「昭和懐古奇譚~でんでん虫ってエスカルゴ?」(2017.6新聞掲載)

「でんでん虫ってエスカルゴ?」

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♪でんでん虫々 かたつむり お前の頭は どこにある 角だせ槍だせ 頭だせ♪

紫陽花の街路樹が色を染め、雨音が傘を打つ。

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ちょうど幼稚園の脇の歩道を歩いていると、懐かしい童謡「かたつむり」をオルガンに合わせて歌う、園児たちの声が聴こえて来た。

この歌を聴くとついつい思い出してしまう。

「フランス料理のレストランで、お父様とお母様と一緒に、エスカルゴってお料理の、カタツムリ食べたの。ねぇ、あなたも食べた事ある?とっても美味しいわよ!」。

お父さんの転勤とかで、ぼくらが暮らすとんでもない下町に、とても不釣り合いで場違いな、お嬢様が転校してきた事があった。

わが家のご近所の、口さがないオバちゃんたちは、「あら、宮様のお通りよ!」なぁんて、茶化し立てていたものだ。

「ええっ?フランスじゃあ、あのナメクジみたいなカタツムリなんて食うんかよ!」。

そもそもフランスなんて国が、一体全体この地球上の何処にあるのかさえ、まったくもってチンプンカンプンな小学2年のぼくは、不思議でならなかったものだ。

方やお嬢様と来た日にゃあ、ナメクジの方が分からないようで、話がちっとも嚙み合わない。

恐らく紫陽花の葉を這うカタツムリも、地べたをニュルニュルと這うナメクジだって、本物を実際にその目で見た事なんてなかったことだろう。

すると近所でも神童と称されるマー君が、「ぼくも何かの本で読んだことがあるけど、あのお嬢が言ったみたいに、ヨーロッパじゃあ好んでカタツムリを食べるらしいよ。どんな味がするのか、ちょっと興味があるよな」と、謎かけるではないか。

するとお調子こきのサッちゃんが、黙っちゃいない!

「じゃあ、おいらがカタツムリ取って来るから、ガード下のオッチャンに焼いてもらって、皆で味見しよーぜ!」と、話はトントン拍子。

サッちゃんは、あっと言う間に、大きなカタツムリを洗面器に集めて来た。

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「どんな味がするんやろう?」と、みんな食したことなどない、フランスとやらの遠い国の名物料理に興味津々。

皆で意気揚々と、ガードしたのオッチャンを訪ねた。

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「あかん!坊んたらあ!こんなもん食うてみい、直ぐに腹壊してまって大騒ぎやぞ!確かに、フランスじゃあ、カタツムリをバター焼きにして食べるけど、カタツムリの種族が違う。このカタツムリには、寄生虫って厄介なもんが宿っとるかも知れんで、食うなんてもっての他や!紫陽花の葉の所へ、返してきてやりい」と、毛むくじゃらのオッチャン。

ぼくらは意気消沈でトボトボと帰ったものだ。

ガード下を(ねぐら)にしていたあのオッチャン。

ぼくらは何故だか、あの毛むくじゃらでターザンみたいな、博学なオッチャンが好きだった。

当時は昭和も半ば。

終戦からまだ、たった21年しか経っていなかったのだから、もしかしたら戦時中は立派な将校さんであったかも知れないし、世が世であれば、外交官だったのかも知れないと、今も不思議でならぬ。

しかしあの博学なオッチャンの人生は、あの忌まわしい先の戦争によって、何もかもが根こそぎ狂わされてしまったのかも知れない。

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「昭和懐古奇譚~母の日のプレゼントは『孝行タニシ』」(2017.5新聞掲載)

「母の日のプレゼントは『孝行タニシ』」

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昭和半ばの、ある日の晩御飯。

食卓兼居間であり、時には勉強部屋や母の内職部屋、そして夜も更ければ寝室へと早変わりする、魔法の六畳間。

いつものように家族三人、丸い卓袱台を囲み夕餉の真っ最中。

その日の献立は、目刺しに芋の煮っ転がし、それとアサリのネギヌタだった。

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「酢味噌で食べるネギヌタは、お母ちゃんの大好物やわぁ」と母。

「具はアサリやなくとも、イカゲソでも、この時期のもんやったら、なぁ~んでも美味しいなぁ」と、お父ちゃんに目配せ。

「せやなあ、この時期はさっぱりしたもんがええなぁ」と、何かに付け波風立てぬのを信条とする父が、見事に当たらず触らずの模範解答で身を(かわ)した。

「でもやっぱり、この時期一番美味いのは、何と言ってもタニシのネギヌタやない?」と、母が夢見心地で呟く。

父はそんな母のどーでもいい戯言(たわごと)にも、「まぁ、せやなぁ」と残り少なくなったグラスのビールを干した。

昭和40年5月。

小学2年ともなると、周りでは「母の日」のプレゼセントが話題となった。

赤いカーネーションやエプロンにハンカチやら。

大層ご立派な、お屋敷住まいのお嬢様やお坊ちゃまならいざ知らず。

それに引き換えこっちは、小遣いすらろくすっぽ与えられぬ、筋金入りの庶民。

だからクラスの皆も、大半が折り紙や絵を描いて母の日のプレゼントにするのがやっと。

とは言え幼いながらも、やっぱり母の喜ぶ顔が見たかった。

5月の第2日曜、母の日の前日。

土曜の半ドンで学校から帰宅すると、いつものようにランドセルを放っぽり出し、草野球に行く振りをして、再び小学校の校門へと向かった。

小学校の校門は、その手前を流れる用水路を渡った所にあったのだが、その用水路のコンクリート製の橋桁に、タニシが一杯群生しているのを知っていたからだ。

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それを取って、母の日のプレゼントにしようと考えたわけである。

さっそく裸足になって半ズボン姿のまま、高さ1.5mほどもあろうかと思われる用水の中へと、エーイままよ!っとばかりに飛び込んだ。

獲物の入れ物は、出掛けにわが家のバカ犬、老犬ジョンの小屋から失敬した、ジョンの水飲み用の、あちこち凹んだブリキの洗面器。

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コンクリートの壁面は水苔でヌメヌメ。

そこにへばり付いているタニシを、ランドセルから抜き取って来た、竹製の30cm物差しでこそぎ取る戦法だ。

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「家の馬鹿息子が、とんでもないご迷惑をお掛けしてまって…」。

母は玄関口で用務員のおじちゃんに、深々と何度も何度も頭を下げた。

「わしが校門の施錠をしに見回りに行くと、橋の上にズックがきちんと揃えて置いたったんやて。ズックには『2年2組オカダ』って書いてあるし、直ぐに名前呼んだら橋の下から返事が聞こえたもんで、慌てて橋の上に引き上げたんやて」と用務員のおじちゃん。

「本当にこの馬鹿息子が、ご迷惑を…」と再び沈痛な面持ちの母。

「なぁ~んも、そんなこたぁええ。でもなぁ、そー叱らんでやってな。この子の身長では、用水の縁まで自力で這い上がることは出来やん。そんなことも考えず、夢中になって用水に飛び込んだんは、それなりの訳があったからや。あんたが食べたいってゆうとった、このタニシを一生懸命取っとったんやで。母の日のプレゼントにと。それにこの子は馬鹿やないで!そりゃあ少々腕白やけど、立派な孝行息子や」。

用務員のおじちゃんは、それだけ言うと、夕間暮れの道を学校へと戻って行った。

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「おじちゃん、ありがとう」。

おじちゃんの後ろ姿に大声を張り上げると、背後から母に抱きしめられた。

「おバカやなあこの子は…まったく…」。

母の声が心なしかくぐもっていた気がして、ぼくはそのまま振り向かず、黄昏を眺め続けていた。

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「昭和懐古奇譚~腕白坊主とお転婆娘のザリガニ釣り」(2017.4新聞掲載)

「腕白坊主とお転婆娘のザリガニ釣り」

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水ぬるむ春ともなると、昭和の腕白坊主どもとお転婆娘たちの、歓喜の声が用水路の脇に飛び交う。

腕白坊主共は、まるで申し合わせたかのような、半ズボンに継ぎの当たったシャツとつっかけ履きの出で立ち。

方やお転婆娘たちときたら、揃いも揃ってワンピースの裾を太腿のパンツのゴムに巻き込んだ、今にも薙刀でも振るいそうなほどに勇ましい、提灯ブルマー姿。

用水路の浅瀬の水際に裸足で降り立ち、泥んこ(まみ)れになろうとも平気で遊び回ったものだ。

(たけ)(ぼうき)から抜き取った、竹の細い枝を釣り竿代わりに、木綿の糸に台所からくすねた魚肉ソーセージを、1cmほどに千切りとって括り付け、用水の中へと垂らす。

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すると土管の中から、大きな赤いハサミを振りかざし、アメリカザリガニがガサゴソと這い出して来る。

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そして大きなハサミを振り翳し、器用に魚肉ソーセージのエサを挟み口へと運び込む。

「今だ!」。

その瞬間こそが、ザリガニを釣り上げる最適のタイミングだ。

グィーンと竿先をもたげる。

するとザリガニは、エサを放してはならじと、「なにくそ!」ってな具合に、強靭なハサミに力を込める。

すると難なく、ザリガニが一丁上がり!

こうして一匹目がつり上がれば、活きたザリガニの頭を素手でもぎ取り、まだピクピクと蠢く尻尾の殻を剥き取る。

そして魚肉ソーセージの代わりに、今度はザリガニの剥き身を括り付け、再び用水の中へと放り込む。

するとザリガニ達は我先にと群がり、共食いも何のその、まんまとこっちの思う壺。

そうなりゃあ、一欠けだけ千切って餌にした、残りの魚肉ソーセージは臨時ボーナス。

ぼくらの腹の中へと収まると言う算段。

いくらも経たぬうちに、穴が開いてあちこち凹んだ、ブリキのバケツの中は、ザリガニがガサゴソてんやわんや。

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その数を友と比べあい、どっちが勝った負けたと一喜一憂。

戦利品を颯爽と家へと持ち帰る。

だがどうせ、意気揚々と家に持ち帰っても「こんな食えんようなもん、家に持ってこんでええで、とっとと捨てて来なさい!」と、けんもほろろに母の叱責を買うのは百も承知。

わかっちゃいても、それでもやっぱり自慢げに家へと持ち帰ったものだ。

何故だろう?

やっぱり(いにしえ)より男には、獲物をしとめ家族の元へと持ち帰る、そんな健気な本能が、遺伝子の一部に組み込まれているのだろうか?

ザリガニを捨てて来いと言われ、再び用水路へと向かう直前。

わが家の馬鹿犬、老犬ジョンの小屋の前に、一匹だけザリガニを放り投げてやった。

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するとジョンは、鼻先に放たれたザリガニに興味津々。

鼻を近付け臭いを嗅いだり、前足でチョンとちょっかいを出したり。

だがザリガニが大きなハサミを振り翳すと、途端にワンと吠え後ずさる。

「良かったね、ジョン。いい遊び相手が出来て」と、用水路を目指した。

ザリガニを用水路に放し、家へと帰ってみると「キャィ~ン、キャィ~ン」と、いつにないジョンの鳴き声。

慌てて駆け寄ってみると、ジョンの鼻の髭の先で、ザリガニがブランブラン。

ジョンは頭を振ったり、前足でザリガニを取り去ろうとするものの、そうやすやすとザリガニもハサミを放そうとはしない。

ついに進退窮まり、情けない鳴き声を上げるばかりだ。

だがその姿があまりに滑稽で、ザリガニを髭から取り除いてやるのも忘れ、腹が捩れるほどに笑い転げたものである。

今更だけど、あの時はごめんね、ジョン。

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「昭和懐古奇譚~中学進学への断髪式?」(2017.3新聞掲載)

「中学進学への断髪式?」

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♪仰げば尊し わが師の恩♪

小学校の卒業式。

隣の列の女子たちは、ハンカチでみな目頭を押さえている。

実に清らかな涙だ。

釣られて胸がグッと熱くなり、これまでの6年間の想い出が()ぎる。

つい涙が込み上げそうになった。

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しかしぼくら男子は、否が応でも避けては通れぬ、中学進学への忌まわしい儀式の事で頭が一杯であり、そうそう女子の様に手放しで卒業の感涙に咽てなどいられない。

昭和半ばの頃は、ほぼ全員と言っていいほど、地元の公立中学へ自動的に進学するのが庶民の常。

だから卒業式が終わるやいなや、中学進学への準備に追われた。

何はともあれまずは、母に伴われ中学校指定と貼り紙を掲げた、近所の洋品店で学生服を購入。

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「中学3年の間で、体が大きなってもええように、最初は少々ダブダブでも、とにかく大きな寸法のにしてな」と、母が洋品店のオヤジに告げる。

試着してみれば、袖は指先が隠れるほどに長く、肩幅も身幅もブッカブカ。

ズボンのウエストだって、ベルトで締め上げねば、そのままずり落ちるほどだ。

一方裾はと言えば、映画やTVでお馴染みの赤穂浪士で、藩主浅野内匠頭が長袴を引き摺りながら、吉良上野介に斬り付けるあのシーンさながら。

参考資料

まるで「殿中でこざるぞ!」と、そんな台詞がどこからともなく、飛び掛かってくるようだった。

すると母が「ズボンの裾は家で裾上げするで、そのまんまんでええで切らんといてよ」と。

その夜母が裾を内側へ折り上げ、手縫いで仕上げた。

だからズボンの裾の先っちょは、膝っ小僧の下まで折り返されていたものだ。

だから中学を卒業するころには、裾の位置が背比べの柱の傷の様に、真っ白な横筋となり2本の線が克明に刻み込まれていたほどである。

そしていよいよ入学式前日。

横丁の床屋の前は、同級生の男子で長蛇の列。

まるで大晦日かと見紛うほどだ。

誰もが考えることは同じ。

中学の校則に沿って、強制的に毬栗頭の五分刈りにされるのを、一日伸ばしにしてきた証である。

次から次へと、まるでベルトコンベアーに乗った一休さんのように青々とした、立派な五分刈り頭に丸められた同級生たちが、恥ずかし気な表情を浮かべ床屋から飛び出してくる。

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あ~あ、いよいよ次はぼくの番だ。

神妙な面持ちで床屋の椅子に掛けると、オヤジは何の感情も表さず、微塵の躊躇もなく、至って機械的にあーもすーも無く、無情にも電動バリカンを走らせる。

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これまで慣れ親しんだ我が髪に、せめてもの別れを告げる間も無く、バッサバッサと塊のままぼくの髪が目の前を落下してゆく。

まるで不格好な姿勢に座らされ、ツンツルテンに毛刈りにされる哀れな子羊の心境であった。

俯きながら家へと帰り付いた。

すると開口一番母は、「おーおー、すっかり青光りして。でもよう似合っとるわ!そんでもこんだけ短こうしたら、もうシャンプーもほとんど使わんで済むやろで、お母ちゃんも大助かりやわ」と。

中学の3年間は、固形石鹸で頭を洗わされた。

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洗濯板でゴシゴシとメリヤスでも洗うかのように。

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「昭和懐古奇譚~両手鍋の橇(そり)滑り」(2017.2新聞掲載)

「両手鍋の(そり)滑り」

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ウォン ウォン ウォ~ン。

「もう!日曜日のまんだ朝もこんなはよから、ジョンがよう吠えるなぁ」。

ぼくの隣の布団に包まった母が、まるで父への宛て付けの様につぶやき、わざとらしく寝返りを打った。

「怪しい人でもおるんやろか?」。

母は寝たふりを決め込む父に、再び宛て付けの様な言葉を浴びせた。

親子三人の布団は、ぼくを中央に川の字を描くように延べられている。

すると今度は父が、「たまの日曜くらい、ゆっくり眠かせて欲しいのに、かなんなあ…。まったく(うち)の馬鹿犬には…」。

父は誰にともなくつぶやきながら、重たい綿布団から抜け出し、布団の上に広げてあった褞袍(どてら)を、寝間着の上から羽織って玄関へと向かった。

しばらくすると老犬ジョンの鳴き声も止んだ。

寝室の襖がサーッと開き、父が顔を覗かせた。

玄関の裸電球に浮かんだ父の姿にビックリ!

頭も褞袍の両肩も真っ白けっけ。

「雪や、雪が降り出したで、ジョンが嬉して嬉して、それで吠えとったんやわ」。

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雪と聞いた途端、ぼくも嬉しさ余って布団を抜け出し、父と共に玄関から白く染まった一面の銀世界を眺めた。

そして陽が昇るのを今か今かと待ちかまえ、ぼくは白銀の世界へと飛び出して行った。

家の外で歓声を上げ寒さも何のそので、雪遊びに高じているのは、いずれも近所の子どもらばかり。

雪だるまに雪合戦、次第に雪遊びもより刺激的なものへとエスカレートして行く。

すると仲間の一人がやって来て、「ダンプ山で、洗濯板や(かな)(だらい)にリンゴ箱を(そり)にして遊んどる奴らがおるぞ!面白そうやで、俺らも家から橇になりそうなもん持って集合や!」。

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慌てて家に取って返し金盥を探した。

しかし既に金盥には、父の油染み塗れの作業服が、洗剤に浸されている。

ならば洗濯板はと窺ってみると、蜜柑の皮が丁寧に広げられ、天日干し用に準備してあるではないか。

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そんなものを()(ちゃ)って、橇の代わりにしたとなれば、大目玉を喰らう事など先刻承知。

ならばと台所の棚を覗いてみると、手ごろな物を発見!

大きなアルマイトの両手鍋があるではないか!

これで決まりだぁ!

直径60cm近くはあろうかと言う、母が火鉢でコトコトとおでんを煮る鍋だ。

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鍋を抱えダンプ山にたどり着くと、みんな思い思いの代用品の橇で、楽しそうに滑っている。

ダンプ山とは、土建屋さんの資材置き場に、山の様に積み上げられた、高さ2mほどの砂利の山。

その天辺まで登って、代用品の橇で子どもらが次から次へと滑り降りるわけだから、やがて雪も削り取られ、所々砂利も剥き出し。

ツルツルツルー ガリガリガリ。

鍋の中に座り込んで滑るたび、鍋底もツルツルーガリガリ。

時の経つのも忘れ、散々遊びからかして、腹を空かせて家に帰って見ると、玄関で母が仁王立ちではないか!

「しまったぁ!」。

慌てて鍋を背中に隠しはしても、頭隠して尻隠さず。

「おでん煮ようと思ったら鍋があれせんがね。そんなもん持って、何しとったの!」と、母に鍋を取り上げられた。

「あっ、何してくれたの!この子は!鍋の底がボッコボコになってまって、おまけに穴が開いとるやないの!また鋳掛屋のオッチャンに、糞高っい金払って、穴を継いでまわなかんやないの!えっ…なに?なんやと~っ!!鍋の中に座って、橇遊びしとったやと!もう当分、あんたなんて晩御飯抜きや~っ!」。

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でもその晩、仕方なさそうな顔で母がよそってくれたおでんは、格別美味く、飛び切りの暖かだった。

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「昭和懐古奇譚~笑って泣いて、また笑う。これぞ人生、福笑い!」(2017.1新聞掲載)

「笑って泣いて、また笑う。これぞ人生、福笑い!」

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「1年の計は元旦にあり!だから今年は、何があっても家族全員、大いに笑って笑って笑うよ!さあ、皆で大きな声出して、今年一番の初笑いと行くよ!せ~の!アーッハッハッハァ~ッ!声が小さい!さあもう一度、声を合わせて!アーッハッハッハァ~ッ!ハイッ、明けましておめでとうございます」。

お節料理を前にしたまま、母がわが家の年頭所感を(のたも)うた。

確かぼくが、小学3年の元日の事。

その数日前の年末。

年越しの準備の買い出しで、名古屋の駅裏に母と出掛けた帰り道。

名鉄と近鉄を結ぶ半地下通路。狭くて天井が低く、一杯飲み屋の焼き魚の匂いや、床屋のシャンプーや整髪料の匂いが混じり、独特な臭いがわだかまっていた絡通路でのこと。

前方から人波に混じって、上半身素っ裸のような出で立ちで、裸の大将の山下清のように、大きなリュックを背負い、何やら大声で叫びながら、異様なオッチャンがやって来るではないか。

母は「すわ!一大事!」とばかりに、ぼくの手を引き通路の端に身を寄せた。

すると向こうから通路の中央をドッカドッカとのし歩きながら「アーッハッハッハァ~ッ!指圧の心は母心、押せば命の泉湧く」と、浪越徳次郎さんが満面の笑顔で、通り過ぎて行くではないか!

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思わず振り返る人やら、通路の端で身を縮める人々の、好奇な視線をものともせず。

どうやら母の年頭所感は、年末偶然すれ違った、あの「アーッハッハッハァ~ッ」オジサンの影響に違いない。

炬燵で丸くなり、父とテレビの漫才を見ながら笑いこけていると、台所仕事を終え母がやって来た。

「さあ、いつまでもテレビばっか見とらんと、皆で『福笑い』やるよ」と、炬燵の上にお福さんの顔の輪郭が描かれた、大きな台紙を広げる。

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そして手拭いでぼくは目隠しされ、目と鼻、それに眉やら口を描いた厚紙を手渡された。

「さあ、まずは眉毛からやよ!もうちょっと左、いや、もう少し上」と、父も母もあっちでもないこっちでもないと、大声で笑いながらいい加減な指示を飛ばすばかり。

「さあ、次は目。次は鼻」といった調子。

「なんやら、どっかの誰かさんみたいになって来たぞ!」と、すっかり父もノリノリ。

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「さあ、その調子その調子!最後に口を置いたら出来上がりや!」。

いつの間にか言い出しっぺの母よりも、父の方が楽しんでいた。

「ウッ、ゥゥゥ…」。

急に母が嗚咽を漏らした。

慌てて目隠しを外し、母の様子を窺う。

すると母は、ぼくが仕上げたお福さんの顔を見つめ、「し…静江先生」と囁いたではないか?

「静江先生?」とは、耳慣れない名前に父もぼくもただただ呆然。

母は湯呑を煽り、さめた茶を苦し気に呑み込んだ。

「誰なんや?静江先生って?」。

父が優しい口調で問うた。

母は着物の袖で涙を拭いながら、「ごめんね。正月早々から涙して。さっきお母ちゃんが、宣言したのに!今年は何があっても家族全員、大いに笑って笑って笑うよ!って。でもこのお福さんの、やさしそうな目元を見とったら、なんや子どもの頃に空襲で亡くなった、担任の静江先生の顔に見えてきてなぁ。それで堪え切れんくなって…。ウッ、ゥゥゥ…。しかしそれにしてもよう見ると、まあようこんなにも、おっかしな顔に仕上がったもんやわ。アーッハッハッハァ~ッ!」。

笑って泣いて、また笑う。

人生泣き笑い。

どんなに泣いても、最期に笑えば福笑い。

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「昭和懐古奇譚~本物の赤い長靴がクリスマス・ブーツ?」(2016.12新聞掲載)

「本物の赤い長靴がクリスマス・ブーツ?」

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「男のくせに、真っ赤しけの長靴履いて!恥ずかしないんか?」。

「お前、女みたいやなあ?」。

近所のやんちゃ坊主どもが、寄ってたかってぼくの足元の、()(さら)の赤い長靴を指さし、口々に(ののし)った。

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昭和半ばの年の瀬。

どこの家でも、大掃除やらお節作りで大わらわのさなか。

子どもにまで構っていては、とても年が越せぬと、子どもたちは邪魔者扱いされ、外で遊んで来るよう家から追い立てられたものだ。

北風吹きすさぶ、冷たい雨の降るそんな日。

子どもらの行く宛てと言えば、限られたものである。

お宮の広い軒先か駄菓子屋、それに廃工場や空き家と、相場は決まっていた。

ぼくもご多分に漏れず、両親から駄菓子を買う、臨時ボーナスの10円玉を受け取り、体よく追い出された口。

黄色い学童傘をクルクルと回し、駄菓子屋で買ったばかりの、虎の子の菓子袋をポケットに忍ばせ、お向かいのサッチャンが待つであろうお宮へと向かった。

たぶん小学2年の年の瀬だったろう。

ところがお宮の軒先にサッチャンの姿は見当たらず、代わりに1つ年上のやんちゃ坊主たちが待ち構えていたのだ。

さんざん口汚く罵られ、こらえ切れずに涙が零れる。

すると「ほれ見ろ!やっぱり女や!もう泣き出した!」と、やんちゃ坊主どもは、鬼の首でも取ったように囃し立てる。

もう悔しいやら情けないやら。

居ても立ってもおられず、ぼくは泣きながら一目散に家路を駆けた。

それを遡る5日前の、クリスマスの晩。

「ただいま~っ!」。

父はとんがり帽子を被り、ちょっぴり赤ら顔をしてご機嫌な様子で帰宅。

恐らく会社でクリスマスの真似事のような、一杯会でもあったのだろう。

「おっ、そやそやこれ。(とう)ちゃんからのクリスマスプレゼントや!」。

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そう言うと父は、押し入れから真っ新の赤い長靴を、卓袱台の上にちょっぴり誇らしげに広げた。

「長靴の中に、お前の好きなお菓子が、一杯詰め込んだるぞ!」と。

さっそく長靴を引っ繰り返す。

すると新聞紙で作った紙袋に、あられや煎餅が無造作に詰め込まれ、新聞紙の袋の上部がクルクルっと捻り上げられていた。

「これなあ、クリスマス・ブーツとか言うもんなんやと。社長さん()の娘さんが立派なのを(もう)っとってな、父ちゃんが見様見真似で(こしら)えてみたんや。バス停前の靴屋で見掛けた真っ赤な長靴()うてな。そして中身は、横丁の煎餅屋のオバちゃん()の量り売りやで、本物のクリスマス・ブーツのように、洒落たもんは入っとらんし、あんまり恰好ようのうてすまんな」と父。

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当時、クリスマス・ブーツなんて洒落たものは、駅前の洋菓子店のショーウィンドーで目にするか、TVで見掛ける程度の高嶺の花。

それを父なりに工夫して、ぼくを喜ばそうとしてくれたのだ。

それを「男のくせに、真っ赤しけの長靴履いて!恥ずかしないんか?」と(なじ)られたことが悔しく、なにより父の厚意まで無下に踏みにじられた気がしてならなかった。

だからそれ以来、ぼくは誰に笑われ詰られようと、雨の日になると父のクリスマス・ブーツを穴が開くまで履いたものだ。

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「昭和懐古奇譚~藁の家のオママゴト」(2016.11新聞掲載)

「藁の家のオママゴト」

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「さあ、あなた。ご飯ですよ!それともお風呂になさる?」。

なにも新婚まもない、ラヴラヴ夫婦の会話じゃない。

昭和も半ば。

それも冬枯れた、田んぼの真ん中での事。

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共に小学校に上がったばかりの、幼馴染みのタカちゃんが、ママゴト遊びの途中、こまっしゃくれてつぶやいたのだ。

それに対してぼくは、「じゃあ、ビールでも一本抜いてもらうとしようか?ねぇ、スィート・ハート!」。

当時のぼくは、スイート・ハートの意味も分からず、タカちゃんのシナリオ通りの台詞を、一言も(たが)えずそのまま口にしたものだ。

そうせねば途端に、タカちゃんは機嫌を損ねる。

間違って泣き出そうものなら、それこそ手に負えぬ。

だからぼくはいつだって、従順な執事のように振舞った。

ご近所のタカちゃん()は、周りでも評判のお金持ちでハイカラな(うち)

だからかタカちゃんの幼言葉の端々には、耳慣れぬカタカナ言葉が混じっていた。

しかしどんなにハイカラであろうが、所詮時代は今と比べようもないほど貧しき昭和の半ば。

しかも片田舎の事ゆえ、オママゴトの舞台は、田んぼの真ん中にポツンと取り残された、藁の家である。

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藁の家とは、大型犬の犬小屋くらいの大きさで、切妻造り風に藁を組み上げたもの。

ぼくらはこっそり、切り妻造りの側面から藁束を抜き取り、かまくらの内部のような空間を作り、秘密基地の隠れ家や、ママゴト遊びの家に見立てたもの。

「あら、嫌だ。こんなに残しちゃって。あなたお体の具合でもお悪いの?」とタカちゃん。

段ボール箱を引っ繰り返しただけの、飯台の上に並んだママゴトセットを見つめ溜息を落とす。

とは言え、皿を真似た枯葉の上には泥団子と、草のサラダである。

いずれも端から食べられっこない代物。

「やっぱり、なぁ~んかこんなんじゃ、ムードが出ないわよねぇ。そうだ!明日は、私がビスケットに蒸かしイモと、紅茶を魔法瓶に入れて持ってくるから、ミノ君は玄関に表札を付けといてね」と、タカちゃんは一人ごちた。

翌日。

藁の家の入り口に、かまぼこ板に平仮名で「おかだ」と書いた表札を取り付けていると、大きな荷物を持ったタカちゃんが現れた。

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「何だかその表札、センスないわねぇ」と、タカちゃん。

「センス=扇子?」と、いつものように言葉の意味は不明。

しかしながら、決して褒められたんじゃない事は、理解でき思わず口ごもった。

すると何事も無かったかのように、タカちゃんのシナリオ通りのオママゴトが始まる。

初めて目にした魔法瓶とやらから、陶器のティーカップに紅茶が注がれた。

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初めて嗅いだ香りと、そのやさしい甘さと暖かさに心が振るえる。

「こうやってお紅茶に、ビスケットをちょっと浸して食べると美味しいのよ、あ・な・た」とタカちゃん。

これがまた何とも言えぬ魔法の美味しさだった。

それからわが家に紅茶や魔法瓶が登場したのは、2~3年も後のこと。

でも母が恐る恐る入れてくれた、ちょっと色の濃いティーバッグの紅茶の方が、やっぱりタカちゃんのハイカラな紅茶より、一味も二味も美味しかった。

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「昭和懐古奇譚~日の丸羊羹?って風船羊羹?」(2016.10新聞掲載)

「日の丸羊羹?って風船羊羹?」

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「おおっ、こりゃ懐かしい!日の丸羊羹やないかあ!」。

父はぼくが遠足に持って行く、お菓子の袋の中を覗き込んだ。

そして、ゴム風船の中に注入された真ん丸の羊羹を取り出し、愛おしそうに()めつ(すが)めつ眺めたものだ。

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しかしぼくにしてみたら、何で風船羊羹のことを、父は日の丸羊羹と呼ぶのか、不思議でならなかった。

「これが慰問袋に入って、戦地に届くと嬉しいてなぁ。せやでなんや勿体のうて、大事に最後まで食べやんと、取っといたもんやさ」。

直径3cmほどの真ん丸なゴム風船の中に、羊羹が注入され口が輪ゴムで括られた、ヨーヨー風船の小型版といった感じの一口羊羹。

子どものぼくらは「風船羊羹」と呼んだものだ。

ゴム風船に爪楊枝などの突起物で、ツンと一刺しすると、風船が弾け羊羹がツルッと飛び出す仕掛けである。

思い返せばそれによく似た、ゴム風船入りのアイスクリームも人気だった。

茹で卵くらいの大きさで、風船の先っちょに飛び出た、乳首のような部分を歯で噛み切り、乳飲み子のように溶け出すアイスクリームをチュウチュウと吸ったものだ。

そんな風船羊羹を日の丸羊羹と呼んだ、在りし日の父の記憶が蘇り、同時に風船羊羹が無性に食べて見たくなって、調べたことがあった。

すると風船羊羹の歴史には、子供騙しな駄菓子の羊羹と、決して侮る事など出来ぬ昭和の誕生秘話が隠されていたのだ。

昭和12年。

盧溝橋での衝突から、日本はのっびきならぬ戦争の渦中へと、自ら突き進んで行った。

その後父も、わずか一銭五厘の赤紙一枚で、陸軍歩兵部隊に召集され、中国戦線の最前線へと送り出されたのだ。

日本が戦争の泥沼に足を踏み入れた昭和12年。

軍から簡単に持ち運べ、日持ちのする羊羹を兵食とし、慰問袋に入れ前線に送りたいと、福島県二本松市の玉嶋屋に相談が持ち込まれる。

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そこで当時既に商品化されていた、風船入りアイスクリームのアイスボンボンを参考に、1カ月日持ちする羊羹「日の丸羊羹」が製造されたそうだ。

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戦時中はもっぱら「日の丸羊羹」の商品名のまま。

敗戦後現在の「玉羊羹」の商品名に改名され、現在も製造され続けている。

やがて全国でも類似した風船羊羹が作られ、昭和半ばの駄菓子屋にも並んだようだ。

「お父ちゃん、日の丸羊羹、一個食べてもいいよ」。

風船羊羹を懐かし気に手にした父が、嬉しそうな顔を見せた。

「ええんや、こうして久しぶりに眺められただけで」。

父はそう言って、風船羊羹を遠足用の菓子袋に仕舞い込んだ。

戦地の最前線で命を的に曝け出し、四六時中気の休まることも無い極限状態を見舞った日の丸羊羹の甘さ。

それは明日をも知れぬ兵士たちにとって、故郷を偲んで味わう、僅かな平和の一瞬だったのかも知れぬ。

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父が日の丸羊羹に手を付けなかったのは、もしかすると戦地に散った戦友の笑顔を思い出し、辛くなるからだったのだろうか?

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「昭和懐古奇譚~飲めや歌えの昭和の運動会」(2016.9新聞掲載)

「飲めや歌えの昭和の運動会」

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♪小皿叩いて チャンチキおけさ♪

茣蓙(ござ)の上には、両親と祖母、母の弟である兄弟一やんちゃな辰おじさん、それになぜかお隣のご隠居までもが車座になり、真昼間っからもう飲めや歌えの大騒ぎ。

ぼくは体操服のまま、母の隣にチョコンと座し、中央におっびろげられた三段重の弁当箱から、お稲荷さんと卵焼きを手に取り、大人たちの楽し気な赤ら顔を、ぼんやり眺めていた。

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「続いては、ご父兄の皆さんによる、飴玉喰い競争を始めます!ご父兄ならばどなたでも飛び入り大歓迎!我こそはと言うご父兄は、選手入場口へとお集まりください」。

運動場には陸上トラックが、石灰で見事に楕円に描かれ、その四隅に建てられた丸太の上の、トランペットスピーカーから、歪んだ声の案内放送が流れた。

「待ってましたあ!いよいよわしの出番や!一丁、やったるかーっ!」。

そう言って、辰おじさんが赤ら顔に捩じり鉢巻き、ニッカーボッカーのズボンに、黄ばんだランニングシャツ姿でやおら立ち上がった。

「待ってましたあ、辰っちゃん!ええとこ見せて来いや!」と、ヤンヤの大声援。

辰おじさんは、地下足袋を履き千鳥足で入場口へと向かう。

すると隣の家族も、そのまた隣の家族からも、示し合わせたように赤ら顔のオッチャンが、これまた千鳥足で、家族の大声援に見送られ集合場所へと向かっていった。

「なんや、一昔前の、出征兵士の見送りみたいやなあ」。

婆ちゃんがボソッとつぶやいた。

「それではお昼休み恒例、父兄によります飴玉喰い競を始めます!」。

教頭先生の声が、トランペットスピーカーから響き渡った。

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「向こうのテーブルに載った、メリケン粉の(たらい)の中に飴玉が隠れておりますので、両手を使わず口だけで探し当て、飴玉を咥えたら一目散にゴールを目指していただきます!それでは皆さん、よろしいか?では、父兄の飴玉喰い競争、用~意っスタート!」。

パーン。

教頭先生がかんしゃく玉のピストルを撃った!

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陸上トラックの周りに陣取った、生徒の大家族応援団。

やおらヤジや怒号に声援の入り混じった、大歓声が響き渡った。

「辰、それ行け~っ!」。

いつの間にか母は仁王立ちで、三段重を包んでいた唐草模様の風呂敷を、めったやたらと振り回し、弟を叱咤激励しているではないか!

すると隣の家族も同様に、赤ら顔したお爺ちゃんが立ち上がり、やおら皿を片手に箸を(ばち)代わりに、托鉢僧のように念仏を大声で唱え始めた。

周りからはヤンヤの喝采。

いよいよゴールの瞬間だ。

しかし、出場選手の誰もが、真っ白けっけの御公家顔で、誰が誰やらさっぱりわからぬ始末。

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1位でゴールした、ニッカーボッカ姿の選手目掛け、「おおっ、辰が1着や!」と母が走り出した。

そして歓喜の雄叫びを上げ乍ら、真っ白けっけ顔の辰おじさんの顔と言わず頭と言わず、体中を(はた)きからかす。

すると後ろから、「おお~い、姉ちゃん。何しとるんだ?」と、これまた真っ白けっけ顔したニッカーボッカのオッチャン。

「あれっ、お前が辰?ええっ、ってことは?…」。

昭和半ばの運動会は、子どもたちだけのものではなかった。

老若男女が集い、そして食べたり飲んだり、なんとも長閑(のどか)でおおらかなものであった。

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