昭和がらくた文庫102話(2019.05.23新聞掲載)~「向こう三軒両隣」

祭りの日や誕生日は言うに及ばず、運動会だろうが遠足であれ。

果てはクリスマスから、婆ちゃんの夜伽の席まで。

必ずそこには、お母ちゃんが朝早くから拵えた、お稲荷さんが大皿にこれでもか、と言う程山積みであった。

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それこそ晴れの日であれ、()の日だろうが、忌日(きにち)であったとしても。

お母ちゃんのお稲荷さんは、わが家の暮らしに、いつも寄り添っていた。

♪トーフー、トフトフ♪

曳き売り豆腐のオッチャンの、ラッパの音が聞こえる。

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すると「ちょっとお揚げさん買って来て」と、台所でお母ちゃんの声。

使い古され所々が凹み、小さな穴の開いた、真鍮色のアルマイトの両手鍋と小銭を握らされ、曳き売り豆腐のオッチャンを追った。

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既にオッチャンの周りは、鍋や丼鉢を抱えた、近所の子らで鈴なり。

「はいっ、これはオマケや!」と、オッチャンは子どもたち一人一人に、満面の笑みをたたえ、オマケの油揚げ一枚を器に放り込む。

「オッチャン、ありがとう」と、子どもたちは鍋や丼鉢を抱え、その場でオッチャンにペコリと頭を下げ、一目散に家路を急いで帰ったものだ。

「お帰り!」とお母ちゃんはぼくから、アルマイトの鍋を受け取ると、じきに台所から油揚げをコトコトと煮る、甘っ辛い醤油の香りが、小さなわが家を覆い包む。

何とも食欲がそそられた。

得も言われぬ旨そうな香りに、思わず犬小屋から老犬ジヨンも身を乗り出し、鼻をヒクヒクさせたほど。

「お待ちどう様」。

大皿にてんこ盛りのお稲荷さんを、母は卓袱台の中央にお供え物のように(うやうや)しく運ぶ。

たった家族三人のわが家で、いったいこんなにものお稲荷さんを、誰が食べるのかと疑問に思う程の量だ。

すると母は経木を広げ、お稲荷さんを5~6個ずつ包み、近所のオバチャンの元へと向かう。

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帰りにはお稲荷さんと引き換えに、他所のお宅の煮物やコロッケなんぞを引き換えに。

それがそのままわが家の立派なおかずに早変わりした。

向こう三軒両隣。

相見互いの助け合い。

昭和のご近所付き合いは、平成の世を経て令和へと、遠の昔にその姿を消してしまった。

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昭和がらくた文庫101話(2019.04.25新聞掲載)~「平成の世~掉尾の風景」

平成4年7月。

蝉が喧しく鳴く、油照りの朝。

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母は享年64で、この世を去った。

その翌年の平成5年6月。

ひと雨ひと雨、雨に打たれながら、紫陽花が色を深める夜半。

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この世にたった一人きりの娘が、元気な産声を上げた。

まるで母が娘となり、再びぼくの元へと、逢いに来てくれたのじゃないか。そんな不思議な思いに駆られたことを、未だ鮮明に記憶している。

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同時に、命の儚さと命の尊さ。

そして何よりも、娘を不器用にこの手で抱きしめた瞬間、命の重さを受け止め、知らず知らず涙が頬を伝った。

平成12年春。

小さな体の娘には、不釣り合いなほどに大きな、真新しいランドセル。

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桜の花びらが舞う中、娘は赤いランドセルを揺らし、校門を潜ってゆく。

その背中を見つめ、娘の成長ぶりを実感した。

しかしそれからわずか2か月後。

今度は入院中の父が息を引き取った。

いつも夕方になると、ウォンウォンと吠え、父を散歩に誘ったわが家の飼い犬。

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父の死を知ってか知らずか、その日ばかりは一日中、弔鐘のように吠え続けた。

さらに3か月後には、東海豪雨に見舞われた。

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娘が通う小学校の体育館に、犬を連れ家族皆で避難。

しかし幸いにも、わが家の辺りは、浸水の被害も無く済んだ。

その年の暮れ、仕事の関係でぼくは単身東京へ。

娘の声が聴きたくて、夕方になると用もないのに、毎日のように電話を入れた。

そして平成も掉尾を飾る今年。

娘に彼を紹介され、円卓を囲みしたたかに飲んだ。

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嬉しさと寂しさが綯交ぜになった、これまで味わったこともない、不思議な感情。

その気持ちとの向き合い方も分からず、酒を煽って誤魔化した。

すると不意に彼が「お父さん」と呼んだ。

思わず誰の事かと、怪訝に後ろを振り返った。

そしてようやく悟った。

ぼくが「お父さん」と呼ばれたのだと。

平成も残すところあと5日。

思えば喜びや悲しみが、弥次郎兵衛のように、右へ左へと揺れた31年だった。

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笑って泣いてまた笑いさえすれば、それでいい。

弥次郎兵衛は、どんなに大きく悲しみの方へと振れたにせよ、少しずつ少しずつ、振り幅を狭め喜びと悲しみの中間点でいつかは必ず静止する。

新たなる「令和」の世も、どうか穏やかな笑顔の似合う時代であれ。

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昭和がらくた文庫100話(2019.03.28新聞掲載)~「百十二年前の恩人」

明治40年、1907年。

ニュージーランド(以下、NZ)の盲目の女性、ミス・アナ・リディア・ウイリアムスから、当時の英貨300ポンドの大枚が、英国聖公会を通じ、岐阜聖公会訓盲院(森巻耳氏と英国人聖公会伝道師A・Fチャペル氏により開設=現、岐阜県立岐阜盲学校)に寄贈された。

当時の中日新聞より。左上の写真が設立当初の岐阜盲学校。

当時の英貨300ポンドとは、お寺の本堂が8棟も建った大金であったとか。

 今から22年前、NZ大使館から、一本の電話がぼくに。

「岐阜盲学校の100年史に記される、多額の寄付をした、NZの盲目の女性の消息を調べて欲しい」。

そう盲学校から大使館に依頼が。

しかし本国へ照会するも、100年史に記された、「NZの盲目の女性、ミス・ウイリヤムス」だけの情報では、いかんせん消息が知れようはずもない。

そこで名古屋に住むぼくに白羽の矢が。

岐阜盲学校を訪ね、さらに詳細が聴きとれないか。

そして予てより、NZの絶滅に瀕した飛べない鳥カカポのプロジェクトで、NZに多くの友を持つぼくのルートで消息調べを手伝ってもらえぬかと。

半年ほど過ぎた頃。

郷土史家シビル・ウッド女史の著書に記された、盲目の女性に辿り着いた。

それがニュージーランド北島の東海岸、ホークスベイのテ・アウテに暮らした、盲目の女性リディアである。

右がリディア、左は私設看護婦で生涯の友となったナース・キース。

彼女の父サミュエルは、大きな農場を経営し、マオリの大学も設立した名士。

長女であった彼女は、父サミュエルが1907年3月に身罷ると、多くの遺産を相続した。

熱心な英国聖公会の信者であったサミュエルは、広大な地所の一角に教会を建て、自らも司祭補を務めた。

そんな父の影響を受け、彼女は英国聖公会から世界中に派遣された、伝道師が記す会報誌の熱心な愛読者だったそうだ。

そして日本の岐阜市に、盲学校が開設されたことを知った。

彼女は、共に盲目と言うだけの繋がりだけで、相続した遺産の一部を岐阜盲学校へと送金したのだ。

当時のヘラルドトリビューン紙より

日本や岐阜を、一度も訪ねることも無く。

当時の岐阜新聞より

今から112年前、彼女の博愛の精神は、9,000㌔の海を渡った。

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9/20その②~昭和がらくた文庫99話(2019.02.21新聞掲載)~「野球小僧の球春」

あちらこちらから、春の便りが届くと、不思議と心まで軽くなる気がするから嬉しい。

今なら差し詰め、山菜の天ぷらに舌鼓を打ちながら、お気に入りの熱燗でキュ~ッと、なぁ~んてぇのが、ぼくにとっては一番だ。

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ところが子どもの頃は、そんな乙な山菜の妙味さえ知らぬ。

だが子どもには、子どもならではの、待ち遠しい春の楽しみもあった。

カッキーン

近所の公園から聞こえる、草野球のバットの快音。

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するともうどうにも、居ても立っても居らない。

一目散で駆け出し、仲間に混じって、夢中で白球を追いかけたものだ。

しかしそこは、しょせん子供騙しの草野球。

すぐに別のモノに興味が湧けば、飽いてしまうのは子どもの特権。

友の誰かが持参した、何かの付録だったろうか、プロ野球選手名鑑に首っ引きとなった。

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皆奪い合うかのように、ページを繰り眺め回したものだ。

いずれも贔屓のチームや選手は、両親の出身地の影響もあるのだろうが、皆それぞれ異なった。

ところが当時は、泣く子も黙る「巨人大鵬卵焼き」と称された、プロ野球全盛期の真っただ中。

東京五輪の翌年、昭和40年から48年まで、他を全く寄せ付けぬ、ジャイアンツのV9時代である。

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だからどんなに、贔屓のチームが別にあったにせよ、それはそれ。

皆ジャイアンツには、一目も二目も置いていたものだ。

中でも三番ファースト王、四番サード長嶋の人気は不動。

そこに彗星のように現れたのが、昭和41年、ドラフト1位で入団したピッチャー堀内。

泣く子も黙る開幕13連勝を上げ、ジャイアンツファンじゃなくとも、痺れさせられたものだ。

特にあの投球後に、野球帽のつばのバイザーが、キュッ回る姿に憧れ、誰もが真似をした。

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わざと大きめの、父の野球帽をかぶって、投球後に大きく(かぶり)を振り、つばをキュッと曲げ、ご満悦になっていたものだ。

昭和半ばの男坊主どもには、何より待ち遠しかった球春も、もうすぐそこまで来ている。

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9/13その①「ややや、もしや君は?出待ちをしている彼岸花?」

昨日、食料品の買い出しに、近くのスーパーまで出かけました。

いつも通る公園の脇で、イチョウの木の下に目をやると、彼岸の主役のような彼岸花が茎を伸ばしているじゃありませんか?

今年の彼岸の入りは、20日とか。

今年も出番を忘れずに着々と準備を始めていたのですねぇ。

つくづく大したものです。

お彼岸には母が大好きだったオハギをお供えしなくっちゃ!

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昭和がらくた文庫96話(2018.11.22新聞掲載)~「月見の里に御座(おわ)す両親」

「♪晴れた空 そよぐ風」。

父も母も岡晴夫の「憧れのハワイ航路」を、よく口ずさんでいた。

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この晴れ晴れしい歌声で、憂さの一つでも吹き飛ばしていたのだろうか。

終生一度も、そのハワイの地を踏むでもなく、急ぎ足でこの世を去るとは。

ぼくの両親は、今も海津市の月見の里近くに眠る。

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誰一人、母が父より先に、享年64で亡くなるとは、想像しなかった。

あと3年でぼくも、母が身罷った(よわい)となる。

母の死より10年近く前。

大病に倒れた父の方が、誰もが母より先に、天に召されるものと、そう信じて疑いもしなかった。

今度は父の痴呆が進んだ。

今思えば父は、何から何まで、母だけが頼りだったのだろう。

母の一周忌を済ませ父に問うた。

「お母ちゃんの墓やけど、岐阜県の海津市はどやろう?」と。

両親とも縁も所縁もない、養老山脈の麓を選んだ。

「それでええ」。

父は何故か二つ返事で頷いた。

ぼくが何故、その月見の里近くの墓地を選んだかと言えば、まずはそこからの眺めだ。

木曽三川を眼下に見下ろせ、その向こうに濃尾平野。

同時に木曽三川は、伊勢湾へと注ぎ、父の故郷三重へと繋がる。

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また、木曽三川の護岸工事に心血を注ぎ、多くの藩士が亡くなった、薩摩義士ゆかりの地でもある。

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母が生まれ育ったのは、鹿児島市中心部の城山。

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鶴丸城址の東側には、義士たちの墓と、岐阜県から寄贈された、淡墨桜の末裔が枝を広げる。

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それだけでも、両親の終の棲家を、そこにした甲斐がある。

不思議な縁に導かれ、人は誰もが人生と言う大河を揺蕩い、岩や瀬に打ち上げられ、そこに根を下ろすものなのだろう。

三重と鹿児島の産物のこのぼくが、ここ岐阜の地で人生後半の根を下ろしたのも(えにし)

せめて残りの人生、焦らず腐らず奢らず、「♪晴れた空 そよぐ風」と、両親のように口ずさみ、この命が消え入るまで、ゆるりと生きて見るか!

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昭和がらくた文庫95話(2018.10.25新聞掲載)~「加子母村から舞台峠へ」

「生きとって良かったなぁ、お父さん。まさかこうして家族三人水入らずで、新年が迎えられるなんて…」。

母は温泉宿で迎えた、元日のお節料理を前に涙ぐんだ。

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あれは今を遡る、33年前。

その前年は、これでもかと言う程の試練が、ぼくの人生に怒涛のように押し寄せた。

まず、夢を捨てきれず追い続けた、シンガーソング・ライターへの道を断念。

ある方の導きもあり、この世界の裏方である、企画の仕事に携わることに。

しかし、その独立を果たした翌日、父が頭部動脈瘤に倒れた。

それから約半年、母は内職もままならず、父の病室に付きっ切りに。

まだ独立したばかりで、収入も定まらぬぼくは、深夜から朝まで、鮮魚市場でのアルバイトを掛け持った。

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そして昼間に自分の仕事を片付け、市場で母の晩ご飯と、翌日の菓子パンなどを買い込み、病院を見舞ったものだ。

家族三人が、力を合わせたこともあってか、父の生命力の賜物か。

或いは、母の命懸けの付き添いと、祈りの御陰か。

父はリハビリを終え無事生還。

ぼくも鮮魚市場でのアルバイトを辞し、やっと自分の仕事に専念することが出来た。

その年の暮れも押し迫った時のことだ。

「そうだ、両親を温泉に連れて行こう」。

急にそう思い立ち、大晦日に車で下呂へと向かった。

中津川で中央高速を降り、加子母村から舞台峠を越え下呂へ。

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観光案内所へと飛び込み、温泉宿に潜り込んだ。

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夕食を終え、小さくなった父の背を流し、湯船に浸りながら、遠くの山々にこだます、除夜の鐘の音に耳を澄ました。

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いみじくも下呂温泉までの道程が、まるでわが家の一年と重なった気がした。

長閑な加子母村を通り抜けると、険しい峠道へと差し掛かる。

峠の石碑には、「鎌倉時代、北条時頼が大威徳寺参詣の折り、この峠に能舞台を設け、疲れを癒し民衆にも鑑賞させた」と。

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それ以降、ここが舞台峠と呼ばれたとか。

「人生はまるで九十九折れの峠やなぁ。上ったり下ったり。まあまた下ったら、そしたら上りゃええだけや」。

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母はことりと呟き、お屠蘇の入った盃を空けた。

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昭和がらくた文庫92話(2018.07.26新聞掲載)~「手練れの手配師と、学生バイト」

「昼飯付きの日当片手!さあ、乗った乗った!」。

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ヤクザ映画で見かけるような、強面の手配師が、片手の5本指を大きく広げ、軽トラの荷台の上に立ち、大声を張り上げる。

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確か高校1年に上がった、昭和48年の夏休みに入って間がない、早朝7時前のこと。

名古屋の笹島交差点を南に下った、今は25階建ての住友生命ビルが建つ辺り。

近くに職安があるせいか、その辺りには毎朝、人相の悪い日雇い労務者と、それ以上にも一つ人相の悪い手配師が屯し、ある種独特な賑わいを見せていた。

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「おい、どうする?昼飯付きの5千円やと」。

同級生がおどおどしながら、小声で呟き肘でぼくを突く。

「どうする?」って聞かれたって、こっちだってこんな経験は初めての体験だ。

数ある手配師の顔を見比べ、最も人の好さそうなオッチャンの、トラックの荷台にぼくらは、荷物のように詰め込まれた。

到着したのは郊外の住宅造成地。

ぼくらはスコップを手渡され、日が暮れるまで日雇い労務者のオッチャンたちに混ざって、側溝堀の手伝い。

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それでも唯一の楽しみは、手配師が声高に叫んでいた弁当。

しかし手渡されたのは、味も素っ気もない塩結び2個に、薄っぺらなお新香2切れ。

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夕方再びトラックの荷台に詰め込まれ、ヘトヘトの状態で笹島へ。

そこで虎の子の、日当5千円を手にするという塩梅。

そんな過酷なバイト代を貯めに貯め、友と一緒の50㏄の中古バイク、ホンダ・モンキーをやっとのこと手に入れた。

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その夏の終わりのことだ。

モンキー仲間3人で、伊吹山の麓を抜け、国道8号線を経て若狭湾へ出掛けることとなった。

まずは、行きがけの駄賃にと、原付モンキーを唸らせ、伊吹山へ登ることに。

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しかしさすがに、所詮馬力にかける原付モンキーでは、伊吹山のドライブウェイは手強い。

5合目に何とか辿り着いたものの、いずれも中古の3台のモンキーは既にグロッキー。

若狭湾の浜辺どころか、何とかかんとかモンキーを宥めすかしながら、這う這うの体で家へと帰り着くのがやっとだった。

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昭和がらくた文庫91話(2018.06.21新聞掲載)~「憧れのチンチン電車の運転士」

わが家には、ぼくが自動車免許を取得するまで、車が無かった。

だから何処へ行くにも、電車かバスに頼るほかない。

よって自然と、身近な路面を走るチンチン電車の運転士さんやら、バスの運転手さんの一挙手一投足に、幼ないながら憧れを抱いた。

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「信号よーし!出発~進行!」。

従兄から貰った学生帽を目深に被り、顎ひもを締め、ぼくは指さし確認を真似、直接制御器のレバーに見立てた、折り畳みテーブルの脚を引き出した。

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「また、チンチン電車の運転士さんゴッコか?そんなに楽しいか?」。

南側の窓に向って、針仕事に精を出すお母ちゃんの声。

当時、幼い日のぼくの楽しみと言ったら、折り畳み式のテーブルの脚を畳んで、壁際にテーブルをもたせ掛け、折り畳んだ四本の足を、チンチン電車の運転台の、車で言うアクセルのような直接制御器の真鍮のレバーや、それらの機器に見立て、運転士の真似事をして、一人遊びに高じたもの。

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とくにこんな外で遊ぶこともままならぬ、梅雨時は来る日も来る日も、チンチン電車の運転ごっこに夢中だった。

さらにいつも乗車する路線内の停車駅名も諳んじ、「次は、熱田神宮前、熱田神宮前」ってなもんで、運転士と車掌の一人二役を演じ、幼いながらもリアリティーを追求したものだ。

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よくよく考えれば、まだまだ路面を走るチンチン電車も、ワンマンカーなんぞが、この世に誕生する遥か昔の話し。

今のように、TVゲームやスマホのゲームなんぞ、何も無かった時代の子どもらは、それぞれに工夫を凝らし、何とかごっこと称しては、大人たちの姿を真似た。

運転に飽きると今度は、強請りに強請ってやっと買い与えてもらった、玩具の車掌さんセットの登場だ。

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黒いビニール製の鞄を首から吊るし、ボール紙製の切符と、改札ばさみを片手に、「切符を拝見いたします。乗り越しやご用のある方は、お申し出願います」と。

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すると母も心得た物。

「済みませんなぁ。トシ君家の駄菓子屋まで一枚お願いします」と、母はガマグチから10円玉一枚を差し出す。

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それがその日のぼくのお小遣いだった。

懐かしい日々は、刻一刻と遠のいて行ってしまう。

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昭和がらくた文庫89話(2018.04.26新聞掲載)~「古川やんちゃと男酒」

「♪元気を出して ワッショイ!」。

春の氏神様の祭礼を盛り上げる、子ども神輿が漫ろ行く。

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しかしこのところの少子化で、神輿の紅白紐を引く子どもらの数が、とんと少ない。

少なくともぼくが育った昭和半ばは、紅白紐さえ握れない子供もいたと言うのに。

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だが少ないながらも、法被姿に捩じり鉢巻きをした子どもたちの目は、半世紀前のぼくら同様、キラキラと輝きを放っていた。

首から吊るした小さな雷太鼓を打ち鳴らし、胸を張って誇らしげに、神輿のお先手を(つとむ)る子。

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そして嬉々として、拍子木で合の手の()を入れる子。

いずれ劣らぬ、小さいながらの男ぶりだ。

やはりこの国に産まれし、老若男女すべての者たちには、祭囃子に血が騒ぐ、そんな遺伝子が組み込まれているのだろうか。

「わしら飛騨古川の(おとこ)(しゅ)は、一年が起し太鼓のためにあるようなもんやさ」。

と言って、湯呑に注いだ冷酒を、真昼間っから煽るじ様。

若かりし日の(おの)が姿を重ねるように、下帯姿で付け太鼓を大きく揺らす、血気盛んな若衆を見やった。

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「わしらぁは、古川やんちゃやで!」。

4月19日、午後9時。

飛騨市古川町のまつり広場に、下帯だけの裸男たちが数百人も繰り出し、酒臭い息を吐きながら、腹の底から祝い唄を謡い上げる。

ついに起し太鼓の人山が、地鳴りのような大太鼓に煽られ動き出した。

そこを目掛け、町の辻々から付け太鼓を掲げ持った男衆が、町の威信を背負い、大太鼓の櫓に我先に、激しい体当たりを繰り返す。

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これぞ飛騨の古川やんちゃどもの、年に一度男気を鼓舞する、神聖なる春祭りなのだ。

遠巻きに眺める、多くの老若男女が、その迫力にただただ気圧されながら、飛騨古川の夜は深まり、何人もが恋い焦がれた、大いなる春の訪れに酔いしれて行く。

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