「天職一芸~あの日のPoem 378」

今日の「天職人」は、愛知県豊橋市の「カステーラ職人」。(平成22年7月17日毎日新聞掲載)

月命日のお仏壇 祖母の好物山のよう              桃や葡萄にカステーラ 舌なめずりで手を合わす         供物の下がり待ちきれず 祖母にゴメンとカステーラ       セロハンめくり(かぶ)り付きゃ 「罰当たりが!」と大目玉

愛知県豊橋市、昭和40(1965)年創業の、カステーラの三景。女将の森下悦子さんを訪ねた。

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店先に漂う甘く芳醇な香り。

子どもの頃はこの匂いに釣られ、カステーラの焼き上がる時間を見計らい、何度も店の前を行き来した。

カステーラを頬張った、あの得も言われぬ食感を思い出し、その香りを腹一杯に吸い込もうと。

昭和半ばの時代、カステーラはまだまだ高級品。

だから病人の見舞いか、仏事でもなければ、めったやたらと口に入る代物ではなかった。

ふっくらもっちりと、舌に纏わり付く馨しさが堪らない。

「主人の焼くカステーラは、昔ながらの味やゆうて、皆さんご贔屓にしとくれやす」。悦子さんが、鮎菓子を包装する手を止めた。

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「この鮎菓子は、豊川の天然もんをモデルにしたるじゃんね。京都風に(えら)が張り出すように、皮を焼き上げて直ぐに折り曲げたるで、活き活きしとるらあ。でも家内が皮で求肥を包むと、(なまず)になってまうだ」。主の睦美さんが顔を出し大笑い。

睦美さんは、同県豊根村の農家で、9人兄弟の4男として昭和11年に誕生。

昭和26年、中学を出ると豊橋市内のパン屋で修行に就いた。

「まんだパンなんて、食券で買わなかん時代やった」。

10年後、叔父の世話で京都市の京菓子大極殿へ。

不慣れな土地に住み込み、修行に明け暮れた。

「3年したら兄が、ここの土地を買ってくれただ。急いで八卦見に屋号の相談したら、日本三景くらい有名になるようにと『三景』にせえと」。

東京五輪に沸き返った翌年、念願の店を現在地で開業。

翌年には、京都から悦子さんを迎え妻に迎え、二男一女を授かった。

「家内は大極殿で、事務員しとっただ。でも開業した1年目は、店がちゃんと回ってくか不安だったじゃんね。だもんで最初は1人で店を切り盛りして、ちょっと自信のついた翌年に、家内を迎えただあ」。

開業当初からの名代の逸品、三景のカステーラ作りは、材料の攪拌に始まる。

小麦粉、卵、砂糖、水飴、蜂蜜をきっちりとした分量で配合し、永年の経験に物を言わせて攪拌。

それを杉の正目で作った四角い木枠に、トタンを内張りした型に流し込む。

「焼き上がると、杉の木のいい香りがするだ」。

そして300度に熱したオーブンで、約1時間ほど焼き上げる。

「アルミの型では、木型のように上手く焼き上がらんだ。それに冬と夏、雨と晴れとでも、食感に微妙な違いが生じるで、後は火加減と永年の勘が頼りじゃんね」。

毎日5㎏が焼き上がる。

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「クリスマスだけ、常連さんに頼まれて、ケーキを150個も作るだあ」と、睦美さん。

「とにかく大忙しで、お寺に嫁いだ娘の旦那も、住職やけど手っとうてもうて。あっちは仏さんやで、その時期は閑じゃんね」。

東海道を下り、吉田の宿に嫁いだ京女も、今じゃすっかり三河の女。

ジャンダラリンの三河弁に、京言葉がはんなり入り混じる。

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「天職一芸~あの日のPoem 377」

今日の「天職人」は、岐阜県富加町の「関の刀匠」。(平成22年7月10日毎日新聞掲載)

トントンカンと(かな)(どこ)に 赤い火花が弾け飛ぶ           白装束に烏帽子(えぼし)()け ()()の刀匠玉の汗            中心(なかご)に刻む鑢目(やすりめ)の 美濃関鍛冶の鷹羽(たかのは)は             折って鍛えし刀匠の 矜持(きんじ)をかけた一振りよ

岐阜県富加町で明治35(1902)から続く刀匠、三代目丹波兼にわかねのぶさんを訪ねた。

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幣紙(へいし)が垂れる藁縄の結界。

刀匠の聖地、()()では紅蓮の炎が勢いを増す。

「砂鉄から鋼を製鉄する(たた)()の神は、金屋子(かねやご)神と呼ばれる、えらい醜女(しこめ)の姫さんやったんやと。だで昔から、別嬪さんを連れてったらいかんと、言われたもんやて。それに鋼を生む火床を、昔の人は女陰を意味する『(ほと)』と呼んだとか」。兼信さんが、その由来を語った。

兼信さんは昭和28(1953)年、10人兄弟の7男として誕生。

「遅がけの子やったで、いつも父親に付いて回っとったらしい。確か小学5年の頃や。父と客人の話しの中で、跡取り話しが出て。そしたら急に父が『これがやるやろう』と。『お父ちゃん、俺に期待しとるんや』と思ったもんやて」。

大学を出ると、72歳の父に弟子入り。

「先代が病を患うまで16年間、教えていただきました」。

兼信さんは実父に対し、無意識に敬語を使った。

父である前に、今も師である証しだ。

「本当は、『早よ覚えんと死んでまう』と、切羽詰まっとったでな」。

古式日本刀の鍛錬は、刀匠と3人の先手(さきて)による、鋼の折り返し鍛錬に始まる。

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まず刀匠が火床の横に座し、(ふいご)を操り火床の温度を上げる。

そして梃子(てこ)(ぼう)の先に付けた、鋼を火床で沸かし(融点まで熱する)、それを(かな)(どこ)の上に取り出し、1番手から3番手までの先手が順に、大鎚で打ちつける。

刀匠は小鎚で、先手の打つ位置を示す。

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大鎚で打ち、そして折り返し、また火床で鋼を沸かし、不純物を全て焼き尽くす。

「その内に鋼の声が聞こえるんやて。『もういいよ』と。すると鋼の表面が羊羹みたいに滑らかになるんや」。

次は、鍛え上げた鋼の塊を重ねて沸かし、当鎚(あてづち)を打って鍛接する「作り込み」。

続いて刀の長さと身幅、そして厚みを整えながら「素延(すの)べ」。

それを横座(刀匠)が、火床で赤め小鎚で打つ「火造(ひづく)り」へ。

「火造ったままの凸凹を、(せん)(やすり)(なら)す」。

そして刃に焼刃土(やきばつち)を被せ、刃文の文様が出るように、土を薄く掻き取り、850度で10分間焼入れ。

水に浸けて「火取り」し、刃文を硬く仕上げる。

さらに150度で加熱し、「(あい)()り」へ。

「刃先に粘りを出すんやて」。

次に「鍛冶押し」と呼ぶ研ぎを行い、中心(なかご)を鏟と鑢で整え、化粧鑢で美濃地方の特有の鷹羽(たかのは)鑢目(やすりめ)を入れ、(たがね)で表に「兼信」の銘、裏に年号を刻む。

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「刃文は神代(かみよ)の時代から、たったの5種類しかないんやて。神代の直刃(すぐは)、平安末期の小乱(こみだれ)、鎌倉中期の丁子(ちょうじ)、鎌倉末期の()ノ目(のめ)、南北朝の(のたれ)。関の孫六は、尖刃(とがりは)の互ノ目や」。

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この一連の作業で、優に15日以上が費やされる。

 独り身を通した兼信さんに、跡継ぎはない。

「火床も炭を継ぎ足さんと、消え行くのが定め。それと一緒やて」。

刀匠は、己の鍛え上げた業物を、感慨深げに見つめた。

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「天職一芸~あの日のPoem 376」

今日の「天職人」は、三重県伊勢市常磐の「いばら饅頭職人」。(平成22年7月3日毎日新聞掲載)

母は部類の餡子好き 畑仕事の帰り道              菓子屋の前で品定め おはぎさわ餅柏餅             中でも特に好物の いばら饅頭目がのうて            端午の節句過ぎるのを 今か今かと待ち侘びる

三重県伊勢市常磐、いばら饅頭の島地屋餅店。三代目女将の島地きよさんを訪ねた。

「柏餅が終わると『いばらまだ?いばらまだ?』ゆうてな。端午の節句が終わると、もう待ちきれやんお客さんらが、買いに見えるんやさ」。きよさんは、にっこり笑って表通りを見つめた。

きよさんは同県度会町の農家で、8人姉弟の長女として昭和10(1935)年に誕生。

「あんな頃は、『産めよ増やせ』の時代やったでな」。

農業を手伝いながら高校を出ると、花嫁修業の和裁を学んだ。

昭和31年、21歳で島地家に嫁入り。

一男三女を授かった。

「主人は教員を目指しとったんやけど、18歳の年に義父が亡くなって、家を継がんなんゆうて進学を断念したんやさ。何でもな、義父はえらい酒飲みやってな。戦時中は満足な酒も手に入らんやろ、それで仕方無しにメチルに手出して。せやで今際の際の言葉は『あっ、真っ暗になってしもた』やったとか。周りにおるもんらが、慌ててマッチ擦って見せたそやわ。それから統制が解除されるまでは、干したサツマイモを粉にして、お団子にしたりしてな。闇物資は取り上げられるで、そりゃあもう大変やったらしい」。

いばら饅頭は、元々伊勢地方に伝わる庶民の菓子で、昔は田植えの済んだ野上がりに、各家々で作られた。

「どこの家もなあ、子どもらが山行って、いばらの葉を取って来たもんやさ」。

いばらとは、サルトリイバラの楕円形の葉で、サンキラ(山帰来)の葉とも呼ばれる。

根は、利尿、解熱、解毒に効果がある生薬だ。

いばら饅頭作りは、毎朝5時半からの仕込みに始まる。

まず小麦粉を熱湯で手煉りしながら、砂糖と1つまみの塩を加える。

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「砂糖を加えやんと、皮が割れてもうて、水泡が出るんやさ」。

次に自家製の餡を1玉ずつに握り、それを生地で包餡し、塩漬けいばらの葉2枚で挟むように包み、10分間蒸し上げれば完成。

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毎朝7時半には店が開き、ほっこり蒸し上がったばかりの、いばら饅頭が店頭に居並ぶ。

毎朝100個前後が製造されるが、残念ながら売り切れ御免の商品である。

「今しは、仕込から製造まで、みんな嫁がしてくれるでな。せやで今日こさえた分だけ、1日かけてボチボチ2人で売らしてもうとんやさ。大量生産する大手とちごて小商いやで」と、きよさん。

「でもなあお義母(かあ)さん『それが安心やでええっ』て、そんなお客さんがおるんやで、ありがたいことやに」。嫁の朗子(あきこ)さんはそう言いながら、冷えた麦茶といばら饅頭を勧めた。

いばらの葉を1枚めくり、無作法にもかぶり付いた。

するといばらの葉が仄かに香り、艶と張りのある皮の向うから、柔らかな餡が口の中にまったりと広がる。

伊勢人の、秋口までのお愉しみ。

市井(しせい)の銘菓、いばら饅頭もう一つ。

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「天職一芸~あの日のPoem 375」

今日の「天職人」は、愛知県豊橋市の「チンチン電車運転士」。(平成22年6月26日毎日新聞掲載)

運転席の真後ろが 幼いぼくの指定席             「発車オーライ」チンチンと マイク片手に車掌さん       指先確認真似ながら ぼくの気分は運転士           「チンチン電車お通りだい」 それゆけ道のド真ん中

愛知県豊橋市の豊橋鉄道で、昭和47(1972)年からチンチン電車の運転士を続けた、森島とめひろさんを訪ねた。

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昭和を駆け抜けた、天下御免のチンチン電車。

交通量の多い大通りでも、道の中央を威風堂々たる姿でひた走ったものだ。

だがそれも東海地区では、もはや唯一、愛知県豊橋市に残るだけとなってしまった。

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「元々が、しゃんべぇ(遠州弁=喋り好き)だで、車掌時代もワンマンカー運転せるようんなってからも、お客さんと接することが全然苦んならんじゃったでねぇ。昔はお婆さんなんかが、『これ、余ったやつだけど、あんたに上げるわ』って、差し入れしてくれたこともあっただ」。留廣さんだ。

昨年定年で退職し、現在は車庫内で電車を移動させる、操車係りを務めている。

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留廣さんは昭和24年、静岡県浜松市で5人兄弟の3男として誕生。

中学を出るとそのまま、豊橋鉄道に入社し車掌として乗務した。

「真っ黒な車掌鞄を肩から吊り下げて、パンチ(切符に穴を開ける鋏)を西部劇のガンマンみたいに、右手でクルクルッと回して。当時は車内にマイクがあれへんもんで、大声を張り上げて案内せんとかんじゃんね」。

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東京五輪が終わったばかりの時代、チンチン電車の運賃は、大人が12円、子どもが6円だった。

それから6年。車掌が乗務したツーマンから、ワンマン運行の時代へ。

「他の車掌は配置換えしてったけど、私は好きな電車から離れられず、運転士を希望しただあ」。

昭和47年に運転試験に合格。

「見習いの頃は、先輩の運転士が同乗して、通常ダイヤの合さ縫って回送電車で練習しただ」。

ワンマンに切り替わったとは言え、まだ電車はツーマン時代のまま。

「車掌が乗っとった時代ならええけど、運転士一人きりだもんで。バックやサイドのミラーを取り付けてまうまでは、勘だけで走っとっただわ」。

豊橋駅前から赤岩口まで、毎日7.5往復を運行した。

昭和51年、渥美線豊橋駅の出札に勤務する、窓口担当のマドンナ公子さんの心を射止め結婚。

三男を授かった。

「労働組合のキャンプで、初めて口利いただ」。

37年間、退職の日が訪れるまで、留廣さんは白手袋を着け、行路表(運行ダイヤ)を手に、大好きなチンチン電車を走らせた。

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「何でチンチン電車かって?それは、車掌が乗務しとった時代の名残だって。車掌が呼鈴の釦を、チンチンと2回鳴らせば発車。チンが1回だと止まれ。チンチンチンチンと連打すれば緊急の合図。だもんでチンチン電車だわ。もう今では、チンチンなんて鳴らんけどな」。

中学を出て45年、ひたすら同じ道を走り続けた。

「どんなに街や人が変わろうと、未だに何一つ変わらんのは、初めて公道を電車で走った、あの時の線路だけらあ」。

それが留廣さんの愛した、豊橋レイルウェイズ。

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「天職一芸~あの日のPoem 374」

今日の「天職人」は、三重県伊勢市八日市場町の「小西萬金丹当主」。(平成22年6月19日毎日新聞掲載)

御蔭参りの昔から 伊勢の土産は数あれど            何は無くとも伊勢暦 伊勢白粉(おしろい)に萬金丹             初瀬参宮別街道 上り下りの旅枕               山海(やまみ)の幸の御食(みけ)つ国 つい食べ過ぎて萬金丹

三重県伊勢市八日市場町に今も残る、大和大掾だいじょう小西萬金丹本舗。奥の間に十六代目を継ぐ4男小西治さんと、長女で十五代目を務めた佐藤瑞子みずこさんを訪ねた。

伊勢神宮へと続く旧参宮街道。

切妻造りの商家が、今もひっそり時の流れに抗うように佇む。

開け放たれた座敷には、漆黒の立て看板に、「まんきんたん」の金の文字。

伊勢の霊薬「小西萬金丹」は、遥か330年以上もの昔から、全国で常備薬とし重宝がられた生薬だ。

「私は長女でしたで、昭和36(1961)年にこっから嫁に行ったけど、弟らはみんな勤めに出てもうて。だから母が亡くなってからこの人が跡継ぐまで、私がボチボチ店番して。元々小さい時から、家業に興味もあったでな」。瑞子さんが傍らの治さんを見つめて笑った。

「私は58歳まで、伊勢の市役所に勤めしてましてな。せやで当主ゆうても、まだ新米ですんさ」。治さんは照れ臭げだ。

伊勢国司、北畠家の家臣であった日置越後守清久は、主家滅亡後に医道を志した。

そして堺の小西家で秘方を譲り受け、姓を改め延宝4(1676)年に創業したのが小西萬金丹の始まりだ。

「戦時中、私がまだ小学校の低学年の頃やわ。ガンジャ(製丸師)さんが寒の厳しい頃にやって来て、1月ほど滞在するんやさ。それで萬金丹の生薬を、クルクルッと器用に丸めて丸薬にしてな。その手付きを見るのが好きやって、飽きやんと1日中眺めとったんやさ」。瑞子さんが目を輝かせた。

萬金丹の製造は、まず主原料となる阿仙、甘草、桂皮、丁子、陳皮など、乾燥した固形の薬草を、石臼や()(げん)で卸し、粉にする作業に始まる。

次に馬毛の網の()篩器(ふるいき)にかけ、さらに木目の細かい粉にする。

そして練り鉢に移し、寒梅粉と繋ぎになる米粉を足して手練り。

練り上げた原料を製丸機の中へ入れ、心太突きの要領で小穴から6~7㍉程度押し出し、細刃の刃物で切り取って、製丸台の上へ1列ずつ順に並べる。

それを繰り返し、製丸台の上が一杯になったところで、取っ手の付いた平板を被せ、円を描くように丸薬に仕上げる。

「まるでその手付きが神技のようでな。ガンジャさんの傍らで、くっついてよう見よったもんさ」。

しかし平成19年の薬事法の改正に伴い、庶民の伝統薬は、健康維持食品へ。

(もっ)(こう)の代わりに阿仙を増やして。今しは富山の製薬会社さんに、委託で作ってもうとんやさ。でも薬効は、昔と代りませんに」。と治さん。

奥座敷には、江戸時代の貴重な製薬道具から、製丸機までが一堂に保存されている。

「この人は独身やで、私とこの娘が継いでくるとええんやけど。ご先祖さんが遺した、伝統の家業やでな。壊したるんと、壊れてくんのとは違うで」。

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瑞子さんは、享保8(1723)年に宮家より賜った、大和大掾の許状を見つめた。

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「天職一芸~あの日のPoem 373」

今日の「天職人」は、三重県亀山市御幸町の「味噌焼きうどん職人」。(平成22年6月12日毎日新聞掲載)

七輪炙り鉄板で 味噌焼きうどんジュージューと         月に一度の給料日 父はすっかり赤ら顔             味噌の絡んだトンちゃんを せっせと父がほじり出し       うどんキャベツは母とぼく 皆で仲良く突き合う

三重県亀山市御幸町の亀とん食堂、二代目主の村主すぐり浩二さんを訪ねた。

昼時、どこからともなく味噌と脂の焦げる匂いが、商店街の食堂から漂う。

埃だらけのウィンドーに、亀山名物「味噌焼きうどん」の但し書きと蝋細工の見本。

名物ならばその由来はと、発祥の店を探した。

駅の北側をしばらく西へ向うと、「亀とん食堂」なる暖簾を掲げた店を発見。

店の脇から、味噌と脂の匂いが襲い掛かってくる。

店内は既に満席。

まだ昼だというのに、ジョッキ片手の赤ら顔が鉄板を突く。

「ご注文は?」と問われ、迷うことなく、味噌焼きうどんを所望。

すると「何の?」と切り返された。

「・・・何のって?そりゃあ、うどんでしょ」。

あまりの頓珍漢なやりとりを見かね、隣りの客が解説を買って出た。

「ここにはなあ、『味噌焼きうどん』と言うメニューはないんや。まず初めに好きな焼肉を注文するんさ。トンちゃんや牛ホルモンにカルビとか、何でも好きなんを。それとうどん玉を頼んで、肉とキャベツのブツ切り炒め、そこへうどん玉を放り込んだら味噌焼きうどんの出来上がりやさ。これがここらの(もん)が、昔から食べよる本物。それをB級グルメで町興しとか言い出して、あちこちで売り出すようになったんさ」。

そう言うと隣の客は、美味そうにビールを飲み干した。

「はいっ、トンちゃんにうどん玉。お待っとうさん」。浩二さんが、コンロに火を点けた。

浩二さんは昭和15(1940)年、名古屋市で5人兄弟の4番目として誕生。

大学を中退すると楽器販売会社に勤務。

だが昭和37年、父の在所の亀山へ家族で移住。

母がその年に開業した、亀とん食堂を手伝うことに。

「最初は普通の食堂で仕出し弁当とかもしよって。昭和44年からやわ、ホルモン専門店にしたんわ」。

昭和49年、鹿児島出身の千鶴子さんと結ばれた。

「あれが三代目になる、女房の弟の倅や」。

「爺、オイは継ぐなんち、まだ一言も言うとらんとよ」。甥の(はぎ)木場(こば)明さんが、笑いながら打ち消した。

味噌焼きうどんの由来を問うた。

「そんなもん、味噌焼きうどんなんて、決まったもんは無い。知らん間にお客さんが、焼肉にうどん玉放り込むようになっとったんやで。そしたらそれが美味いもんで評判になって。ええっ?味の決めて?そりゃあ肉に絡める味噌やろ」。

亀とんの味噌ダレは、八丁味噌、醤油、砂糖、焼酎、酒、味醂、ニンニク、一味、胡麻油、胡麻を調合。

「それともう一つ、最大の隠し味は何と言ってもこれやさ」。浩二さんは悪戯っ子のような表情を浮かべ、ビールを取り上げた。

「ここが味噌焼きうどん発祥の地かって?元祖は、家よりちょとだけ先にやり出した、この先の兄の店やわ」。

味噌ダレに溶け出した肉の旨味が、真っ白なうどんに纏わり付く絶品の味。

気取らぬ店の、気負わぬ庶民のおご馳走(っつお)

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「天職一芸~あの日のPoem 372」

今日の「天職人」は、岐阜県高山市の「朴葉みそ職人」。(平成22年6月5日毎日新聞掲載)

破れ障子の穴ぼこを 朝日が射抜き顔照らす           布団被って寝返れど 母のまな板トントンと           やがて(くど)から炊き立ての ご飯の匂い立ち込めて         囲炉裏囲めばグツグツと 五徳の上の朴葉みそ

岐阜県高山市、明治二十三(一八九〇)年創業の醸造元角一。四代目朴葉みそ職人の日下部達彦さんを訪ねた。

飛騨焜炉(こんろ)の炭火に炙られ、朴の葉の上で味噌がグツグツと煮え、やがて焦げ始める。

口中にドッと生唾が湧き上がり、お腹の中がグルグルッと活発に動き始めた。

「子どもの頃の朝飯と言えば、おかずは朴葉みそやさ。長ネギ、椎茸、豆腐、鰹節に切干大根と。具は何でもええんです。その家その家にある物を、みその上に載せるだけ。おかずが味噌やで、わざわざ味噌汁作らんでええし。手間要らずで滋味豊富な一品やさ」。

「代々味噌屋でしてな。朴葉みそは昭和45年に祖父が観光客向けとして商品化したんやさ。ちょうどアンノン族の、国内旅行ブームが始まった頃から。昔この飛騨では、家々で作った自家製味噌を、朴葉に載せて焼いて焼味噌にしたり、樽の中で凍ったまんまの漬け物出して、朴の葉の上で溶かしながら食べたもんやさ。それとなあ、古漬けの酸っぱい白菜やカブをまたじ(片付け)する時、一昼夜水に浸して酸味と塩分飛ばし、醤油と砂糖で炒め煮した『煮たく文字』とか。昔は山国の貧しいとこやったで、古漬けでも捨てんと一工夫。これもまた飛騨の庶民の味やさ」。

達彦さんは昭和38年、3人兄姉の末子として誕生。

東京の専門学校を出ると、味噌の専業問屋で修業。

5年後、埼玉県の酒のディスカウントショップの販売へ。

「まあ今思えば、親に対するささやかな抵抗みたいなもんで」。

2年後家業に就いた。

今や土産物でも常に上位を占める朴葉みそは、まず基本となる味噌作りに始まる。

大豆は一昼夜水に浸け、6時間蒸し上げる。

米も蒸し上げ、米糀菌と塩を混ぜ、豆と共に木桶に仕込む。

そして10ヶ月~1年間、味噌は深い眠りにつく。

「普通の味噌は塩分濃度が11~13%。家のは8.4%と控えめなんやさ。それに十割(とわり)糀やで、大豆と米が1対1。だから普通の味噌より糀が多い分、糀の仄かな香りと甘味が出るんさ」。

そして熟成した味噌に砂糖、還元糖、調味料を混ぜて攪拌し、朴の葉2枚を添えれば、角一自慢の朴葉みその完成。

「先代の話やと、戦前戦後の食糧難の時代は、糀味噌ゆうたら超高級品で、病人にしか食べさせられんほどやったらしいわ」。

平成4年、埼玉県から博子さんを妻に迎え、二女を授かった。

「昔飛騨の山師は、弁当と味噌を朴の葉に包み、山に入ったそうですわ。それで弁当開いて、朴の葉で味噌炙って食べはったとか。昔の人は偉いもんや。朴の葉に殺菌効果があることを知っとったんやろか?家が昭和45年に朴葉みそ売り出した頃は、毎年10月になると『朴葉買い受けます』って広告出してな。朴葉を120万枚ほども買い込んだそうやで」。

飛騨の名物数あれど、も一度食べたや朴葉みそ。

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「天職一芸~あの日のPoem 371」

今日の「天職人」は、愛知県豊橋市入船町の「ネオン管職人」。(平成22年5月29日毎日新聞掲載)

男やもめの旅の宵 夜の長さを持て余し             下駄を鳴らして漫ろ行きゃ ネオン瞬く花の街          男心を(もてあそ)び 揺れてネオンが袖を引く              どうせ一見(いちげん)ばかりなら 惚れた女の名の店へ

愛知県豊橋市入船町、昭和十五(一九四〇)年創業のトキ工芸社、四代目ネオン管職人の土岐光吉さんを訪ねた。

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街にネオンの灯が瞬き出すと、居ても立ってもいられない。

そんな若かりし日もあった。

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哀愁漂う、儚げな淡い灯かりの下。

今夜も、男と女の恋物語が生まれる。

「ネオン管の修行は、ちょうど30歳になってから、単身で広島へ。そしたら親方から、『そんなもん20歳までに来んとあかん』って、いきなり言われて。もう歳食い過ぎとったし、体の柔軟性も無く、固まってまっとったで」。

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光吉さんは昭和32年、3人姉弟の長男として誕生。

「父はペンキ屋継いだもんの、『いつまでもペンキ屋だけじゃ食って行けん』と、戦後しばらくして看板屋に鞍替えただあ」。

高校を出ると、脇目も振らずに家業へ。

時代は高度経済成長から、安定成長期へと向い、郊外型の大型ショッピングセンターの進出が相次ぎ、屋外看板の需要も拡大した。

「だいたいネオンサインは、同じ看板でもワンランク上。でもネオン管職人が少なく、外注で頼むと手間賃だけで4割持ってかれるだ」。

昭和61年、知人の紹介で理恵子さんを妻に迎え、一男一女を授かった。

「家族も増えることだし、いつまでもネオン管外注しとれん」。

新妻を残し、単身広島へと向った。

「とにかく40日間、地獄の味わいだわ。周りはみんな一回りも歳が若いらあ」。

とにかく一日も早く技術を手に、家族の元へ戻りたい一心で、誰よりも早く技術を身に着けた。

直径わずか14㍉、長さ1670㍉のネオン管製作は、まずネオンで描く文字原稿を、原寸大の版下にする作業に始まる。

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「昔はネオンと言ったら、ネオンガスを入れた赤色と、アルゴンガス入れた青色のたったの2種類。でも今は、ガラス管の内側を、顔料で色付けしたものもあって、色数がようけ増えた。それでも、さすがに金銀の色は出せんだあ」。

次に文字の形状に合わせ、ネオン管をバーナーで炙りながら曲げ、管の両端に電極と排気口を取り付ける。

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「とにかくネオンは曲げが命。曲げたら今度は焼き。200~250度がガラスの融点だで、そのちょい手前まで焼いて、管の中の微生物を焼き殺し、ガスを注入するだ」。

そして排気口を密閉し、管が冷めるのを待って通電。

丸2日仮点灯を続け、クラック(割れ目)や、ネオンの色(むら)がないか確認。

「念入れて点検せんと、ビルの屋上とかへ取り付けてまって、不具合に気付いたら大事(おおごと)らあ」。

そしてチャンネル文字など、屋外看板の躯体(くたい)に取り付け完了。

「それでも青色のネオン管に鳥が突っ込んだり、虫が寄って電極突っついて、漏電したりするだで」。

観光客を虜にする100万ドルの夜景。

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人はなぜか、遠くで瞬くネオンの灯りに、様々な思いを馳せ心を揺らす。

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「天職一芸~あの日のPoem 370」

今日の「天職人」は、三重県四日市市の東阿倉川の「万古焼急須職人」。(平成22年5月22日毎日新聞掲載)

朝昼夕と日差し追い ()け台持って場所を替え          繕い物の内職に 母は精出し暇惜しむ              母の小さな愉しみは ラジオの曲の懐メロと           急須傾け茶を啜り 徳用あられ摘み食い

三重県四日市市の東阿倉川、万古焼の急須を手掛ける洙山しゅざん陶苑の山本修さんを訪ねた。

「急須はなあ、煎茶を入れるだけの道具やないんさ。使うたびに手の脂が染み込んで、照りが出る。すると生き物みたいに表情も変わって、使い込むほどに味が出て来るんやさ。せやで長い年月掛けて急須に染み込んだ模様は、家族の歴史そのものやろな」。修さんは、窯から取り出したばかりの急須を徐に取り上げた。

急須は春の日差しを浴び、()(でい)色の鈍い輝きを放つ。

「昔の瓦のような輝きですやろ。これはなあ、無釉のまま1180度くらいで焼成すると、陶土の中の鉄分が炭化して、こんな紫泥色になって輝き出ますんのんさ」。

実に重々しいほどの(にび)色だ。

修さんは昭和25(1950)年、3人兄弟の長男として、(ちく)()業を営む父の元に誕生。

「元々祖父は登り窯職人やって、父の代になって万古焼のトンネル窯造りを専門とするようになったんさ。えっ?トンネル窯が何やって?トンネル窯ってのは、そのまんま窯が100㍍ほど続いとって、例えば天日干しした急須を入り口から入れますやろ。そうすると急須が、トンネル窯ん中はってって自動的に焼成され、100㍍完走してゴールしたら焼き上がりっちゅーわけやさ」。修さんが大きな声で笑った。

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「よう子どもの頃、築炉を人工甘味料のチクロと間違えられて。発癌性が高いとかで、食品への使用も禁止された頃、『お前んとこ、毒作っとんのかあ』って、よう冷やかされたもんやわ」。

高校を出ると直ぐに家業入り。

「でもその頃には、窯造りも衰退期でしてなあ」。

昭和46年、母方の祖父が急須造りをしていた関係もあり、急須の量産会社の見習いへ。

「ちょうど1年経ったころやわ。親方が『そろそろお前1人でやってみろ』って。そんなん、窯入れもまだ1回しか焚いたことないんやに」。

22歳で独立。

「最初は母と私の2人っきり。それでも当時は、(しゅ)(でい)の急須の方が、ようけ売れましてなあ」。

万古焼の急須作りは、陶土を攪拌機で泥沼(でいしょう)にすることに始まる。

次に急須型の石膏枠に流し込む。

そして石膏が水分を吸収し陶土が固まると、型から取り出し、胴、手、蓋、口、摘みの部品を泥糊で接着。

天日で2~3日乾燥させ、表面を研磨し窯詰め。

そして15時間ほど還元焼成すれば、釉薬(うわぐすり)も掛けぬのに見事な紫泥色の急須に生まれ変わる。

「窯の中に酸素を送らんと、酸欠状態のまま焼くもんやで、それで土に変化が出るんやさ」。

昭和58年、由紀子さんと結ばれ、一男一女を授かった。

「お互いの友人同士の結婚式で、受付を一緒にしたんが縁やったんさ」と修さん。

傍らで妻が一言つぶやいた。

「年入ってたけど、この人まだ独身やったもんで」。

急須一筋、間も無く40年。

創業当時の急須には、家族の喜怒哀楽が染み込み、言葉で言い表せぬ景色が滲んでいる。

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「天職一芸~あの日のPoem 369」

今日の「天職人」は、岐阜県高山市若遠町の「武道具商」。(平成22年5月15日毎日新聞掲載)

蹲踞(そんきょ)に構え切っ先の ただ一点に気を遣れば           世事の雑念霧散して 「始め」の声も颯然と          鯉口(こいぐち)切って斬り結ぶ 武士(もののふ)たちの世は昔             されど竹刀を交えれば 戦の(とき)の声がする

岐阜県高山市若遠町の武道具専門店、栄光堂の主、古橋節次さんを訪ねた。

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昭和半ばの路地裏で、必ず目にした光景。

それは少年剣士たちのチャンバラごっこだ。

汗で黄ばんだランニングシャツに半ズボン、真っ黒に汚れたズック姿。

道端に枯れ枝の一本でもあれば、誰もがテレビのヒーローに成り得た時代だ。

「そうやさ。ほんなもん今は、チャンバラごっこしとる子なんて、どこにもおらへんろう」。節次さんは、表通りの小路を見詰めた。

節次さんは昭和18(1943)年の誕生。

高校を出ると、地元の造り酒屋の営業職に就いた。

「高3の時の夏休みに、東京で職業実習に20日ほど行ったんやさ。そしたら東京の暑さに耐え切れんでな。こんなとこよう住めんわって、地元で職を探したんやさ」。

それから10年、いつか自分の酒屋を持つ夢を携え、身を粉にしながら営業に勤しんだ。

「でも当時は酒の販売も免許制やったでな。それがなかなか簡単には、許可を貰えんのやさ」。

大きな壁が立ちはだかった。

「自分が何をすべきか、ほとほと悩んだもんやさ。で、そん時思ったんや。子どもの頃からの特技を活かしたろうって」。

節次さんは小学5年から、今も剣道を続けている。

昭和46年、造り酒屋を辞し、開業資金を借り入れ、剣道、柔道、空手を専門とする武道具屋を開業。

「飛騨一円に武道具の専門店なんて、当時も今もなかったもんやで」。

しかし販売だけでは、一度売ればそれまで。

ところが道具は、練習に励めば励むほど傷むのも定め。

籠手(こて)の内側の革の張替えや、竹刀の(つる)紐の取替え、ささくれ立ったり割れた竹の取替えとか。修理に関しては全くの素人やったで、取引先や職人の店に通って、見よう見真似やさ」。

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開業から2年目の冬。

友人と志賀高原へ、スキーのバス旅行に出掛けた。

「一つ前の席に可愛い娘がおったんやさ」。

それが縁で、せつ子さんと結ばれ、二男一女を授かった。

竹刀の長さは身長により、3尺6寸から9寸までの4段階に分かれる。

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長さに応じて縦割りにされた竹を4本合わせ、柄革と先革(さきがわ)で覆い、剣先から鯉口まで弦紐を張り、中じめで止める。

「弦を張った方を刀の峰と見立てるんやさ」。

最後に鍔と鍔止めを固定すれば完了。

節次さんは、剣道5段に、無双直伝英信流居合8段の凄腕の持ち主。

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だが表情は、春の陽だまりのように穏やかだ。

「今でも警察の道場借りて週に2回、近所の小中学生集めて、剣道教室を開いとるんやさ」。

開業から間も無く40年、剣道を通じ礼儀礼節作法、そして精神修養の場として、青少年を見守り続けてきた。

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「竹刀を抜いて蹲踞に構え、切っ先を合わす瞬間が肝心。切っ先がぶれとりゃ、雑念に惑わされとる証拠や。そんなん『始め!』の掛け声の時点で既に『勝負あり!』やさ」。

節次さんの()竹刀(がたな)が、上段から空を斬り裂いた。

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