「天職一芸~あの日のPoem 349」

今日の「天職人」は、三重県志摩市阿児町の「きんこ芋職人」。(平成21年12月9日毎日新聞掲載)

安乗港に吹き降ろす 冬の西風朝まだき                     (くど)の大鍋湯気を立て 母が芋煮る冬支度                     炊いて蒸らして天日干し 安乗の風に晒されりゃ                 鼈甲色に甘味増す 畑のカラスミきんこ芋

三重県志摩市阿児町の尾崎秋子さんを訪ねた。

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「毎年5月の初めころから芋植え始めるんやさ。せやけど畑仕事してあっついやろ。だから今しも1日に2回、海女に行くんやさ。アワビやサザエにフクダメ(トコブシ)獲って、浜へ上がったら海女の仲間とワーワーゆうてな」。きんこ芋作りの納屋の座敷で、秋子さんは柔和な笑みを湛えながら茶を勧めた。

秋子さんは昭和15(1940)年、4人姉弟の長女として誕生。

中学を出るとアルバイトの傍ら、花嫁修業に勤しんだ。

「ここらで女の仕事いうたら、真珠の貝掃除やら、手掘りで土木作業のてったい(手伝い)くらいなもんやさ」。

青年団で章平さん(故人)と知り合い、21歳で嫁入り。

「オート三輪に乗せてもうてな。それが縁やさ」。

やがて一男二女を授かった。

昭和56年、子育てにも一段落ついた頃だった。

「旅館もジャンジャン建つしな。スナックだけでも4軒も出来て。そんな頃に兄が仲間と一緒に、港で旅館を始めて。漁師やった夫が釣り客を相手して、私が宿の食事の世話と、スナックの雇われママやさ」。

朝から夜中まで、旅館とスナックの切り盛りに追われた。

「せやけどあんまりしんどいで、翌年から自分でスナックやりかけたんやさ」。

それから3年。

「きんこやっとるお婆さんがおって、『道具もあるで、あんたてっとうてくれやんか』ゆうて」。

それから平成6年にスナックを閉めるまで、お婆さんからきんこ芋作りのいろはを学んだ。

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きんこ芋とは、隼人芋(ニンジンイモ)の天日に干し。

毎年2~3月にかけ、畑の畝に種芋を植え、5月初旬、新芽を挿し木。

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10月半ば頃の収穫を待ち水に浸け、芋こきして灰汁(あく)を抜く。

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「それを鍋に空け、ふどこで(竈)で40~50分炊いて、1時間半~2時間蒸すんやさ」。

次いで蒸籠で水切りし、1㌢ほどの厚さに切り分け、木箱にカラスミのように並べ、網を被せ天日干し。

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「露が降りやんで、風がソヨソヨする夜の方がよう乾くんやさ」。

およそ1週間。安乗の大自然という菓子匠の手で、きんこは美しい色艶を身に纏い、自らの天然の甘さを際立たせる。

「鼈甲色になったらきんこやさ。オレンジ色ではまだ芋臭いで。甘く潤んだ大自然の香りと味には、だあれも敵やせん」。

秋子さんは自慢のきんこを取り分け、大切そうに袋に詰める。

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「これでもこれまでには、色々工夫して来たんやに。芋作りの土の中に、スクモ(籾殻)混ぜてみたり。昔は芋を皮ごと炊いとったのを、今しは皮剥いてから炊くようになったし。薪の火のホトリ一つで、炊き上がりもちごてくるしな。これがガスではあかんのやさ。火力が一定のガスよりも、薪の火みたいにユラユラと斑がある方がええんやで。不思議なもんやさ」。

鼈甲色に日焼けた、安乗の畑のカラスミ。

日差しを浴びて輝くきんこを、秋子さんが愛おしそうに手に取った。

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「天職一芸~あの日のPoem 348」

今日の「天職人」は、岐阜県高山市の「流しのギター弾き」。(平成21年12月2日毎日新聞掲載)

裏町小路ネオン花 小雪が風に舞い落ちる                    かじかむ指に息を吐き ギター抱えてもう一軒                  縄の暖簾を掻き分けて 「社長一曲弾きましょか」                箸をマイクに恋の歌 調子外れのご酔狂

岐阜県高山市の流しのケンちゃんこと、渡辺武さんを訪ねた。

ストーブの上で薬缶が音を立てる。

人息で曇った引き戸が開く。

「今晩は」。

青いブレザーと白いスラックス、マドロス帽を被り、ギターを抱えた老人が片手を挙げた。

「いよっケンちゃん!待ってました」。

酔客の掛け声でギターを爪弾く男。

日本中にもうわずか20~30人と言われる貴重な現役流しの一人である。

武さんは昭和11(1936)年、同県恵那市で誕生。

高校を上がると3年間、三重県四日市市の天理教教会で教義の修業へ。

昭和32年、恵那に戻り製紙工場で雑役の仕事に。

しかしそれから、流転の日々が始まった。

ミシンのセールスから土木作業、炭鉱夫にバーテンダー。

「何やっても続かんのやさ」。

26歳の頃だった。

「ある日喫茶店で、3行広告の求人欄読んどったんやさ。そしたら、『衣食住に給料付の歌手募集』てえのが載っとって。これだ!と、さっそく名古屋の流し養成所へ。そしたらギダー持った先輩流しの伴奏で、いきなり歌わされて。ところが見事に合格。『次は会長に挨拶せえ』って連れてかれて。ピアノの前で、古賀先生みたいに座っとるかと想像しとったら大間違い。刺青のモンスケ入れた大親分が、女はべらせ酒くらっとる。しまったあ!と思ったけどもう遅いわ。養成所とは名ばかりの蛸部屋に、ギターやアコーディオンの流しが50人もおって、最初は掃除洗濯の下働きやわ。それでも毎日全国から、3行広告に騙されて、入って来てはすぐにトンズラこいて。半年くらいした頃やったわ。トンズラした男を、大垣まで行って捕まえて来と言われて。捕まえに行くはずのぼくが、トンズラ決めたった」。

そのまま愛知県瀬戸市の飲み屋へ飛び込み、流し家業が始まった。

「あんな頃はギターボロンで、お金もボロンの時代。マイクも無けりゃ小皿叩いてチャンチキオケサやで」。

その後は、ギター片手に全国を渡り歩く日々。

「29歳の頃や。富山から無一文で高山へ着いたんわ」。

ギター抱えて飛び込んだ先の飲み屋で、ナンバーワンホステスと運命の出逢いが待ち受けていた。

勝子(まさこ)さんと夫婦(めおと)となり、やがて一男一女が誕生。

これまで高山に辿り着きはや44年、今でも毎晩20軒の店を巡る。

「子ども大学にやって、家も2軒建てた。ちっこい家やけど。毎晩客の酒に付き合って憂さ聞いて」。

普段は震える指先も、酒を一杯煽りギターを抱えれば、ピタリと治まる。

「ぼ、ぼ、ぼくはどもりやけど、不思議と歌と英語はどもらんのやさ」。

そう言うと、英語の教科書の一節を澱み無く語った。

「散々人から憂さ晴らされたり、どんだけ馬鹿にされても、家へ帰ってからはひとっことも愚痴言わんと、みんな飲み込んどるでねぇ」。妻が誇らしげに夫を見つめた。

流転の末、辿り着いた高山。

ギター片手の渡り鳥は、伴侶と出逢い、渡りを止め、子を成しこの地の(りゅう)(ちょう)となった。

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「天職一芸~あの日のPoem 347」

今日の「天職人」は、愛知県豊橋市新本町の「菜飯屋」。(平成21年11月25日毎日新聞掲載)

トントントンと菜を刻みゃ グツグツグツと湯気が立つ              まだ明けやらぬ凍てた朝 母の鼻歌白き息                   卓袱台(ちゃぶだい)囲む朝ごはん 御櫃(おひつ)を開けりゃ天井へ                   湯気がぽわんと舞い上がる 菜飯一膳春恋し

愛知県豊橋市新本町、文政年間(1818~30)創業の菜飯田楽のきく宗。六代目の太田勝夫さんを訪ねた。

旧東海道五十三次、三十四番目の吉田宿。

かつては「吉田通れば2階から招く、しかも鹿の子の振袖で」と、講談「大久保彦左衛門」の決まり文句にあるように、飯盛り女が多く東西にその名が知られた。

「もうそんな頃の面影なんて、みんな空襲で焼け出されてまったで、どこにもあれへんらあ」。勝夫さんは、表通りを見渡した。

勝夫さんは昭和16(1941)年に2人兄妹の長男として誕生。

高校を出ると東京銀座の老舗料亭で、住み込みの板場修業へ。

「そんなもん、最初は洗いもんばっか。1年半後に祖父から『手が足りんで戻って来い』と言われた頃、やっと焼き場を任されたんやで」。

豊橋へと戻り、祖父から先祖伝来の味を学ぶ毎日が続いた。

昭和42年、同郷出身の幸枝さんと結ばれ、男子3人が誕生。

江戸期から守り抜いた暖簾も、やがて七代目へと無事に継承されるものと、誰もが疑いもせず30年の年月が過ぎ去って行った。

平成11年、大学を卒業後、七代目として家業を継いでいた長男が急死。

「それこそ突然死で。翌日は友人と、スキーに行く約束までしてあったのに」。

女将の幸枝さんが当時を振り返り、寂しげにつぶやいた。

勝夫さんの虚ろな目が、テーブルの木目を数える。

「だもんで今は、三男坊が八代目を継いどるだわ」。

勝夫さんは、無念さを振り切るように、顔を上げ笑って見せた。

きく宗名代の菜飯作りは、豊橋産の大根の葉を切り分ける作業に始まる。

「まず軸から葉を切り離し、1枚ずつ丁寧に見ながら、虫とか髭を取り除く。そしてそれを湯がいて冷水に浸し、絞ってからもう一度よう見て、白く浮き出とる小さな虫を、念入りに取り除くじゃんね。それから細かく刻んで塩味を付け、お客さんに出す直前で、炊き立てのご飯に混ぜるだあ。そうせんと菜の色も変わってまうで」。

菜飯にあてがう田楽は、国産大豆に本苦りで製造する自家製。

「昔から取引しとった豆腐屋が、跡継ぎがおらんもんで店閉めてまってねぇ。それで1年前から試行錯誤を繰り返して、私が作り始めたじゃんね」。女将が笑った。

「お客さんの注文受けてから、水槽の豆腐を上げて串打って。豆腐だって生きとるらあ。それで10分ほど焼いてから、秘伝の味付けした岡崎八町味噌を塗り、もう1回軽く炙るだ。そしたらもういっぺん味噌を上塗りし、和がらしと木の芽を添えて出来上がり」。勝夫さんが女将を見つめた。

「ありがたいことに、お盆やお正月に帰省されると、古里の味を食べないかんって。お客さんも三代目四代目と、昔から続けて通ってくれとるだでねぇ」。女将は客席を見やった。

街道を行く旅人も時代も移ろえど、きく宗の暖簾と味は初代の志そのままに。

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「天職一芸~あの日のPoem 346」

今日の「天職人」は、三重県伊賀市上野愛宕町の「じょうせん飴職人」。(平成21年11月18日毎日新聞掲載)

伊賀の飴屋のおっちゃんは きっと忍者に違いない 琥珀色した海鼠(なまこ)飴 折って延ばして白うした こないに硬い飴やのに なしてあないにおっちゃんは グニャリグニャリと飴を引く じょうせん飴の忍び技

三重県伊賀市上野愛宕町で昭和22(1947)年創業の、伊賀名物じょうせん飴の森内栄甘堂えいかんどう。二代目主の森内啓司さんを訪ねた。

「なんや、今は割ってないんか?」。老人は寂しげにぼそりとつぶやいた。

「今しは衛生的やないゆうてな。20年ほど前までは、お客さんが来てから割って、目方で売らしてもうてましたんやが」。啓司さんが、済まなさそうな顔で老人を見つめた。

「目の前でかち割ってもうた、あの歪なとこがええんやけどなあ」。老人は口惜しそうに店を後にした。

啓司さんは昭和24年、4人兄妹の末子として誕生。

工業高校を出ると津市の内装工事会社に勤務。

しかしわずか1年後、父から家業を継ぐよう命ぜられた。

「兄が4年ほど継いどったのに、急に大学へ進学したいと言い出しよって」。

それからは父と共に、家業のいろはを学んだ。

「じょうせん飴の始まりは、戦国時代の文献にも残っとんやさ。伊賀の忍者が飴売りに化けて、太鼓鳴らして子らを集め、諜報活動しながら諸国を売り歩いとったんやに。語源は伝来の地『朝鮮』が訛ったもんらしいて、四国の高松では、『ぎょうせん飴』って呼んどるそうや。まあ、昔ながらの無添加の素朴な飴ですに。作り方のこつは、飴の塊を落さんように引っ張って延ばすだけのこと。それさえ出来りゃあええんやで、半年もしたら一人前でしたわ」。

昭和53年、知人の紹介で秀代さんと結ばれ、二女を授かった。

「飴だけやのうて、饅頭や押し物の落雁。それから丁稚羊羹やカステラと、時代が豊になるに連れ、だんだん商品も増えて大忙しやったもんやさ」。

じょうせん飴は、芋や穀物の澱粉に麦もやしを混ぜ、123℃で炊き上げ、半日煮て琥珀色に色付く、麦芽水飴作りに始まる。

そして銅の器に入れ、水に浮かせ飴の温度を70~80℃まで下げる。

次に竹の皮を敷いた木製容器に移し、小麦澱粉の浮粉を塗しながら手に取り上げる。

作業場の柱に据え付けた、横棒を桛車(かせくるま)の軸に見立て、棒状に延ばした飴を放り投げ、横棒で折り返し両手で手前に引き伸ばす。

そして琥珀色から白色に変わるまで、飴が冷えぬうちに素早く飴引きを繰り返す。

写真は参考

「毛糸の(かせ)()りと同じように、空気を飴の中へ取り込むんやさ」。

後は一口大に切り、浮粉で塗せば1度に1貫目(3.75㎏)の、戦国時代の味と伝わるじょうせん飴が完成。

「普通一般的な飴ゆうたら、90%が砂糖なんやさ。100%砂糖にすると、夏場に砂糖の結晶になってしまいますやろ。それに引き換え家のじょうせん飴は、100%が麦芽水飴で、砂糖は一切つこてません。麦もやしと澱粉を炊くことで、澱粉糖化作用が起きて、自然とあも(甘く)なって麦芽独特の風味も出ますんやに」。

(はな)って引いてまた放つ。

伊賀の飴引き職人は、(いにしえ)人の手仕事の味を、今も頑なに守り抜く。

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「天職一芸~あの日のPoem 345」

今日の「天職人」は、岐阜県高山市下一之町の「昭和古民具蒐集家」。(平成21年11月11日毎日新聞掲載)

路地裏七輪秋刀魚の香 子らが縄飛ぶ下駄の音                  釣瓶落としの日も暮れりゃ 袋小路にネオン花                  縄の暖簾を分け入れば 鳶の法被と菜っ葉服                   流しがギター爪弾けば 箸で猪口打つがなり声

岐阜県高山市下一之町の古民具蒐集しゅうしゅう家、五味輝一てるいちさんを訪ねた。

一文菓子屋で木戸銭を払い、裏町の薄暗がりへと足を踏み入れた。

するとその途端、枯れた色合いの町並みの向こうから、(むせ)(かえ)るほどに狂おしい昭和の記憶が、津波のように押し寄せる。

「どうです?昭和の宝の山でしょう!でも周りからは、屑屋扱いでしたわ」。

昭和の古民具数10万点が、詩情豊に展示される高山昭和館。

輝一()さんは、目を細めて笑った。

輝一さんは昭和13(1938)年、長野県茅野市で寒天作り農家の長男として誕生。

高校を出ると、同県畜産技術講習所へ。

翌年、畜産技術員として農協に勤務した。

「当時は牛乳の摂取量が少なく、1日で盃1杯も飲めん時代。せめて1人1合は飲めるようにって、北海道へ現金腹に巻いて牛買いに」。

7年後、東京五輪が開幕。

「世界中の大きな体の選手見て『こりゃあかん。これからは、肉の時代が来るわ』と」。

直ぐに辞表を出し、翌年から食肉について学んだ。

「食肉問屋へ無給でいいからと頼み込んで」。

昭和41年、ついに食肉店を開業。

だが、勢力を拡大するスーパーマーケットに太刀打ち出来ず撤退。

既に2年前に父を、昭和42年には祖父と妹を相次ぎ失った。

「もう借金まるけで、田畑を売って昭和43年にドライブインを始めたんですわ」。

翌年、父が入院中に知り合った弘子さんと結ばれ、一男一女を授かった。

「父の入院費が払えんで、分割払いの交渉した事務員が家内ですわ」。

それから10年、インベーダーゲームが日本中を席巻。

「これで見事に一山当ててね」。

それを元手に今度は、昭和55年にビジネスホテルを開業した。

「中学の時、父が寒天組合の事務所で宿直しとったら、夜中に一人のみすぼらしい青年が『お結び下さい』と。それから3日、自転車で3食届けてやったら、お礼にって絵を1枚置いてった。それが山下清との出逢いでした」。

それから清の原画が売りに出る度、次々と購入。

やがて大型スーパーが噂を聞き付け、催事用に清の原画を借りたいと。

放浪の天才画家、山下清展は大成功。

全国各地からも引き合いが続いた。

バブル崩壊を目前にホテルを売却。

全国に散逸する清の原画購入に充てた。

「全国各地を巡る内に、今度は生まれ故郷のような、昭和の古民具を集めるようになって」。

ある時、清の原画と昭和の古民具を併設展示したところ、これが大変な評判を呼んだ。

「8年前にこの昭和館を開業したんですわ。モノの大切さや有難味を、庶民の暮らしの中にあった昭和史を通して、今の若い者らに伝えたくて」。

諸国を巡り、失われ行く昭和の欠片を集め続けた男。

昭和に生を受けた者の、これが最期の務めだと(うそぶ)き笑った。

人それぞれ、悲喜交々の昭和史。

ここに身を置き耳を澄ませば、遠き日の母の声がする。

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「天職一芸~あの日のPoem 344」

今日の「天職人」は、愛知県新城市の「帽子職人」。(平成21年11月4日毎日新聞掲載)

シルクハットに中折れ帽 ウィンドー越に盗み見て                映画スターの台詞真似 一人芝居のラブシーン                  夢も願えば叶うもの きみがヘプバーンぼくペック                汽車で熱海へハネムーン トレビ代わりの大浴場

愛知県新城市で大正十二(一九二三)年創業の帽子製造販売、青木帽子店。二代目帽子職人の青木正巳さんを訪ねた。

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鳳来寺山へと続く伊那街道。

新城の街道筋へ足を踏み入れると、継ぎ接ぎだらけの古い町並みが顔を覗かせた。

その並びの一軒。

ショーウィンドウの中には、チロルハットやハンチング、ご婦人用のつば広帽から、学生帽に運動会の紅白帽まで色とりどり。

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「そのハンチング、よおお似合いですに」。格子柄が気に入り、ついつい手に取り被った途端、店の中から声がした。何とも人のよさそうな、正巳さんだ。

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「昔のハンチングは、頭の天辺からすっぽり被るトップが、今よりもっと大きかっただに。でもあんまり大きいと、日本人の頭には合わん。だもんで体全体と比べると、どうにも頭でっかち。まるで七福神の、大黒様の丸頭巾になってまうで」。

 正巳さんは昭和11年(1936)年、2人姉弟の長男として誕生。

だが中学3年に上がった昭和26年春、父が病に倒れた。

「夏休みは勉強どころか、毎日家業の手伝いばっか。だもんで何か分からんことがあると、父の枕辺へ飛んでって教えを受けながら・・・。洋裁習っとった姉が縫製で、後の作業を母と二人でこなして」。

だが翌年2月、父は還らぬ人となった。

「だで高校行けずに、そのまま家業を継いだだ」。

親方であった父にも縋れず、16歳になったばかりの新米帽子職人は、一人修業を始めた。

かすかな記憶に残る父の仕事振りと、病床で父が言い残した言葉だけを師と仰ぎ。

ちょうど時代は戦後復興が本格的に加速し、砂糖の統制が撤廃され、朝鮮戦争の特需景気に沸いた。

「当時は帽子を洗濯して、型付もやっとったもんで。その傍らミシン掛けの練習して、3年目でようやくハンチングを作っただ」。

自分が気に入った既製品の帽子を買い入れ、それを解いては型取りに明け暮れた。

「帽子は映画の名脇役。洋画がヒットすると、中折れハットやパナマ帽がよう売れただわ」。

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日増しに職人としての腕も上がった。

昭和39年、看護師だったアキミさんと結婚。

やがて一男二女を授かった。

「振り返りゃあ、昭和40年代が一番大忙しやっただ。子供らも多かったし、大型ショッピングセンターもまんだ無かったで」。正巳さんは、表通りをぼんやり見つめた。

帽子の製造は、何と言っても裁断が命。

まずハンチングの庇(ひさし)となる芯を、生地に包(くる)み縫い込む。

次に側頭部のコシとトップを縫い合わせ、庇を合体させ、内側にスベリ(汗取りテープ)を縫い付け完成。

「帽子は小さ目のサイズの方が風に飛ばされるだあ。逆に、ちょっと緩めのサイズの方が、飛びにくいし一番ええ。人間も一緒らあ。一杯一杯で張り詰めて生きるより、ちょっとくらい緩い方が楽ちんだて」。

目指すは生涯一職人。

正巳さんはその言葉を繰り返し、半世紀を経た今も、ミシンを踏み続ける。

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「天職一芸~あの日のPoem 343」

今日の「天職人」は、岐阜県高山市の「椅子革裁断師」。(平成21年10月28日毎日新聞掲載)

蜜柑の箱に将棋板 古く傾(かた)いだ椅子二脚                 祖父と隣りのご隠居は 舟漕ぎながら駒を指す                 「さぞかし尻も痛かろう」 父はボロ屋で裏革を                 がめて座面を包(くる)み込み 「これでええ夢見れるやろ」

岐阜県高山市で、北欧家具を製造するキタニ。椅子革裁断師の植田一良さんを訪ねた。

「ある日、お婆さんがみえて、『爺さんが昔、職人に作らせた椅子を、直してもらえんか。孫に使わせたいで』と。座面を開くと、中に緩衝材として藁と草が。だからそのまま、新しい藁と草を詰めて再生したんやさ。そしたら大喜びで。職人冥利に尽きるってやつかな?たかが椅子1脚、でも生き物なんやさ。職人が魂込めて、命を吹き込めば、末永く生きるんやで」。一良さんは、懐かしげに笑った。

キタニでは、飛騨匠の末裔たる家具職人たちが、己が手力を頼りにその技を競い合う。

一良さんは昭和36(1961)年に誕生。

だが小学2年の年、両親が離縁した。

「勉強より、物作りや機械いじりが好きで、自動車の整備士になろうと」。

工業高校を出ると、お茶、火薬、包装資材等、幅広く手掛ける鍋島商店に入社。

「梱包機の修理担当で入社したはずが、1月毎に全部の事業部門を回らされて」。

入社からわずか3ヶ月を迎えた時だった。

「お前、行って来いって」。

子会社であるキタニのウレタン加工所へ異動。

大阪から来ていた職人が、怪我をし欠員が出たからだ。

「巨大な食パンみたいな、幅2㍍、奥行き1㍍、高さ80㌢ものウレタンの塊を、スライス機で薄く梳(す)いて。椅子のクッションに加工し、家具メーカーに納めるんやさ。ここらは脚物(あしもの)の産地やで」。

次第にウレタン加工から、布張り仕上げへと業務領域も拡大。

いつしか木工職人も増え、自社製品の製造へ。

「ちょうど15年前。これからは福祉やと、社長が福祉の先進国である北欧へ視察に。すると倉庫の片隅に、昔の北欧家具が。それをコンテナで持ち帰って来たんですわ。椅子も何10脚と。最初皆も呆気にとられ、『社長が北欧からゴミ買い込んで来たぞ』って。でもよく見ると斬新な作りで。バラした途端、職人魂に火が点いて、もう夢中。ソファーも座面をはぐると、草や獣毛が出てくるし」。

職人たちは獲り憑かれた様に、半世紀前の北欧家具職人たちの手業を学んだ。

そして平成8年、北欧家具の復刻製造へと乗り出した。

裁断師の作業は、3次元に描かれた図面から、2次元に座面の型を起こし、革を裁断することに尽きる。

「それが縫い合わされて3次元に仕上がると、ゾクゾクッとして。牛革の腹と背は伸びるが、尻は伸びんから、それを計算に入れんと」。

平成16年、同じ職場のかづみさんと、7年越しの恋を実らせ婿入り。

やがて二女を授かった。

「20歳のころ、尻まくって辞めようかと。でも年配の女性が早まるなって引き止めてくれて。でも辞めんでよかった。裁断師として、型出しする面白さにも気付かんかったやろし、妻とも巡り逢えず仕舞いやったろで」 。

きっと誰もがいつかは巡り合う、一人に一つの天職一芸。

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「天職一芸~あの日のPoem 342」

今日の「天職人」は、岐阜県高山市の「飛騨の杉玉職人」。(平成21年10月21日毎日新聞掲載)

昔家並の一之町 お店(たな)の庭に紅葉燃ゆ                  大徳利をぶら提げた 父が背伸びで軒仰ぐ                    造り酒屋の杉玉は 茶から緑へ色直し                      今日か明日かと待ち侘びた 父は新酒に紅葉色

岐阜県高山市の杉玉職人、二代目の中谷紀久雄さんを訪ねた。

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「青々した杉玉が、造り酒屋の軒に吊るされると、左党の連中は『おっ、いよいよ新酒が出来たか』って、仕事どころやないさね」。紀久雄さんは、盃を傾げる真似をした。

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紀久雄さんは昭和15(1940)年に長男として誕生。

「高校行きたかったんやけど貧乏で。親父が首を縦に振らんのやさ」。

飛騨市古川町にあった農業講習所へと、自転車で砂埃を蹴散らし、片道1時間の道程を通い続けた。

1年の講習を終え、家業に従事。

「米に野菜作りと、蚕の世話。1年やったけど、これが思い通りに行かんのさ」。

そこで、他人の飯を食わせろと、父に直談判。

県外派遣実習生制度を利用し、3ヶ月間長野県小諸市の農家へ。

セロリ、レタス、カリフラワーの、栽培を学んだ。

「友達が派遣された農家に、乳牛が2頭おったんやさ。それで毎晩そこ行って、手搾りの搾乳を覚えたんやて。帰ったらいつか酪農やろうと」。

大志を抱き、高山へ。

そして昭和35年、ついに子牛を手に入れた。

「農協から金借りて、隣の宮村から、生後2ヶ月の子牛を、1頭3万円で買って来たんやさ」。

翌春から搾乳が始まった。

「農家は冬、金が入らん。でも牛は、自分の血液を乳に代えてくれるんやで、搾乳すりゃ毎月金になる。ありがたいもんやさ」。

昭和38年、宮村から香代子さんを嫁に迎え、二男一女を授かった。

「搾乳始めた頃、農機具屋でバイトしとったんやさ。それで耕運機売りに入った家で、耕運機売らんと嫁もろて」。

新婚旅行は2泊3日で伊豆の温泉へ。

「牛飼いは旅行に行けんで、せめて新婚旅行だけはと」。

昭和43年には、乳牛も20頭に。

自分でブロックを積み、コンクリートを打ち、牛舎を建て増した。

「その2年後やったかなあ。父が酒造元から依頼されて、試行錯誤の上、杉玉作るようになったんは」。

父は農業の傍ら、コツコツと注文に応じ杉玉作りに精を出した。

写真は参考

ところが平成元年、父が病の床に就いた。

「段々呆け始めて、注文受けても作らんのやさ。最初は畑が忙しいって、嘘こいとったんやけど、わしがせんとしゅあないし」。

作り方や段取りは、父の後ろ姿から学び取っていた。

杉玉作りの第1は、杉の枝打ちに始まる。

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「近場は、皆親父が刈り尽くしたもんで、車で30分以上かけて走らんと」。

細かく枝打ちした根元を針金で縛り上げ、番線と金網で球体にした杉玉籠に差し込み絞り上げる。

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次に全体が球体になるように、剪定鋏で荒刈りし、仕上げに花切り鋏で細かく刈り込む。

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「そこがこつやのう。まあ、心が丸けりゃ、丸なるって」。

棕櫚縄で吊り手を付ければ完了。

大きな物は一週間を要する。

「材料ただでも、手間がかかるで。わかるろう」。

深まり行く秋の気配。

酒屋の軒に、青々とした杉玉が吊るされる日も近い。

ささ、まずは一献。

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「天職一芸~あの日のPoem 341」

今日の「天職人」は、愛知県豊橋市の「アンコ(鮮魚競り人)」。(平成21年10月14日毎日新聞掲載)

 父が忘れたお弁当 母と届けに魚河岸へ                     濁声響く競り場には バン買いピンピンオイヤッコ               「ほら父さん」と母が指す 眉間に皺の強面(こわおもて)            いつもは優しい父なのに 「競りはアンコの戦場(いくさば)」と

愛知県豊橋市、豊橋魚市場のアンコ、石黒政美さんを訪ねた。

午前6時半。

競り場に箱物鮮魚が並ぶ。

「それでは、アサリから売ります」。

野太い男の声が、スピーカーから流れ出した。

一斉に仲買人がアサリを取り囲む。

そこへ分厚いメモ用紙を片手に、アンコ(競り人)が登場。

鐘の音が響き渡る。

「アサリアサリ5㎏、いくらいくら」。

「500、600、バン(800)、買い(1000)、ピンピン(1100)、ジョウ(1500)、オイ(1800)、ニコニコ(2200)、ヤッコ(2500)」。

次々に仲買たちが、値を競り上げる。

「ハイッ、ヤッコ、マルス」。

アンコは落札者の屋号と落札金額を復唱し、直ぐに次の商品へと向う。

再び威勢のいい濁声が飛び交い、熱気を帯びる。

「最初はオイオイって、誰かが呼ばっとるかと思っただ」。政美さんは、競り場の険しい表情とは一転、何とも優しい笑顔だ。

政美さんは昭和32(1957)年、2人兄弟の長男として誕生。

「ガキの頃から、釣りが好きでねぇ」。

水産高校を卒業し、魚市場に入社。

「毎日明けても暮れても、荷降ろしばっか。冷凍マグロを1日に、1000本も手掻きで引っ張り、鉈で尻尾を切って。競り用に1番から50番まで番号入れて、それを20組繰り返すだあ」。

そんな日々が5年は続いた。

「ちったあ魚の名前を覚えてくると、次は先輩が競り落とした箱物への札入れ。仲買の屋号が印刷された紙の札を、誰が落としたか見とって、箱に入れてくだあ。だもんで、仲買の顔と屋号を覚えとらんと、間違うとえらい目だわ」。

入社5年を過ぎた頃には、子どもの頃から好きだった魚釣りが、嫌いになったと言う。

「鯛1匹釣るのに、どんだけ金と時間がかかるか、そう考えたら馬鹿らしなって。買った方が遥かに安いらあ」。

荷降ろし5年で魚の名前と旬の時期を覚え、札入れ2年で仲買の顔と屋号を、体に叩き込んだ。

そして迎えた入社7年目の25歳。

ついにアンコとしての桧舞台に立つ日が訪れた。

「最初はアサリなんかの貝類から。魚と違って、物の良し悪しがあんまり変わらんで、後は値段だけ注意しときゃええだ」。

今でこそ名うてのアンコだが、初陣は緊張の連続。

「とにかく金額書いた字が、チャカチャカになって、自分でも読み返せんだあ」。

仲買人との駆け引きで、苦情が出ることもしばしば。

「『俺が先に鑓(やり)付けただ』って、仲買からぶん殴られそうになるし。でも競り場は、競り人にとっての戦場だで、びびったら負け。だもんで言葉遣いもわりくなるし、性格もきつなるらあ」。

平成7年に豊川市出身の佐織さんと結ばれ、二女を授かった。

「よう女房に叱られたわ。子どもが真似るで、家で『やいっ』とか『オイ』って言うなと」。

名うてのアンコも、家では形無しだ。

1日2時間足らずの競り場という戦場へ、アンコは今日も赴く。

優しい顔に、険しい表情の仮面を着けて。

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「天職一芸~あの日のPoem 340」

今日の「天職人」は、三重県伊勢市宮町の「弥吉の孝行鰻職人」。(平成21年10月7日毎日新聞掲載)

外宮を詣で一休み 「これからなとしょ」父が問う               「なとしょゆうても昼やしな」 「ほなら飯でも喰うてこか」          「孝行鰻二人前 それにお銚子一本」と                     馴染み気取りで父が言う 勘定だけを押し付けて

三重県伊勢市宮町の料理旅館おく文。五代目となる奥田守さんを訪ねた。

「これが160年前から代々伝わる、弥吉の孝行鰻ですんさ」。守さんが、朱漆塗りの上品なお重を差し出した。

そっと上蓋を持ち上げる。

するとたちまち、鰻特有の濃厚なタレの香りを、炊き立てのご飯の湯気が鼻先へと運ぶ。

一斉に唾液が何処からとも無く、口中に沸き出でる。

口に含むと鰻の身もとろけ出し、絶妙なタレには上品さが漂う。

鰻は脂気も程よく抜け落ち、全くしつこさも無く、あっという間に一人前を平らげてしまったほどだ。

宇治山田市史によれば孝行鰻とは、幼名奥田文三郎、のちの長谷川弥吉の名で紹介されている。

奥田文左衛門の三男として天保6(1835)年に誕生した文三郎は、5歳で両親を失い、2つ上の姉と途方に暮れた。

隣に住む左官の長谷川弥平は、そんな姉弟に同情を寄せる。

だが弥平も所詮貧しい職人暮らし。

姉だけ親戚に預け、文三郎を養子として引き取り弥吉と改めさせた。

弥吉も左官見習いを始めるが、家計を支えるまでには至らない。

ならばと、幼い弥吉は蒲焼きを重箱に詰め、風呂敷に包んで山田(伊勢)の町を売り歩いた。

毎日毎日、雨の日も風の日も。

その姿に心打たれた町衆から、いつしか「孝行鰻」と呼ばれ贔屓に。

やがて山田奉行の耳にも入る事となり、孝行心を褒め称え青銅五貫文が与えられた。

その後妻を得、二人の息子を遺し、明治21(1888)年に54歳で他界。

その5年後、弥吉の次男の文吉が奥田文左衛門家を再興し、孝行鰻を継いだ。

以来、「孝行鰻」の名で親しまれ続けている。

守さんは昭和12(1937)年、4人兄弟の長男として誕生。

高校を出ると直ぐに家業に就いた。

「家は昭和2年から、料理旅館を始めてましてな。孝行鰻はもちろんやけど、その他の日本料理も、板前さんに付いて修業せんならんし」。

いかに跡取りとは言えども、板場修業に手加減など無い。

昭和40年、同市二見町から恭子さんを妻に迎え、二男二女を授かった。

「妻の実家は、取引先の八百屋でしたんさ。もともと戦時中までは、外宮さんの傍で商売しとったんやさ。それが強制疎開で二見町へ移転させられてもうて」。

昭和50年、晴れて板場を任された。

160年前と変わらぬ孝行鰻作りは、三河一色産天然鰻の、背開きに始まる。

まずは軽く素焼きし、一之タレに潜らせる。

代々継ぎ足して使い続ける一之タレには、脂の旨味が溶け出しコクが深い。

再び焼き、仕上げの二之タレに潜らせ、とろみと照りを付ければ出来上がり。

孝行鰻職人は、家業の謂(いわ)れに驕る事無く、弥吉を敬いその志を継ぐ。

暇を乞い表へ出ると、老婆の声が。

「どやった?美味かったやろ。ここのは、本家本元やでな」と。

まるで見ていたように笑う。

孝行鰻が、今も町衆の誇りであり続ける所以(ゆえん)だ。

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