1年365日の大半が、母の祝日だった。
と言うと、まるで怠け者かと思いきや、それがどっこい正反対。
寸暇も惜しみ、身を粉にして働く、筋金入りの戦中派女だった。
だから享年64という、今にして思えば、まだまだこれからという歳で、永久の暇を乞うたのか。
では何故母の祝日が、人より多いと気付いたのか?
それは母の野辺送りを済ませ、遺品整理の真っ只中でのこと。
冷蔵庫と食器棚の隙間から、壁掛け用のカレンダーが現れた。
埃塗れの古惚けた12枚綴り。
何気なく表紙を捲ると、日付が丸で囲まれ、癖のある母の細かい文字が、びっしり書き込まれているではないか。

5年前、愛犬を貰い受けた日。
2年前、父の基本給が微増した日。
6年前、月賦で洗濯機を購入した日。
といった調子で。
「お母さん、まだ寝んの?」。
「あんたは先に寝とりなさい。お母さんは除夜の鐘聴きながら、こうしてカレンダーに我が家の記念日を、1年分書き写してから休ませてまうで。それが年に一度の楽しみやし。毎年毎年、我が家の記念日が、また一つまた一つと増えてくんやで、幸せなことやて」。

不意に子どもの頃の、母の言葉が甦った。
国民の祝日さえも返上し、家族の世話に明け暮れ続けた母。
「いっぺんでええわ。一日中、上げ膳据え膳で過ごさせてまいたいなあ」、の口癖を残し早々と鬼籍に入った。
家族の歴史が刻まれた1年分の暦。
他人にとっては値打ちが無くとも、母にしてみれば、どれも価千金の祝日だったに違いない。
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