「昭和懐古奇譚~ボンネットバスの注連縄と鏡餅」(2015.1新聞掲載)

「ボンネットバスの注連縄と鏡餅」

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飾り納めから3日が過ぎた。

最近の家庭では、注連縄や鏡餅を飾る数が、ずいぶん減った気がする。

昭和半ばのわが家では、八百万の神々がおいでだからと、母が貧しいながらも家中のあちこちに、豆注連縄や小さなお鏡さんを飾りたくったものだ。

玄関は元より、茶の間や勉強机の上から、台所や風呂場に便所と、あげくは自転車にまで豆注連縄が飾られた。

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当時わが家に自家用車は無かった。

でもご近所では、自家用車や軽トラまで、大晦日になるとピッカピカに磨き上げられ、ボンネットに大きな注連縄が括り付けられたもの。

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土埃を上げボンネットバスが、バス停へとやって来た。

初詣へと向かう晴れ着姿の家族連れが、こぞって乗り込む。

ボンネットバスのフロントグリルにも、これまた一際大きな注連縄が、これ見よがしに取り付けられていた。

車掌のお姉さんが手動で二つ折りのドアを開け、乗客を車内へと誘う。

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「発車オーライ!」。

その声で運転手は、右にウインカーを出し、バスはソロソロと動き出す。

そのウインカーたるや、現在の様な黄色いランプが点灯するものではない。

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運転席の左右に取り付けられた縦長のボックスから、赤い矢印が手旗信号の様に外側へと飛び出す代物。

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運転席の中央部のスピードメーターの上には、これまた小さなお鏡さんが飾られていて、バスの中もお正月気分満点だったものだ。

中には信心深い運転手さんだったのだろうか、運転席の横にお伊勢さんの天照大御神のお札が掲げられているものまであった。

果たして天照大御神が、交通安全にご利益の高い神様でいらっしゃるのかは、いささか疑問でもあるが。

少なくとも昭和40年代の半ば頃までは、そんな松の内であったし、誰もが身の回りに常においでになる、身近な八百万の神々を崇め、新年が少しでも良い年であれと、そう願って止まなかった証しだろう。

それに引き替え平成の今の世は、いかばかりであろう?

何も昭和の昔と変わってしまった事を、非難しようと言うわけではない。

それが紛れも無い今の世なのだから。

しかし敗戦のどん底から、それをものともせず、「♪ボロは着てても心の錦 どんな花よりきれいだぜ♪」と、自らを鼓舞するかの如く口ずさみ、必死に今日を生き抜いた両親たちの時代。

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大それた見果てぬ夢など追わず、ただ家族皆の健康と、もう二度とこの国が戦争に巻き込まれる事があってはならぬと、八百万の神々に祈ったその想いだけでも、せめて我々は受け継がねばならぬのではなかろうか?

降ってわいた突然の年末の選挙。

何を問わんとするかも定かではないまま、ついには呆れ返り、一票を投じなかった多くの者たち。

棄権する方も確かに悪い。

しかしだからと言って、声なき声に耳を傾けもせず、日本の平和を揺るがそうとする事だけは、何人であれあってはならぬ蛮行だ。

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敗戦70年を迎える今年こそ、今一度八百万の神々に不戦平和を祈るしか、もはや術はなさそうだ。

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「昭和懐古奇譚~社会の窓?から覗く昭和の原風景」(2014.12新聞掲載)

「社会の窓?から覗く昭和の原風景」

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昨年の今頃か、電車内での出来事だ。

行儀よく靴を脱ぎ揃え、5~6歳の少女が車窓を流れ行くネオンの灯りを眺めていた。

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若いお母さんの躾けの良さに感心していると少女の声が。

「ねぇママ、ほらあそこ、社会の窓が開いてる!」。

ぼくはパブロフの犬のように、我が股間を覗き込んだ。

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すると隣にもう一匹、パブロフの犬が!

まったく同時に、隣のサラリーマンも股間を覗き込んでいた。

そしてバツ悪そうに互いに顔を見合わせ「どうも」と。

確かにどう見てもご同輩である。

「私ら子どもの頃は、女の子に『やだ!社会の窓開いてる!』何て指でも指され様もんなら、一日中クラスの笑い物でしたねェ」。

「やっぱりお宅も、昭和半ばのお生まれで?」。

小声で言葉を交わしていると、「やだ、里奈ちゃん。社会と会社が反対こじゃない!」と。

「まずはやっぱりビールですよね。お姉さん、瓶ビールと栓抜きもお願いね?」。

「せ、栓抜きですか?抜いて来ちゃダメなんですか?」。

「ダメに決まってるよ!瓶ビールにもちゃんと、抜き方ってもんがあるんだからさあ」。

電車で意気投合したサラリーマンは、ネクタイを緩めながら「本当今時の若い子は、何にも分かっちゃないんですよねぇ」と、徐に内ポケットから煙草を取り出し、マッチ棒で火を点けた。

やがて社会の窓から昭和談義へと発展。

乗り換え駅が同じこともあり、どちらからともなく、裏通りの鄙びた赤提灯へと縄暖簾を分け入った。

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「おっ、来た来た!」。

彼は瓶ビールと栓抜きを受け取りご満悦。

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やおら栓抜きの角で、王冠を上からカンカンと叩き出した。

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「やっぱり昭和のビールは、こうじゃなきゃ」。

確かに、どんな効能があったかはともかく、誰もが皆、王冠をカンカラカンカラ叩いたものだ。

「それってもしかして、何かの(まじな)いだったんですかねぇ」と問うた。

「さあ?でもこうやって叩くだけで、美味くなる気がするから不思議ですわ」と。

昭和談義に花が咲き千鳥足で店を出ると、なんと初雪が!

車もまばらな路地裏は、薄ら雪化粧。

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彼はコートの襟を立て、駅へと先に歩き出す。

しばらくして真っ白な空き地で立ち止まった。

「こう急に冷えると、つい催しちゃって」。

「いやー、実はぼくもです」。

「じゃあ昔を思い出したついでに、並んで連れションと洒落込みましょうか?」。

「だったらどっちが遠くへ飛ばせるか、久方ぶりに一丁やって見ますか?」。

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酔った勢いで、今にも昭和半ばの飛ばし合いが始まろうとしていた。

「でも子どもの頃みたいに、勢いよく飛びますかね」。

二人で股間をゴソゴソしながら、そんな事を囁きあっいると、突然懐中電灯に照らされた。

「ちょっと旦那さん!こんな所で立小便はこまりますなあ」。

不意に警邏中の巡査に咎められ、一気に酔いも吹き飛び、出るものも出ずにタジタジ。

「もう今は昭和半ばとは違いますから、こんなとこで用を足してもらっちゃ困ります!」。

巡査に侘び駅へと歩き出した。

すると「あっ旦那さん。ちゃんと社会の窓だけは、締めてお帰り下さいね」だって。

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誰が呼んだか「社会の窓」。

確かに言い得て妙な言葉だった。

しかしそれもまた、遠い昭和のあの日の中へと、いつの間にか埋もれ入ってしまったようだ。

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「昭和懐古奇譚~爪に火を点したバースデーケーキ」(2014.11新聞掲載)

「爪に火を点したバースデーケーキ」

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11月の誕生日が近付くと思い出す。

それはもはや、昭和のスイーツ遺産とも呼ぶべき、バタークリームこってりのバースデーケーキ。

それと歳の数を表わす蝋燭だ。

胃もたれしそうなほどこってりとしたバタークリームが、パサパサのスポンジケーキを覆い、葡萄やさくらんぼを真似た、ゼリーのような砂糖菓子のような、得体の知れぬ妙に甘ったるい物が乗っかり、小粒の仁丹に似た銀色の丸いチョコレートが散りばめられていた。

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それでも誕生日とクリスマスにしか、トントお目に掛かれない、貴重で尚且つ高価なケーキだった。

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「主人の勤めとった工場が潰れて、今は職安通いの日々。有り余るほど蔵に金が唸っとりゃええが。毎日爪に火を灯しながら、今日をやっと生きとるんやで堪忍してな」。

ある夜の事。

トイレに立とうと寝床から起き出すと、玄関から襖越しに薄明かりが漏れ、母と聞き覚えのない物売りらしき男の声がした。

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耳を澄ませていると、『爪に火を灯しながら…』と、母の声が耳を衝いた。

なぜならその夜、ぼくの誕生日のケーキのことで、「今年はなあ。お父ちゃんの工場が潰れたもんで、ケーキはいつもの年よりちょっと小さくなるけど我慢してな」と、母がいつになく情けなさそうに小声で耳打ちしていたからだ。

―ええっそんな!ってことは、ケーキが小さくなるのはともかく、蝋燭も買えないから、お母ちゃんが『爪に火を灯す』ってこと?―

子どもながらに、わが家の家計のピンチを、うっすら悟った。

斯くなる上は!

「お母ちゃん、ぼく明日から朝5時起きして、町内をマラソンするからちゃんと起してね!」。

「5時なんてあんた、まだ真っ暗じゃない!」。

「大丈夫だって!裏の純くん家のオジチャンも一緒だし」。

「……」。

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裏の純くん家とは牛乳屋さん。

だからぼくはオジチャンの運転する軽トラの荷台に乗り込み、牛乳を玄関先の牛乳箱に入れ、空瓶を回収するバイトの真似事を頼み込んだのだ。

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とは言えバイト料なんて、小学生だからとすっかり足元を見られ、小銭稼ぎ程度のもの。

でも毎日頑張れば、お母ちゃんが「爪に火を灯さなくても済む!」と。

「お誕生日おめでとう!さあ、蝋燭の火を吹き消して!」。

小さなバースデーケーキの上には、ちゃんと9本の蝋燭が灯されていた。

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「こんなこと、しなくたってよかったのに」。

お母ちゃんが不意に泣き出した。

牛乳屋のオジチャンから毎日受け取った、小銭の入った紙袋を握り締めながら。

「だって、お母ちゃんが爪に火を灯すって言ってたから!」。

すると母は「爪に火を灯すってのは、昔々の例え話。貧しくって行燈の油を買うお金も無いから、爪に火を灯さなきゃならないって言う。まさかこんな時代に、そんなことする人なんているわけないじゃない!お馬鹿だねぇ、本当にこの子は」と、母は泣き笑いのままぼくを力強く抱きしめた。

抱きしめられた瞬間、フワッと薫った母の甘い匂いを、ぼくはきっと死ぬまで覚えている事だろう。

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「昭和懐古奇譚~万能ちり紙は徳用便所紙」(2014.10新聞掲載)

「万能ちり紙は徳用便所紙」

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「ハンカチとちり紙、持った?」。

それが毎朝ぼくを学校へと送り出す、母の「行ってらっしゃい」代わりの台詞だった。

ちり紙とは、昭和半ばまでの、粗悪品のトイレットペーパー兼鼻紙。

時には近所のオバチャンたちが、お駄賃代わりの飴やあられなどを包む、懐紙代わりにも用いられたものだ。

その名も別名「便所紙」。

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やや灰色がかったガサガサした紙で、往復はがきを開いたほどの大きさ。

何百枚かのちり紙が重ねられ、それが紙のテープで縛られているだけで剥き身のまま。

おまけに新聞紙などの古紙再生品であり、製造過程で古紙が溶けきらず、新聞紙の切れっ端しがそのまま漉かれていた。

だからボットン便所にしゃがみ、便意が催すのを待つ間、その新聞の切れっ端しを拾い読みし、どんなニュースなのやらと想像を巡らせたものだ。

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それと果たして因果関係があるのか無いかは分からぬ。

しかし子どもの頃から本屋に入ると、なぜか必ず便意を催してしまう。

だからお目当ての本も見付けらず、スタコラサッサと家へ飛んで帰り、何度便所に駆け込んだやら。

しかもそれは大人になった今でも続く。

ある時その不快な現象は、ぼくだけかと訝しく思い、周りの者に尋ねてみた。

すると驚くなかれ。

同年代以上の者には、同様の体験を持つ者が結構いるではないか!

そこでぼくはピンと来た。

新聞紙の切れっ端しがそのまま漉き上げられていた、粗悪なちり紙の放つ、あの独特なインクの匂いが、便意を促させいたに相違ないと。

しかしぼくの探究心はそこまで。

未だ解明など出来てはいない。

と言うよりも、その難問を解明したところで、どれだけ人類に貢献出来るかと問われれば、無論ips細胞の比で無いことくらい自ずと察しが付く。

毎朝母がポケットにねじ込む、四つ折りのちり紙。

ある日、隣の席の女子から「ねぇ、鼻紙持ってる?」と尋ねられた。

どうやら朝から鼻風邪のようで、自分の鼻紙を使い果たしてしまったとか。

「うん、ちょっと待って」。

ぼくは慌ててポケットからちり紙を差し出す。

すると「嫌だあ、何これ!便所紙やない!こんな汚らしい物で、洟をかめって言う訳?」と、彼女は人の親切を仇にした。

まあ確かに、女子が愛用する鼻紙は、白くて薄い和紙のような紙に花柄が描かれ、ほんのり淡い香りのする気品のあるものだ。

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それに引き替え、母が特売品を漁った徳用の便所紙では、そもそも端から歯の立つ相手ではなかった。

「ちょっと!何しとるの、だらしない!これで拭いときなさい」。

父の病床で付っきりの看病をする母と、カップ麺で夕餉を取っていた時だ。

ぼくの口元に垂れた出汁を見咎め、何でも詰め込まれたバッグから、母がちり紙を取り出した。

それは紛れも無い、子どもの頃から使い慣れた、灰色の便所紙ではないか!

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しかし母の好意を無にすることも憚られ、それで口を拭った。

たちまち若き日の両親と過ごした、20年も前のあの噎せ返る香りがした。

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「昭和懐古奇譚~台風銀座に、台風一家?って」(2014.9新聞掲載)

「台風銀座に、台風一家?って」

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夏休みも終わり二百十日が過ぎると、「台風銀座」や「台風一家?」などと、大人たちの交わすそんな言葉に恐れを抱いたものだ。

特に伊勢湾台風で、家財を一夜にして失った我が家にとって、子どもながらにそんな言葉さえ、忌み嫌っていたのかも知れない。

「ここらあは、台風銀座やであかんわ」とか、「昨日と変わって今日は、台風一家?のええ天気やねぇ」と。

「台風銀座」って?

父が酔って口ずさむ、あの鼻歌の「たそがれの銀座」の銀座のこと?

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でも「ここらあは、台風銀座やであかんわ」と言っていたが、むろんここは東京でも無い。

だが確か駅裏には、「駅西銀座通り」とアーチを掲げる、うらぶれた商店街もあるから、そこのこと?

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ってことは、台風が狙い定めたように「駅西銀座通り」を通過する?

いや、それはまだしも「今日は台風一家?のええ天気や」とは?

台風が過ぎ去ると、前夜の嵐とは一転。

澄み切った空が広がる日本晴れとなることも多い。

「台風一家?」という、ヤクザのならず者を束ねる一家には、暴風雨を伴って荒れ狂う乱暴者もいれば、爽やかな日本晴れの様な穏やかな者もいるのか?

或いは、台風に親兄弟がいるとでも?

山ほど疑問が生じた。

しかしあの忌々しい、伊勢湾台風の記憶を呼び起こしてはならぬと、両親にその真意を問う事も憚られた。

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だから中学生になっても「台風一過」が、「台風一家?」だと、頑なに信じ込んでいたものである。

中学1年の今頃。

夜半に襲来した台風も明け方に過ぎ去り、登校時には「台風一家?」の抜けるような青空が広がっていた。

国語の女性教諭が教壇に立ち「昨夜の台風、皆さんのお宅では、被害がありませんでしたか?それでは今日は、四文字熟語で尻取りをして、順に黒板に書き出してもらいましょう。じゃあまず先生から出題しますね。日本列島は夏から秋にかけ、昨日の様に台風の通り道となりますねぇ。ですから常に台風に備え、被害に遭わないように努めなければなりません。そうした台風や地震などがもたらすものを、自然災害といいます。そこで四文字熟語の尻取りは、まず自然災害の『い』から始めましょう!」。

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先生の話が終わった途端、級長の手が上がった。

そして黒板に「異端分子」と書き上げ「『い』から始まる『異端分子』。意味は、正統から外れている人のことです。次は『分子』の『し』」と、得意満面。

すると今度は、副級長が続いた。

「『し』は、『自然淘汰』。意味は、自然環境に適応する生物は生き残り、そうでないものは生き残れない現象の事です。続いては『淘汰』の『た』です」。

そこでぼくも負けじと、黒板に向かった。

そして堂々と「台風一家」と書き上げ、「『た』は、『台風一家』。これは、ヤクザのようなならず者の台風を束ねる一家のことです」と。

ぼくは「どうよ!」とばかりに鼻高々。

しかし一瞬にして、教室内に爆笑が広がった。

慌てて黒板を振り返ると、「一家」の文字に赤いチョークで大きなバッテンが描かれ、その横に「一過」と先生が訂正しているではないか!

「聞くは一時の恥。聞かぬは一生の恥」。

母の口癖が、ことさら身に染みた。

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「昭和懐古奇譚~昭和のお祭り男」(2014.8新聞掲載)

「昭和のお祭り男」

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庶民の盆踊りは、人が人を(あや)め合う戦と、その狭間に(おとな)う束の間の平和な一時に開花し続けた。

そして再び戦が始まれば、ひっそり形を潜め、次の平和を待つ他術もなかったことだろう。

ぼくの育った昭和30年代後半は、戦後20年にも満たない時代。

だからついこの前まで、戦地で敵と対峙した元兵士も、娑婆には溢れ返っていた。

人々は拭い去れぬ戦争の惨たらしい記憶を、年に一度の盆踊りで(みそ)いだのやも知れぬ。

ゆえにどの町内も、競い合うように櫓を組み、町中上げてのお祭り騒ぎとなった。

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その祭りに欠かせぬ立て役者と言えば、言わずと知れた「祭り男」。

いつもは目立たぬ何でもないオッチャンが、この日ばかりは浴衣姿にキリリッと角帯を締め、小粋な踊りっぷりを披露し、周りの者の目を釘付けにする。

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そんな「祭り男」が町内には、必ず一人や二人いたものだ。

近所に子どものない、幸オバチャンと旦那がいた。

旦那は定職も持たず、いつもまっ昼間から赤ら顔。

幸オバチャンは遠くの工場へ自転車で通い、家計の遣り繰りに明け暮れた。

「幸っちゃんも、あんなぐうたら亭主の事なんて打っ(ちゃ)って、もっと他にええ人見つけてやり直したらどや?何なら、ワシが世話したろか?」と、近所の世話焼きオバチャンに囲まれ、幸オバチャンは困り顔を浮かべたものだ。

ある日の事。

「どしたん、幸っちゃん、その顔!またぐうたら亭主が、手でも上げよったんか?」と、近所のオバチャン。

「違うってば。ちょっと自転車で転んだだけよ」と、幸オバチャンは顔を伏せた。

恐らくそんな暴力沙汰も、一度や二度じゃなかったはずだ。

油蝉が鳴き止み、提灯に火が燈る。

ぞろぞろと浴衣姿の老若男女が櫓を囲み、年に一度の盆踊りが幕を上げた。

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するといつものぐうたら振りなど、微塵も感じさせぬ、幸オバチャン家の旦那が、撥に酒飛沫を吹きかけ、颯爽と櫓の上へと駆け上がる。

そして浴衣の片肌を脱ぎ捨て、背中に般若の刺青を背負い、威勢の良い撥捌きを始めた。

「いよーっ!美濃の無法松!日本一!」と、ほろ酔い加減のご隠居たちが声を上げ、踊りの輪も一段と大きく膨れ上がる。

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「ねぇあれ、幸っちゃんじゃない!」。

「あかんわ、あれじゃあ!あんなうっとりした顔で、亭主の撥捌き眺めてんだから、今更私らがいらん世話焼いても無駄やわ」。

「たとえ一年364日、苦労尽くめでも、このたった一日があれば、それで(あがな)えるってわけか!あー、阿呆らしい!」。

幸せの形は一つきりじゃない。

ましてや幸せは、長さであるはずもない。

人の一生分の幸せは、生まれ出でたその時から、きっと定められているに違いない。

幸せは千差万別。

人の幸せを自分の物差しで、推し量ろうとすることこそおこがましいのだと、この歳になって幸オバチャンの気持ちがやっとわかった。

年に一度のあの粋な撥捌きは、幸オバチャンにとって、365分の364にも劣らぬ、最高に幸せな瞬間だったのだ。

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「昭和懐古奇譚~秋刀魚?ドレス?って」(2014.7新聞掲載)

「秋刀魚?ドレス?って」

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夏休みが近付くと、居ても立ってもいられなかった。

昭和半ばの小学生にとって、一年で一番待ち遠しい季節が訪れるのだから。

しかしそのためには、避けて通ることの出来ない通信簿の開陳。

それと母から頂戴する、有り難いお小言と拳骨の(みそぎ)さえ、何とか乗り切ってしまいさえすれば、ぼくの心は従姉の待つ田舎へまっしぐら。

「ちょっとあんた!ええ秋刀魚ドレス着せてもうて、よう似合(におう)うとるわ」と、従妹の家で昼寝していると、オバチャンたちの声がした。

「秋刀魚?ドレス???」。

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ついぞ耳にしたことのない奇妙な言葉に、野次馬根性がそそられ破れ障子からこっそり覗いた。

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すると従姉がオバチャンたちを前に、アッパッパー姿でファッションモデル顔負けの、大人びた(しな)を作りクルリとおどけて回って見せたではないか!

ええっ?あれが秋刀魚ドレス?

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いかな子どもとは言えど、従姉が得意げに着ている、大きなヒマワリ柄のアッパッパーこそが、秋刀魚ドレスの正体であることくらいは分かる。

しかし何故ヒマワリ柄のアッパッパーが、秋刀魚ドレスなのか?

ますます謎が深まる。

そこへ従姉の友達が現れ、口を揃えたように「可愛い秋刀魚ドレスやなあ」と、口々に誉め千切り出したからもう手に負えない。

あっと言う間の夏休みも終わり、憂鬱な始業式。

隣の席の女子が、真っ黒な日焼けにノースリーブのアッパッパー姿で登校。

「ああっ!良く似合ってるね!その秋刀魚ドレス!」と、ぼく。

きっと彼女も、得意満面になるだろうと、田舎の従姉に教わった台詞を口にしてみた。

すると「はぁ?……。何言ってんの?」と彼女。

「その可愛らしい秋刀魚ドレスのことだって!」。

「何よその秋刀魚ドレスってぇのは?」。

「いや…だから、今着てる服のことだってば!」。

「………あんた、これが塩焼きにするような秋刀魚に見える?これはエンゼルフィッシュって言うの!ちょっとあんた、頭おかしいんじゃないの?」と、彼女は喜ぶどころか、怪訝そのものの表情を浮かべ、露骨に蔑むような眼つきでぼくを睨み付けた。

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「だってそう言うアッパッパーの事を、秋刀魚ドレスって呼ぶんだろ?」とぼく。

「あのねぇ、それも言うなら、秋刀魚ドレスじゃなくって、サマードレスよ!家の近所のお婆ちゃんも、秋刀魚ドレス、秋刀魚ドレスって呼んでるけど、サマーって言えなくって秋刀魚って言ってるのよって、家のお母ちゃんがその度に腹抱えて笑ってるわ!」と。

秋刀魚の季節を目前にしたドレスだから、秋刀魚ドレスと呼ばれるものだと、ぼくの勝手な早合点が招いたとんだ赤っ恥であった。

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「昭和懐古奇譚~ザーマス言葉とバタ臭い顔」(2014.6新聞掲載)

「ザーマス言葉とバタ臭い顔」

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思い返せば昭和半ばには、今じゃ耳にすることもない言葉が罷り通ったものだ。

「まあお宅のお坊ちゃんは、とても賢そうで実に礼儀正しいですこと!」。

「そうザーマスか?お宅のお嬢様こそ、フランス人形のように色白で可愛らしくってよ」ってな感じ。

それも山ノ手の瀟洒な住宅街ならいざ知らず、コテコテの下町での話しだからたまったものじゃない。

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しかもテレビから仕入れた、妙ちくりんな「ザーマス言葉」を使うオバチャンたちは、いずれも下駄ばきに割烹着姿でサザエサンパーマとくりゃあ、もう滑稽を通り越し切なくなるほど。

そこへもって、ボロのズック靴に半ズボンとランニングシャツ姿が「お坊ちゃん」で、オカッパ頭にブルマー姿が「お嬢様」では、もういたたまれたものじゃない。

そんなある日のこと。

近所に町内一の伊達男と評判の、中学生のお兄ちゃんがいた。

「どうしてあのご両親から、あんなにバタ臭いお顔をした、映画俳優みたいないい男が、生まれたんザーマスかしら?」と、オバチャンたちの井戸端会議の声が漏れ聞こえた。

それを小耳にはさんだぼくらは、「バタ臭い顔ってなんやろ?」。

「バタ臭いじゃないって!バッタ臭いを聞き違えたんやて!」。

「じゃあバッタ臭い顔って?」。

「そりゃあ……バッタみたいに、顔がシューッと細長いからやろ?」。

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「じゃあ、そんな顔になったら、ぼくでも映画スターになれるんかなあ?」。

「だったらバッタみたいに、毎日原っぱで草喰わなかんぞ!」。

そんな男坊主どもの他愛ない話に、幼馴染のおませなマーチャンが、傍らから口を挟んで来た。

「おバカやねぇ。バッタ臭いじゃなくって、本当はバター臭い顔って言うの。それを縮めてバタ臭いって、お母さんたちはそう呼んでるの!」と。

「じゃあお兄ちゃんの顔に鼻を近付けたら、バター臭い匂いがするの?」とぼく。

「そんなこと私が知るわけないわよ。だってお母さんたちが話してるのを、こっそり聞いただけだもん」。

「だったらみんなで確かめようよ」。

お兄ちゃん家の前に陣取り、学校帰りを待ち構えた。

話し合いの結果、女のマーチャンの方が、いざと言う時の言い訳もしやすかろうと。

お兄ちゃんの顔の匂いを嗅ぐ大役は、マーチャンに委ねる事に。

玄関先で自転車から降りたお兄ちゃんに、マーチャンが駆け寄った。

「お兄ちゃん、顔に何か付いてる!私が取ってあげるから動かないで!」と。

マーチャンはお兄ちゃんの顔に鼻を近づけ、ヒクヒクヒクヒク。

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「ねぇ!ところでバターって、どんな匂いがするの?」と、真顔でぼくらを振り返った。

確かにバター臭いとは言うものの、そもそもバターの匂い自体をぼくらは知らなかった。

しかしそれにしても、その時のお兄ちゃんの怪訝な表情たるや、未だに忘れられはしない。

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「昭和懐古奇譚~母の日の肩もみ券」(2014.5新聞掲載)

「母の日の肩もみ券」

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物言わぬ遺品は、それ故言葉以上の雄弁さで、心の奥底へと語りかけて来るものだ。

押入れから母が仕舞い込んでいた、錆の浮いた缶箱が現れた。

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中からは藁半紙やメモ用紙代わりのチラシの切れ端から、店名入りの箸袋に、マッチの空箱までがわんさか。

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「何でこんなもの、後生大事に!」。

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「ねぇ、今度の母の日、お母さんに何をプレゼントするの?」。

母の日が一週間後に迫る頃、隣の席の女子からそう問われた。

「うっ、うん。でもぼくお金ないしなぁ」。

「私は真っ赤なカーネーション。お婆ちゃんがこっそり、お小遣いくれたんだ」。

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何てこった!

せめて母の日が過ぎて知ったならまだしも、一週間もあって知らぬ存ぜぬでは男が廃る。

そこでまず、カーネーション1本が一体いくらなのか、花屋で確かめた。

確か50円くらいだったか。

当時ぼくの小遣いは、一日に10円玉1個。

ならばこの先一週間、大好きな一文菓子屋通いを断念すれば手が届く。

しかし子どもにも子どもなりの付き合いがある。

友の誘いを無下には断れぬ。

となれば残る手段は、書道塾の行き帰りをひたすら歩き、バス代を浮かせるしか手立てがない。

あの手この手を講じ、母の日前日には、一本分のカーネーション代を作り出した。

日曜の朝、息せき切って花屋へ向かうと、何と既に前日に売り切れたと!

そんなご無体な。

となれば、50円で買える母の好物に、切り替えるしかない。

公設市場であれこれ思案するも、わずか50円の資金では、選択肢も限られる。

やっと折り合いを付けたのが、団子屋の大判焼き2個だった。

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「はいよ!大判焼き2個50円」と、オッチャン。

ぼくは虎の子の50円玉を支払おうと、ポケットをまさぐった。

しかしどこにも見当たらない。

何とよりによって、ポケットの底に大きな穴が開いているではないか!

あの日の口惜しさがまざまざと蘇った。

「あれっ?この『母の日の肩もみ券』って…もしや!」。

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チラシ広告裏のぎこちない「かたもみけん」の文字。

紛れも無い、小学3年のぼくの筆跡である。

そうだ!

あの日、カーネーションも大判焼きも買えず、苦肉の策で拵えたものだ。

だが「肩もみ券」の裏に、ポチ袋が貼り付けられている。

中には50円玉1個と、母の文字。

「ありがとう。お母さんみんな知ってました。母の日を祝おうと、お金貯めてたことも。でも母の日の朝、慌てて別の半ズボンを履いて駆け出してしまい、前日のズボンのポケットに、この50円玉が入ったままでした。ありがとう。その心だけでお母さんは、誰よりも幸せです」と。

折角の「母の日の肩もみ券」を、母は生涯使う事も無く、こんながらくたばかりの缶の中に、何十年と仕舞い込んでいたのだ。

だがそのがらくたこそが、幼いぼくと共に生きた、母にとっての宝箱だったのかも知れない。

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「昭和懐古奇譚~メリケン粉ってうどん粉?」(2014.4新聞掲載)

「メリケン粉ってうどん粉?」

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昭和半ばの茶の間の洋食と言えば、言わずと知れた「お母ちゃんのカレー」を置いて他にない。

どの家庭にも、それぞれお母ちゃんの味があったはずだ。

わが家がカレーの日は、直ぐに分かった。

だってどう見ても3人家族にゃ手に負えぬ、大きな真鍮色したアルマイトの鍋が、ガスコンロの上でグツグツ煮立っていたのだから。

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それにカレーの日は、(つき)(ずえ)の父の給料日後と相場が決まっていた。

「ちょっとお父ちゃん。ボーッとそんなとこに突っ立っとらんと、メリケン粉取ってまえん」と母。

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「えーっと、このうどん粉のことか?」と父。

母のメリケン粉に対し、父はすかさずうどん粉と切り返す。

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すると母は、カレールーを半分だけ鍋に入れ、ひとしきり掻き混ぜる。

そして今度は、父曰くうどん粉であるところのメリケン粉を、鍋の上から振り掛けるようにして入れ、再び掻き混ぜながら塩を摘み入れ味を調えた。

大人になって分かったのだが、それはカレールーの箱に書かれた、レシピ通りではなく明らかな掟破り。

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本来なら全部入れなければならないカレールーを、母は半分だけにケチり倒し、うどん粉ならぬメリケン粉で水増ししていたという事だ。

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だからわが家のカレーの色は、食堂入口のショーウィンドーで見かける、蝋細工のカレーの深い茶色とは異なり、妙に薄っぺらなレモン色をしていた。

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だが母はそうして、厳しい家計の遣り繰り算段をしていたのだろう。

「いっただきー…」。

手を合わそうとした寸前。

間の悪い事にお向かいのオバチャンが、コロッケのお裾分けを持ってやって来た。

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特に長話で知られるオバチャンである。

すると嫌な予感は見事的中。

皿に盛り付けられたカレーライスを前に、父と二人成す術も無くお預け状態。

どれほどオバチャンの、碌でもない与太話が続いたろうか。

次第にカレーの表面が、波を打ったような状態に固まり始めた。

まるで大きなオブラートで、覆い被せたようにである。

大人になってそれも判明したのだが、カレー粉をケチって小麦粉で水増ししたから、小麦粉がカレー表面を覆う被膜となったのだ。

「ゴメン、ゴメン」と母が、卓袱台に着いた頃には、カレーライスもすっかり冷め、オブラートの幕が張り巡らされ、目も当てられなかった。

メリケン粉とうどん粉、それに小麦粉。

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どれも同じではあっても、ぼくの愛した昭和には、やはりメリケン粉やうどん粉の呼び名の方が、親しみもあり懐古的でお似合だ。

そう言えば、子どもの頃のカレー皿が、今も1枚だけ手元に残っている。

やや深めの大皿で、底に大きなバラの花がいくつも描かれた、大量生産の安売り品だ。

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母の遺品整理の際に、押入れの隅で見つけた代物。

今でも時折、お母ちゃんのカレーを真似、その皿に盛っては見るが、母のあの味には到底及ばない。

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どれだけ母のメリケン粉や父のうどん粉の隠し味を足そうにも、記憶の彼方のお袋の味には、もう二度とたどり着けそうにない。

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