「天職一芸~あの日のPoem 418」

今日の「天職人」は、岐阜市本町の「納豆職人」。(平成23年5月21日毎日新聞掲載)

朝の食卓カツカツと 小鉢掻き混ぜ糸伸ばし           どっちが勝つかいざ勝負 父と競った糸納豆           嫁に来た日が忘られん 「おおい、納豆」と呼ばはるで      甘納豆を差し出せば 醤油垂らしてめしの上

岐阜市本町の三角屋貝﨑商店、納豆職人の貝﨑浩一さんを訪ねた。

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鹿児島出身の母にとって納豆と言えば、それは取りも直さず、甘納豆を指したのだろう。

昭和半ばに、所帯を持って間もない新婚当初。

朝餉に父が納豆を所望し、母は何の疑いも抱かず、小鉢に甘納豆を盛って差し出した。

すると極度の近視である父が、甘納豆の上から醤油を垂らし、箸で掻き混ぜご飯の上に掛け、そのまま掻き込んだという。

さすがに母は、父の味覚を疑ったそうだ。

それ以来、倹しい食卓に糸引き納豆が登場するたび、母は新婚当初の「納豆取り違え騒動」話しを持ち出し、一人で笑いこけたものだ。

「関西より西では、納豆と言えばやっぱり甘納豆。それに対し中部辺りから東は、東京式の糸引き納豆やね。家が納豆屋を始めたのは、昭和も初め。もともと家の三角屋の創業は、寛永元(1624)年やで、あと10年ちょっとで400年やわ。今の私で14代目。納豆屋を始めたのは、11代目の曽祖父の時代やて。屋号の由来は、ちょうど三叉路の角にあったで三角屋とか。もっとも400年の間には、何度も商売換えもしたようで、鍛冶屋に八百屋、呉服屋やったりと」。

「『岐阜は海が無いのに、なんで家の苗字は、貝の﨑なんやろ。信長公が開いた楽市楽座の頃に、海辺の村から一旗揚げよと、この地にやって来たんやろか』とか。とにかくご先祖さんの由来に、もの凄く浪漫を感じるんやて」。

浩一さんは昭和32(1957)年、3人兄弟の長男として誕生。

大学を出ると、京都の納豆屋で住み込みの修業へ。

2年後帰郷し家業を継いだ。

「京都も岐阜も、気象条件はよう似たもん。納豆は生き物やけど、京都で学んだこととそれほど違わんし、戸惑いなんてなかった。せいぜい違いは、発酵(むろ)くらいのもん」。

三角屋の納豆作りは、清流長良川が運んだ伏流水に、大豆を一晩浸す作業から。

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そして翌日蒸し上げ、噴霧器を使って納豆菌を満遍なく噴霧。

発酵室へと移して一晩寝かせる。

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翌朝、発酵室から取り出し、今度は冷蔵庫でまたゆっくり一晩寝かせる。

すると大豆は、都合3泊4日の旅を終え、全身に繭のような菌糸(きんし)を纏い、地元の小売店へと出荷されてゆく。

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「昔は今と違って、杉板の経木の間に、蒸し上げた大豆を入れ、蝋を引いた紙で封をして発酵させたもんやて」。

昭和60年、関市出身の紀子さんと結ばれ、二男を授かった。

「倅が中学2年のころ。『おめえ家継ぐんか?継がんなら、一筆書け』って言ったったら、畑違いの世界へ就職してまった。だで、先のことなんてわからんて」。

400年続いた家の歴史は、荒れ狂う時代に抗い、生業(なりわい)を転じ活路を拓いた、先祖の尊い足跡だ。

「たとえどんな商売でもええさ。倅らが、ご先祖様から託されたこの家を、守り続けてくれたら」。

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「天職一芸~あの日のPoem 417」

今日の「天職人」は、愛知県豊橋市の「鬼板師(おにいたし)」。(平成23年5月14日毎日新聞掲載)

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鐘撞き堂に地蔵堂 本堂脇の大銀杏               少年忍者身を隠し チャンバラごっこかくれんぼ         遊び疲れて地蔵堂 供物の餅に手を伸ばしゃ          「罰当たりが!」と天の声 屋根から睨む鬼瓦

愛知県豊橋市で明治33(1900)年創業の伊藤鬼瓦。鬼板師おにいたしの田中満さんを訪ねた。

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昭和も半ば。

腕白小僧やお転婆娘たちの遊び場と言えば、氏神様や寺の境内と相場は決まっていた。

当時の寺は今と違い、四方ぐるりをコンクリートの高塀で囲うほど、閉鎖的でもなかった。

だから檀家であろうがなかろうが、そんなことは一切お構い無し。

坊主の目を盗んでは、勝手気ままに出入りしたものだ。

しかし本堂の甍の端に居座る鬼瓦が、いつも睨みつけているようで、さすがに悪さやいたずらを働くことなどなかった。

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奈良時代頃に仏教と共に渡来したとされる鬼瓦。

魔除けや災い封じとして本堂を護る一方、境内で遊び呆ける子どもたちをも、もしかしたら見守ってくれていたのかも知れない。

「子どもらにすりゃあ、鬼瓦は怖いやろ。でも鬼板師にとっちゃ、子どもも怖がらんような鬼作っとっちゃ話にならんで。わしもこの先、定年になって引退したら、これまで自分で手掛けた鬼瓦たちに、逢いに行くだあ。それが今は、一番の夢だで」。満さんは、幅80センチ、高さ1.2メートル、厚さ30センチもあろうかという、本鬼面の土塊(つちくれ)に竹箆で細工を施す。

満さんは昭和28(1953)年、島根県の兼業農家で6人兄弟の次男として誕生。

中学を出ると、大阪の寿司屋へ住み込み修業に。

「どうも板前には向いとらんだあ」。

半年後には兄を頼り、姫路で左官の見習いを始めた。

「ところが今度は腎臓結石で入院だって」。

療養も兼ね郷里へ舞い戻った。

「しばらくしたら姉から、嫁ぎ先の瓦屋が忙しいで、仕事を手伝いに来いと」。

昭和47年、一人豊橋駅へと降り立った。

「本当は2~3ヶ月もしたら、すぐに郷里へ戻るつもりだっただ。それがどこでどう間違ったのか、そのまま居ついてまって。師匠である姉の旦那の父親が、鬼瓦もやっとったもんで、すっかりそれに魅せられちまったでかなあ」。

昭和50年に結婚。

男子を授かった。

「でもそれからは、年々日本家屋の建築が減り、鬼瓦上げるような農家も減ってまっただ」。

平成9年、伊藤鬼瓦へと移籍した。

鬼板師の作業は、まず実物大より1割大きく、鬼面の絵を描くことに始まる。

「焼くとどうしても1割ほど縮んでまうだわ」。

次に板状の粘土を型紙に沿って組み重ね、竹箆と(しな)(べら)(撓る箆)と己が指で、迫力ある鬼面を立体的に造形する。

「鬼の顔の胴はでっかいで、上下に2分割にして。それと屋根の破風に垂らす股木(またぎ)と、鬼面の天辺に手前へと突き出す鳥休みを作って」。

素焼きと最終焼きを終えれば、この世にたった一つの本鬼面燻し瓦が完成する。

「一番苦心するのは、鬼の目付きだわ。黒目を小さくしてみたり。だって本物の鬼なんて、だあれも見たことあれせんだで」。

1体の製作に約1ヶ月。

鬼板師は、己が描いた鬼面と、ただただ向き合い続ける。

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「天職一芸~あの日のPoem 416」

今日の「天職人」は、津市大門の「やじろ餅職人」。(平成23年4月30日毎日新聞掲載)

伊勢は津でもつ津観音 花桐祭り春うらら           繁縷(はこべら)九本(くほん)茎を結い 観音籤で卦見立て              観音様に手を合わせ 門前町へ繰り出せば            焦げた焼餅溜りの香 我も我もとやじろ餅

津市大門で元治年間(1864-65)創業のたまきち餅店。9代目やじろ餅職人の加藤俊次さんを訪ねた。

浅草、津、大須と、日本三観音の一つに数えられる津観音。

境内は今が盛りの桐の花で、雅やかな淡い紫色に彩られている。

まるで観音様の薄衣のような艶やかさだ。

春に咲き競う花々にあって、桐の花は一際高貴な馨しさを放つ。

満たされた気分で門前町へと向うと、餅の焦げる匂いについつい足が向く。

なるほど。

既に餅屋の店内では、お参りを終えた客が、今か今かと焼き上がりを待つ。

「観音様へ参った後は、あんたとこのやじろ食べやんと物たらんのやさ」。

老婆は店の片隅に腰掛け、旨そうにやじろを串から頬張り茶を啜った。

「やじろ言うのんは、(うるち)(まい)ともち米を半々で、ブツブツに搗いたたがね餅を、細長く切って串に刺して焼いたもんですんさ。まあ、お一つどうぞ」。俊次さんが、焼き立てのやじろ餅を差し出した。

幅2.5センチ、長さ10センチ、厚さ1.5センチほどの、まさに五分搗きの切り餅に、こんがりと焼き目が付き、葛餡仕立ての砂糖溜りのタレが絡む。

みたらしの団子が、焼餅に変わっただけ。

だがその素朴な味わいは、病み付きになること請け合い。

八つ時ならずとも、ついつい手を伸ばしてしまいそうだ。

「ほんまは杵搗きたがねやで、かとなるんが当たり前。せやけどそれを工夫しまして、今では冬場で1時間、夏場ですと1時間半は柔らかいまんまでかとなりません」。

俊次さんは昭和48(1973)年に長男として誕生。

大学院を出ると製粉会社で澱粉の研究に明け暮れた。

「ちょうど25歳の終わり頃に、父が体を壊してしまって」。

会社を辞し、家業を継いだ。

その2年後、大学時代の同級生だった神戸出身の恵さんと結ばれ、一男一女に恵まれた。

津観音、門前名物のやじろは、伊勢街道を上り下る旅人たちの、小腹を満たし続けた庶民のお御馳走(ごっつお)

本街道をちょいと分け入り、観音様を詣でれば、やじろの焦げる匂いに、疲れた旅人も袖を引かれたことだろう。

「松阪や多気の方では、たがねをやじろと呼ぶんやそうです。語源は(やじり)(なま)ってやじろとか。ほうっとくと、直に鏃のようにかとなるでやろか」。

やじろ作りは、粳米ともち米を一晩水に浸け込む作業から。

翌朝それを蒸し上げ、たがね状に搗き、薄く均等に延ばし、短冊状に切り分け竹串を打つ。

後は客の注文を待って素焼きし、砂糖溜りの葛餡を絡めれば出来上がり。

「澱粉の性質で、焼いて5分もするとかとなってしもて。せやで家では5年ほど前から、搗き方と、粳米ともち米の配分を少し換え、取り粉も使わず、かとならんよう工夫しとんやさ」。

最高学府で学んだ澱粉の研究が、創業以来140年の難題を解決へと導いた。

化学薬品には一切頼らず、あくまで自然科学の応用を旨として。

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「天職一芸~あの日のPoem 415」

今日の「天職人」は、岐阜市大福町の「映画看板絵師」。(平成23年4月23日毎日新聞掲載)

駅前ビルの灯が燈りゃ 映画スターの看板が           眩いほどに浮かび出で バス待つぼくを魅了する         清楚可憐なヘプバーン ぼくはペックになりきって        ベスパ代わりの自転車を 飛ばす凸凹帰り道

岐阜市大福町で昭和33(1958)年創業の美工社。映画看板絵師の大前みつぎさんを訪ねた。

写真は参考

「まだ若い頃、ポルノ映画の裸の看板を描いとった時なんて、何か胸がドキドキしてまって。親方からは、『胸をもっと大きくしたれ』とか冷やかされるし」。貢さんが、懐かしそうに倉庫の中の古い看板に目をやった。

貢さんは昭和33年に飛騨金山の兼業農家で、3人兄弟の末子として誕生。

「子どもの頃から絵が好きで、写生大会が待遠しかった」。

中学を出ると、糸貫町の寮に一人住まいし、家具製造会社に勤務。

「家具職人を目指したんやけど、毎日単純作業の繰り返しで」。

昭和45年、知人の紹介で美工社の門を叩いた。

「看板でも何でも、とにかく手作りがしたくて。そしたらいきなり『描け』って言われて文字書きから。しばらくすると、今度は縁取られた絵の中を、塗り絵みたいに色付けやわ」。

一つの仕事をこなすと、直ぐに次の仕事が与えられた。

切り抜き看板用に、ベニヤ板を糸鋸で切り抜き、ザラ半紙を貼って桟を裏打ちしたり。

そんな下回し仕事の日々が続いた。

「初めて一人で映画看板を描いたのは、絵師の職人が辞めた昭和55年頃やったかな」。

看板絵師としての初作品は、縦1.8メートル、横2.7メートルの巨大なキャンバスが舞台。

写真は参考

交通量の多い環状線に掲げられる屋外看板だった。

「忘れもせんなあ。沖縄が舞台の映画『マリリンに逢いたい』やった」。

貢さんは懐かしげに表通りを見やった。

「夜暗くなってから会社へ出て、看板のトタン板をまず真っ白く塗って。そこへポスターの図柄を幻灯機で拡大し、映し出しといて下書きや。塗り始めるのは、翌日になってからやね。看板はポスターと違って、遠目で見たり下から見上げても、どこから眺めたって目線が合うよう、モデルの目を強調して描かんといかん。それに陰影付けて肌の立体感を出したり。描いとる手元を見ると、『なんじゃあ』ってな感じでも、看板にして上の方へ掲げて見ると『ウワッ!』となるもんやて」。

時には見本のポスターの構図を変更し、人物の間隔を詰めたり、より効果的になるよう人物の配置も入れ替えたり。

どれも絵師の裁量の一つだ。

「だんだん手描き看板が減って、平成12年頃には1週間で1作品くらいやったろか。それでも昔は映画館も5館あったで、次から次へと描き換えて。あの頃は、2本立て3本立てなんてざらやったし」。

自分が描いた映画は、欠かさず観たという。

「最近柳ヶ瀬のロイヤル劇場が、懐かしの名画を上映するようになって。10年も筆置いたままやったけど、また昔ながらの手描きを、させてもらっとるんやて」。

自分の描く女優に恋し続けた看板絵師。

まるで昔の恋人と、再び巡り逢ったように微笑んで見せた。

ポスターの写真と、一味違う手描き看板。

味わい深さは、筆先に託す絵師の想いの一刷けか。

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「ななななんと!ついに・・・」

昨日のお昼は、雨の小振りな頃を見計らって、例の公園へサブレーに逢いに行ってみました。

するとななななんと!

サブレーは自分からぼくの手のひらに飛び乗って来るじゃありませんか!

それがこの↓動画です。

https://youtu.be/7WsL_mbSPAU

ついでにこちらも!

https://youtu.be/ipSZZEG9hoY

今日は一日中大雨とかだったので、お腹を空かしていたら大変だと思い、雨が小降りになったのを見計らって出かけてよかったぁ!

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「サブレーがまたまた、ぼくのおむすびランチタイムに、やって来てくれましたぁ!」

件の公園のベンチのランチタイムは、コロナの影響もあってか、殊の外賑わいを見せています。

でもサブレーが、昨日のお昼に、ぼくの座ったベンチにやって来てくれました。

https://youtu.be/eXiNm301mkw

実はサブレーがやって来ると、他の3羽もゾロゾロとついて来たのですが、ベンチに飛び乗って来るのはサブレーだけで、もちろんぼくの手のひらから米粒を啄むのも、サブレー1羽だけです。

ちなみに他の鳩にも、手のひらに米粒を乗せて、地面近くまで手を下ろしてじっとしていても、いずれも脅えて近付くことも米粒を啄むこともありませんでした。

今日はどうやら雨模様なので、サブレーに逢いに行けそうもなく、残念な限りです!

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「天職一芸~あの日のPoem 414」

今日の「天職人」は、名古屋市西区の「浸染しんせん黒染くろぞめ師」。(平成23年4月16日毎日新聞掲載)

(しょう)篳篥(ひちりき)神を呼び (かしこ)み申す祝詞(のりと)ごと              倅と嫁が契り結い 玉串捧げ九献干す              ご先祖様を光背に 黒紋付の家紋負い              共に労わり寄り添いて 頭を垂れる夫婦松

名古屋市西区で大正8(1919)年創業の山勝染工、3代目浸染黒染師の中村修さんを訪ねた。

日本人でありながら、いささか恥ずかしい限りだ。

半世紀も齢を重ねたと言うに、黒紋付に袖を通したことは、これまでにたったの2度。

しかもいずれもが、貸衣装に家紋を張り付けた代物だ。

ましてや我が家の家紋の意匠など、そこで初めて目にしたほどのお粗末さであった。

だが紋付を羽織った瞬間、不思議にも背筋がピンと伸び、まるで背後からご先祖様に、加護されているような気がしたものだ。

「紋章自体が氏素性を表すもんだで、そりゃあそんな気がしても不思議じゃないわさ」。

修さんは昭和26(1951)年、3人兄弟の長男として誕生。

「名古屋の黒紋付染の始まりは、慶長16(1611)年に、尾張藩紺屋頭の小坂井新左衛門から。それで家は、文政2(1819)年に黒染師となった初代東助から数え、ぼくで7代目ですわ」。

大学を出ると京都の染工所で修業を積んだ。

3年後に帰郷し家業へ。

同じ年、富山県高岡市出身の京子さんと結ばれ、男子三人を授かった。

「父は一刻者の職人で、ようぶつかったもんですわ。ぼくはやがて問屋が無くなる日も近いと思い、日曜日になると東海一円の呉服屋1000軒を回り、営業してましたって」。

戦後わずか30年の間に、着物離れは急激に加速していった。

「染めには、蝋纈(ろうけち)夾纈(きょうけち)纐纈(こうけち)の3(けち)ってえのがあって。名古屋は白生地を板で挟んで染める夾纈。家の浸染黒染は、濃度200~300%の黒色染料を90~95℃に熱し、その中に直接生地を入れて一晩浸け込み、水洗いで繊維に結合しない染料を洗い流すもの。だで、より黒さが際立つんだって」。

名古屋黒紋付の浸染黒染は、まず精錬された白生地から不純物を取り除く、地入の下準備に始まる。

それを何度も水洗いして乾燥。

そして生地目を下ゆのしで真っ直ぐに延ばす。

次に生地を検反し、青花(露草の搾り汁)を用い紋の位置決めへ。

続いて和紙を5~7枚貼り合わせたメンコ(=紋型紙)を紋の型に切り抜き、米糊とマツ(=亜鉛粉末)を練り合わせ生地に張り付ける。

ここまでの下準備を整え、いよいよ浸染黒染。

まるで室内用の、丸い洗濯物干しハンガーのような物に、一反の生地を中心から外側へと向って、渦巻きを描くよう、生地が重ならぬように吊り下げ、染料液に一晩浸け込む。

水洗い後、紋糊を落として乾燥。

そして再度下ゆのしで生地目を整え、紋を書き込む部分の糊を落す、紋洗いと乾燥へ。

続いて竹製の文廻し(=和製コンパス)や、中央にガラス製の側棒が滑る溝を掘った竹製定規などを用い、紋上絵を施し蒸気を当てる。

そしてゆのしで仕上げれば、闇より深い漆黒の浸染黒染が完成する。

染の世界の(くろ)(ごく)上上(じょうじょう)(きち)

尾張名古屋の黒紋付。

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「天職一芸~あの日のPoem 413」

今日の「天職人」は、三重県名張市赤目町の「へこきまんじゅう職人」。(平成23年4月9日毎日新聞掲載)

行者滝から銚子滝 赤目五瀑の修行道              (さや)けし森の曼荼羅に 心(あろ)うて香落渓(こおちだに)              穢れ落として一休み へこきまんじゅう舌鼓           往きに食せばたちどころ 腑に屁が湧きて立ち往生

三重県名張市赤目町のたまきや。2代目女将の玉置弘美さんを訪ねた。

新緑に覆われた赤目渓谷。

行者滝へと続く入り口の店先に、「へこきまんじゅう」の看板。

こんなものを目にすると、もはや滝巡りどころではない。

「中身がサツマイモやで、せやったら『へこきまんじゅうやろ』って、主人が名前付けて。そしたらこれがまた、お通じがようなって便秘にええって、女性の方にえらい評判で」。弘美さんが、へこきまんじゅうを差し出した。

何ともほっこりとした舌触りに、サツマイモ自体のやさしげな甘味。

あっという間に平らげてしまった。

「形は違うけど、餡の無い大判焼みたいですやろ」。

なるほどうまい表現だ。

形は長さ12センチ、幅7センチ、縁の厚さは2センチほどでも、真ん中が3センチほどにこんもり膨らんだ長方形で、愛嬌のある忍者が模られている。

弘美さんは昭和37(1962)年に、兼業農家の長女として誕生。

高校へ上がると柔道部のマネージャーに。

同じ道場を利用する剣道部のキャプテンと目が合うたび、思春期の心が微かに揺れた。

卒業後は、名古屋の専門学校で学び、19歳の年に地元の印刷会社へ入社。

それから4年年後、見合い話が持ち上がった。

「何とお相手が、高校の剣道部のキャプテン」。

半年後に武史さんと結ばれ、やがて2女を授かった。

「もともと主人の両親が、伊賀で最初の民宿しとって。平成になってホテルに建替えて私らに譲り、義母は土産物並べてうどん売ったりしとったんさ。ところが土産も年々売れやんようになって」。

何か起死回生の手立てはないかと、たどり着いたのが忍者型した大判焼。

「せやけど、売れるのは秋だけなんさ」。

鋳型で特注した大きな焼台だけが残された。

「この焼台使って、違うもの焼いたらどないやろ」。

それがサツマイモをふんだんに使った、へこきまんじゅうの誕生だった。

「試作したらえらい好評で」。

1週間後に店頭に並べ販売を開始。

「『名前はなとしょ?』となって、主人が『せやったらへこきでええぞ』って。その場で紙にへこきまんじゅうって書いて貼り出したんさ」。

すると我も我もと飛ぶような売れ行きに。

平成15年のことだった。

今では全国各地のデパートから、実演販売の声が掛かる人気振りだ。

へこきまんじゅう作りは、赤目近郊のサツマイモの皮剥きから。

それを輪切りにして蒸し上げ、生クリーム、卵、砂糖、シナモン、塩、小麦粉を混ぜ合わせ、ミキサーで攪拌。

後は忍者の鋳型に流し込み、2~3分焼き上げれば出来上がり。

「どこも不景気で沈んどった時に、このへこきのお陰で、皆が元気になってな。何や赤目の神さんが『これしなさい』ってゆうてくれたようで」。

誰より郷土を愛する弘子さんは、忍者型のへこきまんじゅうを携え、全国各地を飛び回る。

名所赤目四十八滝を、知らしむる伝道師さながらに。

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「天職一芸~あの日のPoem 412」

今日の「天職人」は、岐阜県関市下之保の「玉味噌職人」。(平成23年4月2日毎日新聞掲載)

権現山の山裾で 春告げ鳥が歌い出しゃ             軒の玉味噌縄暖簾 母が解いて仕舞い込む            縄を外した玉味噌は 飴色焼けのお数珠玉            桶の秘伝のタレに浸け 冬が来るまで一眠り

岐阜県関市下之保で、この地に伝わる玉味噌を作り続ける丹羽益子さんを訪ねた。

「まあ、とにかくいっぺん食べてみんさい。食べたことない人は、真っ黒なドーナツ見たいやでびっくりするやろが。でもこうして、玉味噌を崩しながらネギと鰹節を混ぜ、ちょっとお醤油垂らすんやて。それを炊き立てご飯に載せたら、素朴で懐かしい味がするに」。

「私ら子どもの頃は、正月が終わると、近所のもんらが皆して大釜で大豆炊いて、温かい内に丸め藁縄に通し、囲炉裏の上で乾燥させたもんや。そして5月15日のオンゾカイモチの日に、塩水に漬け込んで皆しておはぎをいただいて。ここらじゃ麦ご飯に、玉味噌載せておかずにしたり、味噌汁作ったり。それでもちゃんと()()(大きく)なったでな」。

益子さんは昭和17(1942)年に、5人姉妹の長女として誕生。

中学を出ると、同県可児市の修練農場に寄宿し、1年間農業を学んだ。

翌年、武儀高校の別科へ進学。

「まあ、洋裁や和裁を習って、2年間の花嫁修業やわ」。

18歳で農協の事務職に。

4年後、職場に一人の男性職員が採用された。

やがて益子さんの夫となる鉄夫さんだ。

「私はぜんぜん気が付かんかったのに、いつの間にか上司が主人に、『婿入りどうや?』と世話焼いとったみたい。主人は次男坊やったで、『他の土地へ養子にやってはどもならん』と」。

周りの計らいでトントン拍子に婚儀も整った。

昭和41年、鉄夫さんが婿入りし、やがて一男一女が誕生。

昭和半ばの高度経済成長で、静かな山里の暮らしも一変。

この地特有の玉味噌も、次第に作り手が減少した。

「そりゃあ手間かけて玉味噌造るより、スーパーで買った方が遥かに安いし、誰れの口にも合うように出来とる。そんでも玉味噌は、野良仕事に持って行くと、これがまた旨いんやて」。

平成7年、近くに道の駅が誕生。

「月に2回、朝一に玉味噌出すと、これがまたよう売れて。その都度母に『造っとくんさい』と頼み込んで」。

2年後、味噌醸造の許可を得、益子さんの本格的な玉味噌造りが始まった。

この地に伝わる玉味噌造りは、正月開けに関市武儀地区の大豆を水に浸す作業から。

そして薪で8時間ほど蒸し上げ、臼で搗いて擂り潰し、丸めて中央にドーナツ状の穴を開ける。

翌日藁縄に通し、タカキビの殻で止め、縄暖簾状に8個ずつ吊り下げ、3月末まで陰干しへ。

4月になると乾燥した玉味噌をザッと洗い、醤油と米糀を入れた桶に漬け込み、12月の出荷まで寝かせる。

「昔は塩味だけやったに。今は食べやすいようにと、醤油と糀で味付けて」。

味噌のようだが味噌でもない、それが武儀の玉味噌。

素朴な味わいに、鰹の旨味とネギが絡まり、飯の甘みを引き立てる。

「お代わり!」と、ついつい茶碗を差し出した。

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「天職一芸~あの日のPoem 411」

今日の「天職人」は、愛知県刈谷市の「かざり職」。(平成23年3月19日毎日新聞掲載)

父は七つのお祝いに 夜毎コツコツ銅を打つ           晴れ着の柄にお似合いの 君影草(きみかげそう/スズラン)の髪(かざり)  宮へ詣でるその朝に 髪を結い上げ後差し           「羨ましい」と妹も 三面鏡を覗き込む

愛知県刈谷市で昭和33(1958)年創業の、村井神仏金物製作所。二代目錺職の村井義幸さんを訪ねた。

南に開いた明り取りの窓辺には、2500本にも及ぶ(たがね)が並び、己が出番を待ち受ける。

「父から譲り受けた物が大半ですが、実際に使うのは1000本程度かなあ?錺職は自分で鍛冶屋仕事の焼入れして、鏨を作るための鏨まで作るんです」。義幸さんは、金鎚を打つ手を止めて振り向いた。

義幸さんは昭和40年、3人兄弟の長男として誕生。

高校を出ると滋賀県彦根市の錺職人の元で修業を始めた。

「子どもの頃から物を作るのが好きで。1枚の銅板から鏨1本で、自在に立体的な錺金具まで作り出せるんですから。それに会社員と違って、1円単位の競争に追われることもないし」。

5年の修業を経て家業へ。

修業先で得たのは、技だけではなかった。

同じ職場の金箔職人であった、裕子さんとの間に恋が芽生え、手を取り三河の郷へ。

平成元年に結ばれ、一男一女を授かった。

「気が付いたら、妻が付いて来ちゃったんです」。

それから10年。

錺り職父子は、ひがな一日窓辺に座し、互いに何かを語らうでも無く、ただひたすら黙々と鏨を叩き続けた。

写真は参考

「平成10年から父の仕事を受け継ぎまして。それからは大好きなハードロックを聴きながら、金床をスネア代わりに、鏨と金鎚をスティックに見立て、リズムを刻んでみたり」。

三河仏壇、祭りの山車、神社仏閣の煌びやかな錺金具は種々多様。

まずは銅板に、型の墨付けを行う金取りから。そして鏨で断ち切り、(へり)打ちを行い、下絵を描き(がら)()りへ。

「下絵をなぞり、小さな楔形を刻む()り彫り鏨や、魚の卵のように細かな目が犇めき合う魚々子(ななこ)鏨。それにもっと細かい砂のような砂目鏨や石目や岩目の鏨を使い分けながら、柄を彫り出すんです」。

そして粗研ぎし、鑢目(やすりめ)のザラザラした突起を(きさ)げと(ぼう)(べら)で磨き上げ、金メッキを施す。

「鏨で彫った肌の荒れ具合で、錺の顔が違って来ますから。下絵によってその都度、鏨を選ばんといかんのです」。

ちなみに三河仏壇1本に、錺り職が1つ1つ手で打ち出す、約1500枚の金具が用いられる。

それは正面から仏壇を眺めただけでは気付かない、天井金具一つとっても、どれ一つとして手抜きなど許されない。

「そもそも仏壇は、家の中にある、寺院のミニチュアと一緒ですから、大きさこそ違えども、おおよそ寺院の本堂と同じように、錺り金具が配され、組立師の手によって取り付けられます」。

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その意匠たるや、幾何学模様から花鳥風月まで多種多様。

日本人の美意識が、伝統的な意匠に込められ現世へと受け継がれる。

3代目はと問うと「ぼくで最後かな。時間ばっかりかかる大変な仕事だし…」と、一瞬苦しげな言葉を飲み込んだ。

わずか10センチの金床を舞台に、錺職の指先は、鏨を操り銅板上を踊り続ける。

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