「天職一芸~あの日のPoem 398」

今日の「天職人」は、三重県桑名市本町の「酒酛さかもと饅頭職人」。(平成22年12月11日毎日新聞掲載)

宮へ七里の渡し場は 上り下りの旅人で             桑名城下も大賑わい 「まずはどこぞで茶を啜ろ」        桑名宗社の楼門に 老舗(しにせ)とらやの佇まい             蒸籠の湯気が吹き上がりゃ 「饅頭(まんじ)おくれ」と人だかり

三重県桑名市本町、宝永元年(1704)年創業の「とらや饅頭まんじゅう」。十一代目酒酛さかもと饅頭職人の安達仁兵衛さんを訪ねた。

「まんじ(饅頭)トンゴ(10個)おくれ」。

腰の曲がった老婆はガマ口を開き、慣れた手付きで饅頭代を支払う。

「いつもおおきに」。

これまた主も親しげに見送る。

「昔ここらは遊郭やったで、そこへ足げく通う旦那衆らが、土産にってようこうてくれたそうや」。

仁兵衛さんの幼名は年始男。

平成12(2000)年、戸籍上も「仁兵衛」に変え十一代目を襲名した。

昭和36(1961)年、3人兄弟の長男として誕生。

高校を出ると、京都の老舗和菓子店で5年の修業を積み、昭和49年に家業に入った。

「まあどこもせやけど、口伝で教えられて、後は毎日見よう見真似で覚えやんと」。

とらや饅頭の命は、何と言っても酒母(しゅぼ)元種(もとだね)作りに極まる。

「酒母を作るには、酒税法の定めで免許がないとあかんのやに」。

創業以来、300年以上守り抜かれる伝統の元種作りは、毎晩甕に仕込まれる。

「まず、もち米をお粥さん状に炊き、米麹を合せ発酵。するとやがて乳化し、米が水に浮いて分離してくるで。そしたら酒母がまだ元気なうちに、米汁を甕に移し変え、元汁にすんやさ。まあ後は季節によって、温度と時間がちごて来るけどな」。

翌日、元汁に砂糖と小麦粉を混ぜ生地作り。1時間半ほど寝かせると、プクプクと発酵が始まる。

すると次は包餡。

「北海道産小豆の漉し餡を、生地で包むんやけど、生地が柔らかい汁のような状態やで、タラーッとなっとる。せやでまず生地を鉢から、竹の棒で水飴練るように台へと引っ張り上げ、丸く型抜きしてから餡を包み込むんやさ。」。

次に炭火のホイロで再び発酵。

「酒酛の力で、皮がぷっくり浮いてくんやさ」。

それを蒸籠で10分間蒸し上げれば、東海道を上り下る旅人たちに、こよなく愛され続けた、300年変わらぬ味わいの名代の逸品が完成する。

「酒酛饅頭の特徴は、皮がちょっと酸っぱいけど、餡と一緒に食べるとそれが絶妙の味を醸し出すんやさ。餡にコクがあるし、そりゃ蒸し上りがなんちゅうても一番贅沢やわ」。

保存料など使わぬため、日持ちは2日。

「かと(硬く)なっても、米麹で作ってあるで、しがむ(よく噛む)とまたちごた味わいが出てくんやさ。せやで漁師は、わざわざ硬いのおくれゆうてな」。

気になる跡取りはと問うた。

すると「その前にまずは嫁を貰わんとな。せやけど、いつまでも90近い看板婆さん(母)と二人じゃ都合悪いで、近いうちに嫁もうて子作りに励まんと」。

子どもの頃は、饅頭の摘み食いで歯もなかったとか。

「しかもいっつも蒸し立ての、一番旨いとこばっか!どうにも摘み食いの癖は、この年んなってもちっとも治らんのやさ」。

菓子匠は、子どものような眼をして笑った。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「天職一芸~あの日のPoem 397」

今日の「天職人」は、岐阜市京町の「冷やしたぬき蕎麦職人」。(平成22年12月4日毎日新聞掲載)

狸に狐 月見蕎麦 昆布(こぶ)と鰹の出汁の香に            つい袖引かれ立ち止まりゃ 伊吹颪も雪混じり         「外がどんなに寒くとも 更科と言や冷やしでしょ       『たぬきダブルと熱燗ね』」 オヤジ見たいに君が言う

岐阜市京町、昭和3(1928)年創業の更科。三代目主の水野信さんを訪ねた。

既に午後3時を回ったと言うのに、次から次へと客が暖簾を潜る。

そして席に着くや否や、口々に「冷やしたぬきダブル」「俺、トリプル」と所望し、大きな薬缶から、慣れた手付きで湯呑みに茶を汲む。

「ここの店の冷やしたぬきは、1週間もせん内に、また無性に食べたなるんやて。ひょっとすると病み付きにさせようと、なんぞ薬でも盛ったるかも知れん」。

隣りの客は連れの女に、さも訳知り顔で自慢した。

「ちょっと●▲さん!人聞きの悪いこと言わんといて?」。主人は冗談まじりに常連客に返す。

信さんは昭和33年、二人兄妹の長男として誕生。

「創業当時は、柳ヶ瀬の日ノ出町に店があったんやけど、戦災で焼け出されて、戦後ここへ移転したんやて。初代が娘を亡くし、跡取りも失くしたんで、両親を両貰いしたそうやわ」。

高校を出ると直ぐ、家業に従事した。

ところがその直後両親が離婚し、初代までが息を引き取った。

「最初は母の手伝いしながら、無我夢中で仕事を覚えて…。否応無しに代替わりやて」。 

昭和55年、青年会で知り合った久美子さんと結ばれ、二男一女が誕生。

「元々この辺は、うどんや支那そばがよう出て、日本蕎麦は出ん方やったんやて。ところが昭和40年頃から、自然発生的に今の冷やしたぬき蕎麦が誕生して。それが今じゃ、7割以上が目当てにしてくれる、家の名物になったんやで」。

確かに女性でも、当たり前のようにダブルの大盛りを所望する。

冷やしたぬき蕎麦作りは、毎朝6時から出汁を煮出す作業に始まる。

まず大鍋に水を張り日高昆布を入れ沸騰させ、室鯵、潤目(うるめ)(いわし)(そう)()(がつお)を煮出し、一番出汁を取る。

次に蕎麦粉100㎏の製麺。

「水で練るんやなく、熱湯を冷ましたお湯の方が、蕎麦の香りが飛ばんのやて。そして麺切り。包丁切りの方が、麺の上下が窪んで、出汁が絡み易くなるで」。

次に溜り醤油、味醂、砂糖を混ぜて煮詰め、半月寝かせた返しと、一番出汁を合せ、御前(ごぜん)(じる)を仕込む。

一方で、油揚げを煮付け、たぬき用だけのために天かすを揚げる。

後は客の注文に応じ、茹で上げた蕎麦を冷水で締め、大きな丼によそい御前汁を掛け、油揚げ、天かす、刻みネギ、練り山葵を盛り付ければ出来上がり。

「自家製麺へのこだわりは、初代兼次郎が作り出した太麺の歯応えを守りたいで」。

柔らかくもっちりとした太麺に、伊勢うどんを思わせる濃厚でコクのある出汁が絡み、このためだけに毎朝揚げる天かすのサクサク感が、見事なハーモニーを奏で喉の奥へと押し寄せる。

麺、出汁、油揚げ、天かす、どれ一つ手抜きなど無い。

すべて主の目が届く自家製だ。

そんな舞台裏の苦労は語らずとも、客が誰より知っている。

それが客足途切れぬ、繁盛店の所以なのだ。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「天職一芸~あの日のPoem 396」

今日の「天職人」は、愛知県一宮市の「木魚職人」。(平成22年11月27日毎日新聞掲載)

母の命日仏壇に おはぎを供え香を焚く             娘は膝に腰掛けて 両手合わせて南無南無さん          テープの経に口合せ 和尚の節を真似てみる           娘は撥でポクポクと 木魚叩いてご満悦

愛知県一宮市の加藤木魚工房。二代目木魚職人の加藤保さんを訪ねた。

「木魚作りはなんちゅうても、座るが修業の第一や」。

男は板木(ばんぎ)と呼ぶ作業台の、煎餅座布団の上に座し、両足で大きな木魚の頭を押え、中彫り鑿で(あな)を穿つ。

保さんは昭和22(1947)年、4人兄弟の末子として誕生。

「親の影響か、もう小学校の低学年の頃には、ナイフでコケシなんかの木彫りをしとったでなあ」。

高校を出ると、姉の嫁ぎ先でアクセサリー製造に携わった。

しかし3年後、好きだった木彫りが忘れられず、父と兄の元へと戻り、木魚職人としての修業を始めた。

「最初の2~3年は、在家用の小さい木魚の中彫りばっか。そんでもこれが一番難しいんだって。あんまり力任せに彫ると、穴が開いてまうし。弱気でやっとると、今度は十分に彫れんでかん」。

苦節10年。

一端の木魚職人として、昭和53年晴れて独立。

その年、知人の紹介でみどりさんを妻に迎え、一男一女を授かった。

「まあ今では、木魚に手を当てただけで、孔の厚みまでわかるって」。

一宮の木魚製造の歴史は、明治時代に京都市で修業した職人の手によってもたらされたとも。

また第二次世界大戦中、名古屋鶴舞の師匠の元で、一宮の者が修業し持ち帰ったとも、諸説ある。

しかしいずれにせよ、国内で木魚を手作りしているのは、もう愛知県だけとか。

その大半が一宮近郊で、1軒だけ西三河地方に残る。

尾張特有の木魚の鯱彫りは、まず樹齢何100年という楠や桑の原木を、2~3年寝かせることに始まる。

そして輪切りに木取りし、当て木をしながら平鑿で全体を丸く彫り出す。

さらに(まめ)(がんな)で全体を丸く削り出す。

そして縦挽き(のこ)で孔の口を挽き、中彫り鑿で丸1日掛かりで中を彫る。

それから自然乾燥で1年。

乾燥を終えると、再度豆鉋で丸く仕上げ。

次に型紙を当て、渦や鱗の細工を写し、外側に鋼が付いた丸鑿で細工彫りへ。

「普通の鑿と違って、鋼の位置が逆なんやて」。

写真は参考

親からの形見分けという15~16本の丸鑿で、約1週間を掛け、最大の見せ場である鱗が、見事に彫り上げられて行く。

そして粗い目から細かい目へと、3種類のサンドペーパーで磨き上げ、油性ワックス掛けへ。

それが乾燥すれば、柔らかい束子と布で磨き上げる。

「こっからが肝心の、最後の音付けやわ。孔の口をあんまり切り込むと低温になるで、口の厚みを削りながら音を付けてかんと。それに乾燥が足らんと、音が上がってまって(ひび)が入るで」。

こうして口に(ぎょく)を咥えた鯱彫りが完成する。

「木魚はええ出来でも、新品の撥やと音が硬なっていかん。人間も撥も、石頭じゃいかん。やっぱり木魚は、ボワンボワンと、包み込むような音がせんとな」。

静謐とした本堂に響く木魚は、浄土と俗世を繋ぐ祈りの音色。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「天職一芸~あの日のPoem 395」

今日の「天職人」は、岐阜市美殿町の「天カレーうどん職人」。(平成22年11月13日毎日新聞掲載)

美殿花街宵の口 行き交う人は襟を立て            「お~寒寒」と足早に 暖簾潜って「天カレー!」                  「カレーうどんに天ぷらと 誰が最初に言ったやら        わしもわしもとせがまれて 何時しか店の名物や」

 岐阜市美殿町、手打ちのごと。二代目主の鈴木康司さんを訪ねた。

「岐阜の天カレーうどんを知らんとは、そりゃ潜りや」。

知人にからかわれ、その店を訪ね天カレーうどんを所望した。

すると「明後日休みやに、新聞が天カレーの取材に来るんやと」と、主が仲居につぶやいた。

「そりゃええがね、宣伝になって。なに新聞?」と仲居。

「毎日の天職一芸ゆう、その道一筋のわしみたいなもんの取材らしいわ」。

「ほな天カレー食べさせたるんやろ」。

「でも休やでなあ」。

「なら取材とは別の日に、きっと食べに見えるんやわ。だって食べな書けんやろ。はいっ、お待たせ。天カレーね」。

何と間の悪いことだ。

今さら名乗れはしない。

何はともあれ、天カレーうどんに挑むことに。

大振りの丼には、長さ23㌢もある特大の海老天が1尾、中央に横たわっている。

ルーに浸し一口頬張った。

どうせ衣の嵩上げかと齧り付くと、端しまで身が詰まっているではないか。

一見、カレーと天麩羅に違和感を覚えたが、どっこいこいつが病み付きになる味だ。

カレーと天ぷらうどんが、一度で二度味わえるから堪らない。

2日後、改めて取材に出向き、特大の海老天について尋ねた。

「仕入れした中の、一番大きな海老に合わすで、小さいと2匹分を繋いどるんやて」。康司さんが種明かし。

「あんた一昨日(おととい)、そこへ座っとった人か」。

冒頭の件を語ると、何とも罰が悪そうに笑った。

康司さんは昭和18(1943)年、愛知県大治町で3男坊として誕生。

中学を出ると、名古屋の公設市場のうどん屋で修業に就いた。

翌昭和34年、名古屋駅前の田毎に移り、本格的な修業へ。

「駅前の田毎は、旅館や寿司屋に料亭と、手広う商っとったんやて」。

2年後、栄のうどん屋へ。

ところが昭和40年、店の立ち退きで職を失った。

「ちょうどその頃、ここで田毎を開業するでって誘ってまって」。岐阜での寮生活が始まった。

「たった10坪の店に、職人と仲居で10人以上もおったんやで」。

昼から夜中まで、客足が引かなかった。

昭和43年、近くの喫茶店で勤めていた、文子さん(享年60)に惚れ抜き結婚。

二男を授かった。

「朝昼晩と、コーヒー浸けやわ」。

平成14年、先代の引退を受け主となった。

柳ヶ瀬美殿町名物の、天カレーうどんの決め手は、鰹、室鯵、鯖節を長時間煮詰めた出汁と、徳大の海老天。

注文が入ると玉ねぎ、ネギ、かしわの角切り、蒲鉾を出汁で煮てカレー粉を加える。

そして一煮立ちしたら、水溶き片栗粉で餡に。

次にうどん玉を釜揚げし、丼に移して海老天を載せ、カレー餡を掛ければ出来上がり。

「20年ほど前に、お客さんが『カレーに海老天載せてくれ』って。そしたら、他のもんまでわしもわしもって。品書きに無い物は出せません、なんて偉そうな事いわんと、お客さんの好みに合わせるのが職人やて」。

客の我侭から生まれた、庶民好みの名物天カレー。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「天職一芸~あの日のPoem 394」

今日の「天職人」は、三重県松阪市飯高町の「でんがら職人」。(平成22年10年10月30日毎日新聞掲載)

梅雨も盛りの半夏生(はんげしょう) 庭木に宿る雨蛙 田植えも終えた縁側じゃ 家族総出で茶の宴 餡の匂いが立ち込めりゃ 「でんがらまだか」子が騒ぐ 「さあ蒸したてを召し上がれ」 (ばあ)ばが盆を差し出した

三重県松阪市飯高町のおふく茶屋。女将の中前たつゑさんを訪ねた。

「ここらは都会とちごて、ハイカラなもんなんてありませんのやさ。一山越えたら、そこは大和(やまと)(奈良県)やし」。森の静寂に抱かれる中、たつゑさんがこの地方に伝わる郷土菓子の「でんがら」を差し出した。

「ここらでは、野上がり饅頭ゆうんさ。昔は田んぼが一段落する半夏生(はんげしょう)を待って、銘々の家々で作って食べたもんやさ。子どもの頃は、それが待遠してかなんだ」。

でんがらとは、朴の葉に包んで蒸した、柏餅のようなもので、四角い形が特徴だ。

由来は、「(でん)上がり」が訛ったとも、また朴の葉で包み、細く割いた棕櫚の葉で十文字に結ぶため、「田」の字に見えるからとか。

たつゑさんは昭和16(1941)年、9人兄弟の下から2番目として誕生。

中学を出ると、家業である農林業を手伝いながら、花嫁修業を積んだ。

昭和40年、遠縁にあたる信次さんに嫁ぎ、二男一女を授かった。

「ちょうど平成に改まった頃やった。義母を中心に地元の主婦5人が集まって、飯高町の伝統食であるでんがらこさえて、村興ししよゆうことになったんさ」。

翌平成2年には、たつゑさんも仲間に加わった。

「初代の人らが、なあんも無いところから、一から始めやしてな。さぞかし、大変なことやったろと思いますわ」。

平成12年、義母らの引退でたつゑさんが、女将を務めることに。

「初代の方らから『でんがらの火を消さんといてな』って、えらい責任の重いバトン渡されてもうてな。今しも5人のベテラン主婦で、みなで助けおうてやっとんやさ。えっ?歳か?確か、上が80歳越えで、一番わこても62歳やな」。茶屋にたつゑさんの笑い声が響いた。

飯高町名物のでんがら作りは、朴葉を6月頃に山から一年分取って、塩漬けする作業に始まる。

次に小麦粉、米粉、餅粉、片栗粉と熱湯を入れ手捏ねする。

そして小豆を1時間炊き上げ、漉し器で漉し、砂糖を混ぜてもう一度煮て漉し餡に。

次に餡を一口大に丸め、切り分けた生地を掌で伸ばし、餡を包み込み四角に形成。

それを広げた朴葉で包み、細かく割いた棕櫚の葉の紐で、十文字に結んで約25分間蒸し上げれば完成。

「何で四角かって?昔は丸うしよった時もあった。せやけど棕櫚の紐できつく結ぶと、真ん中だけがくびれてもうて、雪だるま型になってしもて。せやもんでいつの間にか、今しのような四角い長方形になってったんやろ」。

天然無添加の素朴なでんがらは、白と蓬の二種類。

「遠方から里帰りする人らは、必ずでんがら食べに寄っとくれるんさ。私らもそれが楽しみでな。中には何10個と持って帰る人もおるんやさ。帰って冷凍しといて、でんがらが恋しなったら、解凍してまた食べるんやと」。

遠き古里の味「でんがら」。

朴の葉をめくった瞬間、今は亡き母の匂いがした。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「天職一芸~あの日のPoem 393」

今日の「天職人」は、三重県松阪市の「恋文代筆屋」。(平成22年11月20日毎日新聞掲載)

いつも電車で乗合わす 名前も知らぬお嬢さん          何時の間にやら片思い つい駆け込んだ代筆屋          改札口で待ち伏せて 「好きです」と声震わせて         恋文出して気が付けば 「ママ何それ?」とはしゃぎ声

三重県松阪市の恋文代筆屋、中村透さんを訪ねた。

写真は参考

「女道楽なら、まだカッコよろしで。でもわしの場合は筆道楽。せやで筆見るとなんやムラムラしてもうて、つい手が出てまうんやさ。そやなあこの60年間で、5~600本はこうたやろな」。透さんは、大きな筆箱を広げた。

写真は参考

透さんは昭和10(1935)年に誕生。

「兄弟は8~9人で、たぶん上から3~4番目やろ。昔のことやで、ええ加減なもんやさ」。

楷書の得意な少年として育った。

「父が坊主で、それもあってか、筆と硯がいつも置いてあったでな。でも子どもの頃は、『おまえとこの親父は、人が死んで銭儲けしとる』ってようからかわれたもんや」。

中学を出ると、津市の親方の下で住み込み修業に。

「修行に入ったら、直ぐに親方から『お前は文字書き専門や』と言われて。月に最高でも500円の小遣いやった。せやで散髪して映画見たら仕舞いや」。

5年の修行を終え、職人の駆け出しとなった。

「昭和31年の4月や。初めてもうた給料が、40倍の2万円も入っとって、えろうびっくりしてもうてな」。

明けても暮れても、トラックに会社名を書く毎日が続いた。

写真は参考

「多少歪んどってもかめへんでって言われて。ちょうど津に陸運局があったもんで、尾鷲や四日市からも新車が登録のために、次々とやって来て大忙しやった」。

昭和38年、知り合いの紹介で玲子さんと結ばれ、二男一女を授かった。

翌年、晴れて独立開業。

「自動車の文字書きから看板、香典袋、表札、それと弔辞の挨拶文に結納の目録まで。とにかく何でも書きよったさ」。

写真は参考

徹さんは文字書き一つで、一家5人を支えぬいた。

「昭和41年頃やったやろか。『ごめんください』ゆうてな、自衛隊の制服着た若者が入って来たんやさ。『わしは字が下手やで、彼女に手紙書いてまえんか』ゆうて」。

写真は参考

男は便箋3枚を取り出した。

「そんなん恋文なんてもん、自分のんもよう恥ずかして書かなんだに。それにしてもあんまり真剣やったで、和紙に墨で書いて折り畳むようにしてやったんさ。そりゃもう甘い言葉が綴られとって、こりゃあ硬い字ではあかん、そう思て行書で書いたんやさ」。

写真は参考

すると男が代金を問うた。

「せやけど、車みたいに10年20年と使うもんやなし、恋文なんて1回こっきりのことやで、安うしといたったさ」。

写真は参考

その後、男が現れることはなかった。

「結ばれとってくれりゃええが。まあ、わしが真心込めて書いた、初めての恋文やったで、きっと思いは通じたやろ」。透さんは遠くを見詰め、無邪気に笑った。

「なんちゅうても、わしら文字書きの代筆屋にとったら、筆が命やさ。軽自動車1台分ほどするええ筆つこたら、たちまち人気が出て、仕事もはよなるし、腕も上がる。まあお迎えが来る日まで、まだまだ書き続けやんと」。

写真は参考

代筆一筋60年。

しかし後にも先にも、たった一回限りの恋文代筆屋。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「天職一芸~あの日のPoem 392」

今日の「天職人」は、愛知県豊田市北篠きたささだいら町の「一閑張(いちかんば)()(たい)漆器職人」。(平成22年11月6日毎日新聞掲載)

講釈(こうしゃく)垂れのご隠居は 骨董好きの変わり者            いつもぼくらを呼付けて 茶道具眺めご満悦           ぼくの目当てはただ一つ 薀蓄(うんちく)聞いたその褒美        一閑張(いっかんば)りの(じき)(ろう)に 隠し置いたる京饅頭

愛知県豊田市北篠きたささだいら町、笹平工房の一閑張いっかんばたい漆器職人、安藤則義さんを訪ねた。

国道を川沿いへ分け入ると、桜並木が続く。

秋を待ち侘びた虫の音と、川のせせらぎ。

まるで俗世の穢れが、洗い流されるようだ。

「主人は今、紙を漉いてますので、一段落したら参ります」。晶子夫人の案内で座敷に通された。

床の間から座敷の棚まで、漆器が居並ぶ。

窓辺に差し込む朝の光を薄っすら身に(まと)い、淡い光沢を漆が照り返す。

「ちょっと手が放せなかったもので」。則義さんが、徐に座についた。

則義さんは、旧小原村(現・豊田市)で三男坊として昭和22(1947)年に誕生。

「戦前、七宝焼工芸家の藤井達吉(たつきち)さんが、旧小原村に疎開してみえて。父はその人柄に惹かれ、私が生まれて間もない頃に、大工の生業を捨て師事したそうです。『お前は大工だから、刃物が砥げるし、何かと有利や』という理由だけで」。

中学を出ると下宿し、高校大学へと進学。

「最初の頃は、もう跡取りもいるから、私は外へ出ればいいんだと思ってました。でも大学出る頃になると、無性に古里小原村が恋しくなって」。

卒業と同時に実家へ舞い戻り、父の手伝いを開始。

職人道へと、のめり込んだ。

昭和49年、知り合いの紹介で、東京から晶子さんを嫁に迎え、一男一女が誕生。

一閑張りとは、江戸初期に明より渡来した漆工、一閑の名が冠せられたもので、木型を使い和紙を張り重ね、型から外して漆を塗った漆器を指す。

「その中でも、和紙を自分で漉いて、紙だけで仕上げる紙胎漆器は、ぼくと兄だけじゃないかな」。則義さんは何の気負いもなくつぶやいた。

小原和紙の一閑張り紙胎漆器の皿作りは、小原和紙を簾で漉くことに始まる。

そしてそのまま自然乾燥へ。

「紙床で和紙を圧縮しないから、繊維の密度が高まらず、腰のないフエルト状になる。だから皺も伸びやすく、糊漆の吸収がいい」。

次は欅で木型作り。

轆轤(ろくろ)を引き、凸面の型を作り、剥離材を装着。

凸面に麻布を水張りし、その上から和紙を2枚水で張り、型の周りだけを米糊で、木型を覆うように接着。

乾いたらその上から和紙を2枚、(わらび)(のり)で接着。

乾燥した上から和紙5枚を糊漆で張り乾燥させ、また和紙5枚を糊漆で重ね張る。

そしてもう一度乾燥後、和紙2枚を糊漆で張り乾燥させ、さらに和紙2枚を糊漆で張り合わせる。

そして木型に糊付けした和紙を剥がし、凸面と麻布との間に(へら)を入れ、木型から剥離し、麻布を取り去る。

次に周りのバリ(余分な部分)を処理し、ベンガラと漆を混ぜた赤呂漆を塗り、その後、呂色漆を3度塗り重ね仕上げへ。

すると和紙18枚は、木地にも劣らぬ堅さを得る。

「平らな皿1枚仕上げるのに3ヶ月。ちょっと細工物の(じき)(ろう)なんかだと、まあ1年はかかりますな」。

職人は、低木の(こうぞ)を和紙に代え、千代に生き続ける新たな命を、己が一刷毛の漆に託す。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「天職一芸~あの日のPoem 391」

今日の「天職人」は、岐阜県郡上市栗巣の「山葵下ろし職人」。(平成22年10月23日毎日新聞掲載)

山葵下ろしのせいにして 父はボロボロ涙した         「晴れの席よ」と母の声 金の水引鶴と亀           「お転婆者と案じたが 見違えるほど綺麗だ」と         父は手酌で赤ら顔 箸も付けずの祝い膳

岐阜県郡上市栗巣の頑固屋、山葵下ろし職人の鷲見すみ明さんを訪ねた。

写真は参考

穢れを知らぬ真っ黒な(まなこ)を見開き、ヨチヨチ歩きの幼子が駆け寄る。

男はたちまち相好を崩し、体の大鋸(おが)()を払い抱き上げた。

「孫とちゃいますに。これでも娘なんやさ」。明さんは、照れ臭げに娘に頬ずりをした。

明さんは昭和35(1960)年、兼業農家で4人兄弟の3男として誕生。

専門学校を出ると、陸上自衛隊明野航空学校で航空整備を担当。

昭和58年、国家試験に合格し航空管制官となった。

その後、各地の駐屯地で勤務し、平成6年に退官。

「ヘリの操縦免許を取りたくって、バイトして留学資金を貯めとったんです」。

翌年35歳で渡米。

平成8年、操縦免許を取得し帰国した。

「不景気で就職先がなくって。そしたらバイト先だった運送会社から、新事業を一緒に始めんかと誘いが」。

だがその準備中に、高熱が続きお多福風邪に。

郡上へと舞い戻り、1ヶ月の養生を続けた。

「新事業も断念し、これから何をしようかと、半年ほど悩み抜いて鬱状態になってしまって」。

すると地元の知人から声が掛かった。

「サメの皮で、山葵下ろしやってみんか」と。

だが全くの未知の世界。

何はともあれ、サメの皮探しから始めた。

写真は参考

「そしたら刀剣の柄巻師さんを紹介してもらえて。その方と一緒に、東南アジアを探し回ったんやて」。

サメ皮の仕入先は見つかったものの、下ろし作りは全くの素人。

「試行錯誤の連続やさ。他所の下ろしを取り寄せて研究したり。でも他所のは、サメ皮が剥がれやすいんやわ」。

またしても接着剤探しに奔走する日々が、3ヶ月も続いた。

写真は参考

「山葵は口に入れるもんやで、サメ皮を貼る接着剤の成分は、食品衛生法で定められた無害な物じゃないといかんし」。

商品化までに、延べ2年以上の歳月が費やされた。

写真は参考

平成18年、美代子さんと結ばれ、やがて一女が誕生。

「お多福風邪をこじらせたで、子が出来たって言われ、最初はほんまびっくりやったわ。でも神さんが、授けてくれたんやろな」。

山葵下ろし作りは、広葉樹の(しら)()で加工された下ろし板の、サメ皮を張り付ける接着面を、1つ1つ手で加工することに始まる。

「接着面をきれいに加工し過ぎると、摩擦力が弱まってサメ皮が剥がれ易くなるんや」。

そしてサメ皮の裏面にも、同様の処理を施す。

次に下ろし板とサメ皮に接着剤を塗布し、陰干しで乾燥。

さらにもう一度接着剤を塗布し、乾き切る寸での所で万力に掛け、その後圧着したまま2~3日陰干し。

最後にサメ皮のバリ(余分な部分)を研磨機で落とし、皮の表面に飛び出した接着剤を、千枚通しを使い1穴1穴取り除けば完成。

気も遠のくほど細やかな作業だ。

写真は参考

「サメ皮の表面には、無数のちっこい毛穴のようなもんが開いとって、そこから接着剤が滲み出るで」。

どんなに頑張っても、1日50個が限界とか。

山葵下ろし職人の足元には、愛娘がいつまでも纏わり付いていた。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「天職一芸~あの日のPoem 390」

今日の「天職人」は、三重県熊野市遊木町の「戻りサンマの丸干し職人」。(平成22年10月16日毎日新聞掲載)

破れ団扇で火を(おこ)しゃ 背なの妹煙たがる            (ゆう)()港に陽が落ちりゃ (とう)の漁船が沖目指す           朝日に染まる熊野灘 大漁旗を(ひるがえ)し               戻りサンマを山積みに (とう)が港へ引き返す

三重県熊野市遊木町、干物の浜峰商店。二代目干物職人の浜口克成さんを訪ねた。

「熊野灘を下る戻りサンマは、荒波を泳ぎ抜いて来るで、わしらとちごてメタボやないんさ」。克成さんは、港から沖を眺めた。

「ここらは、300年の伝統を誇る、サンマの刺し網漁発祥の地やで」。

港に舫われたサンマ船が、出港の時を待つ。

克成さんは昭和27(1952)年、5人兄弟の長男として誕生。

「魚屋の三男坊やった父が、復員後サンマ船を持って漁を始めたんさ。ところが4歳の時に大不漁で、家を取られてもうて。その後、新宮(和歌山県)に間借りし、魚屋を始めたんやさ」。

昭和34年、親類の助けを借り、遊木町へと戻った。

「そしたら今度は、伊勢湾台風に見舞われてもうて。船が家の中へ飛び込んで来るんやで」。

小学生時代は、もっぱら父の仕事を手伝った。

「父は正直もんで、お客さんらに『美味しいわ』と喜んでもらうために、骨身を削って働き詰めたんさ」。

それから10年。

ボロ雑巾のようになるまで、働き通した父は、過労が祟り急逝。

「その年、高校を2年で中退し、店継いで父が失った家を取り返すと(ちこ)たんさ。妹たちの面倒もみやんならんで」。

従兄弟の船長から「魚屋やんなら、魚場を勉強せえ」の一言で、漁船に乗り込んだ。

「えらい月給がようて。でもそのお陰で、魚獲ってからの処理も覚えたんやさ」。

昭和45年、中古の軽トラを月賦で手に入れ、母と二人で浜峰商店を再興。

行商を始めた。

「父から干物の加工方法は、じぇんぶ教わっとったし、塩の塩梅は母が覚えとったで」。

母と子の商が続いた。

昭和52年、海山町(現・紀北町)から幸美さんを妻に迎え、二女が誕生。

「当時は今とちごて、まだ鮮魚もやりよったんさ。それで鰹問屋やった女房の実家へ仕入れに行ったら、どこでどう間違(まちご)うたんか、嫁まで仕入れてもうて」。

天下に誇る浜峰の戻りサンマの丸干しは、潮目と月の満ち欠けの見定めで決まる。

「サンマの腹ん中が空っぽになって、カンピンタンのペラッペラになる、まだ夜も明けやん(あさ)(やみ)獲りが一番なんやさ」。

写真は参考

水揚げされたばかりのサンマを、永年の目利きで競り落とす。

(けつ)の穴が閉じとるやつがええ」。

サンマに天然海塩を振り掛け、手もみし木桶に一晩漬け込み低温熟成。

「手もみすると、その日のサンマの表情が見えますやん」。

翌朝、熊野山麓の天然水で塩出し。次に尻尾を2匹で1つに縛り、丸2日天日に干せば出来上がり。

写真は参考

「まだ新物やないけどどうや?」。

そのまま大胆に、手掴みで噛り付いた。

何とも言えぬ噛み応えと、肉汁の甘味が広がる。

特に(はらわた)はこの上なく絶品だ。

「せやろ。水揚げしたばかりの、刺身でも食えるサンマを、わざわざ干物にしたるんやで、うも(=うまく)ないはずがない。潮の香りを封じ込めた贅沢な干物やで」。

後4日、熊野の戻りサンマ漁が解禁日を迎える。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「天職一芸~あの日のPoem 389」

今日の「天職人」は、三重県松阪市飯南町しもがきの「和包丁鍛冶」。(平成22年10月9日毎日新聞掲載)

菜切り包丁一本で 母は何でも切り分けた            野菜果物肉魚 ケーキ羊羹お漬け物               柄の付け根まで朽ちようと 研いでは使うその訳は        嫁入る時に一つきり 祖母が持たせた道具ゆえ

三重県松阪市飯南町しもがきの鍛冶安。五代目和包丁鍛冶のあかはた大徳とものりさんを訪ねた。

カンカンカンカンカーン。

(しら)()(さん)麓の静かな里に、規則正しい鎚音が響く。

「30年前まで爺さんは、地べたでコークス焚いて、野道具の備中鍬や唐鍬なんかを(あつら)えとったんやで」。大徳さんは、金床からゆっくりと顔を上げた。

鍛冶安は、明治27(1894)年、坂を下った旧伊勢本街道沿いの作業場で、()()に火入れを始めたという。

大徳さんは昭和50(1975)年、3人兄弟の次男として誕生。

「祖父が亡くなる小学校の4年まで、爺さんの鍛冶場が好きで、しょっちゅう遊び場にしては叱られたもんやさ。鉄を打つゆう行為に、オスとしての本能が反応したんやろか」。

体育教師を志し、大阪の大学へと進んだ。

「母校へ教育実習で行ったら、体がでこ(=でかく)ないもんで高校生に転校生と間違われて『おいっ、兄ちゃん』って呼ばれてもうて。バレー教えようとしたら、基礎練習はちっともしやんと、『はよ試合させろ』ってそればっかり。俺らと4つ5つしか違わんのに、みんなえらい無気力で。こりゃあ手に負えんやろうと逃げ帰ったんさ」。

卒業後は就職もせず、バイト生活の日々が続いた。

「このままやったら、身も心も腐ってまう」。

ついに帰郷。鉄鋼建設を営む父の手伝いを始めた。

それから3年。

「おとっつあん死んだら、この先なとしよう」。己の行く先を己に問い掛けた。

そんな折り、知人から京都の鍛冶師「(よし)(さだ)」、十代目当主の山口(てい)(いち)(ろう)氏を紹介され、すぐに京へと上り弟子入りを請うた。

「そしたら案の定『やめとけ』って。そりゃあ一応、師匠たる者、最初はそう言いますやろ」。

平成13年、弟子入りが認められ修業に入った。

それから6年、和包丁鍛冶のイロハを学び帰郷。

ついに平成18年、22年間火が消えたままの鍛冶安の火床に、真っ赤な火が燃え上がった。

出刃の火造りは、まず鋼と地金を出刃の寸法に()()りすることから始まる。

「出刃や刺身包丁の片刃は、両刃とちごて、右利き左利きで刃の位置が違ごてくるで」。

そして火床に入れて鍛接(たんせつ)

次は火床から取り出し、荒々に叩き伸ばし、柄に差し込む中子(なかご)を造り焼きなましへ。

「火床で温度を上げ、それを藁灰の中で一晩掛けてなだめるんやさ」。

火造りが終わると、研磨盤に掛け、磨り回し。

次に鉄側から叩き、鋼を叩き占める冷間(れいかん)鍛造(たんぞう)へ。

そして泥を塗り火床で焼入れし、そのまま一旦水に浸け、再び180~200度で焼き戻す。

「鋼の粘りをだすんやさ」。

そして粗研ぎで歪みを取り、本研ぎで仕上げし、朴の柄を挿げ「火造鍛造 大徳(だいとく)作」の銘がタガネで刻み込まれる。

「鉄は文句も言わんし、己の技量一つでええ子にも、出来の悪い奴にもなる。せやでこれまでグレた奴を、銘もよう刻まんと、どんだけほうたったか」。

若き鍛冶匠は、悪戯小僧のような目で、燃え盛る火床を見つめた。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。