「遥かなるカリーテンプルへの道!」(第6話)

2000年10月24日 毎日新聞朝刊掲載

「ちょっと待ってよ!カルカッタ」

「ちょっと待ってよ!もう、どうなっとるの!」。

同行したイラストレーターの、記念すべきカルカッタ上陸第一声だ。(※2001年までは英語化されたカルカッタ (Calcutta) の名称が用いられたが、2001年以降ベンガル語の呼称「コルカタ」に正式名称が変更された。)

まるでこの先2週間に及ぶインド取材が、感動と興奮に満ち溢れるであろうことを、予言するかのような一言でもあった。

1999年暮れ、ぼくと彼は関空発のエアー・インディアでインド東部の最大都市カルカッタへと向かった。

なにゆえ怪しいオヤジ二人のインド珍道中かと言えば、彼がカリーテンプル支援のためイラスト制作を申し出、会の募金活動にポストカードを発売することになったからだ。

これまでの彼は、海外と言えばパリしか知らず、洗練されたヨーロッパ文化に純正培養されていた。

だから夜中にもかかわらず、人人人でごった返す暗くて狭く、とにかくくそ暑いカルカッタ国際空港に早くもビックリ。

唖然とする彼を引き連れ、タクシー乗り場へ。

いきなり闇に溶け入りそうなほど真っ黒な老若男女が、ぼくらを狙い定めたように取り囲む。

もちろん顔見知りでも無ければ、親類縁者であろうはずなどない。

一方的にヒンディー語かベンガル語が浴びせられる。

するといつの間にか彼のスーツケースを乗せたカートは、少年の手で人波を掻き分け進んでいるではないか!

「いっやーっ!みんな何だかとっても親切なんだもん!」と、感慨ひとしおの彼。

ぼくは思わず、「アッチャー!」。

少年はタクシーのトランクに、手慣れた様子でスーツケースを積み込む。

やっとのことで取り巻きを振りほどき、無事に冷房がギンギンのタクシーに乗り込んだ。

いざ出発!

しかしタクシーのドアの外には、彼が勝手に善意のサポーターと勘違いした少年の姿が!

窓ガラスをドンドンと両手で叩き、大声を張り上げながら動き出したタクシーに追いすがる。

何事かと言わんばかりに驚いた表情の彼を尻目に、ガイドのバサックがバッサリ一言。

「少年はあれが商売ネ。人の好さそうな外国人を見つけては、頼まれもしないのに勝手に荷物を運んでお金貰うネ。だから少年は言っている。外国人の中でも、一番のお得意様は日本人だって!」。

その後、ホテルまでの車中、カルチャーショックの洗礼が応えたのか、彼は終始無言のままだった。

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「いよいよ15日『飛騨古川三寺まいり』~瀬戸川沿いに千の灯りが点ります!」

新型コロナの影響により、去年も大幅に規模が縮小されながらも、地元の伝統行事としての「三寺まいり」は粛々と開催されました。

今年もやはり同様に規模が縮小されながらも、いよいよ15日に「三寺まいり」が開催されます。

今年は雪も期待でき、さぞや幻想的な風景が瀬戸川沿いに描き出されることでしょう!

※今年の「三寺まいり」概要(飛騨市観光協会フェイスブックより)

開催日 令和4年1月15日 12:00~21:00

【実施】
・雪像ろうそく
・山門ライトアップ
・門前市(テイクアウトできる物のみ販売)
・千本ろうそく
・とうろう流し

【中止】
・レンタル着物
・和装モデル

イベント当日は体調が悪い、熱がある場合はご来場をお控え下さい。
お越しになる場合はソーシャルディスタンスの確保、マスクの着用、こまめな消毒にご協力ください。

https://www.facebook.com/hidakankou/

ぼくももう一度飛騨古川の地を訪ね、「三寺まいり」を拝見したいものです。

そんな冬の風情溢れる情景を唄った、ぼくの「三寺まいり」をお聴きください。

「三寺まいり」

                        詩・曲・歌/オカダ ミノル

瀬戸川に 明りが燈る  雪闇浮かぶ 白壁土蔵

 千の和灯り 千の恋  千の祈り 白い雪

飛騨古川 三寺まいり  娘御たちの 願い叶えや

瀬戸川に 灯篭流し  お七夜(しちや)様に 掌を合わす

千の和灯り 千の恋  千の祈り 白い雪

寒の古川 三寺まいり  娘御たちに 縁紡げや

 嫁を見立ての 寺詣り  小唄も囃す 白い息

飛騨古川 三寺まいり  娘御たちの 願い届けや

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「遥かなるカリーテンプルへの道!」(第5話)

2000年10月17日 毎日新聞朝刊掲載

「世紀越えの大カリーパーティーと、15.000杯のカレー?」

カリーテンプルは紛れもなく、300杯のカレーが取り持ったご縁の賜物。

カリーテンプルが20世紀末の完成となるならば、いっそ20世紀最後の大晦日に、村人たちを全員招待して世紀越でカリーパーティーを開こう。

それでこそのカリーテンプルだ。

そんな遊び心が現実のものとなった。

20世紀最後の大晦日から、21世紀最初の元旦にかけ、「世紀越え大カリーパーティー」が開催されることとなった。

ブッダの里で20世紀最後の夕陽を見送り、バナナの葉を皿代わりにチキンカレーを頬張る。

そして村人たちの民族音楽や踊りを鑑賞し、21世紀初のご来迎を仰ぎ見る。

会はそんな果てしない夢を、一口1.000円の募金に託し、「一杯のカレー引換券」を発行することとなった。

この引換券を持参してブッダの里のカリーテンプルを自力で訪れれば、本場のチキンカレーが食せるというもの。

現在までに約1.500万円の善意が寄せられ、「カレー引換券」は既に15.000枚も発行された勘定となる。

万が一、15.000人が現地を訪れたら、いったい誰が15.000杯のカレーを作るんだ!

でも仮にそんなことが起きようとも、村人たちは必ず決まって口々にこう言うであろう。

「問題ないよ!ノン・プロブレム」と。

彼らはいつだってそんな調子だ。

でもそこが実に良い!

しかしそれは、彼らが物事に対していい加減なのではなく

「そうなったらそうなったで、皆で知恵を絞って何とかしよう」という、とても前向きな意味合いだからであり、日印の習慣の違いなのだ。

カリーテンプル建立費用の目標額までようやく半分。

当然会としては、今後も募金を募る。

いや待て!

万が一目標額が達成されたら・・・・・。

30.000杯のカレー・・・・・。

それこそ「一体だれが作るんだ!」である。

でも答えはきっと一言。

「ノン・プロブレム」。

実に素敵すぎる言葉じゃないか!

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「遥かなるカリーテンプルへの道!」(第4話)

2000年10月3日 毎日新聞朝刊掲載

「晴れて炎天下で地鎮祭」

1999年4月2日。

インド・ブッダガヤのカリーテンプルの敷地で、厳かに地鎮祭が執り行われた。

出席者は、内田・清水・紀氏の3人の僧侶とぼくだ。

敷地の入り口には竹竿が立ち、その天辺には紙垂のようにマンゴーの葉を吊るした藁縄が張り巡らされている。

敷地の四隅に植えられたマンゴーの木は、魔除けだとか。

祭壇は、白布をかけただけの簡素なテーブル。

色とりどりの花や供物と線香も準備されている。

地鎮祭で導師を務めるのは最年長の清水だ。

両脇を内田と紀氏が固める。

3人とも法衣を纏った正装である。

まだ午前9時だというのに、ブッダの里の気温は既に30度をはるかに上回った。

何はともあれ早速、清水導師による酒水(しゅすい/祭壇の四隅に水を振り掛け清める)と呼ばれる儀式が始まり、読経へと続いた。

約15分ほどの地鎮祭ながら、村人たちがあちらこちらから「何事が始まるんだ!」とばかりに集まり始めた。

サリー姿の女たちや、真っ黒な顔に筋張った体の男たちは、思い思いに足を止め、読経に合わせ申し合わせたように誰もが合掌する。

彼らの大半はヒンドゥー教徒であるにもかかわらず。

しかし熱心に祈りをささげる姿は、宗教心の薄いぼくの心にさえも染み入った。

読経が止み、最後の合掌も終わった。

3人の僧侶がゆっくりと顔をもたげた。

エエッ!

導師の清水が泣いているではないか!

しかもはたを憚らぬ号泣ではないか!

何故?

重責を務め終えた開放感からであろうか?

様々な想いがよぎる。

しかし確かに清水の頬を、涙が止めどなく伝っていた。

ただただ涙することで、大いなる夢にまた一歩、確実に近付いたことを自ら確かめでもするかのように。

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「遥かなるカリーテンプルへの道!」(第3話)

2000年9月26日 毎日新聞朝刊掲載

「平成の寺子屋たれ!」

1998年は、和歌山カレー事件に続き、福岡でもカレーに薬物を混入させる保険金殺人事件が発生。

庶民の味カレーは、とんでもない汚名を着せられた。

その頃インドで設立された「仏心寺パブリック・チャリタブルトラスト(理事長、ジャガット・プラサド・アグラワール)」に、インド政府から承認が下りた。

このトラストが、カリーテンプルを7人の僧侶に代わり、現地で運営に当たるのだ。

7人の僧侶とトラストは、約350坪の敷地に「祈りの本堂」と、世界中からブッダの聖地を訪れる観光客が、異教徒であっても布施だけで泊まることが出来る「宿坊(約30人収容)」の建設に取り掛かった。

写真は参考

次はいよいよ多難な建立資金集め。

7人の僧侶にぼくも紛れ、議論が続けられた。

「一般からの募金集めは?」。

「〝お釈迦様の聖地に宿坊を作る会″では宗教色が強すぎる」など。

しかし最後は、300杯のカレーが紡いだご縁が、この活動の発端であったことに帰結した。

ならば日本人にも親しみのある「カリーテンプル(カレー寺)」とでも、気軽に呼び募金を募ろうではないか!

そして会の呼称も「カリーテンプルプロジェクト」と、親しみのある名称がより相応しいのではとの、ぼくの意見も取り入れられた。

折しもマスコミでは、不登校問題やいじめに関する記事が目立ち、彼ら僧侶も何かしなくてはと、考えあぐねている時期でもあった。

すると7人の僧侶の誰かがつぶやいた。

「昔の子らの学び舎は、寺子屋だった。寺で読み書きを教え、寺は子らの成長を見守った。もう一度カリーテンプルから、子らと向き合って見ようじゃないか!平成の世の寺子屋で」。

参考資料

多難な建立事業に向け、また一歩7人の心が夢に向かった。

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「遥かなるカリーテンプルへの道!」(第2話)

2000年9月12日 毎日新聞朝刊掲載

「7人の侍ならぬ7人の僧侶」

インド釈迦成道の聖地、ブッダガヤ。

その土地の寄進を受けることになったものの、「いったいこれから、どないしよう?」。

内田はため息を漏らした。

そこで彼は全幅の信頼を寄せる、福井県南条郡の善導院、清水涼裕(52)住職に声を掛けた。

「ほらぁなんとかせな、しゃあないで」。

この清水の一言で神戸から3人、豊岡から1人、福井からも1人の僧侶が、志を一つに集結した。

総勢7人。

会の名は「お釈迦様の聖地に宿坊を作る会」と定められ、早速その土地の視察へと内田・清水・古本の僧侶3人が1998年7月に渡印。

しかし寄進される予定地は、表通りから他所の土地で遮られたその奥にあった。

建築どころか、人が入ることさえままならない。

ただただ愕然とするばかり。

インド渡航歴が最も豊富な猛者、内田でさえ極度のストレスから40度近くの高熱にうなされた。

しかし寄進を申し出た、ブッタの里の村人の善意を、責め立てることなど到底できない。

3人が肩を落とし帰国準備を始めた頃、もう一人の村人(タルケッシュ・パスワン)から代替地を提供しても良いとの申し出が入った。

写真は参考

わずかな残り時間を費やし、土地の下見と交渉が行われ仮契約に。

たった24時間ぽっきりの、何とも綱渡りのようなブッダガヤ滞在となった。

一度は夢が潰えたかのように、ただ打ちひしがれてばかりだった3人も、口々に「お釈迦のご縁だ!南無阿弥陀仏」と、ブッダの里の大地を茜色に染め上げながら沈みゆく夕陽に向い合掌した。

7人の侍ならぬ7人の僧侶は、20世紀末のカリーテンプル建立に向け、大いなる一歩を踏み出した。

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「遥かなるカリーテンプルへの道!」(第1話)

2000年9月5日 毎日新聞朝刊掲載

この「遥かなるカリーテンプルへの道!」は、「カリーテンプルへの道」というシリーズで、2000年9月3日から2001年3月6日まで、毎日新聞朝刊に連載していただいたものです。

今回はその一部に加筆修正を加え、ブログにアップさせていただきます。

「17年前の300杯のカレー」

「インドに寺を建てなあかんねん!」。そう言って男は、コップ酒を煽った。

男の名は、内田卓也(45)。れっきとした滋賀県八日市市の浄土宗福命寺住職だ。

「なに言うてんねん。この坊んさん?」。ぼくはこっそりつぶやいた。しかし2杯目のコップ酒が空になる頃には、すっかり彼の独演会へとのめり込んでしまったのだ。

彼は1981年から3年間、インド・ビハール州のブッダガヤに日本寺駐在僧として滞在。釈迦成道の仏教の聖地の貧しい村人たち。誰もが慎ましく、支え合って生きる姿に感銘を受けた。

写真は参考

彼は3年間の駐在期間の大半を、貧しい村人たちと過ごし、ヒンディー語も独学で学んでいった。この3年で彼は、物質中心となり果てた日本人の価値観に、大いなる疑問を抱いたという。

彼は任期を終え帰国に際し、世話になった村人たちへのせめてもの礼として、私物を売り払い300杯分のチキンカレーを振舞った。

それから15年後。

ブッダガヤから彼の元に一本の国際電話が入った。

電話の主は、15年前にカレーを食べたという青年から。

ブッダガヤの土地を寄進したいとの申し出であった。

「村人と日本人が、15年前のカリーパーティーのように、共に触れ合える場所を作って欲しい」。

当時の少年は、内田に願いを託した。

「わかった」。

彼はヒンディー語でそう応えたものの、「えらいこっちゃがな!」が、本音だったと振り返る。

カレーが紡いだ不思議な出逢いは、一本の国際電話を境に6.000㌔を隔て、新たな日印の物語を刻み始めた。

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「昭和懐古奇譚(最終回)~下呂膏とお灸」(2019.9新聞掲載)

「下呂膏とお灸」

写真は参考

「ああ、そこじゃね!もうちっと…、右上や…。おお、そこじゃ、そこじゃ…」。

母方の鹿児島生まれの婆ちゃんは、小さな背を丸め着物の襟を抜き、両肩を露わにしたままぼくにお灸のもぐさを据えさせた。

参考資料

「次は蚊取り線香(せんこ)の火種で、とんがり帽子のようなもぐさの天辺に火を()っくんじゃ…」。

婆ちゃんに言われるまま、ぼくは恐る恐るもぐさに火を灯した。

たちまち縁側に煙が立ち込める。

写真は参考

とんがり帽子のようなもぐさの火は、真っ赤になりながら、婆ちゃんの肌の方へと降りて来た。

「ねぇ婆ちゃん、熱くないの?」。

婆ちゃんの肌がやけどしないか、ぼくは心配でならずそう尋ねた。

「そげなこちゃない。こん熱さが堪らんとよ。ああ、効いて来た来た」。

婆ちゃんは、わずかに顔をしかめた。

「ねぇお母ちゃん。今日先生が『今度の9月15日は敬老の日です。皆さんが、お爺ちゃんお婆ちゃんを敬い、感謝する日です。お父さんお母さんと相談して、お爺ちゃんお婆ちゃんの大好物をプレゼントするのもいいでしょうし、お爺ちゃんお婆ちゃんに、感謝のお手紙を書いて渡すのもいいでしょう。もちろん肩叩きをしてあげるのもいいですね』って。

だからぼくも婆ちゃんに何かしてあげたいと…。

「ぼくもちょっとだけど、豚の貯金箱のお小遣い出すから、婆ちゃんに何かプレゼントしようと思うんだ…。お母ちゃんは何がいいと思う?」。

半ドンの土曜日。

一目散で学校から駆け戻り、台所で焼き飯を作っていたお母ちゃんに問うた。

「婆ちゃんにか?そうやなあ、いっつも肩が凝った肩が凝ったって、お灸据えてから下呂膏を貼っとるやろ。それやったらお灸のもぐさと、下呂膏をプレゼントしたら、婆ちゃん喜んでくれるんやない?」と、お母ちゃんはいつになく嬉しそうな顔を浮かべた。

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さっそく昼ご飯を終え、お母ちゃんと連れ立ち、近所の薬局へと向かった。

婆ちゃんの肩のお灸の火が消え、縁側にわだかまっていた煙を、ほんのわずかに秋の香りを感じさせる、初秋の風が運び去った。

写真は参考

あれっ?

婆ちゃんの目から涙が!

「ねぇ、婆ちゃん。やっぱりお灸が熱かったんやない?だって、婆ちゃん泣いてるんだもん…」。

「そじゃねぇ。こん涙は熱くて()てからじゃね。おはんのしおらし心に打たれて流れ出た、うれし涙じゃ。(なん)心配(せわ)すっこっは()。ああ、極楽極楽。こんお灸、ほんのこてようよう効いたわ。あいがとうな。ほな次は、遠慮(えんじょ)のう膏薬(こやっ)を貼ってもらうとするか」、婆ちゃんは燃え尽きたもぐさを器用に摘まみ上げ、灰皿の中へと捨てた。

婆ちゃんの肩のお灸の跡は、薄紅色になって丸い斑点が浮かんでいる。

「ねぇ、婆ちゃん。お灸の跡が、ピンク色になってるけど、本当に痛くないの?」と、ぼく。

()て事なんちない。それどころか、あげんパンパンじゃった肩の凝りも、しったい良くなったようじゃ」と、婆ちゃんは皺だらけの顔を綻ばせ、ぼくを振り返った。

「じゃあ、今度は下呂膏を貼るよ。この辺でいいの?」と、ぼくが婆ちゃんの肩に指を這わせた。

すると婆ちゃんは皺だらけの手をぼくの手に添え、膏薬を貼るツボに導いた。

「ここが膏薬(こやっ)真中(まっぽし)なるように、上手(じょ)しこと貼っとくれ」。

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ぼくは慎重に婆ちゃんの肩に、あの独特な匂いを発する下呂膏を貼り付けた。

「ああ、(ちん)とて気持(きもっ)がええ」。

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婆ちゃんは縁側に坐したまま、気持ちよさ気に目を閉じ、何度も何度も独り言ちながら、湯呑に入った芋焼酎を舐めていた。

※明日からは、新シリーズをお届けいたします。

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「昭和懐古奇譚~ブーブークッション」(2019.8新聞掲載)

「ブーブークッション」

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ブッ ブゥーッ ブッ ブゥーッ。

クラス全員の視線が、ただならぬ音の方に注がれた。

朝礼の日直が「起立、礼、着席」と言った直後の事だ。

誰もが、「まっ、・・・まさか!」と、只ならぬ音の方を振り向き、固唾を飲んだ。

その視線の先の女生徒を見つめ、誰もが言葉を失った。

だってその視線の先には、慌てて椅子から立ち上がった、我がクラスの、いや我が学年の男子たちから、憧れのマドンナと呼ばれる「ヒトミちゃん」がいたからだ。

下賤なぼくらなんぞとは異なり、天使のようなヒトミちゃんが、放屁はおろか大も小も、不浄な事など絶対にしないと、男共は勝手にそう信じ切っていたからである。

すると呆然と立ち尽くしたままのヒトミちゃんは、見る見るうちに真っ赤な顔となり、「ええっ、今のはオナラ?ええっ、ワタシの?」といった感じで、両手で顔を覆い教室を飛び出して行った。

担任の女教師も、ヒトミちゃんを追い、教室を飛び出した。

誰もが席から立ちあがり、先生とヒトミちゃんの行方に目を見張るばかり。

そんな中、ぼくの斜め前方の席で、不審な動きをしている男子生徒がいた。

クラス一のお調子者の忠治である。

ヒトミちゃんの席の後ろから手を伸ばし、忠治が何やらこそこそと、ヒトミちゃんの座席を(まさぐ)っているではないか!

しかしぼくの席からでは、忠治の手元がハッキリと見えない。

…何をしてんだ…

すると隣の席の女子が、忠治の手首を思いっきり掴み上げた。

その女子とは、クラスメイトの皆から、ダンプカーと綽名されていた、相撲部の黒宮さんだ。

そこへ担任の女教師が戻って来た。

「なんですか?それは?」と、先生は黒宮さんに掴み上げられた、忠治が握ったままのオレンジ色をした、平べったい風船のようなものを取り上げた。

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そして先生は、まだ空気を含んでいる風船を椅子に置き、何の躊躇いもなく座って見せたではないか!

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するとまたしても、ブッ ブゥーッ ブッ ブゥーッ。

クラスの皆は、先生の周りを取り囲むように、笑いを押し殺しながら、その一部始終を目の当たりにした。

「どうしたんですか?これは?」と、先生はやさしく忠治に問いかけた。

「…親戚のお兄ちゃんに貰った、ブーブークッション…。だってこれを自分の好きな女子の椅子に置いて、その子が座って音が鳴ったら、もっともっと仲良くなれるって…」と、忠治が告白。

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「それはお兄さんが、面白がって君をからかったのよ。まあそれを真に受けた、君の素直さについては、先生も褒めてあげるけど。でもヒトミちゃんの気持ちはどう?皆の前で、まるで自分がオナラをしたみたいに思われちゃって。さあすぐに追いかけて、ヒトミちゃんに自分の言葉でちゃんと謝って来なさい」と先生。

忠治はブーブークッションを片手に、ヒトミちゃんを追いかけて行った。

ただ忠治の悪戯だけを頭ごなしに叱り付けるのではなく、自らブーブークッションに座って見せることで、ヒトミちゃんの名誉も瞬時に回復。

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それにも増して、お調子者の忠治にも、再起のチャンスを与えた女教師に、あの時代劇の名奉行、「大岡裁き」も真っ青だった。

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「昭和懐古奇譚~怒髪天を衝く!」(2019.7新聞掲載)

「怒髪天を衝く!」

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「おはよう!」「オッス!」「おはようさん!」。

皆口々に朝の挨拶を交わし、それぞれの教室へと消え入る。

ぼくも3年2組の自分の教室へと入った。

するとどうしたことか!

教室の一番後ろの席に皆が集まり、男も女も大声で大笑いしているではないか!

何事かと、ランドセルだけ自分の机の上に放り出し、ぼくも野次馬のように輪の中へと飛び込んだ。

輪の中心にいるのは、いつも突拍子もない事を言っては、皆を笑わせるお調子者の忠治だった。

今日はまた何をやらかしたのかと、よくよく覗き込むと、お調子者の忠治の髪の毛が、全て天に向かって逆立っているではないか!

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その異様な忠治のヘアスタイルを眺めながら、皆は腹を抱えて笑い転げている。

すると忠治のお調子こきは、とめどなくエスカレートしていった。

ついには隈取こそないものの、大仰に目を寄せ、歌舞伎の成田屋もどきにらみ(・・・)を利かせ、「ドハツテンヲツク!」と渋い台詞回しで、見得まで切るから手に負えぬ。

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ところがそうこうしているうちに、梅雨の湿り気のせいか、逆立っていた忠治の髪の毛が、いつの間にか元通りとなり、ただの坊ちゃん刈りに。

すると忠治は、慌ててセルロイドの下敷きを取り出し、自分の脇の下に挟んで、下敷きを擦り始めたではないか!

そして今度はやおら、下敷きを水平に頭髪に宛がい、そのまま頭上に持ち上げた。

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すると忠治の総髪は、再び天に向かって逆立つではないか?

子供なんてぇものは、何時の世でも同じ。

ちょっと珍しい事があると、すぐに真似て見たくなるのもけだし人情。

ついに忠治の周りを取り囲んでいた、男女が一斉にセルロイドの下敷きを擦り出し、呪文のような「ドハツテンヲツク!」の言葉と共に、髪の毛を逆立て出したから始末に負えない。

そこに何とも間合いが良いのか悪いと言おうか、歌舞伎の幕間を告げる、一丁の()のような始業のチャイムが鳴り響き、担任教師が教室に入って来たからさあ大変!

さすがの担任教師も、生徒の髪型が皆、天を衝くように皆逆立っている、そのただならぬ異様さに一瞬思わず言葉を失ったようだ。

しかしそこはさすがのベテラン教師。

何故そんな事態になったのかを、過去の事例から瞬時に思い出したのだろう。

何食わぬ顔で、朝礼を始めた。

子供らはと言えば、担任からさりとて咎められるわけでもなく、まるで何事もなかったかのように、淡々と普通を装って朝礼を始める教師の違和感と、自分の前の席に座る子供の、逆立ったヘアスタイルを眺め笑いをこらえるのがやっとだった。

ぼくはあの、成績の出来はお世辞にも良くはなかった忠治が、大仰に目を寄せ、歌舞伎の成田屋もどきにらみを利かせ、「ドハツテンヲツク!」と(のたも)うた、あの呪文のような渋い台詞が、気になって仕方がなかった。

家に帰るとさっそく下敷きを擦り付け、髪の毛を逆立てお母ちゃんを脅かそうと、「ドハツテンヲツク!」と、両目を寄せにらみを利かせた。

写真は参考

するとお母ちゃんは、「どうしたんや?熱でもあるんとちゃうか?」と、逆立った髪の毛には何の関心も示さず空振り。

逆にぼくは自分の間抜けな姿が、一輪車から転げ落ちたピエロのようで、とてもやるせなかった。

そしてそれが、静電気なるものの仕業だと分かるのは、まだまだ随分と先の事であった。

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