「天職一芸~あの日のPoem 368」

今日の「天職人」は、愛知県新城市出沢の「養蚕農家」。(平成22年5月8日毎日新聞掲載)

小さな()()のお蚕が いつの間にやら中指大           桑の葉抱えガジゴジと 「たあんとお食べ絹になれ」       ()(かげ)明神おしら様 (はる)()が嫁にゆく日まで            穢れも知らぬ白無垢の 真白き繭となるように

愛知県新城市出沢すざわで大正時代から続く、養蚕農家三代目の海野ひささんを訪ねた。

「真っ黒な1㍉ばっかの()()が、5(れい)せると7~8㌢のドッチ(サナギ)になるだ。そいで2日も糸を吐きゃあ、真っ白な繭玉だわ」。久榮さんは、腰の桑摘み籠を外した。

久榮さんは大正14(1925)年、7人兄弟の長男として誕生。

「小学生になった昭和8年頃は、養蚕が大流行でのう。寺と商店以外、村のほとんどのもんが、養蚕せよっただ。輸出が盛んな時代やったで」。

尋常高等小学校を出ると産業試験場で学び、昭和16年に家業へ。

しかしその年も暮れ、真珠湾攻撃を境に日米が開戦。

絹糸輸出は中断、養蚕も衰退へ。

皮肉にもその前年には、養蚕業をさらに圧迫することとなるナイロン・ストッキングが、全米で発売されていた。

やがて日本は敗戦へ。

欧米では、化繊に押され絹需要が減退。

逆に国内では和服の需要が高まり、養蚕業も一旦活気を取り戻すものの、やがて中国、韓国からの輸入絹糸に押される憂き目に。

さらに昭和も50年代に入ると、和服離れが加速。

養蚕業全体が不況の澱みに呑み込まれた。

「まあ今残っとるのは、県内に2軒だけらあ。それでも今でも欠かさず36年間、家の繭を群馬県で絹糸にしてまって、伊勢神宮の天照大神に『三河赤引きの糸』として奉納せるだあ」。

写真は参考

久榮さんは昭和21年、近在からみつ子さんを妻に迎え、一男四女を授かった。

「一目見たとき、これだぞっと嫁に決めただ。それがもうはい孫が15人らあ」。

養蚕は、毎年5月5日の()き立て(孵化した毛蚕を羽箒(はぼうき)で新たな箱状の蚕座(さんざ)に移す作業)から10月初旬の桑の葉の終りまで。

掃き立ての日取りに合わせ、種屋が卵から毛蚕に孵化させた状態で仕入れる。

「種屋が卵をシート状の物に、均等に付着させて冷蔵せるもんで、それを『1枚くりょ、2枚くりょ』ってな感じて注文せるだ」。

1枚のシートには、卵が10㌘、約20.000匹の毛蚕となる。

その後、桑の新芽を2㍉ほどに刻んで与え、風通しの良い場所で飼育。

そしてサナギになるまで約1ヶ月(夏は20日)で5齢(5回の脱皮)し、丸2日糸を吐き続け繭玉となる。

「繭を作っとる時に揺すったると、鼻突きしてまって繭の内側が汚れてまうだ」。

こうして最高級品の三河赤引き糸が紡がれる。

「そんでも一向に相場は上がらん。昔っから米1俵が、蚕10貫目と決まってまって」。

だが夫婦は、お蚕様で5人の子を見事に育て上げた。

「娘4人の成人式には、家の2等や3等繭で晴れ着を拵えて」と、みつ子さん。

「私の晴れ着を、洗い直しに出して娘にも着せてねぇ」と、岡崎市に嫁いだ次女の直子さん。

「ほんでも汚れ落として洗ってまうだけで、4万円も持ってかれたらしいだあ」。

久榮さんの言葉に、親子水入らずの笑い声。

山鳥たちも釣られて鳴いた。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「天職一芸~あの日のPoem 367」

今日の「天職人」は、三重県亀山市御幸町の「時雨茶漬け弁当職人」。(平成22年4月24日毎日新聞掲載)

鈴鹿峠を上方へ 蒸気を吐いて汽車はゆく           「途中亀山辺りでも 駅弁こうて腹満たそ」          「時雨茶漬けの弁当か そりゃ珍しや食うてみよ」        まずはそのまま食べてから 茶漬けで二度のお楽しみ

三重県亀山市御幸町、明治二十三(一八九〇)年、関西鉄道(現JR)の亀山駅開業と同時に創業した、いとう弁当店。四代目主の伊藤とみさんを訪ねた。

洒落の効いた地口(じぐち)「その手は桑名の焼き蛤」や、座敷の酒盛り唄「桑名の殿様(とのさん)、時雨で茶々漬」とまで詠われる、蛤や時雨煮と言えば、三重県桑名市を代表する名物の一つだ。

「ところが当の桑名駅には、名物の時雨煮使こた駅弁がない。ならばと、アイデアマンの叔父が一工夫して昭和35(1960)年から売り出したのが、この時雨茶漬け弁当やさ。それも当初から、桑名で元禄年間創業の、新左衛門さんとこ(總本家貝新)から直接仕入れた時雨煮つこて。しかも昔は蛤。もっとも今はアサリやけど、それにしても100㌘あたりにすると、牛肉並みの高級品やさ」。富朗さんが、店内から正面の駅舎を見つめた。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA

富朗さんは昭和10年、4人兄弟の長男として誕生。

「私の子どもの頃は、笹の葉におにぎり2つ包んだ、おにぎり弁当だけでしたんさ」。

やがて亀山駅は、関西と中部を結ぶ大動脈として賑わいを見せた。

昭和33年、東京の大学を出ると、そのまましばらく、母の仕事を手伝うことに。

「母が東京で、お洒落小物の商いしてましたから」。

翌年の紀勢本線亀山―和歌山間全通を前に、家業に舞い戻った。

「父が体を壊し、叔父夫婦が店を切り盛りしてくれとったもんやで」。

そしてその翌年、ついに時雨茶漬け弁当を売り出した。

「まだそんな当時は、お座敷列車が走っとって『汽車で1杯やりもって、最後にお茶漬けで締めやんと』って」。

駅売りに立ち売り、そして店売り。

茶漬け弁当という珍しさもあり、飛ぶような売れ行きに。

「だいたい日本人は、お茶漬け好きやで、お盆や正月は帰省客でよう賑わったもんやさ」。

紀勢本線全通は、利用客だけの喜びではなかった。

時雨茶漬け弁当が発売されたその年、富朗さんは紀勢本線の遥か彼方、和歌山県串本町から豊代(ゆたよ)さんを妻に迎えた。

「私の叔母が四日市で一品料理の店やっとって、そこでちょっとの間手伝いしとったら、この人に見初められてもうて」。やがて二女を授かった。

時雨茶漬け弁当作りはは、注文を受けてから。

作り置きなどしない。

まずプラスチック製の丼8分目まで、ふっくら炊き上げたご飯を敷き詰める。

次に時雨煮の煮汁を刷毛で塗り、アサリの時雨煮を30㌘ほど載せ、ふりかけと刻み海苔を散らし、中央に紅生姜、そして片隅に桜漬けを添える。

上蓋を被せ、半世紀前から変わらぬ包装紙を巻き、亀山産のお茶を添えれば出来上がり。

「今でも注文があれば、改札やホームまで配達しますんさ」。

時雨茶漬けの食べ方は、最初3分の1をそのまま食し、残りを茶漬けに。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA

半世紀前、緩やかな時の流れに身を任した汽車の旅。

古里では首を伸ばし、我が子の帰りを待ち侘びる母がいた。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「天職一芸~あの日のPoem 366」

今日の「天職人」は、岐阜県高山市赤保木町の「飛騨の赤巻き職人」。(平成22年4月17日毎日新聞掲載)

膳が並んだ大広間 白無垢姿姉ちゃんが             上座で今日はすまし顔 叔父のめでたに声合わせ         鯛に天麩羅山の幸 どれもご馳走迷い箸             だけど一番好物は 「の」の字赤巻き蒲鉾や

岐阜県高山市赤保木町の坂井かまぼこ店、赤巻き職人の坂井宏司ひろしさんを訪ねた。

写真は参考

春の山王祭が終わったばかりの岐阜県高山市。

やっと山々に囲まれた町のあちらこちらで、春らしさが息吹始めた。

町の中心からわずかに外れた、田畑の広がる閑静な一画。

そこに控えめな看板を掲げた、目当ての店はあった。

そっとガラス戸から中をのぞき込む。

天井から回転式の、大きな木製の物干しが吊り下がっている。

なんと洗いたての真っ赤な越中褌が、傍らから扇風機の風にヒラヒラと揺れているではないか?

思わず店を間違えたかと、もう一度看板を見上げた。

「これは赤褌とは違がいますに。『の』の字の赤巻きゆうて、昔から飛騨の人らが食べはる蒲鉾ですんさ」。宏司さんは、左官の鏝のような長細い包丁で、赤い蒲鉾ダネをステンレス製の鏝板に延ばしながら大笑い。

写真は参考

「その赤巻きの赤の方を干して、白と合わせて『の』の字に巻くよに仕込むんやさ」。

傍らの蒸籠から、蒸し上がったばかりの鏝板を母怜子さんは取り上げ、厚さ3ミリほどの赤い蒲鉾を剥がし取り、ビラビラの状態のまま器用に物干しへと吊り下げた。

宏司さんは昭和39(1964)年、2人姉弟の長男として誕生。

高校を出ると、同市にあった蒲鉾屋へ見習い修業に。

「店の跡継ぎがおらんで、やがて店が持てるゆうて」。

平成2年に26歳の若さで独立開業。

主力商品は、北陸から飛騨一円で好まれる「赤巻き」と「白蒲」。

「赤巻き」とは、食紅で着色した赤のすり身に、白のすり身を肉厚に塗り延ばし、それを「の」の字に巻き上げたもの。

一方の「白蒲」は、底板のない無着色の蒲鉾。

いずれも凝固剤や保存料は一切使用されず、噛んだ時にキュッキュッと鳴るあの嫌な音も無く、ふんわりもっちりと心地よい。

飛騨で唯一の「赤巻き」作りは、北海道産のタラの切り身に鰹節、味醂、塩を加え、石臼で磨り潰し、紅白それぞれのすり身にする作業に始まる(赤のすり身には、調味料と共に食紅を加える)。

次は鏝板に赤のすり身を、練り庖丁で3㍉ほどの厚さに塗り延ばし、蒸籠で蒸し上げる。

そして鏝板から赤のすり身を剥ぎ取り、物干しに吊るして冷まし2日間冷蔵。それを3分の1に裁断し、白のすり身を厚さ5㍉に塗り延ばし、「の」の字に巻いて20分蒸し上げれば完成。

写真は参考

「火で軽く炙って、わさび醤油で食べると、これがまた酒とよう合うんやさ」。

宏司さんが左手で盃を煽る真似をした。

「赤巻きが紅白でめでたいで、昔は結婚式の折り詰めに使ってもらえたんさ。でももう今はあかん」。母はこっそり溜め息をついた。

「人様のお祝いばっかり作っとるでか、未だに嫁の来てがおらんのやで。まあはよ嫁貰ってまわんと、私ももう年やでな」。

我が春忘れ、「の」の字一筋20年。

飛騨の赤巻き職人に、季節はずれの春よ来い!

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「天職一芸~あの日のPoem 365」

今日の「天職人」は、愛知県豊橋市の「鋏研師む。(平成22年4月10日毎日新聞掲載)

「なまくら庖丁裁ち鋏 惚れた腫れたは遂げぬ仲         刃物であれば何なりと 研いで見せましょお立会い」       粋な研師の掛け声に 主婦で空き地は人だかり          砥石を滑る欠けた刃が 錆びを落として光り出す

愛知県豊橋市で昭和十年創業の豊橋理器、二代目鋏研師の坂本守男さんを訪ねた。

写真は参考

「東京オリンピックの昭和39年(1964)。豊川大橋の向こうで、結婚披露宴を挙げただ。そしたらもう、新婚旅行の列車の時刻だわ。慌てて着替えに帰ろうとしたら、ちょうど聖火ランナーが大橋を渡る直前とかで、通行止めじゃん。ほだもんで必死で事情話して、モーニング姿のまんま、聖火より先に橋渡っただ。多くの市民が聖火の到着を見守る中…。そりゃあ恥ずかしかったわ」。守男さんが、事務を執る妻を盗み見ながら懐かしそうに微笑んだ。

守男さんは昭和14年、7人兄弟の長男として誕生。

中学を出ると直ぐに家業に就いた。

「中学2年の時に、父が心臓病に倒れて引退したし、6人もおる兄弟養わなかんで」。

父の具合がよさそうな日には、鋏を砥ぐ父の側で、その一挙手一投足を瞼に焼き付けた。

「見よう見真似で、10年はかかったらあ」。

鋏は用途によって、大きさも形も、鋼の硬さまで異なる。

「硬くて厚い、命の通わん物を切る工作鋏に比べ、理美容の鋏は、人間の髪を切るもんだで、その瞬間の感覚が肌に直に伝わるだ」。

刃の厚みや角度を間違うと、髪が刃から逃げてまう。

工作用の鋏は、刃のついたササバの()(かく)が50度近い。

それに比べ、理美容鋏は40~45度と鋭角。

理美容鋏は正刃(せいば)に薬指、動刃(どうば)に親指を添え、親指だけを動かし切り進める。

「若い頃は、当時1本7~8万円もするような、高価な理美容鋏を何本折ったことか。でもそれを越えんと研師にはなれんだ。高い授業料だけど」。

24歳の年に、同県新城市出身の孝子さんと結婚し二男を授かった。

鋏研ぎの作業は、2本の刃が交差する部分の、カナメを外す事に始まる。

そしてまず裏スキ。

写真は参考

「これが肝心。グラインダーで刃の裏側に、反りとスキ(びね)りを入れ、刃線を細くし、裏刃がよう咬み合うにするだ。蛍光灯の光を当て、捻り具合を確かめながら。だで歳食って目が悪くなって来たもんで、その都度蛍光灯が1つずつ増えてくじゃんねぇ」。

そして人工砥石と天然砥石を使い分けながら、粗目から仕上げへと研磨。

「鋼は粘りがあって、研ぐと反発して跳ね返ってくるだ」。

写真は参考

800粒度のダイヤモンド砥石で刃角を出し、6000粒度の砥石の上に、三河産の(しろ)名倉(なぐら)砥石を擦り合わせ、白名倉砥石の()(じる)と水を掛け仕上げの研磨。

「研いだまんまだと、砥石の粒子の粗さが残って、髪を切るとカツンカツンとブツ切れになるだ」。

だが昔から刀鍛冶に愛用された白名倉砥石で仕上げれば、粒子が細かく刃の表面が際立つ。

写真は参考

「何でも使い捨ての時代。でも自分の売った鋏は可愛いで、ちゃんと磨き込んでやりさえすれば、また新しい命を注ぎ込めるらあ」。

この道半世紀。

生涯一研師であり続ける男は、蛍光灯に刃を翳した。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「天職一芸~あの日のPoem 364」

今日の「天職人」は、三重県亀山市関町の「関の戸屋主」。(平成22年3月31日毎日新聞掲載)

ご隠居さんの道楽か 甘い茶菓子を餌に釣り 茶室にぼくを正座させ 講釈垂れて茶の点前 今日の茶菓子の「関の戸」は 何やおはじきみたいやな 一度に二つ頬張れば 無作法(とが)めお説教

三重県亀山市関町、寛永年間(一六二四-四四)創業の銘菓「関の戸」で名高い深川ふかわ屋陸奥大掾だいじょう(京都御所から賜った従二位御用菓子司の称号)、十三代目当主の服部吉右衛門泰彦さんを訪ねた。

 街道の要衝、古代三関の一つ「鈴鹿関」。東海道五十三次四十七番目の宿として、歴史上の人物たちが京へ江戸へと上り下り、時代が駆け抜けていった「関宿」。

時代劇映画の撮影所かと見紛うほどに立派な江戸時代の街並みが、東西の追分間約1.8㌔にも及ぶ。

唯一心残りなのは、地面が舗装されてしまっている点だ。

宿の中程で一際異彩を放つ、お(たな)の2階より突き出した唐破風の被る(いおり)看板。

長い年月に盤面は風化しているが、京へ上る向きに「関の戸」、逆に江戸へと下る向きには「せきのと」と浮かせ彫りが施されている。

「昔からこの辺りの(もん)は、家で関の戸こうたと聞くと『そろそろあそこの爺様が危ないらしいわ』とたちまち噂が流れたようですわ。寛政年間(1789-1801)の記録によると、一口大の関の戸1個が、かけそば1杯の16文と一緒やったそうやで、そりゃあ高価なもんやさ。だから明日をも知れぬ年寄りに、最後だけでもせめて一口食べさせてやりたいと願う、いじらしい気持ちの現われですに」。泰彦さんが、帳場を横切り奥座敷へと導いた。

泰彦さんは昭和11(1936)年、3人兄弟の末子として誕生。

東京の大学を卒業すると、トヨタ自動車に入社し宣伝課へ配属された。

昭和34年、ニッサンがブルーバード、昭和35年にはトヨタから国民車パブリカが発売され、マイカーブームへ。

「時代の最先端を行く仕事でしたから、そりゃあ面白かったですよ」。

ところが肝臓を患い、療養のため帰郷。

「兄2人は家業と別の世界へ行ってましたから、自分の人生をもう一度じっくりと考え直すいい機会でした」。

そして得た結論は、当時1台65万円の車の商いより、関の戸1個15円の小商いだった。

27歳で家業へ。

「所得倍増計画が持て囃され、当時は欧米化へ一辺倒。日本の伝統文化が、どんどん見捨てられてゆく時代。だったらこの田舎の片隅で、江戸の文化を守り抜いて見ようかと。400年近く続いた血には抗えませんから」。

翌年、東京から同級生の摩須枝さんを妻に迎え、二男を授かった。

4世紀に渡り愛でられ続ける銘菓作りは、当主自ら早朝3時に起き出し、小豆鍋の火入れに始まる。

そして餡を漉し、餅粉に砂糖と水飴で煮て求肥に。

求肥がまだ熱い内に包餡し、和三盆をまぶせば、直径約3㌢、厚さ5㍉ほどの「関の戸」が完成。

何とも上品で雅やかな甘さが絶品だ。

「原料の配合や作り方も、寛政時代の記録のままです」。

帳場の横の総螺鈿(らでん)細工を施した、眩いばかりの重箱とそれを覆う荷担箱(にないばこ)

大君から庶民にまで愛され続けたこの店の歴史を、今も見守り続ける。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「天職一芸~あの日のPoem 363」

今日の「天職人」は、岐阜県高山市の「からくり楊枝とり職人」。(平成22年3月24日毎日新聞掲載)

ご隠居さんのご自慢は 世にも不思議な民芸品          子ども相手に得意げに 講釈垂れてご満悦           「これわかるか」と木の箱の 片隅押せばキツツキが       楊枝(ついば)み持ち上げる 飛騨のからくり楊枝とり

岐阜県高山市のきこり工房、からくり楊枝とり職人の瀬川治男さんを訪ねた。

飛騨高山の盆地は、雪解け水に洗われ、清らかな春の訪れを待ち侘びる。

遥か彼方に、峻険な稜線を横たえた霊峰乗鞍。

冠雪と山肌が描いた真冬の雪景は、音も無く日毎その姿を変えてゆく。

飛騨高山の春は、もうすぐそこまでやって来た。

「保育園の頃、いっぺんも見たことも無い富士山の絵を描いたんやさ。そしたら先生やみんなから、えっらい褒められてまって」。治男さんは、窓から山裾に残る根雪を見つめ、懐かしそうに笑った。

治男さんは昭和27(1952)年、お好み焼屋を営む両親の元で、4人兄弟の長男として誕生。

中学を出ると木工訓練校に夜学で1年通い、木工塗装を学んだ。

「それから通信教育で高校出て名古屋の家具屋へ。塗装やらせてくれるって言うもんやで。でも最初っからはさせてまえんで、2年ほど木工の加工を修行して、23歳になってやっと塗装やさ」。

それから4年、塗装一筋で腕を磨いた。

「それでもまだ納得いかんのやさ」。

昭和54年家具屋を辞し、失業保険で食い繋ぎながら、塗装の訓練校へと通った。

翌年、高山へと帰郷。

「最初はトラックに看板出して、出張で大工仕事やわさ。やれ襖がかたいだとか、棚吊ってくれとか。今で言う便利屋の先駆けやな」。

昭和57年、古民家を改造し、たった1人できこり工房を旗揚げた。

「最初は鶏小屋借りて、周りをビニールで囲っただけの粗末なもんやさ。そしたら音が喧しいって五月蝿がられてまって、古民家に落ちついたんさ」。

だがその翌年、なんの前触れも無く、大きな転機が訪れた。

「問屋の客が『爪楊枝を上手いこと1本取る、そんなからくりできへんか?』ってゆうてきてな。どうせ暇やで、手むずり(手探り)でやったんやさ。それも駄洒落で、楊枝『取り』と『鳥』をひっかけて。最初は『鳥』も鶏やって、でもそれじゃ大き過ぎてまってな」。

やがてこれが実用新案を得、永年土産物品の上位を定位置とする「からくり楊枝とり」になろうなどとは、当時の治男さんにも想像がつかなかった。

翌昭和58年、美智子さんを妻に迎え、二男一女を授かった。

「新婚旅行で北海道へ行ったんやさ。そしたら旅先の宿に電話が入って、近くの飲食店から200個も注文が入ったって」。

それが世に認められた瞬間だった。

その年、観光土産物品の見本市にも出品。

全国津々浦々からの注文を得、月産3500個を家内でフル操業。

翌年には実用新案も取得した。

「からくり楊枝とり」は、右手のレバーを押すと左手の蓋が開き、木箱の上の鳥が前傾姿勢となって、嘴で楊枝を1本咥えるもの。

「究極の仕上げは、鳥の嘴の内側に、滑り止めの加工をするとこやさ」。

町のからくり細工師が、自慢げにこっそりほくそ笑んだ。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「天職一芸~あの日のPoem 362」

今日の「天職人」は、愛知県新城市西新町の「大経師(だいきょうじ)」。(平成22年3月17日毎日新聞掲載)

破れ障子のその訳は 姉弟喧嘩のなれの果て           悔し涙が穿つ穴 開いた分だけ泣いた数             障子貼替え大晦日 父は薬缶を口にした             霧吹くはずがボタボタと 口から零れ大騒動

愛知県新城市西新町の京極襖店。大経師の京極善市さんを訪ねた。

「家の先祖は400年以上前に、京の戦乱で『都におったら首斬られる』と、遠州へ落ち延びてやあ。その分家がこの地に根付いたらしいだあ。だって裏には、400年前の蔵が残っとったじゃんね」。善市さんは、店と棟続きの奥を指差した。

400年以上も前の京極姓と言えば、室町時代の()(しき)(しゅう)か?

「それが遠州の過去帳を手繰って見ても、途中で消えてまっとるらあ。それでもここへ移り住んでから、京極姓は本家だけが名乗って、後はみんな改姓してったらしいわ。やっぱり首狙われたらかんでだらあ」。

善市さんは昭和25(1950)年、3人兄弟の長男として誕生。

「母の体が弱くて、小学校3年から高校出るまで、人形店を営む道楽もんの叔父の家に預けられただあ」。

高校出ると豊橋の親戚の表具屋へ。

4年間の修業に就いた。

「道楽もんの叔父の影響か、鮎釣りと狩猟がとにかく好きでやあ。まともな勤め人になったら、鮎釣りも狩猟も思う様に出来んらあ。そんだで職人の道が性分にあっとるだあ」。

そして昭和47年、わずか22歳にして晴れて一本立ち。

己が腕一本だけが頼りの、職人道を歩み始めたのだった。

襖の中でも茶室の(にじ)り口に用いられる坊主襖は、越前や美濃の手漉き和紙で仕上げる、経師冥利に尽きる本物の和襖と言える。

写真は参考

「まあ今時、本物の和紙使う襖なんて、1000軒の内たった1~2軒らあ。みんな和紙に似せた洋紙ばっかだもんで」。

坊主襖は、襖障子の(かまち)と組子に正麩の糊を刷毛塗りし、手漉きの石州(せきしゅう)和紙を両面に下貼り。

写真は参考

次に格子の1箇所に、石州和紙を6~7枚貼り合わせ手掛け部分を作る。

これは格子の1桝だけ、襖を横から見た時に「Z」の文字になるように、格子の右上、つまり襖の裏から表側の左下へと、和紙を斜めに渡して貼り込む。

したがって襖の表面から見ると、手掛けの上部に手が入り、逆に裏面では手掛けの下部に手が入る状態となる。

次いで下張りした和紙の上から、4隅にだけ糊付し、薄い和紙を受け貼りする。

「下地の上に薄手の和紙を受け貼りすると、中に空気の層が出来るらあ。それが湿気を上手い事吸って、湿度と寒暖の差を調整してくれるだ」。

そして最後に美濃の手すき本鳥の子紙を本貼りすれば完成。

最後の仕上げに、薬缶から水を口に含んで、霧吹きでもするかと問うた。

「そんなことしたらかんて。ぼぼけて(弛んで)まうし、乾くと急激に縮んでまって、まあ湿気もすわんくなるだあ」。

経師の道具は「付回(つけまわ)し」「糊刷毛」「水刷毛」「撫で刷毛」のたった4本。

写真は参考
写真は参考
写真は参考
写真は参考

刷毛使い一つに、経師は己が持つ技量の全てを注ぐ。

昭和50年、叔父の人形店で店員だった悦子さんと結ばれ、一男一女を授かった。

「まあこの道40年らあ。そこそこに仕事して、後は鮎と狩猟で愉しまんと」。

平成の大経師は猟犬を抱えた。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「天職一芸~あの日のPoem 361」

今日の「天職人」は、三重県志摩市阿児町の「貝殻細工師」。(平成22年3月10日毎日新聞掲載)

箪笥の上の飾り棚 埃被った置物は               子供の頃の旅土産 母が記念にこうた物             海水浴の思い出が 色鮮やかに浮かび出す            松ぼっくりと巻き貝の 狸に似せた貝細工

三重県志摩市阿児町、貝殻細工の境工芸社。二代目貝殻細工師の境一久さんを訪ねた。

「貝殻細工の原価はただやでな。旅館の客が一杯飲んで、たらふく食うた後の、アワビの残骸とかの廃棄物を利用するんやで」。一久さんが、入り口に積まれた貝殻を指差した。

一久さんは昭和31(1956)年にこの家の長男として誕生。

その9年後に、父が境工芸社を旗揚げた。

「最初の頃は、観光地の土産物屋に並んどったような、貝殻細工やったんさ。木の切り株を土台にして、色んな貝殻を松ぼっくりなんかと組み合わせて、狸や河童に似せた置物にしたり」。

写真は参考

東京五輪も終わり、世はまさに大阪万博の昭和45年に向け、国内旅行ブームの真っ盛り。

海の家から土産物屋まで、手軽なご当地土産として、貝殻細工の置物は人気を博した。

一久さんは商業高校へと進学し、美術部に所属。

「頭がわりかったで」。

高校を出ると、病気がちであった母を案じ、家業に入った。

「最初はアコヤ貝(真珠貝)から、貝細工に使う部分の型取り作業専門。表面のフジツボを取り除き、真珠層が出るまで削ると、運がええと100枚に1枚の割で、一層目に緑色が出る時があるんやさ。二層目には、岩海苔のような焦げ茶色が現れるんやで。そりゃあ貝殻だけが持つ、神秘的な天然の色やさ」。

それから7年。

「貝殻つこて絵を描けんやろかと、ずっと思とったんやさ」。

昭和56年、貝殻細工の工芸額製作へと乗り出した。

「例えば、浜から海を眺めた構図の絵を描くとしよか。そうすると向こうの水平線の波は、一番細かくうねっとるし、手前側の波は大きくうねるよに見えるやろ。せやで絵の中に遠近感を出そうとすると、細かく貝を型取りせなんのやさ。この絵に張り込む貝殻のパーツ作りが、一番手間なんやに」。

昭和61年、地元からまゆみさんを妻に迎え、一女を授かった。

貝殻細工の額作りは、朝から日が沈むまで、貝の型取りに始まる。

そして夕餉を終えてから、下絵に合わせ、水平線の方から細かい貝を張り合わす。

まるで編み込むように絵の下側、つまり手前へと徐々に太く長い貝を張り込んでゆく。

「岬の灯台やら、向こう岸の山とのバランスを確かめながら、さらに全体の色の具合も見やなかん。特に桜貝の裏に彩色すると、表から見るとええ色が出るんやさ」。

とにかく何万点という、膨大な数に及ぶ貝殻のパーツ。

職人は裸電球の灯かりを頼りに、絵の構図に合わせ貝を選り分ける。

そして貝が放つ自然な発色を透かし見、その色が一番生きる場所へと配置する。

「貝殻で描いた額は、正面と左右の三方向から見るんでは、それぞれに色合いもちごてくるんやさ。海の物だからこその、なとも言えやん色合いでな」。

例え貝の命は尽きようと、殻は2つと同じ色の無い天然色を、永久に放ち続ける。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「天職一芸~あの日のPoem 360」

今日の「天職人」は、岐阜県高山市久々野町の「()(とう)杓子職人」。(平成22年3月3日毎日新聞掲載)

父の手製の自在鉤 少し歪な木彫り鯉              煮えた鉄鍋田舎汁 椀を抱えて腹鳴らす             木蓋開けば部屋中に 味噌の香りが立ち込める          春まだ遠き飛騨の郷 有道杓子でもう一杯

岐阜県高山市久々野町、有道杓子職人の清水眞さんを訪ねた。

果てしなく続く、漆黒の闇のように高い天井。

黒く煤けた太い梁が縦横に渡り、雪国の古民家をしっかと支える。

炭火の熾る囲炉裏には、祖父母に父母、真っ赤なほっぺの兄弟がいる。

誰もが黙し、鉄鍋に立ち上る湯気を見詰め、木蓋が取り上げられる瞬間をじっと待ち続ける。

つい囲炉裏に座すと、そこで暮らした経験も無い癖に、そんな感傷に浸るのはなぜだろう。

やはり日本人だからか。

「囲炉裏の道具は、自在鉤、炭取り箱、火箸、火消しつぼ、五徳、灰掻き、灰ならし、十能、台十能、火起し器に囲炉裏鍋。それに無くてはならない()(どう)杓子(しゃくし)。と、ここらじゃ昔からそう決まっとんやさ」。眞さんは、杓子鉋でお玉の内側を削り出しながら笑った。

写真は参考

眞さんは昭和9(1934)年、7人兄弟の長男として誕生。

大学で美術工芸を学び、卒業後は教職に就いた。

「本当は戦闘機に乗りたかった。だから自衛隊に入ろうかと、悩んだもんやさ。でも最終的には教職の道へ。学校じゃ、ずっと美術一筋やってね」。

昭和35年には同市丹生川町から百合子さんを妻に迎え、一男一女が誕生。

平成6年、教職に身を捧げ通し、晴れて定年を迎えた。

「もともと有道杓子は、久々野でも一番南の渚という集落で作られとった物。農閑期の冬の収入源としてな。それを春になると高山市内へと、売りに行ったんやさ。ところが昭和35~40年頃に、村のもんらがみんな都会へ出て、廃村で有道杓子の伝統も絶えかけたんやわ。(から)(たに)栄一さんという、たった一人の伝承者だけを残してな。このままではいかんぞと、平成12年に昔取った杵柄で、教育委員会と掛け合い、有志三人で保存会を始めたんやさ。高山市内から、殻谷さんに毎週来てもらって、木の割り方から教えてもらって」。

最初の1年目は、なんとも下手糞すぎた。

商品として売り出すには気が引けたと言う。

だが2年後、ついに発祥の地である渚地区の、道の駅で販売を開始した。

「これがまた人気が出たんやさ」。

翌年には高山陣屋の夏祭りで、実演販売をするまでに成長。

今は10人の同士と共に、月に200本あまりを製造する。

伝統の有道杓子作りは、朴の木を1尺(約30㌢)に切断し、丸鉈で7~8本に割ることに始まる。

「朴の木は削りやすく、割れにくいで加工しやすい。だから昔は、狂いが無いからと刀の鞘に使われとったもんや」。

次に柄とお玉の余分な箇所を鉈で落とし、柄の反りを鉈で削り落し、出刃包丁で仕上げる。

そしてお玉の内側は、(よき)で荒削りと中削りを施し、杓子鉋で仕上げて完成。「お玉に、削り跡の溝が残るようにな」

消え入る寸前であった雪国の生活道具。

だが、(さと)の暮らしを愛する憂卿の士の手で、再び伝統の灯は燈された。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「天職一芸~あの日のPoem 359」

今日の「天職人」は、愛知県東海市大田町の「手焼海老せんべい職人」。(平成22年2月24日毎日新聞掲載)

内職仕事手を止めて 母は欠伸を噛み殺し            音羽屋海老せんパリポリと ズズーッと啜る出涸らし茶      母の唯一贅沢は 知多のアカシャの海老せんべい         他所で見切りの品を買い 音羽屋だけは正札買い

愛知県東海市大田町で、大正初めに創業された音羽屋。知多の港でその日水揚げされたばかりの、新鮮なアカシャエビだけを使った、正真正銘の海老せんべいの老舗。女主と呼ぶにはおきゃんな、前田佐知子さんを訪ねた。

「四代目が私です」。佐知子さんだ。

佐知子さんは昭和49(1974)年、浅井家の次女として誕生。

音羽屋の仕事は、昔も今も変わらない。

早朝の魚市場での仕入れに始まり深夜まで。

写真は参考

「だから両親なんて、一度も運動会に来てくれたもことないし」。佐知子さんは表通りで遊ぶ、我が子を見詰めた。

「小っちゃい頃から『お前は死んだ兄ちゃんの変わりや』って言われ…。高校生の頃には、魚市場で父に仕入れの手伝いさせられとったもん」。

高校を出ると得意の英語を活かそうと、国際観光専門学校へ。

「でも姉も嫁ぐと、誰があの重いエビを運ぶんだろう。やっぱり就職は無理かって思ってました」。

専門学校を出ると、家業の手伝いの傍らケーキ屋や自動車会社でアルバイト。

「年頃だったし、ちょっとは他所の世界も見たくって」。

平成10年、年老いてゆく両親を見かね、家業に専従した。

「私は父が40歳の時の子だったからか、普段はものすごく優しくて。でも仕事になると超ど一刻。足の骨折れても添え木して、生地には絶対触らせてくれんし」。

だが平成12年、そんな父も心筋梗塞で他界。

「亡くなる前日も、翌日の段取りしとったのに」。

親子三人水入らずの海老せん作りは、たったの2年で潰えた。

「生地の味付けは母が分かっても、焼き方がわからんもんで。母がもう店畳もうかって。そんな時、魚市場の仲買いのおばちゃんから『お父さんなあ、本当はあんたに継いで欲しかったんやで』と聞かされて」。佐知子さんの瞳が不意に濡れた。

「父が亡くなる前日の、鉄板の温度設定だけを頼りに、何度も何度も失敗を重ねて」。

平成14年ついに先代の味を復活。

店の棚に「海老せんべい」が並んだ。

そして高校時代の同級生、幸弘さんと結婚し一男一女を授かった。

しかし喜びも束の間、その年の暮れ今度は母が末期癌に。

「病床で『もうこんなえらい仕事せんでいいから、側におって』って。でもここで店閉めたら、嫁に出たので浅井の名も絶やしたし、せめて両親との思い出が詰まった店だけは守らんとって」。

名代の海老せんべい作りは、アカシャエビの頭を手で落とし、専用機で殻を剥く作業に始まる。

次に馬鈴薯の澱粉、砂糖、塩と練り、鉄板で素焼き。それを3㌢ほどの棒状に切り、1日半乾燥させ冷蔵。

そしてその日に製造する分だけを取り出し、上から湯を掛け1~2日。

最後にもう一度鉄板で焼き上げれば、知多産アカシャエビだけを使った音羽屋の海老せんべいが完成する。

「暖簾はこの店と生きた、先祖の表札そのもの。だから私が頑張って守れば、きっと両親の供養になるはず」。

うら若き女将はこっそり瞼を拭った。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。