昭和がらくた文庫88話(2018.03.22新聞掲載)~「御用聞きとビールの王冠」

「毎度~っ!奥さん、三河屋で~す。ビール、いつもの場所に置いときますよ。それと今日のご用は、ございませんか~っ?」。

ご近所のオバちゃん連中から、「酒屋のケンちゃんケンちゃん」と、親し気に呼ばれる、御用聞きのお兄ちゃんが、勝手口を開けた。

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そしてケンちゃんは、手慣れた手付きで、勝手口の扉の内側に吊り下がる、「御通(おかよい) 岡田様」と墨書された、帳簿を広げた。

すると器用に、耳の上に挟んだ鉛筆を抜き取り、芯の先をペロッとひと舐めしては、ササッと何やら書き綴る。

この和綴じの「御通」。

元々は三河屋さんの物で、わが家に割り当てられた帳面だ。

そこにその都度、注文した分だけ、御用聞きのケンちゃんが書き付け、月末に集金すると言う仕組みである。

その帳簿の御通は、「通帳(かよいちょう)」とも呼ばれ、どこの家でもだいたい勝手口に吊り下がっていた。

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「ご苦労さんやねぇ、ケンちゃん。これ道々舐めてき」と、内職の手を止め、顔を覗かせた母が、チリ紙に包んだ飴玉をケンちゃんに握らせた。

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「奥さん、おおきに!」。

ケンちゃんは、酒造場の屋号が染め抜かれた、帆前かけのポケットに飴玉を忍ばせ、代わりに何やら取り出した。

そして配達用の頑丈な自転車に跨りながら、ぼくを手招く。

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「これ、珍しい外国産のビールの王冠や。欲しいか?」と、ケンちゃんが尋ねた。

ぼくが目を輝かせて頷くと、ケンちゃんは器用に王冠の内側のコルクを剥がす。

そしてぼくのシャツの中に手を入れ、胸元の外に王冠を宛がい、内側から剥がしたコルクで、薄っぺらなシャツの生地を挟んだ。

見事に、友達が誰も持っていない、外国産ビールの、お洒落な即席王冠バッチに仕上がった。

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お母ちゃんがケンちゃんにこっそり渡した、飴玉のお駄賃が、世にも珍しい外国産ビールの、王冠バッチに早変わりし、ぼくは友達たちの前で、ずいぶん鼻高々だったものだ。

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昭和がらくた文庫87話(2018.02.22新聞掲載)~「広っぱの缶蹴り」

「カーン」。

「それーっ、隠れろ!」。

「チーちゃんみ~っけ!」。

昭和半ばの時代。

広っぱや空き地には、缶蹴りに高じる子どもたちの黄色い声が、いつでも響き渡っていた。

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先日の小春日和の昼下がり。ウォーキングの途中、街中の広場を通りかかった。

いつもは子どもの姿など、トンと見かけたことも無かったが。

休みの日だったせいもあってか、春を思わせる陽気に誘われたのか。

お父さんと小学校低学年と思しき男の子が、サッカーボールを操り、パス回しに没頭しているではないか。

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何だか広場に、あるべき主役が戻って来たような気になり、ついつい眺め入ってしまった。

しかしそう言えば、子どもたちの缶蹴りを、最後に目にしたのは、今から何十年前の事だったろう。

昭和半ば育ちのぼくらには、空き缶一つさえあれば、いつでも何処でも直ぐに、男女入り乱れて、缶蹴りが始まったもの。

専門の道具や、ユニフォームもいらず、遊びでありながらも、スポーツのような感覚で、手頃に重宝して楽しめたものだ。

当時の缶と言えば、直ぐに錆びの浮くスチール缶。

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今のようなアルミ缶は、直ぐに変形してしまい、缶蹴りには不向きである。

しかしスチール缶は硬く、缶を蹴るズック靴の、穴の開いた爪先が痛くてならなかった。

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それでも鬼を翻弄させようと、より遠くへ缶を蹴り出そうと、皆夢中になったものだ。

中学校のグランド。

サッカー部が他校との、対抗試合の真っ最中だ。

グランドの片隅では、エースストライカーのマア君の動きを、瞬きもせず見つ続ける女生徒たちがいた。

その中には、幼馴染みのチーちゃんの姿も。

チーちゃんも、エースストライカーのマア君も、共に広っぱで缶蹴りに高じた幼友達だ。

赤茶けた錆びだらけのスチール缶は、五角形と六角形からなる、プラトンの立体と呼ばれる、正多面体のサッカーボールになった。

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そしてチーちゃんとぼくの目の前で、マア君が繰り出したシュートが、相手チームのゴールネットを大きく揺らせた。

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昭和がらくた文庫86話(2018.01.25新聞掲載)~「八ッ橋の缶箱」

先日、何十年ぶりかで京銘菓の固焼きニッキ味の煎餅、八ッ橋を戴いた。

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そう言えば近年は、生八ッ橋を口にする機会の方が多かったようだ。

封を開けた瞬間。

ニッキの香が立ち込め、小学校の修学旅行の記憶が鮮やかに蘇った。

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当時の修学旅行と言えば、京都奈良の一泊二日が相場。

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かつての都跡を足早に巡った。

だから正直、何処も彼処もぼくには、同じにしか映らなかった気がする。

そんな中、最も鮮明な記憶は、土産物屋での品選び。

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学校で決められた、わずかばかりの小遣いで、誰に何を買うべきか。

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子ども心に最大の悩みであった。

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「これはお母ちゃんへ。こっちはお父ちゃん」。

そう言って、修学旅行鞄から、京土産を手渡した。

母には八ッ橋。

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父にはプラスチックの煙草入れだ。

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「お父ちゃんやお母ちゃんのなんてええで、自分の物買うてくりゃ良かったのに…」と母。

でも二人とも、満更ではなさそうだった。

母はいつも、陽の差す窓際の火鉢の横に座し、絎け台を据え、裁縫の内職仕事に明け暮れた。

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陽が翳るまでは、裸電球も灯さず、真冬でも火鉢一つで暖を取りながら。

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たった唯一の楽しみは、番茶の出涸らしを啜り、徳用袋で購入した甘納豆を、茶請けとする程度。

修学旅行から帰って、間もない日の事。

学校行事との兼ね合いで、いつもより早く家へと帰った。

母を驚かせようと、玄関の引き戸をこっそり空け、障子の隙間から母の様子を窺った。

ちょうど湯呑を傾け、一服中のようだ。

すると母は、京土産の缶蓋を開け、八ッ橋を取り出し、両の手で押し頂き、徐に口へと運ぶ。

何もそこまでせずともよかろうに。

しょせんわずかな小遣いで、誰もが買った物なのに。

当時は気恥ずかしくもあり、そう思った。

初めて買ったぼくの京土産。

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八ッ橋の缶箱は、母の裁縫道具入れとなり、この世を去るまで、常に母の傍らにあった。

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昭和がらくた文庫85話(2017.12.21新聞掲載)~「古ぼけたトランジスタラジオ」

洋裁の内職をする母の傍らで、古ぼけた小さなトランジスタラジオから、流行歌が流れていた。

中でも母のお気に入りは、鶴岡正義と東京ロマンチカ。

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「君は心の妻だから」が、ラジオから流れ出すと、針を運ぶ手を止め、うっとりとした表情で、一緒に口ずさんでいたものだ。

ぼくが中学に上がるまではと、母はどんなに貧しく、遣り繰り算段を強いられても、鍵っ子にだけはさせたくないと言い張った。

それは母なりの、家族の要としての矜持であったようだ。

だから内職よりも、遥かに割の良いパート勤めにも出ず、日長一日くけ台の横に座し、目を細めながら針を運び続けた。

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父とぼくを送り出してから、ぼくが授業を終え「ただいま~っ」と無事に帰るその時まで、母の話し相手はラジオだったのだろう。

母が他界し、遺品整理をしていた時のことだ。

押入れの奥にあった段ボール箱から、当時の母が愛用した、小さな銀色のトランジスタラジオが現れた。

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思わず懐かしさのあまり、手に取って見る。

すると子どもの頃の記憶が、瞬時に蘇った。

銀色だったはずのトランジスタラジオは、金属の部分が変色し、すっかり赤茶けてしまっている。

しかし紛れもなく、このラジオに違いない。

在りし日の母が耳を傾け、時にはラジオから流れくる流行歌に合わせ、口ずさんでいた、母の唯一の友。

喜怒哀楽全ての母の感情に、絶えず寄り添い続けてくれたのだ。

そう思うと、何だかとても愛おしいものに思えてならなかった。

思わずラジオの横にある、ダイヤル式のボリュームを捻り、赤茶けたスピーカーの網目に耳を近付けて見る。

すると微かに、遠い日の、母の歌声が聞こえるような気がした。

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昭和がらくた文庫83話(2017.10.26新聞掲載)~「古(いにしえ)の戦国浪漫」

400年以上、(いにしえ)の昔。

そもそも現在の岐阜県関ケ原町が、天下分け目の合戦時において、果たして関ケ原と呼ばれていたのか?

様々な異説もある。

時は、安土桃山時代の慶長5年9月15日。

西暦にすると、1600年10月21日。

文字通り徳川勢と石田勢による、天下分け目の大戦(おおいくさ)が始まった。

参考資料

たちまち東西を分つ、歴史の舞台に躍り出た地である。

合戦初日の9月15日付、徳川家康の書状には、「関ヶ原」でなく「濃州山中」と、記されているとか。

しかもこの「山中」は、「山の中」という意にあらず「山中村」という地名と記されていたそうだ。

また、合戦当初は南北朝時代の古戦場「青野原」や、「青野カ原」と記した文献も存在するとか。

いずれが真実かは、歴史学者に委ねるとしても、誰も見たことの無い、太古の浪漫とは、そうした曖昧さがあるから、たまらなく面白い。

ぼくにとっての戦国浪漫とは、信長公が本能寺で明智勢に討たれるまでを指す。

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だから特段、秀吉や家康には、何の魅力も感じない。

参考資料
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神がもし三英傑の誰かと、一度だけ逢わせてやろうと仰ったなら、ぼくは何の迷いもなく、信長公と答えるはずだ。

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歴史家や小説家が描く信長像は、どれ程資料を読み解き、想像を巡らせようと、所詮虚像に過ぎない。

果たして信長公は450年前、岐阜城の天守からどんな未来を眺めておられたのだろう。

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志半ばで、明智に討たれなければ、何処へこの国を導こうとされておられたのか。

卓越した世界観を持っていた信長公が、もし現代の岐阜におられたなら、今を生きる私たちに、一体何を語り掛けてくれるだろう。

まかり間違っても、黄泉の国に()()す信長公にお逢いすることなど、到底叶わぬ夢。

しかしそう思うだけでも、妙に心がときめく。

秋の夜長、岐阜城の天守から月でも眺め、信長公と問わず語りを愉しむのも一興。

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450年前には岐阜の地で、信長公もきっと同じ月を、ご覧になっていたはずだから。

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昭和がらくた文庫82話(2017.09.21新聞掲載)~「うちの女房にゃ 髭がある?」

♪パピプペ パピプペ パピプペポ うちの女房にゃ 髭がある♪

小学校の分団登校の集合場所。

何気にぼくが口ずさんでいると、近所の同級生の女子に笑われた。

「ミノ君家のお母ちゃんって、チョビ髭なんて生やしとったっけ?」と。

昭和半ばのあの頃。

まだまだステレオなんて、そんじょそこらで見掛けたことなんて無かった。

当時はスピーカー内臓の、ポータブルプレーヤーの全盛期。

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レコード盤だって、78、45、33回転と、回転数も異なっていた。

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ドーナツ盤もあれば、小学1年生とかの付録に付いていた、赤や青の向こうが透けて見える、薄っぺらなソノシートまでが混在。

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だから当時のわが家にも、いかにも安物といったポータブルプレーヤーがあった。

おまけにレコード盤と来たら、たったの4枚こっきり。

お父ちゃんの好きだった、軍歌のLP盤が一枚。

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それにお母ちゃんがうっとり聞き入る、鶴岡正義と東京ロマンチカの「君は心の妻だから」。

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そしてぼくの、付録のソノシートが一枚。

何より極めつけの一枚は、お父ちゃんがこっそり、ボリュームを落とし聞き耳を立て、嬉しそうに聴いていた、美ち奴姉さんの「うちの女房にゃ 髭がある」だ。

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晩たび父は、煙草を燻らせながら、庭の片隅にある犬小屋の側に佇み、老犬ジョンにでも聞かせるように装い、口ずさんでいた。

だからぼくもすっかり、その如何にも調子のいい、旋律と歌詞が身に付いてしまったようだ。

参考資料

この曲は、女房に頭の上がらぬ、さえぬ亭主の心情を、実にコミカルなタッチで歌った作品である。

確かに父も、母に怒鳴られはせよ、逆に母を怒鳴った姿も、ましてや一度たりと、母に手を上げた事などなかった。

それにどんな母の手料理でも、一度も「まずい」などと聞いた試しもない。

むしろ「旨い旨い」だけを繰り返した。

今さら父の本心はわからぬ。

しかし父は、自虐的に「うちの女房にゃ 髭がある」と口ずさむことで、合縁奇縁の夫婦の荒波を、泳ぎ抜いたのかも知れぬ。

天晴れ!父ちゃん!

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昭和がらくた文庫81話(2017.08.24新聞掲載)~「水都大垣が育む生麩の柔肌」

「カズ君の誕生祝いに、よう来てくれたなぁ。たぁ~んと食べてや!」。

中学1年のある日。

同級生のカズ君のお母さんが、見たことも無いすき焼き用の大きな牛肉を、手際よく炒め煮始めた。

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わが家のすき焼きと言ったら、脂身が勝る細切れ肉がやっと。

正直、羨ましくてならなかった。

そして恐る恐る、お肉を口へと運ぶ。

すぐさま、言いようのない後ろめたさに(さいな)まれた。

ぼくだけこんな上等な肉にあり付けたことを、両親に何と詫びれば善いものかと。

次におばちゃんは、これまで目にした事も無い、表面がギザギサしていて、拍子切りになった食材を、まるでお肉の様に炒め煮始めた。

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「この子、お肉が嫌いなんやて。好物はこのカクフやわ」と、おばちゃん。

カズ君が旨そうに食べるカクフを眺めていると、それがどうにも気になる。

まるでぼくの心を見透かしたかのように、カズ君が「これも食べていいよ!」と。

お言葉に甘え、さっそく口へと運ぶ。

そっと目を(つむ)り噛み締める。

すると確かに、お肉の様な食感ではないか!

しかも程よくすき焼きの味が染み、得も言われぬ味がした。

あまりの美味しさに惹かれ、高級な牛肉には目もくれず、カクフばかりを奪い合ったほど。

母は鹿児島、父は三重の出。

故に尾張と美濃地方に根付いた、角麩の食文化には無縁で、一度も食卓に上ったためしも無かった。

わが家に戻り母に話すと、「へぇー、あの角麩って、そうやって使ったらええのか?あれやったら値打ちやで、いつでも()うて来たるわ」と。

しかしそれが仇に!

それで無くとも、僅かしか無かった細切れ肉の量が減らされ、牛肉とは比べ物にならぬ安さの角麩が、代用品として堂々と罷り通ることに。

それがきっかけで、美濃と尾張に根付いた麩の恵みを知った。

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清流長良の恩恵に(あずか)る、水都大垣の井戸水。

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通年14~15℃の地下水に晒された、麩屋惣の生麩の肌触りは、まさしく天下一。

美濃と尾張に麩屋は数あれど。

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昭和がらくた文庫80話(2017.07.27新聞掲載)~「小京都から、飛騨の都・高山へ」

「ただいま~っ!」。

「あら、お帰り~っ!」。

そう言っていつも出迎えてくれるのは、彼岸の岸の向こうに(おわ)()す、母であろうはずもない。

高山市国分寺通りの、市内の中心部。

軒の打ち水が似合う、日本情緒たっぷりな旅館「田邉」の女将、田邉晶子さんである。

もうかれこれ、15年ほど前になろうか。

某新聞社で連載した、「天職一芸」で、確か3人目の天職人として、飛び込み取材でお邪魔した、その時の女将だ。

以来、女将やご主人様に、早くに亡くした両親の面影を、ぼくはついつい重ねた。

とは言えご両人ともに、ぼくの両親よりは、遥かにお若く、お叱りを受けそうなものだが。

そんな(えにし)で、飛騨へと旅する度、さもありなんとわが家のごとく、振舞っている次第である。

今や世界中の観光客で賑わう、飛騨高山の老舗旅館。

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女将やご主人様ばかりか、すっかり顔見知りになった、仲居さんまでもが、「お帰り~っ」と、何の(てら)いもなく自然体で、出迎えてくれるのだから嬉しい。

しかしそれは、なにもぼくだけにではない。

世界中から飛騨高山へと訪れる、すべての旅行者にも同様だ。

旅館「田邉」には、取り分け西欧からのお客様が多い。

しかし、どんなに言葉が違えど、客をもてなす心に国境など有ろうはずもない。

例え肌の色や言語が異なろうとも、相手の想いさえ慮れば、自ずと以心伝心である。

日本人のぼくでさえ、ここを一夜の旅の宿としたことを、誇らしく思う。

だから何千何万キロも遥か彼方の地から、ここ岐阜県へ、また飛騨高山へとおいでになる、西欧からのゲストたちにすれば、きっとぼく以上に、そう感じるに違いない。

それが証拠に、彼らは旅館「田邉」の居心地の良さと、人情味溢れるもてなしを、ネット上へと書き込む。

するとそれを見た次のゲストが、わざわざここへと遥々訪ね来るのだ。

昭和45年のディスカバージャパンで、アンノン族が闊歩した「小京都」高山。

あれから約半世紀を経て、今や名実ともに世界の「飛騨の都・高山」となった。

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「小さな秋、みっけ!」8/30アップのその2

近所のスーパーへと買い出しに、人の少なそうな時間帯を選んで出掛ける途中、公園の脇道で思いがけず「小さな秋」を見つけました!

まだ発育途中のような銀杏が、風に煽られて路上に落っこちていました。

まだまだ猛暑ながら、ちょっぴり秋の気配を感じることができました。

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昭和がらくた文庫79話( 2017.06.22新聞掲載)~「終戦の夜の郡上おどり」

昭和20年8月15日。

陛下の玉音放送に接し、国中が項垂(うなだ)れ涙したその夜。

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八幡では、一部の町衆らによって、郡上おどりが始まった。

敗戦の悲しみに暮れた山間に、郡上節が響き渡る。

すると瞬く間に、我も我もと、踊りの輪が広がっていったとか。

♪七両三分の春駒 春駒♪

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終戦から72年。

今年も7月8日の発祥祭から31夜に渡り、郡上おどりが幕を開ける。

ここで一息、ぼくの楽曲「八幡様のお百度」を、長良川国際会議場大ホールでのLiveからお聴きください。

中でも圧巻は、8月13日~16日まで続く、盂蘭盆会の徹夜おどり。

八幡の町が見事なまでに、郡上おどり一色に染め抜かれ、夏のクライマックスを極める。

だが徹夜が終わると、急に川風さえもヒヤリと感じられるのだ。

だから残りの8夜ともなると、踊り子たちの誰もが、ゆく夏の名残惜しさを浮かべる。

そして9月2日。

おどり納めの大トリは、最後の郡上おどりを締めくくる「まつさか」。

八幡の闇に溶け入る唄声で、静かにそっと幕を下ろす。

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ひと月足らずの、八幡の夏。

踊り子たちが去った後は、ぼんやり燈る町灯りと、何事もなかったように流れる、吉田川の瀬音だけが切ない。

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郡上おどりは、江戸中期に誕生し、盂蘭盆会の行事として、連綿と受け継がれてきた。

しかし、明治の御代(みよ)になると禁止令発布の憂き目に。

やがて時を下り、大正12年に、郡上踊り保存会が発足した。

しかしそれも束の間。

昭和に入るや軍靴の響きが、けたたましさを増す度、町衆の楽しみでもあり、先祖供養の仏事でもある徹夜おどりさえ、その制約を受けることに。

いつの世も戦争の犠牲は、罪もない市井(しせい)の民ばかりだ。

敗戦が色濃くなると、8月15日だけ開催が許された。

そして迎えた終戦の夜。

敗戦国の民として、明日からどれほど辛酸を舐めようと、もうこれ以上の犠牲を払うことだけはなくなったと、誰もがきっと安堵したことだろう。

戦時中は、八幡にも踊りの中止勧告が出された。

しかし「英霊を慰める」との理由で、中止を免れたそうだ。

保存会の記録には、「終戦ノ玉音放送ノ為盆踊休止」とあるとか。

故に恐らく町衆が、微かな平和の兆しを感じ取り、同時に国中で戦火に倒れた、多くの人々の霊を鎮めんと、念じながら踊ったのだろう。

天晴れ、気高き八幡の町衆よ!

そして郡上おどりよ!

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