Gifu Poem「子ども踊りと冷や酒」と「昭和懐古奇譚」(2012.07新聞掲載)

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宮ケ瀬橋のぼんぼりに 浮かぶお転婆娘(てんばむすめ)たち

浴衣姿で髪を結う 郡上小町か夏の駒

軒の床几で酒を()し 子ども踊りの輪を追うも

いずれが菖蒲(あやめ)杜若(かきつばた) 我が()見紛(みまご)う可憐さに

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「パッカンとブリキの一斗缶」

「パッカン(ポン菓子)屋のオッチャンが来たぞ~っ」と、近所の子どもたちが口々に触れ回り、一目散に駆け出してゆく。

するともう、居ても立っても居られない。

パッカン屋と呼ばれたオッチャンは、リヤカーに大砲みたいな真っ黒のパッカン製造機を積み、自転車を転がし月に一度の割で、近所の公園へとやって来たものだ。

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すると母も心得たもので、笊に入れた生米と一斗缶を差し出し、10円玉を握らせ遅れを取るなとばかりにぼくを急き立てた。

今ほど物が溢れ返っていなかった昭和の半ば。

パッカン屋は、生米と10円玉を一つだけ持参すると、子ども騙しではありながらも、忽ち見事な駄菓子へと早変わりさせた。

しかも母親にすればこれまた幸い。

なぜなら、家事の邪魔ばかりして手を焼かせる子らが、パッカン屋のオッチャンの一挙手一投足に見入り、耳を劈くほどの爆発音がするのを、今か今かと固唾を飲んで待ち構えているのだから。

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たったの10円玉一枚で、厄介な子ども払いまで出来、おまけに子らの面倒まで一手に引き受けてくれるとありゃ、まさに願ったり叶ったり。

だからして公園の片隅で店開きをするパッカン屋は、腕白坊主やお転婆娘たちでいつもテンヤワンヤの大賑わいだった。

「さあ皆、耳塞ぎや!」。

オッチャンの合図で、一斉に両の人差し指を耳の穴へと突っ込み、恐る恐る大砲を見つめる。

すると「ボンッ」と大砲が大きく唸り、ボワッンと真っ白な蒸気が吹き上がった。

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大砲の筒先に取り付けられた金網には、数倍の大きさに膨れ上がった生米がビッシリ。

オッチャンが慣れた手つきで、飛び散らかった米粒を掻き集める。

そして浅い木箱に平ったく慣らし、薄汚れた刷毛で水飴をペタリペタリと塗ったくる。

仕上げに上から青海苔をパラパラっと振り掛け、包丁で手ごろな大きさに切り分ければ完成。

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後は子どもたちが持参した空の一斗缶の中へと、手荒く放り込めば一丁上がりだ。

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それにしてもなぜ「パッカン屋」なのか?

そもそも大砲が唸りを上げる爆発音は、「パッカン」にしろ、ポン菓子の「ポン」にしろ、とてもそうは聞こえない。

むしろ「ボンッ」の方がまだ幾分近い。

それゆえ「パッカン」の語源が、爆発音とは思いも寄らなかった。

てっきりぼくは、米菓子を入れる一斗缶を、「パッ缶」と呼ぶんだと勝手に思い込んでいたぼどだ。

どの家の子も一様に、まるで申し合わせでもしたかのように、持ち寄ったあの上蓋付の一斗缶。

思えば様々な代用品としての用途があった。

焚火の窯やら、ちょいとした腰掛け代わりに。

また時には、一斗缶を棒っきれで叩き慣らし、野犬を追っ払ったりと。

一斗缶は昭和半ばの時代、何かにつけ実に重宝したものである。

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Gifu Poem「鮎の一夜干し 岐阜大仏」と「昭和懐古奇譚」(2012.06新聞掲載)

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梅雨の晴れ間を待ちかねて 鮎を開いて一夜干し

軒の(あみ)(かご)眺めやり 宵も来ぬのに(から)手酌(てじゃく)

炭火で(あぶ)りゃ薫り立つ 長良の鮎の香ばしさ

さすがに籠の大仏も こりゃ堪らぬと南無阿弥陀

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「柳行李と総入れ歯」

「あんたの夏もんは、押入れの柳行李(やなぎごうり)の中やて。行李の横の名札入れに、父ってマジックインキ(インクではなく、母はこの世を去るまでインキと、頑なにそう呼び続けた)で書いたるわ」。

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梅雨入り前の衣替え。

日曜の朝から部屋中に、樟脳(しょうのう)の臭いが立ち込めた。

飴色に焼けた年代物の柳行李は、丈夫で通気性が良い。

湿気の多いこの国の風土に適した、高級桐箪笥にも劣らぬ傑作。

しかし高度経済成長と共に、庶民の暮らしにも、安っぽいデコラ張りの洋服箪笥や、プラスチック製の収納ケースが蔓延(はびこ)り、柳行李は姿を消した。

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「うわぁぁぁ~っ!」。

突然、父の腑抜けた声がした。

押入れから柳行李が引きずり出され、上蓋は開いたまま。

その傍らで父が尻餅を付いている。

「ちょっと!なに大声張り上げとるの!」。

何事かと訝る母と行李の中を覗き込んだ。

すると肝油のブリキ缶の蓋が開き、中からガッと口を開いた総入れ歯が、転がり出ているではないか。

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この事件より遡ること半年。

父が病で入院し母が付き添うことに。

ぼく一人を家に置いてはおけぬと、母方の祖母がやって来た。

一尺(約30センチ)四方の、小振りな持ち運び用の柳行李を抱えて。

祖母との生活は、2週間ほど続いた。

待ち焦がれた父の退院の夜。

看病疲れで台所に立つ気力も無いと、渋ちんの母にしちゃあ滅法贅沢な、寿司屋の出前で快気祝い。

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やがて祖母と母の二人は、お銚子を空にしすっかり赤ら顔。

病み上がりの父は、そそくさと寝床へと引き上げた。

しばらくすると、座敷でごろ寝の祖母と母が、高鼾合戦を開始。

起き出す気配も無いので、ぼくは仕方無く鮨桶を片付け始めた。

すると空の湯呑みに祖母の総入れ歯が。

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実に習慣とは恐ろしい。

酔っ払っても寝入る前に、誤飲せぬ様入れ歯を外したのだ。

ぼくは祖母の褒美を当て擦り、入れ歯を洗い肝油の空き缶に入れ、ご丁寧に祖母の行李の中へと片付けた。

そこへ祖母と同居する叔父が、迎えにやって来たのだ。

叔父は祖母の荷物を行李にまとめ込み、酔っぱらった祖母を抱きかかえるようにして車に乗せた。

祖母が帰ると行李のあった場所に、肝油の缶だけがポツン。

「しまった!」。

しかし、時既に遅し。

このままでは、入れ歯の行方を巡り有らぬ疑いが向けられる。

そう瞬時に判断したぼくは、母を起こさぬようそっと押入れを開け、父の行李の中へと肝油の缶を隠したのだ。

翌日叔父から、入れ歯を忘れてないかと連絡が。

しかし母は寝入っていたため、一連の事情も知らず、入れ歯の行方は杳(よう)として知れぬまま、やがてうやむやとなりお宮入り。

ぼくは大事に至らずこれ幸いとばかりに、すっかり後の始末も怠ったまま半年が過ぎた。

そこへもって、寝耳に水の衣替えである。

ついに動かぬ証拠を衝き付けられ、ぼくはもう何の申し開きも出来ず、ありがたく拳骨を頂戴する以外、成す術も無かった。

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長良川母情⑳最終話(2009.8月新聞掲載)

毎朝すれ違う小学生。

うなだれ気味にランドセルを背負い、重そうな足取りで行く。

だが今朝はいつもと違う。

バックパックを軽々と背負い、足並みも軽快そのもの。

満面に笑みさえ浮かべ。

「そうか!」。

見上げれば雲一つない秋晴れ。

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絶好の遠足日和だ。

「お父ちゃんの弁当箱借りて、ご飯におかずと果物も詰めたるで、残さんように食べるんやで」。

小学4年の遠足の朝。

母は新聞紙に包んだ弁当箱を、ナップザックの中へと仕舞い込んだ。

目的地は歩いて片道2時間の、隣り町にある大きな観音様。

だが、誰一人ブツクサ言ったり、弱音を吐く者はいない。

なぜなら、最大の楽しみである弁当の時間が待っているからだ。

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誰もがそんな幻想に魅入られ先を急ぐ。

それもそのはず。

弁当の持参は、運動会に遠足と決まっていたから、もうそれだけで立派な一大事件なのだ。

軽快な足取りで、11時頃には目的地に到着。

「昼まで自由時間!」。

教師の声と同時に、境内の外れにある林へと駆け込み、枝を拾ってさっそくチャンバラゴッコ。

ナップザックを背負ったまま、斬って斬られてスッテンコロリン。

「さあ皆、昼にするぞ!」。

皆、教師の掛け声に歓喜の声を上げ、ぼくも弁当箱を取り出した。

「………」。

何と包み紙の新聞紙がベトベト。

水筒のお茶でもこぼれたかと、鼻を近づければ煮汁の匂い。

アルミニウム製の弁当箱を開けてビックリ。

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当時、汁物を入れるような密閉容器は、それ自体がかなりいい加減な物で、おまけに使い込んだせいか、肝心のゴムパッキンも緩々(ゆるゆる)に伸びきっていた。

だから密閉容器に入っていたはずの、筑前煮のレンコンや人参がご飯の上に溢れ返り、その(はざま)にケチャップを掛けたマルシンハンバーグ、そして真っ赤な蛸足ウィンナーや、デザートのウサギリンゴまでが、煮汁でツユダクの状態の中に浮かんでいるではないか。

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何とも例えようのない、不思議な味の弁当。

だが残すわけには行かない。

残して母の逆鱗に触れるよりはましと、不思議な見た目と味の弁当に、ぼくは勇敢にも立ち向かったものだ。

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「羽島はやっぱりレンコン。筑前煮や酢レンコン。これから一番美味しい時期やでねぇ」。

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羽島市竹鼻町のれんこん料理の竹扇、女将の馬場修子さん(63)は、名物のれんこん蒲焼き丼を差し出した。

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「すりおろしたレンコン揚げて、タレ付けて焼いたるんやで体にええよ」。

同町生まれの修子さんは、23歳で(ふみ)(ちか)さん(65)と結ばれ一男一女が誕生。

そして結婚から10年を迎えようとした時だった。

「会社員だった主人が、一ヶ月ほど食も細って元気がなく、どこか悪いんかと。そしたら脱サラして店出したいんやと。そんなことやったら何とでもなるわ、どうせ貧乏育ちなんやでって。主人の背中押したったんやわ」。

それからはや30年。

「毎日大変やったけど、店始めて良かったわ。周りの皆に支えられて楽しいし。やっぱりレンコンの産地やで、先が見通せたんやろか?」。

修子さんは泥まみれのレンコンを、望遠鏡のように掲げ持ち、穴の向こうを覗き見ながら大笑い。

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笑う門には福来る!

明日からは、別のシリーズをお届けいたします。

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長良川母情⑲(2009.7月新聞掲載)

子どもの頃のぼくは、月末の日曜日が待遠しくてならなかった。

朝からよそ行きの服を着せられ、この日ばかりは母も三面鏡の前に座り込み、念入りに紅を注す。

そしてガタゴトとボンネットバスに揺られ、お目当ての駅前百貨店へと母に手を引かれ。

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開店間もない通路の両側には、店員が見事に整列し、(うやうや)しく(かしず)くように母とぼくを出迎える。

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何だか急に王子様にでもなったようで、妙に居心地が悪く、お尻の辺りがこそばゆくてしかたなかったものだ。

それもそのはず。外見こそよそ行きのまともな服に見えるが、人目に付かぬ下着や靴下なんぞは、そこら中(ほころ)びだらけ。

母の得意の裁縫で器用に繕われただけ。

だから本当は見透かされているような気がしてならなかった。

だがそれにも増して、慇懃無礼(いんぎんぶれい)なほどの態度で出迎えられることに、ある種の快感めいたものさえ感じてもいた。

もしかすると月に一度、母もその快感を得たいがためにぼくを引き連れ、給料日後の日曜日に出掛けたのだろうか?

いや、間違いない。

その証拠に、散々売り場を歩き回った末、母が買い求めたものと言えば、80円均一売り場のどこにでもあるような台所用品だったからだ。

何も駅前までバスに乗って、買い求めるほどのものでもないであろうに。

帰りのバスで母は決まってこうつぶやいた。

「あ~あ、ええ目の保養させてまったわ」と。

ぼくのお目当てと言えば、百貨店の7~8階にあった大食堂のお子様ランチ。

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母の目の保養とやらにさんざん付き合い、愚図らず何も欲しがらず、粛々とオリコウサンを演じ続ければ、帰り際に母がご褒美代わりに振舞ってくれたものだ。

ご飯に国旗はためく、(かぐわ)しきお子様ランチ。

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長良川右岸を岐阜市から南へ。

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墨俣一夜城を右手に眺めながら、支流の犀川を越え右手の中山道の脇街道へと歩を進めれば、脇本陣跡の酒屋や昔の家並が忽然(こつぜん)と現れた。

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「家の店で全部揃えて嫁いでった人も、ようけおったんやに。その昔は」。

()(しま)屋百貨店と書かれた看板を見上げていると、三代目女将の大塚弥生さん(73)が店先で気さくに声を掛けて来た。

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「創業100年やで、昔は銀行の代わりみたいなこともしとったみたいやわ。養蚕が盛んで、農機具から下駄や寝具にちり紙まで、今と違って何でもあった。ああ、この上見てみい。何やと思う?」。

帳場の上の天井部分が、六尺四方ほど切り取られている。

「二階の倉庫から、ちり紙なんか直ぐに下ろせるよう細工したるんやわ」。

すると傍らから「この辺は水郷地帯やで、いつ水が来てもいいように2階を倉庫にしたるんやて」と、夫の光男さん(75)。

弥生さんは昭和33年に羽島市から嫁ぎ、二女を授かった。

「この家、奥行きが35間(約63m)もあるもんで、御仏飯持って奥行くのが慣れるまで怖かったもんや」。

弥生さんは達筆な筆遣いで、熨斗や年賀ハガキの代筆も手掛ける。

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「熨斗書いとる間、店の中見て回って買ってもらえるやろ」。

弥生さんは屈託なく笑った。

岐島屋は一夜城に非ず。

百年の夜を経て今もなお商い続ける「百貨繚乱(りょうらん)店」。

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長良川母情⑱(2009.6月新聞掲載)

鏡島大橋を少し下った先に、舟の渡しがある。

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岐阜市一日(ひと)市場(いちば)の右岸から、鏡島弘法の左岸へ向け、片道たった2分の舟旅。

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それが「小紅の渡し」だ。

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舟から見る景色は、何とも浮世離れしている。

都会の喧騒は川の水音に掻き消され、高層ビルも土手が遮り、川上の金華山と岐阜城だけが悠然とその存在感を示す。

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小紅の由来には諸説ある。

昔の女舟頭の名とか、紅花を栽培していたとか。

だが一番趣が感じられるのは、やはり花嫁が舟の上から川面に顔を映し、紅を注し直したとする説だ。

白無垢に角隠しの花嫁が、真っ白な小指の先で紅を注す。

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ついついそんな昔日(せきじつ)の風景と、ひょっこり出逢えそうな気がするから不思議だ。

そんな淡く切ない紅の思い出ならば良いのだが、ぼくの場合はいささか異なる。

昭和半ばの幼いぼくは、空き地で棒切れを見つければ、すぐに隠密剣士や仮面の忍者赤影になりきって、友とチャンバラごっこに明け暮れた。

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中でもすっかり虜になったのは、昭和38年10月から始まったテレビ番組「三匹の侍」。

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それまでのチャンバラものとは異なり、殺陣(たて)に合わせ効果音が「チャリン」「バサッ」などと被さり、これまでに無い臨場感を醸し出していたからだ。

そうなるともう、そこらの棒っ切れでは収まらない。

母にせがんでやっとのこと、鉄板を二つ折りにして刃を潰した、チャンバラごっこ専用の模造刀を買い与えてもらった。

だが母から、「危ないで外での使用は厳禁。万一、禁を犯せば刀召し上げ」と、時代がかった台詞で厳しいお達しが。

ならば狭い我が家で遊ぶほかあるまい。

ある日のこと。

友とチャンバラごっこを始めていると、母が買い物に出掛けた。

最初は三匹の侍気取りで、長門勇の「おえりゃあせんのう」を真似ながら、槍の変わりに刀を振り回し、口々に「チャリン」「バサッ」の応酬。

だがそれもしばらくすると飽きてしまう。

そんな時、ぼくの頭の中で悪魔が囁いた。

母の三面鏡の引き出しから、一本きりの大切な口紅を取り出し、それを刃先に塗りやたらめったら斬りまくったのだ。

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友もぼくも、腕といいシャツといい、口紅の真っ赤な刀傷だらけ。

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ガラガラガラ。

玄関から母の気配が。

だが時既に遅し。

後は推して知るべし。

母の拳骨の嵐と罵声が飛び交った。

「この渡しに乗って嫁いでったお嫁さんは、まあ生きてござらんやろ」。

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鏡島弘法の参道で、昭和の始めから店を構える岐阜市古市場の甘酒屋、二代目女将の鷲崎(すさき)すみさん(78)は、長良の(ほとり)に目をやった。

「戦前ここは、芸者さんを連れてお大尽遊びする人で、夜中までよう賑わったもんやよ」。

すみさんは昭和24年、19歳で婿養子を迎え二男を授かった。

「舟で一日市場へ渡って、川魚捕まえたり。子どもらは学校から戻ると、毎日カワブソ(川遊び)しよったもんやって。顔なんて真っ黒で、どっちが表か裏かわかれへん」。

すみさんが懐かしそうに目を細めた。

何故だか無性に、すみさんが麹から造るという甘酒を、冬になったら飲んでみたいと思った。

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甘くてせつない母の味がするようで。

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長良川母情⑯(2009.4月新聞掲載)

花屋の店先で紫陽花の鉢植えを見かけると、初めて傘を買ってもらった小さな頃を思い出す。

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あれはまだ、小学校に上がる前のことだ。

母が黄色の小さな傘と、お揃いの黄色の長靴を買い与えてくれた。

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ぼくはすっかり有頂天。

しかしその日は生憎の日本晴れ。

「母ちゃん、明日って雨降る?」。

ぼくは何度もそう尋ね、母を困らせたことだろう。

その日は渋々茶の間の片隅に新品の 黄色い傘と長靴を飾りつけ、童謡の「あめふり」を雨乞いでもするかのように口ずさんだものだ。

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だが童謡では神通力を欠くのか、翌日もまたもや快晴。

ついに我慢がならず、茶の間で長靴を履き、傘を差し、畳の染みを水溜りに見立て一人遊びを始めた。

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「あめふり」を口ずさみながら、クルクルと傘を回し、水溜りをピチャピチャと行ったり来たり。

だが調子良く傘がクルクル回ったのはそこまで。

「ペタッ」と鈍い音がした途端、さっきまで軽快に回っていた傘が急に動きを止めてしまったのだ。

何とも間の悪いことに、そこへ洗濯物を干し終えた母が登場。

もはや万事休すである。

「何しとるの!部屋ん中で傘差す奴が、何処におるんじゃあ!おまけに畳の上で長靴まで履いてっ!ええ加減にしとかなかんよ!………?」。

母の視線が何故か、傘の上部で釘付けに。

「ああああっ!ほれみぃ、蝿取紙が傘に巻き付いてまっとるがね!」。

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せっかく買って貰ったばかりの「おニュー(昭和半ばの頃は、まっさらな新品を、英語のNewにご丁寧に「お」まで付け、そう呼んだものだ)」の黄色い傘に、蝿取紙の焦げ茶色したネバネバの(やに)のような液体と蝿の亡骸(なきがら)がベットリ。

変わり果ててしまった「おニュー」の傘。

ぼくはボロ雑巾で、何度も擦り取ろうとした。

だが擦れば擦るほど、布の織り目に焦げ茶色のネバネバがはまり込み、まるでぼくを嘲笑うかのように広がって行く。

だからか、今になってもその焦げ茶色が、梅雨明けに立ち枯れた紫陽花と重なり、遠い日のほろ苦さが鮮明に浮かび上がるのだ。

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「紫陽花は健気(けなげ)でええもんやよ。雨に打たれてその度に色を深めて行くんやで。あんたも紫陽花が好きなんやろ?」。

金華橋のわずかに北西。

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岐阜市津島町の「サワダ花店」、女将の澤田佐代子さん(81)が、紫陽花の鉢植えに魅入られたままのぼくに声を掛けた。

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「ほんと紫陽花ほど雨が似合う花は、他にないな。赤にしても青いのでも、一雨ごとに色が変ってくで、庭先に置いといても飽きがこんのやて」。

佐代子さんは昭和28年に、叔父の紹介で輝義さん(81)の元へと嫁いだ。

「その5年後には、主人が鷺山で花屋を始めたんやわ」。

佐代子さんも会計事務所に勤めながら、夫を支え続けた。

「昭和47年には勤めを辞めて、ここの半分で私が喫茶店して、もう半分が主人の花屋」。

お子さんはと問うてみた。

すると「授からんかったんやわ」とポツリ。

店先で雨に咲く、淡い色した紫陽花。

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佐代子さんはまるで我が子を見るように、やさしい眼差しを向けた。

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長良川母情⑮(2009.3月新聞掲載)

『カッポーン、カッポーン。筋肉質の男の裸体。風呂上り』。

たったこれだけのヒントでピーンと来たならば、あなたは立派な昭和の生き証人である。

時は昭和39年。

戦後の焼け野原からの見事な復興振りを、東京五輪が世界中に知らしめた。

参考資料

同年12月、プロレス界では大相撲出身の(とよ)(のぼり)が、宿敵ザ・デストロイヤーを破りWWA世界ヘビー級王座のベルトを奪い取った。

参考資料

戦後19年とはいえ、戦地を流転した父なんぞは、B‐29を陸軍の三八式銃で撃ち落したほどの喜びようだった。

夕飯を終えた客でごった返す銭湯。

脱衣場はまさに、国府宮の裸まつりさながら。

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番台の上の時計が8時に近付くと、男湯の脱衣場は静まり返り湯船はもぬけの殻。

男たちは入り口脇に鎮座する、白黒テレビに熱い視線を送る。

風呂屋のオヤジが厳かにテレビのスイッチを入れた。

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だが今とは異なり、直ぐに映像は映し出されない。

真空管テレビの時代である。

箱の奥の方から、ゆっくりと映像が浮かび出で、徐々に大きくなって画面一杯に収まる。

すると脱衣場では「待ってましたあ!」の掛け声や、ヤンヤの喝采。

誰もが片寄せあい小さな画面に見入り、一喜一憂の雄たけびを上げる。

参考資料

こんな状態のまま番組終了を迎えるのだ。

すると男たちは豊登気取りで、裸のまま両足を肩幅より大きく開き両手を広げる。

そして弾みを付けながら真下へと振り下ろし、その勢いで弧を描くよう体の前で交差させ右の拳を左脇へ、左の拳で右脇を絞める。

するとあちこちから、カッポーン、カッポーン。

中には「カパッ」や「ペシャ」と、腑抜けた音がした。

「ちょっとう、あんたたち!いつんなったら帰るつもり!ええ加減湯冷めしてまうがね!まあ置いてくでね!」。

女湯の脱衣場から、怒りを露にする母の声が響いた。

慌てて父と身支度を整え家路へ。

さっきまで豊登になった気でいたのに、もうそれどころじゃない。

家では世界チャンプ以上に恐ろしい母が、手ぐすね引いて待ち構えているはずだから。

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「そうやて。あんなころはどこも一緒やわ。家のお客さんもみんなしてカッポーンやて」。

長良橋を北へ渡った長良北町商店街。

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その一角にある福寿湯の女将林茂子さん(74)は、男湯と染め抜かれた暖簾を掛けながら笑った。

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茂子さんは昭和10年、旧三田洞村で5人兄姉の末子として誕生。

二十歳の年に叔母の紹介で林家に嫁ぎ、一男一女を授かった。

「本当なら端午の節句は、菖蒲湯せんとねぇ。でも10年ほど前に、やめてまったであかんわ。昔は手拭い縫って袋にして、菖蒲の葉を3㌢ほどに刻んで、蓬と一緒に入れて薬湯に浸け込んだもんやて」。

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茂子さんは懐かしげに脱衣場を眺めた。

邪気を祓う風呂屋の菖蒲湯。

脱衣場に木霊したカッポーンの()

昭和の風情が、また一つ遠のいて往く。

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長良川母情⑭(2009.2月新聞掲載)

まるで文金高島田の優雅な日本髪か?

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新緑に彩られた、こんもり小高い山々の姿は。

関市の千疋大橋から長良川は西へと蛇行し、やがて武儀川と合流し南へ。

一方、支流となった今川は津保川と結ばれ、上芥見へと下り再び長良川となる。

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この辺りの川堤から川下を眺めていると、真っ赤な欄干の藍川橋が、どうにもぼくには文金高島田のような小高い山に差した、(かんざし)に見えるから不思議でならない。

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橋の中程に佇み川下を眺めると、正面に兎走山、右手に大蔵山、左手に清水山の三山が、大河の流れに立ちはだからんとばかりに鎮座している。

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その大自然の造形美たるや、長良川下りの絶景でも一二を争うに違いない。

「日本の春は?」の問いに、桜と答える人は多い。

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古くから桜は、日本人の心の琴線(きんせん)を揺らし続けて来た。

その潔い散り際に儚い死生観を重ねたり、時には満開の桜に大願成就の夢を託す。

子どもの頃のぼくは、和菓子屋の店先に春を感じたものだ。

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鴬餅に草餅、そして一番(かぐわ)しいのは何と言っても薄紅色の桜餅。

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塩漬けの葉が、えも言われぬ香気を放つ。

だがどうにもその葉っぱが苦手だった。

年に一度、口に入るかどうかの桜餅が、なぜかその日は水屋に三つ。

父母とぼくの三人に各々(おのおの)一つの計算だ。

あまりに「美味い」と繰り返し、葉っぱだけ外してペロリと平らげたからか、母が自分の分を差し出した。

「そんなに美味いんやったら、これも食べ」。

「ええっ?本当にええの?」。

「お母さん今食べとうないで。お前が残した葉っぱで十分やわ。塩味が効いてええ香りやし」。

今思えば、母は何かに付けそうだった気がする。

特に我が家にとっての贅沢品が、卓袱台に上った日は。

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鰻なら「端っこの方が美味い」と尻尾を、すき焼きなら「肉よりよっぽど糸コンの方が美味い」と(うそぶ)いては、父とぼくの皿へ大きな身の鰻や肉を取り分けた。

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「あれっ、父ちゃん桜餅いらんの?さっきから葉っぱばっか食べとるけど?」。

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五つになったばかりの娘の声に、ぼくは現実に引き戻された。

今から10年も前のことだ。

どうにも血は争えないと言うことか。

「息子の修業が明け、師匠のお宅へお礼に伺った時、桜餅が出されたんやて。何とも言えん、ええ色で艶々しとってね」。

岐阜市上芥見、菓匠「豊寿庵富田屋」二代目女将の後藤敏子さんは、店先で三代目の豊さんが(こしら)えた自慢の桜餅を指差した。

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敏子さんは二代目の民康さんの元へ、日本中が沸き返った東京五輪の開会式の日に嫁に入った。

「主人の父は4歳の時に戦死し、祖父が父代わりで。『孫の嫁を一目見んと』って、病を押してまで楽しみにしとってくれたらしいわ」。

二人は熱海へ新婚旅行に向かった。

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しかし翌日、祖父危篤の知らせが。

「嫁入り3日にして、今度は祖父の葬儀やでね」。

背中合わせの吉凶。

だが、それでも人は生きてゆかねばならぬ。

その後、一男二女が誕生。

夫と共に家業を護り抜き、晴れて息子へと(たすき)を渡した。

桜の花びらは風に舞い散る。

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やがて芽吹く若葉に、自らの命を授けるように。

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長良川母情⑬(2009.1月新聞掲載)

赤い鮎之瀬橋から眺める長良川の川面で、傾きかけた西日がキラキラと揺れる。

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まるで春を待ち侘び遡上する鮎の銀鱗のように。

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船着場には鵜舟が三艘(もや)われ、鵜飼開きの訪れに備えているようだ。

向こう岸では投網を打つ漁師たち。

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水鳥たちが一斉に鳴き声を発しながら飛び立って行った。

河原に降りて眺める、長良川の流れとこの景色は、小瀬鵜飼が始まったとされる一千有余年の昔から、何一つ変っていないのかも知れない。

そんな錯覚に陥りそうなほど、ここは(うつつ)の世から切り取られた特別の場所なのかも知れない。

川の流れに耳を澄まし、そっと目を閉じる。

すると辺り一面は漆黒の闇。

遠くからギーコギーコと櫓の軋む音が聞こえ、狩り下る鵜舟の篝火が闇を裂く。

腰蓑姿に(かざ)(おれ)烏帽子(えぼし)

鵜匠の鮮やかな()(なわ)さばきが、長良川の川面と夏の夜を焦がして行った。

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「お父さん!また餌だけ盗られてまったわ!はよ餌付け直して!」。

母は膝下まで川に浸かったまま延べ竿を引き寄せた。

「またかいな」。

水際でせっせと石をめくり、餌となる川虫を獲りためていた父が、針先へと駆け寄った。

まだぼくが小学生だった頃のこと。

父がせっせと餌を付け替え、母とぼくは白ハエ釣りに夢中になった。

だがそれだけなら何もこの歳になるまで、後生大事に記憶することもなかったろう。

それを忘れがたき記憶に変えたのは、とんでもなく勇ましい母のいでたちだった。

もう色や柄は覚えがない。

確かノースリーブのアッパッパーだった。

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母は急にアッパッパーの裾の両端を摘み上げ、太もも周りのパンツのゴムの中に外側から巻き込んだのだ。

水に濡れぬようにと。

股間の部分とお尻の部分だけ、ワンピースの裾が舌のようにダラリと垂れ下がり、両足の外側が腰の辺りまで捲くれ上がっているのだから、もう手の施しようもない。

しかもノースリーブから零れ出した二の腕は大きく(たる)み、竿を振るたびまるで別の生き物のようにブニョブニョと蠢くではないか。

おまけに頭に麦藁帽子と来ちゃあ、人から「あの人、お母さん?」と尋ねられても、知らぬ存ぜぬを決め込んだことだろう。

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「私が25歳で嫁に来た時は、まだ先々代と先代夫婦もそりゃあ元気で、3夫婦で暮らしとったんやで賑やかやったわ」。

関市小瀬の料理旅館「鵜の家」十七代目女将の足立美和さん(65)は、鳥屋(とや)の引き戸を開けながら笑った。

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真っ暗な鳥屋の中から鵜が鳴き声を上げる。

「今は全部で23羽。みんな大切な鵜匠の片腕たちやでね」。

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樹齢五百年とも言われる庭の満天(どう)(だん)躑躅(つつじ)が、代々宮内庁式部職を務め上げたこの家の歴史を物語る。

「今年で三回忌になる亡き夫は、ほんといい男やったんやて。だから来世でもまた、夫と一緒になれますようにって、毎日お祈りを欠かしたことないんやって」。

鵜匠の母は照れ臭げに笑った。

現在は三人姉弟の長男が、十八代目鵜匠を拝命。

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あと二月もすれば、千年前と同じ幽玄な趣きを秘めた小瀬鵜飼の幕が切って落とされる。

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長良川母情⑫(2008.12月新聞掲載)

(うだつ)の町屋が続く、美濃市の旧市街。

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黒塀に囲まれた庭先きから、綻び始めたばかりの梅の花をまとった老木が、枝を伸ばし道往く人の目を(いざな)う。

微かな春の予感に導かれ、小倉山の麓から長良川へ。

河畔には今も上有(こうず)()の川湊灯台が(そび)え立つ。

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(いにしえ)の船頭たちはここで荷を積み降ろし、穏やかな川面を眺め至福の一服を(くゆ)らせたであろう。

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「おいっ坊主、これ一本やろか」。

今から37年ほど前、中学生だったある日。

胸を肌蹴た鯉口シャツに、鉄錆に汚れたニッカーズボン、そして地下足袋姿。

鳶職のオッチャンが赤ら顔で、コップ酒を煽りながら紋次郎いかを差し出した。

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紋次郎いかとは、長楊枝に刺したいかの味付け煮だ。

親友のシンちゃんの母が営む酒屋の立ち飲みには、夕暮れ時を待ってましたとばかりに、何処からとも無く職人たちが寄り合い、コップ酒片手に今日の憂さを晴らし合う。

そんなオッチャンたちにとって、紋次郎いかは無くてはならない優れものの肴だった。

おそらく紋二郎いかの名前の由来は、テレビドラマ「木枯し紋次郎」が口に咥えた長楊枝との共通点からだろう。

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薄汚れた道中合羽と三度笠姿で「あっしには関わりのねぇこってござんす」と、感情を押し殺して吐き出す台詞は、当時の流行語にもなった。

ぼくは鳶のオッチャンから、大喜びで紋次郎いかのご相伴に預かる。

まず、いかを唾液でふやかしてから平らげ、その後は紋次郎気取りで件の台詞を口にしたものだ。

シンちゃんの母はそれを傍目に、いつも笑い転げていた。

その年の夏休み。

シンちゃんのお母さんが、倉庫の裏の川で溺死したとの知らせが。

あまりにも呆気ない急な死に、通夜に訪れた誰もが言葉を失い、ただただ瞳を潤ませた。

「スマン。遅なって」。

紋次郎いかの鳶のオッチヤンや、立ち飲みの常連客が、いつもの作業着のまま弔問に現れた。

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「シン坊、淋しなったなぁ。でもわしらも一緒や。女将さんは、わしらみたいなん相手に、一つも分け隔てせんと一杯売りして、愚痴を聞いてくれよった。『今までおおき。あの世でゆっくりしいや』」。

(いか)つい両の手を合わせ、(なに)(はばか)ることなく男は声を上げすすり泣いた。

実の母の死より悲しいと。

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「家自体が年代もんやで、西側に傾いちゃってね。百年以上前に造り酒屋を買って、小売を始めたそうやわ」。

美濃市相生町の(いま)(ひろ)酒販店、四代目女将の川井殖代(たつよ)さん(67)は、帳場の大黒柱を指差した。

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道理で店の中の時間は止まったままだ。

中の間を仕切る千本格子に階段箪笥。

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天井には明り取りの天窓、それと壁掛け式の電話機。

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さすがにどれも梲の揚がる大店の証だ。

女将は21歳で上之保から嫁ぎ、二男一女の母に。

「嫁に来た頃は、両親とお手伝いさん、それに番頭と使用人もいて大家族やったわ」。

それから間も無く半世紀。

「ただ子を成し、店を守ってきただけやて」。

無欲に笑う女将の横顔と、在りし日のシンちゃんの母の顔が重なった。

何事も気張り過ぎぬが心地よい。

たとえ生涯梲は揚がらずとも。

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