「昭和懐古奇譚~ハイカラなスピッツと、白足袋の雑種犬」(2014.3新聞掲載)

「ハイカラなスピッツと、白足袋の雑種犬」

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昭和半ばのあの頃は、ご近所さんらと見比べても、今ほど貧富の差は無かった気がする。

だからかどこの家でも、晩のおかずの煮物を作り過ぎたとか、天ぷらをテンコ盛りに揚げ過ぎたと言っちゃあ、仲の良いご近所中にせっせと配って歩いたもの。

そんな相身互いの精神が根付くと、ご近所のお母ちゃんたちも小狡くなる。

「ねぇあんたとこ、今日煮物?ならうちは炒め物にしとくわ」ってなもんで、互いに交換する献立が被らないよう、ちゃっかり市場で打ち合わすほど。

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しかしそんなお母ちゃんたちの、爪に火を燈す様な遣り繰りが、安月給の世の宿六どもを支えたのだから侮れない。

食べる物や着る物など、基本的な生活水準に大差はなくとも、お母ちゃんたちの年代によって、暮らしぶりは大きく異なる。

中でも鮮明な記憶として残っているのは、飼い犬の種類だ。

当時はまだ、ペットなどとハイカラな呼ばれ方もせず、ましてやペットフードも無い。

ちょっとモダンな若夫婦の家では、スピッツを飼うのが当時のブームだった。

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真っ白な毛並みで、とにかく誰彼かまわず、キャンキャンキャンキャンと鳴き散らした小型犬である。

家の母より4~5歳若く、子どももまだ小さな若夫婦の家では、それこそ猫も杓子もスピッツをこぞって飼ったものだ。

「あらまあ、可愛いわねぇ。お宅もついにスピッツ飼ったの!」と、羨ましげに愛想良く振る舞う母。

しかしその舌の根も乾かぬうちに「まったくあのスピッツと来たら、のべつ幕なしに吠え散らかして、もう五月蠅いったらあれへん!」と、母は手のひらを返したように容赦なかった。

「それに引き替え家のジョンときたら、雑種だけど大人しくってお利口さんだわ。ちょっと白足袋履いとるんだけが、玉に傷やけどな」と、ぼくを相手によく愚痴ったものだ。

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幼いぼくには、母の「白足袋履いとる」が、どうにもこうにも「白カビ掃いとる」と聞こえ、なんとも不思議でならなかった。

「まさかジョンが箒で白カビ掃くなんて出来っこ無い。とすれば、小屋の周りの土にでも白カビが生え、それを後足で蹴り飛ばすのを、白カビを掃くというのだろうか?」と。

そうなると、その現場を一目見なけりゃ気が済まぬ。

学校から一目散に帰ると、玄関脇でこっそり身を隠し、ジョンの生態観察を始めた。

しかし待てど暮らせど、そんな気配も無し。

そうこうしている所へ、お向かいのご隠居がいつものように、煮物の鉢を抱えてやって来た。

するとジョンが匂いに惹かれ、ご隠居の足元にキュ~ンと甘えて纏わり付く。

「お~よしよし。ジョンは本当にお利口さんやなあ」。

「でも白足袋さえ履いとらないいんやけどねぇ」と母。

―出た!また白カビだぁ!―

するとご隠居がジョンを抱き上げ、足の先を手で振りながら「白足袋は日本じゃ忌み嫌われるけど、英国ではホワイト・ソックスって言うて、幸福をもたらす縁起もんやぞ」と。

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忽ち気を良くする母に対し、ぼくの謎は益々深まるばかりだった。

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「昭和懐古奇譚~菜っ葉服?それともドンゴロス??」(2014.2新聞掲載)

「菜っ葉服?それともドンゴロス??」

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昭和も第4コーナーに差しかかる、昭和40年代後半の事。

「ちょっとあんた、そんな色の剥げた菜っ葉服みたいな、みっともないもん着て行かんといて!」。

ギターを抱え出掛けようとした途端、母のいつものお小言が始まった。

それにしても今日のお小言は、どうにも意味不明で尋常ではない。

その日の()で立ちは、なけなしの小遣いでやっと手にした、ダンガリーシャツにジーンズ。

それが何故(なにゆえ)「菜っ葉服?」なのか。

フォークソングクラブの練習だから、それ相応のはずなのに…。

ってか、「これじゃなきゃ、フォークソングっぽく無いジャン!」と、母への反論を思わず呑み込んだ。

なぜなら、万に一つでも口答えしようものなら、それこそぼくの一言に対して十倍返しの口数で、ネチネチ長々と応戦されるのがオチ。

既に学習済みであるから、ぼくの戦意も自ずと喪失。

見ざる、聞かざる、言わざるを信条に、スタコラサッサと玄関を後にした。

すると今度は背後から、「なんやの!そのドンゴロスのずた袋は?まるでルンペン(今なら不適切な言葉だと、お叱りを受けるとしても、昭和半ばには立派に通用していた)みたいやがな!」と、母はまだ戦意を無くしてなどいなかった。

しかもこれまた「ドンゴロスのずた袋」とは?

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ぼくはその日、珈琲豆を輸入する際の、麻袋の生地で仕立て直した巾着袋に、ギターの小物などを入れ、ショルダーバッグのように肩から吊り下げていた。

もっともぼくとしては、アメリカン・ヒッピーを真似た、イケてるファッションのつもりだったのに。

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それをこともあろうに、「ドンゴロスのずた袋」などと、一刀両断に切り捨てるとは。

さて、これまでの(くだり)の中に登場した語に、何一つ疑問を抱くこともなく、一気に読み進められたであろうか?

だとすれば貴方は、もはや押しも押されもせぬ、泣く子も黙る立派な昭和人の鏡である。

なぜならここに登場した「菜っ葉服」に「ドンゴロス」、「ずた袋(頭陀袋(ずだぶくろ)の誤読。僧侶が托鉢に用いた布製の袋。現在は巾着袋同様で、ショルダーバッグに近い)」や「ルンペン」は、平成も四半世紀が過ぎた今、昭和の終焉と共に死語になりそうな、いずれも絶滅危惧種の語だからだ。

参考資料

本来の意味はと言うと、「菜っ葉服」は労働者が着る青色の仕事着。

一方の「ドンゴロス」は、ダンガリー「dungaree」から転じた語で、粗く織った薄茶色の丈夫な麻布。

この麻布の袋に胡椒を入れ、インドから輸出したことから、麻袋までドンゴロスと呼ばれたという。

そして子ども心にも、忌み言葉の様に感じ、その本意を誰にも尋ねられず、勝手に解釈してしまっていた「ルンペン」。

参考資料

これはドイツ語のLumpenそのもので、布切れや襤褸(ぼろ)服を意味し、それをまとってうろつく浮浪者の意味だと辞書にある。

いずれもぼくには、懐かしさの込み上げる、味わい深い言葉だ。

「昭和は遠くなりにけり」。

果たして時代が遠退いたのか?

そうでは無いであろう。

今を生きる私たちが、今の世を生き抜かんと身の丈を合わせ、過去の言葉や道具に風習さえ、自らの手で葬り去って来たからではなかろうか?

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「昭和懐古奇譚~母の嫁入り道具~万能菜切り包丁」(2014.1新聞掲載)

「母の嫁入り道具~万能菜切り包丁」

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関市の日本刀鍛錬の模様が、年明けに報じられると、毎年決って想い出すことがある。

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それは子どもの頃の、わが家にあった包丁のこと。

亡くなる寸前まで、母が台所で手にした包丁は、後にも先にもたったの1本きり。

故に大人になるまで包丁と言えば、母が使った「菜切り包丁」だけだと、微塵の欠片さえ疑ったことも無い。

然るに出刃や三徳包丁を知ったのは、随分大人になってからだった。

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母の手にした菜切り包丁は、恐らく自らで揃えた、わずかばかりの花嫁道具の一つだった気がする。

新婚以来永い年月で、刀身(とうしん)は真っ黒。

何度も砥ぎに回し、切刃(きりば)も痩せ細り、晩年には柄が腐り、(なかご)もぐらつきビニールテープが幾重にも巻き付けられていた。

それでも母は、一本きりの菜切り包丁で、魚も捌きゃあ野菜や肉も切り、おまけにリンゴや柿の皮も剥く。

中でも極め付けの圧巻は、バタークリームのバースデーケーキである。

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ローソクを吹き消すと、母は何の躊躇いも無く、大根の首でも落とす様に切り分けた。

だがさすがに、ケーキだけは何ともいただけない。

だって切り口の辺りが、妙にネギ臭くて堪らなかったのだから。

しかしそれにしても母は、菜切り包丁1本で一家の台所仕事を、見事なまでに切り盛りしたのだ。

昨日も鏡開きの折り。

餅に纏わり付いた(かび)を眺め、やはり母の菜切り包丁を思い出してしまった。

水に浸した餅を、母は巧みな手つきで刃元(はもと)(あご)だけを使い、黴を綺麗にこそぎ落としていたものだ。

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真っ赤に(あかぎれ)た母の手と、黴を落とした真っ白な餅のコントラストが、今も瞼の奥で揺れる。

石油ストーブの上で湯気を立てるアルミ鍋。

小豆がふっくらと煮立つと、えもいわれぬぜんざいの甘い香りに包まれる。

火鉢の上の焼き網では、小さな餅の欠片が頃合いに焼け、ピューと音を放つ。

ぼくはその姿を間近に眺めながら、焼き餅の欠片たち一つ一つに、こっそりと渾名を付けたもの。

プクゥ~ッと焼けて膨れた餅の表情が、どうにも近所の女の子たちの、怒りっ面に見え来て仕方なくって。

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「あっ、お母ちゃん!もう、タカちゃんとフミちゃんが、膨れっ面になったよ!」ってな調子で。

すると母がぜんざいの鍋へと、器用に餅を菜箸で掴み上げて運ぶ。

ぼくはその作業を見上げ、ポカンと口を開け「お母ちゃん!一欠けだけでもどうかお恵みを!」とか何とか、憐れそうな声を上げたものだ。

そしてやっとのお情けで、一欠けか二欠けの焼き餅を手にすると、その先がこれまた一騒動。

一口にも満たぬ焼き餅を、如何にして食べるかが最大の問題だった。

醤油だけの辛口でゆくか、或いは醤油に砂糖で甘辛とすべきか、はたまたいっそ塩だけであっさり味とするか、逆に砂糖だけでいただくか。

散々悩み抜いた頃には、とうの昔に餅も冷え、もう一度炙らねば、歯の立てようもなかったほど。

何でも万能な切れ味を見せた、母の菜切り包丁。

しかしどれだけ齢を重ねようが、子が慕う母への思慕の念だけは、さすがに断ち切れぬと見える。

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Gifu Poem「土岐津の出世芋」と「昭和懐古奇譚~香港フラワーの花束」(2013.12新聞掲載)

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蔓を頼りに薮に入り 宝探しの三国山(みくにやま)

美味(うま)(さん)(やく)滋味豊穣 ()って自然薯(きく)そうや

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土岐津(ときつ)鶴里年初め 家長振る舞う出世芋

子らの行く末(こいねが)う 縁起担ぎの親心

「香港フラワーの花束」

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昭和半ばの冬のある日。

玄関脇の小さな花壇で、父は通りすがる老婆と、親しげに立ち話を交わしていた。

すると父は、花壇から花を摘み取り、老婆の両手にそっと握らせるではないか!

いかな子どもとは言え、さすがに見てはならぬ光景かと早合点し、自転車小屋の戸口に隠れ顔を伏せたものだ。

すると老婆はよほど嬉しかったのか、奇妙な金切声を発し、切り花を胸に抱えてうっとり見詰めながら、トボトボと去って行った。

その事件の2ヶ月前。

子供会のクリスマス会が開かれた。

もちろん一番の愉しみは、プレゼント交換の抽選会。

己の持参した物以上の戦利品を獲ようと、世話役のおばちゃんの一挙手一投足に固唾を飲んだ。

「次は、23番!」。

おばちゃんがぼくの番号を呼び上げた。

「どうか神様、玩具でありますように!」と、心の中で八百万の神々に念じる。

そして恭しく、長細い段ボール箱を受け取った。

外観から察するに、間違いなくプラモデルだと確信。

徐に包み紙を破り、段ボールの上蓋を開いた。

すると現れ出でたる物は、確かに同じプラスチック製品には違いないが、ぼくの淡い期待は瞬時に吹き飛んだ。

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それは当時一世を風靡した、「年中枯れないホンコンフラワー」。

どこの家でも、便所の一輪挿しやら、お茶の間の白黒テレビの上とかで、埃を被り見向きもされず、放置されていたあれ(・・)である。

せめて女子に当たるならまだしも。

しかし八百万の神々は、そう易々と「勝手な時だけの神頼み」を、お許しになるほど甘くはなかった。

仕方なく家に持ち帰ったものの、放ったらかしのままで、すっかり忘れ果てていた正月明け。

冬枯れたままの小さな花壇に異変が。

真っ赤なバラや黄色のディジー、それにピンクのライラックに赤のカーネーションが、吹き荒ぶ木枯らしをものともせず、なぜかそこだけ春爛漫の百花繚乱ではないか!

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目の錯覚かと花弁に触れれば、「汚れても洗えば元通り」が売りの、あの「ホンコンフラワー」だ!

父は冬枯れた花壇の侘しさを見かね、空き缶に石を敷き、そこにホンコンフラワーを差し、上からコンクリートを流し固め、ご丁寧に花壇の中に埋め込んだのだ。

「こんならどんなに北風が吹いても飛ばされんで」と。

ホンコンフラワーを抱え嬉々とした、老婆の姿が見えなくなるのを待ち、ぼくは自転車小屋から顔を覗かせ父に問うた。

「あれっ?せっかくお父ちゃんが植えた、あのホンコンフラワーは?」。

すると父は、「日曜のたんびにやって来る、独り暮らしだと言う婆さんがおってな。あの花眺めては、いつも飽きもせんとニコニコして、『♪は~るが来た、は~るが来た』って、嬉しそうに歌うんや。だで『そんなにお好きならどうぞ』って、さっきペンチで切って差し上げたんやわ。こんな凍えそうな日でも、あんな安物のホンコンフラワー眺めとるだけで、お婆さんは本物の春が来たように、温もりを感じるんと違うやろか」と。

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父はいつまでも、老婆の去った道を見つめていた。

―いつか来た道― 

それは遠からず誰しもが、やがて行く道。

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Gifu Poem「月見の森」と「昭和懐古奇譚~鼈甲色した板飴の型抜き」(2013.11新聞掲載)

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長良木曽揖斐揃い踏み 輪中(わじゅう)(のぞ)む月見台

丸に十字の(つわもの)を 偲ぶ松並恩と情

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月見の森も(ゆう)間暮(まぐ)れ (うず)()揺れる町灯り

石段下り月眺め 疲れを(ほど)足湯浴(あしゆあ)

「鼈甲色した板飴の型抜き」

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一文菓子屋だったろうか?

それとも紙芝居屋のオッチャンから、買ったものだったろうか?

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ともかく半世紀近くも前の煤呆けた記憶。

所々が色褪せ剥げ落ちている。

やっとのことで、そのおぼろげな記憶を繋ぎ合わせて見ると、鼈甲色した薄くて直ぐに割れそうな、板飴が浮かび上がって来た。

飲み屋のお姉ちゃんが持つ名刺より、一回り小さめの板飴で、中に瓢箪や動物が型抜きで描かれ、その輪郭が溝のように削り込まれていたものだ。

その輪郭の溝に沿い、針のような先の尖った物で周りを突いて割り、それらを口に含んで舐めながら、真ん中に描かれた図柄を抜き取るのである。

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見事にどこも欠くことなく図柄を取り出せれば、もう一枚新しい板飴を貰えたはずだ。

しかし子どもにとっちゃあ、針先に託す微妙な力配分がことのほか難しい。

細く描かれた瓢箪の口や動物の手足が、いつも最後の最後になると、無情にもペキリと折れてしまった。

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「あ~あ、残念や!惜しかったなあ、ボク。でもこれに懲りんと、また挑戦してや」と、一文菓子屋のオバチャンだったか紙芝居屋のオッチャンは、端から出来っこないと決めつけている癖に、空々しくほくそ笑む。

型抜きが成功するまで、友と共に板飴への挑戦を、何度も何度も繰り返した。

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特段その板飴が、大層甘くて美味しい代物であったわけではない。

どちらかと言えば、家に転がっていた徳用袋入りの黄金糖や甘露飴の方が、すこぶる甘かった気がする。

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だがやはり、それはそれ、これはこれ。

最初は板飴をオヤツ代わりに買い、遊びながら食べると言う目的だった。

それがいつしか何が何でも、友の誰よりも一番早く、型抜きを成功させることへと目的が挿げ替わる。

あの一文菓子屋か紙芝居屋の術中に、まんまと絡め捕られたわけだ。

ところがある日曜日。

その日は珍しく、鮒釣りにも出掛けなかったお父ちゃんが、ぼくと一緒に板飴の型抜きに挑むことに。

ぼくと友はあと一歩の所で、やっぱり図柄の一部を欠いてしまった。

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「なんやあ、あと少しやったのになあ。じゃあ今度は、お父ちゃんが上手いことやって見せたるわ」。

お父ちゃんは板飴を手にすると、いきなり四隅に噛り付き、ガリガリと噛み砕いて行くではないか。

そして今度は図柄の輪郭ギリギリまで、飴を舐めながらいとも容易く図柄を抜き出した。

「お前ら針先で無理やり割るもんで、細かな部分が欠けてまうんやて。そもそもこんな飴、直ぐに欠けるように出来とんやで。まずは大まかに歯で周りを噛み砕き、あとは少しずつ輪郭線目掛けて、飴を味わって舐めてったらええだけの話しや」、と。

ぼくはこの瞬間ほど、父を誇らしく思ったことは無い。

ぼくらは鼻高々で、抜き出しに成功した板飴を差し出し、新しい板飴を手にした。

それからはほぼ5割の勝率。

オバチャンだったかオッチャンが慌てて「頼むでそのコツは、皆に教えんといてや」と、こっそり栗ボーロをポケットに忍ばせる。

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そこまで乞われ、袖の下まで受け取った以上、ぼくらも口を(つぐ)まざるを得なかったと言うものだ。

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Gifu Poem「鵜飼〆」と「昭和懐古奇譚~練り歯磨き粉のチューブと搾り器」(2013.10新聞掲載)

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(はる)けく高き秋の空 (とび)が大きく輪を()いた

鵜舟洗いの船頭も (まばゆ)く仰ぐ鵜飼〆

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鵜匠囲んだ船頭も 漁を納めの(あき)(うたげ)

鮎の()れ鮨(さかな)にし 差しつ差されつ長良川

「練り歯磨き粉のチューブと搾り器」

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「ちょっと!何べん言われたら分かるんや、この子は!練り歯磨き粉のチューブは、ちゃんと下の方から順繰りに押し出さなかんって、お母ちゃんいっつも口酸っぱしてゆうとるやろ」。

寝乱れたパジャマの上から毛糸の腹巻き。

ざんばら髪の寝ぼけ眼。

タイル貼りの流し場兼洗面所で、歯ブラシに練り歯磨き粉を付けようと、鷲掴みにしてチューブを搾っていると、お母ちゃんの雷が炸裂した。

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「あんたがやたらめったら、チューブを搾りたくるで、後でお母ちゃんがどんだけ苦労しとるか知っとるの」。

隣のガス台で味噌を漉しながら、母のお小言が続いたもの。

確かに母の言い分にも一理ある。

昭和半ばの歯磨きチューブと言えば鉛製。

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だから現在のラミネートチューブに比べれば、すこぶる柔軟性に乏しく、一旦指先で押し込もうものなら最後。

二度と元の状態へは戻らない。

となると後は、グチャグチャに変形したチューブを押さえ付け、尻の方から順に巻き上げ、鉛のチューブを破らないよう、そっと絞り出すしか術がなかった。

しかもこれでもかと、最後の一滴まで搾り切った後、巻き上げたチューブをもう一度引き伸ばし、真ん中あたりに鋏を入れてチューブを切り割き、微かな搾り残しの歯磨き粉まで、直接歯ブラシで擦り取ったほどである。

そんな庶民の苦労を知ってか知らずか、プラスチック製のチューブの搾り器なるものがやがて世に現れた。

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一言で言うなら、コンビーフ缶付属の、専用缶切りのような物。

缶の側面に巻かれた帯状の金属の先端を、缶切りの切れ込みに差し込み、そいつをグルグル回して巻き取る。

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しかし巻き方が悪いと、徐々にアンテナを伸ばしたようにずれ果て、三角錐のような格好となる。

そうなったらもうお手上げ。

母が見るに見かね、ペンチで力任せに剥ぎ取ったものだ。

それと同じ方法で、歯磨きチューブの尻を、搾り器の切れ込みに差し込み、尻の方からグルグルと巻き上げる。

この搾り器の登場以降、最初からチューブの尻を、搾り器の切れ込みに差し込み使用する事となった。

だがこれがとんだ食わせ物。

左手に歯ブラシ、右手にチューブ、歯ブラシの上へと練り歯磨き粉を、適量押し出したまではよしとして、その先が問題。

寝ぼけ眼のまま歯磨きを終え、変形したチューブの形を整えんと、搾り器をグイッと巻き上げた途端。

チューブの先っちょから、練り歯磨き粉がブニュ~ッと一気呵成に飛び出す始末。

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如何せん寝ぼけたままの朝。

先端のキャップの締め方が緩く、キャップが歯磨き粉に押し飛ばされる無様な大失態もしばしばだった。

しかしこの鉛製のチューブは、空になった後も、父が鮒釣りの錘として再利用する重宝物。

「あっちゃー!今度、釣りの錘にしようと、空の歯磨きチューブを取っといたのに、誰やあ!ほかしてまったんわ!」っな具合に、日曜日の明け方、父がゴミ箱をひっくり返し大騒ぎ。

だがやがて鉛の有害性が指摘され、いつしかその役目をそっと終えた。

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Gifu Poem「高山愌章館(かんしょうかん)の中庭」と「昭和懐古奇譚」(2013.9新聞掲載)

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君がモガならぼくはモボ キネマ帰りにカフェーして

(かん)章館(しょうかん)の中庭で ベンチ腰掛け日暮れまで

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木漏れ日浮かぶヴェルレーヌ ハイカラ言葉愛の詩

「ジュテームビヤン君が好き」 ぼくの囁き君のキス

「小学校のトーテムポール」

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盆の墓参りを済ませた、帰り道の車窓。

半世紀近くも昔に通った、小学校の学び舎の校門が過ぎった。

ほんの一瞬の事。

田んぼだらけだった学校の周りは、いつしかマンションや商店が立ち並び、昔の面影は微塵もない。

だが見紛うはずなどない。

寝ぼけ眼を擦りながら6年間、雨の日も風の日もランドセルを背負い、A君と通い続けた校門なのだ。

しかしA君とは卒業後、プッツリ音信も途絶え、風の噂で昨年鬼籍に入ったと知った。

両親の眠る墓で草をむしりながら、真っ黒に日焼けした友の泥んこ顔を、ぼんやり思い出したのも何かの奇縁か。

矢も盾もたまらず車を止め、小学校へと向かった。

どうしてもこの目でもう一度、「アレ」を確かめたかったから。

「さあ今日から、卒業制作の仕上げに取りかかるぞ!3組の皆で考えに考え抜いた図案を、6年間を締め括る思い出として、クラス全員で鑿を使って彫るんだ!」。

そんな担任の号令で、トーテムポール作りが始まった。

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中でも一番の主役は、用務員のオジチャン。

名誉の負傷で復員した、傷痍軍人だったと記憶している。

見た目が厳つく、思わず尻込みしたくなるほど、バリバリの帝国陸軍の猛者といった感じだが、その実まったく裏腹に、すこぶる陽気で面倒見も良く、子どもたちの人気者だった。

用務員のオジチャンの見せ場は、年に二回。

一回は運動会の準備で、もう一回は6年生の卒業制作として恒例だった、このトーテムポール作りと決まっていた。

まずは電力会社が電柱をコンクリート化するため、お下がりとなった丸太の電信柱に跨り、図案を元に下絵を描く。

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そして男子が中心となり、下絵に沿って慣れぬ手付きで鑿を揮う。

粗方彫り上がると、今度は女子が中心となり、ペンキで色付け。

それらを指揮するのは、もっぱら担任ではなく用務員のオジチャンだった。

ぼくらのクラスの図案は、頭と顔が友愛の象徴としての鳩。

そして希望ある明日に向かって羽ばたこうと、鷹の翼が用いられた。

当時の学級委員、A君の発案によるものだ。

何日かの作業を経て、ぼくらの卒業制作は完成した。

「皆で、翼の裏側に、自分の名前を彫ろうよ」と、これまたA君が起案。

さっそく皆で、彫刻刀片手に名前を刻印。

6年5組までの全ての作業が完成し、校庭の片隅に1本のトーテムポールが建てられた。

ぼくらの3組は、上から3番目。

卒業式の後、皆で飽きもせず、天空へと突き立つトーテムポールを、眺め上げていたものだ。

「誰かお探しですか?」。

不意に校庭から、フェンス越しに声を掛けられた。

どうやら水泳部の顧問の先生か?

「ああ、トーテムポールですか…。私も聞いた話ですが、もう随分前にポールが老朽化したとかで、すべて撤去されたようです…」と。

A君は一足早く、年老いたトーテムポールの翼に跨り、卒業式のあの日皆で見上げた、何処までも高い天を目指して逝ったのだろう。

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またお彼岸の帰り道寄ってみるよ。

君のトーテムポールが威風堂々と建っていた、あの校庭の片隅に。

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Gifu Poem「洞戸ヤナ」と「昭和懐古奇譚」(2013.8新聞掲載)

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抜ける青空蝉時雨 瀬音涼しき洞戸ヤナ

子らがはしゃいで追い立てる 落ちる運命(さだめ)の子持ち鮎

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夏の盛りも峠越(とうげご)え ヤナの飛沫(しぶき)も冷たかろ

川面舞い飛ぶ(あき)(あかね) 送り火焚けば秋支度

「牛乳瓶の栓抜き」

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「おーい、上がるぞー!」。

銭湯の湯船の中で、父が声を張り上げた。

すると女湯から「はぁ~い!」と母の声。

男湯と女湯とを仕切る、タイル貼りの洗い場の壁。

その上をいくつもの夫婦もんの声が飛び交う。

父の声が号令となり、ぼくは脱兎のごとく湯船から飛び出し、脱衣場の扇風機の前に陣取り火照りを鎮める。

そして磨りきれそうなほどに使い込んだ、パリッパリのタオルで体を拭く。

今の柔軟剤などあるはずも無い昭和の半ば。

真夏の炎天下に晒されたタオルは、まるで乾燥湯葉のよう。

おまけに中央には、物干し竿の竹の節目までがクッキリと浮かび上がり、ゴワゴワで容易に畳めもしない。

そいつで日焼けした顔や体をゴシゴシ拭くのだから、紙やすりで研磨される木片の気持ちも分かる。

そして父を真似、腰にタオルを巻き、番台近くのガラス張りの冷蔵庫の前へと赴き「ジャンケンポン」。

父が勝てばコーヒー牛乳、ぼくが勝てばフルーツ牛乳。

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勝っても負けても恨みっこ無し。

仲良く分け合って飲むのが、男同士の決め事だった。

「やったあ!」。

その日は見事にぼくの勝ち。

番台の上に据えられたテレビから、プロレス中継が放送されているから、父は気も漫ろ。

グーしか出さないと相場は決まっていた。

番台のオヤジに牛乳代を支払ったが最後、完全にプロレスに気を取られ、拳を振り上げ応援に夢中。

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だからその隙に小声で「ジャンケンポン」と、ぼくがパーを出すだけ。

「父ちゃんの負けだから、今日はフルーツ牛乳ね」と念を押し、冷蔵庫から牛乳瓶を取り出す。

まずは飲み口を覆う薄いビニールのカバーを剥ぎ取る。

そして冷蔵庫に取り付けられた、牛乳の栓抜きを片手に、飲み口を塞いだ紙のキャップに針先を差し込み、梃子の要領でこじ開ける。

この栓抜きは、牛乳メーカーがサービスで配布する物で、二種類あった。

一つは針先が剥き出しになったもの。

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これは子どもにとって危険との理由で早々に姿を消した。

次に現れた改良型は、針先の周りをビニールの輪っかが取り囲むタイプ。

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どこの家庭の冷蔵庫にも、輪ゴムで編んだ紐が垂れ下がり、先っちょに牛乳の栓抜きが2~3本はぶら下がっていた。

それを引っ張り、牛乳の栓抜きで紙製キャップをこじ開けた矢先。

すっかりプロレスに夢中の父が、テレビの歓声に合わせ空手チョップを振り回し、勢い余ってぼくの手のフルーツ牛乳を、吹っ飛ばしてしまった。

片手を腰に宛がい、グビグビと飲み始めようとしたその寸前に。

無残にもフルーツ牛乳は床に飛び散った。

そこへ運悪く、男湯と染め抜かれた暖簾を腕押し、選りにもよって母が顔を出すではないか。

嗚呼、万事休す!

「ちょっとあんたら!まんだ裸のまんまやないか。えーかげんにせなかんで!」と、怒り心頭。

その夜は寝床でも珍しく、母のお小言が続いた。

あっ待てよ!

それは風呂屋の一件が原因じゃなく、夫婦喧嘩の延長戦?で、そのとばっちりがぼくにまで?

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Gifu Poem「白鷺の湯」と「昭和懐古奇譚」(2013.7新聞掲載)

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屋根の緑青(ろくしょう)風見鶏(かざみどり) 身動(みじろ)ぎさえも出来ぬほど

梅雨も明けぬに夏バテか 白鷺の湯で暑気払い

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川風涼し宵の口 温泉街に下駄の音

下呂の名泉浸り過ぎ 慌て駆け込むかき氷

「缶ジュース専用穴あけ爪」

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あと1週間で夏休みともなると、流れ落ちる汗などなんのその、胸がはち切れそうなほど高鳴り、踊り出すほどだった。

しかし果たして、何がそんなに愉しみでしかたなかったのだろう?

明確な理由などトント思い当たらない。

何せぼくが育った昭和の半ばは、ディズニーランドもユニバーサルスタジオだって無かったし、ましてや「家族揃ってちょいと海外へ」なんて、例え天と地がひっくり返ろうが、まずもって有り得ない話だった。

だから恐らくせいぜいが、近所のオバチャンに連れられ市営プールに行く予定とか、親類の家へ泊りに行く程度が関の山。

それでもバスや電車に乗って出掛けるだけで、十分に行楽気分が味わえたものだ。

「あれっ?この缶ジュース、缶に穴開ける爪みたいなのが付いとれへんがね。しまったあ!お母ちゃんよう見もせんで、山積みの特売品を慌てて掴んでまったでやわ」。

親類の家へと向かう電車の車中。

母は生ぬるいスチール製の缶ジュースを取り出し、上蓋と下蓋をひっくり返しながら素っ頓狂な声を上げた。

まだプルタブが世に登場する前の時代。

普通缶の上蓋に、爪のような専用の穴あけが取り付けられていた。

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中でも名だたるメーカー品は別格。

上蓋の専用穴あけ爪の上から埃避けも兼ね、透明のプラカバーまで被った上等品もあった。

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しかしわが家じゃそんな上等品を持たせて貰えたのは、他所の子と比較されそうな修学旅行くらいのもの。

よって常日頃は、特売の名も無き三流メーカー品。

だから上蓋に穴あけが、端っから付いてないこともしばしば。

「どうせこんなこともあろうと、ほれっ」。

母はちょっと錆の浮いた穴あけ爪を、ドラえもんのポケットのような、何でも飛び出すバッグを弄り探り出した。

車窓を横切る夏真っ盛りの田園風景を眺めながら、生ぬるい缶入りジュースの上蓋に穴あけ用の爪を立て、一思いに(えぐ)るように穴をこじ開ける。

そして缶をクルッと180度回転させ、今さっき開けたばかりの穴と対角線上の位置に、再び爪を立て一気に空気穴を開ける。

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それが昭和半ばの、スチール製缶ジュースをいただく際の、お点前の最も重要な作法の一つであった。

生温いオレンジジュースは、まるで冬場に風呂の湯船の中で、散々ボール代わりに弄んだ後の、温かなミカンの味そのものだった。

しかも当時は、賞味期限表示の必要性も無いため、缶ジュースがいつ製造されたかさえ不確か極まりなし。

だからジュースを飲み終えてみると、妙にエキゾチックな後味が残る。

どうにも腑に落ちずに、小さな穴から缶の中を覗けばビックリ仰天。

エキゾチックな後味の正体は、スチール缶の底に浮き出た錆び。

それがオレンジジュースと相塗れ、エキゾチックな鉄臭さを醸し出していたのだ。

でもだからと言って、誰も一々目くじらを立て、メーカーに怒鳴り込むような野暮な真似はしなかった。

誰もが穏やかで、心逆立てる事を努めて嫌った。

そんな昭和が、今はただ恋しい。

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Gifu Poem「鵜飼絵巻」と「昭和懐古奇譚」(2013.6新聞掲載)

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紅を引くような長良川 (あかね)()染めた川岸に

法被(はっぴ)姿の船頭が 肩に竿(さお)負い(ぼぅ)手振(てふ)

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川面(かわも)揺蕩(たゆと)う屋形船 揺れて提灯(よい)(ぼたる)

長良橋へと狩り下る 鵜飼絵巻に金華山

『お医者さんゴッコの三種の神器「聴診器・()腱器(けんき)額帯(がくたい)(きょう)」』

最近のお医者さんは、どうなってんだろう。

昔ならまず患者の目を見詰め、「どうしましたか?」の問診に始まり、聴診、触診、指診、脈診と続いた。

ところが今は、なおざりな質問が二言三言あればまだまし。

下手をすれば一度も目を合わせず、パソコンの画面を眺めキーを叩いてばかりだ。

それも医学の進歩とやらか?

ぼくが育った昭和半ばの医者は、思わず尻込みしたくなるほどの威厳を放ち、先生の白衣を見ただけで泣き出すほど。

しかし聴診器を当てられ、指で胸や背中をトントンと打診されると、不思議と痛みも和らいだ。

だから、そんな偉大な医者を真似るお医者さんゴッコも、人気の遊びの一つであった。

果たして、お医者さんゴッコを真似る子など、今でもいるだろうか?

お医者さんゴッコを始めるにも、玩具屋の店先を飾る、お医者さんセットなる高価なオモチャなど、そう易々と買っては貰えない。

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しからば、自分たちで身の回りの物を工夫して、それっぽく似せて作るしか術はない。

近所の悪がき3人が知恵を絞り、まず挑んだのは聴診器。

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これは意外なほど簡単だった。

だって普段遊びで使っている、ゴム管パチンコを流用したからだ。

まずはゴム管を取り外し、太い針金製のY字部分を、皆で寄って(たか)って押し広げた。

そして耳に差し込む針金の先に、短く切ったゴム管を差し込み、Y字の先端部分に残りのゴム管の片方の切り口を結び付ける。

そして反対側のゴム管の先には、お勝手からこっそり拝借した、漏斗を取り付ければ完成。

続いての代物は打腱器。

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これは脚気の検査で膝下を叩く、三角形の固いゴムの付いた道具だ。

まずジャンケンで負けた者が、生贄となり消しゴムを供出する。

それを三角に小刀で切り落とす。

そして三角形の一辺に、尖った鉛筆をブスリと差し込めば完成。

いよいよお医者さんゴッコに不可欠な、三種の神器の内の二種までを手にした寸法である。

いよいよ残すは、額帯鏡。

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当然子どもの頃に、そんな小賢しい専門用語など知る由も無く、ぼくらは勝手に「メッカチ鏡」と呼んだ。

医者が額に取り付ける、円盤のような鏡のことである。

一つしか覗き穴が開いていないから、ぼくらはそう呼んだ。

まずは体操の紅白鉢巻きを額に巻き付け、お母ちゃんの鏡台からこっそり拝借した、手鏡の柄の部分を鉢巻きに差し込めば完了。

そう、映画八つ墓村の「祟りじゃ~っ」の要領で。

これですっかり三種の神器も揃い、後はお医者さんゴッコの実践あるのみ。

「さあ!」と3人で顔を見合わせるが、誰一人肝心要の患者役を、志願する心得者も無い。

となれば困った時の神頼みならぬ、わが家の老犬ジョンに白羽の矢が。

その並々ならぬ気配を察知したのか、縄抜け名人のジョンはスルリと首輪を外し、スタコラサッサと逃亡。

三種の神器を纏った、ヘンテコ極まりない3人が、ジョンを追いかけ回すものだから、近所のオバチャンたちまで腹を抱えて笑い転げる始末。

抱腹絶倒のお医者さんゴッコだった。

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