「天職一芸~あの日のPoem 428」

今日の「天職人」は、三重県四日市市の「大入道せんべい職人」。(平成23年7月30日毎日新聞掲載)

狸囃子か腹太鼓 里の童も化かされて              酒と肴の供物下げ 狸の穴で額ずいた              それを見ていた子狸が 里の菓子屋で子に化けて         大入道の焼印の 煎餅盗み腰抜かす

三重県四日市市で昭和8(1933)年創業の、四日市名物大入道せんべいの宝来軒。三代目煎餅職人の森秀明さんを訪ねた。

せんべいの袋の中に入った、厚紙を切り抜いた大入道。

裏面には、大入道の謂れ書き。

大入道は頭が青々と剃り上がり、太い眉に大きな(まなこ)

団子っ鼻に真っ赤な舌が、顎の下へと垂れ下がる。

白黒縦縞模様の着物に赤い帯。

厚紙の一方を上へ押しやると、大入道の首がドロロンと伸びる、極めて簡単な、昔ながらの仕組みである。

しかしこの大入道。

どこからどうみても怖いと言うより、むしろ滑稽であり親しみさえ感じてしまう。

「昔、四日市の港には、蔵がようけありましてな、そこへ狸がやって来ては蔵荒しをしよって。地元の衆が困り果て、狸を驚かそと大入道を作ったんやさ。ところが狸もしたたかで、逆に大入道に化けられる始末。これはあかんと、大入道に細工して首がドロロンと長くなるようにしましたんさ。それでさすがの狸も驚いて、尻に火い付けて逃げ帰ったとか」。秀明さんが、その由来を語った。

「今も、文化2(1805)年に作られた、高さ5㍍、首の長さ1.6㍍、着物36反の超大型の大入道が、山車に乗って町を練り歩きますんさ」。

秀明さんは昭和39年に3人兄弟の長男として誕生。

昭和59年、製菓の専門学校を出ると、名古屋の洋菓子店に住み込み修業へ。

「6畳一間に4人住まい。朝4時半から夜中の11時まで。面接の時に親方は、そんなこと一言もゆうとらなんかったのに。とにかくよう殴られましたわ。親方はえらい任侠道に憧れとって。部屋へ呼ばれると極道映画のビデオ見せられ、『お前らなあ、任侠も菓子の道も同じや』って。せやでぼくがおった6年の内に、10人が夜逃げしてもうて」。

平成2年、5年の満期にお礼奉公の1年を勤め上げ、家業へ戻った。

「ちょうど祖父が他界しましてな。そしたら親方がどこぞかで、黒のベンツのレンタカー借りて来ましてな。『これ乗って里へ帰って来い!死んだ爺さんに、ええとこと、男気見せたらんかい』って。今思うとええ親方でしたわ」。

祖父が遺した大入道せんべいを、来る日も来る日も父と共に焼き続けた。

平成11年知人の紹介で、鈴鹿市から悦子さんを妻に迎え、やがて一男二女が誕生。

 78年続く郷土の味、大入道せんべいは、今も祖父の代と変わらぬ配合と作り方が続く。

まず卵、砂糖、蜂蜜、バター、小麦粉、膨張剤を配合しミキサーで捏ねる。

次に生地を鉄板に敷き、その上から鉄板を被せて挟み、両面がこんがりするまで焼く。

焼き上がったところで、大入道の絵の焼き鏝で焼印を入れれば完成。

「簡単なようですが、季節によって寒暖も湿気もちごてきます。せやでその都度、配合も微妙に変えやんと」。 

盆暮れの無沙汰を侘びる手土産は、今も変わらぬ大入道。

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「天職一芸~あの日のPoem 427」

今日の「天職人」は、岐阜県高山市江名子町の「江名子バンドリ職人」。(平成23年7月23日毎日新聞掲載)

野良で草引く爺ちゃんと 青き稲田に影が差す          大入道の稲光 バンドリ絡げそれ逃げろ             爺は夜鍋でニゴを編み 舟を漕ぎつつ手酌酒          「オリはバンドリ宵っ張り さあさ飲むぞ」と大鼾

(*バンドリは飛騨地方の方言/ムササビの意)

岐阜県高山市江名子町で江名子バンドリを作り続ける隆さんを訪ねた。

「『こらっ、デッチ(男子)にビンタ(女子)!いつまでも遊んどらんと、縄()いして材料やわっ(用意し)とけ』って、厳しい親父やったさ。適当に縄綯うなら『たまじゃかった(いいかげんな)仕事しとったら、承知せえへんぞ』って」。隆さんはは、昔を懐かしむよう窓に広がる山並みを眺めた。

江名子バンドリとは、300年以上前から伝わる、雨具、防寒、日除けに最適な、風通しの良い野良着の蓑。

バンドリを着けた後ろ姿が、まるで飛膜を広げるムササビに見えることから、この名がついた。

隆さんは昭和10(1935)年、7人兄弟の次男として誕生。

「とにかく勉強も家の仕事も嫌いやった」。

中学を出ると製材所に勤務し、やがて運転免許を取得。

トラックを転がし、材木運搬用に携わった。

昭和34年、23歳を迎えたある日。

「本家の叔母が、『こらっ、隆。ワレええかげんカカもらえ』って叱られて」。

近在から雪子さんを妻に迎え、一男二女を授かった。

「その年やったさ。高山にまだ6台しかない、タクシー会社へ移ったのは」。

そのままタクシーに乗務し、定年まで家族を支えた。

平成2年、町内会長に。

「ここらあでは、毎年農作業が終わると、どこもバンドリ作りに追われたもんやさ。町へ出てバンドリ売って、少しでも暮らしの足しにせんと。ところが昭和30年代も後半、高度成長が始まると、ゴムやビニール合羽が急速に普及してまって。気が付いたら、郷土民具のバンドリも、作れるもんらがおらんくなる一方や。こりゃあかんと思って」。

平成5年、隆さんが中心となり保存会を設立。

町のご隠居ら14名が、その伝承と保存に努める。

バンドリ作りの大半は、編み込むための材料作りと、その下準備である。

「そやな。今では編むゆうたら、年が明けた1月10日から、たったの2週間ほど。そりゃあ昔は、どこの家も夜鍋して、春先までやりよったけど」。

主な材料は、ニゴと呼ぶ稲藁の先端一節分と、シナの木の内皮に麻縄。

まずは、ニゴを取る稲作から始まる。

刈入れが終わると藁からニゴを抜き、ハカマを穂かきで取り除く。

そして水に2ヶ月間浸し灰汁抜き。

シナの木は、梅雨時に伐採。

樹液が上がる6月下旬に樹皮を剥き、2ヶ月間水に浸す。

そして鬼皮から内皮を剥ぎ取って乾燥。

「昔はニゴや麻で、子どもが縄を綯ったもんやさ。今は市販の麻紐やけど」。

そして肩編み、首折り、上編み、腰編み、つなぎの工程を経て完成。

「肩編み3日。腰編み1日半。まあ昔と違うで、皆で昔話せながらのんびりとな」。

♪やれやれやれー やればんどりも 雨の降る時や ためになる♪

青い稲田に隆さんの「江名子の田植唄」が響く。

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「天職一芸~あの日のPoem 426」

今日の「天職人」は、愛知県豊橋市西羽田町の「帆前掛ほまえかけ型彫師」。(平成23年7月16日毎日新聞掲載)

母の手伝い酒屋まで 篭に空き瓶ぶら提げて           酔いもせぬのに千鳥足 陽炎揺れる炎天下           「暑かったろ」とオッチャンが 盥のラムネ取り上げて     「駄賃代わりや飲んでゆけ」 濡れた瓶拭く帆前掛け

愛知県豊橋市西羽田町で昭和8(1933)年創業の山佐染工所。58年(平成23年7月16日時点)勤務し勤務し、いまだ現役で帆前掛けの型彫りを続ける伊藤一士ひとしさんを訪ねた。

愛知県の東都、豊橋市。

昭和40年代まで、生糸に玉糸、がら紡と、糸の町として全国に知られた。

その名残の一つが帆前掛けである。

和船の帆にも用いられた、丈夫な帆布を藍染し、清酒名やその意匠を白く染め抜いたものだ。

写真は参考

「丈夫な前掛けだで、酒の入った木箱の角を、腿に宛がって積み下ろししたって、ズボンを傷めたりせんだあ」。一士さんである。

「わしの座右の銘は、『生涯修業』に『臨終定年』だで」。

一士さんは昭和4(1929)年、3人兄弟の長男として誕生。

尋常高等小学校を出ると豊川の海軍工廠へ。

「ちょうど豊川空襲のあった8月7日は、10日続きの夜勤明けじゃって、外出許可をもらって出かけとっただ。そしたら空襲警報が鳴り出すもんで、慌てて牛久保駅の防空壕へ駆け込んだだて」。

終戦後、製綿所へ6年勤務。

その後昭和28年に、山佐染工所へ入社した。

「元々手仕事が好きで、子どもの頃から切り絵とかもやっとっただ」。

同年、製綿所の綿工だった寛子さん(故人)と結ばれ、一男一女を授かった。

やがて時代は高度成長期へ。

大手酒造メーカーからの注文に追われる日々が続いた。

昭和39年、東京五輪が開幕。

その年一士さんは、35歳の若さで工場長に抜擢された。

「あの頃は、まだ先代の親方が型彫りしとっただ」。

昭和54年、50歳になってやっと型彫りを任された。

「染めの工程を全部知らな、型は彫れんらあ。50歳にしてやっと、子どもの頃の切り絵が役に立っただて」。

以来、一士さんは32年に渡り、(ほり)()(彫刻刀)を揮い続ける。

型彫りの準備作業は、まず施主の要望する意匠を、型紙に黒インクで描き起こす作業から。

「昔は伊勢型紙ばっかだったけど、もう今はどこでも近代的な型紙だらあ」。

そして切り絵の要領で彫刀を入れ、白く染め抜く図柄を彫り進める。

「型紙を彫り上げたら、網目の(しゃ)を漆で貼り付けるだ」。

織り屋から仕入れたばかりの白生地を煮て、表裏に型を当て糊引き。

その上から川砂を被せ、硫化釜へ5分ほどドブ浸け。

藍に染まると布地を広げ、空気に触れさせ藍の発色を促す。

そして水洗いで砂と糊を洗い落とし、天日で丸1日乾燥。

写真は参考

「後は、帆前掛け専門の紐屋で織った紐を縫い付ければ出来上がるだ」。

果てしなく深い藍色に、純白に浮かび上がる意匠。

手染めの癖を知り抜いた彫師だからこそ、染め際の彫刀捌きが際立つ。

写真は参考

一士さんの顔の色艶は、御歳82にはとうてい見えぬ。

秘訣を問うて見た。

「平成13年に女房に先立たれてまっただ。それで寂しさ紛らわそと、元々酒好きだで飲みに行っとったじゃん。そしたら店の板前と友達になって、気が付いたらその母親と恋仲になっとっただ」と。

八十路の万年青年の頬が、一際赤らんだ。

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「天職一芸~あの日のPoem 425」

今日の「天職人」は、津市大門の「カステヒラ職人」。(平成23年7月9日毎日新聞掲載)

津の殿さんもお気に入り 南蛮渡来カステヒラ          ほんのりあもて柔らかと 城下じゃ噂もちっきり         欲に眩んだ餅菓子屋 南蛮辛子練り込んで            店に出したはいいけれど 客はたちまちヒーリヒリ

津市大門で大正12(1923)年創業の三華堂。二代目カステヒラ職人で、伊勢の国、藤堂藩家老中川蔵人くらんどの日記から嘉永時代のカステヒラを復元した阿部真三さんを訪ねた。

―天保九年九月十六日  夕刻(とう)太方(たかた)塩片口(しおかたくち)(つか)わし候処、カステイラ()養甘(ようかん)種々貰ふ 当地初めての精品也―

―嘉永六年十月二十六日 御上(おかみ)への御土産昨日来(さくじつらい)登手製のカステヒラ一重(いちじゅう)御熨斗(おのし)代り御肴(おさかな)相添(あいそ)え、その余種々持参―

伊勢の国、藤堂藩家老中川蔵人(くらんど)の日記である。

この表紙裏には、「カスデヒラ法」と題し、配合表が添えられ、息子の登が手製したカステヒラを、藩主に持参したと記録されている。

文中には「カステイラ」「カステヒラ」「カスデヒラ」と、その都度表記も異なり、いかに当時の珍品であったかが偲ばれる。

「平成15年のことですわ。商工会で地元の歴史について、三重大の大橋剛先生から、家老の日記にカステヒラ作りが書いてあるゆうて聞きましてな。それでいっぺんに虜になってもうて」。

真三さんは昭和24(1949)年、6人姉弟の長男として誕生。

「父が50歳の子でしたで、そりゃあもう跡取りがやっと出来たって、大変な喜びようやったとか」。

高校を出ると、岐阜市の洋菓子店に住み込み修業へ。

「創業当初は和菓子一本やったんが、戦後になって洋菓子も始めてましてな。昭和30年代に入ると、ロールケーキがえらい評判で、行列も出来るほどやった」。

昭和46年、喜寿を目前にした父に乞われ家業へ。

家伝の和菓子作りを、年老いた父から学び取った。

昭和60年、知人の紹介で裕子さんと結婚。

残念ながらもその前年、跡取り息子の婚儀を一番待ち侘びた父が、力尽き静かに息を引き取っていた。

やがて父と入れ替わるように、一男一女が誕生。

寿ぎがもたらされた。

「蔵人の配合表で、息子の登が作ったカステヒラは、今しとちゃいますで、そりゃあ大変でしたやろ。竃に薄い丸鍋を載せて、そこへ小麦粉に鶏卵と砂糖を加えて練った生地を入れ、上から鉄板を被せ、そのまた上に炭火を載せて焼いたとか。当時はオーブンもありませんし、砂糖かて白砂糖なんて手に入りませんやん。サトウキビ搾っただけの原糖ですわ。せやで黒砂糖の色が勝ってもうて卵の色が出やん。ましてや水飴も加えやんで、パサッパサでシットリしとらん。でも黒砂糖の風味があって、なとも言えやん素朴な味わいやさ」。

日記と出会い、わずか3ヶ月後には発売へと漕ぎ付けた。

「蔵人さんの末裔に許可をいただいて、日記の表紙の写真を包装に使わせてもうて」。

真三さんは出来たばかりの完成品を携え、四天王寺の蔵人の墓前へと真っ先に手向けた。

「今のしっとりしたカステラと比べたら話にもならん。せやけど嘉永の頃は、殿さんでも中々口に出来やん、そりゃあ高価な南蛮菓子やったんやろな」。

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「天職一芸~あの日のPoem 424」

今日の「天職人」は、岐阜県高山市の「飛騨染職人」。(平成23年7月2日毎日新聞掲載)

闘鶏(とうけい)(らく)の鉦の音で カンカコカンと春が来る           背にした鳳凰腰に竜 粋な飛騨染跳ね踊れ            社に神輿奉納し 宿で酒盛り夕間暮れ              神の迎えも千鳥足 他所の神輿を担ぎ出す

岐阜県高山市、慶応元(1865)年創業のゆはら染工。四代目飛騨染職人の柚原博明さんを訪ねた。

「へんぺやまむしゃ おーらんか へんぺやまむしゃ おーらんか」

獅子舞の掛け声を先頭に、闘鶏楽の「カンカコカン」が続く。

♪チャアコチャン チャアコチャン アーンチャーンチャ♪

♪ソリヤ デ オーイ デ ソイツ デコデコデ♪

白地に極彩色の鳳凰と竜が染め抜かれた、飛騨染の(とり)()衣装。

雪深い飛騨ならではの、待ち侘びる春への想いが現れているようだ。

「肩袖から上に鳳凰。脇から裾が竜の飛騨染に、一文字笠を被るのが闘鶏楽やさ。昔はそれを、鳥毛打ちって呼んどったんやて」。

博明さんは昭和13(1938)年に、3人兄弟の長男として誕生。

家業を手伝いながら夜学で高校を出ると、名古屋の染物屋へ弟子入り。

「伝統染工を勉強しようと。でも結局ぼくの方が、教えることばかりやった」。

昭和33年、住み込み修業を終え家業に就いた。

「もともと飛騨一円は、とんでもねぇ祭りの盛んな国やで。飛騨染の烏毛衣装でも、430社もある神社によって、それぞれ粋を競って柄の意匠もみな違うんやさ」。

雪解け水が春の訪れを告げると、何処からとも無く、闘鶏楽の鉦の音が鳴り響き、農作業も終え冬支度に追われる晩秋まで続く。

「鳴り物だけでも、小さい神社で20人、大きい神社やと100人以上になるで、そりゃあ賑やかなもんやさ」。

老いも若きも、極彩色のハレの日の衣装に身を包み、五穀豊穣を祈願する。

「飛騨染の元は、中国の呉の時代に生まれたとか、戦国時代に京都から伝わったとか諸説あるけど、そこから来た()(せん)(まめ)(じる)染めのことやさ」。

まず、大豆を水に1日浸し、擂り潰して豆汁を絞り、それに顔料を混ぜ合わせ、筒引き糊で縁取った中を染め上げる。

1色につき3回ほど上塗りし、3日ほど乾燥させ谷川の天然水に晒し2日ほど乾燥。

さらに雪深い12月~4月の寒晒しで、豆汁の光沢を出し染めの鮮明さを高める。

「染め上げてから2~3年は、洗濯したらいかん。やがて汁が枯れて行って固まると、色の止まり具合もようなって、もう洗っても色落ちせんのやさ」。

一度染めれば、50~60年は日焼けも色落ちもしない。

「ほうやて。きっちり染め上げとるもんで、1回買って貰ったら、次は半世紀も先のことやさ。だで昔は8軒あった染屋も、昭和33年頃からだんだんと減り始め、ハッと気が付いてみたら、もうぼくんとこ1軒やったわ」。

昭和40年、青年団のフォークダンスがきっかけで、よ志子さんと結ばれ、3男を授かった。

「飛騨のもんらは、男女共に10人寄れば10人ともが祭り好きやでな。雪が融けて春になると、鉦の音のカンカコカンが、そりゃあ待遠しいもんやさ」。

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「天職一芸~あの日のPoem 423」

今日の「天職人」は、愛知県豊橋市駅前大通の「立呑み酒屋女将」。(平成23年6月25日毎日新聞掲載)

朝陽眩い夜勤開け せめて非番の(つき)(ずえ)は             ちょいと寄り道立呑み屋 人目忍んで縄暖簾           煮物摘んでコップ酒 赤ら顔した馴染み客            小皿叩いちゃ与太話 お国訛りの里自慢

愛知県豊橋市の駅前大通。昭和23(1948)年創業の「立呑みあさひ」。二代目女将の斉藤久代さんを訪ねた。

豊橋市駅前大通では、オフィス街からサラリーマンやOLが吐き出され、ランチへと足早に行き交う。

その一角、昭和の風情を遺す、旭屋(あさひや)酒店と隣り合わせる「立呑みあさひ」。

まだ昼前だと言うのに、馴染み客が一人二人と暖簾を潜る。

「私が嫁に来た昭和も半ばの頃は、朝7時になるとシャッター開けとったじゃんね。もう8時前には、夜勤明けのタクシーの運転手さんやら国鉄さん、それにお巡りさんらで、よう賑わっただ。まあ今は午前11時からだけど」。

「昭和2年に義父が酒屋を始めて。まだそんな頃は、どこの酒屋でも一杯売りの立呑みもしとったらあ。それこそ味噌舐めて摘みにして。それで戦争が終わってから、義母が酒屋の片隅を仕切って、ちょっとした手料理を肴にこの立呑みを始めただ」。

久代さんは昭和13年、田原市で5人兄妹の次女として誕生。

高校を出ると洋裁学校へ。

昭和35年、見合いで(かず)(なり)さんの元へと嫁入り。

馴れ初めはと問うと「どやったろう?主人に言わせりゃ『俺が貰ってやっただ』だし、こっちは『わしが来てやっただ』らあ」。

やがて一男二女を授かった。

明治気質の舅姑と子どもらの世話、そして夫の家業を手伝いながら、立呑み屋の切り盛りに明け暮れる毎日。

「元々人が好きだったもんで、全然苦にならんじゃった。話し上手の常連さんらに、ついつい乗せられちゃうだあ」。

天性の聞き上手に、更に磨きがかかった。

「おばちゃ~ん。白半に(ちち)一、それと天ぷらね」。

40代ほどだろうか?

二人連れの女性客が、慣れた調子で注文を通した。

「白半、乳一か?白はレモンサワーのこと。半は焼酎100mlで、一が200ml。乳は牛乳割りのことじゃんね」。

店内の造りは、昭和23年の開業当時そのまま。

「この辺りは空襲で丸焼けだったじゃん。だもんで義母の在所の鳳来町から、材木運んで建てただに」。

半世紀以上の人いきれと、紫煙が滲み込んだ、赤茶けたカウンターと、ボックスの止まり木。

もちろん椅子など一脚も見当たらぬ。

およそ20人ほどが屯ろう、大人の秘密基地さながらだ。

「昔からのお馴染みさんも、今は年金生活者。『夕方の忙しい時に来ると、年金払っとる人に悪いで』って、最近は昼間のうちに来てくれるじゃんね」。

昔は女性が尻込みした立呑み。

ところが今では逆に、20代の若い女性が、オヤジ文化を愉しむと言う。

下は20代から、85歳の隠居まで。

老若男女が愛し続ける立呑みあさひ。

立呑みには酒呑みの、哲学と矜持もある。

「縁あって止まり木に隣り合わせたら、愉しく酒酌み交わさんとかん。無粋な肩書きひけらかすなんて、以ての外だらあ。看板も肩書きも、重たい鎧なんか外して、さあ心を裸にして一杯やってきん」。

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「天職一芸~あの日のPoem 422」

今日の「天職人」は、三重県松阪市大黒田町の「ニット編み職人」。(平成23年6月18日毎日新聞掲載)

古びたセーター糸解き 腕でかせくりお手伝い          母は毛糸を玉にして 魔法の編み機をシャーシャーと       どんな仕掛けかわからんが 母はハンドル右左          するとたちまち摩訶不思議 メリヤス編みが顔を出す

三重県松阪市大黒田町、昭和40(1965)年創業の山本ニット。創業者の山本佐子さこさんを訪ねた。

「タバコの火で穴の開いた、お父ちゃんのあのみすぼらしいセーターも、ほれっ、あんたのトックリに早代わりや」。

昭和も半ばの頃。

母は月賦で手に入れた、念願の編み機でセーターやマフラー、それに腹巻までも編み上げたものだ。

父と自分の、昔のセーターを解いては継ぎ足し。

「私らかてそうでしたんさ。物の無い時代でしたやろ。姉のお古で作り直したり。でも物の無いのが幸いして、自分でなとかするしかないで、逆にお洒落心の灯も点いたんやさ」。妃佐子さんは華やかな花柄のニットが、とてもお似合いだ。

「思い切って華やかなもんを身に着けると、気持ちまで明るうなりますやろ」。

妃佐子さんは昭和7(1932)年、大阪の高畑家で6人兄妹の次女として誕生。

戦時中、父の実家があった松阪市飯南町に疎開。

終戦後一旦大阪へと戻ったものの、昭和21年に家族で飯南町へと移り住んだ。

翌年中学を出ると、材木屋で事務員として勤務。

そこで巡り会ったのが、終世連れ添う山本修吾さんだった。

「主人の兄がその材木屋をしてましたんさ」。

昭和24年材木屋を辞し、大阪の服飾専門学校へ。

「ちょうど両親も大阪へ戻ってましたし、服飾の勉強がしとて」。

やがて修吾さんとの遠距離恋愛が実り昭和29年に結婚。一男一女を授かった。

昭和40年、子育ての忙しさからやっと手が放れた頃だった。

「主人は材木の本業以外にも、とにかく商売が好きで。大阪の親類がベビー用のニット製造をしとったもんで、今度はそれやって。私が親類からなろ(習っ)て、近所の人らにパートしてもうて」。

妃佐子さんの山本ニットが産声を上げた。

「最初の頃は手横機(ニット編み機)が5~6台で、立ったまま作業してました」。

しかしベビー服では、加工賃が少なく成り立たず、やがて婦人物へ。

「徐々に機械化の波が押し寄せて来ましてな」。

昭和45年には半自動、昭和後期には全自動へ。

「昔は1インチ(約2.5センチ)に3本の3ゲージでしたんさ。ところがどんどん針目の数も細こうなって、今しは14~18ゲージですんさ」。

ゲージが細かくなるほど、技術力も要求される。

「熟れて来ると、自然と指先が覚えますんさ」。

ニット編みは、デザインに応じパターンを引く作業から始まる。

次に型紙を起こし、身ごろなら身ごろだけ7着分ほど積み、型紙を当て裁断機で裁つ。

それをミシン掛けし、首周りや袖周りをリンキング(専用ミシンで縫う)。

最後にネームタグを付け、プレスすれば完成。

「ニットは夏暑いと思われがちやけど、化繊のブラウスなんかより風も通すで涼しいもんやさ」。

周りから『素敵ね』と言われる度、人は誰でも簡単に若返る。

妃佐子さんはそう言って笑った。

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「天職一芸~あの日のPoem 421」

今日の「天職人」は、岐阜県美濃市蕨生の「らく水紙すいし手漉き職人」。(平成23年6月11日毎日新聞掲載)

美濃の手漉きの落水紙 水が描いた透かし柄          亀甲(きっこう)綸子(りんず)石目柄 茜の空を翳し見る              蕨生(わらび)の郷の夕暮れは 権現山を下り来る             板取川に紅を引き 裸電球軒に咲く

岐阜県美濃市蕨生で、昭和11(1936)年創業の大光工房。美濃和紙の中でも、落水紙の手漉きをただ一人手掛ける、二代目の市原達雄さんを訪ねた。

写真は参考

大釜から湯気が立ち上り、辺り一面に(こうぞ)を煮る匂いが立ち込める。

美濃和紙の里、山間の蕨生(わらび)の集落に、1300年も連綿と受け継がれる営みだ。

「そこの裏山からそこらあまで、よう猿が出てくるんやて。たんまに餌やるもんやで。朝から晩まで一人っきりで紙漉いとるやろ。ほんだでちょっと猿を見んと何や寂しいもんやて」。

落水紙とは、一度舟で漉いた()の上から、鉄線で描いた柄出しの型で覆い、その上からシャワーの要領で水を掛け、地の和紙の原料を洗い流し、柄を浮かび上がらせたもの。

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達雄さんは昭和8年に6人兄弟の長男として誕生。

尋常高等小学校を出ると、父の下で家業に就いた。

「それからもう63年。だって他に行くとこないんやもん」。

昭和29年、新たな技術が生まれ、美濃和紙の手漉きに転機が訪れた。

「4つ年上の従兄弟が、この落水紙の技術を発明したんやて。『こういうやつやるで、お前らも一緒にせえ』と」。

たちまち13軒の手漉き職人が、落水紙への参入を表明した。

その後時代は、高度経済成長期へ。

和紙で出来たレースのような、清楚で可憐な落水紙は、モダンな照明器具の明かり窓や、障子などに持て囃されていった。

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昭和35年、つづ枝さん(故人)と結ばれ、一男二女を授かった。

「女房は、やーっと年金が貰えるって喜んどったら、いっぺん貰ったきりでパンクやわ。わしより先逝ってまったんやで」。

落水紙の手漉きは、大釜で50キログラムの楮を、4時間かけて煮る作業に始まる。

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「2時間したら上下引っくり返して、フタフタになるまでな」。

そして水槽に原料を移し、井戸水で丸1日かけて灰汁を抜く。

次にカルキを入れ、半日以上かけて白く晒す。

続いて晒し上がれば、薙刀ビーターで攪拌し糊状に。

そして舟に移しクレゾールと、事前に濾過したネベシ(自家製の黄蜀(とろろ)(あおい))の溶液を入れ、馬鍬(まぐわ)(竹の平棒)で掻き混ぜる。

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次に桁に簾を張り舟で漉き、その上から柄が鉄線で描かれた型で覆い、手製シャワーの水の落下点にセットし、余分な原料を洗い落とす。

「そうするとやっと柄が浮かび上がって来るんやて」。

そしてプレス機で水を絞り乾燥機にかければ、気品溢れる美濃の落水紙が完成する。

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「まあ、手間ばっかやて。せいぜいどんなに頑張っても、一日に250~300枚がやっとやわ。でも機械の大量生産では、絶対真似の出来ん、手漉きならではの風合いが、何とも言えんやさしい感じやろ」。

達雄さんは、乾燥を終えたばかりの完成品を広げ、感慨深げにつぶやいた。

「何と言っても、落水紙は水が命。水が飛び散りながら、見事な柄を描き出すんやで」。

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「天職一芸~あの日のPoem 420」

今日の「天職人」は、愛知県田原市の福江地区の「じょじょ切り職人」。(平成23年6月4日毎日新聞掲載)

田原伊良湖のじょじょ切りは 白玉じゃなく餅じゃない      甘くササゲを炊き上げて 練ったうどんで餅代わり        ぜんざいでなく汁粉じゃない 郷に伝わるじょじょ切りが     妙に恋しい都会(まち)暮らし 母の手付きを真似て煮る

愛知県田原市の福江地区に伝わる伝統食「じょじょ切り」。それを保存し、地域に伝え残そうと活動する中川美代子さんを訪ねた。

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「豊川用水が引かれるまで、この辺りは水田が少なく、米がとれんかったじゃんね。だもんで作物って言ったら、サツマイモに麦ばっかり。子どもの頃、入梅前に枇杷の実が赤らむと、麦も刈り入れになるらあ。麦を積んだリヤカーの上に登って、思いっきり背伸びして、枇杷を摘んでよう食ただあ」。美代子さんが、懐かしそうに笑った。

じょじょ切りとは、小麦粉をうどん状に練り、小指ほどの大きさに切ったものを、ぜんざいの餅や白玉に代えた、この地の代用食。

水団の団子に代え、これを浮かべた物は、じょきじょき刻みと呼ばれる。

平たく延ばしたうどんの生地を、ジョキジョキと切るからとも、泥鰌のような姿からとも、その名の由来には諸説ある。

「とにかく米が沢山とれんで、小麦を代用食にしとっただで。昔は収穫した小麦を組合に預け、その都度帳面持ってって、必要な分だけうどん玉や粉にして貰って来ただ」。

美代子さんは昭和13(1938)年、農業を営む山木家で、8人兄妹の次女として誕生。

高校を出ると愛知県農業共済組合で、事務職に就いた。

「当時共済組合は、農協の敷地の中に間借りしとっただ」。

その農協に勤める、2歳年上の職員との間で縁談話が持ち上がった。

昭和36年、中川(かず)(ひと)さんと結ばれ一男二女が誕生。

「この辺りの福江地区の小中山集落じゃ、まだ私が嫁入りした頃まで『嫁呼び』の風習が残っとったじゃんね。嫁呼びとは、『嫁を貰いました』って、親戚や集落の人らに披露する宴で、『じょじょ切り』が振舞われただあ」。

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兼業農家で、家事に子育て、舅姑の世話から畑仕事に追われた。

昭和58年.愛知県農業普及協会が「伝えたい のこしたい あいちの味」を募集した。

「それに遠縁の粕谷アサ子さんが『じょじょ切り』を投稿しただ。そしたら名前の珍らしさもあって、掲載されることになったじゃんね。それで粕谷さんのレシピを私が再現することになっただ」。

昭和59年、一旦はその姿も消え入ろうとしていた郷土食「じょじょ切り」が、美代子さんの手によって復活を遂げた。

素朴な味わいの「じょじょ切り」作りは、小豆をそのまま鍋に入れ、二度湯でこぼし、灰汁(あく)を抜き柔らかく煮上げることに始まる。

「昔は小豆が貴重だったで、ササゲ豆で代用したじゃん」。

そして砂糖と塩で味付け。次に塩を振らずに小麦を練り、耳(たぶ)ほどの硬さにして、打ち粉をせずに延ばし、5センチほどの長さにジョキジョキと切る。

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そして麺を茹で、煮上げた小豆を入れて、再び砂糖と塩で味を調えれば完成。

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「麺の茹で汁を捨てちゃいかんだ。小麦の旨味が出とるだで」。

美代子さんのじょじょ切りに、在りし日の母の味が蘇えった。

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「天職一芸~あの日のPoem 419」

今日の「天職人」は、津市栄町の「底付師(そこづけし)」。(平成23年5月28日毎日新聞掲載)

正月前の店先は 紳士淑女の行列で               足の踏み場も無い騒ぎ 父は革靴底付師             仕立てスーツの紳士でも 「まずは足型とりまひょか」      爪先の出た靴下に 照れ臭そうな苦笑い

津市栄町で昭和29(1954)年創業のミツバト靴店。二代目底付師の小林薫さんを訪ねた。

「昔は盆暮れの前んなると、勤め人らで店ん中がごった返して。給料の2倍もするオーダー靴の時代やったで、皆6回払いの月賦でしたな。今しみたいに、七面倒くさいローンの申込用紙なんて、そんなもんあらせん。ただ名前と勤め先だけ聞いてそんでよし。それでも皆きちんと、毎月欠かさず代金持って来てくれよった。今思うとええ時代やったわ」。

店の一番奥まった小さな作業場。

58年間座り続ける椅子から、薫さんが表通りを眺めやり懐かしげにつぶやいた。

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薫さんは昭和14年、4人兄弟の長男として誕生。

中学卒業の年、父が独立しミツバト靴店を開業。

「ミツバトとは舶来革の名称やさ。こんな風に、革の裏面に3羽の鳩のマークが付いとるやろ」。

卒業と同時に、父に付いて底付師の修業を始めた。

「子どもの頃から、父の仕事を見とって興味があったでな」。

靴職人は、靴底に甲革を取り付けて仕上げる底付師と、甲革をミシン掛けする甲革師とに別れる。

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「甲革師になった一つ下の弟が生きとった頃は、二人してよおけ拵えたもんやさ」。

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しかし昭和40年代も半ばに差し掛かり、大量生産大量消費の時代が訪れると、徐々にオーダー靴の注文も減少。

「昔の靴は革がええで、量産品と比べたらその分重たいんや。それに量産で革靴も安なったで、何十年と修理して履くもんらも少のうなったでな」。

オーダー靴の作業は、足の採寸に始まる。

(かかと)(くるぶし)までの高さも、人によって違うで、踝に革が当らんようにな」。

紙型を作り、革を裁断し甲革師がミシン掛け。

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次に木型にノセコと呼ぶ革を被せ、甲の厚さを調整しながら型出し。

その上から甲革を被せ、(わに)と呼ぶ(わに)(ぐち)をした工具で引き伸ばし、吊り込み釘で仮止め。

次に靴の先端部に先芯(さきしん)、踵にツキカタ(芯)を磐石(ばんじゃく)(のり)で糊付け。

そして()げさと呼ぶ革紐の輪の一端を踵で押さえ、反対の一端で膝の上に中底、甲革、細革を固定。

松脂を塗り(ろう)を引いた麻糸の両端に、緩やかに曲がった大くけ針を2本取り付け、中底、甲革、細革に(すく)い針で穴を開け、交互に締め上げ縫い絞る。

「麻糸に松脂を塗るで、ナイロンなんかとちごて革と摩擦して、ギシル(抜ける)ことも無い」。

そして本底と細革を出し針で縫い上げ、踵を縫い付ける。

「後は1週間から10日、糊が乾けば完成やさ」。

最盛期は、2日で3足を仕上げたと言う。

昭和37年に秋田美人のユキさんと結ばれ、男子を授かった。

「息子が小学校へ入る時、革靴作って履かしたったけど…。本革が重いゆうてな、それっきりや」。

靴を見れば何時作ったか、何度修理したかもすべてお見通し。

「後は、仕事しながら死ぬだけや」。

熟達の底板師が、あっけらかんと笑い飛ばした。

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