「天職一芸~あの日のPoem 438」

今日の「天職人」は、愛知県豊橋市の「帆前掛け機屋」。(平成23年10月15日毎日新聞掲載)

東海道の吉田宿 宿場外れの機屋(はたや)では              シャカシャカ音を立てながら 今も働く(りき)織機(しょっき)          爺が生まれたその頃にゃ 織屋で一の働き手           爺は今でも始業前 「頼みますよ」と声かける

愛知県豊橋市で戦後創業の、帆前掛けの生地と紐を専門とする、榊原細巾織物。二代目主の榊原弘志さんを訪ねた。

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機屋(はたや)の中は、薄っすら初雪でも降り積もったかのようだ。

既に齢80を越す老(りき)織機(しょっき)が、平成の今も正確な機械音を刻み続ける。

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「私なんかより、どんだけ働きもんか。でも昭和5(1930)年~9年に製造されたこの力織機が、帆前掛けの生地や紐を一番織り易いだ」。

弘志さんは昭和15(1940)年、一人っ子として誕生。

「戦後は、帆前掛けの紐織り専門だったじゃんね。それから10年ほどして、生地を織り出しただ」。

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昭和33年、高校を出ると大阪の繊維会社へ、住み込み修業に。

「そんなもん丁稚奉公だん」。

昭和36年、3年の年季を終え家業に就いた。

「帆前掛けの絶頂期。染屋なんか1枚染めりゃ、女工の日当250円が出るだで、笑いが止まらんかったらあ」。

昭和40年、節子さんを妻に迎え、やがて二男に恵まれた。

帆前掛けの機織りは、縦糸を(おさ)に通し、横糸を()に仕込むことから始まる。

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「縦は十番(とうばん)()の2本縒り。横は十番糸3本縒りの強力撚糸。今の主流は、1インチに縦糸何本と数えるだ。だけど私んとこは、昔のまんまの筬と、シャトルの代わりが杼だわ。縦糸が少ないと、目が粗いし、細糸で織れば密度が濃くなるだ」。

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縦横に糸を仕込めば、後は勤続80年の力織機の出番だ。

動力が入れば、激動の昭和を駆け抜けたままの、力強い機械音を発しながら機を織り始める。

「途中で織機を止めては房を作り、そしたらまた織っての繰り返しじゃんね。この織りながら房を付けるのが、帆前掛け小幅織りの最大の特徴。でもその分、人一倍手間がかかるだ。普通の晒し木綿なんかなら、一人で織機20台も操れるけど、帆前掛けは1枚分ずつ、房をつけなかんだで、1人4台が一杯だらあ」。

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一反で40枚分の帆前掛けとなるが、一枚の生地の天地に6センチの房を拵えねばならない。

「この手間を惜しんだらかん。だもんで帆前掛け専門の機屋は、もう日本でたったの3軒だけじゃんね」。

織りも手間なら、年老いた力織機のお守もこれまた一入。

「昭和初めの織機だで、製造メーカーも部品メーカーももうない。でもこの織機でないと織れんだで、廃業した織屋の織機を引き取り、部品交換用に置いとくかせんとかんらあ」。

昭和も40年代後半になると、帆前掛け需要が激減。

「昔は織子もよおけおったに、今は夫婦二人じゃん。機屋で食べるには、年金生活者か他に仕事でも持っとらなかん」。

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流行り廃りは、まるで潮の満ち干き。

平成に入ると酒蔵銘の入った、昔ながらの豊橋産帆前掛けを、懐かしげに手にする人が増え始めた。

「でも織機が壊れてまったら、もう生地も織れんらあ」。

老職人は、大先輩の力織機に、こっそりつぶやいた。

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「天職一芸~あの日のPoem 437」

今日の「天職人」は、三重県名張市かみ小波田おばたの「火縄職人」。(平成23年10月8日毎日新聞掲載)

八坂神社の賑わいは をけら詣りと除夜の鐘           揺れる灯篭御神(ごしん)()を 火縄に燈し幸あれと            火縄回して家路ゆく ありがたき火を消さぬよに         (くど)白朮(おけら)()移し入れ 雑煮が煮えりゃ初日の出

三重県名張市かみ小波田おばたの火縄職人、岩崎けんいちさんを訪ねた。

平成の世に、今もひっそりと、青竹の火縄を作り続ける老人がいる。

戦国の天下取りは、火縄銃で乱世を平らげた。

江戸の太平には、芝居小屋で、煙草の火点けにも用いられたとか。

「明治になると、今度は海軍の水兵さんらが、弾除けやゆうて火縄で腹を巻いたんやと。昔はここの集落50軒の、半分の家が火縄を作りよった。ところうが作る端から『まっとないか』ちゅうてな。そりゃもう忙してかなんだそや」。筧一さんが、薄く削いだ竹を()いながら笑った。

筧一さんは昭和3(1928)年、6人兄弟の長男として誕生。

「江戸時代の初め、大池が決壊してもうて、田んぼはみな壊滅やさ。それを見かねた藤堂藩が、川沿いに竹を植えよゆうたんが、火縄作りの始まりや」。

今でも上小波田の火縄は、水をかけねば強風にも消えぬ火縄として重宝される。

各地の祭りで披露される、火縄銃の実演用として。

また、京都八坂神社大晦日の風物詩「をけら詣り」。

灯篭から火縄に移した「白朮(おけら)()」を、ぐるぐる回しながら家へと持ち帰り、元日の雑煮を炊く種火として使われている。

昭和17年、尋常高等小学校を出ると、わずか14歳にして横浜の魚雷製作所で、時限発火装置作りに明け暮れた。

「ところが翌年の空襲で、工場が丸焼けにされてもうてな。しょうないで防衛隊に入ったんさ。えっ?防衛隊ゆうたら、兵隊の卵やがな」。

昭和20年の春には帰省し、農作業に従事。

昭和28年、近在から恵美子さんを妻に迎え、一男一女を授かった。

「火縄をなろたんは、27歳ころやったろか。ある程度は、爺さんや親父から、子どもの頃に手伝いさせられ知っとったし。でも後の難しいとこは、見て覚えやんとできやん」。

一端の火縄職人までに10年を要した。

火縄作りは、12月から春の彼岸まで。

「ぬくなると竹に水が回って、縄にならんし黒うなる」。

まず真竹の切り出し。

「竹は陰へと入れとくんやさ。陽に当てると、かと(硬く)なるで」。

それを節から節で切り落とし、専用の鉈で縦に幅2センチほどに削ぎ落とす。

「それをのう(綯う)たら縒り掛けやさ」。

竹筒の片側から火縄を通し、先端を竹の棒に突き刺し、直径1センチほどに縒る。

「それをメンザメ(雌サメ)の皮で、縄の表面を磨いて髭をとったるんや。でもオン(雄)はあかん。肌があろてかなん(荒く適わん)で」。

すると長さ約3・3メートルの真っ白な火縄が誕生する。

「雨に当らん限り、火がついたら消えやん。せやで戦国の鉄砲隊は、雨降ると弾撃てやんで休戦やったそうや」。

上小波田の火縄作りも、今やたったの2軒だけだ。

「もう日本でここだけ。でも2軒とも跡取りがおらんで、直に火縄の火も消えてのうなってくわ」。

筧一さんは寂しげに作業場を見渡した。

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「天職一芸~あの日のPoem 436」

今日の「天職人」は、岐阜県土岐市鶴里町の「自然薯料理屋」。(平成23年10月1日毎日新聞掲載)

釣瓶落としの秋の夜も 日毎早まり冬支度            一霜降りる頃合で 爺に引かれて沢へ入る            蔓と葉の色見定めて 爺が(とう)(ぐわ)土をかきゃ            やがて顔出す髭面の 大地の珍味自然薯が

岐阜県土岐市鶴里町の自然薯料理みくに茶屋、女将の河合昌子さんを訪ねた。

山間の茶屋。

品書きに「自然薯刺身」とある。

あれこれと想像力を巡らせては見るものの、さっぱり見当が付かぬ。

ならばいっそと所望した。

すると刺身皿に磯辺巻きのような代物が、香の物と共に盛り付けられて登場。

「海苔で巻いてあるのが自然薯。作り方は、綺麗に洗って細かな根を焼き落とす。そして卸してから当り鉢に入れ、山椒の擂粉木で同じ方向に1時間擂る。すると空気を取り込んで、旨味が引き出される。機械で擂ると、薯の繊維がブツブツに切れてしまうでね」。

ワサビ醤油にちょっと浸していただいた。

餅の様な弾力と、ほのかな土の香りに包まれる。

「どうやね?長芋と違い真っ白じゃないやろ。ここらの自然薯は、鉄分豊富な赤土で育っとるで、卸したはなから土色なんやて」。主の辰巳さんが、自慢げに一くさり。

辰巳さんは昭和18(1943)年、陶土採掘を営む家の長男として誕生。

「父も自然薯掘りが好きやった。秋になって薯の蔓が上り、葉が黄色く色付くと、そろそろやってなもんでな。子ども用の唐鍬作ってもらい、一緒に沢を下りながら薯掘ったもんや。そこらの芒や萱に包んで、蔓で束ねて持ち帰るんやて。ちょうど10月末から11月の初め頃、一霜下りる頃が一番の旬やでな」。

高校を出ると、建設会社に就職。

「土木が専門やったで、全国各地でトンネル掘りやわ」。

昭和41年、名古屋出身の昌子さんと結ばれ、3男1女を授かった。

「結婚した頃、新潟におりまして。頸城(くびき)トンネルの工事を担当しとったんやて。でもあっちの人らは、薯掘る習慣が無いようでな。私が鎌一丁でよおけ掘って持ち帰ったら、家内が薯の皮を皆剥いてしまって」。

辰巳さんが笑い飛ばすと、「あんたと違って、都会育ちやで」と、妻がすかさず切り返した。

昭和49年、体調を崩し、それを機に転職。

家族と共に実家へ引き揚げ、陶器販売の会社へ勤務した。

昭和56年、街道沿いの実家の庭先に、仲間と掘ったばかりの自然薯を並べた。

「ゴルフ帰りの客が、土産にちょうどええって」。

毎年秋に自然薯が並ぶのを、心待ちにする遠来の客も増えた。

平成3年、昌子さんがみくに茶屋を開業。

「私はその3年後に、家内からスカウトされたんやて」。

夫婦の第二の人生が始まった。

「ここらじゃ自然薯を、正月の2日に食べる風習があったんやて。出世薯だってゆうてな」。

秋に蔓から種のムカゴが落ち、春に芽を吹き秋から冬は土篭もり。

次の春、子は親薯の養分を肥やしに、倍の大きさへと成長する。

「薯を掘るとわかるわ。皮だけになった親薯が、まるでわが子の成長を見守るかのように、ひっそり寄り添って、そっと務めを終えとるんやで。いじらしいもんや」。

薯を片手の昌子さんが、愛おし気につぶやいた。

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「天職一芸~あの日のPoem 435」

今日の「天職人」は、愛知県豊橋市呉服町の「打ち物師」。(平成23年9月24日毎日新聞掲載)

稲荷詣でのお供物(くもつ)は 打ち物干菓子和三盆            茶請けの下がり何やろか キツネの干菓子当るかな        (ひん)が良過ぎて一口に 放り込むのも無作法と           耳から齧りゃ砕け散り 晴れ着も帯びも粉塗れ

愛知県豊橋市呉服町で、享保年間創業の和菓子所「きぬ」。9代目打ち物師の杉浦敏二さんを訪ねた。

今は幻の三河名産「玉あ()()」。

とは言え、塩気のきいた餅のあられとは違う。

八代将軍吉宗の時代に生まれた、和三盆を固めた1センチ角、紅白二種の砂糖菓子である。

本紅使用の真っ赤な玉あ羅礼は、歌舞伎で血糊に用いられたとも。

「まあ、奢汰品(しゃたひん)の一つでしたでしょうな」。敏二さんが、白衣姿で迎えた。

「でも明治になって洋糖が出回ると、玉あ羅礼もいつしかそのお役目を終えました。今はもっぱら、代々続く豊川稲荷さんの、オキツネ様を象った和三盆の打ち物などや、羊羹が専門です」。

敏二さんは、昭和23(1948)年、3人兄妹の2男として誕生。

「元々が呉服屋でして。後に両替商も兼ね、吉田藩から御菓子箪笥の御用を賜り、砂糖黍からの製糖を命ぜられたとか。その瓶の上澄みを固めた打ち物が、玉あ羅礼で、藩にお納めしとったそうです。瓶の下層に溜まった糖蜜は下げ渡され、それで羊羹にしたとか。玉あ羅礼は、京の都のお公家さんにも献上され、鷹司家より御菓子司の允許(いんきょ)を賜ったそうです」。

敏二さんの誕生後、東京四ッ谷に叔母夫婦が出店(でみせ)を持った。

「叔母夫婦に東京へ連れて行かれ『ここがお前の家やぞ』と、私に継がそうと」。

しかし大学を出ると、本家の跡取りである兄が別の道へ。

そのため已む無く本家入り。

跡継ぎの目鼻も立ち安堵したのか、翌年父が急逝。

「父が他界してから5~6年は、とにかく無我夢中でした」。

昭和53年、東京のスポーツ用品メーカーで営業職に就いた。

「自分の営業力が欠けていたので、流通を学びたいと」。

ところが2年後には会社が倒産。

おまけに残務処理に当る破目に。

しかしそこには、新たな運命が待ち受けていた。

「手続きに出かけた公証人役場に、妻が勤めとって」。

昭和56年、実子(じつこ)さんと結ばれ、一男二女が誕生。

昭和58年、再び家業に舞い戻った。

絹与名代の羊羹は、小豆と白大福を炊き込む作業に始まる。

「親父の遺言は『餡を自分で作れんようになったら、暖簾を降ろせ』でしたで」。

4つの釜で一俵の豆を炊き、皮と実を解き水に晒し餡作り。

長野県茅野産の角寒天を煮て、砂糖を加えて漉す。

次に生餡を加え、仕上げに蜂蜜を落とし、舟に流して切り分ける。

「寒天の性質上、どうしても舟の上っ面と四隅に角が立つもんで、五辺の耳を約1センチほど、惜しげも無く切り落すだ」。

だからこそ、この上なく上品な舌触りが保たれるのだ。

「日によって、温度や湿気、それに湯気の立ち方一つにしても違ってくるだ。ましてや女房と喧嘩でもしようもんなら、てき面らあ」。

本物に、派手さや虚仮(こけ)(おど)しは通用しない。

伝統を守り抜く郷土が認めた銘菓には、土地の文化性までもが、しっとりと上品に練り込まれ、何とも味わい深いだ。

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「今年も発芽しましたぁ!あの天突き南蛮のお子たちがぁ」

去年は小さいながらも真っ赤な天突き南蛮の実が収穫でき、お正月の飾りにした後は、料理に華を添えてもらったものです。

こんなにも唐辛子って香りがよくって、辛さも一際際立って、実に手前味噌ながら美味しかったものです。

ちなみに去年は、流石に小さすぎるフラワーポットでは賄いきれず、株分けをして育てたものでした。

これが去年収穫できた、わが家の天突き南蛮です。

散々ッパら料理に使って、あと残りは枝の先端に残った小さな小さな赤い実が、ついに2個だけになった時、ハタと気が付いたのです。

しまったぁ!

今年また植えるために、種を取っておくべきだったと!

それで慌てて、小さな先端の実をほぐして、今年はもう無理かなと思いながら、ポットに種を蒔いてみたのです。

そうしたらご覧の通り、芽吹いてくれたのです。

何だか嬉しいものですねぇ。

今年は沢山収穫出来たら、早めに種を取り込んで、ご希望の皆様にお裾分けでもしますかぁ!

「頑張れ!わが家の天突き南蛮!」

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「天職一芸~あの日のPoem 434」

今日の「天職人」は、三重県桑名市の「鉱泉職人」。(平成23年9月17日毎日新聞掲載)

風呂屋通いの愉しみは 痺れるような電気風呂          父の真似して浪花節 唸り声まで震え出す            湯気の向うの女湯で 「もう出るよ」っと母の声         腰に手を当て一気飲み ちょいと値の張るスマックを

三重県桑名市で大正2(1913)年創業の鈴木鉱泉。三代目主の鈴木武さんを訪ねた。

昭和40年代のなかば。

銭湯の番台横には、前面ガラスの引き戸になった冷蔵庫が、デーンと居座っていた。

子どもたちは風呂を上ると真っ裸のまま駆け寄り、物欲しそうな顔で清涼飲料水の瓶を眺めたものだ。

中でもメロン色の瓶入りクリームソーダ、スマックが王様だった。

「そんなんゆうてもらうと、嬉しいな。まあ、一本どうぞ」。武さんが懐かしげに笑った。

武さんは同市の辻家で3男坊として昭和9(1934)年に誕生。

大学を出ると名古屋の会社に就職。

昭和36年、遠縁の紹介で鈴木家の一人娘、公子さんと結ばれ婿入り。

やがて二男一女を授かった。

「あの頃はここらにも、ラムネ屋が43軒もありましたんやに。木箱に籾殻敷いて、ラムネやジュースを詰め、三輪車で多度までジャリ道をゆくんやで。途中でポンポン割れてもうてな」。

翌年、アメリカから上陸したコカコーラのCMが、お茶の間を席捲。

「こっちはラムネにニッキ水やらミルクコーヒーの時代。相手はバンバン『スカッとさわやか』って宣伝して、イメージで売ってくんやで。ラムネ屋なんか竹槍持って、B-29に挑みかかるみたいなもんやさ」。

日に日に疲弊する一方の、中小零細の鉱泉メーカー。

それを見かねた名古屋の取引先である香料会社から、あるアイデアが持ち掛けられた。

「『喫茶店のメロン色したクリームソーダを、どこででも飲めるようにしたらどないやろ』と。それで名古屋の2社と、私とこの3社が寄り集まって共同戦線や。うちとこは製造技術を担当し、脱脂練乳が固まらんように酸とのバランスを工夫して」。

ついに昭和43年、スマックが発売された。

スマックは、硬度40以下の軟水に、脱脂練乳、上白糖、クエン酸、リンゴ果汁、生ぶどう酒(ノンアルコール)、蜂蜜を混ぜ合わせ、炭酸水を入れれば出来上がり。

「生ぶどう酒は、ミルクを丸く包んでくれるし、何よりコク付けのためやさ」。

「発売前は3人で、毎晩真夜中まで商品名を考えたもんや」。

SmackのSmはスキムミルクのSとm。

aはアシッド(酸)。

Cはカーボネート(炭酸塩)。

Kはキープ。

その頭文字を取り命名。

「ラムネ屋初の、セスナで空中飛行宣伝までして。配達するトラックは、コカコーラのお下がりをスマックと書き換えて」。

80年代後半のピーク時には、全国45府県で販売された。

「人と人の縁が紡いだ、3人の3本の矢は折れやん。でも東京はあかなんだ。名古屋生まれのスマックなんかと見下され」。

やがてスーパーの乱立や、自動販売機の普及に押され、店頭で冷やして売る一本売りは衰退。

「今作っとるのは、うちとことあと一軒だけや」。

武さんは空瓶を覗き込んだ。

溢れんばかりの思い出が、瓶の底に詰め込まれてでもいるかのように。

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「天職一芸~あの日のPoem 433」

今日の「天職人」は、岐阜県中津川市坂下の「薩摩琵琶職人」。(平成23年9月10日毎日新聞掲載)

庭の松虫チンチロリン 嗄れ声した琵琶法師           栄華盛衰平家節 ベベンと語りゃ月翳る             わが世の春と浮かれても やがて散り往く世の定め        池の畔の彼岸花 月に浮かんで雲隠れ

岐阜県中津川市坂下の工房森の子。薩摩琵琶職人の松井宏一さんを訪ねた。

ベベン ベベベーン

夏を惜しむ蝉の鳴き声に混じり、心を揺さぶる琵琶の音が低く鳴り響く。

「これが()(げん)四柱(しちゅう)の薩摩琵琶や。ベベ~ンと震える弦と()の触り具合で、琵琶の良し悪しが決まるだ」。

宏一さんは昭和19(1944)年、4人兄弟の長男として誕生。

大学を出ると名古屋の自動車販売会社に就職。

昭和42年、同じ職場の事務員だった、芳恵さんと結ばれ3男が誕生。

昭和49年、車販売に見切りをつけ、生保の外交職へと転じた。

しかし3年後、一家で郷里へ引き上げ、叔父の営む木工場へ。

「子どもの頃から、手仕事が好きやったで」。

昭和58年ついに独立開業。

時計の木枠や、子供向けの木の玩具、注文家具などの木工品を手掛けた。

「知り合いの牧師さんに頼まれて、教会の祭壇作ったり。根がスケベだもんで、何でもやった」。

平成3年、新たな出逢いが訪れた。

「『新しい大正琴考えたで、胴体作ってくれ』と。そんなもん楽器屋に頼んだらどうやって言うと、『アイデアを楽器屋に取られたら困るで』だと」。

それから何度か試作を繰り返し、ついに平成6年商品化へ。

「桐材の大正琴を作りたかったで、大量の注文をあてにして、よおけ材料仕入れただ」。

ところがたったの20本ほどで注文は打ち切られた。

「材がようけ残ってまって。大正琴は単音しか出せんで、和音の出せる13弦のミニ琴作るかと」。

逆境を物ともせず、新製品の開発へと試作を続けた。平成12年、ついに長さ78センチ、和音を奏でるミニ琴「セミリオン」を完成。

「名付け親は、教会の祭壇を注文してくれた、牧師さんやわ」。

音の出る木製品の魅力に獲り憑かれていった。

平成18年、人を介して薩摩琵琶の先生から、低価格の練習用薩摩琵琶の依頼が舞い込んだ。

「先生が本物の薩摩琵琶を持って来て、ここで弾いただ。そしたら鳥肌が立って、魂が震えてまって」。

専門書と首っ丈で、半年後に2本の見本を仕上げた。

薩摩琵琶作りは、山桜で胴と腹板を木取ることに始まる。

胴を彫り曲面を削り、渡しと魂柱(こんちゅう)を嵌め込む。

次に腹板をストーブの上で煮立て、湾曲させたまま2ヶ月間乾燥。

続いて胴と貼り合せ、1週間乾燥させる。

そして糸巻きを取り付け、弦の付け根の覆手(ふくじゅ)に、サウンドホールに当る隠月を開け、半月の象嵌を施す。

最後に絹糸を張り、()を取り付ければ完成。

惜しげも無い時間が費やされる。

海老(えび)()に猪の目、(とり)(ぐち)、隠月、半月。琵琶の部位や飾りの名前やけど、どれも自然からお借りした、風情のあるええ名前やて」。

薩摩琵琶に調弦の標準音は無いのだとか。

「語る人の声の高さに合わせるんやで」。

ベベンと響く一撥の音。

耳を澄ませば、(がく)琵琶(びわ)が渡来した奈良の都に佇むようだ。

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「天職一芸~あの日のPoem 432」

今日の「天職人」は、愛知県豊橋市問屋町の「紙箱職人」。(平成23年9月3日毎日新聞掲載)

里の土産の菓子箱に 千代紙貼って得意顔            浜の貝殻並べ入れ 「お宝箱」と愛娘              やがて娘も嫁ぎゆく その日が来たら箱を開け          幼い君を偲ぶだろう 桜色した貝を見て

愛知県豊橋市問屋町で昭和22(1947)年創業の福益工業所。四代目紙箱職人の白井伸幸さんを訪ねた。

昭和半ば。

母は朝から晩まで、わずかな手間賃仕事の内職に明け暮れていた。

紳士服の仕立てから、型抜きされたゴム製品のバリ取りまで。

季節により仕事内容は異なった。

中でもゴム製品は嵩張り、大きな段ボール箱が茶の間を占拠したほどだ。

当時ぼくは、小学校の低学年。

体もすっぽり納まる段ボール箱を、秘密の隠れ家としたものだ。

ある日、箱の中でうっかり爆睡。

夕餉になってもぼくが戻らぬと、両親を慌てふためかせたこともあった。

「そうそう。子どもらは、段ボール遊びの天才じゃんね」。伸幸さんが、懐かしそうにうなづいた。

伸幸さんは昭和35年、2人兄弟の長男として誕生。

高校を出ると家電製品の問屋に就職。

「普通の商いは、小売店の求めに応じて、商品を納めさせてもらうじゃんね。ところがその問屋では、小売店の注文も聞かんと、『おたくの店は、この夏こんだけ売ってもらわんと』と、有無も言わさず押し付けるだ。ぼくの担当した店のご主人は、体に障害があって、前の在庫もよう捌けんのに。そんなことお構いなしで、次の商品押し付けるらあ。だもんで、手形切ってもらうのも辛くって」。

理想と現実の間で、社会人1年生の心は悲鳴を上げた。

「翌昭和55年、ついに挫折。そのまんま家業に就いて、配達やら雑用の毎日」。

箱屋の仕事は、依頼主の製品に傷を付けず、運びやすく梱包するため、どんな形状の箱に収めるべきか、その設計作業から。次に色やデザインを決め図面に。

そしてトムソンで、段ボールに切れ目を入れ加工。

最後に切れ目から部品をバラシ、カスを取り除き組み立てて完成する。

昭和60年、恩師に誘われ、青年バレーボール教室の手伝いに出かけ、一つ年上の恭子(やすこ)さんに一目惚れ。

伸幸さん恋のスパイクが、恭子さんの心を見事に射抜き結ばれた。

やがて一男一女が誕生。

「その頃でしたわ。縁あって授産施設の方と知り合って。話を聞けば、施設の仲間同士誰もが、楽しそうな顔して直向きに作業に取り組んどると。でも、仕事が少なくって困っとるって言うじゃん。だったらうちの仕事を、手伝ってもらうかと」。

トムソンで切れ目を入れた状態の平板な段ボールのまま、授産施設に持ち込み、切れ目からのバラシとカス取り、組み立てまでを依頼した。

「カス取りは機械でも出来るだけど。こっちの都合だけじゃいかん。施設の方たちのやりがいも考えんと」。

しかし好況不況に伴い、車の部品を入れる箱の注文などは、浮き沈みを繰り返す。

「パートの仕事削ってでも、授産施設への仕事量は減らしたらかんって、そりゃあ大変です。でもそれが相身互いの、信頼関係っちゅーことじゃんね」。

人情味溢れる、町の気のいい箱屋が笑った。

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「天職一芸~あの日のPoem 431」

今日の「天職人」は、三重県伊賀市の「アドバルーン職人」。(平成23年8月27日毎日新聞掲載)

先着粗品見比べて 母はチラシと睨めっこ            空に三ヶ所アドバルーン 段取り組んでチャリを漕ぐ       値の張りそうな粗品から 順に三軒店巡り            ぼくまで列に並ばされ 他人の振りで頭数

三重県伊賀市で昭和39(1964)年創業の中部アド。アドバルーン職人の田中博さんを訪ねた。

昭和11(1936)年、2月29日。

世に言う二・二六事件の最後の日である。

反乱兵に向け、一本のアドバルーンが揚がった。

写真は参考

そこには「勅命下る 軍旗に手向かふな」の文字が。

写真は参考

「その歴史に残るアドバルーンを、反乱兵から狙撃されそうになりながらも、必死に揚げたのが、先輩の池田さんですんさ。私はその池田さんから、アドバルーンの揚げ方を教わりましてな」。

博さんは昭和8年、2人兄弟の長男として誕生。

昭和26年、東京の大学へと入学。

「学校の掲示板に、アドバルーン屋のアルバイト募集が、貼り出されてましてな。大正10(1921)年に日本で一番最初のアドバルーンに、縦文字の垂れ幕広告を付けたのが水野勝蔵。その人の銀星アド社で、日給450円のバイトを始めましたんさ」。

学業どころか、バイトに追われる毎日が続いた。

「今のように東京もまだ、高層ビルとかありませんでしたで、手っ取り早い広告ゆうたら、空にぽっかり浮かぶアドバルーンばっかり」。

写真は参考

昭和29年、ついに大学を中退し、そのまま銀星アド社に入社。

「もうその頃は、ほとんど私がアドバルーン作りしてましたでな」。

昭和38年、郷里からヨシ子さんを妻に迎え、やがて2男を授かった。

翌年社を辞し、郷里で中部銀星アド社を設立。

「まあ、暖簾分けみたいなもんですやろ。ここでアドバルーン作っては、銀星の本社に収めたり、名古屋や大阪の業者に業販してましたんさ」。

丸い大きな風船状のアドバルーンも、時代を下るにつれ、様々な意匠をこらすようになった。

「だんだんと暮らしもようなって来て、アドバルーンも他所より目立たせろゆうて。巨大なゴジラやサンタクロース、カルガリー五輪の時なんか、ロッキー山脈まで」。

変形物製作の第一人者として、海外や全国各地からも注文が押し寄せた。

「今とちごて昔は、揚げる場所にも不自由せんかったし。昭和40年代の最盛期には、1日に250ヶ所も揚げたもんですに。それが今では、週末にポツポツッとあるくらいやさ」。

変形物のアドバルーン製作は、まず意匠に合わせて粘土で縮小模型を製作。

その粘土型に薄紙を貼り、それを剥がして拡大し、部分ごとに型を起こす。

そして塩化ビニール製の生地の上に型紙を載せ裁断。

ビニール同士の糊代に溶剤塗り、鏝を当てて溶かすように接着。

大きな龍などは、頭だけで長さ11㍍、直径2㍍、全長120㍍にも及ぶ。

「この複雑な変形物に、何立米のヘリウムが入るか?その面倒くさい算出には、父が編み出した計算式が役にたちますんさ。コンピュータもまだ無い時代に、平面図を三次元に展開して考えたんやで、大したもんですわ」。

二代目を継ぐ次男の穣さんが、傍らの父を頼もしそうに見つめた。

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「天職一芸~あの日のPoem 430」

今日の「天職人」は、岐阜県高山市久々野町の「飛騨桃 果樹園主」。(平成23年8月13日毎日新聞掲載)

ほんのり赤く色付いた 飛騨の桃園夏木立            一家総出で桃を摘みゃ 里に童のはしゃぎ声           裏手の山の湧き水で 熟した桃もヒンヤリと           童が競い頬張れば 久々野の(たに)に風渡る

岐阜県高山市久々野町で昭和40(1965)年から飛騨桃生産を続ける、切手直義果樹園。主の切手直義さんを訪ねた。

久々野桃源郷の朝は、今が一年で一番早く訪れる。

とはいえ本物のお天道様が、ここにだけ煌々と昇っているわけではない。

果樹園の作業場だけが、午前2時だというのに、蛍光灯の光を放つ。

「ちょうどお盆の今からが、飛騨桃の出荷の最盛期やさ」。直義さんは、直径10センチは下らない大粒の飛騨桃に、そっと手を添え箱へと詰め込む。

ほんのりと薄紅に色付いた、気品漂う高貴な桃である。

「傷つけたらしまいやさ。みんな大切な箱入り娘ばっかりやでな」。

直義さんは昭和17年、3人兄弟の長男として誕生。

中学を出ると1年間、同県可児市の修練農場で寮生活へ。

「そうやなあ。寮ゆうても今とは違うで、自分の食う米を背負ってったもんやさ」。

昭和33年に帰郷し、家業の農作業に従事した。

「当時はまだ、水田と蚕ばっかりや」。

昭和40年、直義さんを含む20人の有志で、10㌶の果樹園を共同で開いた。

「終戦後、美濃から開拓団が入植して、梨やリンゴに桃を作り出したんやさ。そしたら名古屋辺りで、桃がえろう評判になって。ここらの昼夜の温度差が甘味を出すでやろ。それと飛騨桃は、他所の産地の桃が市場に出回り終わった後になって、やっと収穫を迎えるんやで、時期外れでかえって喜ばれる」。

1㌶に7~8本の桃の木が植わる。

「だいたい桃の実は、1本の木に700個。それがいっぺんに収穫期を迎えるんやて」。

だからお盆の頃の収穫期には、家族総出で摘み取り、翌朝の出荷に間に合わせるよう、夜中から箱詰めに追われる。

昭和44年、近在から黎子さん(故人)を妻に迎え、やがて一男一女が誕生。

久々野桃源郷の一円には、果樹園がその後も続々と産声を上げた。

飛騨桃の摘み取から出荷までは、1年のうちたったの1~2週間。

残りの350日ほどは、箱入り娘の嫁入り準備に追われる。

まず年明けから春先までは、枝の剪定。

飛騨の山間に遅い春が訪れると、桃の花が咲く前に蕾を間引く(てき)(らい)

4月末から5月初旬の開花を待って受粉。

「みな自然任せやて。ミツバチさんらにお願いしてな」。

そして(てき)()

「だいたい50㌢の枝に花を1~2個残して」。

1個200㌘を超える飛騨桃ゆえ、つっかえ棒をかって枝を支える。

6~7月になると袋掛け。

「満遍なく色を付けるために、地べたに反射シート敷いてな」。

毎朝5時に起き出し、消毒や草刈に精を出す。

そしてお盆の頃から、摘み取りを始め全国各地へ出荷。

「桃の木は20年の寿命としたもんさ。桃栗三年というけど、一番甘い実を付けるのは、女盛りの10年以上のベテランさんや」。

亡き妻と二人、手塩に掛けて育て上げた箱入り娘の飛騨桃。

今年もたわわに実を結ぶ。

―薄紅色の飛騨桃が 妻の笑顔に見える盆―

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