Gifu Poem「梅林公園」と「昭和懐古奇譚」(2013.2新聞掲載)

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余寒の(みぎり)梅の香は 恋しき春の便りとな

母の褞袍(どてら)に身を寄せて 梅見遊山(ゆさん)篠ヶ谷(ささがたに)

暖簾(のれん)潜れば(かん)()止み 味噌田楽の香に()かれ

豆腐芋つぼ頬張りて 窓辺で(なが)む梅の(その)

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「土曜の半ドンのおご馳走(っつお)!文化鍋のオコゲの味噌オジヤ」

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昭和の死語の一つ、「土曜の半ドン」。

と、聞いただけで、途端に浮き足立つような高揚感を感じられた読者は、それこそ紛れも無い立派な昭和人である。

それほど魅惑的だった半日が、「土曜の半ドン」。

昭和半ばの小学生時代、土曜は午前で授業も終了。

皆、下校の校内放送が流れ出すと、我先にわが家へと駆け出した。

とは言え、どこの家もこれと言ったご馳走が待ち構えている筈もない。

内職仕事に精を出す、母の横手の火鉢では、煤けた文化鍋からグツグツと、湯気と味噌汁の香が立ち上る。

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わが家の半ドンの昼飯は大概、朝の冷やご飯と残りの味噌汁に、溶き卵を加えただけのオジヤが相場。

しかも炊飯器に残った、朝の残りのご飯をオコゲをごと一緒くたに文化鍋へと放り込み、そこにこれまた朝の残りの味噌汁を加えるという、なんとも大胆な手抜き料理。

しかしこれが単なる冷やご飯のオジヤとも異なり、適度にオコゲの香ばしさと歯応えが加わり、それはそれで結構美味しいものだった。

ましてや母からしてみれば、炊飯器にこびり付いたオコゲを、亀の子束子でやっきになって洗い落とす必要も無くなるのだから、こんな好都合な献立は無い。

それでも年に1~2度、母の機嫌がすこぶる良かったりすると、稀に食卓にコロッケやハムカツが上る日もある。

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とは言え、せいぜいが肉屋で特売の、ジャガイモばかりで挽き肉なんて、ほんの数粒と言ったコロッケや、向こうが透けて見えるほど薄いハムカツが関の山。

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それでも盆と正月が、仲良く連れ立ってやって来たような大騒動だった。

だから半ドンの下校時はいつも、「どうかコロッケかハムカツ付の、アタリの日でありますように」と、ひたすら念じたものだ。

ところでその「半ドン」の由来。

どうやら3つの説があるとか。

1つ目は、江戸時代末期、長崎出島のオランダ人から、日曜休日を意味する蘭語のゾンタークが伝わり、やがて博多ドンタクのドンタクと訛り、半日の休日と言う事で「半ドン」と。

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2つ目は、戦時中正午に撃った午砲が「ドン」と鳴ることから、「半ドン」とした説。

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そして3つ目は、半日休みの土曜の意で「半土」となり、やがてそれが「半ドン」にと、諸説ある。

週休二日が当たり前の、当世を生きる子どもらにゃ、土曜の半ドンを待ち焦がれた、昭和時代の子ども心は分かるまい。

今ほど豊かでも無い分、そこそこの貧しさはどこも皆同じ。

ましてや塾通いに追われる者もなく、土曜の半ドンを誰もが指折り数えたもの。

改めて「土曜の半ドン」の魅力を思い返して見た。

しかし明解な答えは浮かばない。

それは母のオコゲのオジヤだったのか?

それとも、天下晴れての休日、日曜前日と言う、開放感の頂を目前に控えていたせいか?

でもいつも日曜の夕暮れが近付くと、開放感の山頂から一気に転げ落ち、高揚感とは似ても似つかぬ、焦燥感に苛まれたものだ。

「しまったあ!まだ宿題が山ほど残っとったあ」と。

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Gifu Poem「お千代保稲荷」と「昭和懐古奇譚」(2013.1新聞掲載)

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お千代保稲荷のお供物(くもつ)は お狐様の耳をした

(わら)に通した油揚げと 淡い灯りの和蝋燭(ろうそく)

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晦日詣りのご褒美(ほうび)は (なまず)蒲焼(かん)の酒

老いも若きも赤ら顔 ぼくは甘酒(よもぎ)

「大晦日の床屋の行列~坊ちゃん刈りとオカッパ頭」

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「昔は床屋の行列で順番待ち。今じゃ娘の福袋の順番取り。えっ?お宅も。そりゃあお気の毒さま。まあお一ついかがですか?お近付に。どうせ私らにゃ、大晦日も新年も関係無し。開店まで毛布に包まって並んどらなかんのやし」。

大晦日、閉店直後のデパート。

軒下には早くも、初売りの福袋を狙う老若男女が陣を張る。

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こんな光景を目にすると、子どもの頃の大晦日を思い出す。

「今日は大掃除に御節の準備と大わらわや。あんたの相手する暇なんてない。邪魔せんと床屋でも行って、頭綺麗に刈ってもらっといで」。

なぜか大晦日の朝になると、必ず決まってそう言われた。

間違っても30日や29日に、前倒しされたことはない。

毎年大晦日の朝が来ると、決まってそんな言葉で追い払われる。

となれば、さすがに大晦日の妙な法則にも気付き、ついつい疑念も生じる。

「ぼくだけ追い払い、お父ちゃんとお母ちゃんの二人して、何ぞ美味い物でも食べとるんと違うやろか」と。

そんな猜疑心を打ち消せぬまま、床屋代を握り締め町外れの床屋へと向かう。

すると既に何十人と、子どもたちが男女入り乱れ、店の外まで列をなして並んでいるではないか!

誰もが木製の丸椅子に所在なく座り、寒風吹きっさらしの路上に並び、擦り切れた漫画本に見入っている。

開店間もない早朝ですらこの状態だ。

そうこうする内に、ぼくの後ろにも新たな列が出来始めた。

遠目越しにガラス窓から、店内の様子を窺って見る。

すると床屋のオッチャンとオバチャンは、夫婦喧嘩でもしたように、終始不機嫌そうな仏頂面。

口も利かず黙々と鋏を振う。

すると次から次へと、まるでベルトコンベアーで運び出される、粗悪な量産品さながらに、坊ちゃん刈りとオカッパ頭に仕上げられた男女が、吐き出されて来る。

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坊ちゃん刈りもオカッパ頭も、前髪は共に眉の上1~2cmの所で、横に真っ直ぐ切り揃えられ、後頭部はバリカンが宛てられた刈り上げ。

昭和半ばの子どもの髪型と言えば、是も非も無く、男子は坊ちゃん刈り、女子はオカッパ頭と概ね決まっていた。

寒風ふきっ晒しの路上で待つこと3時間。

やっと床屋の玄関先へとたどり着いた。

ところが寒さのせいか、風雲急を告げた尿意に抗いきれず、矢も盾もたまらずトイレへと駆け込んだ。

間一髪の危機を脱し、元の席へと戻って見れば、今度は自分の椅子が見当たらない。

席を立っている隙に、これ幸いとばかりに順に詰められてしまったのだ。

何てこったあ!

おまけにぼくのすぐ後ろだったのは、近所でもすこぶる評判のガキ大将。

「文句あんのか!」とでも言いたげな一瞥をよこす。

ぼくはおめおめと、最後尾へと並び直した。

まるでスゴロクの「振出しに戻れ」状態だ。

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結局家へと帰り付いたのは、西の空へとっぷりと日も傾いだ夕暮れであった。

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Gifu Poem「冬の花火と寒粥」と「昭和懐古奇譚」(2012.12新聞掲載)

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まずは「冬の花火と寒粥」がテーマですので、ぼくの「雪花火」を久しぶりにお聴きいただきたいと思います。

「雪花火」

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雪見格子に(くゆ)る湯煙 盆を浮かべてふたり酒 

髪を束ねた湯浴み姿の 君の(うなじ)に雪が舞う

冬の(みぎり)の雪闇割いて ヒュールルと鳴いて舞い上がる

まるで春待つ雪割草か (りん)として気高い 雪花火

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雪見格子に跳ねる影絵は 君が描きし雪兎

ポッと紅挿す君の頬 まるで一葉(いちよう)の浮世絵か

冬の砌の雪闇突いて ヒュールルと咲いて闇に融ける

まるで春待つ雪割草か 凛として気高い 雪花火

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冬の砌の雪闇割いて ヒュールルと鳴いて舞い上がる

まるで春待つ雪割草か 凛として気高い 雪花火 

以前アップした動画です。
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冬の花火に牡丹雪 紅を(まと)って舞い落ちる

湯船に浮かぶ(たらい)(ざけ) 年も暮れゆく旅の宿

浮かれついでのもう一献 褞袍(どてら)羽織りで酔い覚まし

「湯冷めするわ」と妻が注ぐ 湯の香揺蕩(たゆと)(かん)(かゆ)

「加藤隼戦闘隊の飛行帽?」

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昭和32年生まれのぼくにとって、幼い頃から耳馴染んだ音楽と言えば、軍歌に演歌と相場は決まっていた。

それが戦中派だった両親の、一粒種のぼくに対する情操教育であったとすれば、生まれ育った昭和の時代に、未だ拘わり生きる己が姿にも頷ける。

「あっ、加藤隼戦闘隊だ!」。

ビー玉遊びに講じていると、友の声がした。

♪翼に輝く 日の丸と 胸に描きし赤鷲の 印はわれらが戦闘機♪

と、鼻歌交じりに向こうから、自転車がギーコギーコと、油の切れかかった軋み音を放ちながらやって来る。

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どうにも戦闘機の隼と、丸石のトッチャン自転車とでは、似ても似つかぬ。

飛行機乗りならぬ自転車乗りは、短めの鍔の出た革製の耳あて帽と、水中眼鏡を小振りにしたようなゴーグル姿。

襟にボアのついた紺色ジャンパーに、日本手拭のマフラーを風に靡かせ、作業ズボンに安全靴という出で立ち。

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耳あて帽とゴーグルに隠れ、顔こそわからぬものの、あの調子っぱずれな歌声は、紛れも無く家のお父ちゃんだ。

キキキキキーッ。

虫唾が走るほどの、錆び付いたブレーキ音を響かせ自転車が止まった。

「どや?戦闘機乗りみたいで、格好ええやろ?」。

父はいつになく気取ってゴーグルを外した。

「今日なぁ。帰りしなに八幡様の前を通ったら、古道具屋が店出しとってな。これが目に付いたんや。そしたら店の(もん)が『あんたはん目が高い!これぞまさしく、ホンマモンの加藤隼戦闘隊の飛行帽やで』って。そいでもって、『もう今日は店仕舞いやで、今こうてくれるなら目一杯まけとくわ』って言うやないか。今日は給料(もろ)たばっかやし…」。

父は子どもたちの羨望の眼差しにご満悦。

飛行帽の耳あてを下ろして顎の下で止め、ゴーグルを掛け自転車に跨った。

♪印はわれらが戦闘機♪

またしても調子っ外れな鼻歌と共に、軍手に包まれた右手で、子どもたちへ敬礼まで送る念の入れよう。

「ちょっと、あんたあ!いつまでそんなとこで油売っとんの!はよ給料袋持ってこんと、晩のおかずも買いに行けんやないの」と、調子っぱずれな歌を聞きつけたのか、玄関先では母が仁王立ち。

すごすごと自転車を押し帰る父を、手ぐすね引いて待ち構えているではないか。

「なんやのこれっ!給料袋の封が切ったるやない!ああっ!」。

母は見慣れぬ飛行帽にゴーグルと、口の開いた給料袋を交互に見やった。

「すまんな。でもこれ、ホンマモンの加藤隼戦闘隊のもんで、値打にしたる言うもんで…」と、父は恐る恐る母に飛行帽を差し出した。

「どこがホンマモンや!これ見てみい!」。

母は飛行帽の裏側のタグを指さした。

そこにはあろうはずも無い、アルファベットが並んでいるではないか。

「こんなもん、どうせ進駐軍の置き土産に決まっとるわ!」と、憤怒の母を前に父は、さっきまでの威勢はどこへやらすっかり形無しだった。

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Gifu Poem「ひんここ祭りと五平餅」と「昭和懐古奇譚」(2012.11新聞掲載)

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美濃路彩るモミジ()が 長良の川に紅を引き

ヒンココチャイココチャイチャイホイ 五穀の神も舞い降りる

天王山(てんのうざん)(ふもと)では 実りを祝う声弾む

子らは手に手に串刺し団子 大矢田(おやだ)の秋の五平餅

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「木製万能書見台」

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「おっ?早起きして、寝床で本読んどったんか?どれどれ、どんな本読んどったんや?………?何やこれっ!小学生の癖して朝っぱらから、エロ本広げて女の裸眺めとるとは何事や!」。

運の悪い日には、間の悪いことが絶妙に連鎖し、思わぬ増幅効果をもたらすから堪らない。

「まあかん。今夜お父ちゃんが帰ったら、どんだけ泣き喚こうがたっぷりお灸据えてまうで!えかっ!」。

母は捨て台詞を吐き、襖を力一杯に閉め立てた。

折しもエロ本事件が勃発する1週間前、学校では「読書週間」が始まっていた。

「なぁ、布団の中でも寝たまんま本が読めるっていう、万能書見台買ってよ。ちょうど読書週間やし、寝る寸前まで湯川秀樹とか北里柴三郎の伝記を読んで勉強(・・)したい(・・・)し…」。

親にしたらこの「勉強したい」という言葉は曲者。

少なくとも、鳶が鷹を生むなんぞ、ありはしないとわかっちゃいても、もしかしたら親に似ず、出来がいいのじゃなかろうかと、あらぬ期待を抱いてしまうのだから。

それが証拠に両親は、近所でも新し物好きと名高い、ご隠居の家へと向かい、金属製の最新式と言う書見台を見学。

とは言え、おいそれと買える代物では無い。

そこら辺の端材を使って、父が見よう見真似で拵える手筈となった。

「どや?父ちゃん手製の木製書見台は?さあはよ、布団に入って本を宛がってみ」。

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なんだか熱でも出して寝込んだ時に、枕元から吊り下げられた氷嚢釣りさながらの、奇怪な形をした書見台が、仰臥した顔の前に立ちはだかる。

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寝ぼけ眼で飛び起きようものなら、頑丈極まりない無骨な書見台に、顔面を打ち付けるのは必至。

それでもともかく嬉しかった。

その週末。

三重の田舎から、8つ年上の従兄が泊りにやって来た。

来春就職予定の会社の寮を訪ねるとかで。

従兄を本物の兄と慕っていただけに、ぼくはすっかり有頂天。

ちょっと大人びたお(にぃ)の、四方山話や与太話に付き合うだけで、背伸びでもして大人の世界を覗き見る気がしたものだ。

「お前、平凡パンチって見たことないやろ?そりゃあもう、むしゃぶりつきたなるよな、別嬪のネェチャンの裸が仰山出とるんやさ」と、お兄は旅行鞄をガサゴソ(まさぐ)りながら、思わせぶりにぼくを見詰めた。

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当時小学3年のぼくにも、お兄の言わんとすることが、薄ぼんやりと分かる気がした。

その夜、ぼくの煎餅布団の横に客布団を敷き、お兄が休むことに。

するとお兄が「その書見台ええなあ?ちょっと布団代わってくれへんか?」と。

もう一刻の猶予もないほど睡魔に襲われていたぼくは、お兄に乞われるまま客布団で玉砕。

朝方目を覚ますと、お兄はトイレへ向かったのか、ぼくの布団はもぬけの殻。

寝ぼけ眼のまま所在なく立ち尽くしていたところへ、母が押し入って来たと言うわけだ。

どうせ濡れ衣を着せられ、こっぴどく叱られるんだったら、お兄がトイレに立った隙に、馨しい禁断の女体とやらを、この目に焼き付けておくんだったと、幼いながらそう悔やんだものだ。

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Gifu Poem「きのこ列車」と「昭和懐古奇譚」(2012.10新聞掲載)

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見渡す限り黄金色 山間(やまあい)抜けてゆるり旅

秋もたけなわ桃源郷 きのこ尽くしにコップ酒

きのこ列車の(うたげ)なら いっそ揺られて明智まで

道案内は(あき)(あかね) ハイカラ気取り(そぞ)ろ行く

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「希釈用リンス」

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「ちょっと、あんたでしょうが!お母ちゃんが大事にしとる、余所行き用のリンス勝手に使ってまったの!お母ちゃんはあとどんだけ残っとるか、マジックで容器に線引いとるで、誰かが使えば直ぐに分かるんや。それにお父ちゃんは、未だに体洗う固形石鹸で髪洗っとるんやで、犯人はあんたしかおれへん。まあそれにしても、そんな短い髪の毬栗頭に、何でリンスなんぞしなかん?色気付いとったらかんでっ!」。

母から一方的に捲し立てられ、もはや弁解の余地もない。

中学に上がったばかりの年のこと。

男女数人の同級生と、自転車で近くの公園へピクニックに出かけようとした矢先に、幸先よく?母のメガトン級の雷がさく裂した。

その後は現場検証と称し風呂場へ。

洗面器にどれだけの量のリンスを入れ、どれくらいのお湯で希釈したのか、ネチネチとした事情聴取が続いた。

先日、知人と昭和の昔話で大いに盛り上がった。

すると「いつからリンスは、お湯で薄めなくなったのか?」と大いなる疑問が浮上。

昭和40年代半ばの頃は、リンスと言えば洗面器にキャップ一杯ほどの原液を注ぎ、それを一杯のお湯で希釈し、その中へと頭を突っ込むようにして、しばらく髪を浸したものだ。

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ならば今のように、直接髪の毛に塗り伸ばすリンスは、いったい何時頃から普及し始めたのだろう?

そもそも物の本によれば、江戸時代なんぞはせいぜい月に1回、卵白や灰汁(あく)、お茶や椿油などで髪を洗ったとか。

やがて文明開化の明治に入り、「髪洗い粉」の名で、火山灰や竃の灰に粘土や白土を混ぜたものが売られたという。

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そして明治も10年以降になり、やっと「粉石けん」が洗髪に用いられたとある。

シャンプーという呼び名が、初めて登場するのは昭和元年。

「植物性シャンプー~モダン髪洗粉」がそれだ。

今度はその4年後、ライオン油脂が「すみだ髪あらひ」を発売。

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これが日本初となる、液体シャンプーで、一瓶130g入りの約10回分。

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リンスという言葉が登場するのは、昭和39年の東京五輪以降とあるが、まだまだ庶民には手の届かぬ高嶺の花。

やがて庶民の間に普及するきっかけとなったのは、昭和45年のエメロン・クリームリンス~日本縦断ふりむき娘のCM、ハニー・ナイツの「ふりむかないで」の大ヒットからだ。

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だが当時のリンスはまだ希釈用。

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現在の直接髪に塗るリンスの登場までには、あと5年ほど時代を下らねばならなかった。

♪ふりむかないで金沢の人♪と、ハニー・ナイツの甘い歌声がTVから流れ出すと、たとえ何をしている最中であろうが、一目散にTVの前へと駆け参じ、ブラウン管を食い入るように見詰めたものだ。

そしてナレーターの「ちょっと振り向いてくれませんか?」の声に続き、黒髪の美女が振り向くその姿を、瞬きもせずただただ見惚れていたものである。

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全国津々浦々の黒髪美女の中、ぼくはなぜだか金沢の人に一番心がときめいた。

ちょうど思春期の真っただ中。

街で後姿の黒髪美人を見つけると、つい後をついて行きたくなる衝動に駆られたものだ。

鼻の穴をヒクヒクとさせながら。

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Gifu Poem「ぎふ清流国体と鮎菓子」と「昭和懐古奇譚」(2012.09新聞掲載)

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いただきものの鮎菓子を ちょいとくすねて駆け出して

トーチのように捧げ持ちゃ まるで気分は(きょ)()ランナー

沿道埋めた人だかり 日の丸揺れて有頂天

どーも不思議と振り返りゃ 迫り来る来る絆の灯

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「大判メンコ」

「おおっ、とうとう出たか!大判の沢村栄治」。

子どもの頃の、メンコ勝負の大一番。

戦前の巨人軍。

永久欠番となった背番号14を背負い、マウンドで大きく振り被る、大投手沢村栄治の雄姿が描かれた大判のメンコだ。

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誰もが喉から手が出るほどの一枚。

近所でもその一枚を持っていたのは、たったの一人きり。

だから彼がいつでも標的に。

手持ちのメンコが無くなれば、彼は仕方なく最後の切り札に、沢村の大判メンコで参戦する。

だがさすがに名うての大判。

地べたに軽く叩きつけるだけで、団扇で仰いだようにヘナチョコメンコが、あっという間に2~3枚も捲れ返る始末。

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とは言え、昭和半ば生まれのぼくらが、戦前の沢村を実際に知るはずもない。

ぼくらにとってのヒーローは、王・長島が相場。

しかし伝説の剛速球投手沢村栄治だけは、皆親から聞かされていたのか、ぼくらの世代にも君臨し続けていた。

以前取材で、三重県伊勢市にある沢村栄治の墓前を詣でた。

一際異彩を放つ、硬球ボールを模った墓石。

そこには、彼が命がけで背負い通した背番号の14と、巨人軍のGが刻まれていた。

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この時初めて沢村が伊勢出身と知り、子どもの頃の虚像は一気に等身大に。

中・高と沢村の球を捕り続けた女房役、捕手の故山口千万石さんの妻と息子を訪ねたのだ。

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話が進むうちに、愚かな戦争に翻弄され続け、27歳の若さで散った沢村の数奇な運命を知ることとなった。

沢村栄治は大正6年、宇治山田市(現、伊勢市)生まれ。

京都商業を経て、プロ野球チーム「大日本東京野球倶楽部」(後の東京巨人軍、現・読売ジャイアンツ)に入団。

昭和11年から8年のプロ野球人生で、3度ものノーヒットノーランを達成。

しかし戦局は日増しに悪化。

3度も赤紙が舞い込み戦地へ。

球場の観客を沸かせた白球を、忌まわしい手榴弾に持ち替えて。

沢村はその強肩とコントロールの良さを買われ、常に敵の最前線へと送り込まれた。

球場の歓喜の声は、いつしか戦地の阿鼻叫喚に。

どんな思いで沢村は、敵陣へと手榴弾を放り続けたのだろう。

手榴弾の投げ過ぎで肩を壊し、戦闘の負傷で2度目の復員後にマウンドへ復帰するものの、既に球威もコントロールも失せていた。

そして昭和19年12月2日、敵地へと向かう輸送船が屋久島沖西方で、米潜水艦に撃沈され還らぬ人に。

わずかたった27歳の生涯だった。

・・・沢村さん。辛かったよね。あなたの類稀な右肩は、人々を歓喜させるものであっても、決して人を哀しみの淵に追いやるものじゃなかったはず。でも天国で今は、ベイ・ブルースやルー・ゲーリックを相手に、自慢の剛速球を唸らせ、きりきり舞いさせてることでしょうね・・・

沢村の墓前に佇むと、思わずそんな言葉が胸に去来した。

またお彼岸にでも足を延ばしてみるとしよう。

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Gifu Poem「カミオカンデと笹巻ようかん」と「昭和懐古奇譚」(2012.08新聞掲載)

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神が()()すか四方の山 隠れ座敷の神岡に

宇宙(そら)の彼方の星便り カミオカンデを(おとの)うた

(さや)けし瀬音山田川 船津(みなと)の軒先に

迎え火燈りゃご先祖も 宇宙(そら)の果てから里帰り

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「水風呂で競泳」

「ピッピッピッピピーッ テイマー バーン!」。

母は何ともいいころかげんに、テレビから聞きかじったものか?ホイットスルのピピーッに続き、「take your marks=位置に付いて用意」がテイマー。

最後にピストル音のバーンと、競泳のスタートの合図を、ぼくにそう教え込んだものだ。

「さあ一斉にスタートしました。東京五輪、競泳100m自由形。あっとここで日本のオカダが、アメリカのショランダーを、頭一つ引き離してリード」。

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ぼくは風呂桶の中で水中眼鏡をかけ、東京五輪の競泳遊びに夢中だった。

母に教わったへなちょこ英語で、スタートの合図を真似、風呂桶の中を泳ぎ周りながら、実況中継のアナウンサーまで、一人三役をこなしたものだ。

しかし我が家の風呂桶は、大邸宅の大きなバスタブとは異なり、ほんの一掻きでもしようものなら、たちまち風呂桶の縁にぶち当たってしまう。

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それでも真夏の水風呂遊びは、最高に愉しかった。

東京オリンピックが開催されたのは、昭和39年。

ぼくは小学1年生だった。

では何故、記憶も曖昧な年端も行かぬ小学1年生が、その年のオリンピックのことを覚えているのか。

それは取りも直さず、母の影響に他ならない。

ことあるたびに母は、東京五輪の競泳で4つの金メダルを獲得し、3つの世界新記録という快挙を打ち立てた、アメリカのドン・ショランダーをこき下ろしたものだ。

「まあ許せん!ヤンキー野郎が、金メダルを根こそぎ持ち帰ってまって!」と。

敗戦の辛苦を味わった母にすれば、未だ憎っくき鬼畜米英そのものだったのだろう。

当時の我が家は、二軒棟続きの市営住宅住まい。

6畳と4畳半の二部屋に、小さなお勝手場だけ。

それでもちっぽけな庭が付いていたから、どこの家も勝手に子ども部屋を増築したり風呂場を設けたり。

我が家もその口で、父が斜向(はすむ)かいのご隠居や、釣り仲間の手を借り、日曜大工でせっせと風呂場を作り上げた。

内風呂が完成したばかりの、夏休みのある日。

母が買い物に出かける際、「お風呂に水張っといてよ」と、言いつけられたのをこれ幸いに、さっそく水中眼鏡をかけて東京五輪の競泳遊びに興じる。

ところがしばらくすると、釣竿を片手に父が汗だくで帰って来た。

「おおっ、わしもひとっ風呂浴びるとするか」と、洗面器で掛け湯ならぬ掛け水を威勢よく浴びた!

「おおっ!冷たっ!」。

ぼくはてっきり叱られるかと身構えた。

「おっ、冷やっこてなかなかええもんや」と、父は満更でもなさそう。

それから二人で素潜りの長さを競ったり、両手で飛ばす水鉄砲を教わったり。

しばらくすると母が買い物から帰って来た。

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「なんやの。あんたら水風呂で盛り上がって。それやったらついでに、これも冷やしといて」と、スイカを一玉投げ入れたから始末に負えやしない。

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Gifu Poem「子ども踊りと冷や酒」と「昭和懐古奇譚」(2012.07新聞掲載)

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宮ケ瀬橋のぼんぼりに 浮かぶお転婆娘(てんばむすめ)たち

浴衣姿で髪を結う 郡上小町か夏の駒

軒の床几で酒を()し 子ども踊りの輪を追うも

いずれが菖蒲(あやめ)杜若(かきつばた) 我が()見紛(みまご)う可憐さに

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「パッカンとブリキの一斗缶」

「パッカン(ポン菓子)屋のオッチャンが来たぞ~っ」と、近所の子どもたちが口々に触れ回り、一目散に駆け出してゆく。

するともう、居ても立っても居られない。

パッカン屋と呼ばれたオッチャンは、リヤカーに大砲みたいな真っ黒のパッカン製造機を積み、自転車を転がし月に一度の割で、近所の公園へとやって来たものだ。

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すると母も心得たもので、笊に入れた生米と一斗缶を差し出し、10円玉を握らせ遅れを取るなとばかりにぼくを急き立てた。

今ほど物が溢れ返っていなかった昭和の半ば。

パッカン屋は、生米と10円玉を一つだけ持参すると、子ども騙しではありながらも、忽ち見事な駄菓子へと早変わりさせた。

しかも母親にすればこれまた幸い。

なぜなら、家事の邪魔ばかりして手を焼かせる子らが、パッカン屋のオッチャンの一挙手一投足に見入り、耳を劈くほどの爆発音がするのを、今か今かと固唾を飲んで待ち構えているのだから。

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たったの10円玉一枚で、厄介な子ども払いまで出来、おまけに子らの面倒まで一手に引き受けてくれるとありゃ、まさに願ったり叶ったり。

だからして公園の片隅で店開きをするパッカン屋は、腕白坊主やお転婆娘たちでいつもテンヤワンヤの大賑わいだった。

「さあ皆、耳塞ぎや!」。

オッチャンの合図で、一斉に両の人差し指を耳の穴へと突っ込み、恐る恐る大砲を見つめる。

すると「ボンッ」と大砲が大きく唸り、ボワッンと真っ白な蒸気が吹き上がった。

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大砲の筒先に取り付けられた金網には、数倍の大きさに膨れ上がった生米がビッシリ。

オッチャンが慣れた手つきで、飛び散らかった米粒を掻き集める。

そして浅い木箱に平ったく慣らし、薄汚れた刷毛で水飴をペタリペタリと塗ったくる。

仕上げに上から青海苔をパラパラっと振り掛け、包丁で手ごろな大きさに切り分ければ完成。

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後は子どもたちが持参した空の一斗缶の中へと、手荒く放り込めば一丁上がりだ。

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それにしてもなぜ「パッカン屋」なのか?

そもそも大砲が唸りを上げる爆発音は、「パッカン」にしろ、ポン菓子の「ポン」にしろ、とてもそうは聞こえない。

むしろ「ボンッ」の方がまだ幾分近い。

それゆえ「パッカン」の語源が、爆発音とは思いも寄らなかった。

てっきりぼくは、米菓子を入れる一斗缶を、「パッ缶」と呼ぶんだと勝手に思い込んでいたぼどだ。

どの家の子も一様に、まるで申し合わせでもしたかのように、持ち寄ったあの上蓋付の一斗缶。

思えば様々な代用品としての用途があった。

焚火の窯やら、ちょいとした腰掛け代わりに。

また時には、一斗缶を棒っきれで叩き慣らし、野犬を追っ払ったりと。

一斗缶は昭和半ばの時代、何かにつけ実に重宝したものである。

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Gifu Poem「鮎の一夜干し 岐阜大仏」と「昭和懐古奇譚」(2012.06新聞掲載)

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梅雨の晴れ間を待ちかねて 鮎を開いて一夜干し

軒の(あみ)(かご)眺めやり 宵も来ぬのに(から)手酌(てじゃく)

炭火で(あぶ)りゃ薫り立つ 長良の鮎の香ばしさ

さすがに籠の大仏も こりゃ堪らぬと南無阿弥陀

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「柳行李と総入れ歯」

「あんたの夏もんは、押入れの柳行李(やなぎごうり)の中やて。行李の横の名札入れに、父ってマジックインキ(インクではなく、母はこの世を去るまでインキと、頑なにそう呼び続けた)で書いたるわ」。

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梅雨入り前の衣替え。

日曜の朝から部屋中に、樟脳(しょうのう)の臭いが立ち込めた。

飴色に焼けた年代物の柳行李は、丈夫で通気性が良い。

湿気の多いこの国の風土に適した、高級桐箪笥にも劣らぬ傑作。

しかし高度経済成長と共に、庶民の暮らしにも、安っぽいデコラ張りの洋服箪笥や、プラスチック製の収納ケースが蔓延(はびこ)り、柳行李は姿を消した。

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「うわぁぁぁ~っ!」。

突然、父の腑抜けた声がした。

押入れから柳行李が引きずり出され、上蓋は開いたまま。

その傍らで父が尻餅を付いている。

「ちょっと!なに大声張り上げとるの!」。

何事かと訝る母と行李の中を覗き込んだ。

すると肝油のブリキ缶の蓋が開き、中からガッと口を開いた総入れ歯が、転がり出ているではないか。

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この事件より遡ること半年。

父が病で入院し母が付き添うことに。

ぼく一人を家に置いてはおけぬと、母方の祖母がやって来た。

一尺(約30センチ)四方の、小振りな持ち運び用の柳行李を抱えて。

祖母との生活は、2週間ほど続いた。

待ち焦がれた父の退院の夜。

看病疲れで台所に立つ気力も無いと、渋ちんの母にしちゃあ滅法贅沢な、寿司屋の出前で快気祝い。

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やがて祖母と母の二人は、お銚子を空にしすっかり赤ら顔。

病み上がりの父は、そそくさと寝床へと引き上げた。

しばらくすると、座敷でごろ寝の祖母と母が、高鼾合戦を開始。

起き出す気配も無いので、ぼくは仕方無く鮨桶を片付け始めた。

すると空の湯呑みに祖母の総入れ歯が。

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実に習慣とは恐ろしい。

酔っ払っても寝入る前に、誤飲せぬ様入れ歯を外したのだ。

ぼくは祖母の褒美を当て擦り、入れ歯を洗い肝油の空き缶に入れ、ご丁寧に祖母の行李の中へと片付けた。

そこへ祖母と同居する叔父が、迎えにやって来たのだ。

叔父は祖母の荷物を行李にまとめ込み、酔っぱらった祖母を抱きかかえるようにして車に乗せた。

祖母が帰ると行李のあった場所に、肝油の缶だけがポツン。

「しまった!」。

しかし、時既に遅し。

このままでは、入れ歯の行方を巡り有らぬ疑いが向けられる。

そう瞬時に判断したぼくは、母を起こさぬようそっと押入れを開け、父の行李の中へと肝油の缶を隠したのだ。

翌日叔父から、入れ歯を忘れてないかと連絡が。

しかし母は寝入っていたため、一連の事情も知らず、入れ歯の行方は杳(よう)として知れぬまま、やがてうやむやとなりお宮入り。

ぼくは大事に至らずこれ幸いとばかりに、すっかり後の始末も怠ったまま半年が過ぎた。

そこへもって、寝耳に水の衣替えである。

ついに動かぬ証拠を衝き付けられ、ぼくはもう何の申し開きも出来ず、ありがたく拳骨を頂戴する以外、成す術も無かった。

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長良川母情⑳最終話(2009.8月新聞掲載)

毎朝すれ違う小学生。

うなだれ気味にランドセルを背負い、重そうな足取りで行く。

だが今朝はいつもと違う。

バックパックを軽々と背負い、足並みも軽快そのもの。

満面に笑みさえ浮かべ。

「そうか!」。

見上げれば雲一つない秋晴れ。

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絶好の遠足日和だ。

「お父ちゃんの弁当箱借りて、ご飯におかずと果物も詰めたるで、残さんように食べるんやで」。

小学4年の遠足の朝。

母は新聞紙に包んだ弁当箱を、ナップザックの中へと仕舞い込んだ。

目的地は歩いて片道2時間の、隣り町にある大きな観音様。

だが、誰一人ブツクサ言ったり、弱音を吐く者はいない。

なぜなら、最大の楽しみである弁当の時間が待っているからだ。

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誰もがそんな幻想に魅入られ先を急ぐ。

それもそのはず。

弁当の持参は、運動会に遠足と決まっていたから、もうそれだけで立派な一大事件なのだ。

軽快な足取りで、11時頃には目的地に到着。

「昼まで自由時間!」。

教師の声と同時に、境内の外れにある林へと駆け込み、枝を拾ってさっそくチャンバラゴッコ。

ナップザックを背負ったまま、斬って斬られてスッテンコロリン。

「さあ皆、昼にするぞ!」。

皆、教師の掛け声に歓喜の声を上げ、ぼくも弁当箱を取り出した。

「………」。

何と包み紙の新聞紙がベトベト。

水筒のお茶でもこぼれたかと、鼻を近づければ煮汁の匂い。

アルミニウム製の弁当箱を開けてビックリ。

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当時、汁物を入れるような密閉容器は、それ自体がかなりいい加減な物で、おまけに使い込んだせいか、肝心のゴムパッキンも緩々(ゆるゆる)に伸びきっていた。

だから密閉容器に入っていたはずの、筑前煮のレンコンや人参がご飯の上に溢れ返り、その(はざま)にケチャップを掛けたマルシンハンバーグ、そして真っ赤な蛸足ウィンナーや、デザートのウサギリンゴまでが、煮汁でツユダクの状態の中に浮かんでいるではないか。

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何とも例えようのない、不思議な味の弁当。

だが残すわけには行かない。

残して母の逆鱗に触れるよりはましと、不思議な見た目と味の弁当に、ぼくは勇敢にも立ち向かったものだ。

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「羽島はやっぱりレンコン。筑前煮や酢レンコン。これから一番美味しい時期やでねぇ」。

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羽島市竹鼻町のれんこん料理の竹扇、女将の馬場修子さん(63)は、名物のれんこん蒲焼き丼を差し出した。

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「すりおろしたレンコン揚げて、タレ付けて焼いたるんやで体にええよ」。

同町生まれの修子さんは、23歳で(ふみ)(ちか)さん(65)と結ばれ一男一女が誕生。

そして結婚から10年を迎えようとした時だった。

「会社員だった主人が、一ヶ月ほど食も細って元気がなく、どこか悪いんかと。そしたら脱サラして店出したいんやと。そんなことやったら何とでもなるわ、どうせ貧乏育ちなんやでって。主人の背中押したったんやわ」。

それからはや30年。

「毎日大変やったけど、店始めて良かったわ。周りの皆に支えられて楽しいし。やっぱりレンコンの産地やで、先が見通せたんやろか?」。

修子さんは泥まみれのレンコンを、望遠鏡のように掲げ持ち、穴の向こうを覗き見ながら大笑い。

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笑う門には福来る!

明日からは、別のシリーズをお届けいたします。

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