

宮ケ瀬橋のぼんぼりに 浮かぶお転婆娘たち
浴衣姿で髪を結う 郡上小町か夏の駒
軒の床几で酒を乾し 子ども踊りの輪を追うも
いずれが菖蒲杜若 我が娘も見紛う可憐さに

「パッカンとブリキの一斗缶」
「パッカン(ポン菓子)屋のオッチャンが来たぞ~っ」と、近所の子どもたちが口々に触れ回り、一目散に駆け出してゆく。
するともう、居ても立っても居られない。
パッカン屋と呼ばれたオッチャンは、リヤカーに大砲みたいな真っ黒のパッカン製造機を積み、自転車を転がし月に一度の割で、近所の公園へとやって来たものだ。

すると母も心得たもので、笊に入れた生米と一斗缶を差し出し、10円玉を握らせ遅れを取るなとばかりにぼくを急き立てた。
今ほど物が溢れ返っていなかった昭和の半ば。
パッカン屋は、生米と10円玉を一つだけ持参すると、子ども騙しではありながらも、忽ち見事な駄菓子へと早変わりさせた。
しかも母親にすればこれまた幸い。
なぜなら、家事の邪魔ばかりして手を焼かせる子らが、パッカン屋のオッチャンの一挙手一投足に見入り、耳を劈くほどの爆発音がするのを、今か今かと固唾を飲んで待ち構えているのだから。

たったの10円玉一枚で、厄介な子ども払いまで出来、おまけに子らの面倒まで一手に引き受けてくれるとありゃ、まさに願ったり叶ったり。
だからして公園の片隅で店開きをするパッカン屋は、腕白坊主やお転婆娘たちでいつもテンヤワンヤの大賑わいだった。
「さあ皆、耳塞ぎや!」。
オッチャンの合図で、一斉に両の人差し指を耳の穴へと突っ込み、恐る恐る大砲を見つめる。
すると「ボンッ」と大砲が大きく唸り、ボワッンと真っ白な蒸気が吹き上がった。

大砲の筒先に取り付けられた金網には、数倍の大きさに膨れ上がった生米がビッシリ。
オッチャンが慣れた手つきで、飛び散らかった米粒を掻き集める。
そして浅い木箱に平ったく慣らし、薄汚れた刷毛で水飴をペタリペタリと塗ったくる。
仕上げに上から青海苔をパラパラっと振り掛け、包丁で手ごろな大きさに切り分ければ完成。

後は子どもたちが持参した空の一斗缶の中へと、手荒く放り込めば一丁上がりだ。

それにしてもなぜ「パッカン屋」なのか?
そもそも大砲が唸りを上げる爆発音は、「パッカン」にしろ、ポン菓子の「ポン」にしろ、とてもそうは聞こえない。
むしろ「ボンッ」の方がまだ幾分近い。
それゆえ「パッカン」の語源が、爆発音とは思いも寄らなかった。
てっきりぼくは、米菓子を入れる一斗缶を、「パッ缶」と呼ぶんだと勝手に思い込んでいたぼどだ。
どの家の子も一様に、まるで申し合わせでもしたかのように、持ち寄ったあの上蓋付の一斗缶。
思えば様々な代用品としての用途があった。
焚火の窯やら、ちょいとした腰掛け代わりに。
また時には、一斗缶を棒っきれで叩き慣らし、野犬を追っ払ったりと。
一斗缶は昭和半ばの時代、何かにつけ実に重宝したものである。

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