「昭和懐古奇譚~プラスチック製食パンケースにバターケース」(2015.11新聞掲載)

「プラスチック製食パンケースにバターケース」

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そりゃまあ母の遺品整理は手間取った。

今から23年前の今頃。

父は母を亡くした喪失感も手伝って、日毎(まだら)()けに(むしば)まれ続けていた。

ぼくは仕事の合間を縫い、母の遺品の整理に大わらわ。

よもや緊急入院となり、やがて命が絶たれようなどと、想像も付かなかった母は、日々の暮らしに必要な物や身の回りの物を、しこたま買い置いたままだった。

何度休みの度にそれらの処分に通った事か。

いよいよ残りは、押し入れと戸袋だけになった。

すると一番奥から、飴色に日焼けした柳行李(やなぎごうり)が。

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大切そうに一番奥に仕舞い込んであったことから、こりゃまたお宝か?と、俄かに色めき立ち上蓋を開けて見てガックリ。

それは忘れもしない、ぼくが小学校低学年時代のこと。

父の給料日後の日曜ともなると、母は決まって某百貨店の地下売り場の「80円均一」へと足蹴く通ったものだ。

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その柳行李から出てきた物は、「80円均一」で母が買い揃えた、プラスチック製の洋食器である。

不意に当時のワンシーンが頭を過ぎった。

「さあ今日からわが家も、お洒落な暮らしの始まりやよ!」。

母は買ったばかりの、プラスチック製食パンケースからパン2枚を抜き取った。

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そして段ボール箱から(おごそ)かに取り出だした、手垢一つない電気トースター上部の、細長く開いた穴へと差し入れる。

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そして「さあ、お父ちゃん。トースターのレバーを下げて、記念すべきスイッチの点灯や!」。

母は取扱説明書と首っ引きで、父にそう促した。

卓袱台中央のおニューの電気トースター。

パンの仄かに焦げる香りが立ち込め出すと、思わず家族3人卓袱台を取り囲み、トースターを覗き込んだ。

「チーン」。

素っ頓狂な音と共に、トーストが跳ね上がるとその興奮もクライマックス。

「やっぱり火鉢の上の網で焼くのとは違って、ええ塩梅やなぁ」と、感心しきりの父。

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「お父ちゃんが毎日、頑張って働いてくれるで、高価な電気トースターも買って貰えたんやよ」と、母が微かに涙ぐんだ。

そしてこれまた新品の、プラスチック製バターケースを開け、ピッカピカのバターナイフでバターを削り取り、焼き立てのトーストに母がバターを塗った。

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「はい、トースター(・・・・・)も焼けたで、熱いうちに食べるんやよ。足らんかったら、またトースター(・・・・・)焼いたげるで」と、したり顔の母。

以来わが家では何の疑いも無く、トーストでは無く焼き上がった食パンを「トースター(・・・・・)」と呼ぶようになった。

戦中派の両親も、小学校低学年のぼくにしても、焼いた食パンを「トースター(・・・・・)」と呼ぶものだと信じて、これっぽっちも疑いなどし無かった。

しかしそれが誤りと発覚したのは、裕福な家庭の友が遊びに来た時の事。

「お腹空いとったら、トースター(・・・・・)でも焼いてやろうか?」と、母が尋ねた。

すると友が、「おばちゃん!トースター(・・・・・)なんて焼いたって食べられないよ!トースターでトースト焼いてくれるんならいいけど…」と。

すると母が「あ、ああ、そうやったそうやった!ゴメン、おばちゃんすっかり言い間違えちゃった!恥ずかしいわ」と、瞬時に言葉を濁した。

英語は敵性語と叩き込まれた、そんな学生時代を生きた母。

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果たしてどこまで、本当の意味が理解できたか?

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もう今となっては、尋ねることも出来はしない。

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「昭和懐古奇譚~運動会のご褒美は、初天丼!」(2015.10新聞掲載)

「運動会のご褒美は、初天丼!」

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小学校はどこもかしこも、今や運動会の酣。

楽しそうな子供らの声に釣られ、つい運動場を覗き見た。

すると忘れ得ぬ、淋しかった運動会の想い出が脳裏に。

あれは小学3年生の、ちょうど今頃の運動会の日だった。

ぼくはリレーに出場。

運動場のトラックの周りには、家族や親類縁者一堂が茣蓙を敷いて屯し、お重を広げまるで花見やお祭りさながら。

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そこへ持って我が子の登場ともなれば、割れんばかりのヤンヤヤンヤの喝采!

昭和半ばの運動会は、平成の今の世とは異なり、応援にやって来た親父連中が酒盛りしようと、学校側が黙認するような大らかな時代。

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まるで大相撲観戦さながらに、ヤイノヤイノと声援やヤジが飛び交ったものだ。

そんな中、ぼくらのリレーが始まった。

1~2番手の走者は、家族も多く割れんばかりの声援が走者の背を押す。

しかし3番手のぼく番になると、トラック半周の間、まるで水を打ったかの静けさ。

かろうじてご近所の、おじちゃんやおばちゃんが「ミノ君、頑張れ!」と、ご近所の誼でお付き合い程度の小声がかかるほど。

アンカーたるやこれまた大家族で、凄まじい限りの声援が上がった。

我が家はたったの家族3人。

しかもその時、父は十二指腸潰瘍で手術を受け入院中。

母は泊まり込み看病の真っ最中。

あの頃は十二指腸潰瘍の手術と言えど、2週間ほどの入院を余儀なくされたもの。

だから我が家には、留守番役として母方の祖母が泊まり込み、ぼくにとってたった一人の保護者とし、応援に駆け付けてくれていた。

しかし小さな腰も曲がった婆ちゃんただ一人では、どんなに大声を張り上げようと、競争相手のチームの束になった声援に勝てるはずなどない。

それでもぼくはこの運動会さえ終われば、休みの日に市電を乗り継ぎ両親の病院へ行けると、己を鼓舞し必死に走り抜きアンカー走者へとバトンを継いだ。

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「リレー、どうやった?」と母は、やっと見舞いに行ったぼくに、開口一番尋ねた。

入院手術から、ちょうど1週間。

ぼくも然ることながら、母も一人息子がさぞや淋しかったろうと、溢れそうな涙を堪え、運動会の話に水を向けたに違いない。

「うん!抜きも出来なかったけど、抜かれもしないで、ちゃんとバトンをアンカーに渡せたよ!」とぼく。

母は「じゃあ、リンゴでも剥こうか!」と、涙を悟られまいと席を立った。

親子三人水入らずの束の間を、父のベッドの脇で過ごした夕暮れ。

「まあぼちぼち帰らなかんよ。今日は一丁張り込んで、中央線のガード下のうどん屋で、天丼でも食べてから帰りゃあ」と母。

人生初の「天丼」と言う、贅沢極まりなさに目が眩んだ。

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「どうや、美味しいか?」と母。

「お母さんは、お父さんが食べ残した、病院食を食べたらないかんでなあ」と、今思えば尤もらしい見え透いた嘘で、品書きの一番安い素うどんを啜りながらぼくに問うた。

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運動会で屈託のない声を上げる子供らを眺めていると、ついつい在りし日の母が偲ばれてならなかった。

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「昭和懐古奇譚~ハチの巣頭?」(2015.9新聞掲載)

「ハチの巣頭?」

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ブーン、ブーン、ブーン…。

交差点の信号待ちのたび、妙な音が聞こえる。

気のせいか?

ぼくは叔父が自慢の真っ黒なバイク、「目黒」の後部シートに跨り有頂天だった。

母の弟にあたる叔父は、広島から休みを利用し、黒光りする「目黒」のエンジン音を轟かせ、サングラス姿で首のスカーフを風に靡かせ、まるで米映画のイージーライダー気取りでやって来たのだ。

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しかしそれは昭和40年。

ぼくがまだ小学2年のことだから、まだ映画のイージーライダーが封切られる前の話。

当時の叔父の風貌が、後に映画館で観たヒッピー風のイージーライダーにあまりに似ていたため、恐らく後に自らの記憶を書き換えたに違いない。

昭和40年などといえば、オートバイのヘルメット着用が義務化される前の前。

道路のアスファルト化も一部の主要幹線道だけにしかすぎず、交通量も今とは比べものにならぬほど少ない。

忙しくもなく何もかもが緩やかな、ヘルメットを被らなくてもよいノーヘル時代だった。

叔父が颯爽と我が家の前に「目黒」を横付けした時には、近所の腕白坊主どもが羨望の眼をキラキラ輝かせながら、遠巻きに押し寄せたものだ。

わずか3日の叔父の滞在ではあったが、何よりぼくには叔父の存在そのものが自慢であった。

「よう広島くんだりから、そんなバイクなんかで、無事にやって来れたもんやなあ」とは、何年振りかの再会に際し、母が開口一番叔父に放った最初の一言だった。

「それに何ちゅう恰好やの?髭も伸び放題で、髪もざんばらのボッサボサで。そんなんやでいつまで経っても、嫁の来てがないんやわ」と追い打ち。

とは言えぼくからすれば、意表を突いた叔父の恰好が、殊の外斬新に見えてならなかった。

ブーン、ブーン、ブーン…。

まただ!

でも「目黒」のエンジン音などではない。

ああっ!

「叔父さん大変だ!蜂に刺されちゃう!どうしよう?」。

再び信号待ちでバイクが停止した時、ついに妙な音の正体を見破った。

こともあろうにその音源は、叔父の背にしがみ付くぼくの目の少し上。

つまり叔父の後頭部だ。

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母がいみじくも言い放った、叔父の「髪もざんばらのボッサボサ」の、後頭部の縮れた髪の毛の中に、何処でどう飛び込んだものか、ミツバチが捕らわれの身となり、縮れ毛から必死で逃げ出そうともがき、羽ばたき続けているではないか!

「えっ、なんやって?」と叔父がぼくを振り返った。

「叔父さんの、後ろ髪に蜂が入り込んでる!」と告げると、叔父は必死に後頭部の髪の毛を掻き毟った。

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「痛っ!」。

見事に叔父は、指先に蜂の一刺しを見舞われ、腫れてズキズキ疼く痛みと格闘しつつ、我が家へ這う這うの体で引き返した。

さすがの叔父もそれに懲り、翌日散髪に出かけ髭も当たりスポーツ刈りのさっぱりとした風貌に。

「ほれみい!男はだらしない恰好せんと、ピシッとせなかん!」。

叔父を一目見るなり母は、してやったりで叔父に言い放った。

ぼくからすれば誰憚ることもない、立派なオッチャンの叔父ではあっても、母にすればいつまでたっても洟垂れ小僧のままな、幼い日の弟に過ぎなかったのだろう。

兄弟のないぼくには、そんな二人の姿が妙に羨ましくてならなかった。

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「昭和懐古奇譚~端っこの美徳」(2015.8新聞掲載)

「端っこの美徳」

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土用の丑の日が過ぎてしばらくすると、わが家の倹しい卓袱台にも、年に一度きりの鰻丼が「どうよ!」とばかりに登場したものである。

従って、二の丑の日がある場合は、8月もちょうど今頃。

有り難き父の給料日の後、土曜の夜と決まっていた。

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だから恥ずかしながら、「土曜の丑の日」なのだと思い込んでいて、大人になって随分と恥をかいたものだ。

それでも母は父の薄給を遣り繰りし、土用の丑の日の本番にはとても手が出せずとも、土用の期間の間に、鰻の値が落ち着くのを見計らい、食卓へと上げてくれたのだろう。

「さあ、土用の鰻やよ!」。

当時は母の苦労も顧みず、「いただきま~す!」と能天気に両の手を合わせ、勢い込んで丼の蓋を開けたものだ。

だが子どもながらにも、いつも不思議でならないことがあった。

それは鰻の切り身の数である。

父の切り身が一番多いのは当然として、次がぼくであり、母はといえば小さな尻尾の端っこが一切れ。

母はそんなぼくの視線に気付くと、「お母ちゃん、鰻苦手なんやわ」と苦笑い。

それが真っ赤な嘘だったと気付いたのは、病に伏した母の枕元だった。

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医師に呼ばれ、「何か食べたい物があるようなら、何でもお好きな物を食べさせて上げてください。あと幾日もすると、食べられなくなるでしょうから」と、そう告げられたのだ。

病室に戻ると何食わぬ顔で、母に問うた。

すると「そんなに食べれんかも知れんけど、鰻のかば焼きを食うてみたいなあ」と。

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「……ええっ?」。

すると傍らで父までもが「お母ちゃんは昔から、鰻好きやったもんなぁ」と。

慌てて鰻屋へと駆け込み、この時ばかりはけち臭い事を考える余裕も無く、潔く特上を注文し病室へと持ち帰った。

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「やっぱり美味いなあ」。

母は大儀そうに痩せ細った腕を持ち上げ、鰻を口元へと運んだ。

「ご馳走様。本当に美味しかったわ。でももうお母ちゃんよう食べやんで、あんたら食べといて」と箸を置いた。

母の通夜の席。

焼香客も粗方帰り、近しい親類だけになった時のことだった。

叔父や叔母に父も加わり、母の思い出話に花が咲いていた時の事。

叔母がしみじみと語り出した。

「和ちゃんはどんなもんも、いっつも自分は端っこばっかり食べて、真ん中のええとこはみんな、やれお父ちゃんに、ほれあんたにって。スイカも羊羹だって端っこ。魚なんて自分は、尻尾か頭やったし、キュウリやナスの漬物かて、みんな(へた)の方しか食べやんだでなあ。もちろん風呂は最後の最後。確かに私らかて、同じ貧しい時代を生きて来たでようわかる。まずは何より第一が夫で、次は子どもたちでと、何事も自分は後回しの『端っこの美徳』に生きたもんや。それにしても和ちゃんの徹底ぶりには、私らよう敵わんだけどなあ」。

叔母の思い出話が、居合わせた皆の泪を誘った。

今年も二の丑の日が過ぎた。

そろそろ値の下がった鰻の蒲焼でも買い込み、真ん中の一番肉厚な切り身でも、母の遺影に手向けるとするか。

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「昭和懐古奇譚~一升瓶入り濃縮ジュース」(2015.7新聞掲載)

「一升瓶入り濃縮ジュース」

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「ちょっと!あんたら、何やっとるの!そんなに濃いの飲んだら体に毒やがね!」。

昭和半ばの小学2年。

夏休みも目前、土曜の半ドン。

友と二人台所の片隅に蹲り、母が買い物に行ったのをこれ幸いにと、大盤振る舞いに濃いめのジュースを作っていた矢先の事だ。

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買い物に出掛けたはずの母の怒鳴り声が!

どうやら、買い物のメモ書きでも忘れ、取りに帰ったようである。

当時、母の作ってくれるジュースときた日にゃあ、シャビッシャビ。

辛うじてオレンジジュースに見える程度の、とにかく水っぽいだけの代物。

しかもその極薄ジュースが、母の勝手な掟により一日たったの一杯と来たもんだ。

チクロやサッカリンで甘みを増した、今の世ならば体に毒と目を背けられるに違いない、独特な甘さではあったが、昭和半ばの子どもたちにとっては、そんな物でもささやかな愉しみであった。

「あんたら、いったいどんだけ贅沢に入れれば気が済むの!」と、母が一升瓶を取り上げ指をさした。

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そこにはマジックインキで、横に手書きの線が引かれ、ご丁寧に日付まで書き込まれているではないか!

「確かに昨日はここまであったはずや。ってことは、あんたら二人していっぺんに、四日分も飲んだ勘定やない!」。

母の怒りは頂点に達した。

すると今度は母の視線が、ぼくらが手にしたコップへと。

「ああっ!なんてことしてくれるの!今夜の冷麦用にと、一昨日からやっと凍らせとった氷まで、みんな使ってまって、もうどーしてくれるんや!」と、母のヒステリーは止まらない。

確かに当時の冷蔵庫に、冷凍室など無かった。

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辛うじて庫内上部に金属で囲われた、付け足しの様な製氷室があっただけ。

しかもアルミの製氷皿で一度に出来る氷など、たかだか20個にも満たず、しかも小さく薄っぺらいときている。

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現代の多機能で優秀な冷蔵庫と、製氷能力を比べようものならそれこそ月とスッポン。

製氷皿の氷が出来上がるまでに、ゆうに丸々一日以上を費やすほどだった。

それでも当時とすれば、まさに夢の様な神器の一つだ。

そんな虎の子さながらの僅かばかりの氷を、すべてぼくらが濃縮ジュースで使い果たしたのだから母の怒りもご尤も。

だがそんな母との攻防は、何も一升瓶の濃縮ジュースに始まったわけじゃない。

カルピスやミルトン、果ては粉末のシトロンソーダに至るまで、暑い夏の間中続いた。

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ところがそんな折に、目から鱗の瓶入りクリームソーダが出現。

駄菓子屋とか風呂屋でしか見かけぬクリームソーダ、その名も「スマック」。

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風呂上り銭湯の脱衣場で、これを一度飲んで見たくてたまらず、母に何度も何度もせがんで拝み倒し、やっと渋々買い与えてもらった日もあった。

南から梅雨明けの便りが届く頃になると、濃縮ジュースの濃い薄いを巡って、熱い攻防を繰り返した、母と過ごした遠いあの夏の日が、今は無性に恋しくてならない。

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「昭和懐古奇譚~亀のまじない」(2015.6新聞掲載)

「亀のまじない」

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隣の家のサッチャンの自慢は、夏祭りの夜店で買って貰ったミドリガメ。

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ぼくが小学3年、サッチャンは一つ年下の2年生。

サッチャンはミドリガメの胴体を麻紐で括り付け、公園を犬の散歩気取りで連れ回し見せびらかした。

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挙句に雌雄も定かでは無いくせに、「メリーちゃん」とおよそ似つかわしくもない名前まで付けて。

それでもぼくは、サッチャンが羨ましかった。

だから何度も何度も、母の機嫌の良さそうなタイミングを見計らい、ミドリガメを買って欲しいと懇願するも、ケンモホロロ。

連日の雨乞いか?

カエルの鳴き声が、けたたましさを増した梅雨入り前の事。

忘れ物を取りに教室まで戻った帰り道。

通学路の畦道を行くと、田んぼの取水口の朽ちた木枠に挟まり、動けないでいる亀を発見!

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寂しげに訴え掛けるようにぼくを見詰めていた。

亀はおよそ縦20㎝、横10㎝ほどの大きさで、ミドリガメのざっと4倍。

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気が付けばその亀を木枠から救いだし、ランドセルの中へと放り込み、一目散に家路を急いだ。

そして玄関脇のブリキの真っ赤な防火バケツの水を捨て、それをひっくり返して亀の上から被せて隠した。

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「ただいま!」。

玄関先で父の声がした。

「おおい!防火バケツがひっくり返ったまま、動いとるぞ!」と。

しまった!

亀のことなどすっかり忘れ、テレビに夢中になっていた!

しかし時すでに遅し。

直ぐにぼくの仕業と判明。

母からたんまりお小言を頂戴し、挙句に「亀は拾って来たらあかん!病人が甲羅の腹に、病気平癒の願いを書き入れ川に流すもんやで。そんなことしたら逆に、その災いを引き受けてまうやない!晩御飯済ませたらお父ちゃんと川へ返しといで」と。

父と自転車に二人乗りし、亀を携え川へと向かった。

水打ち際で父が亀を放った。

しばらくしてムックリ顔や手足を甲羅から出し、川の中へとノソノソ入って行く。

そして一度だけ立ち止まり、大きく首をもたげ振り向いた。

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まるで亀が「ありがとう」と、そうつぶやいた気がしてならない。

ぼくが育った昭和の半ばは、ありとあらゆる迷信に言い伝えや習俗が、至る所に蔓延っていた。

思わずなるほどと呻るものから、俄かには信じ難いものまで。

ところが平成も四半世紀を過ぎた今の世では、それらの迷信に言い伝えや習俗も、ほとんど姿を消してしまっている。

まあそれが、時代なのかも知れない。

しかし迷信に言い伝えや習俗の奥に隠れた万物を思い遣る畏敬の念、それに先達が遺した精神性まで、果たして葬り去って良いものか?

ペットブームにあやかり、面白半分で購入された外来種は、飼い主が飽きてしまえば自然界の中へと捨てられ、それ故在来種の生態系をも危うくする。

だがその最たる被害者こそが、何の罪も無き外来種の動物たちであり、謂われなき駆除の対象となってしまう。

動物たちにしたって、人間だろうが、命の重さと尊さには、何の違いも無いはずだ。

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「昭和懐古奇譚~衣文掛けって、ハンガー?」(2015.5新聞掲載)

「衣文掛けって、ハンガー?」

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子どもの頃、両親や周りの大人たちの何気ない会話を耳にし、勝手な聞き間違いをしていたものだ。

TVニュースが告げる「台風一過」を『台風一家』や、「誤って崖から転落」を『謝って崖から転落』と。

また、母と近所のオバチャンとの会話で、「だったら薬剤師さんに相談せなかんねぇ」と言うのを聞きかじり、『ヤクザ医師』なんかに相談しちゃダメだ!と、泣いて縋った遠い日。

今にして思えば、ただただ赤面するしかない。

そんな頃の事。

父の入院で母が付き添い、2週間ほど留守にした。

我家は3人家族のため、小学3年のぼくを独り置いてはおけぬと、母方の祖母が我が家に泊まり込んだ。

両親が居ない寂しさと、母の味とは異なる祖母の手料理に、軽いストレスを感じたのか、食欲も失せ塞ぎ込んでいたのだろう。

最初の二日ほどは祖母も、あれやこれやと手料理を拵えてはくれた。

しかしなかなか食の進まぬぼくに手を焼いたのか、3日目にもなると早や、夕餉の支度もせず、小銭を握らせ「バス通りの中華屋で、なんぞ好きな物食べておいで」と。

一人の外食なんて初体験。

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ドギマギしながら中華屋に入った。

すると中華屋の夫婦も、低学年の小学生が一人で来店したとあって、やんわりその理由をぼくに尋ねた。

やがて事情が分かると、頼みもせぬのに気の毒がって世話を焼き、食後にプリンやらジュースまで。

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挙句に風呂まで入れと言い出す始末。

父の入院中そんな日々が続き、中華屋の夫婦はすっかり第二の親代わりとなった。

いよいよ父が退院となる前夜。

いつも通りたらふく食べ終えると、中華屋のオヤジさんが、最後の晩くらい一緒に風呂に入ろうと。

ぼくもせめてものお礼に、オヤジさんの背でも流そうと男同士で湯浴み。

湯船に浸かると、オヤジさんが問わず語りにつぶやいた。

ご夫婦は子宝に恵まれず、ぼくが一人寂しげに暖簾を潜った時から、もし子どもを授かっていれば、こんな年恰好だったろうかと、そんな想いをぼくに重ねたのだそうだ。

風呂から上がると脱ぎ散らかしたはずの、薄汚れたぼくの半ズボンやシャツに下着が見当らない。

それどころかオバチャンが、いつ揃えたのか新品のパンツを広げ「さあ!これ穿きなさい」と。

お言葉に甘え、オニューのパンツに足を通し、座敷の中を眺めてビックリ!

ぼくの汚れた半ズボンとシャツが、衣文掛けに掛けられ壁際に吊るされているではないか!

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「あっオバチャンダメだって!薄汚れた服なんて吊るしちゃあ!だってええもんかけに掛けられるような、余所行きなんかじゃないもん」と。

すると夫婦はキョトン。

「そりゃそうや!やっぱり『衣(え)文掛け』ってゆうくらいやで、余所行きのええ服掛けなあかんわなあ」。

すっかり夜も更け、オヤジさんとオバチャンと三人で、川の字に手を繋ぎわが家へと送られた帰り道。

突然オヤジさんは、朧月を見上げたまま足を止め、ぼくの頭をくしゃくしゃになるまで撫で回した。

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そして「またいつでも帰って来たらええ!」と。

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「昭和懐古奇譚~胸元に縫い付けた手書きの名札」(2015.4新聞掲載)

「胸元に縫い付けた手書きの名札」

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4月になると、昭和半ばを思い出す。

始業式で新しいクラスが、何組になったか判明した日のことである。

始業式から戻るのを待ち構え、何組になったかを問いただすと、母は血相を変え体操服やら上履き袋に給食袋、果てはパンツや肌着のシャツから靴下まで、ありとあらゆる物を茶の間に広げた。

そして布切れの名札を悉く取り外す。

晒し木綿を二重にし、縁をかがった名刺大ほどの名札だ。

進級に伴いクラス替えが行われ、新たな名札と付け替えねばならないからである。

晒し木綿の表面にマジックインキが滲まぬよう、ロウソクを塗り付け、そこに学年・クラス・名前を手書きする。

母は夜鍋までして名札を縫い付けたものだ。

今のような使い捨て時代ではない。

だから仮に紛失しても、直ぐに誰の所有物であるか一目瞭然となるよう、まるで護符のように名札を縫い付けた。

しかもわざわざ、メリヤス左胸の一番目立つ場所にである。

せめてズボンに隠れる、裾の方に縫い付けたって、罰は当たらぬだろうに。

大人になってその時の、母の心情が少し理解できるようになった。

それは調べ物の最中の事。

先の戦時下における、庶民の生活を記録した、写真集を眺めていた時だった。

誰もが防空頭巾を被り、竹槍を手に訓練に勤しむ、モンペ姿の女学生たちを写した一枚の写真。

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わが家の木綿の名札と瓜二つの物が、女学生の胸元に縫い付けられているではないか!

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すぐに悟った。

耐えがたきを耐え、忍び難きを偲んだ、あの暗黒時代。

不運にも万が一、空襲で命を落とす事があっても、何処の誰れかを記し、せめて亡骸だけでも家族の元へと連れ帰って貰いたい、そんな哀しい願いが込められていたのではなかろうかと。

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母が祈る様に夜鍋で縫い付けた名札は、紛れも無き幼きぼくを護らんとする護符だったに違いない。

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もう二度と戦争に命を差し出す必要も無い、

新しい世の中が訪れたのだから、例えどんなに腕白で傷だらけになろうが大丈夫。

男の子らしく、大いに元気に飛び回れ!と、そんな母の祈りが聞こえるようだ。

しかし母の祈りも空しく、巷では恒久平和を誓ったはずの憲法を捻じ曲げようと、改正論議が一部の政治家どもの間で、もっともらしい曖昧な言葉に挿げ替えられながら、「無知なる国民よ」と嘲るような口調で、のごとく今にも聞こえて来るようだ。

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「お母ちゃん!ぼくはもう兵隊に取られることも無い、使い物にもならぬオッサンだから善しとして、ぼくらの子供や孫は、愚かなる一部の政治屋の手によって、赤紙が舞い込むやも知れぬ、そんな危うき時代を迎えてしまいました。どうかどうか、お母ちゃんやお父ちゃんが、耐えがたきを耐え、忍び難きを偲んだ、あの暗黒時代の苦しみが二度と再来せぬよう、天国から見守っていてください!」

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「昭和懐古奇譚~毬栗頭と自慢の電動フラッシャー付き自転車」(2015.3新聞掲載)

「毬栗頭と自慢の電動フラッシャー付き自転車」

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小学校の卒業式が終わると、中学への入学準備が始まる。

昭和半ば時代の男子には、嫌でたまらぬ儀式が待ち受けていた。

それは否応なく男子全員が、中学への入学切符と引き換えに、毬栗頭にさせられると言うもの。

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だから皆、入学式がギリギリに迫るまで、床屋へ行くのを渋ったものである。

よって入学式で学生帽を脱ぐと、新入生男子の毬栗頭がとたんに、見事な青光りを放った。

それはともかく、肝心要の入学準備。

何はともあれ、学生服と学生帽の採寸と注文に始まった。

中学指定の洋品店に赴くと、母は一声「どーせ直ぐに大きなってまうで、3つくらい大きなサイズにしてまえん?これ一つで卒業まで、何が何でも持たせなかんのやで!」と。

学生服に袖を通せば、手の甲なんてすっぽりと隠れた。

方やズボンのウエストは、両手を入れてもまだブカブカ。

裾はと言えばちょっと大袈裟な例えだが、まるで「殿中でござる!」と袴の裾を1㍍以上も引き摺り、吉良公を追う浅野内匠頭さながら。

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だから裾は内側に、20㌢のよう折り返され、かがられていた。

次に学生鞄の調達。

だがこれは、中学で指定されたもので選択の余地など無い。

となれば後は、中学への登下校に不可欠な、通学用の自転車で自分らしさを発揮するだけ。

当時男子用で人気を誇ったのは、電動でウィンカーの光が、右へ左へと流れ走るフラッシャーと呼ばれたウインカー機能付きの、5段変速のスポーツタイプ。

荷台の下に弁当箱のような、単一乾電池6本が入る箱が取り付けられ、ウィンカー部分には、豆電球12個がプラスチック製の小さな箱に納まっていた。

写真は参考

当時の我家の家計からすれば、随分お高い贅沢品。

しかしその自転車が、喉から手が出るほど欲しくてならず、両親に毎日強請り続け、泣き落として手に入れた自慢の自転車だ。

それを物語る、一枚きりの写真が残されている。

入学式へと向かう直前、家の前で撮影されたものだ。

そこには真新しい学生服と学生帽に身を包み、自慢の自転車に颯爽と跨る得意満面のぼくがいた。

やはり写真でも、学生帽で覆い隠せない鬢や後頭部と項が、青々と光っているではないか。

しかし何とも晴れ晴れしい表情である。

懐かしくも青臭い思い出に浸っていた次の瞬間、その後わが身に降り掛かった悪夢がまざまざと蘇った。

入学式が終わると、早く愛車に逢いたい一心で、自転車置き場へと駆け出した。

写真は参考

するとあろうことか、人為的な悪戯か、それとも春一番にも負けず劣らずの強風のためか、新品の自転車ばかりが見事になぎ倒されているではないか!

最悪にもぼくの愛車は、倒れた一列の中央付近。

やがてやって来た新入生たちもその惨状に唖然。

やっとの思いで自転車を起こして見れば、何と自慢のフラッシャーが無残にも砕け散っているではないか!

嗚呼!

通学たった一日にして、儚い命となった自慢のフラッシャー。

父はそんなぼくを憐れみ、欠けたプラスチックの部分を、ビニールで補修した。

しかしどう贔屓目に見たところで、益々みすぼらしい状態と成り果て、おまけに豆電球が流れる様に光り走ることは二度と無かった。

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「昭和懐古奇譚~火鉢とおニューのセーター」(2015.2新聞掲載)

「火鉢とおニューのセーター」

写真は参考

「あ~あ。折角のおニューのセーターが、雪でベッタベタやないの!」。

―ええ~っ!何を今さら~っ!―

暦の立春は過ぎても、余寒の寒波も侮れない。

今ほど優秀な気象衛星も無く、天気予報の当たる確率など、格段に悪かった昭和の半ば。

恐れ多くも当時のわが家で、天気予報を司るのは、今太閤ならぬカカア殿下の母であった。

つまり前夜のテレビで見た「ヤン坊マー坊天気予報」の記憶と、あくる朝の母の機嫌の良し悪しと、永年の勘働きだけで、その日の予報のお告げが下されたのだ。

参考資料

やれ、ツバメが低く飛んだとか、やれ、西の山並みが霞んで見えたとか。

そうして母が下したわが家の天気予報には、例えそれがどんなに疑わしくとも、もはや父もぼくも異を唱える事など出来はしない。

だから朝から快晴の日に、ぼくだけ傘を持って登校し、みんなから散々笑われたり、逆に「今日は降れへん!」の一言で、傘も持たずに送り出され、濡れ鼠で帰ったこともしばしば。

すると、「たぁーけやねぇ、この子は。こんな日に傘持ってかんでやわ」と。

―じゃあ、どーすりゃぁいいのよ、まったく!―

しかし、仮そめにもそんなことを口にしようものなら、何倍ものお小言をクドクドネチネチと、いつまでも捲し立てられるがオチ。

だからひたすら、触らぬ神に祟りなしと念ずる他ない。

その日は朝からよっぽど虫の居所が良かったのか、「今日は冬晴れのええ日やで、この白いおニューのセーター着ていき。バス停前の洋品店で、特売やったで買っといたんや」と母。

「おニュー」とは、昭和半ばの造語の一つ。

文字通り新たらしいの「ニュー」に、ご丁寧にも「お」を付けて呼んだものだ。

しかしそれも束の間。

給食の時間になると、北風が強まり一気に伊吹颪が流れ込み、瞬く間に鈍色の空となった。

写真は参考

すると案の定、下校時刻には鈍色の雲の裾が解け、大粒の牡丹雪が降り出したではないか!

白く染まり始めた畦道を、懸命に駆け家路を辿る。

しかし牡丹雪は容赦なくおニューのセーターに纏わり付いた。

「たぁーけやねぇ、この子は。こんな日に選りによって、おニューのセーターなんか着て行くでや」と、母がしれーっとした顔で(のたも)うた。

さすがにこの日ばかりは、母の責任転嫁にただただ舌を巻いたものだ。

「もうさっさと脱ぎなさい!火鉢で乾かしてやるで」と、母は牡丹雪が溶けてベトベトになったおニューのセーターを、火鉢の真上を横切る物干し用の紐に吊るした。

冬場は洗濯物が乾かぬため、わが家の茶の間には物干し用の紐が張られ、冬の日差しで乾き切らぬ、厚手の股引やらメリヤスが吊り下げられていたものだ。

写真は参考

ぼくはいつしか炬燵で、転寝を決め込んでいたようだ。

すると台所から母の声が!

「ちょっと!焦げ臭いやないの!」と。

慌てて目を覚ますと、物干し用の紐があまりの重さに耐えかねて弛み、おニューのセーターが火鉢を覆っているではないか!

せっかく特売品とは言え、やっと買って貰えたおニューのセーターが、たった一日でこげ茶色!

「あ~あ、あんたが居眠りしとるもんでやわ!」と、無常すぎる母の声が、さらに追い打ちをかけた。

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