「昭和懐古奇譚~煙草の煙の輪っか」(2019.6新聞掲載)

「煙草の煙の輪っか」

写真は参考

昭和半ば。

お父ちゃんのホンコンシャツは、いつも煙草の匂いがした。

胸ポケットには、プラスチックの煙草入れと、桃印のマッチ箱。

写真は参考

両切り煙草の「SINSEI」を一本抜き取り、左手の親指の爪に当てトントントン。

写真は参考

縁側の陽だまりに腰かけ、マッチで火を灯す。

そして煙草を大きく吸い込むと、顔を上に向けて口を開き、右手で頬を軽くポンと一叩き。

するとあら不思議!

白いドーナツのような大きな輪っかが空へと舞い上がり、そよぐ風になびき姿を変え、やがて周りの風景に溶け入る。

写真は参考

「父ちゃん、もっと輪っか出して!」とぼくがねだる。

すると父は嬉しそうに、小さな輪っかを連ちゃんで吐き出したり、特別大きな輪っかを吐き出す。

写真は参考

ぼくは父とのそんな戯れが好きだった。

そして何度もその輪っかを手に取ろうと負いかけもしたものだ。

でもあとちょっとと言うところで、いつもいつも煙の輪っかにものの見事にはぐらかされた。

写真は参考

ある日のことだ。

毎日母から貰えるお小遣いを貯め、近所の駄菓子屋で、念願だったシガーチョコを手に入れた。

写真は参考

どうしてもお父ちゃんの真似をしてみたくって。

台所の一口コンロに母が火を点けるために置いてある、大きな徳用の桃印のマッチ箱を拝借し、縁側に陣取った。

写真は参考

まるで父の仕草をなぞるようにして、シガーチョコを一本抜き取り、左手の親指の爪に当てトントントン。

そしておもむろに口に咥え、マッチで火を灯した。

しかし本物のお父ちゃんの「SINSEI」とは異なり、吸っても吸っても煙を吸い込めなければ、火も灯らない。

やがて洗濯物を取り込もうと、縁側へやって来た母に見つかり、「あんたぁ、何やっとんの!見て見やあ、シャツやズボンにチョコが垂れてまっとるがね!」と大目玉。

近所の子らと缶蹴りに講じていた時だ。

何の話からか、「家のお父ちゃん、ものすっごい大きな、煙草の煙の輪っか作るんやぞ!」と、自慢話しが始まった。

すると皆も口々に、「家のお父ちゃんの方が、絶対大きな輪っかや!」と、負けず嫌いの応酬へと発展。

すると皆から一目置かれていたマー君が、「だったら皆で、お父ちゃんをこの公園に連れ出して、煙の輪っか競争をしたらどうやろ」と一言。

ぼくらは言葉巧みに、それぞれの父親を公園へと誘いだした。

「ねぇねぇお父ちゃん、お友達のオジチャンたちと一緒に、このベンチに座って!」と。

写真は参考

するとマー君が、「これから誰のお父さんが、一番大きな煙の輪っかを作れるか、競争していただきます」と、高らかに告げた。

3人掛けのベンチ2台、計6人のお父ちゃんたちは、一斉にホンコンシャツの胸元から煙草ケースを取り出す。

「よーいドン!」。

マー君の掛け声で、お父ちゃんたちは一斉に煙草に火を点け、プカプカと白い煙の輪っかを吐き出し始めた。

ところがどこのお父ちゃんが吐き出す煙の輪っかも大同小異。

ぼくらにはその優劣など見極められようもない。

写真は参考

するとたまたま、買い物帰りのお母ちゃんが通りかかり、その異様な光景に目を止めた。

「お父ちゃん、そんなとこで何やっとんの!いつまでも油打っとらんと、さっさと帰って台所の棚吊ってよ!」と、お母ちゃんの一声。

たったその一声で、「煙の輪っか競争」も見事に煙に巻かれてしまった。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「昭和懐古奇譚~ツイスターに胸キュン」(2019.5新聞掲載)

明けましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いいたします。そして皆々様にとって今年が、素晴らしい年となりますように!

「ツイスターに胸キュン」

写真は参考

小学校の3年生になった頃のことだ。

サッチャン家に上がり込んで、ぼくはサッチャンとチラシ広告の裏を使い、三目並べに没頭中。

すると玄関先で、中学生になったばかりのサッチャンのお姉ちゃんの声がした。

しかもワイワイガヤガヤと。

お姉ちゃんは同級生の男女3人を従え、三目並べに夢中のぼくらを蹴散らす。

そしてやおら、茶の間の卓袱台を片付け始めた。

ますますぼくらは、茶の間の隅っこへと追い払われる。

すると間髪入れず、お姉ちゃんの指示で、友達が持参したハイカラな敷物を広げ始めた。

写真は参考

およそ畳一枚分ほどのビニールシートには、赤・青・黄・緑の円が4列6個ずつ、びっしりとシートを埋め尽くしている。

ぼくもサッチャンも、初めて目にするハイカラな玩具。

すると一人の男子がシートの外に立ち、スピナーと呼ばれるルーレットのような物を回し、針が止まった所に表示された、「右手を黄色へ」と呼びあげる。

写真は参考

するとサッチャンのお姉ちゃんと、もう一人の女子と男子の3人が一斉に、自分の立っている近くの黄色の円に右手を乗せた。

すると「次は、左足を赤へ」と、次々に指示が繰り出される。

やがてゲームに没頭する男子も女子も、不格好な四つん這い状態。

学生服の男子はともかく、セーラー服にスカート姿の女生徒も、まったくお構いなし。

ぼくとサッチャンは、サッチャンのお姉ちゃんではない女生徒の、露わになった真っ白な太腿に目を奪われた。

写真は参考

「何か心臓が、急にバクバク鳴り出して来ちゃった!」とサッチャン。

「えっ、ぼくも心臓が口から飛び出しそうやて!」。

とは言え、二人は壁の隅に身を寄せたまま、女生徒の真っ白な太腿の行方に、ボーッとしたまま釘付け。

見えそうで見えぬもどかしさに翻弄され、その奥に潜む未だ見ぬ女体の神秘への妄想が渦巻く。

ゲームが進むにつれ、女生徒の真っ白な太腿もが、シートの上を右へ左へと揺れる。

その度にスカートの裾も翻り色香が漂い、ぼくとサッチャンは何度も生唾を飲み込んだ。

「あー楽しかった!このツイスターって最高やて!」と、サッチャンのお姉ちゃん。

そこで初めてその艶めかしいケームが、「ツイスター」と呼ばれるものだと知った。

「サトシとミノ君もやってみたいやろ?」と。

サッチャンのお姉ちゃんに促され、シートの上にぼくらも立った。

サッチャンのお姉ちゃんの対面がぼく。

さっきの真っ白な太腿の女生徒の対面がサッチャン。

ゲームが進むたびに、全員が四つん這いの団子状態。

一歩でもぼくの右側の、真っ白な太腿の女生徒の方へと近付きたい。

しかしいかんせん、小学校低学年のぼくらと、中学生のお姉ちゃんたちとは、手も足も長さが違い過ぎる。

「次は、右手で黄色へ」と指示が飛んだ。

だがぼくの近いところには、黄色が見当たらぬ。

すると一か所だけ、何とか手が届きそうなところがあるではないか!

「えいっ、ままよ!」と右手を伸ばし、黄色い円に手を伸ばした。

写真は参考

すると頭上から、サッチャンのお姉ちゃんの声が!

「ミノ君、嫌らしい!今スカートの中覗いたやろ!」と。

ぼくなんて四つん這いになりながら、両手両足を必死に踏ん張り円を押さえるのに一杯で、顔を上げることなどままならぬと言うのに…。

「畜生!濡れ衣だあ!」

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「昭和懐古奇譚~銭湯の番台に咲く姥桜」(2019.4新聞掲載)

「銭湯の番台に咲く姥桜」

写真は参考

「お婆ちゃん、大人一人、子ども一人ね」。

母は女湯の暖簾を潜り、引き戸を開けると番台にチョコんと座った、お婆ちゃんに小銭を手渡す。

「そういやぁあんたとこのミノ君、今日は小学校の入学式やったんやなぁ。おめでとう。しっかり勉強するんやよ」。

そう言うとお婆ちゃんは番台から手を伸ばし、白い封筒に新聞社名の入った、二本入りの鉛筆を差し出した。

写真は参考

「あらお婆ちゃん、そんな入学祝いなんて・・・。ありがとう」。

母はぼくの頭を手で抑え、「ありがとう」の言葉を添え、深々と頭を下げさせた。

我が家が内風呂になったのは、ぼくが小学3年になってから。

だからそれまでは、母に手を引かれ、近所の銭湯の女湯のお世話になったものだ。

でもひと月に一日二日は、父に連れられ男湯に浸かった。

何でひと月に一日二日、男湯なのかと幼いながら疑問に感じたものだ。

その朧げな疑問が判明したのは、中学に上がった年の保健体育の時間だった。

「そうか!そう言うことやったんや」と、男女の生理的な隔たりに、妙に納得したのを覚えている。

「ねぇねぇお父ちゃん。今日は何でお母ちゃんは、後からお風呂行くって言うの?」。

男女の生理的な違いを露知らぬぼくは、そんな質問を父に浴びせ、父を困らせたものだ。

その都度口下手な父は、答えに窮しながらも「お母ちゃん、今日は仕舞い湯がええんやと」と、言葉を濁すのが精一杯であった気がする。

お風呂に浸かり体を洗い、脱衣場へ上がれば、爺様からオッチャン、そしてぼくら男坊主どもも、番台の正面に据え付けられた白黒テレビに、みな素っ裸のまま釘付け。

ちょうど脱衣場の男湯と女湯を隔つ、壁の上にテレビが据え付けられていた。

爺様もオッチャンも、そしてぼくら男坊主どもも、テレビに映し出されるプロレスラー豊登の姿を真似、両足を肩幅ほどに広げ、両腕を広げた姿勢から胸元でクロスさせ、脇の下でカッポーン、カッポーンと良い音を鳴らしたものだ。

番台のお婆ちゃんは、そんな男どもにゃ無関心。

せっせと毛糸の編み棒を繰っていた。

ある日のこと。

写真は参考

番台にお婆ちゃんの姿は無く、お爺ちゃんが男湯の方に顔を向け、居心地悪そうに座っているではないか?

すると銭湯代をお爺ちゃんに手渡しながら、お父ちゃんが問うた。

「爺様、お婆ちゃんどこぞ具合でも悪いんか?」。

すると「ああ!昔看板娘やった家の姥桜か!今日は孫んたーと、姥桜が夜桜見に行っとんやて」と。

「でもたまにゃあ爺様、番台座るのんもええもんやろ。目の保養にもなるし」と、心なしか羨まし気なお父ちゃん。

「わしも、いっぺんでええで、番台に座れるもんなら座ってみたいもんや」。

お父ちゃんが爺様を茶化す。

「馬鹿言うんやない。そんなもんうっかり女湯をボーッと見とってみい、『キャーッ、いやらしい、この助兵衛じじい』って、言われるのがオチやで、こうして狭い窮屈な番台に座って、体ごと男湯の方に向けとらんなんのやで、わしかて誰かに代わってまえるもんなら、代わってまいたいもんやて」。

爺様はそう言いながら、石鹸箱を取る振りをして、一瞬こっそり女湯を確かに覗き見た。

「まあ、ゆっくり温まってってな」。

写真は参考

爺様は、ぼくらに見咎められたと気付いたようで、照れ臭そうにその場を取り繕った。

今年も一年、ブログをご訪問下さり、誠にありがとうございました。来年もどうぞよろしくお願いいたします。

どうぞよいお年を!

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「昭和懐古奇譚~ブリキの蝉の鳴き声は、ペッコンペッコン」(2019.3新聞掲載)

「ブリキの蝉の鳴き声は、ペッコンペッコン」

写真は参考

あっちでペッコン、こっちでペッコン。

たったそれだけの、わずか数秒にも満たない、刹那的な子どもの遊び道具だ。

それがぼくらを虜にした、ブリキの玩具の蝉である。

写真は参考

ましてや周りの皆がブリキの蝉をペッコンペッコンやっているのに、自分だけが蚊帳の外ではなおさらのこと。

もう何としても、どんな姑息な手を使ってでも、ブリキの蝉を手に入れねば、にっちもさっちもいかない。

それは子どもが子どもである、証だったのかも知れぬ。

近所の氏神様の縁日。

写真は参考

数々の屋台が立ち並び、多くの家族連れで賑わった。

昭和半ばの時代を顧みれば、それは年に一度訪れる、近在の衆が首を長くして待ち侘びた、大切な晴れの日でもあった。

中でも一番人気は射的の屋台。

写真は参考

ライフルの先っちょの銃口に、コルクの弾を込め、それで的を射抜くと言う、今でもたまに見かける単純極まりない遊びだ。

遊技代はと言うと、当時のぼくの小遣いからすりゃあ、とても高根の花だった。

確か一回で大枚50円ほど。

一日たった10円の小遣いの身からすれば、悠に5日分。

遊技代を屋台のオッチャンに手渡すと、オッチャンは不愛想な顔で、引き換えにベコベコに凹んだブリキの皿にのせたコルク弾5個を手渡す。

そして射撃台に紐で括り付けられたライフルを手にする。

写真は参考

次にライフルの横に飛び出た、ボルトレバーを手前に引き、銃口にコルク弾を込め、ひな壇に飾られた豪華なお菓子に狙いを定め、「ええい!ままよ」と引き金を引く。

見事に的のお菓子を撃ち落せば、それが射的の景品となる寸法だ。

そんな射的屋の傍には、洟垂れ小僧やお転婆娘たちが犇めく。

そして皆申し合わせたかのように、片手でブリキの蝉を弾いて、ペッコンペッコン。

今まさに引き金を引かんと、ライフルを構える子どもの先の、ひな壇を見据える。

写真は参考

ポンッ。

間の抜けたライフルの発射音がした。

ぼくも慌ててひな壇を眺めた。

しかしひな壇に飾られた豪華なお菓子は、小動(こゆるぎ)もしない。

するとオッチャンが、「はい、ボク。おおきに。ホレッ、残念賞や!」そう言って、あのペッコンペッコンのブリキの蝉が無造作に手渡されるではないか!

ぼくは一目散に、家へと帰った。

道々、お母ちゃん口説き落とし、何とか50円を手にする口述を考えながら。

「ねぇお母ちゃん。屋台の射的で皆が遊ぶもんだから、ぼくも一緒になって射的したら、射的代が50円もしたんやて。でもそんなお金持っとらんってオッチャンに言ったら、『オッチャンおまはんを信じて、ここで待っとったるで、今から家まで行ってもらって来い』って」。

「たぁけやなあ、この子は!」。

そう言うとお母ちゃんは、渋々がま口を開き50円を握らせ「オッチャンにちゃんと、ごめんなさいって言うんやで」と、言葉を添えた。

まんまと50円を手にし、急いで射的の屋台へと向かった。

カランカラーン。

射的屋のオッチャンが鐘を鳴らした。

写真は参考

「坊、ええ腕しとるなあ。5発とも命中されたら、オッチャン商売あがったりや!」と。

紙袋一杯のビスケットやらチョコレートをぼくは抱えた。

写真は参考

周りで子どもらのため息がする。同時にぼくもため息をついた。

だってこんな筈じゃなかったんだから。

きっと5発とも的を外し、残念賞の念願だったブリキの蝉を、皆みたいにペッコンペッコンやりながら、意気揚々と家へと引き上げるつもりが…。

だからぼくは、紙袋の景品を恨めしそうに眺めている、近所のトモちゃんに言った。

「トモちゃん、このチョコレートと、トモちゃんのブリキの蝉と交換してくれん?」と。

写真は参考

見事に子ども同士の利害が一致し、ぼくは念願のブリキの蝉を手に、ペッコンペッコン、飽きもせず鳴らしたものだ。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「昭和懐古奇譚~そんな残酷な!孫の手を取るだなんて!」(2019.2新聞掲載)

「そんな残酷な!孫の手を取るだなんて!」

写真は参考

「やぁ殻い、婆さんやい!孫の手どこやったか知らんか?ちょっと取ってくれんか」と、隣の隠居部屋から爺ちゃんの声がした。

とは言え、爺ちゃんとは、ぼくの本物の祖父ではない。

父方の遠縁にあたる菊池の爺ちゃんだ。

随分のち。

三重の山奥へご先祖様の墓参りに詣でた折のこと。

ぼくの父方の祖父と祖母が眠る、小さな墓石に手を合わせた。

すると父は墓地の一番奥にデーンと居座る、立派な墓前へと向かう。

そして手を合わせ、水と線香を懇ろに手向けた。

「ここが、菊池の爺さんの墓や。大きいやろ。その昔はなぁ、爺ちゃんのそのまた爺ちゃんが、お医者様をやって見えたんや」と、父の問わず語りを今でも覚えている。

恐らく遠い明治の世にでも、岡田の家から分家したのが菊池なのか、そのまた逆か。

苔むした墓石の並ぶ墓地の位置関係からすると、菊池の分家が岡田の家と見える。

しかし山奥の集落は、見渡す限り岡田を名乗る家ばかり。

菊池の家はとんと見当たらない。

だとすれば、やはり岡田の家から分家した者の中に、鳶が鷹を生んだような秀才が現れ、医学の道へと進み、やがて菊池家に入り婿でもしたとは考えられぬだろうか。

それはともかく昭和の30年代、菊池家は名古屋の南区にあった。

そして菊池の爺ちゃん家の隣にアパートが立ち、新婚間もない父は遠縁の菊池の爺ちゃんの伝手を頼り、そこに狭いながらも新居を構え、ぼくが生まれたという寸法になる。

だからぼくの「稔」と言う名は、この菊池の爺ちゃんの命名である。

爺ちゃん家の隣には、爺ちゃんの二人の倅の住まいがあり、それぞれ一人ずつ息子がいた。

ぼくより二つ年上の「香」、そして同い年の「守」だ。

いずれも爺ちゃんの命名であり、どれも漢字一字だけの名を賜ったことになる。

「おお~い、婆さんや!まだ孫の手は、見つからんのか?早う取ってくれんか」と、再び隣の隠居部屋から爺ちゃんの声がした。

同い年の守君と、たまたま爺ちゃんの隠居部屋の隣の部屋で、二人して遊んでいる最中の事だ。

思わずぼくは、「マモ君、聞いた?お爺ちゃんが孫の手取って来てくれって、お婆ちゃんに言うたの!お爺ちゃんの孫って言ったら、香お兄ちゃんか、マモ君しかおれへんのやで、逃げやなかんのやない?」と真顔のぼく。

ところがマモ君は動じない。

「だってそんなん、いつものことやし!」と。

ぼくはどうにも落ち着かなかった。

だって年に一度お年玉を頂戴しに、両親と共に伺候する爺ちゃんの隠居部屋は、ぼくにとっちゃあ異界そのもの。

床の間の香炉からは香が燻り、床柱には能面の翁やら般若に山姥といった、奇怪なものがぼくを睨みつけているようで、居心地の悪さはこの上なし。

写真は参考

「なんやったら、そこの襖ちょっとだけ開けて、隙間から覗いとってみ」と、マモ君。

恐る恐る固唾を飲んで、事の次第を見守った。

「はいはい孫の手、お待たせしました。茶の間の新聞の下に置いてありましたよ」と、お婆ちゃんが孫の手なるものを差し出すではないか!

写真は参考

それは家ではついぞ見たことも無い、竹製の耳かきのお化けのような物。

長さは30cmほどで、棒の先が猫の手の様に少し曲がっている。

写真は参考

爺さんは棒の先っちょを、着物の襟元から背中へと差し込み、柄を掴んだまま上下に動かし始めた。

写真は参考

「おうおう、極楽、極楽!婆さんや、これぞ正しく痒い所に手が届く、孫の手の効能よのう」と。

いつもは苦虫でも噛み潰した様な、しかつめ顔の爺ちゃんが、まったくもって相好を崩し、腑抜け面をしているではないか!

これまで一度も目にしたことのなかった、爺ちゃんの素の姿に接し、近付き難い印象がほんの少し和らいだ気がしたものだ。

まあそれにしても、マモ君の手が取られずに済み、何より何よりと、当時のぼくは胸を撫で下ろした。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「昭和懐古奇譚~ブリキのおもちゃポンポン船」(2019.1新聞掲載)

「ブリキのおもちゃポンポン船」

写真は参考

小学校低学年の頃まで、家には風呂が無く銭湯通いだった。

だから近所のマー君が、羨ましくてならなかったものだ。

マー君家は多分家より遥かに裕福だったのだろう。

当時子どもたちの間で話題になる、最先端のおもちゃを、必ずと言っていいほど持っていたのだから。

中でも一番羨ましかったのは、ブリキのおもちゃのポンポン船。

「お風呂にポンポン船を浮かべ、ロウソクに火を灯すと、ポンポンと音を立てながら、お風呂の中を走り回るんだって!」。

写真は参考

それはそれはマー君の自慢話は、当時のぼくにとって衝撃的だった。

ポンポン船で遊ばせてもらうために、何かいい知恵は無いものかと、ぼくはそればかりを考えていたものだ。

そして閃いた!

「そうだ!マー君を銭湯に連れ出し、ポンポン船を持ってこさせればいいんだ!」と。

それからぼくは、マー君と顔を合わせる度に、銭湯の楽しさを吹聴し説得を試みた。

電気風呂や薬草風呂もあるし、風呂上がりの一杯の、コーヒー牛乳やフルーツ牛乳、そしてスマックの旨さなど。

さらには、10円玉一個で動く、電動マッサージ機の話とか。

そして止めは「大きな銭湯の湯船に、マー君のポンポン船を浮かべ豪快に走らせたら、皆ビックリ仰天するって」と。

マー君も満更でもなさ気だった。

「マー君と二人やでって、調子に乗って銭湯の中で大騒ぎしたら、お母ちゃん承知せんで!」と、母は渋々年季の入ったがまぐちを開け、銭湯代とコーヒー牛乳代を手渡した。

マー君を迎えに行くと、着替えの入った風呂敷包みを背中にからげ、両手で石鹸箱と自慢のポンポン船が入った、洗面器を抱えているではないか!

「やったぁ!」。

夕間暮れの空から舞い落ちる雪もなんのその。

ぼくらは二人して、銭湯までの道程を小走りで駆け出した。

チャッポーン ザッバーン 「おお、極楽極楽!」。

写真は参考

銭湯の男湯のあちらこちらで、湯船に浸った時の決め台詞が聞こえる。

男湯の中央にある、一際大きな湯殿に、ぼくらも恐る恐る浸かった。

早くも湯殿は、千客万来。

よく見かけるご隠居さんから、職人さん、それに立派な倶利伽羅紋紋を背負った、鯔背なお(あに)いさんが、湯けむり越しにぼくら二人に視線を向ける。

「どうしよう…ミノ君。こんなとこでポンポン船を走らせたら、おじちゃんたちに叱られるんやない?」と、急に心細気なマー君。

「そんなんええって。子どもの事やで、みんなオッチャンたーも大目に見てくれるって」と、ぼくはマー君を宥めた。

するとマー君は恐る恐る、湯船に浮かべた洗面器の中で準備を開始。

まず船尾のストローのようなホースから湯を注ぎ入れ、小さなロウソクにマッチで火を灯し、ちょっと斜めになった燭台に乗せ、湯を入れたタンクの下へと設置するのだが、これがなかなか思うように行かず、たちまち火が消えるばかり。

「おお、坊。ちょっと貸してみぃ!」と、俱梨伽羅紋紋のお(あに)いさんが、手際よく火を灯しタンクの下へと設置し、湯船に浮かべてくれた。

しばらくすると「ポンポンポ~ン」と、まるでエコーのかかったような、景気の良い音を響かせ、ポンポン船が時計回りに、湯浴み客の周りを滑り出した。

写真は参考

すると湯浴み客の口から、やんややんやの喝采が!

何に付けても緩やかだったあの昭和。

今年の4月一杯で平成も終わり、新たな時代が始まる。

写真は参考

同時にぼくが愛して止まない昭和は、あの銭湯の湯けむりの向こうへと、ゆっくりゆっくりと消え行ってしまうのだろう。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「昭和懐古奇譚~ひっつき虫」(2018.12新聞掲載)

「ひっつき虫」

写真は参考

冬枯れた畦道や原っぱを駆け回ると、この時期必ずと言っていいほど、「ひっつき虫」がセーターの至る所や、髪の毛にくっついて来たものだ。

全体に棘々の突起があり、ピーナッツ位の大きさをした「オナモミ」の仲間や、ハートマークを半分にしたような、一辺が5mm程の薄っぺらな「ヌスビトハギ」の仲間。

写真は参考
写真は参考

さらには、細長い2cm程の棒状の「センダングサ」の仲間など。

写真は参考

もっともそれらの植物の名など、子供の頃には知る由もなく、ただただそれらをひとまとめに、「ひっつき虫」とぼくらは呼んだ。

中でもぼくらは、全体に棘々の突起があり、ピーナッツ位の大きさをした「ひっつき虫」を好んだ。

それを手に仮面の忍者赤影を真似、手裏剣に見立てては、友のセーターや髪の毛目掛け投げつけて遊んだもの。

写真は参考

ところがそんな忍者ごっこにも、すぐに飽きてしまう。

なぜなら、誰もがヒーローの、飛騨の忍者赤影や白影、そして青影役になるばかりで、誰一人敵役である金目教の、奇怪な忍者役を引き受ける奇特な者などないからだ。

となるといずれも、正義の味方ばかりで、どんなに「ひっつき虫」の手裏剣を、見事に命中させようが皆が皆不死身。

それではさすがに子どもといえど、辟易としじきに「一抜けた~っ!」となるのがオチ。

ところがそれで諦めるかと思えば、そうでもない。

何やかやと知恵を絞り、次なる遊びを編み出すから、子どもは遊びの天才である。

「よーし!せーので、一緒に積み藁に体をぶっつけて、ひっつき虫をどんだけ多く、セーターにひっつけるかで勝負だ!」と、ヤンチャ坊主のチャコの提案で、新たな遊びが始まる。

写真は参考

「じゃあ皆、セーターに着替えて、またここに集合だ!」と、チャコの合図でみんな一斉に家へと駆け出した。

ぼくも家へと向かう道すがら、新たな遊びへの有利な作戦を思い描いたものだ。

セーターに着替えて田んぼへ戻ると、いよいよ新たな遊びの始まりだ。

「ミノ君のセーター、へ~んなの!」と、友が指摘した。

「あっ、本当だ!ガブガブのブッカブカだし、膝っ小僧まで隠れる長さや!何か女のスカートみたいやあ!」と囃し立てる。

(今のうちに、何とでもほざくがいい!あとで吠え面かくのはお前らや!)と、ぼくは心の中でほくそ笑んだ。

「じゃあ、始めるぞ!題して『ひっつき虫の体当たり競争』よーいドン!」と、チャコが大声を張り上げた。

「1位は断トツでミノ君が優勝!」。

(そりゃそうやて。だってわざわざ、タバコ臭い匂いの染みついた、ガブガブでブッカブカな、お父ちゃんのセーター引っ張り出して、皆に笑われるも覚悟で着て来たんだから。どー見たって皆のセーターの、倍の面積はあるんだから、話になるわけもない)と、ぼくは再び心の中でほくそ笑んだ。

写真は参考

ところがお父ちゃんのセーターを、そのままタンスにこっそり戻しておいてから、さあ大変!

「うわっ!なんやこれ?」と、お父ちゃん。

日曜のまだ寝静まった早朝。

物音を立てぬよう、鮒釣りに出掛ける支度をしていたお父ちゃんが、素っ頓狂な声を上げ、寝室の裸電球を灯した。

寝ぼけ眼の視界には、体中にひっつき虫をまとった、タバコ臭いセーターを着た、不気味なお父ちゃんの姿があった。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「昭和懐古奇譚~鼾封じにウルトラハンド」(2018.11新聞掲載)

「鼾封じにウルトラハンド」

写真は参考

ググッ グッ ガガァアー。

夕餉のビールで酔っぱらったお父ちゃんは、真っ赤な顔で座布団を枕に大鼾。

「もう、せっかくええとこやのに!」と、母はTVのボリュームの摘まみを捻る。

写真は参考

「もう、(うる)そうて(かな)んで、あんたがサッチャンから借りて来た、あれ(・・)でお父ちゃんの鼻摘まんだり!」と、お母ちゃんはぼくを促した。

ググッ グッ…。

「あいたたた!」。

サッチャンから借りて来た、ウルトラハンドの先っちょの吸盤で、見事お父ちゃんの鼻を摘まみ上げた。

写真は参考

すると「ちょっと面白そうやな。どれ、お母ちゃんにも貸してみ!」と、ウルトラハンドを奪い取るではないか。

「あいたたた!」。

寝ぼけ顔のお父ちゃんの頬っぺが、ウルトラハンドの先っちょの吸盤で、見事につねくられ羽二重餅のようにビョ~ンと伸びた。

「ちょっと、なっ、なにすんのや!」と、いとも情けないお父ちゃんの顔。

お母ちゃんとぼくは、腹を抱えて大いに笑い転げたものだ。

「ねぇねぇ、これ。何や知っとる?」。

サッチャンは神社の境内で、自慢気に風呂敷に包んだ、真新しい箱を見せびらかした。

写真は参考

箱には、「ウルトラハンド」の文字と、子どもの兄弟がウルトラハンドなるものを操り、帰宅した父親のカバンを摘まみ上げ、大はしゃぎしている絵が描かれている。

「こうやって両手で、このグリップを掴んで、両手を合わせると、ほら!」。

サッチャンは得意満面な顔で、どーよとばかりに、ウルトラハンドなるものを巧みに操り、境内の渋柿を捥ぎ取った。

「スッ、スゲー!」。

ぼくはただただ恐れ入るばかり。

「誕生日のプレゼントで買ってもらったんだ。ミノ君にも、1日5円で貸してやってもいいよ!」とサッチャン。

当時1日の小遣いが、母のがま口から支給される10円と決まっていた。

その10円玉一つで、半分の5円を友と半分ずっこにするアイスキャンディーを買い、残りの5円でくじ引きに挑むのが毎日の日課。

やっぱりサッチャンに5円払ってでも、家では到底買っては貰えぬウルトラハンドで、悪戯三昧を一度くらい楽しんでみたいと、ついに誘惑に負けてしまった。

意気揚々とウルトラハンドを片手に、わが家へと戻ると、まずは老犬のバカ犬ジョンの小屋へと向かった。

何はともあれ、悪戯の第一弾は、ここで腕試しだ。

写真は参考

ジョンは都合よく、小屋の中で寝息を立てているではないか。

ぼくはジョンに向かって、ウルトラハンドを伸ばし、ジョンの垂れ下がった耳を掴んだ。

するとジョンは何事かと目を見開き、初めて目にしたウルトラハンドにパニックとなり、恐れおののき吠えまくった。

見事腕試しの悪戯は、大成功。

「なんやの、それっ?面白そうな玩具やなあ」と、洗濯物を取り入れながら、お母ちゃんが笑った。

写真は参考

サッチャンから1日だけ借りたことを告げると、「ほんなんやったら、まっとええ使い道があるで、後はお母ちゃんに任せとき!」と。

心なしかその時お母ちゃんは、ほくそ笑んだようだった。

それがまさかお父ちゃんの、鼾封じの悪戯だったとは。

天晴れ!お母ちゃん!

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「昭和懐古奇譚~ファンシーケースは、秘密の花園?」(2018.10新聞掲載)

「ファンシーケースは、秘密の花園?」

写真は参考

「ねぇねぇサッチャン、これって何なの?」。

お向かいのサッチャン家に、上がり込んで遊んでいた時のこと。

サッチャンのお姉ちゃんの、部屋の片隅に置かれた、小ぶりな電話ボックスのような物を眺め、ぼくはサッチャンに問うた。

それは四方が、実にカラフルな色合いのビニールで覆われ、ともかく目が奪われてならない。

「これ姉ちゃんがセーラー服やブラウスとか、大切な服を吊り下げてしまっとく、ファンシンケース言うんやったか、ファンシーケースとか言うんもんやて」と、年下のサッチャン。

「『ファンシンケース』やったとしたら、阪神タイガースにそんな『ケース』なんて選手おったやろか?いやいや、『ファンシーケース』にしたって、そんな言葉聞いたこともない。せいぜいそれに近いのなんて『ルーシーショー』くらいやもん」とぼく。

「ねぇねぇミノ君。こっそり姉ちゃんの、ビニールの箱ん中覗いて見たい?」と、妙に思わせぶりなサッチャン。

「このチャックを下に降ろして、こっちを右に開けば、ほらっ!」。

写真は参考

サッチャンは慣れた手つきで、ビニールの箱を開けた。

その瞬間、得も言われぬ、甘酸っぱい香りが鼻先を掠める。

年頃の娘などいない、三人家族のわが家には存在しない、クラクラと眩暈を覚えるような、甘酸っぱい香りがした。

「どうしたのミノ君?なんやポーッとしてまって、顔も真っ赤しけやよ!」と、サッチャンの声でふと我に返った。

「ねぇこれ何か知っとる?」。

サッチャンは得意げに、まるでぼくを茶化すかのように、お椀を二つ伏せたような真っ白な下着のような物を、自分の胸の前で広げた。

「・・・?なんやのそれ?」とぼく。

すると突然襖が開いた。

「サトシ!やめてよ!私のブラジャー、玩具にせんといて!」。

サッチャンのお姉ちゃんが、ものすごい剣幕で白い下着のようなものを奪い取ると、サッチャンに拳骨を見舞った。

その場に居合わせただけのぼくも、何だかバツが悪く、逃げ出すように玄関を飛び出したものだ。

しばらくその出来事が理解できず、ぼくは公園のブランコで揺られていた。

写真は参考

するとサッチャンが照れ臭そうにやって来て、別に何か言い訳をするでもなく、隣でブランコを揺らし始める。

「さっきがたのアレねぇ。姉ちゃんがこないだ買ってもらった、大切なブラジャーってもんなんやて。年頃になると女の子は、オッパイが膨らんで来るから、あのブラジャーってのでオッパイを大切に包むんやと」と、サッチャンは物知り顔でつぶやいた。

「お母ちゃん!何でお母ちゃんは、ブラジャーせんの?」。

家に帰ると、ただいまの代わりに母に問うた。

すると「何んやのこの子は、藪から棒に!」と、母は一瞬戸惑ったようだ。

「だってさっき・・・」と、サッチャンに教そわった、ブラジャーの効能を口にした。

「トロくっさい!子どもはそんなこと、知らんでええ!それにお母ちゃんたーが若い頃は、戦時中やったで、そんなハイカラなもんだーれもしとらなんだわ。それにそんなもん、今更着けやんだってええ!」と、とにかくえらい剣幕。

それも昭和と言う時代を二分した、戦中と戦後の価値観の違いと、急激な生活様式の変化と言う、忘れ形見そのものだったのだろうか。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「昭和懐古奇譚~エッチー!な外国土産のボールペン」(2018.9新聞掲載)

「エッチー!な外国土産のボールペン」

写真は参考

ぼくが子どもの頃の外国は、今よりもっともっと遠かった。

まさかいつの日か、自分が飛行機に搭乗し、海外の見知らぬ国に行くなど思いもよらぬ時代。

だから、洋行帰りだなんて言ったら大騒ぎ!

「ちょっとちょっと聞いた?隣町のあの洒落た洋館に住んどらっせる、あそこの息子さんが嫁さん貰わしてなぁ。そいでもって、新婚旅行でハワイへ行って来たげな」と、たちまち近隣の町々で、オバちゃんたちの井戸端会議の、トップニュースに躍り出たものだ。

写真は参考

中学に上がったばかりのある日。

クラスでも、おませな事なら天下一品!

こいつの右に出る者は無しとまで言わしめた、忠治に誘われクラスの仲間4~5人が、荒れ寺の境内奥の林の中に呼び出された。

中学1年にもなると、おおよそ男どもは思春期を迎え、異性への関心も高まる。

ぼくらはきっと、忠治がお兄ちゃんのお下がりの、エロ本でもこっそり持ち出してきて、ぼくらに自慢するのだろうと、半ばそんな期待もあって、忠治の招集に応じた。

ところがぼくらを待ち受けていた 忠治 は手ぶら。

ぼくらはみんな「?????」。

忠治はと言うと、ぼくらの落胆した顔を見比べながら、妙に一人でニタニタとしている。

「今日はなあ、もっとええ物見せたるわ」と。

でもどこからどう見ても、忠治は手ぶらだ。

ただいつもの勉強嫌いな忠治が、中学の夏服の開襟シャツのポケットに、珍しくボールペンを差しているくらいだった。

「これや、これやて!」と自慢気に忠治は、開襟シャツの胸ポケットのボールペンを取り出し、フンッと鼻の穴を膨らませた。

写真は参考

忠治が手にしたボールペンは、筆先から半分ほどの所から、クリップ側の半分に、ビキニ姿の褐色の肌の女性の絵が描かれている。

忠治はボールペンを水平に保ちながら、「どうや、ビキニのお姉ちゃんや!ええやろ!」と、益々の穴を膨らませひけらかす。

すると「変わったボールペンやなあ?それ、どこのなん?」と、クラス仲間の一人がつぶやいた。

「これはお前、アメリカ製のハワイ土産やて!」と、よくぞ聞いてくれたとばかりに忠治。

しかし、その日集まった忠治ん家を含むクラスメイトの家庭は、どこもかしこも典型的な庶民ばかり。

とても海外旅行など、我が身ばかりか、親類縁者を含め夢のまた夢。

誰もが、何でそんなハワイ土産を、忠治がひけらかしているのか、不思議でならなかった。

すると「このボールペン、不思議なことにペン先を下に向けると、ホレッこの通り!」と、忠治の鼻息がより一層荒くなった。

写真は参考

ぼくらは顔を突き合わせ、忠治がペン先を下に向けた、ボールペンのビキニ姿の美女に固唾を飲んで見入ってしまった。

すると褐色の肌を纏っていた黒いビキニが、おもむろに脱げていくではないか!

「どうや!」。

忠治はドヤ顔で得意満面。

「こらっ坊主!そのボールペン、どこで拾ったんや!ちょっと見せてみい!」と、荒れれ寺の坊さんが不意に顔を出し、忠治の手からボールペンを捥ぎ取った。

「ここにホレっ、R.Iとイニシャルが彫ったるやろ。これは檀家さんのハワイ土産にもらった、わしのボールペンや!」と、坊さん。

「ヤバイ!逃げろ」と、忠治の声に従い、ぼくらはまるで蜂の巣を突いたように、一斉に逃げ出した。

今にして思えば何故忠治は、わざわざヌードボールペンを拾った荒れ寺の境内で、ぼくらに自慢したのだろう。

写真は参考

しかしその後しばらくすると、海外旅行の土産と称した子ども騙しなヌードボールペンは、あちらこちらで見かけられるようになり、それほど話題にも上らなくなった。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。