Gifu Poem「春日上ヶ流(かすがかみがれ)古茶(いにしえちゃ)」と「昭和懐古奇譚」(2013.5新聞掲載)

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春の伊吹に誘われて 揖斐の山里子らの声

子ども歌舞伎の白塗りと 若衆たちの神輿(みこし)渡御(とぎょ)

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八十八夜別れ霜 千枚畑に茶摘み唄

春日上ヶ(かみが)()古茶(いにしえちゃ) 天へと届け(ちゃ)()供養(くよう)

「裸電球国民ソケット1号とズボラ紐」

「さあ、いつまでもふざけとらんと、もう電気消してさっさと寝るよ」。

川の字に敷かれた綿入れ布団。

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母のその一言で、父が布団から足を蹴り出し、器用に親指と人差し指を広げる。

そして裸電球から垂れ下がった紐の留め具を挟むと、足を降ろしてスイッチを切る。

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昭和半ばの我が家の一日が、そっと(とばり)を降ろしていった。

当時の茶の間の灯りは、ブリキの笠が被った、裸電球の「国民ソケット1号」と呼ばれた照明器具。

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ソケットの付け根から、30~40センチ程の紐が、垂れ下がっていたものだ。

その紐の先に、市販の専用紐を継ぎ足し延ばした。

畳から30センチほど上の位置に、留め具が届くように。

紐の先のプラスチック製留め具には、蛍光塗料が塗られていた。

布団に潜り込んでからでも、蛍光塗料で淡く光る小さな留め具を足の指で挟み、スイッチを入れたり切ったりする、すなわち「ズボラ紐」。

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しかし当然朝になれば、茶の間の中央に長い紐が、だらしなくブランと垂れ下がることとなる。

だから毎朝紐を手繰り上げ、ひとまとめに縛り直さねばならなかった。

子どもながらに、足の指一つで電燈を点けたり消したりする、そんな父の姿に憧れたもの。

「ぼくにもやらせて」と懇願するものの、こればかりは頑として「駄目だ!」の一点張り。

そうなりゃあ益々、何が何でもやってみたくなるのも子ども心。

するとある夜、願っても無いチャンスが転がり込んだ。

風呂を浴び布団に入り、いつものように父が、裸電球の留め具に、足を伸ばしかけたまさにその時。

「火事だ、火事だぁ~っ!」の叫び声。

やがて消防車のサイレンまで近付いて来た。

「どうも近所みたいやで、お父ちゃんとお母ちゃんは、バケツリレーの手伝いしに行くけど、あんたは危ないから、家の中でじっとしとるんやで」と、両親は火事場へと急いだ。

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もはやこんなチャンスを見逃す手はない。

だって布団も敷かれ、裸電球の紐も既に足もとまで垂れ、お膳立ては完璧。

まさに据え膳喰わぬは何とやらである。

「エイッ」とばかりに、短い脚を思いっきり伸ばす。

辛うじて留め具に指が届いたと思いきや、留め具は嘲笑うかのようにサッと身を翻す。

それでも苦戦の末、やっと留め具が指の間に掛かった。

ついに夢見た世紀の一瞬、固唾を飲み勢いよく足を降ろす。

しかし灯りは消えたものの、何故か指の間から留め具が外れない。

力任せに足を振り回していると、一瞬プチンと音がした。

再び灯りが燈ったまではいいが、さっきまで突っ張っていた紐がダラリと布団の上へ。

ソケットの根元から、紐が千切れているではないか。

嗚呼!万事休す。

しかも椅子を踏み台に、どんなに背伸びしようが、ソケットの根元まではとても手が届かない。

小火(ぼや)で良かったわ」と安堵したように、両親が煤だらけの顔で戻った。

しかし裸電球の惨状を知るや否や、母は再び憤怒の形相。

裸電球が煌々と燈る中、煤だらけの仁王様の説教は容赦なく続いた。

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Gifu Poem「女城主のご城下」と「昭和懐古奇譚」(2013.4新聞掲載)

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女城主のご城下は 百花(ひゃっか)繚乱(りょうらん)花見時

昔家並みに海鼠(なまこ)(べい) 城山(のぞ)む常夜灯

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軒の杉玉青々と 春待ち侘びて蔵開き

ちょいと利き酒足止めりゃ 頬もほんのり桜色

「逆さ返しのS字のアップリケ」

「さあ来い飛雄馬!」。

「行くぞ花形!」。

昭和半ばの少年草野球。

主役はピッチャーが巨人の星の星飛雄馬、バッターは花形満と相場が決まっていた。

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春休を終えた新学期は、春の選抜高校野球の興奮も覚めやらぬまま、プロ野球が開幕。

となれば「巨人大鵬玉子焼き」と謳われた、筋金入りの腕白小僧どもは、もうじっとなどして居られない。

ボールとバットに、仲間が4~5人集まれば、その場でプレイボール。

グローブも無けりゃ、ユニフォームなど以ての外。

唯一の野球小僧らしさは、汗で黄ばんだ野球帽くらいのものだった。

ある日のこと。

野球仲間のマー君の帽子に、フエルト生地の「S」のマークのワッペンが、燦然と輝いていた。

「S」は、巨人の星の星飛雄馬の通う、青雲高校の「S」であると同時に、ぼくらが通う千音寺小学校野球部の「S」でもある。

とかく練習が厳しいと評判の野球部に、入部する勇気も根性も持ち合わせぬ、ヘナチョコ野球小僧でも、一度は「S」字マーク入りの帽子を被りたいと願ったもの。

すかさず誰かが「どこで買ったの?」とマー君に問う。

すると「バス停前のマルエの体操着売り場や」と。

だが値段を聞いた途端、絶望的な空気が支配した。

その額なんと、1枚確か200円くらいだったか。

当時のぼくらの小遣いは、どんなに逆立ちしたところで、1日10円玉1個が通り相場。

高嶺の花のワッペンは、とても手におえぬ幻の代物だった。

その夜の夕飯時のこと。

「S」字ワッペンへの未練が断ち切れず項垂(うなだ)れていると、母が何かあったのかと。

訳を話せば「そんなもん簡単なこっちゃ!お母ちゃんに任せとき。明日までに、野球帽にちゃあんと縫い付けといたる」と。

確かに和裁や洋裁に長けた母にすれば、フエルト生地のアップリケはお手の物。

ぼくが小学校に上がり立ての頃、磨りきれたズボンの膝小僧には、チューリップやヒマワリのアップリケが、有無を言わさず施されたものだ。

それに比べれば「S」字ワッペンなんぞ、朝飯前のはずだった。

翌朝母から「ほれっ、ちゃんとSマーク付けてやったで」と、野球帽を手渡された。

その時の嬉しさと来たら、もう半端じゃない。

しかしそれも束の間。

分団の集合場所で、野球小僧たちと顔を合わせた途端。

「???」。

皆の目がぼくの野球帽の「S」字マークと、マー君が買って貰った本物の「S」字マークを、()めつ(すが)めつ眺め回しているではないか。

そして「あれっ?ミノ君のお母ちゃんが作ったS字マークって、裏返しじゃないの?」と。

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戦中派で育った母にすれば、アルファベットは紛れも無い敵性語で、遠い存在だったはずだ。

とは言え息子のためと、見よう見真似で夜鍋したに違いない。

だから「S」の字が裏返っていようが、皆にどれだけ「へんなの」と笑われようが、ぼくにとっては掛け替えのない、唯一無二の逆さ返しの「S」字マークだったのだ。

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Gifu Poem「平成の追分~美濃太田駅」と「昭和懐古奇譚」(2013.3新聞掲載)

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奥美濃木曽路飛騨街道 旅の追分美濃太田

今宵いずこの旅枕 どうせ当てなきゆるり旅 

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釜飯売りの濁声(だみごえ)と 松茸の香が鼻を引く

旅のお供に所望して 車窓に眺む梅見酒

「がま口財布と5円玉の銭形平次」

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♪男だったら一つにかける…誰がよんだか誰がよんだか銭形平次♪

ピシュピシュ!

するとプスッ、ゴツン、チャリン。

銭形平次が帯に吊るした投げ銭を放つ、クライマックスシーンを真似、寛永通宝ならぬ穴開きの5円玉が飛び交う。

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すると襖や障子をプスッと突き破り、その向こうの家具にゴツンと当たる音がして、やがてチャリンと5円玉が床へと落ちる。

となると決まって、般若の形相を湛えた母の登場と相成る。

「何やっとんやー!お金投げて遊ぶとは、この罰当たりめが!」と、母のヒステリーもクライマックスへ。

しかし何度母の逆鱗に触れようが、この平次親分の投げ銭ゴッコだけは、誰が何と言おうが譲れぬものだった。

昭和も半ば。

如何に子どもとは言え、相も変らぬ遊び仲間と、いつも同様のチャンバラゴッコでは、マンネリ感を抱くのも必定。

そんな矢先に颯爽と登場したのが、大川橋蔵演じる「銭型平次」だった。

しかも刀の代わりが、十手と投げ銭と来るから揮っている。

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誰もがテレビに噛り付き、平次親分の必殺技、投げ銭の所作に目を奪われた。

となれば、次は実践あるのみ。

母のがま口財布から、こっそり5円玉を拝借し、毛糸に通して帯の代わりにベルトへ。

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十手の代わりは擂粉木(すりこぎ)(ぼう)と、皆で申し合わせたわけでも無いのに、そう決まっていた。

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銭型平次が放送された翌日は、そんな平次(もど)きばかりが似たり寄ったりの格好で、お宮の境内に集まったもの。

だから肝心要の、敵役となるべく悪役侍が、人っ子一人としていないのだからそれこそお手上げ。

仕舞いにゃあ、平次同士で投げ銭の応酬となる。

ひとしきり平次ゴッコに現を抜かした後は、5円玉の回収作業が待ち受ける。

しかも自分が何枚の5円玉を紐に括りつけて来たか、何枚投げ銭を投じたかなど、所詮子どもの遊びだから、端から勘定しているはずもない。

だからいち早く拾い集めた者の勝ち。

その後、要領のいい奴は、投げ銭を一銭も持たずして平次ゴッコに加わり、遊びの最中から投げ銭を掻き集めて回る、そんな小狡い知恵者までもが出る始末。

これにゃあさすがに、どこのお母ちゃんたちも黙っちゃいられなかった。

子どもたちががま口から、こっそり5円玉を抜き取る反道徳的行為にも、それよりも何よりも家計にも甚だ悪影響を及ぼすと申し合わせ、今後一切家の外で平次ゴッコをするのは罷り成らぬと。

しかしそうは言われても、国民的な超人気を誇った「銭形平次」の活躍は、テレビ番組が回を重ねるごとに加熱する一方。

家の外での平次ゴッコが禁じられたとあっちゃあ、後は決死の覚悟で腹を括り、家の中で遊ぶほか手立てはない。

その成れの果てが、襖や障子を敵役に見立てることだった。

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今ならば小さな液晶画面の、TVゲーム機の中の仮想空間で、母に目くじら立てられることもなく、大いに平次ゴッコを愉しめたはずだ。

だが、だとしたら当時の記憶は、これほど鮮明ではなかったことだろう。

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Gifu Poem「梅林公園」と「昭和懐古奇譚」(2013.2新聞掲載)

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余寒の(みぎり)梅の香は 恋しき春の便りとな

母の褞袍(どてら)に身を寄せて 梅見遊山(ゆさん)篠ヶ谷(ささがたに)

暖簾(のれん)潜れば(かん)()止み 味噌田楽の香に()かれ

豆腐芋つぼ頬張りて 窓辺で(なが)む梅の(その)

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「土曜の半ドンのおご馳走(っつお)!文化鍋のオコゲの味噌オジヤ」

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昭和の死語の一つ、「土曜の半ドン」。

と、聞いただけで、途端に浮き足立つような高揚感を感じられた読者は、それこそ紛れも無い立派な昭和人である。

それほど魅惑的だった半日が、「土曜の半ドン」。

昭和半ばの小学生時代、土曜は午前で授業も終了。

皆、下校の校内放送が流れ出すと、我先にわが家へと駆け出した。

とは言え、どこの家もこれと言ったご馳走が待ち構えている筈もない。

内職仕事に精を出す、母の横手の火鉢では、煤けた文化鍋からグツグツと、湯気と味噌汁の香が立ち上る。

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わが家の半ドンの昼飯は大概、朝の冷やご飯と残りの味噌汁に、溶き卵を加えただけのオジヤが相場。

しかも炊飯器に残った、朝の残りのご飯をオコゲをごと一緒くたに文化鍋へと放り込み、そこにこれまた朝の残りの味噌汁を加えるという、なんとも大胆な手抜き料理。

しかしこれが単なる冷やご飯のオジヤとも異なり、適度にオコゲの香ばしさと歯応えが加わり、それはそれで結構美味しいものだった。

ましてや母からしてみれば、炊飯器にこびり付いたオコゲを、亀の子束子でやっきになって洗い落とす必要も無くなるのだから、こんな好都合な献立は無い。

それでも年に1~2度、母の機嫌がすこぶる良かったりすると、稀に食卓にコロッケやハムカツが上る日もある。

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とは言え、せいぜいが肉屋で特売の、ジャガイモばかりで挽き肉なんて、ほんの数粒と言ったコロッケや、向こうが透けて見えるほど薄いハムカツが関の山。

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それでも盆と正月が、仲良く連れ立ってやって来たような大騒動だった。

だから半ドンの下校時はいつも、「どうかコロッケかハムカツ付の、アタリの日でありますように」と、ひたすら念じたものだ。

ところでその「半ドン」の由来。

どうやら3つの説があるとか。

1つ目は、江戸時代末期、長崎出島のオランダ人から、日曜休日を意味する蘭語のゾンタークが伝わり、やがて博多ドンタクのドンタクと訛り、半日の休日と言う事で「半ドン」と。

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2つ目は、戦時中正午に撃った午砲が「ドン」と鳴ることから、「半ドン」とした説。

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そして3つ目は、半日休みの土曜の意で「半土」となり、やがてそれが「半ドン」にと、諸説ある。

週休二日が当たり前の、当世を生きる子どもらにゃ、土曜の半ドンを待ち焦がれた、昭和時代の子ども心は分かるまい。

今ほど豊かでも無い分、そこそこの貧しさはどこも皆同じ。

ましてや塾通いに追われる者もなく、土曜の半ドンを誰もが指折り数えたもの。

改めて「土曜の半ドン」の魅力を思い返して見た。

しかし明解な答えは浮かばない。

それは母のオコゲのオジヤだったのか?

それとも、天下晴れての休日、日曜前日と言う、開放感の頂を目前に控えていたせいか?

でもいつも日曜の夕暮れが近付くと、開放感の山頂から一気に転げ落ち、高揚感とは似ても似つかぬ、焦燥感に苛まれたものだ。

「しまったあ!まだ宿題が山ほど残っとったあ」と。

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Gifu Poem「お千代保稲荷」と「昭和懐古奇譚」(2013.1新聞掲載)

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お千代保稲荷のお供物(くもつ)は お狐様の耳をした

(わら)に通した油揚げと 淡い灯りの和蝋燭(ろうそく)

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晦日詣りのご褒美(ほうび)は (なまず)蒲焼(かん)の酒

老いも若きも赤ら顔 ぼくは甘酒(よもぎ)

「大晦日の床屋の行列~坊ちゃん刈りとオカッパ頭」

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「昔は床屋の行列で順番待ち。今じゃ娘の福袋の順番取り。えっ?お宅も。そりゃあお気の毒さま。まあお一ついかがですか?お近付に。どうせ私らにゃ、大晦日も新年も関係無し。開店まで毛布に包まって並んどらなかんのやし」。

大晦日、閉店直後のデパート。

軒下には早くも、初売りの福袋を狙う老若男女が陣を張る。

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こんな光景を目にすると、子どもの頃の大晦日を思い出す。

「今日は大掃除に御節の準備と大わらわや。あんたの相手する暇なんてない。邪魔せんと床屋でも行って、頭綺麗に刈ってもらっといで」。

なぜか大晦日の朝になると、必ず決まってそう言われた。

間違っても30日や29日に、前倒しされたことはない。

毎年大晦日の朝が来ると、決まってそんな言葉で追い払われる。

となれば、さすがに大晦日の妙な法則にも気付き、ついつい疑念も生じる。

「ぼくだけ追い払い、お父ちゃんとお母ちゃんの二人して、何ぞ美味い物でも食べとるんと違うやろか」と。

そんな猜疑心を打ち消せぬまま、床屋代を握り締め町外れの床屋へと向かう。

すると既に何十人と、子どもたちが男女入り乱れ、店の外まで列をなして並んでいるではないか!

誰もが木製の丸椅子に所在なく座り、寒風吹きっさらしの路上に並び、擦り切れた漫画本に見入っている。

開店間もない早朝ですらこの状態だ。

そうこうする内に、ぼくの後ろにも新たな列が出来始めた。

遠目越しにガラス窓から、店内の様子を窺って見る。

すると床屋のオッチャンとオバチャンは、夫婦喧嘩でもしたように、終始不機嫌そうな仏頂面。

口も利かず黙々と鋏を振う。

すると次から次へと、まるでベルトコンベアーで運び出される、粗悪な量産品さながらに、坊ちゃん刈りとオカッパ頭に仕上げられた男女が、吐き出されて来る。

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坊ちゃん刈りもオカッパ頭も、前髪は共に眉の上1~2cmの所で、横に真っ直ぐ切り揃えられ、後頭部はバリカンが宛てられた刈り上げ。

昭和半ばの子どもの髪型と言えば、是も非も無く、男子は坊ちゃん刈り、女子はオカッパ頭と概ね決まっていた。

寒風ふきっ晒しの路上で待つこと3時間。

やっと床屋の玄関先へとたどり着いた。

ところが寒さのせいか、風雲急を告げた尿意に抗いきれず、矢も盾もたまらずトイレへと駆け込んだ。

間一髪の危機を脱し、元の席へと戻って見れば、今度は自分の椅子が見当たらない。

席を立っている隙に、これ幸いとばかりに順に詰められてしまったのだ。

何てこったあ!

おまけにぼくのすぐ後ろだったのは、近所でもすこぶる評判のガキ大将。

「文句あんのか!」とでも言いたげな一瞥をよこす。

ぼくはおめおめと、最後尾へと並び直した。

まるでスゴロクの「振出しに戻れ」状態だ。

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結局家へと帰り付いたのは、西の空へとっぷりと日も傾いだ夕暮れであった。

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Gifu Poem「冬の花火と寒粥」と「昭和懐古奇譚」(2012.12新聞掲載)

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まずは「冬の花火と寒粥」がテーマですので、ぼくの「雪花火」を久しぶりにお聴きいただきたいと思います。

「雪花火」

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雪見格子に(くゆ)る湯煙 盆を浮かべてふたり酒 

髪を束ねた湯浴み姿の 君の(うなじ)に雪が舞う

冬の(みぎり)の雪闇割いて ヒュールルと鳴いて舞い上がる

まるで春待つ雪割草か (りん)として気高い 雪花火

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雪見格子に跳ねる影絵は 君が描きし雪兎

ポッと紅挿す君の頬 まるで一葉(いちよう)の浮世絵か

冬の砌の雪闇突いて ヒュールルと咲いて闇に融ける

まるで春待つ雪割草か 凛として気高い 雪花火

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冬の砌の雪闇割いて ヒュールルと鳴いて舞い上がる

まるで春待つ雪割草か 凛として気高い 雪花火 

以前アップした動画です。
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冬の花火に牡丹雪 紅を(まと)って舞い落ちる

湯船に浮かぶ(たらい)(ざけ) 年も暮れゆく旅の宿

浮かれついでのもう一献 褞袍(どてら)羽織りで酔い覚まし

「湯冷めするわ」と妻が注ぐ 湯の香揺蕩(たゆと)(かん)(かゆ)

「加藤隼戦闘隊の飛行帽?」

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昭和32年生まれのぼくにとって、幼い頃から耳馴染んだ音楽と言えば、軍歌に演歌と相場は決まっていた。

それが戦中派だった両親の、一粒種のぼくに対する情操教育であったとすれば、生まれ育った昭和の時代に、未だ拘わり生きる己が姿にも頷ける。

「あっ、加藤隼戦闘隊だ!」。

ビー玉遊びに講じていると、友の声がした。

♪翼に輝く 日の丸と 胸に描きし赤鷲の 印はわれらが戦闘機♪

と、鼻歌交じりに向こうから、自転車がギーコギーコと、油の切れかかった軋み音を放ちながらやって来る。

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どうにも戦闘機の隼と、丸石のトッチャン自転車とでは、似ても似つかぬ。

飛行機乗りならぬ自転車乗りは、短めの鍔の出た革製の耳あて帽と、水中眼鏡を小振りにしたようなゴーグル姿。

襟にボアのついた紺色ジャンパーに、日本手拭のマフラーを風に靡かせ、作業ズボンに安全靴という出で立ち。

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耳あて帽とゴーグルに隠れ、顔こそわからぬものの、あの調子っぱずれな歌声は、紛れも無く家のお父ちゃんだ。

キキキキキーッ。

虫唾が走るほどの、錆び付いたブレーキ音を響かせ自転車が止まった。

「どや?戦闘機乗りみたいで、格好ええやろ?」。

父はいつになく気取ってゴーグルを外した。

「今日なぁ。帰りしなに八幡様の前を通ったら、古道具屋が店出しとってな。これが目に付いたんや。そしたら店の(もん)が『あんたはん目が高い!これぞまさしく、ホンマモンの加藤隼戦闘隊の飛行帽やで』って。そいでもって、『もう今日は店仕舞いやで、今こうてくれるなら目一杯まけとくわ』って言うやないか。今日は給料(もろ)たばっかやし…」。

父は子どもたちの羨望の眼差しにご満悦。

飛行帽の耳あてを下ろして顎の下で止め、ゴーグルを掛け自転車に跨った。

♪印はわれらが戦闘機♪

またしても調子っ外れな鼻歌と共に、軍手に包まれた右手で、子どもたちへ敬礼まで送る念の入れよう。

「ちょっと、あんたあ!いつまでそんなとこで油売っとんの!はよ給料袋持ってこんと、晩のおかずも買いに行けんやないの」と、調子っぱずれな歌を聞きつけたのか、玄関先では母が仁王立ち。

すごすごと自転車を押し帰る父を、手ぐすね引いて待ち構えているではないか。

「なんやのこれっ!給料袋の封が切ったるやない!ああっ!」。

母は見慣れぬ飛行帽にゴーグルと、口の開いた給料袋を交互に見やった。

「すまんな。でもこれ、ホンマモンの加藤隼戦闘隊のもんで、値打にしたる言うもんで…」と、父は恐る恐る母に飛行帽を差し出した。

「どこがホンマモンや!これ見てみい!」。

母は飛行帽の裏側のタグを指さした。

そこにはあろうはずも無い、アルファベットが並んでいるではないか。

「こんなもん、どうせ進駐軍の置き土産に決まっとるわ!」と、憤怒の母を前に父は、さっきまでの威勢はどこへやらすっかり形無しだった。

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Gifu Poem「ひんここ祭りと五平餅」と「昭和懐古奇譚」(2012.11新聞掲載)

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美濃路彩るモミジ()が 長良の川に紅を引き

ヒンココチャイココチャイチャイホイ 五穀の神も舞い降りる

天王山(てんのうざん)(ふもと)では 実りを祝う声弾む

子らは手に手に串刺し団子 大矢田(おやだ)の秋の五平餅

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「木製万能書見台」

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「おっ?早起きして、寝床で本読んどったんか?どれどれ、どんな本読んどったんや?………?何やこれっ!小学生の癖して朝っぱらから、エロ本広げて女の裸眺めとるとは何事や!」。

運の悪い日には、間の悪いことが絶妙に連鎖し、思わぬ増幅効果をもたらすから堪らない。

「まあかん。今夜お父ちゃんが帰ったら、どんだけ泣き喚こうがたっぷりお灸据えてまうで!えかっ!」。

母は捨て台詞を吐き、襖を力一杯に閉め立てた。

折しもエロ本事件が勃発する1週間前、学校では「読書週間」が始まっていた。

「なぁ、布団の中でも寝たまんま本が読めるっていう、万能書見台買ってよ。ちょうど読書週間やし、寝る寸前まで湯川秀樹とか北里柴三郎の伝記を読んで勉強(・・)したい(・・・)し…」。

親にしたらこの「勉強したい」という言葉は曲者。

少なくとも、鳶が鷹を生むなんぞ、ありはしないとわかっちゃいても、もしかしたら親に似ず、出来がいいのじゃなかろうかと、あらぬ期待を抱いてしまうのだから。

それが証拠に両親は、近所でも新し物好きと名高い、ご隠居の家へと向かい、金属製の最新式と言う書見台を見学。

とは言え、おいそれと買える代物では無い。

そこら辺の端材を使って、父が見よう見真似で拵える手筈となった。

「どや?父ちゃん手製の木製書見台は?さあはよ、布団に入って本を宛がってみ」。

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なんだか熱でも出して寝込んだ時に、枕元から吊り下げられた氷嚢釣りさながらの、奇怪な形をした書見台が、仰臥した顔の前に立ちはだかる。

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寝ぼけ眼で飛び起きようものなら、頑丈極まりない無骨な書見台に、顔面を打ち付けるのは必至。

それでもともかく嬉しかった。

その週末。

三重の田舎から、8つ年上の従兄が泊りにやって来た。

来春就職予定の会社の寮を訪ねるとかで。

従兄を本物の兄と慕っていただけに、ぼくはすっかり有頂天。

ちょっと大人びたお(にぃ)の、四方山話や与太話に付き合うだけで、背伸びでもして大人の世界を覗き見る気がしたものだ。

「お前、平凡パンチって見たことないやろ?そりゃあもう、むしゃぶりつきたなるよな、別嬪のネェチャンの裸が仰山出とるんやさ」と、お兄は旅行鞄をガサゴソ(まさぐ)りながら、思わせぶりにぼくを見詰めた。

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当時小学3年のぼくにも、お兄の言わんとすることが、薄ぼんやりと分かる気がした。

その夜、ぼくの煎餅布団の横に客布団を敷き、お兄が休むことに。

するとお兄が「その書見台ええなあ?ちょっと布団代わってくれへんか?」と。

もう一刻の猶予もないほど睡魔に襲われていたぼくは、お兄に乞われるまま客布団で玉砕。

朝方目を覚ますと、お兄はトイレへ向かったのか、ぼくの布団はもぬけの殻。

寝ぼけ眼のまま所在なく立ち尽くしていたところへ、母が押し入って来たと言うわけだ。

どうせ濡れ衣を着せられ、こっぴどく叱られるんだったら、お兄がトイレに立った隙に、馨しい禁断の女体とやらを、この目に焼き付けておくんだったと、幼いながらそう悔やんだものだ。

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Gifu Poem「きのこ列車」と「昭和懐古奇譚」(2012.10新聞掲載)

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見渡す限り黄金色 山間(やまあい)抜けてゆるり旅

秋もたけなわ桃源郷 きのこ尽くしにコップ酒

きのこ列車の(うたげ)なら いっそ揺られて明智まで

道案内は(あき)(あかね) ハイカラ気取り(そぞ)ろ行く

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「希釈用リンス」

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「ちょっと、あんたでしょうが!お母ちゃんが大事にしとる、余所行き用のリンス勝手に使ってまったの!お母ちゃんはあとどんだけ残っとるか、マジックで容器に線引いとるで、誰かが使えば直ぐに分かるんや。それにお父ちゃんは、未だに体洗う固形石鹸で髪洗っとるんやで、犯人はあんたしかおれへん。まあそれにしても、そんな短い髪の毬栗頭に、何でリンスなんぞしなかん?色気付いとったらかんでっ!」。

母から一方的に捲し立てられ、もはや弁解の余地もない。

中学に上がったばかりの年のこと。

男女数人の同級生と、自転車で近くの公園へピクニックに出かけようとした矢先に、幸先よく?母のメガトン級の雷がさく裂した。

その後は現場検証と称し風呂場へ。

洗面器にどれだけの量のリンスを入れ、どれくらいのお湯で希釈したのか、ネチネチとした事情聴取が続いた。

先日、知人と昭和の昔話で大いに盛り上がった。

すると「いつからリンスは、お湯で薄めなくなったのか?」と大いなる疑問が浮上。

昭和40年代半ばの頃は、リンスと言えば洗面器にキャップ一杯ほどの原液を注ぎ、それを一杯のお湯で希釈し、その中へと頭を突っ込むようにして、しばらく髪を浸したものだ。

参考資料

ならば今のように、直接髪の毛に塗り伸ばすリンスは、いったい何時頃から普及し始めたのだろう?

そもそも物の本によれば、江戸時代なんぞはせいぜい月に1回、卵白や灰汁(あく)、お茶や椿油などで髪を洗ったとか。

やがて文明開化の明治に入り、「髪洗い粉」の名で、火山灰や竃の灰に粘土や白土を混ぜたものが売られたという。

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そして明治も10年以降になり、やっと「粉石けん」が洗髪に用いられたとある。

シャンプーという呼び名が、初めて登場するのは昭和元年。

「植物性シャンプー~モダン髪洗粉」がそれだ。

今度はその4年後、ライオン油脂が「すみだ髪あらひ」を発売。

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これが日本初となる、液体シャンプーで、一瓶130g入りの約10回分。

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リンスという言葉が登場するのは、昭和39年の東京五輪以降とあるが、まだまだ庶民には手の届かぬ高嶺の花。

やがて庶民の間に普及するきっかけとなったのは、昭和45年のエメロン・クリームリンス~日本縦断ふりむき娘のCM、ハニー・ナイツの「ふりむかないで」の大ヒットからだ。

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だが当時のリンスはまだ希釈用。

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現在の直接髪に塗るリンスの登場までには、あと5年ほど時代を下らねばならなかった。

♪ふりむかないで金沢の人♪と、ハニー・ナイツの甘い歌声がTVから流れ出すと、たとえ何をしている最中であろうが、一目散にTVの前へと駆け参じ、ブラウン管を食い入るように見詰めたものだ。

そしてナレーターの「ちょっと振り向いてくれませんか?」の声に続き、黒髪の美女が振り向くその姿を、瞬きもせずただただ見惚れていたものである。

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全国津々浦々の黒髪美女の中、ぼくはなぜだか金沢の人に一番心がときめいた。

ちょうど思春期の真っただ中。

街で後姿の黒髪美人を見つけると、つい後をついて行きたくなる衝動に駆られたものだ。

鼻の穴をヒクヒクとさせながら。

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Gifu Poem「ぎふ清流国体と鮎菓子」と「昭和懐古奇譚」(2012.09新聞掲載)

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いただきものの鮎菓子を ちょいとくすねて駆け出して

トーチのように捧げ持ちゃ まるで気分は(きょ)()ランナー

沿道埋めた人だかり 日の丸揺れて有頂天

どーも不思議と振り返りゃ 迫り来る来る絆の灯

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「大判メンコ」

「おおっ、とうとう出たか!大判の沢村栄治」。

子どもの頃の、メンコ勝負の大一番。

戦前の巨人軍。

永久欠番となった背番号14を背負い、マウンドで大きく振り被る、大投手沢村栄治の雄姿が描かれた大判のメンコだ。

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誰もが喉から手が出るほどの一枚。

近所でもその一枚を持っていたのは、たったの一人きり。

だから彼がいつでも標的に。

手持ちのメンコが無くなれば、彼は仕方なく最後の切り札に、沢村の大判メンコで参戦する。

だがさすがに名うての大判。

地べたに軽く叩きつけるだけで、団扇で仰いだようにヘナチョコメンコが、あっという間に2~3枚も捲れ返る始末。

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とは言え、昭和半ば生まれのぼくらが、戦前の沢村を実際に知るはずもない。

ぼくらにとってのヒーローは、王・長島が相場。

しかし伝説の剛速球投手沢村栄治だけは、皆親から聞かされていたのか、ぼくらの世代にも君臨し続けていた。

以前取材で、三重県伊勢市にある沢村栄治の墓前を詣でた。

一際異彩を放つ、硬球ボールを模った墓石。

そこには、彼が命がけで背負い通した背番号の14と、巨人軍のGが刻まれていた。

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この時初めて沢村が伊勢出身と知り、子どもの頃の虚像は一気に等身大に。

中・高と沢村の球を捕り続けた女房役、捕手の故山口千万石さんの妻と息子を訪ねたのだ。

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話が進むうちに、愚かな戦争に翻弄され続け、27歳の若さで散った沢村の数奇な運命を知ることとなった。

沢村栄治は大正6年、宇治山田市(現、伊勢市)生まれ。

京都商業を経て、プロ野球チーム「大日本東京野球倶楽部」(後の東京巨人軍、現・読売ジャイアンツ)に入団。

昭和11年から8年のプロ野球人生で、3度ものノーヒットノーランを達成。

しかし戦局は日増しに悪化。

3度も赤紙が舞い込み戦地へ。

球場の観客を沸かせた白球を、忌まわしい手榴弾に持ち替えて。

沢村はその強肩とコントロールの良さを買われ、常に敵の最前線へと送り込まれた。

球場の歓喜の声は、いつしか戦地の阿鼻叫喚に。

どんな思いで沢村は、敵陣へと手榴弾を放り続けたのだろう。

手榴弾の投げ過ぎで肩を壊し、戦闘の負傷で2度目の復員後にマウンドへ復帰するものの、既に球威もコントロールも失せていた。

そして昭和19年12月2日、敵地へと向かう輸送船が屋久島沖西方で、米潜水艦に撃沈され還らぬ人に。

わずかたった27歳の生涯だった。

・・・沢村さん。辛かったよね。あなたの類稀な右肩は、人々を歓喜させるものであっても、決して人を哀しみの淵に追いやるものじゃなかったはず。でも天国で今は、ベイ・ブルースやルー・ゲーリックを相手に、自慢の剛速球を唸らせ、きりきり舞いさせてることでしょうね・・・

沢村の墓前に佇むと、思わずそんな言葉が胸に去来した。

またお彼岸にでも足を延ばしてみるとしよう。

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Gifu Poem「カミオカンデと笹巻ようかん」と「昭和懐古奇譚」(2012.08新聞掲載)

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神が()()すか四方の山 隠れ座敷の神岡に

宇宙(そら)の彼方の星便り カミオカンデを(おとの)うた

(さや)けし瀬音山田川 船津(みなと)の軒先に

迎え火燈りゃご先祖も 宇宙(そら)の果てから里帰り

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「水風呂で競泳」

「ピッピッピッピピーッ テイマー バーン!」。

母は何ともいいころかげんに、テレビから聞きかじったものか?ホイットスルのピピーッに続き、「take your marks=位置に付いて用意」がテイマー。

最後にピストル音のバーンと、競泳のスタートの合図を、ぼくにそう教え込んだものだ。

「さあ一斉にスタートしました。東京五輪、競泳100m自由形。あっとここで日本のオカダが、アメリカのショランダーを、頭一つ引き離してリード」。

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ぼくは風呂桶の中で水中眼鏡をかけ、東京五輪の競泳遊びに夢中だった。

母に教わったへなちょこ英語で、スタートの合図を真似、風呂桶の中を泳ぎ周りながら、実況中継のアナウンサーまで、一人三役をこなしたものだ。

しかし我が家の風呂桶は、大邸宅の大きなバスタブとは異なり、ほんの一掻きでもしようものなら、たちまち風呂桶の縁にぶち当たってしまう。

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それでも真夏の水風呂遊びは、最高に愉しかった。

東京オリンピックが開催されたのは、昭和39年。

ぼくは小学1年生だった。

では何故、記憶も曖昧な年端も行かぬ小学1年生が、その年のオリンピックのことを覚えているのか。

それは取りも直さず、母の影響に他ならない。

ことあるたびに母は、東京五輪の競泳で4つの金メダルを獲得し、3つの世界新記録という快挙を打ち立てた、アメリカのドン・ショランダーをこき下ろしたものだ。

「まあ許せん!ヤンキー野郎が、金メダルを根こそぎ持ち帰ってまって!」と。

敗戦の辛苦を味わった母にすれば、未だ憎っくき鬼畜米英そのものだったのだろう。

当時の我が家は、二軒棟続きの市営住宅住まい。

6畳と4畳半の二部屋に、小さなお勝手場だけ。

それでもちっぽけな庭が付いていたから、どこの家も勝手に子ども部屋を増築したり風呂場を設けたり。

我が家もその口で、父が斜向(はすむ)かいのご隠居や、釣り仲間の手を借り、日曜大工でせっせと風呂場を作り上げた。

内風呂が完成したばかりの、夏休みのある日。

母が買い物に出かける際、「お風呂に水張っといてよ」と、言いつけられたのをこれ幸いに、さっそく水中眼鏡をかけて東京五輪の競泳遊びに興じる。

ところがしばらくすると、釣竿を片手に父が汗だくで帰って来た。

「おおっ、わしもひとっ風呂浴びるとするか」と、洗面器で掛け湯ならぬ掛け水を威勢よく浴びた!

「おおっ!冷たっ!」。

ぼくはてっきり叱られるかと身構えた。

「おっ、冷やっこてなかなかええもんや」と、父は満更でもなさそう。

それから二人で素潜りの長さを競ったり、両手で飛ばす水鉄砲を教わったり。

しばらくすると母が買い物から帰って来た。

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「なんやの。あんたら水風呂で盛り上がって。それやったらついでに、これも冷やしといて」と、スイカを一玉投げ入れたから始末に負えやしない。

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