昭和がらくた文庫77話( 2017.04.27新聞掲載)~「薩摩義士の楔(くさび)」

両親は岐阜県海津市南濃町の高台で、今も安らかに眠る。

眼下には木曽三川の大河。

その先には、広大な濃尾平野を望む。

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何もこの地に、特別なご縁があったわけでもない。

それが証拠に、母は鹿児島生まれ、父は三重生まれである。

ましてやぼくが生まれたのは、名古屋の端っくれ。

しかし母を亡くした翌年。

まるで何かに(いざな)われるかのように、ぼくはこの地を墓地とした。

振り返れば当時の父は、頼りにしていた母が、自分を残し先に世を去ったことを儚み、投げやりだったのだろうか。

何かに付け「お前がそう思うんやったら、わしもそれでええ」と、そんな調子。

程なく(まだら)の認知症と診断された。

だから墓地を決めるにしても、既に父は彼岸と此岸の境を、彷徨(さまよ)っていたのだ。

子どもの頃、墓参りと言えば、それは三重の山奥の、父方の祖先の墓参りを指した。

幼心にも不思議に思い、ある時母に尋ねた。

「お母ちゃん()の、お爺ちゃんのお墓へは、何でお参りに行かんの?」と。

すると母は気まずげに「鹿児島までは遠いし、お爺ちゃんの墓参りはせんでええ」と。

これは母の夜伽の席で叔父から聞いた話だ。

=戦時中に生みの父を亡くし、後に婿入りした養父と折り合いが悪く、散々いじめられた。

そして戦後の娘時代、将来を誓うほどの恋仲を、引き裂かれたようだ。

それがきっかけで、一宮の繊維産業に職を求め、この地へ舞い降りた。=

だからぼくが大人になるまで、母は一度たりと故郷鹿児島へ帰らなかったのか。

しかし遺品のアルバムから、最晩年の両親が桜島をバックに、満面の笑みを浮かべる写真を見つけ、少しホッとした。

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それは母の納骨を済ませた、間もない頃のことだ。

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「お母ちゃん、見えますか?今から260年もの昔。丸に十の字を背負った、あなたの故郷の薩摩藩義士が、己が身を(くさび)に護岸を築き、水害に苦しむこの地の、尊き民の命を救った、そんな気高き薩摩恩顧の地が…」

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昭和がらくた文庫75話( 2017.02.23新聞掲載)~「曳き売り豆腐のおまけ」

草野球を終え家に帰ると、決まって路地の向こうから「♪ト~フ~、トフトフ♪」のラッパの音。

参考資料

昭和半ばの夕暮れ時になると、豆腐屋のオッチャンが、自転車でリヤカーを牽きながらやって来た。

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すると必ず母に呼び止められ、あちこち凹んだアルマイトの両手鍋と小銭を握らされ、一っ走りさせられたもの。

既に豆腐屋のオッチャンの周りには、子どもたちが屯していた。

皆決まって、ランニングシャツに半ズボン、ゴム草履や下駄ばき姿で、鍋や欠けた丼鉢を抱えたまま。

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オッチャンは水槽に素手を突っ込み、豆腐一丁を掬い上げた。

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「ほな、お揚げさん一枚おまけしといたで」と、オッチャンが意味ありげに囁く。

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しかしその囁きは、ぼくにだけではない。

豆腐を二丁買った者へのおまけでもなく、皆が皆に同様に囁くのだ。

だったらそんなもどかしい事などせず、端っからお買い上げの方全員に「お揚げ一枚進呈」とでも、貼り紙でもしていてくれたらいいのにと、子どもながらにそう感じた。

家に帰ると母も心得たもので、「オッチャン、お揚げさんおまけしとくれたか?」と、両手鍋を覗き込む始末。

ある日の夕方。

「♪ト~フ~、トフトフ♪」のラッパの音。

「あれっ?豆腐屋のオッチャン、いつもよりちょっと早よない?それにラッパの音も、どこか変やない?」と母。

それでもいつものように両手鍋を抱え、ラッパの音のする方へと駈け出した。

すると近所の子どもらが、オッチャンを遠巻きにして立ち尽くしているではないか。

それもそのはず。

昨日までのオッチャンとは、似ても似つかぬ、いかつい髭面。

みんなこのオッチャンから豆腐を買うべきか、お揚げのおまけはあるのかが判断できず、どうしたものかと立ち尽くしていたのだ。

すると髭面のオッチャンが、痺れを切らし「ぼーんたらあ、豆腐買うんか買わんのかーっ!」と、ドスの利いた声を張り上げた。

ぼくらはハチの巣を突いた様に、一目散に鍋釜もって駈け出した。

後日譚。

いつものオッチャンの縄張りに、髭面のオッチャンが割り込もうとした。

しかしお揚げ一枚のおまけの前に、髭面のオッチャンは屈したのだとか。目出度し目出度し。

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昭和がらくた文庫74話(2017.01.26新聞掲載)~「三寺まいり~千の灯りと、千の恋」

川面浮かべた 灯篭は 初雪よりも穢れない

芽生えた恋の渡し船 三寺まいり 雪の宵

瀬戸川揺れる 恋灯り 二人屈んで手を合わす

千の灯りと千の恋 飛騨古川は 雪の中

まずは、ぼくの楽曲「三寺まいり」をお聴きください。

これは他紙の連載で、10年以上も前に、和蠟燭職人の三嶋さんの取材記事に添え、ぼくが(したた)めた一編の枕詞のような詩である。

当時は、三寺まいり当日に飛騨古川を訪ねたわけでも無く、観光案内の中にあった、一枚の写真だけが頼りで、詩を捻り出したと記憶している。

その写真には、雪が深々と降り積もる中、白壁土蔵の居並ぶ瀬戸川沿いに、着物姿の女性たちが一列に並んでいた。

そして紅い(ほむら)を揺らす和蝋燭を、川沿いに献灯し、一心に両手を合わせ、祈りを捧げる。

そんな姿がぼくの脳裏に鮮明に焼き付いたものだ。

奇しくも今ぼくの目の前に、その恋絵巻が惜しげもなく再現される。

今年は例年になく雪が少なく、関係者をやきもきさせたとか。

しかし満を持してこの冬最大級の寒波が、1m30cmほどもの大雪を運んだ。

「只今より、雪像ロウソの点灯式を執り行います」。

屋台会館前のお祭り広場の一角には、雪を固めて造られた、直径約1m、高さ約2mにも及ぶ巨大なロウソクが聳え立つ。

すると中折れ帽に黒マント姿の粋な御仁が、どこからともなく現れ出でたではないか!

よくよくそのお顔を除き込んで見れば、山高帽に黒マントに身を包んだ飛騨市の都竹市長だ。

着物姿のお嬢様から松明を受け取るや否や、直径10cmはあろうかと言う灯心に、松明の火を翳した。

ついに飛騨古川の風物詩、「三寺まいり」が幕を開けた。

古川ヤンチャ男が、奇祭の「動」なる「起し太鼓」なら、(しと)やかな女は「静」なる「三寺まいり」。

古川に、今なお連綿と受け継がれる、男と女の恋絵巻。

千の灯りと 千の恋

飛騨古川は 雪の中

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昭和がらくた文庫72話( 2016.11.24新聞掲載)~「嫁入りの菓子蒔き」

「次の日曜。横丁の煙草屋さん()の、マドンナの姉ちゃんが、お嫁入なんだってさ!」。

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何だって早耳の忠治が、鼻の穴を膨らませ、得意げにクラス中を吹聴して回った。

すると子どもらはもう気も漫ろ。

今ほど豊かじゃなかった、昭和半ばの小学生時代。

ぼくらにとって、嫁入りの菓子蒔きは、それこそ天が与えし臨時ボーナスだったものだ。

ついにその日曜。

ぼくらは、横丁の煙草屋へと向かった。

だっていつ菓子蒔きが始まるかなんて、回覧板で知らせてくれるわけでもない。

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となりゃあ、いの一番に特等席を陣取るより術は無い。

ぼくが到着する頃には、既に近所の子どもらが(たむろ)していた。

しばらくすると、真新しい婚礼家具を載せ、紅白幕を襷掛けしトラックが到着。

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子どもたちが一斉に色めき立った。

いよいよ臨戦態勢である。

煙草屋の道路に面した二階の窓漉しに、人の動きが慌ただしくなる。

すると不意に後ろから、物凄い力で押されたではないか!

「なんだよう!」とばかりにふりかえるって見る。

後ろにはいつの間にか黒山の人だかり。

中には割烹着の腰紐を解き、両裾を両手で天幕の様に広げるオバチャン。

野球のグローブを片手に、大きく突き上げるオッチャン。

後ろでは、魚釣りのタモを突き出す者までいるではないか!

その殺気たるや、なまなかではない。

ついついぼくらは、その余りの勢いに、ただただ気圧された。

ガラガラガラ。

二階の窓が開き、文金高島田に角隠し、白無垢姿の花嫁さんが、顔を覗かせた。

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その真っ白な花嫁の美しい顔に、ポーッと見惚れている内に、菓子蒔きが始まる。

「永い間、お世話になりました」。

消え入りそうなほど小さな、花嫁さんの声。

ぼくは肝心の菓子を、拾い集めるどころか、マドンナのお姉ちゃんの姿を、心に焼き付けたものだ。

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何故だろう。父が煙草を切らし、「済まんが、『いこい』()うて来てくれんか?」と、頼まれる度、妙に嬉しかったのは?

過ぎにし仄かな、恋心だったか?

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昭和がらくた文庫71話( 2016.10.27新聞掲載)~「光と影、駅前と駅裏」

光と影。

駅前に駅裏。

陽の当たる華やかな「駅前」に対し、どこか猥雑(わいざつ)な影と愁いを秘めた「駅裏」。

どちらかと言えば、そんな悲哀を帯びた、まるで演歌の世界に迷い込んだような「駅裏」が好きだ。

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それは東京五輪を終えた、昭和39年の年の瀬。

小学1年のぼくは、母に手を引かれ、名古屋駅の駅裏へと向かった。

戦後20年を迎えようというのに、未だバラックが点在。

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昼なお薄暗く、猥雑な商店が立ち並ぶ。

母はぼくの手をしっかと握り締め、「お母ちゃんの手、絶対に離しちゃいかん!」と、小声でつぶやいた。

そして意を決し、年の瀬の雑踏へと、険しい顔で足を踏み入れる。

母の目当ては、お節料理に必要な材料の調達だ。

日雇い労働者やチンピラ風の、人相の悪いオッチャンとすれ違う度、酒臭い何とも言えぬ()えた臭いが、わだかまっていたものだ。

その度、母の手を強く握り締める。

すると母も足早に人混みをかき分け、目当ての食材を手際よく買い求めた。

母にしても駅裏の雑踏は、さぞや怖かったに違いない。

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それが証拠に、繋いだ母の(てのひら)は、薄っすら汗ばんでいたのを、今でもこの手が覚えている。

あれから半世紀。

駅裏と呼ばれた猥雑な地区も、「駅西」といつしか改名。

数年前、半世紀ぶりに、駅裏へと足を踏み入れた。

子ども心に抱いた、あの隠微な町の香りを、新幹線のホームからでは全く感じられない。

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しかしどっこい、古ぼけた商店街を進んでみると、あの敗戦から71年を経たと言うに、未だ闇市の面影が微かにわだかまっているではないか!

残骸の欠片のように。

町には、悲喜交々(こもごも)の人生を背負った者が生まれ、やがて息絶える。

しかし再び新たな世代が誕生し、どんなに時代が移ろおうと、また新たな営みが始まる。

その町を後にする者、その町に骨を埋める者。

もしかしたら人間同様、町には町の遺伝子が存在するのではないか?

どんなに立派なビルが建ち並び、上辺だけ取り繕おうと、その町の匂いと影までは消し去れぬ。

一変した駅裏に迷い込んだ瞬間、思わず懐かしさが込み上げた。

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昭和がらくた文庫70話(2016.09.22新聞掲載)~「老犬ジョンの命の重さ」

今日は彼岸の中日。

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盆は忙しさにかまけ、墓参りも出来ず仕舞い。

両親に無沙汰を詫び、先日早々に盆と秋の彼岸を合わせ、墓参りを済ませた。

「ただいま~っ!」。

勢いよく玄関の引き戸を開け、ランドセルを放り投げ、とっとと遊びに向かおうとした矢先。

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玄関の様子がいつもと違う。

コンクリートの床に毛布が敷かれ、老犬ジョンが力なく横たわっていた。

「もうあかんようや。息も絶え絶えになって。あんたの帰りを、必死で待っとったんやに。抱いたげ」。

母が涙声でそうつぶやく。

2日ほど前から、ジョンは食事が摂れぬほど衰弱していた。

毛布の上に座り込み、ジョンの顔を太腿に持ち上げる。

するとジョンが鼻をヒクヒクさせ、重たげに瞼を開き、どんよりした生気の無い(まなこ)を向けた。

ジョンがわが家にやって来たのは、ぼくが幼稚園の年長の時。

子犬だったジョンを、本当の弟のように何処へでも連れまわした。

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しかしそれも束の間。

成犬になるとジョンの方が、いつしか兄のような存在に成り果てた。

雪の降り積もった田んぼを、共に駆け回った日。

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夏の真っ盛り、盥に一緒に浸り、ずぶ濡れになって行水した日。

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ジョンが小さく息をするたび、共に生きたわずか6年ばかりの日々が、次々に脳裏を霞めた。

知らず知らずのうちに泪が頬を伝う。

ぼくの泪の雫が、ジョンの口元へと伝い落ちる。

するとジョンは力なく口を開き、ぼくの泪の粒を舌で舐め上げ、ゆっくりと口を閉ざし、そのまま二度と動かなくなってしまった。

「人間だってジョンだって、命の重さは同じなんやよ。勿論、花や虫も。今日はもう、ジョンを偲んで泣きたいだけ泣けばいい。お前がジョンを(いた)んで泣いた泪の分だけ、ジョンもわが家の家族だった証として、少しだけ命の目方を増やしてあの世へと旅立てるんやで」。

母の言葉の意味はわからなかった。

しかし、盟友ジョンを失った悲しみに暮れる中、たった一つの救いとなる魔法の言葉に思えたものだ。

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昭和がらくた文庫69話(2016.08.25新聞掲載)~「銀幕の恋人」

ベランダで盆の迎え火を焚き、両親を迎えた。

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何故か盆になると毎年のことのように、両親の古めかしいアルバムや手紙を引っ張り出し、酒のあてに整理を始めるのが恒例。

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何より冥界と(うつつ)の世が繋がる、盆の時期ならではだ。

「あれっ?」。

母の娘時代の、白黒写真のアルバムを繰っていた時のこと。

名刺サイズの写真が、黄ばんだ台紙に、三角コーナーで写真の四隅を、挟んで止められていた。

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しかし糊の部分が劣化し、一カ所外れかけている。

糊付けでもするかと、写真を外してビックリ!

若かりし日の母の写真の下から、もう一枚、バストショットのダンディーな、背広姿の二枚目が顔を出したではないか!

明らかにそれは、若かりし日の父ではない。

まるで母の写真で覆うように、二枚目の男性の写真を、母がこっそり隠していたとしか考えようがない。

「ま・さ・か…!」。

あらぬ考えが一瞬脳裏を過ぎった。

そうなるともう、真実を突き止めねば、夜もおちおち眠れない。

意を決し二枚目男の写真を手に取り、矯めつ眇めつ眺めた。

やはり、見覚えなどない。

はてさてと、写真を裏返しまたもやビックリ!

写真の裏側には、見覚えのある母の癖字が。

「後宮春樹役、佐田啓二、昭和28年」と記されていた。

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何と、「松竹戦後の三羽烏」と謳われた、佐田啓二その人の写真であったのだ。

調べると、後宮春樹とは、昭和28年公開の映画「君の名は」の主人公。

岸恵子扮する氏家真知子の相手役の役名だと知った。

昭和28年と言えば、母は脚の障害を苦にして、結婚を諦めかけていた頃と重なる。

その3年後、父と巡り合い結ばれた。

もしや母は、この映画に己の境遇を重ね合わせたのだろうか?

未だ見ぬ母にとっての「春樹」との出逢いに、一縷(いちる)の望みを託して。

佐田のブロマイドは、母にとっての護符だったのかも知れぬ。

佐田と父とでは、到底比べ様も無いが、事実その証として、このぼくがこうして、生を賜ったのだから。

ともあれ両親に献杯!

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昭和がらくた文庫68話(2016.07.28新聞掲載)~「儚き命の夏花火」

長良川国際会議場 大ホールでのLiveより

打ち上げ花火を眺める度、その都度思い出す光景がある。

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母を亡くし10年ほど経った頃であったろうか?

三重県松阪市の西の外れにある、従兄妹の家の縁側での事だ。

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年老いた叔母と二人、蜩がカナカナカナと鳴く声を聴いていた。

この従兄妹の家で小中学生のころ、夏休みの大半を家族同様に過ごしたものだ。

連日明けても暮れても、従兄妹の姉に付き纏い、虫捕りや川遊びに高じた。

だから叔母は夏休みの間、まさにぼくにとっての母替わりだったのだ。

「ちょっと、ミノ君。いつまでも寝とらんと、鰹節削っといてぇな」と、台所から叔母の声がする。

ぼくは寝ぼけまなこのまま、鰹節削り器の木箱の引き出しを開け、ちびた鉛筆ほどの鰹節を取り出す。

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そして鉋をひっくり返したような刃にあてがい、恐る恐るカリカリと音を立て乍ら削り始める。

すると従兄妹の姉に向かって「ミチコや。よう見といてな!大事な預かりもんのミノ君に、怪我させたらかなんで」と、毎朝のように叔母は、決まり文句を口にした。

「あの頃のあんたは、ちっとも宿題せやんと、朝から晩まで、ミチコと川入ってばっかりやったなあ」。

懐かしそうに叔母がつぶやいた。

西の山の端に夕日が傾く。

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ふと眺めた叔母の横顔には、いつの間にか年輪のような皺が、深く刻み込まれていた。

「それにしても和ちゃんは、ええ時に死んで幸せやったわ。あたしらなんて足腰も衰え、耳もだんだん聞こえやんようになって来るし、もう目もよう見えやんし」。

和ちゃんとは、64歳でこの世を去ったぼくの母のことだ。

「いっそ夏の夜を焦がす、あの花火の様に、美しい姿のまんま、消え入った方が幸せやったんかも知れやん。この歳まで生きて来ると、つくづくそう思えてならんのやさ」。

叔母は燃え尽きようとする黄昏を見つめながら、まるで独り言のようにつぶやいた。

確かに然り。

花火も黄昏も、燃え尽きるその寸前が、何より最も美しい。

叔母の言葉に、天命とやらの戯れを感じずにはいられなかった。

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昭和がらくた文庫67話(2016.06.23新聞掲載)~「エヘデラベェ」

「かっちゃは、なぁ~に、えへでらべぇ?(お母ちゃんは、何を怒っとるの?)」。

もしぼくが、雪深い南部訛りの土地で生まれ育っていたら、こんな言葉を口にしながら、お母ちゃんのご機嫌を伺ったことだろう。

「オカちゃん、ほら蝉の声が聞こえるよ」。

青森県十和田市の観光大使を務める、㈱平野紙器代表のクニちゃんこと、平野社長のご案内で、6月4日に十和田市を訪ねた。

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ミョーキン ミョーキン ミューケケケ

初めて耳にする蝉の声だ。

確かに奥入瀬渓谷の、新緑の森全体に木霊している。

しかし、とは言えその日はまだ6月4日。

そんな馬鹿な?

まるで狐に抓まれた心境だ。

一方のクニちゃんときたひにゃあ、昭和半ばの蝉取りに明け暮れる少年の様な眼差しで、渓流脇の小径を上流へと向かう。

この鳴き声の主は、体長3~4センチでオレンジ色をしたエゾハルゼミ。

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この奥入瀬渓谷の地で、5~6月に大発生するそうだ。

さすがに十和田八幡平国立公園の中だけあって、ブナやコナラにクヌギなどの広葉樹が大きく枝を広げ、原生林に暮らす大小様々な生物を育くむ。

全くもって生き物たちのサンクチュアリである。

だからここには、タモを片手に蝉を追うような、昭和の腕白どもは一人もいない。

この聖域に一歩踏み込むと、誰もが皆そっと息を継ぐ。

そしてこの森に棲まう動植物すべてと、森に()()す神々に、畏敬の念を抱く。

つまり外界を棲み家とするわれわれ人間は、束の間この大自然に抱かれながら、身を寄り添わせていただいているに他ならない。

十和田湖の子ノ口から焼山までの約14kmを下る奥入瀬渓流は、太古の浪漫が織り成す、陸奥(みちのく)きってのトレッキングコースだ。

参考資料

残念ながらぼくは、TVのロケでもあり、バーテンダー姿の異様さ。

デイパックを背にしたトレッカー達の中にあって、さぞや浮いていただろう。

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でもまっ、それもいいべな!

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昭和がらくた文庫66話(2016.05.26新聞掲載)~「婆ちゃんの下呂膏」

「さっきから、そげん何をジロジロ見とうか、この子は?」。

婆ちゃんは銭湯の脱衣場で、ぼくを睨みつけた。

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「だって…」。

素っ裸のまま着物をたたみ、脱衣籠にきちんと収める婆ちゃんの肩には、これまで目にしたことも無い、真っ黒な膏薬がベッタリ貼り付いていた。

参考資料

「そげんとこいで、ボーッとしとらんと、さっさとこよ剥がしとくれ」。

婆ちゃんは背を向け、脱衣場の床に両膝を付く。

ぼくは恐る恐る、その真っ黒な膏薬を、婆ちゃんの肩から剥ぎ取った。

すると指先には、ヌメヌメとした不快な触感が伝わり、おまけに妙な臭いが鼻先に漂う。

それでも何とか膏薬を剥ぎ取ったものの、婆ちゃんの肩にはくっきりと、四角い真っ黒な縁取りが幾重にも重なっていた。

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母方の婆ちゃんは、生まれも育ちも鹿児島。

押しも押されもせぬ生粋の薩摩おごじょそのものだった。

ぼくが生まれて間もない頃、名古屋で暮らす末息子、つまり母の末の弟を頼り鹿児島を出たそうだ。

だから当時、唯一の孫であったぼくに逢いに、わが家へと足蹴く通っていた。

そんな幼い日の事。

恐らく両親が不在だったのだろう。

婆ちゃんの真っ黒な膏薬に驚いたのは、初めて手を引かれ二人っきりで、近所の銭湯に出掛けた時の事。

婆ちゃんの肩に残る、真っ黒な縁取りに、幼いぼくの目は釘付けになった。

「みんな歳食うと、体もガタが来うでな。ほれっ、見てみい。あっちもこっちも、みんな似たい寄ったいや」。

婆ちゃんは脱衣場の客を見渡した。

ぼくも婆ちゃんの目線を追う。

すると脱衣場に居合わせた、裸んぼうのお婆ちゃん達の二人に一人の肩には、家の婆ちゃん同様に真っ黒な膏薬の縁取りが!

「お前のお父ちゃんが、こん前の慰安旅行の時に、お土産としてこぅて来てくれた下呂膏。これがまたよう効いた。わしもいっど下呂の銘泉に、ゆったりと浸かりたいもんや」。

参考資料

婆ちゃんごめんね。

婆ちゃんがもう少し長生きしてくれたら、下呂温泉に連れて行ってやれたろうに。

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