長良川母情⑲(2009.7月新聞掲載)

子どもの頃のぼくは、月末の日曜日が待遠しくてならなかった。

朝からよそ行きの服を着せられ、この日ばかりは母も三面鏡の前に座り込み、念入りに紅を注す。

そしてガタゴトとボンネットバスに揺られ、お目当ての駅前百貨店へと母に手を引かれ。

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開店間もない通路の両側には、店員が見事に整列し、(うやうや)しく(かしず)くように母とぼくを出迎える。

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何だか急に王子様にでもなったようで、妙に居心地が悪く、お尻の辺りがこそばゆくてしかたなかったものだ。

それもそのはず。外見こそよそ行きのまともな服に見えるが、人目に付かぬ下着や靴下なんぞは、そこら中(ほころ)びだらけ。

母の得意の裁縫で器用に繕われただけ。

だから本当は見透かされているような気がしてならなかった。

だがそれにも増して、慇懃無礼(いんぎんぶれい)なほどの態度で出迎えられることに、ある種の快感めいたものさえ感じてもいた。

もしかすると月に一度、母もその快感を得たいがためにぼくを引き連れ、給料日後の日曜日に出掛けたのだろうか?

いや、間違いない。

その証拠に、散々売り場を歩き回った末、母が買い求めたものと言えば、80円均一売り場のどこにでもあるような台所用品だったからだ。

何も駅前までバスに乗って、買い求めるほどのものでもないであろうに。

帰りのバスで母は決まってこうつぶやいた。

「あ~あ、ええ目の保養させてまったわ」と。

ぼくのお目当てと言えば、百貨店の7~8階にあった大食堂のお子様ランチ。

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母の目の保養とやらにさんざん付き合い、愚図らず何も欲しがらず、粛々とオリコウサンを演じ続ければ、帰り際に母がご褒美代わりに振舞ってくれたものだ。

ご飯に国旗はためく、(かぐわ)しきお子様ランチ。

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長良川右岸を岐阜市から南へ。

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墨俣一夜城を右手に眺めながら、支流の犀川を越え右手の中山道の脇街道へと歩を進めれば、脇本陣跡の酒屋や昔の家並が忽然(こつぜん)と現れた。

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「家の店で全部揃えて嫁いでった人も、ようけおったんやに。その昔は」。

()(しま)屋百貨店と書かれた看板を見上げていると、三代目女将の大塚弥生さん(73)が店先で気さくに声を掛けて来た。

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「創業100年やで、昔は銀行の代わりみたいなこともしとったみたいやわ。養蚕が盛んで、農機具から下駄や寝具にちり紙まで、今と違って何でもあった。ああ、この上見てみい。何やと思う?」。

帳場の上の天井部分が、六尺四方ほど切り取られている。

「二階の倉庫から、ちり紙なんか直ぐに下ろせるよう細工したるんやわ」。

すると傍らから「この辺は水郷地帯やで、いつ水が来てもいいように2階を倉庫にしたるんやて」と、夫の光男さん(75)。

弥生さんは昭和33年に羽島市から嫁ぎ、二女を授かった。

「この家、奥行きが35間(約63m)もあるもんで、御仏飯持って奥行くのが慣れるまで怖かったもんや」。

弥生さんは達筆な筆遣いで、熨斗や年賀ハガキの代筆も手掛ける。

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「熨斗書いとる間、店の中見て回って買ってもらえるやろ」。

弥生さんは屈託なく笑った。

岐島屋は一夜城に非ず。

百年の夜を経て今もなお商い続ける「百貨繚乱(りょうらん)店」。

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長良川母情⑱(2009.6月新聞掲載)

鏡島大橋を少し下った先に、舟の渡しがある。

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岐阜市一日(ひと)市場(いちば)の右岸から、鏡島弘法の左岸へ向け、片道たった2分の舟旅。

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それが「小紅の渡し」だ。

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舟から見る景色は、何とも浮世離れしている。

都会の喧騒は川の水音に掻き消され、高層ビルも土手が遮り、川上の金華山と岐阜城だけが悠然とその存在感を示す。

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小紅の由来には諸説ある。

昔の女舟頭の名とか、紅花を栽培していたとか。

だが一番趣が感じられるのは、やはり花嫁が舟の上から川面に顔を映し、紅を注し直したとする説だ。

白無垢に角隠しの花嫁が、真っ白な小指の先で紅を注す。

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ついついそんな昔日(せきじつ)の風景と、ひょっこり出逢えそうな気がするから不思議だ。

そんな淡く切ない紅の思い出ならば良いのだが、ぼくの場合はいささか異なる。

昭和半ばの幼いぼくは、空き地で棒切れを見つければ、すぐに隠密剣士や仮面の忍者赤影になりきって、友とチャンバラごっこに明け暮れた。

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中でもすっかり虜になったのは、昭和38年10月から始まったテレビ番組「三匹の侍」。

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それまでのチャンバラものとは異なり、殺陣(たて)に合わせ効果音が「チャリン」「バサッ」などと被さり、これまでに無い臨場感を醸し出していたからだ。

そうなるともう、そこらの棒っ切れでは収まらない。

母にせがんでやっとのこと、鉄板を二つ折りにして刃を潰した、チャンバラごっこ専用の模造刀を買い与えてもらった。

だが母から、「危ないで外での使用は厳禁。万一、禁を犯せば刀召し上げ」と、時代がかった台詞で厳しいお達しが。

ならば狭い我が家で遊ぶほかあるまい。

ある日のこと。

友とチャンバラごっこを始めていると、母が買い物に出掛けた。

最初は三匹の侍気取りで、長門勇の「おえりゃあせんのう」を真似ながら、槍の変わりに刀を振り回し、口々に「チャリン」「バサッ」の応酬。

だがそれもしばらくすると飽きてしまう。

そんな時、ぼくの頭の中で悪魔が囁いた。

母の三面鏡の引き出しから、一本きりの大切な口紅を取り出し、それを刃先に塗りやたらめったら斬りまくったのだ。

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友もぼくも、腕といいシャツといい、口紅の真っ赤な刀傷だらけ。

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ガラガラガラ。

玄関から母の気配が。

だが時既に遅し。

後は推して知るべし。

母の拳骨の嵐と罵声が飛び交った。

「この渡しに乗って嫁いでったお嫁さんは、まあ生きてござらんやろ」。

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鏡島弘法の参道で、昭和の始めから店を構える岐阜市古市場の甘酒屋、二代目女将の鷲崎(すさき)すみさん(78)は、長良の(ほとり)に目をやった。

「戦前ここは、芸者さんを連れてお大尽遊びする人で、夜中までよう賑わったもんやよ」。

すみさんは昭和24年、19歳で婿養子を迎え二男を授かった。

「舟で一日市場へ渡って、川魚捕まえたり。子どもらは学校から戻ると、毎日カワブソ(川遊び)しよったもんやって。顔なんて真っ黒で、どっちが表か裏かわかれへん」。

すみさんが懐かしそうに目を細めた。

何故だか無性に、すみさんが麹から造るという甘酒を、冬になったら飲んでみたいと思った。

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甘くてせつない母の味がするようで。

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長良川母情⑯(2009.4月新聞掲載)

花屋の店先で紫陽花の鉢植えを見かけると、初めて傘を買ってもらった小さな頃を思い出す。

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あれはまだ、小学校に上がる前のことだ。

母が黄色の小さな傘と、お揃いの黄色の長靴を買い与えてくれた。

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ぼくはすっかり有頂天。

しかしその日は生憎の日本晴れ。

「母ちゃん、明日って雨降る?」。

ぼくは何度もそう尋ね、母を困らせたことだろう。

その日は渋々茶の間の片隅に新品の 黄色い傘と長靴を飾りつけ、童謡の「あめふり」を雨乞いでもするかのように口ずさんだものだ。

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だが童謡では神通力を欠くのか、翌日もまたもや快晴。

ついに我慢がならず、茶の間で長靴を履き、傘を差し、畳の染みを水溜りに見立て一人遊びを始めた。

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「あめふり」を口ずさみながら、クルクルと傘を回し、水溜りをピチャピチャと行ったり来たり。

だが調子良く傘がクルクル回ったのはそこまで。

「ペタッ」と鈍い音がした途端、さっきまで軽快に回っていた傘が急に動きを止めてしまったのだ。

何とも間の悪いことに、そこへ洗濯物を干し終えた母が登場。

もはや万事休すである。

「何しとるの!部屋ん中で傘差す奴が、何処におるんじゃあ!おまけに畳の上で長靴まで履いてっ!ええ加減にしとかなかんよ!………?」。

母の視線が何故か、傘の上部で釘付けに。

「ああああっ!ほれみぃ、蝿取紙が傘に巻き付いてまっとるがね!」。

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せっかく買って貰ったばかりの「おニュー(昭和半ばの頃は、まっさらな新品を、英語のNewにご丁寧に「お」まで付け、そう呼んだものだ)」の黄色い傘に、蝿取紙の焦げ茶色したネバネバの(やに)のような液体と蝿の亡骸(なきがら)がベットリ。

変わり果ててしまった「おニュー」の傘。

ぼくはボロ雑巾で、何度も擦り取ろうとした。

だが擦れば擦るほど、布の織り目に焦げ茶色のネバネバがはまり込み、まるでぼくを嘲笑うかのように広がって行く。

だからか、今になってもその焦げ茶色が、梅雨明けに立ち枯れた紫陽花と重なり、遠い日のほろ苦さが鮮明に浮かび上がるのだ。

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「紫陽花は健気(けなげ)でええもんやよ。雨に打たれてその度に色を深めて行くんやで。あんたも紫陽花が好きなんやろ?」。

金華橋のわずかに北西。

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岐阜市津島町の「サワダ花店」、女将の澤田佐代子さん(81)が、紫陽花の鉢植えに魅入られたままのぼくに声を掛けた。

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「ほんと紫陽花ほど雨が似合う花は、他にないな。赤にしても青いのでも、一雨ごとに色が変ってくで、庭先に置いといても飽きがこんのやて」。

佐代子さんは昭和28年に、叔父の紹介で輝義さん(81)の元へと嫁いだ。

「その5年後には、主人が鷺山で花屋を始めたんやわ」。

佐代子さんも会計事務所に勤めながら、夫を支え続けた。

「昭和47年には勤めを辞めて、ここの半分で私が喫茶店して、もう半分が主人の花屋」。

お子さんはと問うてみた。

すると「授からんかったんやわ」とポツリ。

店先で雨に咲く、淡い色した紫陽花。

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佐代子さんはまるで我が子を見るように、やさしい眼差しを向けた。

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長良川母情⑮(2009.3月新聞掲載)

『カッポーン、カッポーン。筋肉質の男の裸体。風呂上り』。

たったこれだけのヒントでピーンと来たならば、あなたは立派な昭和の生き証人である。

時は昭和39年。

戦後の焼け野原からの見事な復興振りを、東京五輪が世界中に知らしめた。

参考資料

同年12月、プロレス界では大相撲出身の(とよ)(のぼり)が、宿敵ザ・デストロイヤーを破りWWA世界ヘビー級王座のベルトを奪い取った。

参考資料

戦後19年とはいえ、戦地を流転した父なんぞは、B‐29を陸軍の三八式銃で撃ち落したほどの喜びようだった。

夕飯を終えた客でごった返す銭湯。

脱衣場はまさに、国府宮の裸まつりさながら。

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番台の上の時計が8時に近付くと、男湯の脱衣場は静まり返り湯船はもぬけの殻。

男たちは入り口脇に鎮座する、白黒テレビに熱い視線を送る。

風呂屋のオヤジが厳かにテレビのスイッチを入れた。

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だが今とは異なり、直ぐに映像は映し出されない。

真空管テレビの時代である。

箱の奥の方から、ゆっくりと映像が浮かび出で、徐々に大きくなって画面一杯に収まる。

すると脱衣場では「待ってましたあ!」の掛け声や、ヤンヤの喝采。

誰もが片寄せあい小さな画面に見入り、一喜一憂の雄たけびを上げる。

参考資料

こんな状態のまま番組終了を迎えるのだ。

すると男たちは豊登気取りで、裸のまま両足を肩幅より大きく開き両手を広げる。

そして弾みを付けながら真下へと振り下ろし、その勢いで弧を描くよう体の前で交差させ右の拳を左脇へ、左の拳で右脇を絞める。

するとあちこちから、カッポーン、カッポーン。

中には「カパッ」や「ペシャ」と、腑抜けた音がした。

「ちょっとう、あんたたち!いつんなったら帰るつもり!ええ加減湯冷めしてまうがね!まあ置いてくでね!」。

女湯の脱衣場から、怒りを露にする母の声が響いた。

慌てて父と身支度を整え家路へ。

さっきまで豊登になった気でいたのに、もうそれどころじゃない。

家では世界チャンプ以上に恐ろしい母が、手ぐすね引いて待ち構えているはずだから。

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「そうやて。あんなころはどこも一緒やわ。家のお客さんもみんなしてカッポーンやて」。

長良橋を北へ渡った長良北町商店街。

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その一角にある福寿湯の女将林茂子さん(74)は、男湯と染め抜かれた暖簾を掛けながら笑った。

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茂子さんは昭和10年、旧三田洞村で5人兄姉の末子として誕生。

二十歳の年に叔母の紹介で林家に嫁ぎ、一男一女を授かった。

「本当なら端午の節句は、菖蒲湯せんとねぇ。でも10年ほど前に、やめてまったであかんわ。昔は手拭い縫って袋にして、菖蒲の葉を3㌢ほどに刻んで、蓬と一緒に入れて薬湯に浸け込んだもんやて」。

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茂子さんは懐かしげに脱衣場を眺めた。

邪気を祓う風呂屋の菖蒲湯。

脱衣場に木霊したカッポーンの()

昭和の風情が、また一つ遠のいて往く。

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長良川母情⑭(2009.2月新聞掲載)

まるで文金高島田の優雅な日本髪か?

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新緑に彩られた、こんもり小高い山々の姿は。

関市の千疋大橋から長良川は西へと蛇行し、やがて武儀川と合流し南へ。

一方、支流となった今川は津保川と結ばれ、上芥見へと下り再び長良川となる。

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この辺りの川堤から川下を眺めていると、真っ赤な欄干の藍川橋が、どうにもぼくには文金高島田のような小高い山に差した、(かんざし)に見えるから不思議でならない。

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橋の中程に佇み川下を眺めると、正面に兎走山、右手に大蔵山、左手に清水山の三山が、大河の流れに立ちはだからんとばかりに鎮座している。

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その大自然の造形美たるや、長良川下りの絶景でも一二を争うに違いない。

「日本の春は?」の問いに、桜と答える人は多い。

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古くから桜は、日本人の心の琴線(きんせん)を揺らし続けて来た。

その潔い散り際に儚い死生観を重ねたり、時には満開の桜に大願成就の夢を託す。

子どもの頃のぼくは、和菓子屋の店先に春を感じたものだ。

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鴬餅に草餅、そして一番(かぐわ)しいのは何と言っても薄紅色の桜餅。

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塩漬けの葉が、えも言われぬ香気を放つ。

だがどうにもその葉っぱが苦手だった。

年に一度、口に入るかどうかの桜餅が、なぜかその日は水屋に三つ。

父母とぼくの三人に各々(おのおの)一つの計算だ。

あまりに「美味い」と繰り返し、葉っぱだけ外してペロリと平らげたからか、母が自分の分を差し出した。

「そんなに美味いんやったら、これも食べ」。

「ええっ?本当にええの?」。

「お母さん今食べとうないで。お前が残した葉っぱで十分やわ。塩味が効いてええ香りやし」。

今思えば、母は何かに付けそうだった気がする。

特に我が家にとっての贅沢品が、卓袱台に上った日は。

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鰻なら「端っこの方が美味い」と尻尾を、すき焼きなら「肉よりよっぽど糸コンの方が美味い」と(うそぶ)いては、父とぼくの皿へ大きな身の鰻や肉を取り分けた。

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「あれっ、父ちゃん桜餅いらんの?さっきから葉っぱばっか食べとるけど?」。

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五つになったばかりの娘の声に、ぼくは現実に引き戻された。

今から10年も前のことだ。

どうにも血は争えないと言うことか。

「息子の修業が明け、師匠のお宅へお礼に伺った時、桜餅が出されたんやて。何とも言えん、ええ色で艶々しとってね」。

岐阜市上芥見、菓匠「豊寿庵富田屋」二代目女将の後藤敏子さんは、店先で三代目の豊さんが(こしら)えた自慢の桜餅を指差した。

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敏子さんは二代目の民康さんの元へ、日本中が沸き返った東京五輪の開会式の日に嫁に入った。

「主人の父は4歳の時に戦死し、祖父が父代わりで。『孫の嫁を一目見んと』って、病を押してまで楽しみにしとってくれたらしいわ」。

二人は熱海へ新婚旅行に向かった。

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しかし翌日、祖父危篤の知らせが。

「嫁入り3日にして、今度は祖父の葬儀やでね」。

背中合わせの吉凶。

だが、それでも人は生きてゆかねばならぬ。

その後、一男二女が誕生。

夫と共に家業を護り抜き、晴れて息子へと(たすき)を渡した。

桜の花びらは風に舞い散る。

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やがて芽吹く若葉に、自らの命を授けるように。

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長良川母情⑬(2009.1月新聞掲載)

赤い鮎之瀬橋から眺める長良川の川面で、傾きかけた西日がキラキラと揺れる。

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まるで春を待ち侘び遡上する鮎の銀鱗のように。

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船着場には鵜舟が三艘(もや)われ、鵜飼開きの訪れに備えているようだ。

向こう岸では投網を打つ漁師たち。

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水鳥たちが一斉に鳴き声を発しながら飛び立って行った。

河原に降りて眺める、長良川の流れとこの景色は、小瀬鵜飼が始まったとされる一千有余年の昔から、何一つ変っていないのかも知れない。

そんな錯覚に陥りそうなほど、ここは(うつつ)の世から切り取られた特別の場所なのかも知れない。

川の流れに耳を澄まし、そっと目を閉じる。

すると辺り一面は漆黒の闇。

遠くからギーコギーコと櫓の軋む音が聞こえ、狩り下る鵜舟の篝火が闇を裂く。

腰蓑姿に(かざ)(おれ)烏帽子(えぼし)

鵜匠の鮮やかな()(なわ)さばきが、長良川の川面と夏の夜を焦がして行った。

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「お父さん!また餌だけ盗られてまったわ!はよ餌付け直して!」。

母は膝下まで川に浸かったまま延べ竿を引き寄せた。

「またかいな」。

水際でせっせと石をめくり、餌となる川虫を獲りためていた父が、針先へと駆け寄った。

まだぼくが小学生だった頃のこと。

父がせっせと餌を付け替え、母とぼくは白ハエ釣りに夢中になった。

だがそれだけなら何もこの歳になるまで、後生大事に記憶することもなかったろう。

それを忘れがたき記憶に変えたのは、とんでもなく勇ましい母のいでたちだった。

もう色や柄は覚えがない。

確かノースリーブのアッパッパーだった。

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母は急にアッパッパーの裾の両端を摘み上げ、太もも周りのパンツのゴムの中に外側から巻き込んだのだ。

水に濡れぬようにと。

股間の部分とお尻の部分だけ、ワンピースの裾が舌のようにダラリと垂れ下がり、両足の外側が腰の辺りまで捲くれ上がっているのだから、もう手の施しようもない。

しかもノースリーブから零れ出した二の腕は大きく(たる)み、竿を振るたびまるで別の生き物のようにブニョブニョと蠢くではないか。

おまけに頭に麦藁帽子と来ちゃあ、人から「あの人、お母さん?」と尋ねられても、知らぬ存ぜぬを決め込んだことだろう。

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「私が25歳で嫁に来た時は、まだ先々代と先代夫婦もそりゃあ元気で、3夫婦で暮らしとったんやで賑やかやったわ」。

関市小瀬の料理旅館「鵜の家」十七代目女将の足立美和さん(65)は、鳥屋(とや)の引き戸を開けながら笑った。

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真っ暗な鳥屋の中から鵜が鳴き声を上げる。

「今は全部で23羽。みんな大切な鵜匠の片腕たちやでね」。

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樹齢五百年とも言われる庭の満天(どう)(だん)躑躅(つつじ)が、代々宮内庁式部職を務め上げたこの家の歴史を物語る。

「今年で三回忌になる亡き夫は、ほんといい男やったんやて。だから来世でもまた、夫と一緒になれますようにって、毎日お祈りを欠かしたことないんやって」。

鵜匠の母は照れ臭げに笑った。

現在は三人姉弟の長男が、十八代目鵜匠を拝命。

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あと二月もすれば、千年前と同じ幽玄な趣きを秘めた小瀬鵜飼の幕が切って落とされる。

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長良川母情⑫(2008.12月新聞掲載)

(うだつ)の町屋が続く、美濃市の旧市街。

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黒塀に囲まれた庭先きから、綻び始めたばかりの梅の花をまとった老木が、枝を伸ばし道往く人の目を(いざな)う。

微かな春の予感に導かれ、小倉山の麓から長良川へ。

河畔には今も上有(こうず)()の川湊灯台が(そび)え立つ。

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(いにしえ)の船頭たちはここで荷を積み降ろし、穏やかな川面を眺め至福の一服を(くゆ)らせたであろう。

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「おいっ坊主、これ一本やろか」。

今から37年ほど前、中学生だったある日。

胸を肌蹴た鯉口シャツに、鉄錆に汚れたニッカーズボン、そして地下足袋姿。

鳶職のオッチャンが赤ら顔で、コップ酒を煽りながら紋次郎いかを差し出した。

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紋次郎いかとは、長楊枝に刺したいかの味付け煮だ。

親友のシンちゃんの母が営む酒屋の立ち飲みには、夕暮れ時を待ってましたとばかりに、何処からとも無く職人たちが寄り合い、コップ酒片手に今日の憂さを晴らし合う。

そんなオッチャンたちにとって、紋次郎いかは無くてはならない優れものの肴だった。

おそらく紋二郎いかの名前の由来は、テレビドラマ「木枯し紋次郎」が口に咥えた長楊枝との共通点からだろう。

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薄汚れた道中合羽と三度笠姿で「あっしには関わりのねぇこってござんす」と、感情を押し殺して吐き出す台詞は、当時の流行語にもなった。

ぼくは鳶のオッチャンから、大喜びで紋次郎いかのご相伴に預かる。

まず、いかを唾液でふやかしてから平らげ、その後は紋次郎気取りで件の台詞を口にしたものだ。

シンちゃんの母はそれを傍目に、いつも笑い転げていた。

その年の夏休み。

シンちゃんのお母さんが、倉庫の裏の川で溺死したとの知らせが。

あまりにも呆気ない急な死に、通夜に訪れた誰もが言葉を失い、ただただ瞳を潤ませた。

「スマン。遅なって」。

紋次郎いかの鳶のオッチヤンや、立ち飲みの常連客が、いつもの作業着のまま弔問に現れた。

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「シン坊、淋しなったなぁ。でもわしらも一緒や。女将さんは、わしらみたいなん相手に、一つも分け隔てせんと一杯売りして、愚痴を聞いてくれよった。『今までおおき。あの世でゆっくりしいや』」。

(いか)つい両の手を合わせ、(なに)(はばか)ることなく男は声を上げすすり泣いた。

実の母の死より悲しいと。

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「家自体が年代もんやで、西側に傾いちゃってね。百年以上前に造り酒屋を買って、小売を始めたそうやわ」。

美濃市相生町の(いま)(ひろ)酒販店、四代目女将の川井殖代(たつよ)さん(67)は、帳場の大黒柱を指差した。

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道理で店の中の時間は止まったままだ。

中の間を仕切る千本格子に階段箪笥。

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天井には明り取りの天窓、それと壁掛け式の電話機。

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さすがにどれも梲の揚がる大店の証だ。

女将は21歳で上之保から嫁ぎ、二男一女の母に。

「嫁に来た頃は、両親とお手伝いさん、それに番頭と使用人もいて大家族やったわ」。

それから間も無く半世紀。

「ただ子を成し、店を守ってきただけやて」。

無欲に笑う女将の横顔と、在りし日のシンちゃんの母の顔が重なった。

何事も気張り過ぎぬが心地よい。

たとえ生涯梲は揚がらずとも。

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長良川母情⑪(2008.11月新聞掲載)

鬱蒼(うっそう)とした檜の老木が、(やしろ)の来歴を物語る。

楼門(ろうもん)へと続く苔生(こけむ)した石組みの太鼓橋。

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(みそぎ)落しのように、古人(いにしえびと)たちはこの橋を渡り神々を詣でたであろうか。

境内から玉砂利を踏む音と拍手(かしわで)を打つ音だけが、静まり返った(もり)に響く。

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家内安全、身体健康、商売繁盛。

晴れ着をまとい願いを込め打ち出す拍手(かしわで)の数だけ、新年への庶民の祈りがあった。

美濃市洲原神社。

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美並から南へと下った長良川が大きく東へと蛇行し再び南下する。

気も遠のく太古に、ここに洲が広がったのだろう。

大自然の壮大な物語に感じ入っていると、社務所へ向かう三世代の家族連れが。

本殿を目指す年始の参拝客とは、向かう先も異なる。

どうにも気になって近付いてみれば、やっぱり。

お婆ちゃんと呼ぶには忍びないほど若い祖母が、純白の産着をまとわせた赤子を大切そうに抱いたまま社務所の中へ。

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初孫か、祖父母の顔には、晴れやかさと心持ち緊張した面持ちが同居している。

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かつて母の遺品を整理していた時のこと。

小学校の修学旅行土産に買った、京都八橋の缶箱が現れた。

既に数十年の歳月で錆付いている。

母はこんなものまで仕舞い込んでいたのだ。

蓋を開けると、古惚けた母子手帳が。

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ぼくは一人っ子だから、母にすれば最初で最後の我が子の記録だったわけだ。

黄ばんで破れたビニールカバー。

手帳全体に浮き出た幾筋もの染みは、ぼくが生きた半世紀近くの年輪のようだ。

ページをめくると、母の声がした。

「あんたは逆子で難産やった。産まれた時は窒息寸前、全身紫色だわ。取り上げてくれた産婆さんが『こりゃあいかん』って、小さな足首掴んで頭の上でグルグル振り回して。それでやっと産声上げたんだわ」。

ぼくの生死の境が記録された手帳。

しかし二歳を目前に伊勢湾台風が直撃。

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当時のわが家は、名古屋市南区のアパートの一階だった。

台風と満潮が重なり、水位がもの凄い勢いで上昇。

父母はぼくを抱え、命からがらアパートの二階へと非難。

わが家は完全に水没し、家財道具も何もかも失った。

しかし母は瓦礫の中からこの母子手帳を、必死に探し出したのだ。

変色した一冊の母子手帳。

だがそれは、母との思い出の彼方へと旅立つ、この世にたった一つだけのパスポートだった。

お宮参りを終え晴れ晴れとした表情で、三世代家族が境内へと戻って来た。

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「これは息子が35年前に、お宮参りで使った帽子と涎掛(よどか)けなんやわ」。

祖母の藤井玉枝さん(60)は、初孫を抱いたまま息子を見つめた。

「まだそんなんが取ってあるって言うもんで。でも意外と綺麗で」と、父孝仁さん(35)が笑う。

「せっかくだから娘の美緒の、お宮参りにも着けさせようって」。

母真由美さん(34)は、愛娘の真っ赤な頬を指先で突いて見せた。

「30年前に岐阜市内から関市へと引っ越して来て、今はこの神社がわが家の守り神様なんです」。

祖父美彦さん(61)も笑顔満面でカメラを構え、記念写真のシャッターを押し続ける。

幸せなこのひと時の一瞬が色褪せないように。

幸あれ!

藤井家、親子三代に。

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長良川母情⑩(2008.10月新聞掲載)

そう言えば母のバッグは、まるでドラエモンのポケットのようだった。

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思春期を迎え母と共に出掛ける機会もめっきり減り、そんなことすらすっかり忘れ果てていた。

その事を再び思い出したのは、26歳の時だ。

親子三人のぼくの家は、お世辞にも豊かとは言えなかったが、それなりに(つま)しくも笑いの絶えぬ平和な毎日を送っていた。

しかしそんな我が家に突如として大事件が勃発。

一家の大黒柱の父が、前頭葉の動脈瘤破裂に倒れ緊急入院となったのだ。

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手術中の赤いランプを眺めながら、母と二人でこの世も果てと言わんばかりに大きな溜め息を落としてばかり。

だがそんな切羽詰った状況下にあっても、健康体のぼくの内臓はめげることなく活発に機能し、時折りグッグーッと静まり返った廊下で悲鳴を上げた。

「何い、もうこんな時に!」。

思いつめた母の顔にわずかな笑みが戻った。

まるで憑物(つきもの)が一瞬のうちに落ちたように。

すると(おもむろ)にバックを覗き込み、「こんな時にもう。これでも食べときなさい」と。

喫茶店でコーヒーのお供に出される小袋入りのピーナツを差し出した。

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封を切り一口で食べ終えると、母はバッグをまさぐり無言でもう一袋を取り出す。

母は恐らくどこぞの喫茶店で供されたものを食べず、こんなこともあろうかと持ち帰っていたのだろう。

ピーナツから一口サイズのカステラ、そして果ては紙ナプキンに包まれたゆで卵まで。

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手術が無事終わることだけを祈り、不安に(さいな)まれながらもただ待ち続けるしかなかった母とぼくは、ドラエモンのポケットのような母のバックに救われた。

おまけに父も命拾いしたのだから、それはそれはたいしたものだ。

「この落花生を塩茹でしてお米と一緒に炊くと、これがまた美味いんやて。美並の郷土料理やわ」。

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その名も「落花生ごはん」とか、実にストレートで分かりやすい料理名だ。

長良川の川岸の畑に屈み込み、茎を土中から抜き取り、土塗れの落花生を収穫しながら郡上市美並町大原の末松房子さん(73)は顔を上げニッコリ。

長良川鉄道のみなみ子宝温泉駅を100㍍ほど南へ下った畑である。

その先には真っ赤な勝原(かっぱら)(ばし)と鉄橋が架りなんとも風情がある。

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「ここで日がな一日のんびり畑耕して、疲れたら駅の温泉に浸かって極楽気分やて」。

夫の栄さん(82)が、鍬を片手に笑った。

「まあ家風呂みたいなもんやて」。

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夫婦は今年で結婚50年。

男子二人を授かり、今は長男夫婦と孫の三世代同居。

「他のことやれんで、家族で食べる分の野菜を二人で呆け防止に作っとるんやて」。

二人の小さな畑には、一年を通じ野菜の花が咲き乱れやがて実を結ぶ。

「連れ添って50年やで、そりゃあ喧嘩なんて数え切れんって」。

二人で顔を見合わせ笑った。

顔に刻まれた幾筋もの皺。

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それは半世紀を喜怒哀楽と共に歩んだ者だけが、やっと手にすることの出来る夫婦の勲章なのだ。

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長良川母情⑨(2008.9月新聞掲載)

郡上八幡の町中を後に、川沿いをのんびり南へと向かう。

つい先月までは、わずかに歩を踏み出すだけで体中汗まみれだったのに、川面を滑るように吹き抜ける風がなんとも心地よい。

両岸に迫る小高い山は黄色く色付き、鱗雲の空に鳶が悠然と輪を描く。

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『こんな景色でも眺めながら、温泉三昧と洒落込みたいものだ』と、ちょうどそんなことを思っていた矢先、街道沿いに現れた一軒の店に目が吸い寄せられた。

通りに面した大きな硝子窓から中をこっそり覗き込む。

そこには少し陽に焼けた四角い槙風呂が。

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我が家に初めて内風呂がやって来た日の記憶が鮮やかによみがえる。

もう40年以上も経つだろうか。

我が家は父母とぼくの三人家族。

伊勢湾台風で全てを失い、名古屋の片隅にあった公営住宅で暮らしていた。

新築平屋の一戸建てと言えば聞こえはいいが、実情は六畳二間に小さな台所と汲み取り式のトイレだけ。

当然、風呂など贅沢な設備は無く、近くの銭湯へとせっせと通ったものだ。

「いつかは内風呂を!」。

それが両親のささやかな夢だった。

父は日曜が来る度に、安普請の風呂小屋造りに取り組んだ。

それでも3ヵ月もすると、それなりの小屋が建ち上がり念願の槙風呂が据え付けられた。

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父から母への、最初で最後の最大のプレゼントだったかも知れない。

ついに我が家に、内風呂開きの日が訪れた。

もう記憶に無いのだが、恐らく父と母は互いに一番風呂を譲り合ったことだろう。

「なんだか槙風呂が懐かしそうやね」。

いつの間にか女将が顔を覗かせ、ぼくに語りかけていた。

「昔はどこもこんな木桶のお風呂やったもんね」。

郡上市八幡町吉野の郡上八幡工芸「たにぐち」。

店内にはズラッと匠の技で仕上げられた工芸品が居並ぶ。

谷口秀子さん(61)は、女将と言うよりも匠の技を語らせたら、ちょっとした工芸館の館長のようだ。

「湯を張ると独特な木の香りに包まれ、何や心も身体も癒されるようでええもんやて」。

秀子さんは昭和22(1947)年に、長良川に架かる法伝橋を渡った村で生まれ、20歳の年に建具師の()(いち)さん(69)の元に嫁いだ。

「知らん間に、親たちが勝手に決めとったんやて」。

やがて二人は一男三女を授かった。

「主人と二人して頑張った甲斐あって、やっと跡取り息子に恵まれたんやて。もう技術はすっかり身に付いて一人前やけど、肝心要の嫁さんの来てがないんやわ。どこかに誰ぞええ人おりませんやろか?」。

母はいつまで経っても、腹を痛めた我が子の行く末を案ずるものだ。

「ここのは、みんな地元産の銘木やに。5年ほどかけて自然乾燥してから、材の特徴に応じて箪笥とか座卓にするんやて。釘一本使わぬ蟻組みの技で組み立て、最後に拭き漆で仕上げれば完成」。

自慢の夫と息子が造り上げる郷土の建具。

秀子館長は心なしか誇らしげに、秋晴れの郡上の空を見上げた。

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