「昭和懐古奇譚~爪に火を点したバースデーケーキ」(2014.11新聞掲載)

「爪に火を点したバースデーケーキ」

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11月の誕生日が近付くと思い出す。

それはもはや、昭和のスイーツ遺産とも呼ぶべき、バタークリームこってりのバースデーケーキ。

それと歳の数を表わす蝋燭だ。

胃もたれしそうなほどこってりとしたバタークリームが、パサパサのスポンジケーキを覆い、葡萄やさくらんぼを真似た、ゼリーのような砂糖菓子のような、得体の知れぬ妙に甘ったるい物が乗っかり、小粒の仁丹に似た銀色の丸いチョコレートが散りばめられていた。

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それでも誕生日とクリスマスにしか、トントお目に掛かれない、貴重で尚且つ高価なケーキだった。

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「主人の勤めとった工場が潰れて、今は職安通いの日々。有り余るほど蔵に金が唸っとりゃええが。毎日爪に火を灯しながら、今日をやっと生きとるんやで堪忍してな」。

ある夜の事。

トイレに立とうと寝床から起き出すと、玄関から襖越しに薄明かりが漏れ、母と聞き覚えのない物売りらしき男の声がした。

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耳を澄ませていると、『爪に火を灯しながら…』と、母の声が耳を衝いた。

なぜならその夜、ぼくの誕生日のケーキのことで、「今年はなあ。お父ちゃんの工場が潰れたもんで、ケーキはいつもの年よりちょっと小さくなるけど我慢してな」と、母がいつになく情けなさそうに小声で耳打ちしていたからだ。

―ええっそんな!ってことは、ケーキが小さくなるのはともかく、蝋燭も買えないから、お母ちゃんが『爪に火を灯す』ってこと?―

子どもながらに、わが家の家計のピンチを、うっすら悟った。

斯くなる上は!

「お母ちゃん、ぼく明日から朝5時起きして、町内をマラソンするからちゃんと起してね!」。

「5時なんてあんた、まだ真っ暗じゃない!」。

「大丈夫だって!裏の純くん家のオジチャンも一緒だし」。

「……」。

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裏の純くん家とは牛乳屋さん。

だからぼくはオジチャンの運転する軽トラの荷台に乗り込み、牛乳を玄関先の牛乳箱に入れ、空瓶を回収するバイトの真似事を頼み込んだのだ。

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とは言えバイト料なんて、小学生だからとすっかり足元を見られ、小銭稼ぎ程度のもの。

でも毎日頑張れば、お母ちゃんが「爪に火を灯さなくても済む!」と。

「お誕生日おめでとう!さあ、蝋燭の火を吹き消して!」。

小さなバースデーケーキの上には、ちゃんと9本の蝋燭が灯されていた。

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「こんなこと、しなくたってよかったのに」。

お母ちゃんが不意に泣き出した。

牛乳屋のオジチャンから毎日受け取った、小銭の入った紙袋を握り締めながら。

「だって、お母ちゃんが爪に火を灯すって言ってたから!」。

すると母は「爪に火を灯すってのは、昔々の例え話。貧しくって行燈の油を買うお金も無いから、爪に火を灯さなきゃならないって言う。まさかこんな時代に、そんなことする人なんているわけないじゃない!お馬鹿だねぇ、本当にこの子は」と、母は泣き笑いのままぼくを力強く抱きしめた。

抱きしめられた瞬間、フワッと薫った母の甘い匂いを、ぼくはきっと死ぬまで覚えている事だろう。

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「昭和懐古奇譚~万能ちり紙は徳用便所紙」(2014.10新聞掲載)

「万能ちり紙は徳用便所紙」

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「ハンカチとちり紙、持った?」。

それが毎朝ぼくを学校へと送り出す、母の「行ってらっしゃい」代わりの台詞だった。

ちり紙とは、昭和半ばまでの、粗悪品のトイレットペーパー兼鼻紙。

時には近所のオバチャンたちが、お駄賃代わりの飴やあられなどを包む、懐紙代わりにも用いられたものだ。

その名も別名「便所紙」。

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やや灰色がかったガサガサした紙で、往復はがきを開いたほどの大きさ。

何百枚かのちり紙が重ねられ、それが紙のテープで縛られているだけで剥き身のまま。

おまけに新聞紙などの古紙再生品であり、製造過程で古紙が溶けきらず、新聞紙の切れっ端しがそのまま漉かれていた。

だからボットン便所にしゃがみ、便意が催すのを待つ間、その新聞の切れっ端しを拾い読みし、どんなニュースなのやらと想像を巡らせたものだ。

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それと果たして因果関係があるのか無いかは分からぬ。

しかし子どもの頃から本屋に入ると、なぜか必ず便意を催してしまう。

だからお目当ての本も見付けらず、スタコラサッサと家へ飛んで帰り、何度便所に駆け込んだやら。

しかもそれは大人になった今でも続く。

ある時その不快な現象は、ぼくだけかと訝しく思い、周りの者に尋ねてみた。

すると驚くなかれ。

同年代以上の者には、同様の体験を持つ者が結構いるではないか!

そこでぼくはピンと来た。

新聞紙の切れっ端しがそのまま漉き上げられていた、粗悪なちり紙の放つ、あの独特なインクの匂いが、便意を促させいたに相違ないと。

しかしぼくの探究心はそこまで。

未だ解明など出来てはいない。

と言うよりも、その難問を解明したところで、どれだけ人類に貢献出来るかと問われれば、無論ips細胞の比で無いことくらい自ずと察しが付く。

毎朝母がポケットにねじ込む、四つ折りのちり紙。

ある日、隣の席の女子から「ねぇ、鼻紙持ってる?」と尋ねられた。

どうやら朝から鼻風邪のようで、自分の鼻紙を使い果たしてしまったとか。

「うん、ちょっと待って」。

ぼくは慌ててポケットからちり紙を差し出す。

すると「嫌だあ、何これ!便所紙やない!こんな汚らしい物で、洟をかめって言う訳?」と、彼女は人の親切を仇にした。

まあ確かに、女子が愛用する鼻紙は、白くて薄い和紙のような紙に花柄が描かれ、ほんのり淡い香りのする気品のあるものだ。

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それに引き替え、母が特売品を漁った徳用の便所紙では、そもそも端から歯の立つ相手ではなかった。

「ちょっと!何しとるの、だらしない!これで拭いときなさい」。

父の病床で付っきりの看病をする母と、カップ麺で夕餉を取っていた時だ。

ぼくの口元に垂れた出汁を見咎め、何でも詰め込まれたバッグから、母がちり紙を取り出した。

それは紛れも無い、子どもの頃から使い慣れた、灰色の便所紙ではないか!

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しかし母の好意を無にすることも憚られ、それで口を拭った。

たちまち若き日の両親と過ごした、20年も前のあの噎せ返る香りがした。

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「昭和懐古奇譚~台風銀座に、台風一家?って」(2014.9新聞掲載)

「台風銀座に、台風一家?って」

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夏休みも終わり二百十日が過ぎると、「台風銀座」や「台風一家?」などと、大人たちの交わすそんな言葉に恐れを抱いたものだ。

特に伊勢湾台風で、家財を一夜にして失った我が家にとって、子どもながらにそんな言葉さえ、忌み嫌っていたのかも知れない。

「ここらあは、台風銀座やであかんわ」とか、「昨日と変わって今日は、台風一家?のええ天気やねぇ」と。

「台風銀座」って?

父が酔って口ずさむ、あの鼻歌の「たそがれの銀座」の銀座のこと?

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でも「ここらあは、台風銀座やであかんわ」と言っていたが、むろんここは東京でも無い。

だが確か駅裏には、「駅西銀座通り」とアーチを掲げる、うらぶれた商店街もあるから、そこのこと?

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ってことは、台風が狙い定めたように「駅西銀座通り」を通過する?

いや、それはまだしも「今日は台風一家?のええ天気や」とは?

台風が過ぎ去ると、前夜の嵐とは一転。

澄み切った空が広がる日本晴れとなることも多い。

「台風一家?」という、ヤクザのならず者を束ねる一家には、暴風雨を伴って荒れ狂う乱暴者もいれば、爽やかな日本晴れの様な穏やかな者もいるのか?

或いは、台風に親兄弟がいるとでも?

山ほど疑問が生じた。

しかしあの忌々しい、伊勢湾台風の記憶を呼び起こしてはならぬと、両親にその真意を問う事も憚られた。

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だから中学生になっても「台風一過」が、「台風一家?」だと、頑なに信じ込んでいたものである。

中学1年の今頃。

夜半に襲来した台風も明け方に過ぎ去り、登校時には「台風一家?」の抜けるような青空が広がっていた。

国語の女性教諭が教壇に立ち「昨夜の台風、皆さんのお宅では、被害がありませんでしたか?それでは今日は、四文字熟語で尻取りをして、順に黒板に書き出してもらいましょう。じゃあまず先生から出題しますね。日本列島は夏から秋にかけ、昨日の様に台風の通り道となりますねぇ。ですから常に台風に備え、被害に遭わないように努めなければなりません。そうした台風や地震などがもたらすものを、自然災害といいます。そこで四文字熟語の尻取りは、まず自然災害の『い』から始めましょう!」。

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先生の話が終わった途端、級長の手が上がった。

そして黒板に「異端分子」と書き上げ「『い』から始まる『異端分子』。意味は、正統から外れている人のことです。次は『分子』の『し』」と、得意満面。

すると今度は、副級長が続いた。

「『し』は、『自然淘汰』。意味は、自然環境に適応する生物は生き残り、そうでないものは生き残れない現象の事です。続いては『淘汰』の『た』です」。

そこでぼくも負けじと、黒板に向かった。

そして堂々と「台風一家」と書き上げ、「『た』は、『台風一家』。これは、ヤクザのようなならず者の台風を束ねる一家のことです」と。

ぼくは「どうよ!」とばかりに鼻高々。

しかし一瞬にして、教室内に爆笑が広がった。

慌てて黒板を振り返ると、「一家」の文字に赤いチョークで大きなバッテンが描かれ、その横に「一過」と先生が訂正しているではないか!

「聞くは一時の恥。聞かぬは一生の恥」。

母の口癖が、ことさら身に染みた。

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「昭和懐古奇譚~昭和のお祭り男」(2014.8新聞掲載)

「昭和のお祭り男」

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庶民の盆踊りは、人が人を(あや)め合う戦と、その狭間に(おとな)う束の間の平和な一時に開花し続けた。

そして再び戦が始まれば、ひっそり形を潜め、次の平和を待つ他術もなかったことだろう。

ぼくの育った昭和30年代後半は、戦後20年にも満たない時代。

だからついこの前まで、戦地で敵と対峙した元兵士も、娑婆には溢れ返っていた。

人々は拭い去れぬ戦争の惨たらしい記憶を、年に一度の盆踊りで(みそ)いだのやも知れぬ。

ゆえにどの町内も、競い合うように櫓を組み、町中上げてのお祭り騒ぎとなった。

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その祭りに欠かせぬ立て役者と言えば、言わずと知れた「祭り男」。

いつもは目立たぬ何でもないオッチャンが、この日ばかりは浴衣姿にキリリッと角帯を締め、小粋な踊りっぷりを披露し、周りの者の目を釘付けにする。

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そんな「祭り男」が町内には、必ず一人や二人いたものだ。

近所に子どものない、幸オバチャンと旦那がいた。

旦那は定職も持たず、いつもまっ昼間から赤ら顔。

幸オバチャンは遠くの工場へ自転車で通い、家計の遣り繰りに明け暮れた。

「幸っちゃんも、あんなぐうたら亭主の事なんて打っ(ちゃ)って、もっと他にええ人見つけてやり直したらどや?何なら、ワシが世話したろか?」と、近所の世話焼きオバチャンに囲まれ、幸オバチャンは困り顔を浮かべたものだ。

ある日の事。

「どしたん、幸っちゃん、その顔!またぐうたら亭主が、手でも上げよったんか?」と、近所のオバチャン。

「違うってば。ちょっと自転車で転んだだけよ」と、幸オバチャンは顔を伏せた。

恐らくそんな暴力沙汰も、一度や二度じゃなかったはずだ。

油蝉が鳴き止み、提灯に火が燈る。

ぞろぞろと浴衣姿の老若男女が櫓を囲み、年に一度の盆踊りが幕を上げた。

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するといつものぐうたら振りなど、微塵も感じさせぬ、幸オバチャン家の旦那が、撥に酒飛沫を吹きかけ、颯爽と櫓の上へと駆け上がる。

そして浴衣の片肌を脱ぎ捨て、背中に般若の刺青を背負い、威勢の良い撥捌きを始めた。

「いよーっ!美濃の無法松!日本一!」と、ほろ酔い加減のご隠居たちが声を上げ、踊りの輪も一段と大きく膨れ上がる。

参考資料

「ねぇあれ、幸っちゃんじゃない!」。

「あかんわ、あれじゃあ!あんなうっとりした顔で、亭主の撥捌き眺めてんだから、今更私らがいらん世話焼いても無駄やわ」。

「たとえ一年364日、苦労尽くめでも、このたった一日があれば、それで(あがな)えるってわけか!あー、阿呆らしい!」。

幸せの形は一つきりじゃない。

ましてや幸せは、長さであるはずもない。

人の一生分の幸せは、生まれ出でたその時から、きっと定められているに違いない。

幸せは千差万別。

人の幸せを自分の物差しで、推し量ろうとすることこそおこがましいのだと、この歳になって幸オバチャンの気持ちがやっとわかった。

年に一度のあの粋な撥捌きは、幸オバチャンにとって、365分の364にも劣らぬ、最高に幸せな瞬間だったのだ。

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「昭和懐古奇譚~秋刀魚?ドレス?って」(2014.7新聞掲載)

「秋刀魚?ドレス?って」

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夏休みが近付くと、居ても立ってもいられなかった。

昭和半ばの小学生にとって、一年で一番待ち遠しい季節が訪れるのだから。

しかしそのためには、避けて通ることの出来ない通信簿の開陳。

それと母から頂戴する、有り難いお小言と拳骨の(みそぎ)さえ、何とか乗り切ってしまいさえすれば、ぼくの心は従姉の待つ田舎へまっしぐら。

「ちょっとあんた!ええ秋刀魚ドレス着せてもうて、よう似合(におう)うとるわ」と、従妹の家で昼寝していると、オバチャンたちの声がした。

「秋刀魚?ドレス???」。

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ついぞ耳にしたことのない奇妙な言葉に、野次馬根性がそそられ破れ障子からこっそり覗いた。

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すると従姉がオバチャンたちを前に、アッパッパー姿でファッションモデル顔負けの、大人びた(しな)を作りクルリとおどけて回って見せたではないか!

ええっ?あれが秋刀魚ドレス?

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いかな子どもとは言えど、従姉が得意げに着ている、大きなヒマワリ柄のアッパッパーこそが、秋刀魚ドレスの正体であることくらいは分かる。

しかし何故ヒマワリ柄のアッパッパーが、秋刀魚ドレスなのか?

ますます謎が深まる。

そこへ従姉の友達が現れ、口を揃えたように「可愛い秋刀魚ドレスやなあ」と、口々に誉め千切り出したからもう手に負えない。

あっと言う間の夏休みも終わり、憂鬱な始業式。

隣の席の女子が、真っ黒な日焼けにノースリーブのアッパッパー姿で登校。

「ああっ!良く似合ってるね!その秋刀魚ドレス!」と、ぼく。

きっと彼女も、得意満面になるだろうと、田舎の従姉に教わった台詞を口にしてみた。

すると「はぁ?……。何言ってんの?」と彼女。

「その可愛らしい秋刀魚ドレスのことだって!」。

「何よその秋刀魚ドレスってぇのは?」。

「いや…だから、今着てる服のことだってば!」。

「………あんた、これが塩焼きにするような秋刀魚に見える?これはエンゼルフィッシュって言うの!ちょっとあんた、頭おかしいんじゃないの?」と、彼女は喜ぶどころか、怪訝そのものの表情を浮かべ、露骨に蔑むような眼つきでぼくを睨み付けた。

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「だってそう言うアッパッパーの事を、秋刀魚ドレスって呼ぶんだろ?」とぼく。

「あのねぇ、それも言うなら、秋刀魚ドレスじゃなくって、サマードレスよ!家の近所のお婆ちゃんも、秋刀魚ドレス、秋刀魚ドレスって呼んでるけど、サマーって言えなくって秋刀魚って言ってるのよって、家のお母ちゃんがその度に腹抱えて笑ってるわ!」と。

秋刀魚の季節を目前にしたドレスだから、秋刀魚ドレスと呼ばれるものだと、ぼくの勝手な早合点が招いたとんだ赤っ恥であった。

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「昭和懐古奇譚~ザーマス言葉とバタ臭い顔」(2014.6新聞掲載)

「ザーマス言葉とバタ臭い顔」

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思い返せば昭和半ばには、今じゃ耳にすることもない言葉が罷り通ったものだ。

「まあお宅のお坊ちゃんは、とても賢そうで実に礼儀正しいですこと!」。

「そうザーマスか?お宅のお嬢様こそ、フランス人形のように色白で可愛らしくってよ」ってな感じ。

それも山ノ手の瀟洒な住宅街ならいざ知らず、コテコテの下町での話しだからたまったものじゃない。

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しかもテレビから仕入れた、妙ちくりんな「ザーマス言葉」を使うオバチャンたちは、いずれも下駄ばきに割烹着姿でサザエサンパーマとくりゃあ、もう滑稽を通り越し切なくなるほど。

そこへもって、ボロのズック靴に半ズボンとランニングシャツ姿が「お坊ちゃん」で、オカッパ頭にブルマー姿が「お嬢様」では、もういたたまれたものじゃない。

そんなある日のこと。

近所に町内一の伊達男と評判の、中学生のお兄ちゃんがいた。

「どうしてあのご両親から、あんなにバタ臭いお顔をした、映画俳優みたいないい男が、生まれたんザーマスかしら?」と、オバチャンたちの井戸端会議の声が漏れ聞こえた。

それを小耳にはさんだぼくらは、「バタ臭い顔ってなんやろ?」。

「バタ臭いじゃないって!バッタ臭いを聞き違えたんやて!」。

「じゃあバッタ臭い顔って?」。

「そりゃあ……バッタみたいに、顔がシューッと細長いからやろ?」。

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「じゃあ、そんな顔になったら、ぼくでも映画スターになれるんかなあ?」。

「だったらバッタみたいに、毎日原っぱで草喰わなかんぞ!」。

そんな男坊主どもの他愛ない話に、幼馴染のおませなマーチャンが、傍らから口を挟んで来た。

「おバカやねぇ。バッタ臭いじゃなくって、本当はバター臭い顔って言うの。それを縮めてバタ臭いって、お母さんたちはそう呼んでるの!」と。

「じゃあお兄ちゃんの顔に鼻を近付けたら、バター臭い匂いがするの?」とぼく。

「そんなこと私が知るわけないわよ。だってお母さんたちが話してるのを、こっそり聞いただけだもん」。

「だったらみんなで確かめようよ」。

お兄ちゃん家の前に陣取り、学校帰りを待ち構えた。

話し合いの結果、女のマーチャンの方が、いざと言う時の言い訳もしやすかろうと。

お兄ちゃんの顔の匂いを嗅ぐ大役は、マーチャンに委ねる事に。

玄関先で自転車から降りたお兄ちゃんに、マーチャンが駆け寄った。

「お兄ちゃん、顔に何か付いてる!私が取ってあげるから動かないで!」と。

マーチャンはお兄ちゃんの顔に鼻を近づけ、ヒクヒクヒクヒク。

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「ねぇ!ところでバターって、どんな匂いがするの?」と、真顔でぼくらを振り返った。

確かにバター臭いとは言うものの、そもそもバターの匂い自体をぼくらは知らなかった。

しかしそれにしても、その時のお兄ちゃんの怪訝な表情たるや、未だに忘れられはしない。

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「昭和懐古奇譚~母の日の肩もみ券」(2014.5新聞掲載)

「母の日の肩もみ券」

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物言わぬ遺品は、それ故言葉以上の雄弁さで、心の奥底へと語りかけて来るものだ。

押入れから母が仕舞い込んでいた、錆の浮いた缶箱が現れた。

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中からは藁半紙やメモ用紙代わりのチラシの切れ端から、店名入りの箸袋に、マッチの空箱までがわんさか。

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「何でこんなもの、後生大事に!」。

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「ねぇ、今度の母の日、お母さんに何をプレゼントするの?」。

母の日が一週間後に迫る頃、隣の席の女子からそう問われた。

「うっ、うん。でもぼくお金ないしなぁ」。

「私は真っ赤なカーネーション。お婆ちゃんがこっそり、お小遣いくれたんだ」。

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何てこった!

せめて母の日が過ぎて知ったならまだしも、一週間もあって知らぬ存ぜぬでは男が廃る。

そこでまず、カーネーション1本が一体いくらなのか、花屋で確かめた。

確か50円くらいだったか。

当時ぼくの小遣いは、一日に10円玉1個。

ならばこの先一週間、大好きな一文菓子屋通いを断念すれば手が届く。

しかし子どもにも子どもなりの付き合いがある。

友の誘いを無下には断れぬ。

となれば残る手段は、書道塾の行き帰りをひたすら歩き、バス代を浮かせるしか手立てがない。

あの手この手を講じ、母の日前日には、一本分のカーネーション代を作り出した。

日曜の朝、息せき切って花屋へ向かうと、何と既に前日に売り切れたと!

そんなご無体な。

となれば、50円で買える母の好物に、切り替えるしかない。

公設市場であれこれ思案するも、わずか50円の資金では、選択肢も限られる。

やっと折り合いを付けたのが、団子屋の大判焼き2個だった。

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「はいよ!大判焼き2個50円」と、オッチャン。

ぼくは虎の子の50円玉を支払おうと、ポケットをまさぐった。

しかしどこにも見当たらない。

何とよりによって、ポケットの底に大きな穴が開いているではないか!

あの日の口惜しさがまざまざと蘇った。

「あれっ?この『母の日の肩もみ券』って…もしや!」。

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チラシ広告裏のぎこちない「かたもみけん」の文字。

紛れも無い、小学3年のぼくの筆跡である。

そうだ!

あの日、カーネーションも大判焼きも買えず、苦肉の策で拵えたものだ。

だが「肩もみ券」の裏に、ポチ袋が貼り付けられている。

中には50円玉1個と、母の文字。

「ありがとう。お母さんみんな知ってました。母の日を祝おうと、お金貯めてたことも。でも母の日の朝、慌てて別の半ズボンを履いて駆け出してしまい、前日のズボンのポケットに、この50円玉が入ったままでした。ありがとう。その心だけでお母さんは、誰よりも幸せです」と。

折角の「母の日の肩もみ券」を、母は生涯使う事も無く、こんながらくたばかりの缶の中に、何十年と仕舞い込んでいたのだ。

だがそのがらくたこそが、幼いぼくと共に生きた、母にとっての宝箱だったのかも知れない。

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「昭和懐古奇譚~メリケン粉ってうどん粉?」(2014.4新聞掲載)

「メリケン粉ってうどん粉?」

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昭和半ばの茶の間の洋食と言えば、言わずと知れた「お母ちゃんのカレー」を置いて他にない。

どの家庭にも、それぞれお母ちゃんの味があったはずだ。

わが家がカレーの日は、直ぐに分かった。

だってどう見ても3人家族にゃ手に負えぬ、大きな真鍮色したアルマイトの鍋が、ガスコンロの上でグツグツ煮立っていたのだから。

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それにカレーの日は、(つき)(ずえ)の父の給料日後と相場が決まっていた。

「ちょっとお父ちゃん。ボーッとそんなとこに突っ立っとらんと、メリケン粉取ってまえん」と母。

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「えーっと、このうどん粉のことか?」と父。

母のメリケン粉に対し、父はすかさずうどん粉と切り返す。

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すると母は、カレールーを半分だけ鍋に入れ、ひとしきり掻き混ぜる。

そして今度は、父曰くうどん粉であるところのメリケン粉を、鍋の上から振り掛けるようにして入れ、再び掻き混ぜながら塩を摘み入れ味を調えた。

大人になって分かったのだが、それはカレールーの箱に書かれた、レシピ通りではなく明らかな掟破り。

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本来なら全部入れなければならないカレールーを、母は半分だけにケチり倒し、うどん粉ならぬメリケン粉で水増ししていたという事だ。

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だからわが家のカレーの色は、食堂入口のショーウィンドーで見かける、蝋細工のカレーの深い茶色とは異なり、妙に薄っぺらなレモン色をしていた。

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だが母はそうして、厳しい家計の遣り繰り算段をしていたのだろう。

「いっただきー…」。

手を合わそうとした寸前。

間の悪い事にお向かいのオバチャンが、コロッケのお裾分けを持ってやって来た。

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特に長話で知られるオバチャンである。

すると嫌な予感は見事的中。

皿に盛り付けられたカレーライスを前に、父と二人成す術も無くお預け状態。

どれほどオバチャンの、碌でもない与太話が続いたろうか。

次第にカレーの表面が、波を打ったような状態に固まり始めた。

まるで大きなオブラートで、覆い被せたようにである。

大人になってそれも判明したのだが、カレー粉をケチって小麦粉で水増ししたから、小麦粉がカレー表面を覆う被膜となったのだ。

「ゴメン、ゴメン」と母が、卓袱台に着いた頃には、カレーライスもすっかり冷め、オブラートの幕が張り巡らされ、目も当てられなかった。

メリケン粉とうどん粉、それに小麦粉。

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どれも同じではあっても、ぼくの愛した昭和には、やはりメリケン粉やうどん粉の呼び名の方が、親しみもあり懐古的でお似合だ。

そう言えば、子どもの頃のカレー皿が、今も1枚だけ手元に残っている。

やや深めの大皿で、底に大きなバラの花がいくつも描かれた、大量生産の安売り品だ。

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母の遺品整理の際に、押入れの隅で見つけた代物。

今でも時折、お母ちゃんのカレーを真似、その皿に盛っては見るが、母のあの味には到底及ばない。

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どれだけ母のメリケン粉や父のうどん粉の隠し味を足そうにも、記憶の彼方のお袋の味には、もう二度とたどり着けそうにない。

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「昭和懐古奇譚~ハイカラなスピッツと、白足袋の雑種犬」(2014.3新聞掲載)

「ハイカラなスピッツと、白足袋の雑種犬」

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昭和半ばのあの頃は、ご近所さんらと見比べても、今ほど貧富の差は無かった気がする。

だからかどこの家でも、晩のおかずの煮物を作り過ぎたとか、天ぷらをテンコ盛りに揚げ過ぎたと言っちゃあ、仲の良いご近所中にせっせと配って歩いたもの。

そんな相身互いの精神が根付くと、ご近所のお母ちゃんたちも小狡くなる。

「ねぇあんたとこ、今日煮物?ならうちは炒め物にしとくわ」ってなもんで、互いに交換する献立が被らないよう、ちゃっかり市場で打ち合わすほど。

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しかしそんなお母ちゃんたちの、爪に火を燈す様な遣り繰りが、安月給の世の宿六どもを支えたのだから侮れない。

食べる物や着る物など、基本的な生活水準に大差はなくとも、お母ちゃんたちの年代によって、暮らしぶりは大きく異なる。

中でも鮮明な記憶として残っているのは、飼い犬の種類だ。

当時はまだ、ペットなどとハイカラな呼ばれ方もせず、ましてやペットフードも無い。

ちょっとモダンな若夫婦の家では、スピッツを飼うのが当時のブームだった。

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真っ白な毛並みで、とにかく誰彼かまわず、キャンキャンキャンキャンと鳴き散らした小型犬である。

家の母より4~5歳若く、子どももまだ小さな若夫婦の家では、それこそ猫も杓子もスピッツをこぞって飼ったものだ。

「あらまあ、可愛いわねぇ。お宅もついにスピッツ飼ったの!」と、羨ましげに愛想良く振る舞う母。

しかしその舌の根も乾かぬうちに「まったくあのスピッツと来たら、のべつ幕なしに吠え散らかして、もう五月蠅いったらあれへん!」と、母は手のひらを返したように容赦なかった。

「それに引き替え家のジョンときたら、雑種だけど大人しくってお利口さんだわ。ちょっと白足袋履いとるんだけが、玉に傷やけどな」と、ぼくを相手によく愚痴ったものだ。

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幼いぼくには、母の「白足袋履いとる」が、どうにもこうにも「白カビ掃いとる」と聞こえ、なんとも不思議でならなかった。

「まさかジョンが箒で白カビ掃くなんて出来っこ無い。とすれば、小屋の周りの土にでも白カビが生え、それを後足で蹴り飛ばすのを、白カビを掃くというのだろうか?」と。

そうなると、その現場を一目見なけりゃ気が済まぬ。

学校から一目散に帰ると、玄関脇でこっそり身を隠し、ジョンの生態観察を始めた。

しかし待てど暮らせど、そんな気配も無し。

そうこうしている所へ、お向かいのご隠居がいつものように、煮物の鉢を抱えてやって来た。

するとジョンが匂いに惹かれ、ご隠居の足元にキュ~ンと甘えて纏わり付く。

「お~よしよし。ジョンは本当にお利口さんやなあ」。

「でも白足袋さえ履いとらないいんやけどねぇ」と母。

―出た!また白カビだぁ!―

するとご隠居がジョンを抱き上げ、足の先を手で振りながら「白足袋は日本じゃ忌み嫌われるけど、英国ではホワイト・ソックスって言うて、幸福をもたらす縁起もんやぞ」と。

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忽ち気を良くする母に対し、ぼくの謎は益々深まるばかりだった。

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「昭和懐古奇譚~菜っ葉服?それともドンゴロス??」(2014.2新聞掲載)

「菜っ葉服?それともドンゴロス??」

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昭和も第4コーナーに差しかかる、昭和40年代後半の事。

「ちょっとあんた、そんな色の剥げた菜っ葉服みたいな、みっともないもん着て行かんといて!」。

ギターを抱え出掛けようとした途端、母のいつものお小言が始まった。

それにしても今日のお小言は、どうにも意味不明で尋常ではない。

その日の()で立ちは、なけなしの小遣いでやっと手にした、ダンガリーシャツにジーンズ。

それが何故(なにゆえ)「菜っ葉服?」なのか。

フォークソングクラブの練習だから、それ相応のはずなのに…。

ってか、「これじゃなきゃ、フォークソングっぽく無いジャン!」と、母への反論を思わず呑み込んだ。

なぜなら、万に一つでも口答えしようものなら、それこそぼくの一言に対して十倍返しの口数で、ネチネチ長々と応戦されるのがオチ。

既に学習済みであるから、ぼくの戦意も自ずと喪失。

見ざる、聞かざる、言わざるを信条に、スタコラサッサと玄関を後にした。

すると今度は背後から、「なんやの!そのドンゴロスのずた袋は?まるでルンペン(今なら不適切な言葉だと、お叱りを受けるとしても、昭和半ばには立派に通用していた)みたいやがな!」と、母はまだ戦意を無くしてなどいなかった。

しかもこれまた「ドンゴロスのずた袋」とは?

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ぼくはその日、珈琲豆を輸入する際の、麻袋の生地で仕立て直した巾着袋に、ギターの小物などを入れ、ショルダーバッグのように肩から吊り下げていた。

もっともぼくとしては、アメリカン・ヒッピーを真似た、イケてるファッションのつもりだったのに。

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それをこともあろうに、「ドンゴロスのずた袋」などと、一刀両断に切り捨てるとは。

さて、これまでの(くだり)の中に登場した語に、何一つ疑問を抱くこともなく、一気に読み進められたであろうか?

だとすれば貴方は、もはや押しも押されもせぬ、泣く子も黙る立派な昭和人の鏡である。

なぜならここに登場した「菜っ葉服」に「ドンゴロス」、「ずた袋(頭陀袋(ずだぶくろ)の誤読。僧侶が托鉢に用いた布製の袋。現在は巾着袋同様で、ショルダーバッグに近い)」や「ルンペン」は、平成も四半世紀が過ぎた今、昭和の終焉と共に死語になりそうな、いずれも絶滅危惧種の語だからだ。

参考資料

本来の意味はと言うと、「菜っ葉服」は労働者が着る青色の仕事着。

一方の「ドンゴロス」は、ダンガリー「dungaree」から転じた語で、粗く織った薄茶色の丈夫な麻布。

この麻布の袋に胡椒を入れ、インドから輸出したことから、麻袋までドンゴロスと呼ばれたという。

そして子ども心にも、忌み言葉の様に感じ、その本意を誰にも尋ねられず、勝手に解釈してしまっていた「ルンペン」。

参考資料

これはドイツ語のLumpenそのもので、布切れや襤褸(ぼろ)服を意味し、それをまとってうろつく浮浪者の意味だと辞書にある。

いずれもぼくには、懐かしさの込み上げる、味わい深い言葉だ。

「昭和は遠くなりにけり」。

果たして時代が遠退いたのか?

そうでは無いであろう。

今を生きる私たちが、今の世を生き抜かんと身の丈を合わせ、過去の言葉や道具に風習さえ、自らの手で葬り去って来たからではなかろうか?

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