「天職一芸~あの日のPoem 388」

今日の「天職人」は、三重県尾鷲市賀田の「ろっぽう焼き職人」。(平成22年10月2日毎日新聞掲載)

輪内(わうち)七浦(ななうら)賀田(かた)の里 入江に揺蕩(たゆとう)(あさ)(がすみ)              熊野詣での古道ゆく 旅人たちも一休み             ちょいと一服茶に銘菓 ならばこの地の名物を          姿形は五角でも ろっぽう焼きとこれ如何に

三重県尾鷲市賀田で昭和8(1933)年創業の、みのや製菓舗。二代目主の、大川きんさんを訪ねた。

「何で5角形の7面やのに、ろっぽう焼き言うんやろうね。最初は4角の6面やったけど、それやと4隅が生焼けになってしもて。生焼けせんように、4角の面を押し付けて焼いとったら、そのうちに5角形になってもうとったんさ」。欽生さんは、人の良さそうな笑顔で出迎えた。

欽生さんは昭和16年、6人兄弟の長男として誕生。

中学を出ると直ぐ、家業に従事した。

「父も修業に行った、久居(津市)の製菓店で、勉強させてもうて」。

父と共に、郷土菓子の「おさすり」「ろっぽう焼き」の製造に精を出した。

「あのねぇ、おさすり言うんは、米粉の餅に漉し餡入れて、(さん)帰来(きらい)(サルトリイバラ)の葉に包んだ、柏餅のようなもんやね。ろっぽう焼きゆうたら、元は隣りの曽根町の菓子屋さんが始めたもんで、今はもう家しか作っとらん。これは金鍔(きんつば)の親戚みたいなもんで、漉し餡入れたちょっと小ぶりな5角形やさ」。

親子水入らずの気取らぬ商いは、代々この地に暮らす人々から愛され続けた。

昭和47年、隣りの曽根町からくすみさんを嫁に迎え、やがて二男に恵まれた。

出逢いは?と問うと「あのねぇ。父が曽根町の医者の葬儀に行ったんやさ。それで葬列に加わって歩いとった時、道端で葬列を見送るこれを見つけたんやと。帰って来たらいきなり『お前の嫁さん見つけて来たったで』って」。

義父に見初められたくすみさんが、傍らで少女のようにはにかんだ。

「あのねぇ。この辺りには、7つの浦があって輪内(わうち)いうんさ。それである時、ろっぽう焼きを輪内焼きにしよかと。近所の知り合いら20~30軒に、アンケートを取ったら、みなろっぽう焼きいう名を変えやんでくれゆうてな」。

ご当地自慢のろっぽう焼き作りは、砂糖、水飴、卵、水、そして隠し味に味醂、醤油を混ぜ合わせることに始まる。

次に小麦粉と炭酸パウダーを入れて混ぜ合わせ、手練で固さを調整。

そして生地に自家製の北海道産小豆の漉し餡を包餡し、鉄板の上で表裏を焼き、周りを5角形に回し焼けば出来上がり。

「昔は山師さんが、1人でいっぺんに40個も食べたのもおったさ」と夫。

「山師さんらは重労働やろ。せやで甘いもんが必要なんと違うやろか。ここらは何と言っても、輪内音頭とろっぽう焼きやでな」。

♪輪内七浦鏡の入江 ちょいとちょいと♪

いきなり目の前でくすみさんが、輪内音頭を口ずさみ踊り出した。

「なっ、古賀メロ()ーのええ曲やろ」。

夫婦の笑い声は、まだまだ止みそうに無い。

平成14年5月から始まった天職一芸も、この夫婦で404回目。

しかし取材の後、唄って踊ってくれたのは、後にも先にもこれが初めてだ。

物書き冥利に尽きた、尾鷲賀田の浦。

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「天職一芸~あの日のPoem 387」

今日の「天職人」は、愛知県春日井市美濃町の「白墨職人」。(平成22年9月25日毎日新聞掲載)

給食後の5時限目 うつらうつらと舟を漕ぐ           ハッと気付いて澱拭(よどぬぐ)や 横のあの娘も吹き出した         眠っちゃかんと思うほど 睡魔の罠に落ちてゆく        「こらっ!」と教師の怒鳴り声 ちびた白墨でこパッチン

愛知県春日井市美濃町の羽衣文具。三代目、白墨職人の渡部隆康さんを訪ねた。

カツカツ、キキーッ。

黒板を走る白墨が、時折り耳障りな音を撒き散らす。

すると虫唾が走り、なぜか両の指先の力も抜け落ちたものだ。

写真は参考

「昔の白墨は、滑りの悪い粗悪な物もありましたからなあ」。隆康さんが、懐かしげにつぶやいた。

隆康さんは昭和19(1944)年、名古屋市中区で3人兄弟の長男として誕生。

「創業者の祖父は歯科医だったんです。ところが昔は、歯の治療から歯科技工まで、全部こなさんとだめだったようで。もともと祖父は創意工夫が好きでして、雑貨や金物の発明などもしたそうです。そして歯科医時代の技工で、石膏を取り扱った関係もあり、昭和7年に白墨製造を始めたんです」。

ところがやがて、戦争の暗い影が立ち込める。

「私が産声を上げた時は、既に父は召集され戦地でした」。

昭和20年の名古屋大空襲で焼け出され、家も工場も失った。

「翌年父が復員し、昭和22年に工場を再開したんです」。

その後、昭和34年に現在地へ。

昭和41年、大学を出ると、オイルの再生工場に勤務。

製品試験を担当した。

ところが翌年、突如家業に呼び戻されることに。

「専務だった叔父が、体を壊してしまって」。

高度経済成長の真っ只中。

学童の数が多く、白墨の需要も鰻上りだった。

「家の白墨は、昭和30年に父が考案した被膜付き。海藻から取ったアルギン酸の、ヌルヌルの成分を表面に塗り被膜とした物で、今はアクリル樹脂に変わりましたが…。だから指に汚れが付きにくく、他社より一文高くても人気があったんです。でも父は、最期まで商標を独占する気は無かったようです。だから被膜付きが軌道に乗ると、他所もみんな真似し始めて」。

昭和が幕を降ろすまで、右肩上がりの絶頂期は続いた。

「ここら愛知・岐阜は、陶磁器製造が盛んで、陶器の型作りに欠かせぬ石膏屋も沢山ありました。だから戦前から、全国的にも白墨屋の多い土地柄ですわ」。

現在は、白、赤、黄、青、緑、茶、紫、オレンジ、朱赤、黄緑、10色の白墨と、蛍光色の赤、黄、青、緑、オレンジ、5色が、日々製造される。

「蛍光色は、視覚障害者向けに私が開発したものです。でも今は、テレビカメラで撮影すると、普通の白墨より鮮明に映るとかで、予備校がテレビ授業で使ってくれてます」。

昔ながらの石膏製白墨は、焼石膏の粉末と水を混ぜ合わせることから、製造が始まる。

ドロドロッとしたところで、420本の型枠シリンダーに流し込む。

5分後には固まり、ピストンで押し上げ型抜き。

乾燥箱に並べ、10日間ほど陰干しで自然乾燥。

それにアクリル樹脂の被膜を吹き付ければ完成する。

放課後。

黒板消しを両手に、窓から手を伸ばし白墨の粉を叩く。

校舎の窓のあちこちから、白墨の白い粉が風に舞った、遠きあの日のわが学び舎。

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「天職一芸~あの日のPoem 386」

今日の「天職人」は、岐阜県高山市大新町の「煮たく文字職人」。(平成22年9月18日毎日新聞掲載)

飛騨高山も夏明けりゃ ()えた臭いに(むせ)(かえ)る           樽の古漬け塩を抜き 母の一手間煮たく文字           胡麻の油が香り出しゃ 子らも群がる勝手口           ちょいと味見と小皿出しゃ 秋一番のおご馳走(っつお)

岐阜県高山市大新町、郷土料理の「京や」。女将の西村京子さんを訪ねた。

秋が忍び寄る勝手場から、()えた漬け物と胡麻油の入り混じった、何とも言えぬ臭いが立ち込める。

「昔はそこらで、夏が終わると煮たく文字を煮る、とんでもねぇくっせぇ臭いがしたもんやさ。ましてや今年みたいあっつい夏は、も一つくっさいでかん。でもくっさねぇとうまねぇでな」。京子さんは、目を細め高笑いを連発した。

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京子さんは昭和19(1944)年に、7人姉妹の末子として誕生。

「父はガンド(鋸)の目立て職人で、母は煮炊き上手な人やった。せやで近所の人や、旅館の女将さんらが、煮炊きを習いに来て、『きぬさんのお陰で、煮炊き上手になったわ』と言わはるほど。調味料なんか、手掴みでバサッと入れはるもんで、『ちょっと待って!砂糖、何グラムか計らせてもらうで』ってな調子。母は片手で塩を握ると、人差し指から中指と、順に広げながら鍋に放り込み、最後に薬指と小指の開き加減一つで微調整しとったんやさ」。

中学を出ると市内の会社に事務員として勤務。

3年後、同県郡上市でお好み焼き屋を営む姉の元に、住み込みの手伝いへ。

「しばらくしてスキーへ行ったら、そこで大阪から男2人で遊びに来とった、お父ちゃんと知りあってな」。

昭和41年、西村洋治さんと結ばれた。

「そしたら両親が猛反対でな。『大阪なんか、ブラジルへ嫁にやるようなもんやであかん!』って。仲人さんが来ても、母は居留守使うほどやった」。

結局、洋治さんが高山へ移り住むことに。

翌年、一人息子を授かった。

「お父ちゃんは、弁当屋に勤め、私は小さい喫茶店をやりかけてな。それがまたよう流行った。立ち飲み客まで出る始末やさ。そしたらその内に、『飯があったらもっと売れるぞ。食堂でもしたらええぞ』って」。

昭和57年、新潟県柏崎から移築した、古民家の貸し出し話しが舞い込んだ。

葛屋(くずや)(茅葺き)造りやで、最初は民宿でもと考えたんやさ。そしたら母が『煮ものならオラがするでな』って張り切り出して。それで郷土料理の店にしたんやさ」。

京や自慢の在郷定食には、きぬさんが伝授した郷土の煮物が居並ぶ。

中でも「煮たく文字」は、仕込から数え1年以上を費やし、やっと食卓に上る逸品である。

「く文字とは、公家言葉の漬け物らしいわ。それを煮るでそう呼ぶんやさ」。

煮たく文字作りは、塩漬けした蕪、白菜、野沢菜などの古漬けを、丸1日水に晒す塩抜きに始まる。

それを絞り、鰹や煮干の出汁に入れ煮立てる。

「昆布出汁やと足が早いんやさ」。

次に出汁を軽く絞り、胡麻油で炒めながら塩、砂糖、味醂、酒、醤油で味付けし、半日ほど煮上げれば完成。

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「私ら漬け物が酸っぱなっても、ほかることようせん。もったいないやろ」。

京子さんの煮たく文字も、今が秋(たけなわ)

三三九献(さんさんくこん)重ねつつ、母を慕いて煮たく文字。

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「天職一芸~あの日のPoem 385」

今日の「天職人」は、三重県伊勢市八日市場町の「伊勢のかたぱん職人」。(平成22年9月11日毎日新聞掲載)

三時の時報待ち切れず 片手に小銭握り締め           草履突っ掛け一目散 伊勢の丸与のかたぱんに          早くも店にゃ子らの列 背伸びで中を覗き込み          盆のかたぱん数えては どうかぼくまで回るよに

三重県伊勢市八日市場町で明治中頃創業の丸与製パン、四代目かたぱん職人の井村卓嗣たかしさんを訪ねた。

昭和半ばの一文菓子屋は、放課後ともなれば、僅かばかりの小遣いを握り締めた、子どもらでごった返していたものだ。

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駄菓子や籤引きが、雑然と犇めき合う手狭な店内を、子どもらは難なく右往左往。

それは子どもにとって、真剣勝負そのもの。

たった1枚こっきりの、掛替えのない10円玉を、いかに有意義に使うべきか、答案用紙に向うよりも苦慮したものだ。

食べ盛りの空腹を満たしたい切実な思いと、もしかしたら籤引きで大当りが出るやも知れぬ、そんな誘惑の(はざま)で幼心が微妙に揺れた。

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だから盆暮れに、100円札でも貰おうものなら大騒ぎ。

まるでテレビの人気番組、夢路いとし、喜味こいし師匠の名台詞で始まる「男は度胸、女は勘定。お手て出しても足出すな」の、「がっちり買いまショウ」さながらだった。

まずは普段手も出ぬ、値の張る菓子パンを1つ確保し、それから釣銭の使い道を思案したものだ。

「せやて。何でもある今とちごて、菓子パン1つでも立派なオヤツやったでな」。卓嗣さんが、にっこりと相槌を打った。

卓嗣さんは昭和27(1952)年、3人兄弟の長男として誕生。

大学を出るとそのまま家業に従事した。

「本当は機械いじりが好きやったで、どっかの会社員でもとおもとったんやけど。就職難やったしな」。

卒業を翌春に控えた昭和48年、第1次オイルショックが勃発し、トイレットペーパーの買占め騒動が起こるなど、狂乱物価に喘ぎ苦しんだ時代だった。

「最初は使いっ走りの、丁稚みたいなもんや。親父も『見て覚えろ』の1点張りやったで、体が覚えるまでは失敗の連続。せやで温度管理なんかは、本を見ながら覚えたもんやさ」。懐かしそうに、奥の間の母を眺めた。

「家のかたぱんは、祖父が大正時代に入ってから焼き出した、焼き菓子とパンが合体したようなもんで、半生の焼き菓子ゆうた方が分かりやすいやろか?」。

以来、約1世紀に渡り、唐草模様の焼印が押された「丸与のかたぱん」は、今なお地元の老若男女にこよなく愛され続ける。

名代の逸品、丸与のかたぱん作りは、卵、果糖、砂糖、水を混ぜ別の容器に移し替え、薄力粉を手捏ねすることに始まる。

「粘らんように捏ねるのがこつやさ」。

打ち粉をしながら平らに伸ばし、直径12㌢の形抜きで抜いて、10分間焼成し、唐草模様の焼印を押せば出来上がり。

「包装もみんな手作業やわ」。

毎朝3時には作業を始め、1日200個のかたぱんが、店頭に居並ぶ。

「他所でかたぱんこうた方が、味が違うゆうて文句言いに来るんやさ。せやけど『その店に家は、入れさせてもうてない』って、そんたびに説明せんならん」。

戦時中の焼印は、旭日模様だったとか。

大正、昭和、平成と、3つの時代を生き抜く、庶民の銘菓丸与のかたぱん。

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「天職一芸~あの日のPoem 384」

今日の「天職人」は、岐阜県関市東本町の「鞘師」。(平成22年9月4日毎日新聞掲載)

忍者ごっこの小道具は 癇癪玉の爆薬に             栓を潰した手裏剣と 手拭い頭巾(ほお)(かむ)り            母の腰紐持ち出して ブリキ刀の鞘に巻き            背に袈裟懸けで絡げては 少年忍者いざ見参(げんざん)

岐阜県関市東本町の二代目鞘師、森雅晴さんを訪ねた。

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何より(いくさ)では、刀の斬れ味が問われた戦国時代。

一転、徳川の太平の世が訪れると、武士は柄巻や(さや)(ごしら)えに意匠を凝らし、家格や地位を表した。

同時に戦の無い世は、鞘絵を愉しむ余裕さえも生んだ。

鞘絵とは、江戸の中頃にヨーロッパから伝わった、騙し絵のこと。

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漆黒の漆で仕上げられた鞘の曲面に、奇妙に歪めて描かれた浮世絵を投影すれば、見事な姿が映し出された。

安寧な時代は、ただの人斬り庖丁を工芸の域へと導き、柄巻師、白銀師、鞘師といった一級の職人を育んだ。

挙句に鞘絵を描く絵師の技をも、押し上げたのだから申し分ない。

その末裔ともいうべき鞘師が、正絹の鞘袋に納まった刀を、恭しく取り出した。

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自慢の鞘には、栗形(くりかた)から(かえし)(づの)にかけ白い鮫革が巻かれ、鞘尻にかけての朱漆が粋な光沢を放つ。

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「こういった拵え物は、その時代の流行について、勉強せんとかんけど、鞘師から言えば白鞘(しらさや)の方が遥かに難しいんやて」。雅晴さんは穢れ無き無垢の白鞘を取り出した。

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雅晴さんは昭和23(1948)年、3人兄弟の末子として誕生。

だがわずか2歳の時に父を失った。

19歳で定時制高校を卒業すると、大阪の家具製造所で住み込み修業。

「父の弟が、戦時中から家具や指物とか鞘を作っとって、高校行きながら手伝っとたんやて」。

昭和45年、叔父から「鞘師を継いでくれんか」、そう懇願され養子となった。

「それからは義父の手付きを真似ながら、鞘の修業やわ」。

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一端の仕事を任せられるまでに、5年以上の歳月が流れた。

昭和49年、遠縁の悦子さんと結ばれ、一男一女が誕生。

難易度が高いとされる白鞘は、刀身と(はばき)だけの状態で、白銀師の手から委ねられる。

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まずは刀身の反りに合せ、朴の木を一寸四分角に木取り。

それを半分の厚さに切り分け、刀の反りを墨入れし、刀身を納める内側を鑿で彫り込む。

内側の彫が終わると、餅粉か続飯(そくい)で糊付けし、材の粘着力を高める。

「糊やと刀身が錆びんやろ。それに修理するにしても、糊付けしたるとこを割ればええだけやで」。

そして外側を鉋掛け。

さらに木賊(とくさ)を木片に貼り付け、乾燥させたもので磨きあげる。

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「朴の木は柔らかいで、細工もしやすいんやわ。それに刃文以外の地金は柔らかいもんで、杉や檜のような冬の目が立つ堅い材やと、地金を傷付けてまうで使えんのやて」。

一方、漆塗りや鮫革を張る拵え物には、表に烏帽子留めの(こうがい)、裏には紙切り用の小柄、そして下緒(さげお)を付ける、水牛の角から削り出した栗形、帯止め用の返角、さらに(かしら)(こじり)が取り付けられる。

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「鞘師なんてもんは、刀身に一つの傷も付けずに、ぴったり収めてなんぼの黒子やて」。

平成の鞘師は、己が腕に驕ることなく、さらりと笑い飛ばした。

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「天職一芸~あの日のPoem 383」

今日の「天職人」は、愛知県半田市の「生せんべい職人」。(平成22年8月28日毎日新聞掲載)

お宮参りのお土産は 知多の名物生せんべい           今日はどうして食べようか 家に着くのが待遠しい        ぼくは黒いの剥がし取り バナナを巻いて頬張れば        姉はリンゴを白で巻き 半分食べてもうやいこ(美濃・尾張弁=わけあう)

愛知県半田市で昭和5(1930)年創業、生せんべい一筋の総本家田中屋。三代目の田中純一さんを訪ねた。

子どもの頃、初詣の目当てと言えば屋台。

お参りなんてそっちのけ。

参道の屋台を取り囲む、晴れ着の人垣に目を奪われてばかりだった。

だから神も、そんな不心得者には手厳しく、未だろくなご利益を与えては下さろうとしない。

所詮身から出た錆か。

それはそうとして、初詣の帰り道、おねだりが功を奏し、予てより気に掛かっていた「生せんべい」を買ってもらった。

せんべいと呼ぶ以上、甘辛の醤油味にパリポリとした食感がまず浮かぶ。

そう思い、疑うこと無く口にした。

するとその瞬間、これまでの先入観が、ものの見事に打ち砕かれてしまったのだ。

「まあ、ういろのような、生八橋のような食感ですから」。

そもそも生せんべいは、今を遡る450年前。

桶狭間の戦いで、今川を討った織田軍に押され、知多へと逃げ落ちた徳川家康が、空腹を満たすため、焼く前の生せんべいを食ったことに端を発するとか。

「昭和の初め頃は、農家の副業として作ってたみたいで、家の祖父もオート三輪に積んで、内海の海水浴場へ、売りに出掛けたそうです」。

純一さんは昭和42年、3人兄弟の長男として誕生。

金沢の大学を出ると、そのまま醤油垂れ煎餅で有名な菓子屋で修業。

2年後に家業に戻り、生せんべいのイロハを学んだ。

「最初の頃は、餅の蒸し方と、砂糖の混ぜ方ばっかり」。

祖父が自ら昭和の初めに考案したという、練り機や切断機、それにローラーに囲まれながら、三代目の宿命を痛感。

平成9年、大府市から美由紀さんを妻に迎え、三女に恵まれた。

創業以来80年、当時の味と製法を守り抜く、田中屋の生せんべい作りは、毎朝夜明けと共に始まる。

まず米を製粉し、水を混ぜて蒸し上げる。

次に餅の中に、白色は上白糖に蜂蜜、黒色には黒砂糖を混ぜて練り、薄い板状に伸ばして乾燥。

それを3枚重ね、タイルほどの大きさに切断し、上から黒、白、黒の順に合わせて包装。

毎朝3時間ほどを費やし、2000枚を仕上げる。

保存料や添加物は一切加えられない。

「30年ほど昔は、日持ちも3~4日でしたが、今はビニールでピチッと包装してますから、10日は日持ちします」。

最盛期は、県内の主な神社が初詣客で賑わう正月。

「生せんべいは、3枚重ねを1枚ずつ剥がすのがこつ。昔のお客さんからは、剥がしにくいと直ぐに苦情が来て。理由は昔に比べ、コシヒカリも使って、米を良くした分だけ、粘りも出るからです」。

子どもの頃は白黒を重ね、「の」の字に巻いては遊び、飴玉代わりに食べたとか。

耳朶みたいに柔らかで、ほんのり甘い生せんべい。

クルリと巻いて頬張れば、幼きあの日の味がした。

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「天職一芸~あの日のPoem 382」

今日の「天職人」は、三重県伊勢市二見町の「塩ようかん職人」。(平成22年8月21日毎日新聞掲載)

二見(おき)(たま)浜参宮 大注連縄の夫婦岩             男岩女岩(おいわめいわ)の間から 朝一番のご来光               (みそぎ)落として伊勢詣 二見を後にする前に             ちょいと一服お茶請けは 天の岩戸(いわと)の塩ようかん

三重県伊勢市二見町、大正末創業の五十鈴勢語せいごあん。二代目主の木下しょうさんを訪ねた。

「ありがたいもんですやろ。あの夫婦岩(めおといわ)のご来光。きっと朝一番のご褒美ですに。夏至は夫婦岩の間から、冬至は内宮の宇治橋の、鳥居の真ん中から朝日が上がってきますんやで」。

昌次さんは昭和18(1943)年、5人兄弟の末子として誕生。

大学を出ると、神戸の真珠専門商社で営業の職を得た。

「神戸に行った時から、母が『帰ってきてもうたろか?』と、何べんも父に聞いとったそやわ」。

昭和45年4月、ついに呼び戻されることに。

「それまでは土産物屋をしよって、『戻ったはええが、これから何すんのや』って」。

市内の和菓子屋へと通い、伊勢菓子の教えを請い、試行錯誤を2年繰り返した。

昭和47年、市内に住む幸子さんを妻に迎え、一男一女を授かった。

そして延べ4年の歳月を投じ、主力となる銘菓「伊勢物語」や「貝合せ」が完成。

やっと販売へと漕ぎ付けた。

「親父がいつの間にしとったんか知らんけど、『伊勢物語』も『貝合せ』も、商標が取ってあったんやさ」。

息子の将来のためにと、父はこっそり先手を打っていたのだろう。

―この地の恵みを取り入れた名物を作りたい。この地で生まれた者の務めとして―

そんな想いに光が差したのは平成9年。

「製塩規制が緩和されて、岩戸館の女将が塩を焼き始めたんやさ。その(あま)岩戸(いわと)の塩使って、何か作ろうと1年かけ試行錯誤を繰り返して。各地の塩まんじゅうを参考にしたり。でも隠し味に使うんやなしに、粗塩の旨味を出しとてな」。

翌年、「岩戸の塩ようかん」が完成した。

二見名物となった岩戸の塩ようかん作りは、糸寒天を一晩水に浸け込む仕込みに始まる。

寒天が溶けてから小1時間煮て、砂糖を加え沸騰。

小豆の漉し餡を加え、沸騰させて2時間ほど煮詰め、煮上げる直前に岩戸の塩を入れ再び沸騰。

そして型へと流し込み、1日冷ましてから竿ものや抜きものへと加工。

毎朝5時には作業を始め、1日300本が製造される。

そして竿ものは、孟宗(もうそう)(だけ)の皮で大切に包み、1枚1枚商品名と、屋号を押印した和紙を挟み込む。

「製造から販売まで、みな女房と二人きりでしとんやで、どうせなら印刷したもんより、1つずつ印を押した方が、心まで受け取ってもらえますやろ。そりゃあ少々、見た目は微妙にちごとっても、それが一つの味と違うやろか」。昌次さんが妻を見つめた。

塩辛くは無く、程よい甘味に奥行きが深い。

何より後味が、さらりと小気味いい。

「店でも、お抹茶と塩ようかんを、お出ししますんさ。ちょっとお伊勢さんまで来たゆうて、わざわざ買いに来られる遠方の方もおいでやで。ありがたいこっちゃ」 。

粗塩本来の旨味を活かしながらも、決して出しゃばり過ぎはしない。

コクが命の、天の岩戸の塩ようかん。

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「天職一芸~あの日のPoem 381」

今日の「天職人」は、岐阜県関市の「柄巻(つかまき)師」。(平成22年8月7日毎日新聞掲載)

商店街の玩具屋で あれこれいじり品定め            今度貰えるお年玉 指折り数え胸算用              やっぱ目当てはチャンバラの 玩具の刀赤い(つか)          ショーウィンドーのガラス越し 指を咥えて眺めてた

岐阜県関市の柄巻師、遠山康男さんを訪ねた。

「何せ刀の3分の1は(つか)やで。戦国時代の斬った張ったが終わると、鞘から飛び出して誰でも目にする柄巻は、その意匠で侍の地位から人格までを表現しとったんやろな。特にお城に上がる殿中差しとかは。武骨さを好む者もおれば、ちょっと歌舞伎者気取りに、粋を好んだ者もおったやろし」。康男さんは、天正拵(てんしょうごしらえ)の革巻きが施された、(うち)(がたな)の見事な柄を握った。

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康男さんは昭和21(1946)年、3人兄弟の末子として、刃物洋食器製造の家に誕生。

大学を出ると、家業の手伝いを始めた。

昭和46年、名古屋から美智子さんを嫁に迎え、一男一女が誕生。

「親父の友人に(はばき)師やら鞘師がおって、その人らんとこで見聞きしとるうちに、いつの間にか虜になったんやて。それで昭和53年から柄巻師の山田先生を師と仰ぎ、休みのたんびに師匠んとこ訪ねては、師匠の仕事ぶりを見て盗むようになったんやわ」。

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昭和63年、ついに家業を辞し職人の道を目指した。

「ちょうどその頃、天皇の即位礼の太刀60振りを、師匠が請け負い、それを手伝っとったんやて。でも師匠は既に癌に蝕まれとって、亡くなる1週間前にどうにかその仕事をやり終えたとこやった。今思うと、それが柄巻1本でやってくことになった転機やね。でもやっぱ大変やって。2~3年は、さっぱり食えなんだんやで」。

柄巻は、鞘師から託される棒柄を採寸し、柄下地を巻くための図面を起すことに始まる。

そして下地となる鮫皮を裁断。

「鮫皮と言っても、柄巻の場合はエイの皮を言うんやて」。

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そして鮫皮の厚みの分だけ、棒柄を鑿と鉋で削り落とす。

次に鮫皮が大きく突起した親粒・二之粒・三之粒を、柄の(かしら)側から1直線に並べて仮着せし、寒梅粉を練り上げ糊付けして本着せへ。

それを糸で縛り、風の当らぬ場所で2~3日陰干し。

「鮫皮の突起は、目から尾の方へ滑るようになっとるで、柄に巻くときは逆さに貼り付けんといかん。刀を抜いて激しく斬り合った場合、両手が柄を滑って刀が抜け飛んでまうやろ」。

柄下地が完成すると、仕上げの柄巻へ。

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「柄巻の種類は様々やわ。諸捻(ひね)り巻、ガンギ巻、庄内巻と。好みもあるでな。毛穴がつんどる、小鹿の傷のない皮を藍で染め、くすべて鶯色に発色させた革紐や、蛇腹糸を組紐にしたもんとか」。

鍔の方から途中で目抜きを入れながら、専用の()(どま)りと呼ぶ装飾用の釘で、表裏一箇所ずつかしめ、頭に向かって柄巻を施す。

「手止りには、肥後のオタマジャクシや、美濃の秋虫なんかがよう使われる」。

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気の抜けない作業が続き、月8本を仕上げる。

真ん中の一部だけを柄用に刳り貫き、放置された大きな鮫皮。

あまりにもったいないとつぶやいた。

すると、「ええんやて。山葵(わさび)(おろ)しの職人が、残った皮を使うんやで」と。

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「天職一芸~あの日のPoem 380」

今日の「天職人」は、愛知県知多市の「釣りエサ屋」。(平成22年7月31日毎日新聞掲載)

「晩のおかずは任せとけ」 寝巻き姿の母に告げ         夜も世も明けぬのに颯爽と 父はエサ屋へ大急ぎ         待てど暮らせど引きは無し 餌だけ食われ帰り道        「手ぶらじゃかん」と釣りエサ屋 生簀(いけす)覗いて品定め

愛知県知多市、釣りエサ友松。主の友松昭治さんを訪ねた。

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確かにこの店のはずだが。入り口を少し開け、声を掛けるが一向に応答が無い。

こっそり耳を凝らすと店の奥から、気持ちよさそうな鼾が聞こえて来るではないか。

「雨降りの昼間は客がこんで、うつらうつら仮眠ベットで居眠りしてまうんだわ」。昭治さんは、大きな伸びを一つした。

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昭治さんは昭和14(1939)年、大分県中津市の農家で5人兄弟の次男として誕生。

中学を出ると線路工夫に。

「卒業式の明くる日から、鶴嘴(つるはし)担いどったって」。

18歳になると今度は、北九州市へ出て沖仲仕に。

さらに4年後の昭和36年には、大阪難波の天ぷら屋に住み込んだ。

「そんなもん、いつまでたっても海老の皮剥きばっかだて」。

翌年、さっさと飲食業に見切りを付け土木作業員に。

それから3年後。

同郷出身の佳子さんと所帯を持ち、姉を頼って名古屋へ。

「倉庫で麦や米の積み下ろし作業だわ」。

やがて一男一女に恵まれた。

それからフォークリフトの免許を取得し、平成4年に退職するまで、数社を股に掛け家族を支え抜いた。

「51歳になった平成元年だわ。この店の道挟んだ前で、『たこ焼の友ちゃん』を始めたんだて。だって給料は振込みだで、みんな女房の懐に入ってまうだろ。でも店やっとりゃあ、小遣いちょろまかせるがあ」。

だが、たこ焼きを焼いた経験すら無い。

「そんだで、昔たこ焼き焼いとったおばちゃん見つけ出して来て。そしたらこれがどえらい売れるんだって。近くには海釣り公園や、マリンパークがあるもんで、客から『釣りエサないんか?』ってよう言われてな。そんなら、エサも売るかってなもんで」。

ところが肝心の、エサの仕入れ先がわからない。

「毎日、問屋探しだわ」。

やがて3軒の問屋にたどり着いた。

「東浦の問屋からは、四国で養殖したイシゴカイ、アオムシ、カメジャコ、それにインドネシアから輸入するストロー。常滑からもイシゴカイに中国産のアオムシ。静岡からは、冷凍のアミエビ、注しエサ用のオキアミだわ」。

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徐々に常連客も付いた。

「朝4時に店開けに来ると、もう4~5人客が待っとるんだて」。

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秋冬は黒鯛にセイゴ、春から夏に掛けてはキス、メバル、タコが上がる。

「常連の多くは、自分の釣り船持っとる人らだわ。中には定年後に毎日来る客もおるって」。

1杯500円のエサで、日がな1日釣り人たちは波間に竿を延べる。

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「でも10年前から、たこ焼きがさっぱり売れんくなってまってな。それで今は釣りエサ一本だわ」。

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2年前暮れのことだ。

「あんたとこのエサ屋から火出とるで!って、近所のもんが慌てて飛んで来てなあ」。

心無い放火で店舗が焼失した。

「一時は、店畳もうかと思ったて。でもそんなこと知らずに、客は楽しみにエサ買いに来るで、まんだ閉めるわけにもいかんわ」。

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「天職一芸~あの日のPoem 379」

今日の「天職人」は、岐阜県関市の「白銀師」。(平成22年7月24日毎日新聞掲載)

(やいば)(まみ)える武士(もののふ)は 鯉口切ったその刹那              (つか)に命を握り締め 生死の間合い推し量る            (はばき)に刻む鑢目(やすりめ)に 武運を祈る白銀師(しろがねし)               鞘に隠した護符となれ 神よご加護を(つわもの)

岐阜県関市の兼吉刀剣、白銀師しろがねしの小坂稔さんを訪ねた。

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こぢんまりとした町にも関わらず、やたらと鰻屋の暖簾を見かける。

「そうやて。ここらは、刀鍛冶が多かった町やで、窯業の盛んな所と同じように、鰻屋がよおけある。刀鍛冶は、夏でも冬でも汗だくんなって、()()で火を焚かなかんでな。刀匠が刀工たちを引き連れて、鰻食わせて精をつけさせた名残やわ」。稔さんが、(やすり)を掛ける手を止めた。

稔さんは刃物問屋を営む父の元で、三人兄弟の長男として昭和21(1946)年に誕生。

大学を出ると剃刀の製造会社に入社。

品質管理を担当したが、わずか2年で退社し家業へ。

「その頃家では、プラスチックの成形と、打ち粉や油、それに拭い紙なんか、刀の手入れ具を製造しとったんやて。おまけに家のお爺は、馴染みの客から『刀研いでくれ、鞘や(はばき)作ってくれ』と頼まれて、お袋に手伝わせながら、ここらの職人に口利いとったんやわ。だからお爺が死んだら、母がお爺の仕事をやらせて欲しいと言い出してな。そしたら、そんなもん女の仕事やないやろってことになって、気付けばまんまと母にそそのかされ、ぼくにお鉢が回って来て。でもその内、鞘とかの木工よりも、研ぎや(つば)とか金目のもんの方に興味が沸いてな」。

昭和58年、知り合いの世話で雅代さんと結ばれ、男子を授かった。

翌年、自己流で製造した鎺を持ち、白銀細工の師の門を潜った。

「『作業見に来てもええ』って言われ、足しげく通ったもんやて」。

だが師匠は、手取り足取り奥義を授けるわけではない。

ただひたすら見て盗む毎日の繰り返し。

東京へも8年通い続け、研鑽を積んだ。

鎺とは、刀身が鍔と接する部分の金具である。

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鞘の鯉口いっぱいの幅で、鞘から刀身が抜け落ちぬよう、押さえの役を果たす。

「材は銅か銀や。銅は丈夫で長持ちするけど、緑青が吹く。銀は銅ほど丈夫やないが、錆びず刀にやさしいんやて」。

鎺作りは、鍛冶砥ぎを終えたばかりの刀身から、鎺を巻く(まち)の採寸に始まる。

刃から(むね)への身幅、()(まち)(むね)(まち)と。

まず銅板を2つ折りし、刃区と棟区に、銅の(まち)(がね)を噛ませ銀蝋付け。

「身幅は小さめに作り、縦横に金鎚で叩き伸ばし、鑢で削って刀身と一体にするんやて。そして鎺の銅の上から、薄い18金の銀割りを着せ、磨き上げて鑢入れ。縦横斜めに溝を入れたりして、地域や人物を表すような色んな意匠を凝らすもんやて」。

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鎺が取り付けば、柄巻師の手により中心(なかご)に化粧が施される。

「鎺なんて、鯉口切って抜き身にせんと見えーへん。だから鎺が見えた時は、命を斬り結ぶ瞬間や。それくらい、ほとんど誰の目にも留まらん所の金具ですら、武士たちは鑢目の意匠にこだわったもんなんや。そう思うと鑢目模様が、武士のお守りに見えるで不思議やて」。

白銀師は、蛍光灯の灯かりに鎺を翳した。

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