「天職一芸~あの日のPoem 359」

今日の「天職人」は、愛知県東海市大田町の「手焼海老せんべい職人」。(平成22年2月24日毎日新聞掲載)

内職仕事手を止めて 母は欠伸を噛み殺し            音羽屋海老せんパリポリと ズズーッと啜る出涸らし茶      母の唯一贅沢は 知多のアカシャの海老せんべい         他所で見切りの品を買い 音羽屋だけは正札買い

愛知県東海市大田町で、大正初めに創業された音羽屋。知多の港でその日水揚げされたばかりの、新鮮なアカシャエビだけを使った、正真正銘の海老せんべいの老舗。女主と呼ぶにはおきゃんな、前田佐知子さんを訪ねた。

「四代目が私です」。佐知子さんだ。

佐知子さんは昭和49(1974)年、浅井家の次女として誕生。

音羽屋の仕事は、昔も今も変わらない。

早朝の魚市場での仕入れに始まり深夜まで。

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「だから両親なんて、一度も運動会に来てくれたもことないし」。佐知子さんは表通りで遊ぶ、我が子を見詰めた。

「小っちゃい頃から『お前は死んだ兄ちゃんの変わりや』って言われ…。高校生の頃には、魚市場で父に仕入れの手伝いさせられとったもん」。

高校を出ると得意の英語を活かそうと、国際観光専門学校へ。

「でも姉も嫁ぐと、誰があの重いエビを運ぶんだろう。やっぱり就職は無理かって思ってました」。

専門学校を出ると、家業の手伝いの傍らケーキ屋や自動車会社でアルバイト。

「年頃だったし、ちょっとは他所の世界も見たくって」。

平成10年、年老いてゆく両親を見かね、家業に専従した。

「私は父が40歳の時の子だったからか、普段はものすごく優しくて。でも仕事になると超ど一刻。足の骨折れても添え木して、生地には絶対触らせてくれんし」。

だが平成12年、そんな父も心筋梗塞で他界。

「亡くなる前日も、翌日の段取りしとったのに」。

親子三人水入らずの海老せん作りは、たったの2年で潰えた。

「生地の味付けは母が分かっても、焼き方がわからんもんで。母がもう店畳もうかって。そんな時、魚市場の仲買いのおばちゃんから『お父さんなあ、本当はあんたに継いで欲しかったんやで』と聞かされて」。佐知子さんの瞳が不意に濡れた。

「父が亡くなる前日の、鉄板の温度設定だけを頼りに、何度も何度も失敗を重ねて」。

平成14年ついに先代の味を復活。

店の棚に「海老せんべい」が並んだ。

そして高校時代の同級生、幸弘さんと結婚し一男一女を授かった。

しかし喜びも束の間、その年の暮れ今度は母が末期癌に。

「病床で『もうこんなえらい仕事せんでいいから、側におって』って。でもここで店閉めたら、嫁に出たので浅井の名も絶やしたし、せめて両親との思い出が詰まった店だけは守らんとって」。

名代の海老せんべい作りは、アカシャエビの頭を手で落とし、専用機で殻を剥く作業に始まる。

次に馬鈴薯の澱粉、砂糖、塩と練り、鉄板で素焼き。それを3㌢ほどの棒状に切り、1日半乾燥させ冷蔵。

そしてその日に製造する分だけを取り出し、上から湯を掛け1~2日。

最後にもう一度鉄板で焼き上げれば、知多産アカシャエビだけを使った音羽屋の海老せんべいが完成する。

「暖簾はこの店と生きた、先祖の表札そのもの。だから私が頑張って守れば、きっと両親の供養になるはず」。

うら若き女将はこっそり瞼を拭った。

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「天職一芸~あの日のPoem 358」

今日の「天職人」は、三重県松阪市の「揚げ麺やきそば職人」。(平成22年2月17日毎日新聞掲載)

「伊勢松阪でやきそばと 言えば不二屋の揚げ麺さ」       松阪っ子の老若は 皿を抱えて首っ丈              丸い形の揚げ麺に 和風の餡を掛けるだけ            焼きもせぬのにやきそばと? 「松阪もんにゃこれがそれ」

三重県松阪市中町、昭和4(1929)年創業の不二屋、三代目の野口克己さんを訪ねた。

伊勢参宮街道も三重県松阪市に入ると、松阪牛の看板が目を引く。

「そんなもん、神戸の人らが毎晩神戸牛食うとるわけやなし。わしらかて松阪牛なんて、せいぜい年にいっぺん食うか食わんかやさ」。店先で順番待ちをする、初老の商店主が笑い飛ばした。

「松阪牛は年に1回でもええ。せやけど不二屋のやきそばだけは、週に1回は食べやんと、癖んなってなともならん」。

店内は昼前にも関わらず満席。

能舞台を模した座敷と、橋掛(はしが)かりとも言うべき通路を、店員が忙しなく行き交う。

能舞台の橋掛かりは、人間界と幽冥界を繋ぐ架け橋とか。

だがここ不二屋の昼時では、そんな悠長な風情に浸る暇も無い。

とにかく客は、熱々の餡かけ揚げ麺のやきそばを、固唾を飲んで待ち構える。

「『週にいっぺんは食わんと』なんて、何よりありがたいこってすわ」。克己さんが笑った。

克己さんは昭和36年、長男として誕生。

「最初は歓楽街の愛宕町で、うどん屋やったんですわ。当時松阪はうどん屋ばっかりで、中華そば屋がなくて。それでお爺さんは、大阪上本町へ出掛けて行って中華を食べ歩き、『これからは中華そばが流行る』ってな調子で。ところがそんな時代は、みんな『中華そばってなんや?ほんなもん売れるんか』なんて、結構白い目で見られたそうです。そして昭和11年にここへ移転し、うどんの出汁と野菜の旨味をベースにしたあっさりスープの中華そばを始めたんですわ。そしたらそれが評判呼んでよう売れたらしいです。もう一つの看板であるやきそばは、自家製揚げ麺に野菜と豚肉の餡を載せたもんで、祖父が戦後間も無く始めたそうやわ」。

毎日忙しく立ち働く、祖父と父の背中を眺めながら学校へと通った。

「よう友達が『3時になったら中華食べにくで』って。調理場の入り口からこっと入って来て」。

高校を出ると名古屋の郊外型のうどん屋へ。

4年半の修業を終え家業に就いた。

三代目としての自信も付いた平成4年、自らへの投資とばかりに店を改築。

平成14年には、地元出身の織江さんと結ばれ、2女を授かった。

不二屋名代のやきそばは、独特の製法による自家製麺に尽きる。

ラードで揚げても、バリバリとせずサクサクする食感が持ち味。

中華そばの和風出汁で豚肉や野菜の具材を軽く煮込み、片栗粉で固めの餡に仕立て、揚げ麺の上に盛り付ければ完成。

「麺は簡単に箸で捌けます。口に入れるとサクサクッとして、見た目とはちごて薄味であっさり。だから70歳を越えたお婆ちゃんらでも、ペロッと1皿行けますわ」。

克己さんはある時、人に言われた。

「『この店が無いと困る』そう言われる店にせえ」と。

それこそが、祖父の遺した庶民の味だった。

ありそでなさそな不二屋のやきそば。

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「天職一芸~あの日のPoem 357」

今日の「天職人」は、岐阜県郡上市八幡町の「メロンパン職人」。(平成22年2月10日毎日新聞掲載)

郡上八幡小駄良川 窓を開ければ水音と             パンの香りが忍び込む 昼時岸の向こうから           老いた夫婦のパン屋では 子らが群がり品定め          片手の小銭差し出して 「これちょうだい」とメロンパン

岐阜県郡上市八幡町の平和パン、主の加藤昌美さんと千代子さん夫妻を訪ねた。

郡上八幡の町中を、南北に流れる小駄(こだ)()川。

川西の山裾には、わずかに昭和半ばの商店が残る。

「……?」。

どこからかパンの焼ける匂いが漂って来た。

だがどこにもパン屋はない。

すると一軒の民家から、パンを片手に子どもたちが飛び出して来た!

ガラスの引戸から中を覗けば、確かにパンが並んでいる。

「これどうぞ。今焼き上がったばっかやで」。

共白髪の老夫婦が、こんがりキツネ色に筋の入ったメロンパンを差し出した。

だが、どこにも屋号の看板が見当たらない。

「そんなもん看板出すなんて、おこがましいでかんわ」と、夫。

すると「この人は昔っから『他人(ひと)様を蹴っ飛ばしてでも儲けたる』っていう気がないんやて」と、妻。

「家が役所に届けとる本当の屋号は、三恵堂。でもここが尾崎町だでここらの人は『尾崎パン』とか『平和パン』って呼ばっせるわ。まあどれも通じるで、一つの名だけ看板上げるわけにもいかんだわ」と、夫。

昌美さんは大正10(1921)年、愛知県瀬戸市に誕生。

「小学校に入った昭和3(1928)年の時だて。鶴舞公園の御大典奉祝名古屋博覧会を、見に連れてってもらったんだわ。そしたら敷島パンがテントでパン焼いとって、これがまたええ匂いなんだて。でも金が無いで買ってまえんでかんわ」。

中学を出ると家業に従事。

だがコーヒーカップや西洋皿を製造する家業は、戦況の悪化で輸出が揮わず廃業に。

昭和18年には、召集令状が届き、海軍陸戦隊として中国へと出征。

だが昭和21年2月には無事、復員を果たした。

それから2年後、名古屋で看護婦をしていた千代子さんと結婚。

やがて一男二女が誕生。

昌美さんは、タクシーやトラックの運転で、家族を支え戦後の混乱の世を渡り抜いた。

統制も解除した昭和26年。

名古屋でパン屋を開業していた戦友を訪ねた。

茶飲み話がてら、パン作りを見学していると、子どもの頃の鶴舞公園での記憶が甦った。

直ぐに瀬戸市の家へと戻り、平和への願いを込めて「平和パン」を見よう見真似で開業。

2年後には現在地へ。

「私の実家が隣りなんやて」と、妻が笑った。

以来、夫婦2人で焼き上げるメロンパンは、今も平和のシンボルとして町中で愛され続ける。

今は月水金の週3日、朝5時半から中ダネの仕込みが始まる。

1時間半の発酵後成形し、秘伝のメロンパンの皮を被せ、ホイロで2次発酵し焼成。

半世紀以上変わらぬ、甘いメロンパンの香が町中に溢れ出す。

「そうすると迎えの幼稚園から『パン屋のおじいちゃ~ん』って声がして。近所の人らからは『辞めてかんよ』って言われるもんで、まあちょっと死ねぇせんでかんわ」。

熟練のパン職人は、捏ね上げたばかりのパン生地のように、ほっこりとした笑顔を向けた。

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「天職一芸~あの日のPoem 356」

今日の「天職人」は、愛知県常滑市の「捻りオコシ職人」。(平成22年2月3日毎日新聞掲載)

縁に腰掛けばあちゃんは 陽だまりの中舟を漕ぐ         (ねじ)りオコシの菓子鉢を 胸に抱かえて夢の中           梅の蕾が春を呼ぶ 恥じらいながら色付いて           春告げ鳥を待ち侘びた 娘時代の夢草紙

愛知県常滑市で大正元(1912)年創業の山形屋製菓舗、三代目の捩りオコシ職人の榊原昇一さんを訪ねた。

飴色の土管坂。

レンガ組の1本煙突。

ゴー、ゴー。

作業場から響く動力の音が、静かな町の空気を揺らす。

「まるで鉄工所みたいやろ」。

男は黒光りする攪拌機(かくはんき)の前でつぶやいた。

「この機械も父親の代から使っとるで、えらい骨董品だわ。でももう、どこも作っとらんで手に入らんだ」。

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昇一さんは、昭和26(1951)年に3人兄弟の長男として誕生。

中学を出ると名古屋の洋菓子専門学校に学んだ。

そして卒業と同時に、名古屋の洋菓子店で修業へ。

「とにかく家の跡継ぐのが嫌で嫌で。とは言え、何をしたいんかも分からん。でも蛙の子は、どこまで行っても蛙のまんまさ。親父とお袋みたいに、明けても暮れてもオコシ作らなかんと思うと、それが嫌でな。一旦は洋菓子志したけど、結局最後は親父と同じだわ」。

昇一さんは、プレス機で板状に熨したオコシを取り上げ、傍らで棒状のオコシを2枚重ねにして、(ひね)りを加える娘を盗み見た。

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23歳となった昭和49年、洋菓子店を辞し異業種へと飛び込んだ。

「どうしても菓子作りとかとは違う、全く別の世界が知りたくて。それで4㌧トラックで小口の荷を運ぶ仕事に」。

だが年々年老いてゆく両親が気掛かりでもあった。

昭和54年、それまで両親と共に家業に従事していた、末子の弟が病を患った。

「そん時『これが潮時か』と観念してな」。

跡目を継ぐ決心を固め、家業に入った。

「小さい頃から毎日、見飽きるほど見てきたオコシ作りやけど、見るとするとでは大違いだわ。結局3年ほど親父から仕込まれて」。

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やがて同県東海市出身の有佳子さんと巡り逢い、昭和58年に結婚。

3女を授かった。

「昔は名古屋で、嫁入りの菓子撒きに使われて、秋から春までは大忙しだったわ」。

今でも地元の人々から、郷土自慢の手土産として利用され、愛され続ける庶民の銘菓だ。

「オコシは全国にあるけど、家のみたいに捻ったオコシは、ちょっと聞いたこと無いな」。昇一さんが初めて自慢げな笑顔を見せた。

捻りオコシ作りは、水飴にグラニュー糖と蜂蜜を入れ、熱して溶かす作業に始まる。

次に攪拌機にイラ(澱粉)粉と水飴を入れ、しっとりなるまで混ぜ合わせる。

そしてプレートに青海苔を敷き詰め、その上に水飴と混ぜ合わせたイラを平らに敷き、プレス機で板状に押し伸ばす。

最後は縦3㌢横14㌢程に切り落とし、青海苔の面を外側に2枚重ねにして一捻りすれば完成。

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「娘がやっとる捻りでも、一端までには半年。オコシは生きとるし、手捻りだで2つと同じにはならんで」。

「親とは違う」。

水面に映る己の姿を見つめ、オタマジャクシはそう思った。

だが時が経ち、改めて水面を見れば、そこにはあの日の親の姿が。

蛙の子が蛙であれば、何よりそれが一番。

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「天職一芸~あの日のPoem 355」

今日の「天職人」は、三重県鳥羽市の「サザエ壷焼屋女主」。(平成22年1月27日毎日新聞掲載)

磯の香りと焦げ醤油 サザエと牡蛎に大アサリ                  出船の時が気になれど ちょいと一杯コップ酒                  旨い肴と美酒に酔い 隣りの客と意気投合                    差しつ差されつ気が付けば 鳥羽の港の灯も落ちる

三重県鳥羽市の駅前。戦後間も無いころに創業された水沼さざえ店、三代目女将の中村鈴子れいこさんを訪ねた。

鳥羽駅の西口へ降り立った。

海風に煽られ、鼻先を焦げた醤油の香ばしさがくすぐる。

どうやら線路沿いの、こじんまりした商店街から漂って来るようだ。

どこの店先にも水槽が並び、サザエや牡蛎、それに大アサリが汐を噴き上げ、コンロの網の上では直火の熱さに観念した貝が口を開く。

注ぎ込まれた醤油が吹き零れ、美味そうな匂いを撒き散らす。

思わず口中に沸き出でる生唾を飲み込み、してやられた思いで暖簾を潜った。

「今日入ったサザエは、内海(うちうみ)のやで活きが違うよ。まあ焼けるまで貝の佃煮でも摘んで一杯やっとって」。鈴子さんが愛想のいい笑顔を振り撒いた。

鈴子さんは昭和28(1953)年、鈴鹿市の古市家に誕生。

中学を出ると名古屋の親類が営む鉄工所で事務職に就いた。

「算盤できるか?ハイッて」。

そこに将来苦楽を共にする、従兄弟との運命的な出逢が待ち構えていた。

鳥羽市の離島、菅島出身の先輩社員、小寺良之さんだ。

昭和46年、鈴子さんは18歳の幼な妻として嫁ぎ、二男を授かった。

「ちょうど子育て真っ盛りの頃、浦村で牡蛎の養殖をしてた親類から、『跡継いでくれんか』って。それで養子に入ったんやさ」。

昭和52年、一家は浦村に移住し中村姓へ。

「牡蛎の表裏さえ知らんし、島の方言はきっついし。『の、空にある竹籠下ろして、オジベに渡しといな』とかって。『の』は『あんた』って意味で、『空』が『上』、『オジベ』は『弟』ってこと。それに翌年義父が亡くなり、主人は大変やったんさ。でも島の人らは田舎の人やで、みんな優しいて。それだけが救いやわ」。

やがて子育ても一段落。

昭和62年から、牡蛎養殖の暇になる春から夏の間を利用し、得意先の一つであった水沼さざえ店でアルバイトを始めた。

「元々接客が好きやって、いつかは自分の店が持ちたくて」。

働き者の鈴子さんは、まるで水沼家の嫁のように、店主や客に可愛がられた。

しかし平成16年、義父母から受け継いだ牡蛎養殖を廃業。

「水沼さざえ店の二代目が、病気で引退することになって。そんなら私に継がせてと。ちょうど牡蛎養殖も下火になって来とったもんやで。もう辞めよかゆうて」。

翌年の正月、ついに51歳の新米三代目女将が誕生した。

新米と言えども、浦村仕込みの鈴子さんの目利きは天下一品。

今も直接、漁師や海女の伝手を頼りに仕入れる。

「伊勢海老やイジカ(ムール貝)は漁師さんから。サザエは85歳になる、浦村の海女さん。とにかく鮮度が命やで」。

活きのいい貝を網で焼き、醤油に酒と隠し味の砂糖で味を調えれば、磯の香り高きサザエの壷焼が出来上がる。

「51歳で好きな商売が出来たんやで、幸せもんやさ」。

女将曰ク「吾、五十ニシテ天職ヲ知ル」ト。

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「天職一芸~あの日のPoem 354」

今日の「天職人」は、愛知県豊橋市大井町の「管楽器修繕屋」。(平成21年1月20日毎日新聞掲載)

部活を終えた帰り道 急ぎ駆け出す川堤                     君は待ち侘び橋の下 サックス奏でムーンリバー                 橋の間近で歩を緩め そっと後ろに回り込み                   目隠し「誰だ?」悪ふざけ 茜陽浴びた長い影

愛知県豊橋市大井町、管楽器修理調整専門のくじら管楽器工房。主である鯨行伸さんを訪ねた。

「定年が60歳なら、就職から約40年。私は折り返しの42歳で、安定した賃金を得る場としての職場に別れを告げ、残りの生涯を賭ける職を手にしたんです」。行伸さんは、真新しい作業場で少年のような(まなこ)を輝かせた。

行伸さんは昭和37(1962)年、静岡県湖西市で長男として誕生。

父は会社が休みになると、自慢げにサックスやクラリネットを奏でたという。

その影響か小学校からギターを爪弾き、高校に上がるとブラスバンド部へ。

管楽器の巨人チューバを担当。

しかし高校も3年生になると、今度はジャズのサックス奏者ソニー・ロリンズの音色に魅了された。

「父は大枚50万円を叩いて、テナーサックスを買ってくれたんです」。

大学では理工学部に在籍する傍ら、仲間とジャズバンドを結成し、ライブハウスでの演奏に明け暮れた。

夢のような4年の日々はあっという間に終わりを告げ、地元の自動車部品メーカーで設計の職に就いた。

それから8年、豊橋市への転勤が決まり、予てより交際していた豊川出身の美知枝さんと結婚。

一男一女を授かった。

美しい妻と幼い子どもたちに囲まれた幸せな日々。

しかし心の何処かに、言い知れぬ違和感が芽生えた。

就職から15年。

卒業と同時に仕舞い込んだサックスは、それ以来一度も手にすることもなく、仕事と家庭だけに生き抜いて来た。

「サックスを吹きたい」。

もうその欲求は限界を超えた。

「豊橋にビッグバンドは無いかと、自分で探してバンマスにメールしたんです」。

埃だらけのケースを抱え、スーパースウイングジャズオーケストラの練習スタジオを訪ねた。

「15年振りに吹いてみたら、もう楽しくって。みんなと一緒に演奏できる素晴らしさを改めて感じて」。

月に2回の練習には欠かさず通い続けた。

それから3年。

40歳の節目を迎えた。

「『残りの人生、会社勤めのままでいいのか?』って、真剣に思い悩んで。妻に話したら『この人何言ってるの?』と洟もひっかけられず。それから2年ほど悶々としてました」。

そして辿り着いたのが修理専門の道。

平成16年に会社を辞し、浜松市の管楽器修理専門の学校へと、2年間毎日通い詰め、退職金と預金を注ぎ込み、30種類の管楽器修理を学んだ。

そしてついに平成18年に独立開業。

「最初はバンドの仲間から、口コミで紹介してもらいながら細々と」。そう笑いながら、サックスのパットの革を交換し、何度もキーを叩いて密閉具合を確かめる。

「紙1枚分の隙間でも、息が洩れますから。それに管楽器は、奏者一人一人で音色も変わります。呼吸や吹く時の癖も、微妙に違いますから。だから心に響くんです」。

遅かれ早かれ、きっといつかは巡り合う、一つ限りの天職に。

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「天職一芸~あの日のPoem 353」

今日の「天職人」は、岐阜県飛騨市古川町の「和蝋燭職人」。(平成22年1月13日毎日新聞掲載)

川面浮かべた灯篭は 初雪よりも穢れない                    芽生えた恋の渡し舟 三寺(さんてら)まいり雪の宵                     瀬戸川揺れる恋灯かり 二人屈んで手を合わす                  千の灯かりと千の恋 飛騨古川は雪の中

ぼくの曲にも「三寺まいり」がございます。ご拝聴いただければ幸いです。

岐阜県飛騨市古川町で明和年間(1764―72)創業の三嶋和蝋燭店、七代目主の三嶋順二さんを訪ねた。

小さな灯明が瀬戸川沿いに揺れ、穢れなき真っ白な雪が、娘たちの晴れ着の肩へとそっと舞い降りる。

「嫁を見立ての三寺まいり」とまで小唄に詠われる、飛騨市古川町に300年以上前から続く三寺まいり。

今年も15日の夜に恋の灯明が灯る。

「本当は、親鸞聖人を偲ぶ仏事なんやに。それが明治・大正の頃からやさ。野麦峠越えて信州へ糸引きの出稼ぎに行った、年頃の娘たちが里帰りして、着飾って瀬戸川縁を歩いて参拝するようになってな。それでいくつもの恋が芽生え、小唄にまで詠われるようになったんやさ」。

作業場には、七輪で熱せられた大鍋から、白蝋の淡い匂いが立ち込める。

順二さんは昭和21(1946)年、4人兄弟の次男坊として誕生。

「戦後になると急速に家庭から和蝋燭が消え、西洋電灯に取って代わられて。父は自分の代で、店仕舞うつもりやったんやさ」。

だが高校2年の年だった。

「NHKの日本の伝統っていう番組で取り上げられて。日本から和蝋燭が消えてしまうから、資料に残したいと。そりゃあ父は複雑な思いやったやろな。でもそれが放送されると、全国各地から家を訪ねて来るようになって。それで父も辞めるに辞められず。だからそれからも細々と家業を守っとったんやさ」。

順二さんは高校を出ると、地元の製薬会社に入社。

製造に携わり10年が過ぎようとしていた。

「そろそろ手伝いせんと」。

昭和48年、会社を辞し家業に入った。

「子どもの頃から、父の手捌きを見てはおりましたが、見るとするでは大違い。完全に体が覚え込むまで、15年ほどかかりましたわ」。

店の入り口左手が作業場。

2㍍4方ほどの小間が2つ並んでいる。

「左が父、右の奥が私。平成12年に父が亡くなるまで、親子で並んで()(がけ)してましたんやさ」。

昭和52年、隣町から洋子さんを妻に迎え、二男二女が誕生。

八代目はと問うた。

「一番下の息子が小学生の頃『俺が継ぐぞ』と言うとりましたが、どうなることやら」。

三嶋の和蝋燭作りは、毎年秋11~12月に九州・四国・近畿地方のハゼノキから取った実を乾燥させ、それを蒸してから搾り出した白蝋を、大鍋で溶かすことに始まる。

70~80度に熱せられた蝋液を臼に移し、擂粉木で1時間ほど練り上げる。

次に竹串の先に和紙と藺草の灯心を巻き付け、上から真綿を巻いて止め、蝋液の中を11~2回潜らせ1回で1㍉ずつ太さを出す。

そして先端部分を炭火で暖めた庖丁で切り落とし、芯を出して竹串を抜き取る。

最後に朱の顔料を混ぜた赤い蝋液を生掛すれば完成。

「和蝋燭の仄かな灯りは生きものやさ。家族の笑い声に合わせて揺れるんやで。まるでご先祖様が笑ろとるみたいにな」。

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「天職一芸~あの日のPoem 352」

今日の「天職人」は、三重県松阪市の「鮮魚列車行商人」。(平成22年1月6日毎日新聞掲載)

夜の(とばり)も明けぬのに 天秤棒で荷を担ぎ                     伊勢の鮮魚の振り売りへ ヨッコラ上る()(せん)(きょう)                 凍てたホームに白い息 行商たちが身を寄せる                  馴染み客待つ上方へ 鮮魚列車は走り出す

三重県松阪市、鮮魚列車行商人の東田里子さん=仮名=を訪ねた。

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「おはよ」。

「今日はまたえらい冷えよるわ」。

「せやなあ」。

午前五時過ぎ。

近鉄松阪駅の東口に、鮮魚の行商人たちが集まり出す。

伊勢湾でその日上がったばかりの鮮魚を、思い思いに携えながら。

通勤通学客と別のホームには、やがて宇治山田と大阪上本町とを結ぶ、貸切専用列車が滑り込んで来るのだ。

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先頭車両の行灯に「鮮魚」の二文字を燈し。

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その列車こそが、時刻表には載らない「鮮魚列車」だ。

伊勢湾の鮮魚を、行商人が奈良や大阪へと運ぶため、昭和38(1963)年から近畿日本鉄道で運行される、伊勢志摩魚行商組合連合会の貸切専用列車である。

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「昔はアサリがようけ獲れよってな、2日活かしといて砂抜くんやさ。そして天秤棒担いで、この鮮魚列車で京都や奈良へ、振り売りに歩くんやで。まだアサリでも枡の量り売りの時代やさ。わたしら結納交わした翌日から、夫に連れられ行商始めたんやで、もうじき半世紀や」。三重県松阪市、鮮魚列車行商人の東田里子さん=仮名=は、ホームで白い息を吐きながら笑った。

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里子さんは漁師の家で、昭和19年に4人姉弟の長女として誕生。

中学を出ると海苔の加工会社に勤務。

昭和38年、(かね)(つぐ)さん=仮名=と結ばれ、一男一女を授かった。

ちょうど東京五輪の前年、鮮魚列車が専用扱いとなった年のことだ。

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「元々夫は漁師やったけど、手が遅いもんで間に合わんのやさ。そやで結婚した時にはもう(おか)に上がっとった」。

京都駅からバスを乗り継ぎ、各地を転々としながら商いを続け、やがて大阪へと辿り着いた。

「ここがええって、居座ったんは東淀川区の辺やわ。小さな商店街の軒先借してもうてな。せやけど最初の客掴むまでは、そりゃあ大変やった。その内に『あそこの姉ちゃんとこの伊勢の魚は、鮮度もええし脂が乗って旨い』って評判になってな。確かに伊勢の魚は、地がええで。鳥羽の方は海も荒れるし汐が辛い。それに魚の種類も違うんやさ」。

夏はアサリに冬は海苔。

神々住まう伊勢の海産物を背に、夫婦は毎日上方へと通い詰めた。

「昔の専用列車じゃない頃は、一般の人らと一緒の乗り合いやったで、魚臭いとかよう苦情が来たらしい。そんな頃は、まだ行商人もようけおったんやさ。でも今しはもう売れやんで、行商行くもんも少ななってきたし」。

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鮮魚列車の運行開始時から、はやかれこれ半世紀。

雨の日も風の日も、夫婦二人で鮮魚を携え大阪へと通う日々。

「今しも、喧嘩しいしいやけどな。ほんでも行商のお陰で、子どもら2人育て上げられたんやで」。そう笑い飛ばしながら、鮮魚の荷に手を掛けた。

すると電車がピタリと滑り込む。

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けっして時計を見たり、案内放送が聞こえた訳ではない。

半世紀に及ぶ行商人生と、苦楽を共にした鮮魚列車。

駅に近付く軌道音と気配が、いつしか体に染み込んでいるようだ。

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「天職一芸~あの日のPoem 351」

今日の「天職人」は、岐阜県高山市丹生川町の「飛騨の汐ブリ職人」。(平成21年12月23日掲載)

今年の暮れは帰れぬと 母に侘びたる赤電話                  「ご飯は三度食べとるか 風邪ひかぬよに」母の声                晦日に着いた小包に 厚い切り身の汐ブリが                   火鉢で炙り湯呑み酒 遠き寺から除夜の鐘

岐阜県高山市丹生川町、遠州水産の汐ブリ職人、内山友男さんを訪ねた。

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「家は農家やったんやけど、両親共に障害があって貧乏やった。子どもの頃、3杯飯は(あわ)(ひえ)でさえ食えんかったんやで。腹減ると川魚捕まえたり、ヤマモモ取ったり。いっつも腹空かしとったわ」。友男さんは、窓から山並みを見つめ懐かしそうにつぶやいた。

友男さんは昭和24(1949)年、静岡県の引佐(いなさ)町(現・浜松市)で誕生。

中学を出ると地元の温泉旅館でアルバイトの傍ら、定時制高校へ。

卒業と同時に、板前を志し熱海へと向った。

「行くには行ったけど、本当は板前よりも、活魚がやりたくってな」。

その思いが拭いきれず、一晩で郷里へと舞い戻った。

「いつまでもブラブラしとれんで」。

しかたなく地元の自動車メーカーに入社。

それから5年が過ぎた。

「従兄弟の結婚式があって、嫁さんの同級生で、丹生川出身の今の女房と気が合ったんやさ。そしたらその内女房が『3人姉妹の長女やで、養子取らんと…』って言うもんで、冗談で『だったら俺行こか?』って。浜松駅まで送った帰り道。辻占に手相見せたら『水が渇かぬ山のある場所へ行け』と言われて。1年間遠距離恋愛を続けたけど、結局女房の両親に反対されて」。

昭和四十九年、駆け落ちの末、高山市の中心部で恵美子さんと所帯を持ち二男を授かった。

「近くのスーパーに入って、そこで鮮魚を扱うようになったんやさ。でも給料が安かってな」。

恵美子さんも印鑑のセールスで家計を支えた。

ところが新婚1年が過ぎた頃、友男さんの浮気が発覚。

「相手の娘に車貸したら、女房の知り合いに見られてもうて。女房のお祖母ちゃんから『養子縁組解消や』って。それでまた昔の旧姓に戻ったんやさ」。

勤め先のスーパーを辞して三日後、今度は隣町のスーパーから声が掛かった。

「土木作業の現場監督と、スーパーを掛け持ちで働いたんやて。心入れ替えて」。

それから1年。

誰も待つはずのない、真っ暗なアパートの部屋に、なぜか明かりが灯っていた。

「せっかく別れたのに、別のを貰う前に、これが子ども連れて戻ってきたらあ」。

すると恵美子さんが、傍らから口を挟んだ。

「そうや、嫌なら出て行くろうって」。

夫婦で顔を見合わせ大笑い。

押し寄せた荒波を乗り越え、晴れて本物の夫婦(めおと)となったと言わんばかりに。

飛騨の大晦日の食卓に、無くてはならぬ汐ブリ。

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まず富山湾で水揚げされた天然ブリを三枚に下ろし、一晩水に晒し脂抜き。

翌日水気を切り岩塩をすり込み、真空パックにしてマイナス50度で一気に冷凍。

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「こうすると塩が利き過ぎんのやさ。そして解凍し始めると、そこから身の中に塩が染み入るんやわ。海の塩は、塩辛くなり過ぎるであかん」。

大晦日までに約1㌧の汐ブリが出荷される。

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焼いた汐ブリに大根卸のポン酢醤油。

熱燗を煽れば、山深い飛騨の里に除夜の鐘が鳴り響く。

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「天職一芸~あの日のPoem 350」

今日の「天職人」は、愛知県小坂井町の「()(たり)神社の風車職人」。(平成21年12月16日毎日新聞掲載)

銀杏並木の葉を掃い 北風枝を震わせる                     ()(たり)神社の風車 子らは風待ち駆け回る                     俵型した羽根回し 小槌を振れば小豆鳴る                   忠実(まめ)な暮らしに豊作を 祈りを運べ風車

愛知県小坂井町の加藤ゆきやすさんを訪ねた。

子どものころ風車を手に、冬枯れた田んぼの畦道を、白い息を吐き、北風に向ってどこまでも駆け続けた。

誰の風車が一番良く回るか、そんな他愛も無い理由で。

愚鈍なほどに純朴だったあの日。

いつからだろう。子どもたちが、畦道という絶好の遊び場まで放棄してしまったのは。

だからもう、そんな昭和の冬景色にはお目にかかれない。

ところでこの風車はどうしたものだ。

妙に見慣れぬ形である。

まるでアイスキャンディーの棒が、三本交差したような羽根で、しかも柄を振ると、デンデン太鼓のような音がする。

「ここらあ小坂井町の()(たり)神社の風車は、羽根も木製だもんで、紙の風車ほどは回らんだあ。もともとは『風まつり(4月第2土・日)』の縁日に並ぶ縁起物。俵型した6枚の羽根に、一反の田んぼで六俵の米が採れるようにと豊作を願い、『六俵』を『無病』にかけて健康を祈っただ。そいでもって心棒の先っちょにガラガラ付けて、そいつを、打ち出の小槌に見たてるだ。中には小豆が入れたるもんで、忠実(まめ)に暮らせて仕事や金が、風車みたいによう回って、商売も繁盛しますようにってこったわ。ちょっと欲どしいか?」。()()さんは、経木を切る手を止めた。

之康さんは昭和14(1939)年、6人兄妹の長男として誕生。

高校を出ると乳製品製造会社に勤務。

「元々技術系が好きで、洗瓶機や検瓶機の修理が主な仕事だっただ」。

しかし勤続20年を目前に退職。

「人が出来ん仕事をしよと思っただわ」。

設備屋として独立し、ミクロの精密度が要求される、変電所の設備工事等を手掛けることに。

5人の妹を嫁に送り出し、昭和50年に近在から妻を迎えた。

だがものの4年で破局。

「縁がなかっただわ」。

おぼろげな視点のまま遠くを見つめ、微かに目を細めた。

しかしそれ以来、年老いた両親の面倒を、男手一つで最期まで看続け、平成17年に66歳で設備屋の看板を下ろした。

「仕事辞める10年ほど前から風車作りを始めただ。風車の職人が、たったの1人きりになっただもんで」。

手先の器用さは天下一品。

今さら習わずとも、子どもの頃の記憶と現物の見本で十分。

「縁の下で作る文化と、買って楽しむ文化の両方を残さなかんだわ」。

まずヒノキの経木から6枚の羽根板を切り出し、止め木に貼る。

次に中心部に太い群青色の円と、外側に緑色の円を二本描く。

俵の端は赤く、縦に藁縄の縄目を群青で描き、柄の取り付け。

そして小槌は、経木を円柱状に丸め、小豆を入れ和紙で蓋留め。

「米だと虫が喰うもんだで」。

最期に小槌を、柄の裏側に取り付ければ、素朴な風車が完成。

今より確かな明日への希望を、何人(なんぴと)もが平等に持ち得た昭和。

風車よ、回れ!

市井(しせい)の民の祈りと願いを、天に届けと回れ回れ!

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