昭和がらくた文庫65話(2016.04.21新聞掲載)~「上野さん!おきなやの鮎菓子、焼き上がりますよ!」

「春になったら、奥飛騨でゆっくりと湯浴みして、高山の古い町並みでも漫ろ歩き、帰りがけに岐阜市美殿町のおきなや総本舗に立ち寄り、焼き立ての鮎菓子食べたいなあ」。

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これが最後に届いたメールとなった。

2016年2月29日に、79歳でこの世に暇乞いされた、朝日新聞社四代目元社主の上野尚一さん。

入院先の病床から、ぼく宛てにお送り下さった、携帯メールである。

縁あってぼくは、上野さんの晩年、今を遡る10年ほど前から、岐阜県内各地をご一緒に旅して周った。

しかもそのいずれもは、時代の進化の影に消え入ろうとする、手仕事の職人ばかりを訪ねる旅。

「仙人。今度は、君の本に書かれている、高山の銅職人を訪ねたい」と言った調子で。

仙人とは、在り難くも上野さんから賜った、ぼくの渾名だ。

何故(なにゆえ)仙人かと言うと、当時ぼくは毎日新聞で毎週「天職一芸」と言うコラムを連載しており、仙人ならぬ千人の「(てん)職人(しょくびと)」を追って取材していたからである。

上野さんは、拙著「百人の天職一芸(風媒社刊)」「東海の天職一芸①~③(ゆいぽおと刊)」を熟読され、次なる岐阜への旅を計画されたものだ。

一昨年。

高山からの帰路、郡上へ抜けるせせらぎ街道。

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新緑のトンネルを走り抜けながら、あまりの清々しさに、ぶらりと道の駅に立ち寄った。

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「美味いなあ!」。

揚げたての飛騨牛コロッケを頬張り、上野さんが唸った。

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「こんな風にベンチに腰掛け、コロッケに舌鼓を打つなんて、子どもの頃以来だよ」。

懐かしそうに、子どものような目で、遠くの山並みを眺めた。

「こんな澄んだ空気の中でいただくコロッケは、何より美味しいご馳走だよ」。

たかだか1個200円にも満たぬコロッケ。

ぼくから見上げれば、雲の上のそのまた上の、近寄りがたい名家のお方。

しかしその時ばかりは、地位も肩書も脱ぎ捨て、何一つ俗世のしがらみの無かった、子どもの頃と同じ一瞬を、堪能されたのかも知れぬ。

間もなく上野さんがこよなく愛した、おきなや総本舗の鮎菓子が、今年も販売される。

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そしたら上野さんの遺影に、いの一番で焼き立てをお供えするとしよう。

合掌

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昭和がらくた文庫62話(2016.01.28新聞掲載)~「ふたりの長良川」

雪に埋もれた高鷲 夫婦滝で誓った

ふたり寄り添い生きてゆこうと 舞い上がる白鳥(しろとり)に託した

夜を明かして踊れば 八幡の城下町

このまま何処までも あなたとなら

喜びと哀しみ 幸せと不幸せ

ふたり手をとり美濃路を下る 長良の鮎がその身を任すように

長良橋金華橋 互いをただ信じて

この命果てるまで あなたと伴に

ふたり生きた証しが この川を遡る

あとは海へ還ろう 流れるままに

これはぼくが4年前(2012)に作詞作曲を手掛けた「ふたりの長良川」の歌詞。

TV番組「夫婦善哉・金婚庵」の主題歌だ。

ぼくと女性タレントが扮するぜんざい屋夫婦の店に、県内各地の金婚式を迎えるご夫婦が客として来店し、長きに渡る夫婦生活の悲喜こもごもの人情噺を伺う番組だった。

その主題歌ならばと、ぼくは岐阜県人の誇りである、清流長良川と、そこに生きる鮎の一生に、夫婦の生涯を重ね合わせようと考えた。

そして去年暮れ、12月15日にイタリアから吉報が舞い込んだ。

国際連合食糧農業機関(FAO)で、「清流長良川の鮎」がついに、世界農業遺産として認定されたという。

つまり岐阜県の「長良川」と、「長良川の鮎」を世界が認めた証しである。

長良川流域に暮らす方は元より、全県民にとってこれ程誇らしい事はない。

思えば両親がまだ、健在だった32年前。

父は前頭葉動脈瘤破裂から、2度の手術を経て、奇跡的に麻痺も残らず死の淵から生還。

ぼくはなけなしの金をかき集め、両親をささやかな旅行へと連れ出した。

長良川流域の民宿へ。

「生きてまた、こんな旨い鮎の塩焼きが食えるとは…」と漏らした、父の嬉し泣きが、そのニュースに触れた瞬間、鮮やかに蘇った。

おめでとう。

母なる長良川。

そして、美しき鮎よ。

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昭和がらくた文庫61話(2015.12.27新聞掲載)~「年忘れ!世紀越えカリーパーティー」

大晦日から新年のご来迎を、インドの地で迎えた。

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二十世紀が二十一世紀に変わるその瞬間。

しかも釈迦成道の地、インド・ビハール州ブッダガヤに、新聞の取材で訪ねた2000年の大晦日。

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それを遡る20年前。

ブッダの里にある日本寺の青年駐在僧が、2年の任期を終えた。

彼は帰国に際し、世話になった貧しいマスティープールの村人らに、お礼としてカレーを振舞った。

それから20年。

当時子供の頃に、彼が振舞ったカレーを食べたという少年が大人となり、ブッダの里の土地を彼に寄進したいと願い出た。

そこに寺や宿坊を建て、もう一度子供の頃のような、夜通し飲んで食べてのカリーパーティーを開いてくれないかと。

1杯のカレーが紡いだ不思議な縁。

寺院建築が始まりカリーテンプルと名付けられた。

その竣工披露を兼ねた、世紀越えのカリーパーティーの、取材に出向いたというわけだ。

大晦日のこの夜、チキンカレーが無料で振舞われると聞き付け、隣村からも約千人近くの老若男女が、カリーテンプルを取り囲んだ。

闇に浮かぶ群衆は、無秩序に道路へと鈴なり。

開場時の混乱を想うと心が騒いだ。

そんな心配をよそに、開場となった。

するとどうしたことか。

中庭には300人ほどが整然と列を作り、村人たちが地べたに座り込み、バナナの葉の皿に、カレーが盛り付けられるのを、嬉々として待ち構えているではないか。

しかもいずれも、女子供と老人ばかり。

30分ほどで客が入れ替わった。

するとまたしても、女子供と老人ばかりである。

入口に(たむろ)し焚き火に当たる男に問うた。

すると「女子供や老人に先を譲るのは、当たり前だろ?元気な男共は後でいい」と。

入場整理券も無ければ、物々しい警備員もいない。

だが我先にと先を争う混乱など、何一つ無かった。

ヒンドゥー教徒にとって釈迦は、9番目の神とか。

一見貧しそうに思えたインドの村人たち。

ところがどっこい、ぼくなんぞ足元にも及ばぬほど、慈悲深く心豊かで偉大であった。

村人たちの年忘れ。

世紀越えカリーパーティーは、21世紀のご来迎まで続いた。

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昭和がらくた文庫60話(2015.10.22新聞掲載)~「新聞配達の符丁(ふちょう)」

-早朝の住宅街。

(おびただ)しい数の赤色灯。

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規制線の向こうには、自転車が倒れ新聞が散乱。

傍らには、腹から血を流した男が、突っ伏したままだ。

「山さん。これ見てください!」。

若い刑事がベテラン刑事を呼び止めた。

そこには血で書かれた「ト」のような文字とも、矢印にも見える不思議な模様が描かれ、右上に「・」のような印。

「ダイイング・メッセージか?」。

「ガイシャの身元は、毎朝新聞販売店の配達員、奥田健太32歳」。―

これは今から15年前。

TVキー局のドラマプロデューサーに紹介されたプロダクションで、先輩シナリオライターの名前を借り、サスペンス物のシナリオを書いていた時代の、ネタ帳の抜粋だ。

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それにしても当時は、朝から晩まで明けても暮れても、人の殺し方と犯行の動機、そして謎解きばかりを考えていたものである。

そんな頃、少しでも生活の足しになればと、新聞配達の見習いを志願。

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早速先輩の後から配達先を巡った。

先輩によれば、配達ルートを頭に叩き込むまでは無給とか。

そう聞かされ、早やくもその過酷さに初日から挫折。

その時のことだ。先輩が手にしたメモ帳に、不思議な符丁が配達順に、描かれている事に気付いたのは。

参考資料

それが先の奇妙な文字だ。

片仮名の「ト」のやや右上に「・」が一つ。

つまり一軒先の、右隣の家を指すものである。

二軒先なら「・・」、左側の二軒先なら「ト」の左上に「・・」。

符丁が記された手帳を、順に手繰りながら巡れば、その区域の配達が完了すると言う優れ物。

符丁を手掛かりに、主人公が謎を解き明かし犯人を追い詰める、そんな設定だった。

確かに警察官や新聞記者を始め、それぞれの業種において様々な符丁が存在している。

ましてや一つ屋根の下で暮らす家族にも、他人では伺い知る事の出来ぬ、その家族だけの、府庁ならぬ家言葉が存在する。

しかしそれこそが、家族が家族である証かも知れない。

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昭和がらくた文庫59話(2015.10.22新聞掲載)~「秋刀魚を陰膳に亡き父に献杯」

この時期、赤提灯の縄暖簾から、秋刀魚の焦げる匂いが漂って来ると、つい後ろ髪を引かれ立ち止まってしまう。

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「ただいま~(小声)!」。

玄関の引き戸をこっそり開け、(あが)(がまち)にランドセルを放り出し、グローブ片手に一目散に広場へ駈け出そうとすると、どこで見張っていたものか、母に決まって呼び留められた。

「野球しに行ってもええけど、お父ちゃんが帰って来るまでに、練炭の火を熾さなかんで!」と。

さすがにこの時期は、草野球に高じる友とて、状況は皆同じ。

きっと母親に、そんな台詞を浴びせられていたに違いない。

だから日が暮れかけようものなら、皆一斉に家路を急いだもの。

パタパタパタ。

()れ団扇で七輪の風窓を仰ぐ音が、向こう三軒両隣の玄関先で一斉に鳴り出す。

たいがい七輪の火熾しは、どこも概ね子どもの仕事。

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上手く火が熾せず困り果てようものなら、いつしか近所のご隠居が傍らに屈み込み手を差し伸べてくれたもの。

そんな穏やかな光景こそが、昭和半ばの釣瓶落としに暮れ行く、秋の宵でもあった。

さて庶民にとって無くてはならぬ、秋の味覚の王者の秋刀魚。

三重の方言では「サイロ」、さらに少し下った和歌山では、「サイラ(佐伊羅魚)」と、古来より呼ばれる。

黒潮と共に北上し、北海道や三陸沖で水揚げされる、脂も滴るほどの秋刀魚が好もしい。

一方、親潮に乗り産卵し南下する、脂も落ち痩せ衰えた戻り秋刀魚の朝獲れは、「かんぴんたん(痩せて腹も空っぽ)」の丸干しや、サンマ寿司に最適である。

ところで秋刀魚の学術名は、「Cololabis saira(コロラビス・サイラ)」。

三重の「サイロ」や、和歌山の「サイラ(佐伊羅魚)」に由来するものとか。

それ故、漁師の漁法も異なるそうだ。

昭和半ば。鯉口シャツにステテコ姿の父が、七輪で秋刀魚を焼く姿がどうにも偲ばれてならない。

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ならば今宵は、父の好物だった秋刀魚でも焼いて、それを肴に父を偲び一献傾けるとするか。

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昭和がらくた文庫58話(2015.09.24新聞掲載)~「哀しみもケセラセラ」

「♪ケセラセラなるようになる♪」。

この歌をよく母は口ずさんでいた。

ドリスデイの名曲「ケセラセラ」だ。

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日本では昭和31年に、ペギー葉山がカバーし、一躍ヒットとなった。

写真は参考

「ケセラセラ」とは、「なるようになる」を意味するスペイン語と言われたが、その実スペイン語圏に、そんな言葉は見当たらないとか。

しかし「ケセラセラ」は、その呆気らかんとした語感の響きの良さからも、「なるようになる」と言う能天気さが、まだ戦後の傷も癒えぬ時代に、受け容れられたのではないか?

ともかく母は、哀しい事や辛い時、心が塞ぎ込み折れそうになる度、自らを奮い立たせんと、呪文のように口ずさんだのだろう。

今だから母の思いが痛いほど分かる。

そもそも歌は、心身に多大な影響を及ぼすとされる。

英国の神経学者、オリバー・サックスが記し、後にロバート・デニーロ主演で映画化もされた「レナードの朝」でも、それらの現象が描写されていた。

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嗜眠(しみん)(せい)脳炎(のうえん)(常に睡眠状態に陥る状態)の患者でも、音楽が鳴っている間は、ダンスに興じたり、歌ったり出来るものの、音楽が鳴り止むとその途端、まるで魔法から覚めたように力も消え入るとか。

一方「歌う」の語源は、民俗学者にして国文学者で、国語学者でもあった折口信夫によれば「うった(訴)ふ」なのだそうだ。

歌と言う行為には、相手に伝える内容があるからこそ、「うったふ→うった→うた」と変化したと。

また、国文学者の徳江元(とくえげん)(せい)によれば「うた」とは、言霊(ことだま)(言葉の持つ霊力=(こと)())により、相手の魂に影響を与えると言う。

つまり相手の魂を激しく揺さぶる、「打つ」に由来するのだそうだ。

なるほど歌に込められた言の葉には、魂が宿る故、聴く者の心を鷲掴みにして離さなぬ。

だからか、母が「おー、よしよし」と腹や背を摩ってくれた、あの呪文の言葉に似た、絶大な癒しの効果があるのは。

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昭和がらくた文庫57話(2015.07.23新聞掲載)~「最期の盆踊り」

母の遺品整理の途中、妙な形の女物の下駄を見つけた。

両親だけが暮らす家だから、それは取りも直さず母のものだ。

しかし右の歯が左の歯の、3倍もの高さである。

写真はイメージ

「この下駄って?」と父に問うた。

すると「去年病気になる、ちょっと前のことやったわ。どうしても故郷鹿児島へ、ご先祖さんの墓参り兼ねて、連れて行って欲しいと言い出してな」。

父は新聞広告で探した格安ツアーで、母を伴い2泊3日の旅に出たと言う。

なぜそんな水臭い…。

父はそんなぼくの心を見透かしたのか、「お母ちゃんが、お前に余計な心配かけたないって、そう言い張ったんや」。

父が記念写真を広げた。

澄んだ真っ青な空と錦江湾。

微かに噴煙を上げる桜島。

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そして何より、年老いた両親の晴れやかな笑顔。

「あっ!」。

思わず一枚の写真に釘付けとなった。

「ちょうどホテルの近くで盆踊りがあってなあ」と父。

そこには、ホテル名の染め抜かれた浴衣姿の母が、輪踊りの一角で踊っていた!

「ホテルの窓から、『♪花は霧島 煙草は国分 燃えて上がるは オハラハー 桜島♪』って聞こえてきたんや。そしたらお母ちゃんが、急に踊りたいと。まあ浴衣は、ホテルの寝間着で間に合わせるとしても、下駄がいるやろ。それで慌てて下駄屋へ駈け込んで、無理言って右の歯だけ高こうしてもうたんや」。

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それで全ての合点がいった。

母は戦時中、学校の階段から転げ落ち、その弾みで右足を骨折。

しかし時節柄、満足な治療も受けず仕舞。

それがもとで亡くなる前には、歩くにも不自由なくらい右足が縮み、左右の落差も広がった。

「お母ちゃん、知っとったんやぞ。自分が後どれだけしか生きられんと。まだ足の落差が少なかった頃は、よう盆踊りに通ったもんや。だからおはら節が聞こえた途端、もう居ても立ってもおられんかったんやろ。今思や、それが最初で最後の、お母ちゃんのささやかなわがままやったわ」。

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昭和がらくた文庫56話(2015.07.23新聞掲載)~「花火を愛した裸の大将の言葉よ、愚かな裸の王様に届けたまえ!」

蚊取線香と蚊遣り豚。盥に浮ぶ西瓜。

線香花火のあのキナ臭さ。

いずれ劣らぬ、昭和半ばの夏の香りだった。

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縁に腰掛け戦中派の両親と、西瓜の種を口から飛ばし距離を競い合った幼い日。

そんな両親の齢を、とっくの昔に通り越してしまった。

西瓜を食べ終えると、お待ちかねの花火だ。

今ほど豊かじゃなかった、昭和の半ば。

線香花火さえ、一日何本と決められていた。

水を張った木製の盥。

家族三人で屈み込み盥を取り囲む。

父の燈した一本の線香花火を、ぼくが受け取り、盥の中央へと翳す。

パチパチパチ。

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勢いよく火花が放射状に飛び散り、月を浮かべた盥の水面に閃光が(はし)る。

一際大きな放射状の火花が散ると、それを潮目に、丸く赤い火玉だけが、紙縒りの先で(くす)ぶり始める。

パ…チッ…パ…チッ…

線香花火はやがて、我が身を削る様に弾け逝く。

紙縒(こよ)りの先で痩せ細った、赤い小さな火玉が、ジュクジュクと身を(よじ)る。

やがて力尽き、紙縒りの先から滑り落ち、微かにジュッと今わの際の声を上げ、闇へと消え入った。

盥を囲んだ両親とぼくの口から、同時に吐息が漏れた。

わずか1分にも満たぬ線香花火の儚さに。

父や母は一体どんな想いで、線香花火をみつめたのだろう。

それは倹しくも、家族3人健康で、そして平穏に暮らせる、小さな幸せへの感謝であったろうか?

誰より花火を、心から愛して止まなかった山下清。

参考資料

彼の魂の言葉は、まさに平和への希求そのものだった。

「みんなが爆弾なんか作らないで、きれいな花火ばかり作っていたら、きっと戦争なんて起きなかったんだな」。

今し国会と言う盥の中にキナ臭さが燻ぶる。

こんな時こそ、山下清「裸の大将」の言葉を、どこぞの「裸の王様」に聴かせたいものだ。

山下清の飾らぬ言葉こそが、戦後70年を迎える今の日本に、最も染み入る言葉なのではなかろうか?

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昭和がらくた文庫55話(2015.06.25新聞掲載)~「梅雨の最中のハイカラ野球盤ゲーム」

梅雨の真っただ中では、三角ベースの草野球もままならぬ。

となればお目当は、新発売の野球盤ゲーム。

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ご近所でもハイカラと評判の友の家。

そこに野球盤が入ったと聞きつけ、仲間と興味津々で押し掛けた。

本物さながらの野球場を模した、60㎝四方の盤には、ダイヤモンドが描かれている。

投手役が、ボールに見立てたパチンコ玉を、レバー操作で打者に向かって放つ。

一方の打者役は、指先でバットのレバーを手前に引き、投球に合わせボールを打つ。

打球が内野と外野に設けられた穴凹に入ると、その表示に従いゲームを進めるのだ。

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野球小僧4人にとって、それこそまさに垂涎の的。

本物の野球盤を目の当たりにし、もう誰もが大興奮。

早速野球盤でのプレーが始まった。

まずは皆でジャンケン。

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対戦相手と順番を決めるためだ。

夏に始まる高校野球を真似、自分の好きな名門校を選ぶ。

しかし当然、皆が我先にと選ぶのは、郷土愛もあり地元東海三県の名門高校に絞られる。

しかも一番人気は、その前年に春夏連続優勝を果たした、中京商業と相場は決まっていた。

しかし所詮ゲームはゲーム。

草野球の上手い下手など以ての外。

ただ偶然の運の良さだけが頼り。

高校野球の名門だろうが、そんなの糞喰らえ。

あれほど血眼になって一番籤を引き当てた、優勝候補の中京商業など、初戦で敢え無く敗退。

優勝は、ジャンケンで一番カスを掴んだ、野球盤の持ち主の友だった。

本物の草野球では、いつも精彩を欠くのに、野球ゲームだけは別格。

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恐らくこっそり、一人で練習を繰り返していたのだろう。

だがそんな野球盤ゲームのブームも束の間。

擬似的な野球に飽き果て、梅雨が明けるや否や皆一斉に、いつものどんぐり広場へと飛び出し、三角ベースの草野球に興じた。

だから唯一野球盤ゲームだけが自慢だった、お金持ちの友の家へなど、もう誰一人足を向けることもなかった。

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昭和がらくた文庫54話(2015.05.28新聞掲載)~「墓場まで持って行った、忌まわしき戦場の記憶」

膝に置いた父の拳が、幾度となく震えていた。

ぼくが小学2年になった年の事。

初めて父に連れられて行った、映画館の暗闇での出来事だ。

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スクリーンには、子供向けとは程遠い、戦争映画が映し出されていた。

しかし当時のぼくは、残虐でおどろおどろしい場面に戸惑い、幾度も目を背けたに違いない。

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むしろぼくには、膝の上で拳を震わす父の挙動が、心配でならなかった。

どこか体の具合でも悪いのかと。

それが唯一後にも先にも、父と二人で観賞した映画だった。

ならば何故、それがそんな戦争映画だったのだろうか?

そんな父の想いに気付いたのは、つい最近のこと。

多くを語らず息を引き取った父は、青春時代と引き換えに銃を構え戦場に立った。

そこが映画の舞台である、中国の北支(現、中国北部の華北)だったと知ったからだ。

父は映画を観ながら、何を思ったろう。

生きて祖国に帰り着くまでの、苦難の日々であろうか?

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それとも戦場で息絶えた戦友の面影か?

或いは、父が放った三八式歩兵銃の銃弾に射抜かれた、敵兵の末期の顔だったろうか?

はたまた敵兵の死を悼む家族の姿か?

戦争さえなければ、父は平凡な和菓子職人見習いだった。

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父の銃弾に斃れた敵兵もまた然り。

忌まわしき戦争さえなければ、倹しいながらも家族と共に、痩せた土地を耕す農夫だったかも知れぬ。

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戦争とは何だ?

それは一部の、好戦的指導者たちの、手慰み(てなぐさみ)であって良い通りなど無い。

少なくとも生き延びるため、銃を向けた父も、銃弾に斃れた敵兵も、戦時でなければ、方や和菓子職人見習い、方や倹しい農夫でしかなかったはずだ。

ところが今や物騒な法案を、体の良い平和とか安全と言う言葉に挿げ替え、押し通そうとする、平和の安寧を脅かしかねぬ輩が現れた。

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今こそ市井に生きる我々庶民も、愛しい子や孫の為に、他人事では無く、真剣に議論すべきではないか!

父の震える拳が、最近鮮明に思い出されてしかたない。

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