「天職一芸~あの日のPoem 339」

今日の「天職人」は、岐阜県高山市の「飛騨ぶり寿し職人」。(平成21年9月30日毎日新聞掲載)

飛騨の土産を紐解いて 瞼を閉じる老いた父           母と二人で旅をした 古い記憶の巡り旅             小皿に分けたぶり寿しと 猪口の熱燗陰膳に           母のアルバム繰りながら 独り語りの手酌酒

岐阜県高山市の飛騨ぶり寿し総本舗、梗絲(きょうし)食品。二代目の今川雅晴さんを訪ねた。

「初めて子供に食べさせた時『美味しいっ』って。笑ってくれたあの表情が、忘れられんし、裏切れんのやさ。だからどうしても、天然のぶり使って無添加やないと。養殖もんのぶりはな、押し鮨にした後に脂が出るもんやで」。雅晴さんは、傍らに控える長男の貴允(たかみつ)さんを見つめながら笑った。

雅晴さんは昭和29(1954)年、4人兄弟の末子として誕生。

大学を中退すると19歳で一人東京へと向った。

「やっぱりなあ、一度は東京って憧れて。父の知人の紹介で、ファッションモデル事務所の、マネージャーをしとったんさ」。

しかし、昭和48年の第一次オイルショックを引き金に、翌年には消費者物価指数が、23%も上昇するという、狂乱物価の大不況時代へ。

「どこもかしこも不景気で、昭和50年には高山へと引き揚げて来たんやさ」。

兄が婿入りした先のスーパーに入り、旅館や料亭向けの鮮魚卸を担当。

その日も普段通りに注文の鮮魚を揃え、得意先の旅館へと向った。

まさか運命の時が、迫っているとは露知らず。

片や富山出身の妻陽子さんは、叔母が営む旅館にたまたま遊びに来ていた。

そこを雅晴さんが見初め、昭和53年に見事心を射抜き結ばれ、やがて一男二女を授かった。

昭和55年には店長に。

充実した日々が続いた。

昭和62年、父は営み続けた食料品と寿しの卸を、突然辞めると言い出した。

「そんなら寿しの卸を受け継ぐわ」と独立。

「家紋が丸に桔梗やで、そこから梗の字を。松倉城の人柱になった、小糸坂の小糸さんから一字。妻とたった二人で始めるんやで、1本より2本で紙縒(こよ)った方が強いで、糸の字を絲(し)に代えて梗絲やさ」。

毎朝早くから、夫婦で寿し作りに明け暮れた。

だが軌道に乗ると、新たな商品構想が頭をかすめる。

「汐ぶりとカブを朴葉で包み、何か新しいもんが出来んもんやろかと。子供背負って、お稲荷さん握りながら考えとったんやさ。そしたら、ご飯類のお土産が少ないことに気付いて。さっそく試作して子供に食べさせたら、これがまたえらい受けて」。

それがぶり寿し誕生の瞬間だった。

その後、商品化に向け改良が加えられ、平成9年に店頭販売を開始。

ぶり寿しはまず、ぶりの塩抜きに始まる。

半日水に晒し臭みを抜き、2㍉ほどの厚さに切り、酢通しで一晩。

「ぶりの色飛びを防ぐためにな」。

翌日、丸のまま甘酢に漬け込まれた無着色のカブを、1㍉ほどの厚さに横切りし、押し型に敷き詰め、その上に汐ぶり、生姜の千切り、舎利の順で押す寿しに。

塩漬けした朴葉を広げ、揉みしだき香りを立たせ、ぶり寿しを包(くる)めば完成。

飛騨の味覚が競い咲く。

ほんのり甘く、酸っぱいぶり寿し。

雪深い飛騨人の、温かくやさしい味がする。

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「天職一芸~あの日のPoem 338」

今日の「天職人」は、三重県松阪市中町の「呂色(ろいろ)位牌商」。(平成21年9月23日毎日新聞掲載)

野辺一輪の花を摘み 飯事(ままごと)道具掻き回し       君が水汲む欠け湯呑み 野の花活けてご満悦           仏壇前に正座して 「ジイジこの花綺麗やろ」          君は小さな手を合わす 父の漆のお位牌に

三重県松阪市中町で、会津塗の呂色位牌を扱う、明治三十九(一九〇六)年創業の佛英堂。四代目主の野呂英史さんを訪ねた。

何処までも限りなく深い、呂色仕立ての漆黒。

会津塗の位牌を見つめていると、まるで魂までもが吸い込まれる気になる。

職人が指紋をすり減らし、鏡のように磨き上げた光沢。

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漆黒の闇の中に、在りし日の父母の顔が浮かぶ。

もしかしたらこの闇は、あの世へと通ずる心の入り口なのだろうか。

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「塗師の手ごこしい(手の込んだ)、見事な仕事振りですやろ」。

「近江の日野城主、蒲生氏郷は秀吉から伊勢松ヶ島十二万石を与えられ、天正16(1588)年に松坂城(現・松阪城)を築城し、日野から多くの職人を連れて来たんやさ。ところが2年後、今度は陸奥黒川城主として42万石の大領を与えられ、会津へと国替えやさ。それで職人や商人らが、皆連れてかれて。そん中で塗師の技が花開いて、今の会津塗として受け継がれたんやさ」。

英史さんは昭和30(1955)年、2人兄妹の長男として誕生。

大学を出ると京都で、お鈴(りん)などの鳴り物を専門とする仏具の製造元に勤めた。

「まあ修業も兼ねてやけど。お鈴も鈴虫鈴とか、都鈴とかあって、銅や亜鉛、それに錫の配合や形状で、鈴の音もちごてくるんやで」。

それから2年、仏具の営業や運搬に明け暮れ、昭和54年に帰郷し家業に入った。

「まだそんな頃は、ようけ職人がおりましてな。この地特有の初盆棚を、こつこつと作りよった時代でしたんさ。初盆棚とは須弥壇(しゅみだん)を模り、白木の杉や檜で拵えた三段重ねのものなんさ。それでお盆が来ると、窓辺に提灯吊るして『ここに帰って来てや』ゆうて、亡くなった方をお迎えするんですに」。

以来、郷土に根付いた仏事を通し、先祖供養を陰で支え続ける。

昭和58年、絵画教室で出逢った雅子さんと結ばれ、一男一女を授かった。

「絵が好きでしてなあ。私が油絵習いに行っとった教室に、後から妻が来るようんなって」。英史さんは照れ臭げに、店の奥を盗み見ながら笑った。

「お仏壇や仏様ももちろん大事やけど、それ以上にお位牌が一番肝心。ご先祖様の戒名を刻み込んだ、ご先祖様そのものなんやで。せやでこの地とも縁の深い、会津塗りのお位牌をお薦めしとるんやさ。会津塗りの中でも、呂色仕上げが最上級。これはまず、朴の木の下地に胡粉(ごふん)を真っ白に塗り、塗面を炭で磨き、油分を含んでない呂色漆を塗っては磨き、塗っては磨きを何10回と繰り返すんやさ。角粉(つのこ)ゆうてな、鹿の角を焼いた磨き粉と油を付け、職人の指先で磨き上げるんさ。だから呂色仕上げの職人は、指紋が消えてもうてあれへんのやに」。

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英史さんは、先祖の縁(えにし)を誇らしそうに語った。

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今日は彼岸の中日。

だが忙しさにかまけ、父母の墓前に花を手向けることも叶わず仕舞い。

せめて心の中の、父母の位牌に合掌。

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「天職一芸~あの日のPoem 337」

今日の「天職人」は、岐阜県高山市八軒町の「紙絵馬師」。(平成21年9月16日毎日新聞掲載)

飛騨の盆地に蝉時雨 短い夏を競い鳴く             盆も間近の茹だるころ 松倉山へ一詣              観音様の境内にゃ 縁起紙絵馬市が立ち             商売繁盛みな健康 跳ね飛ぶ駒に願立てる

岐阜県高山市八軒町、松倉絵馬総版元の池本屋。六代目紙絵馬師の池本幸司さんを訪ねた。

「ぼくの書いた馬は、先代のに比べたらまんだ生きてない。やっと皆に認められるようになったのは、刷毛で描く鬣(たてがみ)。馬が颯爽と走っとるように、鬣が風に靡(なび)かないかんのです。昔はよう『この馬鬘(かつら)被っとんのか?』って、笑われましたわ」。幸司さんは、そう言うと一息で和紙に筆を走らせた。

池本屋の創業は、文政年間(1818~29)の後期。

高山市の西、松倉山の中腹にある馬頭観音を本尊とする松倉観音堂には、毎年8月9日と10日の両日絵馬市が立つ。

人々は、和紙に描かれた紙絵馬を、家内安全や商売繁盛祈願の縁起物として、我先にと買い求める。

「江戸末期ころは、牛馬を牽いて危険な山道を登り、牛馬の安全や養蚕満足を願い、観音様詣をしとったらしい。だから途中、牛馬ごとよう崖から落ちて。それを初代池本屋長助が見かね、紙絵馬で代参することを思い立ったらしいんやさ」。

幸司さんは昭和46(1971)年、2人姉弟の跡取り息子として誕生。

高校を出て名古屋の専門学校で学び、20歳の年に帰郷。

プロパンガスの配送や、駄菓子製造に携わり平成9年に家業へ。

「しばらくは、社会勉強のつもりやったんやさ」。

父を師と仰ぎ、描いては捨て描いては捨てを繰り返した。

「先代は一枚の素描(すがき)にわずかたったの2分。それでもどの馬見ても、生き生きと走っとるんやさ。だから先代の手先を盗み見て、筆づかいを覚え込んだり、上絵の色づかいを真似てみたり」。

幸司さんの試行錯誤は続いた。

世襲という重き荷物を背負い、いつかは先代を超えるのが宿命と、自らに言い聞かせながら。

池本屋の紙絵馬は、手描きと木版の2種。

道具は4種類の筆に墨汁と刷毛、そして顔料に馬楝(ばれん)。

手描きの場合は、まず素描の上に色付けし、さらに上絵を施す。

木版摺りの場合は、版木に刷毛で墨を塗り、最初に新聞紙の油を吸着させてから、県内産の和紙をあてがい馬楝で摺り上げる。

いずれも最後に、代参でご祈祷を済ませた、馬頭観世音菩薩のご朱印を押印し、それで完了。

年間を通じ2000枚が描かれ、その内の半分に当る1000枚が絵馬市に用いられる。

平成14年、優子さんと結ばれ、翌年跡取り息子が誕生。

だがその代償は、余りにも大きかった。

「息子が産声を上げる10日前に、先代は息を引き取りまして」。

誰よりも孫の誕生を、希(こいねが)ったはずの先代の願いは、無常にも聞き入れられなかった。

「でもこの子の性格が、先代の生き写しみたいに、そっくりなんやさ」。

幸司さんは、まだあどけなさの残る、将来の七代目をこっそり見つめた。

「今でも毎日が修業やもんで、先代に追い付くにはまだまだやわ」。

間もなく飛騨の盆地に、馬肥ゆる秋が訪れる。

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「天職一芸~あの日のPoem 336」

今日の「天職人」は、名古屋市緑区の「紋次郎いか職人」。(平成21年9月9日毎日新聞掲載)

笊を被って三度笠 風呂敷からげ棒の剣             父のつまみの烏賊ゲソを 竹串抜いて斜に咥え          母に買い物言い付かり ドラマを気取り紋次郎           関わりねぇ」と真似てみりゃ  お調子者!」と大目玉

名古屋市緑区の一十珍海堂、二代目の山下秀彦さんを訪ねた。

子どもの頃の手っ取り早い駄賃稼ぎと言えば、ビールの空き瓶を酒屋に持ち込み、小銭を返金してもらうことだった。

確か、大瓶1本で5円ほど。

母からビール瓶を受け取ると、竹製の買い物籠に詰め込み、近くの酒屋を目指したものだ。

すると酒屋のおばちゃんも心得たもので、「ボク、お母さんのお手伝いか?こんな重いもん、よう一人で持って来たなあ」と。

瓶代にラムネ菓子を一つ添え、「ボクこれ、お駄賃やでな」と、おばちゃんはそう言いながら、坊ちゃん刈りの頭を撫で回した。

夕暮れの酒屋の片隅では、すっかり赤ら顔した大人たちがコップ酒を煽り、長い竹串に刺さったイカゲソに噛り付いていた。

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その名も「紋次郎いか」。

昭和47(1972)年に大ヒットしたテレビドラマ「木枯らし紋次郎」の、長楊枝をヒントに、イカゲソの煮付けを串刺しにした、大ヒット商品である。

だから立ち飲みの大人たちも、食べ終えた長楊枝を斜に咥え、「あっしには、関わりのねぇこって」と、名台詞を真似たものだ。

そして勘定の段になるとそう嘯(うそぶ)き、周りの失笑を買った。

一世を風靡した紋次郎いかは、今も当時と変わらぬ1本20円のまま。

ただ時間だけが、いつしか37年もの月日を刻んだ。

「家業に戻って2年目でしたわ。テレビで紋次郎がブームになった頃で。工場にはイカの足だけ余っとるし、そんなら紋次郎にあやかって、長楊枝にゲソ刺して『紋次郎いか』と銘打って、売り出したろまい。きっと当るぞって。直ぐに商標も登録して。でも最初の3ヶ月ぐらいはぜんぜん売れんかってね。やっと4ヶ月目にボツボツ売れ出して。やれやれと思っとるうちに、年間1億本も売れる大ヒットだわ」。秀彦さんは、そう若き日を振り返った。

秀彦さんは昭和21年、4人兄弟の長男として誕生。

大学を出ると、東京築地で塩乾物の中卸問屋に住み込み、2年間の修行生活を送った。

「まだ在学中だった昭和42年だわ。知多でちりめんなんかを専門に扱う、塩乾問屋に勤めていた父が、一念発起で独立してこの店始めたもんで。やがては長男だで、後継がなかんし」。

昭和45年に修業を終え家業へ。

それから2年、「紋次郎いか」のアイデアが閃いた。

「昭和49年には大小20社ほどが、商標の『紋次郎いか』を、勝手に使う人気ぶりだわ」。何とも誇らしげだ。

紋次郎いか作りは、全国各地から真イカのゲソを仕入れ、天日に干すことに始まる。

次に10本の足を3・3・4本に切り分け、15㌢の竹串に軟骨の部分から刺す。

そして醤油・砂糖・味醂・甘味料に七味を加え、一煮立ちさせれば出来上がり。

紋次郎いかをあてに、立ち飲みのコップ酒。

それは、昭和に反映を築いた男たちの、明日へのささやかな贅沢だった。

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「天職一芸~あの日のPoem 335」

今日の「天職人」は、三重県伊賀市上野の「伊賀餅匠」。(平成21年9月2日毎日新聞掲載)

腰の手拭い頬っ被(かむ)り 玩具の刀背に絡げ         王冠潰し手裏剣に いざ行け!少年伊賀忍者           遊び疲れて小腹空きゃ 抜き足差し足忍び足           水屋の中の伊賀餅を ちょいと摘んでドロロンパ

三重県伊賀市上野小玉町のかぎや餅店、十七代目の主、森啓太郎さんを訪ねた。

シャカシャカシャカ。

店の奥から何やら涼しげな音がする。

鋳物製のいかついかき氷機が、綿飴のような純白の氷を、規則正しく削り出していた。

透き通った半貫目の氷柱が動力で回り、取っ手を握った男は、微妙な力加減で、刃に当る氷を巧みに操る。

「このかき氷機も、もう55歳やで、じきに定年やさ」。啓太郎さんは、真っ白なかき氷の上に自家製の餡と白玉を載せ、抹茶のシロップをそっと落とした。

創業は遥か300有余年前とか。

「もともとは団子屋でしてな、伊賀餅は創業当時から伊賀の名物やったんさ」。

啓太郎さんは昭和10(1935)年、一人息子として生を受けた。

だがヨチヨチ歩きを始めたばかりの翌年、両親は流行り病に倒れこの世を去った。

さぞや無念であったろう。

「この町だけで10人のよう亡くなって。わずか1歳のことやったで、両親の顔も2枚きりの写真でしか、見たことも無いんやで。ましてや抱いてもうた記憶なんてなあ」。啓太郎さんの眼(まなこ)が、かすかに潤んだ。

その後、祖母と叔父叔母が暖簾を守り、幼い啓太郎さんの養育にあたった。

だが、日増しに戦火は拡大の一途へ。

ついには、唯一の男手であった叔父さえ招集に取られるはめに。

やがては物資も統制で底を尽き、半ば開店休業状態の日々が続いた。

昭和20年8月、玉音放送に涙しながらも、多くの庶民はそっと胸を撫で下ろしたことだろう。

戦後しばらくし、シベリア抑留から解放され、叔父が無事に復員。

女たちが必死で守り抜いた暖簾が、軒に揺れた。

昭和28年、啓太郎さんは高校を出ると、叔父に付き家業の菓子作りに打ち込んだ。

「将来あんな職業に就きたいとか、こんなことがしたいなんて、思いを巡らせたこともない。とにかくはよ家業継いで、世話かけた皆に少しでも恩返しせんとって、そればっかりやったんさ」。

昭和も30年代に入ると、庶民の暮らし向きも上向いた。

「昭和が終わりを迎えるまでの間は、そりゃあ忙して忙して。暮れに正月の餅搗き終わって、ちょっと休めるだけで、後は年中ほとんど無休。昔からよう皆に言われるんさ。『仕事、趣味とちゃうんか?』と」。

昭和40年、小学校の同級生だった淑恵(としえ)さんと結ばれ、一男一女を授かった。

300年続く庶民の味、伊賀餅作りは、上新粉と餅粉を、熱湯で耳朶ほどの固さにし、20分蒸し5分搗くことに始まる。

そして手で白玉に漉し餡を包み込み、食紅で着色した生米を5~6粒載せ、もう1度5分蒸し上げれば完了。

「もう歳往(としい)ってもてボロ雑巾みたいやけど、お客が待っとってくれるで気張らんと」。

老職人を支え続けた暖簾。

それは、幼い日に引き裂かれた、父母の記憶に繋がる、たった一つの忘れ形見だった。

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「天職一芸~あの日のPoem 334」

今日の「天職人」は、岐阜県高山市久々野町の「小屋名(こやな)しょうけ職人」。(平成21年8月26日毎日新聞掲載)

刈入れ終えりゃ飛騨も秋 氏神様の境内にゃ           秋の実りの供物提げ 氏子が集う村祭              母は炊き出し当番で  んてこ舞いで下準備            ぼくも井戸水汲み上げて 母としょうけで米を研ぐ

岐阜県高山市久々野町小屋名の小屋名しょうけ職人の、森久治さんを訪ねた。

小屋名しょうけとは、小屋名に伝わる竹笊(たけざる)だ。

江戸末期、越前(福井県)へと出稼ぎに出た村人が、その作り方を持ち帰ったのが始まり。

かつては升受(しょううけ)と呼ばれたが、いつしかしょうけと訛り、今に伝わった。

村の先達が工夫を重ね、後の世に伝え遺した、美しく素朴な編み目の手仕事ぶりは、今も確かに息づいている。

農閑期の囲炉裏端、暖を囲み秋の夜長に、家族揃って編み手を動かしたことだろう。

素朴なしょうけを見つめていると、囲炉裏を囲む家族の笑い声が聞こえるようだ。

「90年前には65戸で、3200個も生産されとったんやけど、時代が急激に変わって需要も落ち込み、作り手も減り続ける一方やったんやさ」。

久治さんは、13年前に保存会を発足させ、今もしょうけ作りを守り続けている。

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「ちょっとそこの勇吉んとこまで行きましょうに」。

青々と成長した稲田の畦道を、久治さんの後に続いた。

「ただなあ、暇つぶって(暇つぶしに)材料やわっとる(準備する)んやさ。せやけんどなぁ、昔は売れて売れてしょうなて、冬なんか夜鍋仕事やさ」。長瀬勇吉さんは、蔦漆(つたうるし)の枝を払い落としながらやさしい顔で笑った。

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勇吉さんは昭和11(1936)年、3人兄弟の長男として誕生。

中学を出ると建具師を目指し修業へ。

4年後には修業を終え、自宅で農業の傍ら建具の仕事を始めた。

だがそれからわずか3年後。

「母が死んで、飯炊きがいるぞってことになったんやさ」。

昭和33年、幼馴染の絹枝さん(故人)と結ばれ、二男一女を授かった。

「貧しい時代やったで、結婚式なんてあげられんかった」。

その後昭和40年には、近隣の工務店に勤務し、平成8年に定年を迎えるまで家族を支え抜いた。

「退職した年やったわ。森さんが、しょうけの保存会始めるって言うもんやで。でも不思議と、子どもの頃に教え込まれたしょうけ作りを、この体が覚えとったんやねぇ」。

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勇吉さんは、1つ年上の久治さんを見つめ、互いに無言で頷き合った。

幼い日、虫を追い野山を駆け回った、腕白少年のままの瞳で。

小屋名しょうけは、表皮を剥いだ蔦漆を火で炙り、輪にして針金で止め釘打ちし、日陰干しすることに始まる。

次に、古くなった鎌や鉈で作った、竹挽きの道具で篠竹(すずたけ)を4~5ツ割りにして縦竹を作る。

同様に横竹は篠竹を8~9ツ割に。

そして縦竹4本に横竹1本の割合で、交互に胴の笊編みへ。

横竹は3本毎に縁で折り返して編み込む。

胴の両脇に当る尻は、中胴が窪んで半球になるように形を整え、締め上げながら編み上げる。

そして仕上げに1週間ほど水に浸し、皮を剥いだ4ツ割のマタタビで、縁を矢筈(やはず)の8の字に巻き上げ完成。

丸2日を要する。

「時間と手間ばっかで、いくらにもならん。でもこのままやと、今に絶えてまうで」。

かつての腕白少年は、互いに皺深い顔を見つめながら笑い合った。

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「天職一芸~あの日のPoem 333」

今日の「天職人」は、愛知県碧南市の「ハーモニカ吹き」。(平成21年8月12日毎日新聞掲載)

盆の迎え火焚きながら 縁に腰掛けしみじみと          父が奏でるハーモニカ 一つ覚えの「海行かば」        「戦地に果てた戦友(とも)想う 年に一度のお弔い      そっとしとき」と母が言い 酒と供物の膳を出す

愛知県碧南市のハーモニカ吹き、黒川強さんを訪ねた。

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真夏の昼下がり。

男はおもむろに両手でハーモニカを包み込み、唇を添え左右に揺れながら、哀愁漂う音色を奏でる。

写真はイメージ

喧(かまびす)しい蝉時雨さえ、一瞬鳴き止んだ。

「人には、どんな時でも音楽が必要だでねぇ。生まれた時は子守唄だし、最後は木魚で送ってまうだで」。

強さんは昭和12(1937)年、三重県四日市市で8人兄弟の次男として誕生。

「父の兄弟が、愛知県の高浜市で製陶所を始めて、5歳でこっちへ越して来ただあ」。

中学に上がったある日。

「生活が苦しいもんで、大きな磁石に紐括り付けて、屑鉄拾い集めて歩いとっただ。そしたら先輩がハーモニカと交換してくれって。嬉しかったって。ハーモニカなんて買ってもらえんだで。でも五線譜はよう見らんで、音符の代わりに折れ線グラフみたいに、音の高低を適当に書き記しただ。そんでそれ見ながら吹いとったんだで、ええかげんだあさ」。

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直ぐにハーモニカの虜となった。

中学の学芸会、青年団に盆踊りと、とにかく引っ張り凧。

「フォークダンスで、憧れのマドンナと手つなぎたいのに、いっつも『おいっ、オクラホマミキサー吹け』って」。強さんは未だに悔しそうだ。

中学を出て6年間、家業を手伝いながら就職先を探し続けた。

そして昭和34年、陸上自衛隊に入隊。

東京立川の測量大隊に配属された。

「測量ったって、棒持って立っとるだけだあさ」。

同年9月、伊勢湾台風が上陸。

東海地方は未曾有の被害に晒された。

「そしたら通信大隊に異動になって、災害地図作れって。そん時に航空写真で、故郷高浜の被災状況を知って愕然としただ」。

だが、幸いにも家族は無事であった。

昭和36年、母から一通の手紙が届き、「碧南市に消防署が出来るで戻って来い」と。

同年7月に強さんは、自衛隊を満期除隊し、翌月から碧南消防署に入隊した。

「非番になると自転車で市内を回って、防火水槽や消火栓の位置を確認するだ」。

昭和39年、西尾市出身の小千代さん(故人)と結ばれ、一男二女を授かった。

「子どもらに人気のテレビ漫画の主題歌でも、いっぺん聴けばだいたい吹けよった。だけどこれが、3回とはおんなじようには吹けんだあ」。

今も愛器40本を操り、童謡から艶歌やポップスまでレパートリーは幅広い。

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「老人ホームを慰問すると『またハーモニカ吹きが来やがったか』ってな調子で、最初は無表情だけど、演奏始めるとそのうちに顔が変わって来るだあ。中には涙ぐんだり、手握ってこしたり。そんな時、磁石とハーモニカ取替えっこしてまって、本当に良かったなあって思えるだわ」。

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暇乞いをすると玄関口で「まあ、息が出来るうちは、もう少し吹き続けるわあ」と。

老いたハーモニカ吹きの、味わい深い枯れた音色。

今日も何処かで誰かの、心の琴線を揺らし続ける。

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「天職一芸~あの日のPoem 332」

今日の「天職人」は、三重県伊勢市常磐の「糸屋」。(平成21年8月5日毎日新聞掲載)

「娘時代のセーターは やっぱり派手」と母さんは        ぼくの両腕桛(かせ)くりに 毛糸解いて玉に巻く        母のお手製セーターは 木枯らし吹けど寒かない         袖の毛糸に顔を埋めりゃ 母の匂いに包まれる

三重県伊勢市常磐のモリヤ糸店、二代目主の森孝生さんと妻の幸代さんを訪ねた。

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「この人、仕事仕舞っといて、他所の人がファスナー壊れたゆうて持って来ると、それを一生懸命に直し始めるんさ。それだけならまだ宜しいに。おまけに乳母車まで直しとるんやで」。妻は笑いながら、律儀そうに座り込む夫を見つめた。

「家で何にも買ってくれやんでも、いつかはお客さんになるかも知れやんのやで。困っとる姿見たら、ついつい手が出てもうたんやさ」。夫は大きな身体を縮め、すまなさそうに妻に弁明した。

「家は元々、弥三郎いう祖父が始めた魚屋やったんさ。この爺さんが、義太夫好きのお人好しで。人に頼まれると、みな引き受けて仕入れてもうて。それで売れ残れば、横のドブ川にほかすような毎日。父は子供心に、そんなええ格好しいの爺さんを支える、働き者の婆さんの姿を見るのがつろてな。せやで戦争から復員すると、別の商売をと昭和22(1947)年に始めたんが糸屋やったんさ」。

翌年、孝生さんが誕生。

高校を出ると大阪の糸問屋へ修業に。

住み込みで荷造り、荷運び、仕分けと下働きが続いた。

2年の修業を終え、昭和43年に帰郷。

父と共に家業に専念することに。

「もの凄い勢いのあった時代やって、とにかく大量生産の大量仕入れ。もう2階も3階も、家ん中そこら中毛糸だらけやわさ」。孝生さんが店内を見回した。

昭和40年代前半は、今ほど既製品が簡単に手に入る時代ではなかった。

「だから皆、お父さんやお母さんのセーター解いて、子どもらのセーターに編み替えるんやさ。それで糸が足らんくなると、その分だけ家で買(こ)うてもうてな。せやから袖だけとか、胴の半分だけ色が変わるなんてようある話やさ。それとか、擦り切れたズボンの膝当てや、穴の開いた肘当てにアップリケ付けてもうたり。昔は何でも着潰すまで大事にしたもんやでな」。孝生さんは懐かし気だ。

単に冬を越すだけの毛糸のセーターから、やがて冬を楽しむ手編みの時代へ。

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徐々に豊かさが華開いて行った。

「手編みのマフラーや、ペアルックでセーター編みたいとか。クリスマスのプレゼントや誕生日のお祝いにって。手編みには、編み手の祈りが、目数の分だけ込められるんやで。大切な人への一番の贈り物やさ」。妻は誇らしげに笑った。

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「『10円の赤いボタン2個でよろしいわ。ウサギの目にちょうどええし』って、うちらはそんな商売ですに。でも140㌔遠方からでも、義父の頃からのお客さんも来てくれるんやで。義父が蒔いた種が育って、今も枯れやんと実を結んでくれとるようでな」。

まるで2本の編み棒のような夫婦。

互いに棒の先で糸を繰り、二人で一つの人生を編み上げる。

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「天職一芸~あの日のPoem 331」

今日の「天職人」は、愛知県清洲市の「尾張曲げわっぱ職人」。(平成21年7月29日毎日新聞掲載)

タモを片手に蝉を追い 暑さ凌(しの)ぎに川遊び       真っ黒顔で駆け回り 腹が鳴るまで無我夢中           三時を告げる腹時計 オヤツにアイス期待して          急ぎ帰れば蒸かし芋 蒸籠(せいろ)わっぱに湯気上がる

愛知県清洲市須ヶ口で明治20(1887)年創業の伊勢安商店、三代目尾張曲げわっぱ職人の安藤安孝さんを訪ねた。

長者橋、船杁(ふないり)橋、巡礼橋。

いずれも愛知県清洲市を流れる、五条川にかかる橋の名である。

一昔前には旧美濃路に沿い、白壁の土蔵が軒を連ねた。

「わっぱ屋だけでも、昔は10軒のようあったっでなあ」。安孝さんは、人影もまばらな表通りをぼんやり眺めた。

安孝さんは昭和3(1928)年、4人兄弟の長男として誕生。

商業学校へと進学するものの、戦局悪化の影響を受け昭和19年10月に繰上げ卒業。

そのまま軍事教練を受けさせられたが、翌年8月15日に終戦。

戦争が終わると、人々は悲しみを乗り越え、復興へと歩み始めた。

安孝さんも家業に従事。

職人に付き、7年ほど下積み修業の日々が続いた。

「木刺しでわっぱに穴開けて、吉野桜の桜樺(さくらかば)で縫い合わせる力仕事ばっか。それからやっと、仕上げに底板の釘(竹釘)止めやらせてまえるようになるんだって」。

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樺の裏側を鉈(なた)で削りながら、懐かしそうに笑った。

「底板の代わりに、馬の尻尾の毛で編んだ網を貼り付けりゃ、味噌漉(こ)しや裏漉し器に早や代わりだわさ。昔は馬毛の網を、手機で専門に織るおばさんたあが、よおけおったって。そんでも気い付けんと、馬毛には虫が付くでかんわ」 。

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昭和29年、見合いで聖子さんと結ばれ、二男一女を授かった。

四代目も安泰かと問うと、「そんなもん、わっぱだけじゃ、もう渡世なんて出来せんって。東京オリンピックの頃がピークで、後はじり貧で下るばっかだあさ」。

わっぱ飯の弁当箱に御櫃(おひつ)、蒸し器に篩(ふる)い、そして裏漉し器に柄杓(ひしゃく)などなど。

いずれも昭和の台所に、なくてはならない道具の数々が、安孝さんの太い指先から生み出されていった。

尾張曲げわっぱは、ヒノキの大木から、わっぱの寸法に挽く事から始まる。

次に材を鉋掛けし、熱湯で板を煮、丸型に挟んで曲げ、天日で乾燥させる。

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そして材の両端を絞め木(木製コンパスのような物)で固定し、木刺しで穴を開けて桜樺で縫い上げる。

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最後に用途に応じ、底板や馬毛の網を取り付け、削りを入れて総仕上げへ。

わっぱは、何と言っても、そこはかとなく漂う木の香りが命。

輪に繋ぎ止める桜樺は、わっぱが水分を含んでも伸びず、弛(たる)むこともない。

「吉野桜の樺は、8月以降10月頃までじゃないと、水分含んで剥(む)けんでかんて」。

大自然の産物だけを頼りに、わっぱ職人は節くれ立った指先を揮う。

するとからくり仕掛けのように、平らな板も弧を描き、留めの桜樺は胴を飾る粋な紋様を描き出す。

だが一つも設計図は無い。

「そりゃそうだて。63年で、体が全部(ぜ~んぶ)覚えてまっとるで」。

干支一巡りを越え、未だ作業場に座す最後の老職人。

感慨深げにそっと目を瞑(つむ)った。

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「天職一芸~あの日のPoem 330」

今日の「天職人」は、三重県伊賀市上野の「養肝漬(ようかんづけ)蔵元」。(平成21年7月22日毎日新聞掲載)

伊賀の里からお中元 「養肝漬の箱入りよ」           母は何やら嬉しげに 水屋の奥に仕舞い込む           母が買い物出た隙に 「羊羹(ようかん)?ヅケ」を盗み食い   甘いどころかたまり味 中の餡子(あんこ)も紫蘇(しそ)生姜

三重県伊賀市上野中町で慶応元(1865)年創業の宮崎屋六代目主、宮崎慶一さんを訪ねた。

俳人芭蕉生誕の地、三重県伊賀市上野。

町の中心部を東西に貫く大和街道沿いには、今尚昔ながらの町屋や商家がポツリポツリと点在している。

「『何のレバー、漬けたるんですか?』とか、『やっぱり肝臓にいいんですか?』『羊羹が漬けてあるんですよねぇ』なんて、真顔でお客さんから何度尋ねられたことか」。慶一さんは客の口調を真似て見せた。

そもそも養肝漬とは、白瓜の芯を抜き、そこに刻んだ紫蘇に生姜や胡瓜を詰め、たまり醤油に漬け込んだもの。

「よう若い頃は『何やこの商品名は?説明するのも、一々手間やし』って、父を問い詰めたもんですわ。中には芯に詰めた具を捨ててから、食べるという人もおったほどやし。でも段々とそれが、お客さんとの会話のきっかけになるんやと気付いて」 。

慶一さんは昭和31(1956)年、長男として誕生。

「元々醤油の醸造元やったんです。だから養肝漬はその副産物。でもそれが、やがて独り立ちして今の世へ。だって江戸時代には漬物屋なんてありませんに。家庭で作るのが当たり前やったでな」 。

東京の大学を出ると、食品流通の世界へ飛び込んだ。

商品の開発と市場調査に明け暮れる毎日。

だが流通革命の波に飲み込まれ、問屋や卸業は再編や合併を繰り返す憂き目に。

「東京という街は、仕事にはいいが、とても人の住むとこやないと思うようになって」 。

昭和56年に帰郷。

父の元で家業を継いだ。

「これから先、何を残すべきか、合理化との狭間で相当考え抜いたもんさ。でもしばらくしてやっと気付いた。醤油樽を残す必要性に。だって日本の漬け物の98%弱は、どれもみんな浅漬けばっかり。でも家のは、乳酸発酵とアミノ酸発酵させた古漬けや。それを促進させる固有の菌が、樽には30種以上も永年住み着いとるんさ。蔵の中のひんやりした空気の中にも。ご先祖様から受け継いだ、ありがたい神々の菌や」。

昭和63年、京都出身の郁子さんと結ばれ、三女を授かった。

養肝漬の1年物は「新味」。

2年以上が「昔味」。

いずれもその主役は、先祖代々が改良を重ねた、伊賀特産の白瓜。

まずは芯を刳り貫き、20~22%の濃度で塩漬けし貯蔵。

同様に塩漬けした野菜(紫蘇、生姜、大根、胡瓜)を刻み、塩漬けした瓜の芯に詰め、樽の中で醤油を12~13%注ぎ入れ本漬けへ。

「浸透圧の作用で、醤油が瓜に染み込み、塩分が吐き出されるんやさ」。

そして味の抜けた醤油を抜き取り、新たに醤油を注ぎ込み、真っ暗な樽の中で深い眠りへと誘う。

樽に住まう菌はやがて神となり、洒脱に俳諧味あふれる養肝漬を育む。

かつて「武士の肝っ玉を養う」とまで謳われた、古里の名産として。

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