「昭和懐古奇譚~卓上お御籤灰皿」(2018.7新聞掲載)

「卓上お御籤灰皿」

写真は参考

「ねぇお母ちゃん、一生のお願い!一回でいいから、このお御籤引かせて!」。

そう言えば、ぼくは母に対して、これまでに何度「一生のお願い!」と言う台詞を、軽々しくも使った事だろう?

家族連れでごった返す、百貨店の食堂。

写真は参考

入り口脇のショーケースには、本物そっくりな蝋細工のご馳走が居並ぶ。

ぼくも両親も、散々迷いからかした挙句、結局は毎月同じお子さまランチと、中華そばに落ち着き、母が入り口で食券を買い求めた。

写真は参考

そしてもう食べ終わりそうな席の近くに陣取り、席が空くのをひたすら待ったものだ。

しかしこれがまた運が悪いと、一旦食べ終わったかに見えたものの、気を持たせるように徐にオバちゃんが立ち上がり、再び食券売り場へ。

「あ~あ…」。

言葉にならない溜息を上げ、その場にへたり込みそうになったこともしばしば。

しばらくすると何とも贅沢な、プリンアラモードやらソフトクリームが運ばれて来て、こっちは今更食事を終えそうな家族連れを探して、移動するのもままならずただただ待ち惚け。

そんな運の良し悪しをグイッと呑み込み、やっとのことデコラ張りの4人掛けテーブルに席を得たところだ。

どこのデコラ張りのテーブルの中央にも、プラスチック製の割り箸入れと、卓上お御籤灰皿が置かれていた。

写真は参考

この卓上お御籤灰皿とは、高さ12~13cmほど、直径12cmほどの円柱形。下に脚が付き、天辺にブリキの灰皿が載っている。

そして円柱部分が12等分に分かれ、「1月生まれ」から「12月生まれ」と表示され、その上部に100円玉の投入口が開いていた。

硬貨を投入し、円柱の下部にあるレバーを引くと、幅2.5cmほどで真ん中がビニールの輪っかで止められた、巻紙状のお御籤がコトリと落ちると言う仕組みであった。(それから程なく、誕生月の表示から、誕生星の表示に切り替わった記憶がある)

「ねぇお母ちゃん、一生のお願い!一回でいいから、このお御籤引かせて!」。

思えばいかにも安っぽい「一生のお願い!」の呪文を、もう一度唱えて見た。

しかしお母ちゃんには、トンと通じる気配すらない。

むしろ気付かぬふりをしていたのかも知れない。

とは言えこっちとて、駄目元で呪文を繰り返す。

するとまるで顔の周りを、五月蠅く飛び回る蠅を追い払うかのように、「そんなもんやめとき!お母ちゃんたーの中華そば(ぼくの微かな記憶によると、確か中華そば一杯は70円くらいだった)もう一杯食べたって、まんだお釣りが来るほどなんやで!」と。

写真は参考

確かに当時のお小遣いなんて、一日たったの10円。

しかもそれすら、毎日内職の針仕事をする母の膝前に座り込み、ご本尊でも拝み倒すようにして、やっとのことでガマグチから10円玉一枚を手にしたものだ。

「ほれみぃ、周りの人んたーなんて、だーれもやっとる人おらんやろ!」。

母が追い打ちをかけた。

お御籤一つに大枚100円を投じるならば、両親が注文した一番安い中華そばも、豪華な叉焼入りにしてあげるべきだと、幼いながらも妙に納得してしまったものだ。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「昭和懐古奇譚~古新聞は万能なりし家庭の必需品!」(2018.6新聞掲載)

「古新聞は万能なりし家庭の必需品!」

写真は参考

パシン!

「ほれっ、どうや!お父ちゃんの、必殺新聞蠅叩きや!お見事、命中」。

お父ちゃんは、お母ちゃんとぼくにドヤ顔を向けた。

左手にビールを注いだコップ、右手には古新聞を丸めた蠅叩きを掲げ。

写真は参考

食卓の片隅に止まり、今し大皿に盛ったコロッケへ飛び移らんとした蠅を、その寸でのところで、お父ちゃんは丸めた古新聞で、器用に叩き潰した。

写真は参考

「まあ、お父ちゃんの取り柄ゆうたら、蠅叩きとゴキブリ叩きくらいなもんやでなあ」。

お母ちゃんは事も無げにそう(のたも)うと、キルト製のお(ひつ)カバーを外し、ご飯茶碗にご飯をテンコ盛りによそいながら鼻先で笑った。

写真は参考

「あっ、お父ちゃん。蠅を叩いた新聞紙、古新聞の束と一緒にせんと、ちゃんとゴミ箱に捨てといてよ。この前なんて、古新聞の束と一緒にしたったで、そんなこと知らんと、危うくお隣さんへお裾分けする、キュウリ包んで持ってくとこやったんやて!うっかりしとったら、えらい恥かくとこやったわ。間違(まちご)うてお隣さんがキュウリの包み広げてみ。中から干からびてペッちゃんこの蠅が、キュウリにへばり付いとったら、さぞかし気色(きしょく)悪いやろ!」。

写真は参考

お母ちゃんの怒りが再燃。

「そやなあ。お母ちゃんの言う通りや」と、お父ちゃんはお母ちゃんの怒りも何のその。

いつものようにそんな言葉で煙に巻き、ただただ嵐が早く収まるようにと、黙々とビールを煽り箸を進めた。

昭和半ばは、読み終えた古新聞と言えど、立派な家庭の再利用資源であった。

弁当箱や野菜を包んだり、時にはちょっとした包装紙にも早変わり。

また、新聞紙を細かく千切って水を含ませれば、座敷の埃を箒で掃き出す、埃吸着シートに。

写真は参考

果ては揚げ物の油切りから、七輪の火熾し用の着火剤、そして蠅叩きとしてと、兎にも角にも丁々発止の大活躍振りだった。

写真は参考

何もそれは家庭に留まらず、量り売りの煎餅やあられの菓子屋でも、お好みや焼きそばにタコ焼き屋から、肉屋に魚屋、八百屋まで、古新聞で作った袋や包装紙を極々普通に、何の衒いも無く使っていたものだ。

写真は参考

今の世では、古新聞や雑誌類は、資源回収され再利用がなされる。

しかし今ほど物が豊でなかった昭和の半ばは、資源回収に回すまでも無く、皆が皆、それぞれに知恵を絞って、限りある資源を大切にしたものだ。

幼稚園の頃、田舎のお婆ちゃん()へ行き、離れに設けられた厠へ入ると、チリ紙籠に程よい大きさに切った、古新聞が束にして積み上げられていた。

写真は参考

それがチリ紙の代用品とは思えず、泣きながら大声でお母ちゃんを呼んだ。

するとボットン便所にでも落ちたのかと、お母ちゃんが必死の形相で飛んで来てくれた。

「どうしたんや?便所にでも落ちたんか?」とお母ちゃんが、力任せに引き戸を開けた。

「だって、お尻拭くチリ紙がないんやもん」とぼく。

するとお母ちゃんは、「これを揉み解したるで、これで拭いとき」と。

写真は参考

お母ちゃんは驚くでもなく、チリ紙籠の古新聞を揉みしだいた。

新聞は、その日その日の出来事を伝える一方、生活必需品の一部としても、限りなく役に立つものだと子どもながらにつくづくそう感じた。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「昭和懐古奇譚~うどん粉って?メリケン粉?」(2018.5新聞掲載)

「うどん粉って?メリケン粉?」

写真は参考

「すまんな、まだ寝とんのに。悪いけどうどん粉って、どこの棚に仕舞うたった?」。

写真は参考

お父ちゃんは日曜日の早朝、まだ暗いうちから起き出して、台所の片隅で何やらゴソゴソやっていた。

どうせ鮒釣り用の餌でも拵えようとしていたのだろう。

ところが肝心要のマッシュポテトもうどん粉が見当たらず、寝室に早変わりした茶の間の襖を、恐る恐るそ~っと開け、小声でお母ちゃんに尋ねたのだ。

写真は参考

「もう朝早うから!いったい今何時やと思っとるの!せっかくの日曜やに!うどん粉うどん粉って、そんな事で起さんで欲しいわ、まったく!メリケン粉やったら、右側の棚の一番下の、大きなアラレの入っとった缶の中やて!」。

写真は参考

お母ちゃんはそう吐き捨てると、不機嫌極まりない顔で、布団の中へと潜り込んでしまった。

「うどん粉」に「メリケン粉」。

その明確な違いも判らず、わが家ではぼくが子どもの頃から、何の違和感もなく、父は「うどん粉」、母は「メリケン粉」と、そう呼んでいた。

それでも普通に父も母も、あまつさえこのぼくでせさえ、意味を違うことなく互いに理解し合っていたようだ。

もっともうどん粉は、うどんの素になる粉であると、朧げに思っていたから、そう呼ばれるのも頷ける。

しかしそれにしてもメリケン粉とは、これまた大胆不敵で不思議な名前だ。

でもだからといって、メリケン粉の語源が腑に落ちようが落ちぬとも、別段日々の暮らしに影響もないから、ずっと有耶無耶のままであった。

小学校の高学年になり、家庭科の時間のこと。

確か調理台を囲んで、男女3人ずつが一組となっていた気がする。

写真は参考

「それでは次に、ボールに小麦粉1カップと、牛乳50ccを入れて、泡だて器でかき混ぜてください」と、家庭科の先生。

するとぼくらの組の、何でもかでも知ったかぶりで直ぐに口を挟む、まあよく言えばリーダーシップを発揮する、男共にとって天敵のような女子が指示を飛ばした。

「井上君はボールと泡だて器を、棚から出して洗って。それから植田君は、牛乳を50ccカップで計って。えーっと岡田君は、小麦粉1カップを教壇へ行って貰って来て」と。

「ええっ、小麦粉って、うどん粉やメリケン粉とは違うの?」。

ぼくは今更恥ずかしい気がして、そう心の中で呟いた。

あの彼女は今頃どうしているであろう?

恐らく押しも押されもせぬ、立派な鬼嫁殿として、今尚我が世の春とばかりに、亭主を尻に敷き君臨しているに違いない。

嗚呼!

クワバラクワバラ。

教壇には既に他の組の女子たちが集まっていた。

しかも男が小麦粉を取りに来ているのは、ぼくらの組だけではないか。

女子たちは小麦粉と書かれた大きな紙袋から、カップ一杯の小麦粉を器用に掬い出しながら、「うどんこって、1カップやったね」「そうや!カップ1杯のメリケン粉やよ」と。

良かったわが家だけじゃなかった!

写真は参考

どこの家でも、それぞれに「うどん粉」やら「メリケン粉」で、罷り通っていたようだ。

だって誰一人として、「小麦粉」なんて呼ばなかったのだから。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「昭和懐古奇譚~舶来ビールの王冠バッヂ!」(2018.4新聞掲載)

「舶来ビールの王冠バッヂ!」

写真は参考

昭和半ばの時代。酒やビールにジュース、醤油から酢まで、酒屋のお兄ちゃんが御用聞きにやって来ては、頑丈な自転車で配達してくれたものだ。

わが家でも、勝手口の開き戸を開けると、その内側に御通い帳が吊り下がっていた。

「毎度~っ!奥さん、三河屋で~す。ビールここに置いときますよ!」と、近所の酒屋、三河屋のケンちゃんが、開き戸から顔を覗かせた。

写真は参考

すると奥の茶の間で、内職に勤しんでいた母が、腰を上げ勝手口へ。

割烹着のポケットから、チリ紙に包んだ飴玉を、ケンちゃんに握らせた。

「いつもご苦労さんやねぇ。これ、ほんのちょっとやけど、道々舐めてって」と。

するとケンちゃんは、野球帽を取ってペコリ。

「おおきに!」と一言。

玄関先の頑丈な自転車にまたがって、玄関脇にボ~ッと突っ立っていたぼくを手招いた。

ケンちゃんは三河屋と、白く染め抜かれた帆前掛けの、前にあるポケットをまさぐり、「ぼう、珍しい舶来ビールの王冠やろか?」と。

写真は参考

もちろん興味津々でケンちゃんに駆け寄った。

すると緑色の太いドーナツ状の円形の中に、白色のアルファベットが浮き上がり、真ん中に真っ赤な星が描かれた、これまで一度も目にしたことの無い、綺麗な王冠を取り出した。

写真は参考

「これ、ええやろ。ハイネッケン(・・・・・・)と言う、オランダのビールの王冠やて。どうや、バッヂにしたろか?」。

嬉々として頷くと、ケンちゃんは器用にポケットから釘を取り出して、王冠の内側のコルクを見事な手付きで剥がし取った。

写真は参考

そしてぼくのランニングシャツの、左胸の辺りに内側からコルクをあて、外側に王冠を宛がい嵌め込んだ。

すると見事に、世にも珍しい王冠バッヂが、ぼくの薄汚れたランニングシャツの左胸に、燦然と輝いた。

「ありがとう、ケンちゃん」。

ぼくが目を輝かせながらそう言うと、ケンちゃんは「また、珍しい舶来ビールの王冠手に入れたら、ぼうにまた持って来るでな。さあ、皆に自慢して来たれ!」と。

気をよくしていつもの公園へ向かうと、直ぐに草野球チームの仲間が寄って来た。

そしてぼくの左胸の勲章、舶来ビールの王冠を羨まし気に、繁々と眺め始めた。

「それって、どこの国のビールの王冠や?」とか、「どうしてそんな珍しいもん、持っとんや!どこで手に入れたんや?」と、もうとにかくヤイノヤイノ。

写真は参考

皆の胸には精々、国産ビールの王冠やら、サイダーの王冠がやっと。

だからぼくは、もう鼻高々の有頂天。

皆の羨望の眼差しを一身に受けながら、いつものように草野球が始まった。

この日は、舶来ビールの王冠の魔法か?投げて良し打って良し、それに走って良しに滑り込んで良しと、すこぶる絶好調。

棒っ切れで線を引いただけの、ダイヤモンドならぬ三角ベースの球場を、縦横無尽の大活躍だった。

「あれっ?ミノ君、あの舶来ビールの王冠は?」と、サッチャンが問う。

慌てて胸元を確かめると、左胸のシャツに御用聞きのケンちゃんが取り付けてくれた、自慢のバッチがなくなっているではないか!

目の色変えて慌てて探し回り、やっとバッターボックスの所で、土に埋もれたバッチを発見。

ところが既に、何度も皆のズック靴に踏まれペッチャンコ。

だからか、今でもスーパーのビール売り場で、「Heinekenハイネケン」のロゴを目にする度、あの日の事を懐かしく思い出してしまう。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「昭和懐古奇譚~大は小を兼ねる!刃傷(にんじょう)松の廊下」(2018.3新聞掲載)

「大は小を兼ねる!刃傷(にんじょう)松の廊下」

写真は参考

東京銀座の中央区立泰明小学校が、高級ブランド「アルマーニ」監修の制服、一式9万円にも及ぶものを採用するとかしないとかで、先だって来おおいに物議を醸しだした。

その記事に触れながら、小学6年の今頃をつい懐かしく思い出した。

「何はともあれ、3年間は持たせなあかんで。どうせならこれくらい大きい方がええんやない?」。

お母ちゃんに伴われ、小学校卒業を目前にした、バス停前の洋品店「マルエ」の店内での事。

写真は参考

この「マルエ」は、ぼくが通学する中学校指定の制服を扱っており、店内は同い年の男女とその母親らで、てんやわんやの大騒ぎ。

どこの家でも同じような会話が、交わされていた。

「皆さん大は小を兼ねるゆうて、3サイズくらいは大きいな、ブカブカの制服を選んでかれるよ」と、客の対応で天手古舞な「マルエ」のオバちゃん。

「さあ、いっぺん学生服に袖通して、ズボンも履いてみ!ズボンの裾とか胴回りやら、制服の袖の長さを直したらなかんで!」と、「マルエ」で買ったばかりの、ボール紙製の衣装箱から、母が学生服を取り出した。

すると「お父ちゃんも、お前の制服姿、いっぺん見せてまわなかん」と、父まで卓袱台を片隅に寄せ、ビール片手に早くも地歌舞伎の大向うの観客のよう。

すると茶の間の座敷の真ん中まで、まるで小さな舞台のようではないか!

お母ちゃんに言われるまま、試着が始まった。

学生ズボンの胴回りはどうみても、もう一人ぼくが入れるのではないか、と思えるほどのブカブカ。

写真は参考

しかもズボンの裾は、足の裏から優に30cm以上も長く、畳の上を引き摺る格好だ。

すると赤ら顔した父が、「いよっ、浅野内(あさの)匠頭(たくみのかみ)!刃傷松の廊下や。『各々方(おのおのがた)、 各々方!お出合いそうらえ! 浅野殿刃傷にござるぞ!』」と、囃し立てる。

写真は参考

お母ちゃんがズボンの裾を折り返し、待ち針を打ちながら笑い転げた。

ぼくはブカブカダボダボの学生服を羽織らされたまま、この先の中学校生活が妙に思いやられてならなかった気がする。

銀座の小学校のアルマーニの制服ほどではないにせよ、両親にすれば小学生から中学生に上がる時の出費は、そりゃあ並々ならぬものがあったことだろう。

現にぼくの同級生でも何人かは、お兄ちゃんやお姉ちゃんのお下がりだと言う、着古された学生服やセーラー服で、入学式に臨んだ者も間々あった。

その点わが家は一人っ子のため、何から何まで新品で揃えるしか手立てはなく、お母ちゃんの遣り繰り算段も、さぞや大変だったに違いない。

だから学生服だって、体の成長に応じ3年間で2着も3着も、その都度買い替えるなど以ての外。

となれば後は、母の得意の洋裁に物を言わせるしかない。

3サイズも大きな学生服上下を、まずは手頃なサイズに縮め、その先はぼくの成長に応じ、胴回りも袖も裾も、折り畳んで隠してあった生地を、徐々に伸ばして行けばよい。

写真は参考

あの時代は、どこのお母さん方も同じ考えだったようだ。

何故なら、ズボンの裾も上着の袖も、2年生になると1本線が入り、3年生になると2本線が、まるで皆で申し合わせたように、くっきりと浮き出していたのだから。

写真は参考

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「昭和懐古奇譚~百貫でぶと、骨皮筋衛門」(2018.2新聞掲載)

「百貫でぶと、骨皮筋衛門」

写真は参考

♪でぶでぶ百貫でぶ 車に轢かれてぺっちゃんこ ぺっちゃんこは煎餅 煎餅は丸い 丸いはたまご たまごは白い 白いはうさぎ うさぎは跳ねる 跳ねるはカエル カエルは緑 緑はきゅうり きゅうりは長い 長いはへび へびは怖い 怖いは幽霊 幽霊は消える 消えるは電気 電気は光る 光るは親父のハゲ頭♪

昭和の半ば。

小学生低学年の頃の事。

太っちょな子を見掛けると、これといった悪意もなく、こんな()れ歌をよく口ずさんだ。

すると「♪でぶでぶ百貫でぶ♪」と言われた、太っちょな子からは決まって、「へぇ~ん、だ!お前なんて骨皮筋衛門の癖に!」と、これまた決まり文句のような、応酬の台詞をオウム返しにされたもの!

写真は参考

でもさすがに女子に向って「骨皮筋子」とは、誰も言わなかった気がする。

だからと言って、百貫でぶだとか、骨皮筋衛門と茶化されようが、それを根に持つ子など誰れ一人としていなかった。

しかしこれが、平成も末の世ともなると、やれ虐めだ、やれ差別だと、茶化された当の本人より、(はた)がやいのやいのと難癖をつける。

たかが所詮、子どもの仲良し喧嘩なのに。

眉間に皺を寄せ子どもの世界に割って入る、何とも大人げない大人たちもいたものだ。

当時の子どもらは、そもそも「♪でぶでぶ百貫でぶ♪」の「百貫」に、どんな意味があるかさえ知らず、ただ耳馴染みや調子のよい節回しと、尻取り唄が可笑しく皆が好んで口にした。

百貫とは、一貫が3.75kgだから、375kgとなる。

当時は、長さを「尺」、質量に「貫」を使った、日本固有の尺貫法が、昭和34年に廃止され、メートル法へと移行されて間もない頃だ。

とは言え、未だ戦後20年足らずのこと。

今ほど食生活自体決して豊かではなく、児童の肥満も問題視されるほどでもなかった。

当時も今も、375kgも体重のある百貫でぶの子がいたなら、正直お目に掛かりたいくらいのものである。

さすがにこれだけ飽食の時代となった現代でも、大相撲の力士二人分に相当する、そんなにも体重のある巨漢の児童など、見たことも聞いた試しも無い。

思うに「♪でぶでぶ百貫でぶ♪」の戯れ歌は、食糧事情の悪かった時代、栄養の行き届いていない瘦せっぽちな子からの、やっかみ半分の嫉み節であったのではなかろうか。

写真は参考

当時、うちの両親を含め大人たちは、そんな戯れ歌を(とが)めることもなかった。

一方、「骨皮筋衛門」呼ばわりされた子のお親だって、いちいちそれに目くじらを立て、やれ虐めだやれ差別だなどとは、決して言わなかったものだ。

ぼくも小学校3~4年頃までは、「骨皮筋衛門」と皆から笑われるほど、貧相な体型をしていた。

だから皆からそう揶揄(からか)われたくなく、よく食べよく遊んだ。

その甲斐あってか、小学5年になると急激に成長を遂げ、健康優良児として他校の生徒と、体格や体重を競い合う大会へ出場するほどとなった。

写真は参考

そこで止まればいいものを、そのままどんどん成長が続き、今度は逆に「♪でぶでぶ百貫でぶ♪」と茶化される羽目に。

一番困ったのは、両親であったに違いない。

我が子が日に日に、急成長を遂げる姿は、両親にすれば嬉しくもあり、また一方、次々と洋服のサイズが合わなくなってしまい、家計を逼迫させる羽目ともなり、さぞかし痛し痒しの想いであったに違いない。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「昭和懐古奇譚~ショチョウのお赤飯?」(2018.1新聞掲載)

ショチョウ(・・・・・)のお赤飯?」

写真は参考

「こんにちは」。

その声に応じるように、母が玄関の引き戸を開ける。

するとそこには、いつになくめかし込んだ着物姿の、3軒向こう隣のタカちゃんのオバちゃんだ。

紅白の水引きの掛かった、折り詰めを差し出し「この子もやっと大人の仲間入りさせて貰いましたで、これからもどうかよろしく」と。

よく見るとオバちゃんの後ろで、着物姿のタカちゃんが頬を赤らめ、恥ずかしそうにもじもじしているではないか!

「そうか、タカちゃん。それはおめでとさん」。

母は折り詰めを押し頂きながら、こっそり胸元からポチ袋を取り出すと、タカちゃんの襟元へと偲ばせた。

「さあ、タカちゃんのお祝いのお赤飯やで、有難くみんなで頂こう!」。

母は卓袱台の上で折り詰めを広げ、胡麻塩を振り掛けた。

写真は参考

「そうかタカちゃん、もう紅いお印があったんか!そりゃ目出度いな」と、お父ちゃんも嬉しそうだ。

「?????」。

ぼくには何が何やら、さっぱりチンプンカンプンだった。

「ねぇねぇ、お母ちゃん。ぼくとタカちゃんは、同い年だから、小学5年のまんだ11歳なのに、なんでタカちゃんだけ今日から大人なの?ぼくなんてまだバス賃だって、子ども料金やよ?それに何でタカちゃんは、お赤飯拵えてまって、近所回しに配って歩くん?」。

その晩ぼくは、どうにも腑に落ちず、お母ちゃんを問い詰めた。

「そっ、それは…。そんなことは、お父ちゃんに聞き!」と。

風呂上がりを待ち構え、お父ちゃんに尋ねて見る。

すると「お父ちゃんは…、男やし…」と、とにかく歯切れが悪い。

それでもお赤飯の由来をどうしても知りたくて、お隣のご隠居、澄川さん家の婆ちゃんにこっそり尋ねて見た。

「そりゃあなぁ、女の子には『ショチョウ』って言うてな、大人の女になった証しに、紅っかいお印のお遣いがやって来るんやて。まぁ、ミノ君ももう少し大人になったら、自然とその意味が分かるでええって」と。

それにしても、その「ショチョウ」と「紅いお印」と言う、耳慣れぬ言葉が、どうにも頭から離れなかった。

しばらく経った授業中のこと。担任の女教師が「来年、いよいよ平和の『象徴』として、「人類の進歩と調和」をテーマに、大阪万博が開催されます」と、晴れやかな声を上げ、黒板に書き綴った。

写真は参考

「ショチョウ」じゃなくって、『ショウチョウ』ってことか?

またしてもぼくの頭の中では、「ショチョウ」と「紅いお印」に「象徴」が三つ巴となってグルグル回り出す。

どうにも我慢出来ず、職員室の担任女教師に尋ねた。

すると先生も一瞬口ごもり、「そ、それは…、保健室で保健の先生に尋ねなさい」と。

写真は参考

保健室の女の先生は、「もう少しすると、保健体育の時間で、男子も教わるから、それまで待ちなさい」とのこと。

結局ぼくは、保健体育で真実を教わるまで、恥ずかしながら「初潮」を「象徴」と勝手に思い込んでいた。

おまけに「紅いお印」とやらは、大阪万博会場に棚引く、紅い日の丸だと思うことで、そのモヤモヤを打ち消していたのだ。

でも大人たちを真似、うっかりタカちゃんに「お目出とう」なんぞと、知ったかぶりして口を滑らせなくて良かったのかも知れない。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「昭和懐古奇譚~ネズミの歯になぁ~れ!?」(2017.12新聞掲載)

「ネズミの歯になぁ~れ!?」

写真は参考

「ネズミの歯になぁ~れ!」。

昭和半ばの時代、乳歯が抜けると子どもたちは、母から教わり下の歯が抜けたら屋根へ。

写真は参考

上の歯は縁の下へ向かって、節回しこそすっかり忘れ果てたが、「ネズミの歯になぁ~れ!」と、口々に唱えながら、投げさせられたものだ。

写真は参考

結構ぼくも母と一緒に愉しみだったように記憶している。

当時は、何でその呪文が、よりにもよって嫌われ者の「ネズミ」だったのか?

そんなことは、とんと気にも掛けていなかった気がする。

まだまだ今と比べたら、とんでもなく不衛生な時代であったものの、わが家の中でネズミを見かけたことはなかった。

時折見掛けるにしても、下水溝のドブの中をササッ走って逃げる姿くらいを目にする程度。

もっとも古くから立ち並ぶ、飲食店の方がネズミにとってお目当ての餌も、わが家なんぞより遥かに豊富だっに違いない。

だからぼくなんぞは、白黒テレビで楽しみに欠かさず見ていた「トム&ジェリー」の、あの愛らしいネズミのジェリーへの愛着の方が、不衛生の権化の様に忌み嫌われる本物のネズミよりも勝り、「ネズミの歯になぁ~れ!」と唱えることに、いささかの抵抗もなかった。

後になって分かった事だが、ネズミのように強い永久歯が生えますように、との意味合いがあるようで、地方によっては「ネズミの歯」の代わりに、「鬼の歯」「雀の歯」などが使われる地域もあったとか。

ちなみに西洋では、トゥース・フェアリーなる歯の妖精が存在し、抜けた乳歯を枕の下に置いて寝ると、翌朝その妖精がプレゼントやコインと交換してくれるとか!

写真は参考

一方フランスにも、日本同様ネズミの歯のまじないが存在したそうだ。

何でもネズミの歯は、人間と異なり、生涯伸び続けるとかで、永久歯が丈夫になるようにとの、そんな願いも込められていたのだ。

ところが、乳歯が難なく抜けた後の「ネズミの歯になぁ~れ!」と、屋根や縁の下へ放り投げるのは楽しいものの、その前の恐怖の儀式だけは嫌で嫌でしかたなかった。

乳歯がグラグラになってくると、母は何だか嬉しそうに「お母ちゃんが、そっと痛ないように抜いてやるで!」と、妙に意気込んだものだ。

まずは母の膝枕で仰向けとなり、口をこれでもかって言うほど大きく開かせられる。

次に母は、木綿糸をグラグラになった乳歯に巻き付け、「エイヤー!」っと気合もろとも引っこ抜く、そんな前時代的で手荒な抜歯術であった。

写真は参考

しかしそれを拒もうものなら、鉄板を掴むヤットコを、お父ちゃんの大工道具から取り出し、「そんなに糸で抜くのが嫌やったら、ヤットコで掴んで簡単に済ませたろか?」と。

写真は参考

こうなったら手も足も出しようがない。

まるで俎板(まないた)の鯉の気分で観念し、母の手荒な抜歯術が一刻も早く終わるよう、目を瞑ったままひたすら祈り続けたものだ。

「よっしゃ~っ!抜けた、抜けた!」。

今にして思えば、母が一番嬉しそうだった気がする。

いつの間にか高度成長時代の置き土産の様に、高層マンションが立ち並び、「ネズミの歯になぁ~れ!」と、まじないを唱え投げたくとも、もう何処にもそんな手頃な屋根も縁の下もなくなってしまった。

写真は参考

確かに手荒な抜歯術だけは、何ともおぞましい儀式ではあったが、「ネズミの歯になぁ~れ!」と純真な心で、母と一緒に唱えたあの頃が、今となっては無性に恋しくてならない。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「昭和懐古奇譚~学芸会の役どころ」(2017.11新聞掲載)

「学芸会の役どころ」

写真は参考

「それでは、今度の学芸会で演じる劇『真っ赤っかの長者』の、配役を発表します」。

昭和半ばの小学校4年のこと。

担任の竹田信子先生が教壇に立ち、クラスの皆を眺め渡しそう告げた。

どうかどうか、主役である「真っ赤っかの長者」役を、このぼくが射止められますようにと、心の中で願った。

ところが、主役の「真っ赤っかの長者」役は、学級委員長で成績もクラスで1番の、佐原君と決まった。

まあしかし、それが全うと言えば全うであると、妙に幼心に納得したものだ。

しかし心の中のぼくは、「何でなんだよ~っ!」と、竹田先生をちょっぴり恨んだものだ。

確かに優秀な佐原君に比べ、ビリから数えた方が早いようなぼくなど、手の届かぬ高嶺の花の主役だった。

写真は参考

ならばせめてもと、ガリ版刷りの台本を佐原君から借り受け、一晩掛けてノートに書き写し、毎日毎日お経でも唱えるように、台本を繰り返し繰り返し読み耽ったものだ。

写真は参考

その時の、お母ちゃんの驚き用は、今でも忘れたことがない。

いつもはあれだけ口が酸っぱくなるほど、「宿題済んだのか?予習は終わったのか?時間割の教科書は、ランドセルに入れたのか?」と、内職の洋裁の手も止めず、目も逸らさず、ぼくの気配を察して、一つ覚えの念仏のように繰り返すばかりだったのに。

必死になって台本を読み耽る姿に恐れをなしたのか、突然ぼくのおでこに手を当て、「ちょっとあんた、熱でもあるんやない?」とか、「ココアでも入れたろか?」と。

こっちの方が、いつにない母の優しさに、何か良からぬことの前触れではないかと、脅えるほどであった。

その甲斐あってか、学芸会の日には、すっかり台本一冊分の台詞が、空で言えるほどになった。

ところが端役も端役の、単なる立木役のぼくの台詞なんて、ひとっこともない。

写真は参考

だから本番で緊張し、頭が真っ白になり、台詞がちっとも出てこないクラスメイトに、小声で教えてやる程だった。

それ故ますますもって、主役の「真っ赤っかの長者」役が演じたくて、居ても立っても居られない。

そこへ子供会のクリスマス会で、何か出し物をと言う、渡りに船の話が舞い込んだ。

ぼくは有無を言わさず、学芸会で果たせなかった、「真っ赤っかの長者」をやろうと、近所の子どもたちを説き伏せ、台本が丸々頭に入っている利点を活かし、まんまと主役を手にした。

ところが、肝心の衣装も小道具も、自分たちだけで全て工面することに。

ぼくの役である主役の「真っ赤っかの長者」は、着物姿に丁髷(ちょんまげ)を結い、草履履きで、鼻の頭を真っ赤にしなければならない。

着物と草履は、お父ちゃんが正月にだけ着る一張羅を、そして真っ赤な鼻の頭は、お母ちゃんの鏡台から、一本きりの口紅で何とかなった。

しかし最大の問題は、丁髷。

紅白裏表の体操帽の白い方に、肌色と水色の絵の具を塗り付け、水色の絵の具で月代を(さかやき)を描く念の入れよう。

写真は参考

しかしその後の(まげ)(もとどり)が、如何ともしがたく悩んでいると、隣のご隠居がやって来て、わが家の老犬ジョンの抜け毛を集めて来いと言う。

ジョンの小屋に潜り込み、抜け毛を集めた。

写真は参考

「よっしゃー、これでどうだ!」と、ドヤ顔のご隠居。

何だかとても長者さんの丁髷とは、お世辞にも言えぬ様な、百日蔓頭(かずら)だ。

しかし贅沢など言えぬ。

いよいよクリスマス会本番。

写真は参考

お父ちゃんの着物の裾が長く、引き摺りながら演じていると客席から「いよーっ、赤穂の殿様か?それとも吉良様か?」と囃子声。

まさに殿中松の廊下さながら。

それはともかく、頭の体操帽の(かつら)からは、ジョンの獣臭さが鼻を突き、何とも言えぬ「真っ赤っかの長者」、初主演の舞台と相成った。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「昭和懐古奇譚~人間かせくり機」(2017.10新聞掲載)

「人間かせくり機」

写真は参考

秋風がひんやりし始めると、母が押入れから柳行李を引っ張り出す。

そして柳行李の奥底から、虫が食った穴開きの、古ぼけたセーターを引っ張り出した。

毎年この風景を見る度に、しずしずと秋が深まり、やがて冬が訪れるのだと、子どもながらに感じたものである。

両親の着古した穴開きのセーターや、ぼくの袖が短くなったツンツルテンで寸足らずのセーターが、手際よく解体されていく。

写真は参考

そしてそれぞれ、毛糸の色や太さごとに分け、母は徐に宙をながめる。

中途半端な、色や太さの異なる毛糸を紡ぎ、何とか冬が来るまでに、ぼくのセーターを仕立て直してやりたいと、きっとそんな想いを巡らせていたに違いない。

しかしこっちゃあ、遊び盛りの腕白少年。

何とかその場を抜け出し、友の待つ草野球に早く合流せねばと、隙を伺うばかり。

するとまるで、そんな姑息な考えを見抜いたような母の声。

「ちょっと。両手をまっすぐ前に突き出して、肘を垂直に曲げて!そうそう、指先を天に突き出すように!」と。

毎年この時期恒例とも言える、かせくり機役を仰せつかったものだ。

写真は参考

後は逃げ場を失い、仕方なく母に言われるまま、左右の腕を交互に前後させ、母が繰り出す毛糸を両腕に束ねて行く。

するとわずか5分も経たないうちに、両腕がプルプルと震えだす。

「なんや情けない、もっとしっかり両腕開いて!」と、容赦ない母の声に打ちのめされた。

晩御飯の片づけが終わると、お父ちゃんやぼくが寝静まってからでも、母は小さな裸電球の薄明りを頼りに、せっせと編み棒の先を絡ませ、一編み一編みセーターを編み上げてくれたのだろう。

写真は参考

それから幾日かが過ぎ、いつものように学校から戻ると、母が玄関でぼくを待ち構えていた。

「やっとセーター編み上がったで、ちょっといっぺん袖通してみ」と、母。

ランドセルを投げ出すや否や、手編みのセーターを頭から被せられた。

写真は参考

「どうや?ちょっと後ろ向いてみ?うん、袖丈も裾の長さもぴったりや!」と、母はご満悦。

「今度の遠足の日にでも、着てったらええわ!皆、ハイカラナセーターやで、きっと腰抜かすで!」と。

母はすこぶるご機嫌な様子だった。

丸首の何でもないセーターだが、毛糸の色が首から胸までと、胸から臍の辺りまで、さらにはそこから裾までと色がまちまちなのだ。

しかも極めつけは、左右の袖の色も別々。

服飾デザイナーが予め計算し、デザインされたものならば、それなりのお洒落な柄として映るはずだが。

写真は参考

しかも母の手編みのセーターは、色も太さも長さすらまちまち。

異なる毛糸をただただ便宜的に、紡ぎ合わせただけの作品である。

だから何処からどう見たところで、解体したセーターの毛糸で編み直した事など一目瞭然。

ぼくは正直、遠足の日が憂鬱でならなかった。

遠足当日。

気恥ずかしい思いのまま登校すると、クラスの10人ほどが、ぼくに負けず劣らず不格好なセーターを、何の躊躇いもなく着ていた。

そうなりゃあ、もう気恥ずかしさなんて何処へやら。

ぼくの不格好なセーターからは、時折母の匂いと、袖からは父の煙草の匂いがほんのり漂う。

写真は参考

この世にたった一つきりの、母の温もりに満ちたとても暖かなセーターだった。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。