんとこ店出しとったんやでな。あっ、今日はあとホウレン草も一緒に包んどいて」。

「いつもすまんな、ありがと。ちょっとやけど、ネギを一把入れとくわ」。

昭和半ばの頃のような、緩やかで何ともほのぼのとしたやり取りが続く。

畳一畳ほどの台の上には、弘さんが丹精込めて栽培した、白菜、ホウレン草、餅菜、サトイモ、大根、長ネギに手作りの切干大根、そして大根と白菜の漬け物までが居並ぶ。

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「漬け物もみんな手製やて。夏んなるとキュウリの糠漬けやし。これもまた美味しいよ」。

昔は弘さんの集落から、15~16人が夜市で店を張ったとか。

「でももう今は、わし1人やて。周りから、『よう年食っても行きやっせるな』とからかわれるけど、わしが店出すの待ってくれとる馴染みもあるで、いつまでたっても(きり)がないわ」。

客の美味いの一言に、ほだされ続けた半世紀。

正直者は、今日も美味い野菜作りに精を出す。

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「天職一芸~あの日のPoem 405」

今日の「天職人」は、愛知県新城市の「ヴァイオリン職人」。(平成23年2月5日毎日新聞掲載)

放課後いつも回り道 白い屋敷の洋館へ             二階の窓辺揺れる影 名前も知らぬお嬢さん           長い黒髪揺れるたび ソナタ奏でるヴァイオリン         しばし佇む淡き恋 梅の蕾も春まだき

愛知県新城市、ヴァイオリン工房Sadaprimoの宇野定男さんを訪ねた。

「宇野!入ったぞ!」。

平成15(2003)年秋。

73歳のヴァイオリン職人が、ストラディバリウスを生んだイタリアのクレモナで、世界に認められた。

「趣味で初めてヴァイオリンを作り出し4半世紀。我流の作品が入選したんです」。

定男さんは昭和5(1930)年、名古屋で宮大工の父の元、9人兄弟の次男として誕生。

「父の鑿や鉋があったし、木いじりが好きだった」。

大学を出ると、叔父の営む店舗美装会社へ。

「CBCでドラマの美術や大道具手掛けたり、芝居の舞台美術を担当して」。

やがて新劇女優であった美智子さんとの間に、恋が芽生え昭和32年春に結ばれ二女を授かった。

「その2ヶ月後。CBCの美術デザイナーに勧められ、東海TVへ入社することになって。でもまだ開局前で、毎日東海TVからCBCへ通って仕事してました」。

開局後は美術のセットデザイナーとして勤務。

昭和53年、CMの制作で訪れた先で、ヴァイオリン職人と意気投合。

「すると、『試作してみないか?』と誘われ」。

半年後には試作が完成。

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「父の道具もあったので。でも先方は、まさか本当に試作品を仕上げるとは思ってなかったよう。その後は小遣いを叩いて材料を買い、年2~3本のペースで製作。すると3年後、『売ってやるから持って来い』と。それからは、売れた金でまた材料仕入れて」。

昭和61年、ドラマ制作が東京へ移り、美術から番組制作へと異動。

「初めて番組の取材に来たのが、ここ作手村。途端にこの地が気に入って」。

第二の人生の拠点として、工房兼終の棲家と定めた。

平成3年、退職前に有給休暇の消化で、3ヶ月間ヴァイオリンメーカーの手伝いに。

そこで一生物の友と出逢った。

クレモナのマイスター、スイス人のアンドレア・ボジーニだ。

たちまち意気投合。

彼がSadaprimoと命名。

「平成14年のこと。彼が遊びに来ていて、『そろそろクレモナのコンクールに出品しろと』。自分で勝手に仕上がったばかりの作品を見て『これを出せ』って」。

翌年、見事に入選。

クレモナでの発表の場面が冒頭の(くだり)だ。

「ヴァイオリン作りは、まず道具作りから」。

確かに鑿や鉋の大半が全て手作りだ。

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そして楓の裏板を、2枚合わせで桜の型で木取りして削り、横板を削ってブロック6ヶ所を膠止め。

底板の外面の周囲に溝を掘りパフリング(飾り兼割れ止め)を施す。

樅の表板もパフリングし、f孔を開け裏側の高音域に魂柱(こんちゅう)と、低音域にバスバー((ちから)())をはめ込みバランスを取る。

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そして楓材でネックとヘッドを型取りし、ミシン糸鋸と彫刻等でスクロール(渦巻き)を彫り、指盤を膠で貼り付ける。

最後にアルコールニスを塗って磨き、それを30回繰り返し3ヶ月間陰干し。

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武骨な指が生む繊細な名器。

寿命400年のヴァイオリンが、職人の魂を宿し、遥かな未来へと旅立ってゆく。

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「天職一芸~あの日のPoem 404」

今日の「天職人」は、三重県津市阿漕町の「造酢職人」。(平成23年1月29日毎日新聞掲載)

レモンのような酸っぱさが 初めて交わす口付けと        誰かの言葉真に受けて 大人になる日夢に見た          しかし夢とは大違い 甘酸っぱさに生臭さ           「何食うたの?」と尋ねれば 「酢鯖、海鼠酢、酢蓮根」

三重県津市阿漕町で明治20(1887)年創業の山二造酢。五代目造酢職人の岩橋邦晃さんを訪ねた。

かすかに残る鄙びた町並み。

旧参宮街道の往時を偲びながら行けば、何処からとも無く甘酸っぱい香りが漂う。

ふと見上げてみれば、古い黒壁の醸造所から、冬空にレンガ組の煙突が突き出している。

玄関から奥の蔵に向い、一直線にトロッコ用のレールが埋設されている。

「昔はこのトロッコに荷を積んで、蔵から出しては表の荷車まで運びよったんですやろ」。

邦晃さんは昭和48(1973)年、3人兄弟の長男として誕生。

「父親が帰って来ると、プゥーンと酢の臭いが漂って、それが子ども心に嫌やったんさ」。

大学を出ると「外飯食って来い」と、味噌醤油の醸造所へ修業に。

「来る日も来る日も醤油の瓶詰めや、味噌掘りばっか。味噌樽に登って、スコップで味噌掘って、60㎏の桶に5樽も掘ったら、もう疲れてもうて出来やんだ」。

平成9年、親の体調悪化で家業へ。

「3年の年季明けを待たずに」。

山二の醸造酢は、発酵桶を強制的に攪拌し発酵させたりはしない。

たっぷりと時間を掛け自然の力で静置発酵を促すのが決め手。

「だから口に入れた時にツンと来ず、まろやかな優しい酸っぱさになるんやさ」。

120年以上も続く「ヤマニ酢」造りは、同県久居市の造り酒屋から仕入れる酒粕を溶かす作業に始まる。

「この酒粕も創業当時からのもんですに」。

そして絞り汁にアルコールを入れ、前に仕込んだ種酢を混ぜ、40℃の湯を足し発酵桶に。

すると丸2日で一面に膜が張り、上から酢酸菌を撒く。

そのまま20日ほど常温で寝かせるとアルコール分が酸っぱさを帯び、発酵が終了。

次に1ヶ月間熟成させ、1回濾過し、さらに綿が詰め込まれた濾過器を2度通す。

「寝る子はよう育ついいますやろ。そうすると、琥珀色の熟成した色合いが出るんやさ」。

程よくまろやかな酸っぱさが魅力の、100年定番商品「ヤマニ酢」が、平成の世に産声を上げる。

「蔵には200種類ほどの菌が、ずっと住み憑いとるんやさ。世界中にはもっとよおけの菌があるやろが、家の菌はここに一番おおとる(適している)んやろな」。

邦晃さんは濃厚な酸っぱさが漂う、2階の発酵熟成蔵へと導いた。

そして発酵樽の保温のため、被せられた筵を捲り上げる。

「ブツブツと、何や話してますやろ」。

一面の白い膜に、気泡が浮かび出でては弾ける。

まるでヒソヒソ話でもしているようだ。

知人の紹介で平成15年、同県松阪市出身のいせさんと結ばれ、一男一女を授かった。

「ひょっとしたら家の子どもらも、おんなじことおもとんやろか?私が家に帰ると、酸っぱい匂いがするって」。邦晃さんは自分の白衣を見詰めて笑った。

機械化量産の早熟な酢っぱさは、大自然の底力にゃ到底敵わぬ代物。

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「天職一芸~あの日のPoem 403」

今日の「天職人」は、岐阜市岩崎の「ギター職人」。(平成23年1月22日毎日新聞掲載)

継ぎ接ぎだらけジーンズに ロンドンブーツ長い髪        ギターケースを手に提げて 黒のレイバン伊達眼鏡        駅の人混み佇めば 若い娘が振り返る              フォークバンドのメンバーと サインねだられ勘違い

岐阜市岩崎のロッシギターズ、ギター職人の小池博さんを訪ねた。

(くゆ)る紫煙。

重なり合うグラスの音。

ジャズトリオの演奏が始まった。

心地よい4ビートのリズムに、目を閉じ体を揺らす者。

グラスを見詰め、指先でリズムを刻む者。

ところが隣りの男は、熱心にギター奏者に視線を注いでいる。

写真は参考

しかもアーチトップギターだけに。

まるで愛しい恋人でも見詰めるようだ。

「あれ、ぼくが制作したギターなんです。だから無性に逢いたくなると、こうしてライブを聴きに来るんです」。

「名前が博ですから、それをイタリアンっぽく呼んで、ロッシなんです」。

博さんは大工の父の元で、次男として誕生。

中学生の時、ラジオから流れるビートルズのレット・イット・ビーに魂が震えた。

やがて関西の大学で、グラフィックデザインを学び、そのまま印刷会社でアートディレクターに。

「30代の半ばに、中古のギターを買ったんです。でも自分では修理が出来ず、修理してくれる工房を探して。そしたらそこは、趣味のギター作りも教えていて。それで4年ほど通いました」。

趣味が高じて作り上げたギターを、腕試しとばかりに展示会へ出品。

するとギターの専門誌にも取り上げられた。

「『ぼくは出来るんじゃないか?』って、すっかり勘違いしまして」。

入社20年を目前に、これからも中間管理職としてサラリーマンを続けるのか、はたまた思い切ってギター職人として生きるか、自問自答の毎日が過ぎた。

「ある日友人から『職人としてやるなら、体力と集中力がある早いうちだぞ』と背中を押され」。

42歳にして職人道へ。

「何と言ってもギターの命は、ネック(棹)とボディ(胴)のジョイントです」。

博さんが、自慢の一本を取り出した。

アーチトップとは、「かしまし娘」や「玉川カルテット」らの漫才師が、舞台で弾いていたギターとでも言えば、お分かりいただけるだろうか?

ロッシ・アーチトップギターの製作は、ボディの表面にスプルース(松)、裏面にメイプル(楓)の柾目材を、ドーム形に削り出す事に始まる。

そして表材の裏に(ちから)()を当て、サウンドホール開ける。

「材の厚さや力の入れ方で、倍音域が変わるんです」。

側板となるメイプルの薄い材を水に浸け、熱を加えて曲げ、表と裏面を接着し箱状に。

続いてメイプルをネックに型取りし、ボディとのジョイント部を組み木状に加工。

次にヘッドを形成し、ロッシの銘を入れ、糸巻き穴を開ける。

さらにフィンガーボード(指板)を貼り付け、フレットを打ち、ネックの握りを削り、ボディとネックを組み上げて塗装へ。

「木は呼吸するから、微細な穴の出来るラッカーで」。

受注から4~5ヶ月が費やされ、この世にたった一つきりの名器が生まれる。

ライブの演奏が終わった。

博さんはいつまでも、己がギターに拍手を贈る。

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「天職一芸~あの日のPoem 402」

今日の「天職人」は、名古屋市西区の「すっぴんかき餅職人」。(平成23年1月15日毎日新聞掲載)

欠けたあられの見切り品 市場の菓子屋売出しで         母は鼻息荒くして 特用袋鷲掴み                出涸らしの茶とかき餅で 母も内職一休み            ぼくはトントン肩叩き 駄賃欲しさの似非孝行

名古屋市西区、昭和25(1950)年創業の「おかきや」。三代目かき餅職人の清水文浩さんを訪ねた。

「子どもの頃、缶蓋に積み木を載せては、かき餅焼く親父の真似しとったなあ」。文浩さんは、焼き窯の火をぼんやり眺めた。

文浩さんは昭和41年、2人姉弟の長男として誕生。

工業高校を卒業すると、自動車整備の職を得た。

「機械弄りと車が好きやったで」。

しかし5年後、祖父が亡くなり家業へ。

「爺が死んで人手が足らんで。でも不思議と、門前の小僧なんちゃらみたいなもんで、体に染み付いとるんだわ。焼いてみろって言うで、焼いたったら、母は途端に褒め殺し。跡継がせなかんで、母の必死の作戦だわ」。

ところが兄弟の多かった父は違った。

「父は家や兄弟に縛られ続けて来たでか、不自由な思いをさせたくなかったんかな。『家の手伝いはええで、外へ出てってもいいぞ』って」。

そう言われればしめしめ。

大好きな車にのめり込んだ。

「朝4時から9時まで卸売市場でバイト。それから夕方まで家の手伝いして、夕方からはガソリンスタンドのバイト」。

稼いだ金は全て、車に注ぎ込んだ。

しかし平成4年、倅に何とか家業を継がせようとした母が他界。

それでもまだ家業に本腰が定まらなかった。

平成9年、公子さんと結ばれ、やがて一男一女を授かった。

「結婚した年の暮れに、父が急性心筋梗塞で亡くなって。ちょうど北陸へ遊びに行っとって、帰ってみたら家の前にえらい人だかりが…。父を亡くした悲しみより、前の日に搗いたばっかの箱餅(搗きたての餅を入れ、乾燥させる専用の木箱)の方が気になって。通夜の途中で喪服のまま戻り、冷蔵庫から餅箱出して、全種類のおかきの生地の重さを量ったって。親父は、見て覚えろの一点張りだったで、生地の重さをどこにも書き残しとらんし。とにかくそれから1年は、焼いては捨ての繰り返しだわ」。

焼き上がったばかりのすっぴんの千枚を摘み、箕の中へと放り込む。

千枚とは、4㌢四方の薄いおかきで、醤油で味付ける前の物をすっぴんと呼ぶ。

「これの美味い不味いは、もち米の良し悪し」。

確かに噛むほどに、仄かな甘さが忍び寄る。

「おかきや」自慢のすっぴん作りは、佐賀と北海道産のもち米を洗い、丸粒のまま蒸籠立てして蒸し上げ、餅を搗く作業に始まる。

そして搗き立ての餅を木箱に入れ、屋上で筵の上に並べ乾燥。

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そっくり返ったら、引っくり返し、再び乾燥。

夕方には取り込み、明くる朝再び天日の下へ。

それを3~4日繰り返す。

「最後は噛んだ歯の入り具合で、乾燥状態を確かめるんだて」。

後はおかきの種類に切り分け、創業当時から変わらぬ地元の生びき醤油(熱処理をしない醤油)にドブ漬けし、窯で手焼きすれば完成。

「1枚1枚焼き上がる顔を見ながら、斑にならんようにな」。

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