「昭和懐古奇譚~風呂上がりの天花粉」(2016.8新聞掲載)

「風呂上がりの天花粉」

参考資料

「はいっ、バンザーイして、次は回れ右!そしてもう一度、回れ右。続いて両脚を広げて!」。

これは何も、ラジオ体操などでは無い。

それが証拠に母の手には、天花粉(てんかふん)の缶とパフ。

小さなぼくは、一糸纏わぬスッポンポン。

それは汗っかきのぼくにとっての、真夏の夜の風呂上がりの恒例行事でもあった。

首の周りと脇の下、おまけに股の付け根から、一物の先っちょを母がヒョイっと指で摘まみ上げ、その裏側からお尻の谷間まで、餅取り粉に(まみ)れた大福餅のように真っ白けになったもの。

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でも天花粉塗れにされると、不思議な事に汗がスーッと引き、心なしか涼やかになった気がした。

そんなある日の事。

法事か何かで、従弟妹たちが叔父叔母に連れられ、泊まりにやって来た。

名ばかりの法事をささっと片付けると、宵の口からもう大人たちは大宴会で大盛り上がり。

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ぼくは従弟妹と縁側で花火をやったり、縁側に並んで腰掛け、スイカを頬張り種の飛ばし合いに興じたもの。

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「そろそろ子どもたちだけで、お風呂入りなさいよ!」と、頬をほんのり赤らめた母が顔を覗かせ、余所行きの言葉でそう告げた。

どうせ大人たちは、ドンチャン騒ぎの真っ最中。

「こうなりゃあ、子ども同士風呂場で水遊びだ!」ってなもんで、鬼の目を掻い潜り、水掛けっこならぬお湯掛けっこから、素潜り大会に水鉄砲と、バッシャバシャ。

「そろそろお風呂あがって、天花粉つけときなさいよ」と、これまたいつもとは違う、余所行き言葉の母の声。

それを潮目にお風呂から上がり、ぼくがいつも母に体を拭いてもらうように、小さな従弟妹たちの体を拭いてやる。

そして母の口癖を真似、天花粉の缶の蓋を開け、パフに一杯天花粉を付けながら、「はいっ、バンザーイして、次は回れ右!そしてもう一度、回れ右。続いて両脚を広げて!」と、お兄ちゃん気分でやりたい放題。

方や従弟妹の弟も妹も、お遊び気分でキャッキャキャッキャ。

仕舞にゃあ、小さな脱衣場が湯煙ならぬ、天花粉煙で霧の摩周湖状態。

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そこへもって今度は、弟や妹が天花粉(はた)きを「お兄ちゃん、やらせて、やらせて!」と泣き出したから、これまた大騒動。

ならばとパフを手渡すと、弟と妹がパフを奪い合い、天花粉をぼくの体に叩きからかすではないか!

ついに脱衣場は、ロマンチックな霧の摩周湖どころか、視界ゼロに等しいくらいの、ホワイトアウトだ。

「ウワッ!何をやっとるの、あんたら!」。

いきなり脱衣場の引き戸が開いた。

天花粉の霞み脱衣場の外へと急激に流れ出し、視界が朧げになった。

すると赤ら顔で仁王立ちの、母と叔母の顔が現れた。

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「調子に乗って天花粉叩き過ぎやわ!3人とも全身、真っ白けやないの!」と、余所余所しかった余所行き言葉はどこへやら。

いつもの鬼のような、母の言葉遣いに戻っているではないか!

「二人とも調子こいて!尻だしな!100叩きや!」と、母より凄い形相の叔母の顔。

二頭の赤鬼の怒りを露にした目に射竦められ、ぼくら三人はたじたじ。

さっきまでの、天下無敵の愉しさも何処へやら。

一糸纏わぬ真っ白けの肌かん坊で、小さくなったまま唯々項垂れるだけであった。

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「昭和懐古奇譚~乳離れの特効薬!」(2016.7新聞掲載)

「乳離れの特効薬!」

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「ビッ…エ~ン!」。

それは大人になった今なら、差し詰め「何じゃあ…こりゃあ~っ!」とでも、表現した方が相応しいであろうか。

それほどまだ4~5歳だったぼくには、衝撃的であった。

「どうしたの?もうオッパイいらんの?」と母。

今思えば、空々しい言葉だ。

しかも記憶にはないが、母はしてやったりと、きっと薄笑いでも浮かべていた事だろう。

「ビッ…エ~ン!」。

もう一度、母の乳首を吸ってみたものの、どうにもこの世の物とは思えぬほど、(おぞ)ましい味がした。

「もういい加減あんたも大きくなったで、神様が『いつまでもお母ちゃんのオッパイを恋しがったらあかん』と、そう言うて見えるんやわ」。

母はそう言いながら、勝ち誇ったようにシミーズの肩紐を上げた。

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その数日前の暑い夏の昼下がり。

母の膝枕で、母の仰ぐ団扇の風に心地よく煽られ、昼寝の真っ最中の事。

老犬ジョンの甘える鳴き声に目が覚めると、隣のオバちゃんが上がり込んで何やらヒソヒソ話が始まった。

「ちょっと、あんたぁ!このセンブリがよう効くんやて。濃い目に煎じて、乳首に一塗りしとけば、どんな乳離れの悪い子でも、いっぺんやわ」と、オバちゃん。

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しかし当時のぼくは4~5歳でしかなく、そんなオバちゃんと母の会話の大半は意味不明。

この歳になってその場面を振り返ると、恐らくこんな内容であったに違いない。

「一人っ子のせいもあるんやろか?本当にこの子はいつまでも乳離れせんのやわ」と母。

「今はまだ家で、お母ちゃんにベッタリしとれるでええけど、これで幼稚園や小学校にでも行くようになったら、それこそえらいこっちゃで、可哀想やけど一日も早いとこ、心を鬼にしてこの子のためにも乳離れさせたらんとあかんよ」と、悪魔のようなオバちゃんの囁きが聞こえた。

その時はまさか、己が身にこんな災いが降りかかろうとは、これっぽっちも思いもしなかったのに…。

「今日からはお父ちゃんと一緒に、男湯に入るんやで」。

母は銭湯の入り口で、ぼくの手を放し父の方へと背中を押した。

これまではいつだって、母に手を引かれ何の躊躇(ためら)いも無く、女湯に入るのが常だったのに…。

うっすら自分の中でも、あの昼間の苦いオッパイ事件を潮目に、どこか風向きが変わり始めている気がしたのかも知れぬ。

銭湯から戻り、蚊帳が吊られ川の字に敷かれた布団に潜り込んだ。

蚊遣り豚から蚊取り線香の夏の匂いが立ち込める。

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いつもならそのまま消灯し、ぼくは母のオッパイを咥えながら、深い眠りに入るはずであった。

しかし母はまだ台所で、ガタゴトやっている。

すると何とも言えぬ、渋臭いにおいが立ち込めた。

昼間母の乳首を咥えた時、鼻を塞いだあの匂いに似ている。

既に無頓着なお父ちゃんは、端っこの布団で高鼾だ。

そうこうしていると、母が寝間着姿でやって来た。

ぼくはいつものように母の胸元に顔を預け、日課のように癖で乳首の在処(ありか)をまさぐり咥え込んだ。

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「ビッ…エ~ン!」。

母の胸から顔を()()らせた。

すると薄明りに浮かんだ母の白い胸。

しかし何故か乳首の周りだけが焦げ茶色に膨らみ、まるで駄菓子屋で見掛ける甘食のようになっていたのだ。

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今でも蚊取り線香の匂いを嗅ぐたび、まんまとしてやられた、あの乳離れの日が記憶を(くすぐ)る。

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「昭和懐古奇譚~蠅叩きと折り畳み式蝿帳に、ガラス製の蠅取り棒」(2016.6新聞掲載)

「蠅叩きと折り畳み式蝿帳に、ガラス製の蠅取り棒」

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「ちょっとお父ちゃん、もっと右やて、右。あっ、そこそこ!」。

母が父に指示を飛ばした。

と言っても、何も父が母の背中の痒い場所を、探っているわけではない。

パシン!

「あっ、あ~あ。あかなんだわ!逃げてもうた…」。

父が項垂れた。

「何が『あかなんだ』や!本当に何やらせても鈍くさいんやで!おまけに蠅叩きを振り回すもんで、蠅取り紙にくっついとるやない!」。

昭和も半ば。

夏が目前となると、毎年必ずどこからともなく、銀蠅が五月蠅く部屋の中を飛び回ったものだ。

だから茶の間の卓袱台には、折り畳み式の蝿帳が、まるでテントの様に料理を覆い、蠅がたかるのを未然に防いでいた。

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しかしそれでもしたたかな蠅たちは、蝿帳の網目に止まり、恨めし気に中の獲物を睨みつけていたものだ。

さらに卓袱台の真上には、天井から蠅取り紙が垂れ下がる。

そして空中を我が物顔で飛び回る蠅を、飴色に艶びかりした紙の粘着テープが、一網打尽にしてやらんと手ぐすねを引いていたものだ。

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ある日の事。

ついに父が名誉挽回に打って出た。

「もう大丈夫やぞ!そこの荒物屋の親父に進められて、とっておきの新兵器買うて来たでな」と、不思議な形のガラス棒をひけらかした。

その名も「ガラス製蠅取り棒」。

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この蠅取り棒は、長さ1m、直径2cmほどのガラス製の筒で、先端がラッパの様に開いており、手元が電球のように丸くなっていた。

手元の丸い部分に水を入れ、手の届かぬ天井の蠅に、ラッパ型の口で覆って捕獲するという優れ物。

蠅はジリジリと狭いガラス管の中を下降し、やがて手元の丸い部分の水に落ち息絶える。

さすがにいつもなら鼻にも掛けぬ母も、この時ばかりは感心しきり。

父はすっかり株を上げ、してやったりとほくそ笑んだもの。

父はその後もしばらく、蠅取り棒を掲げながら、次から次へと蠅取りに勤しんでいた。

「どうや、面白いくらい捕れるわ!」。

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すっかり父は気をよくして、鼻唄まで捻り出す始末。

「ちょっと、お父ちゃん呼んで来て!もう晩御飯だよって」。

台所から母の声がした。

そう言えば、さっきから父の姿が見当たらぬ。

二間しかないわが家の事、庭にでもいるのかと玄関を出た。

すると母も「もうご飯やって言うのに、こんな時間にどこ行ったんやろ?」と下駄ばきのまま顔を覗かせた。

するとお隣のオバチャンの声が。

「助かったわ!本当に嘘のように、天井の蠅まで取れるもんやね。ありがとう、おおきになあ」。

「またいつでも言うてな。直ぐに蠅退治したるで」と父の声。

「お父ちゃん調子こいて、お隣まで蠅取りの遠征か!」。

母は機嫌の悪そうな顔をして、家の中へと消え入った。

「いただきま~す」。

卓袱台を囲み夕飯が始まった。

「ちょっと、お父ちゃん。そんなとこに蠅取り棒掲げて、なに突っ立っとるの?はよ座ってご飯食べてや!」、と母。

ところが父は一向に座ろうとはしない。

「いつまでも何しとるの!」。

母がついに苛立ちを見せ始めた。

「…いや、蠅取り棒をどこぞに掛けとく場所を、先に作っとくの忘れてもうて…」と、さっきまでとは異なり、ボソボソと父がつぶやく。

「もうご飯なんか食わんでもええで、そのままご近所中の蠅退治でもしとりゃええんやわ!」と、母の一撃で父はそのままノック・アウトとなった。

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「昭和懐古奇譚~母の日の花柄エプロン」(2016.5新聞掲載)

「母の日の花柄エプロン」

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今から四半世紀近く前。

忌明けを済ませ、母を亡くした喪失感を吹っ切ろうと、押し入れの遺品整理を始めた。

すると母の柳行李の一番下から、古ぼけた包装紙に包まれた、薄っぺらな化粧箱が現れた。

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包装紙に刷り込まれた屋号「丸栄」の文字には、確かに見覚えがある。

当時両親と暮らした街の、バス停横にあった洋品店のものだ。

天地を引っ繰り返して見る。

箱の裏側には、経年劣化で黄ばんだセロファンテープが、干からびた状態で辛うじて貼り付いている。

そっと包装紙をめくった。

すると、これまた黄ばんだボール紙の化粧箱が現れ、外蓋を開けると中蓋の窓になったセロファンも、これまた経年変化で黄ばんで縮んでいる。

その中に見覚えのある、花柄のエプロンが色褪せ、綺麗に折り畳まれたまま、ひっそりと収められていた。

「あんた、このエプロン覚えとるか?」と母が、エプロンの胸元を指さした。

「えっ?」とそっけない返事をぼくは返した。

それどころでは無かったのだ。

あと少しで、婚約者がご両親を伴い、わが家にご挨拶にやって来る直前の事。

「なあ、本当にもう覚えとらんのか?このエプロン」と、母は料理の手を止め、またしても同じ話を蒸し返した。

「どこかで見た覚えはあるんだけどなあ…」。

ぼくは心ここに在らずで、ぞんざいな答えを返した。

母は少しがっかりした様に「そうか…」とだけ、小声でつぶやいた。

「お母ちゃん、これっ!ぼくがお小遣いをためて買った、母の日のプレゼントだよ!」。

台所で洗い物をしていた母が振り返った。

ぼくは包装紙に包まれた、母の日のプレゼントを恭しく差し出す。

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すると母は薄汚れた割烹着で、濡れた手を拭きキョトンとしながら受け取った。

「ええっ……?」。

「だって今日は、5月の第二日曜日の母の日だよ」とぼく。

母は照れくさ気に戸惑いながら、包みを受け取った。

そして茶の間へと移動し、卓袱台の上で丁寧な手付きで、包装紙のセロファンテープをはぎ取り、中から花柄のエプロンを取り出した。

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「こんな上等なもん…。どうや、似合うか?」。

母はエプロンを胸元に宛がい乍ら、涙に濡れた声で笑った。

「よう似合(におう)とるわ!」と、傍らで父が笑う。

「そうか!でもせっかくいただいた、母の日のプレゼントやし、汚したら勿体ないで、大切な日のために仕舞っとくわ!お母ちゃんの宝物として」。

母はそう言うと、エプロンを元通りに折り畳み、再び化粧箱に几帳面に仕舞い込んでしまった。

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母の遺影の前で、今一度エプロンを広げた。

すると母の声が蘇る。

…汚したら勿体ないで、大切な日のために仕舞っとくわ!お母ちゃんの宝物として…。

小学3年になった4月。

担任が翌月に控えた、母の日の欧米の在り方を話した。

それからぼくはちまちまと小遣いを貯め、それまでにちまちまと小銭を貯めた陶器製の豚の貯金箱を持ち、丸栄へと向かったのだ。

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「ちょびっとエプロン代には足らんけど、あんたのお母さんを想う気持ちに心打たれたで、負けといたるわ」。

そう言いながら丸栄のおばちゃんは、丁寧に化粧箱に包んでくれた。

確かに紛れも無く、その時エプロンだ!

母が言った大切な日とは、ぼくの嫁となる人を迎える時であったとは…。

母は最期の最後まで、この世にたった一人の、ぼくの母で居続けてくれていたのだ。

改めて母の遺影に、深々と首を垂れた。

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「昭和懐古奇譚~虫下しチョコと肝油ドロップ、泣く子も黙るイチジク浣腸!」(2016.4新聞掲載)

「虫下しチョコと肝油ドロップ、泣く子も黙るイチジク浣腸!」

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昭和半ばの時代。

今の子どもたちとは比べ物にならぬほど、どこもかしこも軒並み不衛生。

しかも食糧事情が悪く、子どもたちの栄養状態もすこぶる悪かった。

だから小学校でも、回虫駆除の虫下しチョコの配布や、ビタミン補給の肝油ドロップの服用を推奨したものだ。

虫下しと名が付くものの、チョコと言う甘い響きが曲者。

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早く食べたくてならず、放課後のチャイムを待ちわびたものだ。

とは言え、所詮回虫を駆除する薬ゆえ、本物のチコレートとは似ても似つかぬ薬臭さ。

それでも本物のチョコレートなど、めったやたらと買っても貰えぬ当時は、すこぶるご馳走に感じたものだった。

一方のビタミン補給の切り札は、肝油ドロップ。

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夏休みの前になると先生がクラスで注文を取り、楕円形の缶に入った肝油を自宅に持ち帰ったもの。

一日一回1粒と決められてはいても、ゼリーの様でグミのような微妙な食感で、甘くて美味しくついついお母ちゃんの目を盗んでは、おやつ代わりに頬張ったもの。

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だから夏休みも半ばに入ると、いつの間にやらスッカラカン。

その度お母ちゃんの逆鱗に触れた。

当時ぼくは、よく便秘に悩まされていた。

偏った食生活によるものか?

「あんたぁ、ウンチ3日も出とれへんやろ?」と、母がイチジク浣腸を片手にぼくを追い回す。

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「浣腸したるで、早ようお尻出しなさい!」。

浣腸なんて嫌で嫌で、泣きながら抵抗するも虚しく、容赦なくイチジク浣腸の洗礼を浴びた。

するとすぐにお腹がグルグル。

たちまち下腹部を激痛が見舞う。

泣きながらしばらく、トイレにしゃがみこんだものだ。

どんなに薬臭くとも、虫下しチョコの方がまだましと思ったほど。

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だから何が何でも、この泣く子も黙るイチジク浣腸だけは、ご免被りたかった。

「今度の日曜日、潮干狩りに行かへん?皆でお弁当持って」。

「ええねぇ。でもそれはそうと潮目はどうなん?」。

「それがねぇ、ちょうどお昼頃に大潮の干潮なんやって」。

「本当、そりゃ丁度ええわ」。

玄関先で母と近所のオバちゃんの会話が聞こえた。

「…おおしおのかんちょう?って、『ええっ?…大塩の浣腸?』。しかもお弁当を食べるお昼に?」。

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その日の夕飯時のこと。

「潮干狩りやったら、お父ちゃんが工場で熊手を溶接して作って来たるわ」と父。

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「浜辺で海を眺めながら、お弁当広げたらきっと美味しいで」と母。

ぼくは「潮干狩りなんて行きとうないもん」と、どうにもさっきの「大塩の浣腸?」が頭から離れず、涙ながらに訴えた。

「何やの、変な子やねぇ?お隣のサッチャンだって行くんやに」と母。

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ぼくは項垂(うなだ)れたまま、消え入りそうな小声で囁いた。

「だって…潮干狩りに行ったら…『大塩って言う塩味の浣腸』されるんやろ?」。

すると母も父も顔を見合わせ「………」。

ぼくは涙声で「嫌や嫌や、大塩の浣腸なんて!」と、さらに訴え続けた。

すると母が、「アッハッハッハ!たぁけやね、この子は。大潮の干潮は、塩味のイチジク浣腸の事やないよ。大潮ってのは、地球の引力の関係で、浜から海水が沖へと引くから、海水が干上がると書いて干潮って言うんやよ」と母は笑い転げ、広告チラシの裏側に大きく「大潮」と「干潮」、そして「浣腸」の漢字を並べて書いて見せた。

子どもの頃は漢字も知らず、そんな「勘違い」ならぬ「漢違い」をよくしたものだ。

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「昭和懐古奇譚~欠けた丼鉢と、うどん屋さんゴッコ」(2016.3新聞掲載)

「欠けた丼鉢と、うどん屋さんゴッコ」

「なあ、あんたはもう、とっくの昔に忘れたんやろなあ。とうとうお母ちゃん、あんたとのあの日の約束、果たしてやれんかったけど堪忍やで」。

ぼくの結婚式を前日に控えた深夜。

隣の部屋から父の高鼾が聴える。

どうにも寝付けずビールを煽っていると、寝間着姿の母が現れた。

母と二人しみじみと、昔話を肴にグラスを傾け始めると、突然母がそうつぶやいたのだ。

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「えっ?あの日の約束…って」。

「覚えてへんか?」。

母はグラスを干して、懐かしそうに微笑んだ。

「あんたも明日から、新しい家庭を築くんやで、教えとこか?」。

母はさも意味ありげに、浮かんでは消えるビールの泡を眺めた。

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それは幼稚園の卒園式間近の事。

「きつねうどん、お待ちどう」。

ぼくは市場にあったうどん屋の、オッチャンの口癖を真似、縁の欠けた丼鉢をぶっきら棒に差し出した。

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するとすかさず、ウォンウォン!

我が家の老犬ジョンは、また始まったとばかりに、尻尾を丸めイソイそとオンボロな犬小屋へと潜り込んだ。

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そしてぼくに尻を向け、われ関せずと知らぬ存ぜぬを決め込む。

「ちょっと、あんた。またうどん屋さんゴッコか。ジョンはそんな粘土のうどんなんて、見向きもするはずないやろ!本当にたぁけやね、この子は!」と言いながら、母は欠けた丼鉢を手に取り、ふと淋しげな表情を浮かべた。

その前夜の一幕。

「お母ちゃん、なんでぼくだけ兄弟がおらんの?」。

銭湯の女湯で母に体を洗って貰いながら、ぼくはふと素朴な疑問を口にした。

すると母はしばらく黙り込んでしまった。

「そんなに兄弟が欲しいんか?」。

「うん!」。

「お母ちゃんもなぁ、お前に兄弟をつくってやりたいと思っとんやよ。でもこればっかりは、神様からの授かり物やでなぁ。そう思い通りには行かんのや」。

「だったらぼくは、お友達が一緒に遊んでくれんかったら、いっつも一人ぽっちで遊ぶしかないの?」。

今にして思えば幼子とは言え、当時の母の気も知らず、いわでもの事を口にしてしまったものだ。

「そーやなー」と、母は不意に背後からぼくを抱きしめた。

「もう少し、お母ちゃんも頑張ってみるわ」と、つぶやいた母の声は、心なしかいつもよりくぐもって聞こえた気がする。

「やっと思い出したか?」。

母は嬉しそうにグラスを手にし、ぼくの酌を受けながら笑った。

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「そのあくる年の事や。まだあんたは幼かったで、気付かんかったやろ。お母ちゃんのお腹に、あんたの妹を授かったんや。でもあかんわ、結局流れてしまった。実はお母ちゃんなあ、あんたを逆子で産んでから、子どもが出来にくくなったらしい。だからあんたとお風呂で交わしたあの日の約束、果たせず仕舞やった。ごめんな」。

母はこれまで、そうやって自らを、責め続けて来たのだろうか?

「でもぼくは、本当に一人っ子で良かったと、心からそう思ってるよ。だってお父ちゃんやお母ちゃんを、ずっと独り占め出来たんだから…」。

ぼくは涙を悟られまいと、いつもよりほろ苦いビールを煽った。

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「昭和懐古奇譚~缶蹴りストライカー」(2016.2新聞掲載)

「缶蹴りストライカー」

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「トシ君、み~っけ!」。

何につけても鈍くさく、いつも要領の悪いトシ君。

この日の缶蹴りでも、真っ先に鬼役のマー君に見付かった。

だがさして悪びれるでもなく、鬼の陣地に捕らわれたまま、呑気に鼻糞を穿(ほじ)っている。

昭和半ばのTVゲームも携帯電話も無い時代。

あの頃の2月と言ったら、今とは比べ物にならぬほど寒かった。

とは言え、ダウンのジャンパーやフリースも、ましてやヒートテックなる優れた下着など、あろうはずもない。

それこそ半ズボンに、毛玉だらけの擦り切れたセーター一枚。

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思えばいつも、膝頭が粉をふいたように、皮膚が乾燥して白くなっていたものだ。

それでも寒さなんて糞食らえってな調子で、絶えず走り回っていた。

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お母ちゃんも「そんな薄着なんかで、風邪でもひいたらどうするの!」なんて心配するどころか、むしろ「子どもは風の子!とっとと外で遊んでおいで」と追い立てられた口だ。

鬼役の機敏なマー君は、次なる獲物を捕らえようと、周りを警戒しながら陣地を離れ、鳥居へと向かった。

…まずい!

狛犬の台座の裏側に身を潜めるぼくの方へと、一歩ずつ近付いて来るではないか!

こりゃ一大事。

マー君は、拝殿に向かって左側、つまりぼくが身を隠す反対の狛犬へと、突然踵を返した。

「やった、今だ!」。

ぼくは一瞬の隙を突き、一目散に駈け出した。

だがすぐにマー君に気付かれ、後を追われる。

しかもマー君は、仲間内で一番の俊足だから、ぼくにとっちゃあ分が悪い。

既にもうぼくの横に並んでいた。

しかしどうにかこうにか、マー君が缶を足で踏みつけようとする寸前。

ぼくは滑り込みながら、缶を大きく蹴り出した。

「トシ君、今だ、早く逃げろ!」。

ぼくは缶とは逆の木立へと身を隠した。

そしてこっそり様子を窺う。

するとマー君は、缶を蹴り戻しながら陣地へ向かっている。

はて、肝心のトシ君は?

あっ!

あ~あ。

よりによって缶を飛ばしたその先の、さい銭箱の陰に頭隠して尻隠さずで、潜んでいるではないか?

つまりトシ君は、缶の飛んだ方角に向かったことになり、そのすぐ後ろから缶を取り戻しにマー君が追ったわけだ。

ならばあの如才ないマー君のこと、トシ君の潜伏先を見逃す筈もない。

すると案の定「トシ君、み~っけ!」とマー君の声。

ぼくのせっかくの苦労も水の泡。

一事が万事いつもこんな調子で、ぼくらは寒の砌をものともせず駆けずり回ったものだ。

それから4年。

いつも一緒だったトシ君やマー君とも、何度かのクラス替えでいつしか疎遠となり、互いに6年生になっていた。

そして迎えた卒業前の、最後の球技大会。

真冬恒例、サッカーの試合である。

僅差で迎えた終盤。

相手チームの選手が、機敏な身のこなしで、ぼくらのディフェンスを掻い潜り、見事なミドルシュートで決勝ゴールを決めた。

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それがあの、何につけても鈍くさく、いつも要領の悪かったトシ君だったのには驚き。

ぼくは負けた悔しさよりも、トシ君の大いなる成長振りに、ただただ目を瞠った。

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「昭和懐古奇譚~ちり紙交換と黄金糖」(2016.1新聞掲載)

「ちり紙交換と黄金糖」

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「ご家庭でご不要となりました、古新聞古雑誌はございませんか?ちり紙交換車がやってまいりました」。

小学校2年になった昭和40年の事。

トラックの運転席上部に取り付けられた、トランペットスピーカーから濁声のオッチャンの声が流れ出し、町内を隈なくノロノロと巡ってゆく。

ぼくらはトラックの後を、遊び半分に追い掛け回したものだ。

今とは違いちり紙交換のオッチャンの名演説も、録音されたテープから流れるような、そんな洒落た時代ではない。

だからその都度、オッチャンが妙な節を付け、所々にお国訛りを散りばめ、即興交じりに濁声を枯らしながら捻り出す実演。

ぼくらは口々にオッチャンの台詞を真似、大声を張り上げながら追いかけた。

「チョット~ッ!ちり紙交換のオジサ~ン」。

玄関の引き戸がガラガラっと開き、オバちゃんが顔を覗かせ呼び止める。

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すると「毎度あり~っ」と、妙な節を付けた言い回しでマイク越しに答え、オッチャンが車を止めた。

白の割烹着に下駄履き、無造作に褞袍(どてら)を羽織ったオバちゃんが、両手に古新聞に古雑誌、おまけに古着まで重そうに抱え玄関先でヨタヨタ。

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こうなりゃ、ぼくらの出番!

「オバちゃん、手伝ってあげるって」と、頼まれもしないのにぼくらは、古新聞やら古雑誌を抱えトラックの荷台へと運ぶ。

するとオッチャンは手慣れた手付きで、上皿付きの自動秤を取り出し古新聞や古雑誌を積み上げる。

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そしてそれに見合った分のちり紙を、助手席から大雑把に掴み取りオバちゃんへと手渡す。

ちり紙を受け取ったオバちゃんは、瞬時にその厚さを目測し、「やっぱりオジサンとこの、ちり紙交換が一番お得やね」。

その一言で気を良くしたのか、オッチャンはもう一掴みちり紙を取り出し、オバちゃんに手渡した。

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「また、いつでも声掛けてぇな!」とオッチャンは、満更でもなさそうにつぶやき運転席へと乗り込んだ。

「あっ、あんたら。ちょっと待っとりゃあ。いまお駄賃やるで!」。

トラックの後を追おうとするぼくらを、オバちゃんが呼び止めた。

「手伝ってくれて、おおきに。ちょっとだけやけど、お駄賃やで」。

そう言って、ちり紙に包んだお菓子を、ぼくら一人一人の手に握らせた。

ぼくらはいつもの秘密基地で北風を凌ぎ、ちり紙の包みを開いた。

「あっ、黄金糖だ!」。

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灰色がかったちり紙の中で琥珀色に一際輝く、宝石のような飴玉にぼくらは見とれた。

だが誰一人、それを頬張ろうとはしない。

やれ「妹や弟に持って帰る」とか、「お母ちゃんにあげよ」と。

ならばぼくも、お母ちゃんが機嫌の悪い時の隠し玉にでもするかと、半ズボンのポケットへ放り込んだ。

すると翌朝の事。

「ポケットにちり紙入れたまんま、半ズボンを放り込んだやろ!これ見てみい!洗濯機の中がちり紙塗れやない!おまけにこんな黄金(こがね)(いろ)した、ガラス玉のガラクタまで一緒くたにしてまって!」。

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母の逆鱗に触れた今こそ、本領を発揮するための隠し玉だったのに!

嗚呼、哀れ無残な黄金糖よ~っ!

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「昭和懐古奇譚~魔法の火鉢」(2015.12新聞掲載)

「魔法の火鉢」

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年の瀬が近付くたび、心の何処かで昭和半ばのわが家にあった、あの懐かしい魔法の火鉢を手に入れたいと願ってしまう。

だが戸建てならともかく、マンション住まいではそうもいかない。

幾度となく古びた商店で火鉢を目にし、思わず衝動買いしそうになったものだ。

ところでわが家の火鉢は、いったいいつ頃まで、現役を務めたのであろう?

恐らく、戸建てで隙間だらけだった市営住宅から、マンションに引越すまでではなかったろうか?

ともかく今更、鬼籍に入った両親に問うわけにもいかぬ。

「ただいま~っ!」。

昭和半ばの小学生の頃、何よりの楽しみは土曜の半ドンだった。

当時は肝心要の、半ドンの意味すら知らずに、下校のチャイムが鳴ると同時に、一目散に家路を急いだもの。

あれから半世紀近くの時を経て、改めて「半ドン」の意味を調べて見た。

それによると、半ドンのドンは、オランダ語で休日を意味する「ドンタク」からの転用とか。

そんなことはともかく、半ドンの土曜日は、何やら得をした気分になったものだ。

とは言え、急いでわが家に帰っても、何か特別なことが待ち受けるはずもない。

いつも玄関を開けると味噌汁の匂いがした。

茶の間の火鉢に土鍋が掛けられ、朝餉の味噌汁の残りに冷ご飯をぶっこみ、溶き卵を加えたオジヤが待ち構えていただけ。

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それでも白黒テレビを見ながら、母と一緒にハフハフと頬張る熱々のオジヤが、半ドンの何よりのご馳走だった。

おまけに母の機嫌が良いと、向こうが透けて見えるほど薄っぺらなハムの、肉屋で1枚5円で買って来た、揚げ立てのハムカツが添えられた。

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そんな特別な日に出くわそうものなら、たちまち心は今にも天へと昇るほど興奮したものだ。

あの頃の火鉢は、八面六臂の大活躍。

暖を取りつつ煮炊きも出来、時には火鉢の上に洗濯物を吊るし、俄か乾燥機へと早変わり。

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餅を焼いたり、ぜんざいから煮豆に、鮒味噌までと、練炭が消え入るまで大活躍。

それに真冬の朝は、母が火鉢で下着を温めてくれ、ぬくぬくに袖を通せた遠き日。

火鉢を囲み家族で顔を突き合わせ、暖を取った貧しかったあの頃が、もしかすると一番幸せだったのかも知れない。

しかし悲しいかな人生は、幸せの一瞬で立ち止まってはくれない。

火鉢の焼き網でこんがり焦げ色の付いた焼餅も、それは一瞬の美味しそうな色合いに過ぎぬ。

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ついうっかり目を離せば、真っ黒く墨のように焼け焦げてしまうのだからして、人の世の幸せとてその程度のもの。

しかもそれに気付くのは、幸せだった瞬間から、随分と時を隔ててからとなる。

幸せとは、なんと脆く儚く、尊いものやら。

火鉢の底で消え入ろうとする、練炭の埋み火を見るたび、哀しく思えた遠き日。

幼いながらも、そんな人生の物悲しさや儚さを、今にも消え入らんとする埋み火に、漠とした侘しさを感じ取っていたのやも知れない。

願わくはせめて今一度、両親と共にあの火鉢を囲んでみたいものだ。

さぞや、ぬくといに違いない。

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「昭和懐古奇譚~プラスチック製食パンケースにバターケース」(2015.11新聞掲載)

「プラスチック製食パンケースにバターケース」

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そりゃまあ母の遺品整理は手間取った。

今から23年前の今頃。

父は母を亡くした喪失感も手伝って、日毎(まだら)()けに(むしば)まれ続けていた。

ぼくは仕事の合間を縫い、母の遺品の整理に大わらわ。

よもや緊急入院となり、やがて命が絶たれようなどと、想像も付かなかった母は、日々の暮らしに必要な物や身の回りの物を、しこたま買い置いたままだった。

何度休みの度にそれらの処分に通った事か。

いよいよ残りは、押し入れと戸袋だけになった。

すると一番奥から、飴色に日焼けした柳行李(やなぎごうり)が。

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大切そうに一番奥に仕舞い込んであったことから、こりゃまたお宝か?と、俄かに色めき立ち上蓋を開けて見てガックリ。

それは忘れもしない、ぼくが小学校低学年時代のこと。

父の給料日後の日曜ともなると、母は決まって某百貨店の地下売り場の「80円均一」へと足蹴く通ったものだ。

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その柳行李から出てきた物は、「80円均一」で母が買い揃えた、プラスチック製の洋食器である。

不意に当時のワンシーンが頭を過ぎった。

「さあ今日からわが家も、お洒落な暮らしの始まりやよ!」。

母は買ったばかりの、プラスチック製食パンケースからパン2枚を抜き取った。

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そして段ボール箱から(おごそ)かに取り出だした、手垢一つない電気トースター上部の、細長く開いた穴へと差し入れる。

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そして「さあ、お父ちゃん。トースターのレバーを下げて、記念すべきスイッチの点灯や!」。

母は取扱説明書と首っ引きで、父にそう促した。

卓袱台中央のおニューの電気トースター。

パンの仄かに焦げる香りが立ち込め出すと、思わず家族3人卓袱台を取り囲み、トースターを覗き込んだ。

「チーン」。

素っ頓狂な音と共に、トーストが跳ね上がるとその興奮もクライマックス。

「やっぱり火鉢の上の網で焼くのとは違って、ええ塩梅やなぁ」と、感心しきりの父。

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「お父ちゃんが毎日、頑張って働いてくれるで、高価な電気トースターも買って貰えたんやよ」と、母が微かに涙ぐんだ。

そしてこれまた新品の、プラスチック製バターケースを開け、ピッカピカのバターナイフでバターを削り取り、焼き立てのトーストに母がバターを塗った。

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「はい、トースター(・・・・・)も焼けたで、熱いうちに食べるんやよ。足らんかったら、またトースター(・・・・・)焼いたげるで」と、したり顔の母。

以来わが家では何の疑いも無く、トーストでは無く焼き上がった食パンを「トースター(・・・・・)」と呼ぶようになった。

戦中派の両親も、小学校低学年のぼくにしても、焼いた食パンを「トースター(・・・・・)」と呼ぶものだと信じて、これっぽっちも疑いなどし無かった。

しかしそれが誤りと発覚したのは、裕福な家庭の友が遊びに来た時の事。

「お腹空いとったら、トースター(・・・・・)でも焼いてやろうか?」と、母が尋ねた。

すると友が、「おばちゃん!トースター(・・・・・)なんて焼いたって食べられないよ!トースターでトースト焼いてくれるんならいいけど…」と。

すると母が「あ、ああ、そうやったそうやった!ゴメン、おばちゃんすっかり言い間違えちゃった!恥ずかしいわ」と、瞬時に言葉を濁した。

英語は敵性語と叩き込まれた、そんな学生時代を生きた母。

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果たしてどこまで、本当の意味が理解できたか?

参考資料

もう今となっては、尋ねることも出来はしない。

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