「三河wonder紀行⑬」

『メタボ親父とアイビールツク』

2007.冬 季刊誌掲載

秋の七草。

萩、薄(すすき)、葛、撫子、女郎花、藤袴、桔梗。

粥に入れる春の七草とは異なり、秋の七草は花の可憐さを愛でるものとか。

でも何で、秋の七草は食べられないものばかりなんだろう。

刈谷駅から線路に沿って西へ。

そうかぁ!

秋にわざわざ七草なんてものを食べなくったって、収穫の秋に相応しい、旬の食材がテンコ盛りだからかぁ。

秋刀魚に秋茄子、それに松茸や栗に銀杏と。

そいつをあてに人肌の熱燗をキュ~ッなんて!

まだ真っ昼間だから、居酒屋のシャッターも半分降りたままだ。

しかしついつい今夜の晩酌に、想いは馳せる一方。

気を取り直して歩きだした途端。

「あれれっ?」。

あの人が履いてるスニーカーって、本物のVANのブレーバーじゃないのかなぁ?

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でもそれにしたって、もしそうだったら30年近く前のものだし、とっくにボロボロになってるだろし・・・。

それとも30年も履かずに大切にとってあったんだろうか?

んなこたぁないだろうから、VAN擬きのフェイクってとこか?

いやいやそんなこたぁなさそう!

金メッキの金具といい、輝ける60’s後半を一世風靡したVANに相違ない気がする。

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歩道の脇から少年?が、年季の入った笑顔を振りまきやって来た。

「本物のVANだよ、これっ!でも正解はラダー。一番最初は単にスニーカーと呼ばれ、やがてブレーバーへ。そして最後はラダーと商品名が変わっていったんだって。まぁ、店の中に本物があるから見せたげるわ」。

刈谷市桜町のメンズショップ「KENNEDY」、二代目オーナーの青山善一さん(47)は、雑然とした店内へと導いた。

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学生時代VANなんて高嶺の花。

せいぜいバーゲンを待ち侘びたもの。

そして黒山の人だかりを掻き分け、やっとの思いでコッパンとボタンダウンを引っ掴んだものだ。

だからパンツもシャツもコーディネートなんて望めぬ、バラッパラでトンチンカンな最悪。

コッパンだと思って掴んだものが、マドラス柄のバミューダーパンツだったり、ペイズリー柄のシャツだったり・・・。

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「元々紳士服の仕立て職人だった父が、昭和39年にVAN SHOPに鞍替えしたのが始まり。でもVANが潰れてからは、アメカジに転向」。

チョイ悪系のアメカジでキメた善一さんが笑う。

「VANの全盛時代に親父がトラック一杯分仕入れた商品も、今となってはお宝だわ。ネットで探し当て、団塊の世代の人たちがスタジャンやジャケットを買いに来るんだって。みんな『昔はよう手が出んかった』って。すっかり肉体的は老いさらばえたって、心は今でも夢から覚めぬ万年少年ばっかりだわ。男なんていくつになったって」。

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どうやらご自分の事はすっかり棚上げのご様子。

東京オリンピック開催に、東海道新幹線の開通。

東京銀座のみゆき通りは、石津謙介が生んだVANのアイビールックを着こなす若者で溢れ返り、一大社会現象を巻き起こした昭和39年。

時を同じくして生まれた、若者のバイブル平凡パンチ。

創刊号の表紙には、大橋歩のイラストでオープンカーを取り囲むアイビーの若者たちが描かれている。

戦後19年にして訪れた「男のお洒落」時代の幕開けだった。

「じゃあぼくもこのジャケットでも羽織って、刈谷の御幸町でも漫ろ歩いて『みゆき族』でも気取って見るかぁ!」。

チャコールグレーのジャケツトをハンガーラックから抜き取り、袖を通して見たものの!

「あいたたたっ!」。

何とか片腕は袖を通ったものの、反対側の腕が入りきらず、朝礼の「前へならへ」の逆反り状態。

「まぁ30年前だったら、今ほどメタボじゃなかったってことだわさ!」。

善一さんが他人ごとのように笑い転げた。

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「三河wonder紀行⑫」

『夢?の揺りかご』

2007.秋 季刊誌掲載

辺り一面、青々とした稲田が続く。

ギラギラと容赦なく照り付ける夏の太陽を、稲田にたっぷりと満ちた水面が弾き返す。

汗と土埃に塗れて黄ばんだランニングシャツ。

継ぎ当てだらけの半ズボン姿。

磨り減ってペラッペラになったビーチサンダルを突っ掛け、そこらじゅうにペタペタッと薄っぺらな音を撒き散らしたものだ。

昭和半ば生まれのぼくは、毬栗頭を麦藁帽子で被い、首から斜めに竹の虫篭をぶら下げ、タモを片手に日が暮れるまで駆けずり回ったものだ。

ところが目の前に広がる光景は、そんな記憶の中の風景とは異なる。

夏休みの真っただ中だというのに、学習塾の入り口に屯する子どもらの姿。

ぼくが子どもの頃なんて、夏休みの宿題をいつまで放ったらかしにしてあったかが、腕白どもの勲章のようなものだったのに・・・。

日焼けの黒さや、生け捕りにした昆虫たちの数、カブトやクワガタの大きさがモノを言ったものだ。

ここは碧南市寄りの安城市東端町。

安城と言えば、ぼくの小学校の教科書には「日本のデンマーク」なんて書かれていたもの。

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確か社会見学で連れて来てもらった記憶が。

その名の通り、見渡す限り一面が田んぼだらけだったはず!

と言ったところで、本物のデンマークは見たことも無いのだが・・・。

でも今じゃあそんな面影すらすっかりなくなり、アチコチに街が伸びて大きな工場が立ち並ぶ。

じゃあもう小学校の教科書には、「日本のデンマーク」っていう、あのフレーズも消え果たのかなぁ。

この辺りに昔懐かしい乳母車屋があると聞き、あっちをウロウロ、こっちをウロウロ。

「あっ、ここだ、ここ!」。

ガラス戸越しに乳母車を発見。

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あんな立派な乳母車に、一度は乗せてもらいたかったなぁ・・・。

ぼくが子どもの頃なんて、あれほど立派な籐製の乳母車なんて、大きなお百姓さん家とかお金持ちの家でしか見かけなかったものだ。

「まぁ、中に入ってゆっくり見て行きん」。

店の奥から女将さんが顔を覗かせた。

インテリア磯村の二代目女将、磯村芳子さんが親しみのある笑顔で手招いてくれた。

「昔は嫁さんの実家から嫁ぎ先に、お宮参りの時に贈られたじゃんねぇ」。

乳母車の両脇には、浮彫りのように、嫁ぎ先の家紋が編み上げられ初孫の誕生を寿いだ。

「これまた立派!枕と日除けの幌までついちゃって」。

写真は参考

「これは完成までに3週間ほどはかかるらぁ」。

店の奥の作業場から、二代目乳母車職人の磯村義勝さんが姿を見せた。

「結婚して子どもが出来た頃は、どんどんどんどん売れて、すぐに在庫がなくなってまうもんで、奥に隠しとったほどじゃんねぇ」。

「だから家の二人の息子らも、結局乳母車に乗せんじゃって、背に負んで育てただもん」。

妻は懐かし気に夫を見つめた。

まあしかし、豪華な乳母車に乗せてはもらえなかったが、ちゃんと立派に育ったのだから、何はともあれ両親に感謝感謝。

そしてやがて最後は、煌びやかな車に乗せられて、焼き場へと向かう運命か!

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「三河wonder紀行⑪」

『78歳の万年少年』

2007.夏 季刊誌掲載

いつもより早い春の訪れを、三河湾から寄せ来る柔らかな風に感じた。

海沿いに竹島を眺めながら。

すると防波堤の上で観光客のオッチャンが、両手で竿を海に向かって投げる仕草を、ひたすら繰り返しているではないか!

あのオッチャンも釣り道具を携えてくればよかったと、春の訪れを体全体で感じてるんだろうなぁ。

そんな仕草に、オッチャンの心の声まで聞こえて来るようだ。

大昔の人気テレビ番組「ジェスチャー(NHKで1953~1968年まで放送)」の柳家金語楼と水の江滝子でもあるまいに。

この時点で「ああっ、懐かしい!」とうかつにも思わず頷いてしまったあなたは、紛れも無く昭和半ばの立派な生き証人のお一人に違いない。

ブゥウウ~ン ブゥウウウ~ン

時ならぬ爆音を撒き散らしながら、さざ波に爆ぜる様な小さなボートが、ぼくの視界の先を右から左へと跳ね飛んで行った。

あれってまったくもって、完全にスピード違反じゃないのか?

いや待て、たかだかラジコンボートごときを、海上保安庁が取り締まるはずもあるまい。

写真は参考

すると再びブゥウウウ~ン。

今度はさっきとは反対方向から、ぼくの視界にフレームイン。

どこで誰が操縦してるんだ?

それらしいマニアックな人影も見当たらない。

「それにしたって、とんでもないスピードじゃないか?」。

ぼくの独り言に「まぁだいたい60~70kmくらいは出とるだぁ」と、堤防に腰掛けていた老人が振り返り、親し気に笑いかけて来た。

どうやら日向ぼっこに高じていたわけでもなさそうだ。

すると再びブゥウウウ~ン。

あれれっ!

堤防に腰掛けている老人は、太腿辺りにラジオのような機械を抱え、レバーをしきりに操っているではないか!

するとまるで老人の仕草に呼応するかのように、爆走ボートが我が物顔で湾内を飛び跳ねているではないか!

「ええっ、まさかぁ!」。

「ラジコンは愉しいだぁ!」。

老人はまるで少年のように嬉々として笑った。

蒲郡市竹島町、ちどりや模型店の酒井正敏さん(78)だ。

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酒井さんのスピードボートのラジコン歴は、昭和30年にまで遡る。

「あんな頃は、まんだラジコン屋なんて豊橋と岡崎にしかあれへんかっただぁ。だもんでしかたなしに、サラリーマン勤めしながら自分で模型屋やりかけただわさ。ほんだで店に並べとる商品なんて、みーんな自分が欲しかったものばっからぁ」。

ラジコンのスロットルを戻しながら何とも愉快そう。

「ヘリに比べたらボートなんて簡単だわ。ヘリは上下左右に操らなかんけど、ボートのレースは片っ方にしか舵切らんでもええだで」。

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やっぱり伊達や酔狂で、半世紀以上もラジコン遊びに呆けて来ただけじゃない。

天下一の万年少年だったから達観できた、神憑りの離れ業だ。

「でもよくよく考えて見ると、それって・・・。神憑りの離れ業とか、そんな崇高なモノじゃなくって、言い換えればただのズボラな操縦で万事OKってことだよなぁ」。

ぼくのつぶやきが聞こえたのか!

「ま~ったくそうだわ!だもんで俺みたいに年喰ったって、ボートならいまだにチョチョイのチョイで操れるだぁ」。

万年少年が大笑い。

天晴れ天晴れ!

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「三河wonder紀行⑩」

『こいつが極上!三河の明石焼きだぁ!』

2007.春 季刊誌掲載

鈍色の空。

冬枯れの田んぼ。

吹き抜ける北風に向かって駆け出す少年。

地面すれすれをのた打ち回っていた奴凧が、北風を孕み見る見る間に天空へと舞い上がる。

まるでその手応えを感じたように少年は、歩を止め身を翻し巧みに凧糸を操った。

半ズボンから覗く膝頭は真っ白。

穴ぼこの開いたチンチクリンのセーターには、冬の腕白小僧の勲章「盗人萩(ぬすびとはぎ)」の茶色い種子がワンサカ。

袖口にはコッペコペに乾き切った鼻水模様。

昭和半ばの正月休みといえば、あちらこちらでそんな少年たちを見かけたものだ。

刈谷市井ヶ谷町の喫茶店の窓から、かつては一面に広がっていたであろう在りし日の田んぼと、そこを我が物顔で駆け回ったであろう、昭和の腕白小僧たちに心を馳せながら独り言をつぶやいた。

すると「わしもその腕白小僧の慣れの果てだて」。

喫茶田園のマスター、清水和治さん(56)がカウンター越しに笑った。

写真は参考

「あの頃はみんなそんなもんだったって!正月だろうが真夏だろうが。半ズボン一つで朝から晩まで駆けずり回ったもんだて」。

腕白小僧の大先輩とすっかり意気投合。

「カッチン玉にペッシャン、缶蹴りにケンケンパ!まあかん!やりたくなって来てまうって。あんたとは何だか話も合うで、まあこれでも食べてきゃあ」。

そう言ったかと思った瞬間、和治さんは銅板のたこ焼きマシンの上に、手前が低くなった台をひっくり返して合わせ、たこ焼きマシンごとでんぐり返し。

マシンをそっと持ち上げれば、台の上には8つの明石焼きがプルルン。

鰹・昆布・醤油・味醂・酒に紅生姜の隠し味。

出し汁に浸して「いただきま~す!」。

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ハフハフを頬張れば言葉にならないほどの旨さが広がる!

蛸も親指の第一関節ほどあろうかと言う、大胆過ぎるブツ切り。

卵色したフワフワの皮の中からプリプリの蛸が、ほっかほかの湯気と共に姿を現した。

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「見栄張ってあんたの蛸だけ、特別大きくしたんじゃないでね!」。

喫茶店なのに明石焼き?

しかもお食事らしきメニューは、たこ焼きシリーズだけ。

シンプルなたこ焼きは400円。

明石焼きとミックス焼きが500円。

「このミックス焼きは、チーズ・ベーコン・コーンを入れたもんで、まあ邪道と言えば邪道。まるでわしの人生そのまんまだて」。

和治さんは次男として豊田市で誕生。

大阪の大学へと進学した。

しかし2年後、警察の機動隊員であった兄が殉職。

「すきなことやらせたるで」と言う父の言葉を鵜吞みに帰郷。

翌年、高校時代に見初めた一つ年下の美千代さん(55)と所帯を構えた。

「何にも知らんと騙されて、もう35年だもん」。

カウンターの中で妻が苦笑。

「オヤジが『豊田の実家の辺りだと、みんなに迷惑がかかるで』って、それで愛知教育大学が出来たもんでここへやって来たんだわ」。

一階がビリヤードと喫茶、二階が雀荘。

親許を離れた学生たちで大いに賑わった。

「それから12~13年してからだて。見よう見真似でたこ焼き焼くようになったんわ。なぁ、母さん」。

和治さんは妻を振り返った。

「それが三河の明石焼きの始まり!」。

妻が慣れた手付きで銅板をひっくり返した。

「元々明石では蛸がようけ獲れたもんで、玉子焼きに包んで焼いたのが明石焼きの始まりらしいわ。だで卵の量が命だって」。

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和治さんのモットーは、“他人に厳しく自分に甘く”とか。

「なぁ~んだ、ぼくと一緒じゃん!」。

「ほおかぁ、あんたもかぁ」。

すっかりまたしても意気投合。

が、しかし!

あたかも“ああぁ~っ、何たる嘆かわしさ”と、そんな奥方様の心の声が聞こえた気がしてならなかった。

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「三河wonder紀行⑨」

『落ち鮎たちの宿命』

2006.冬 季刊誌掲載

くりがら渓谷から山間を下る男川の清流。

川面へと迫り出す木の葉も、心なしかその色を染め、本格的な秋の訪れを待ち侘び、その身を焦がすようだ。

水面に浮かぶ影二つ、風と戯る秋茜。

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森に宿る生きとし生けるものすべてが、息を凝らすように儚い秋を惜しみ、自らの短い命と引き換えに、やがて訪れる春に期し、新たな生命を大地や水中へと託す。

額田の森が誕生してから今日まで、連綿と繰り返される森羅万象の逞しき営みだ。

男川の簗場。

簗で堰き止められ、なすすべもなく簾の上で跳ねる、鰺かと見紛うほど大きな落ち鮎。

鮎もここで捕まってはなるものかと、尾を竹の簾に叩きつけながら、簗場から決死の脱出を試みる。

そんな鮎を子どもたちが素手で追い駆ける。

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見ている者には滑稽なものだが、その実物凄くシリアスなドラマが、生と死の淵を境に繰り広げられていた。

お腹の子を何としても守り抜こうとする、母鮎の姿が労しい。

「やったぁ!」。

鮎を両手で見事掴み上げた、男の子の奇声がこだました。

「だめよ!そんなに強くいつまでも握ってちゃ!」。

まるで背後から、遠き日の鬼担任みたいに容赦ない声が飛ぶ。

悪戯を咎められたかのように、ついついぼくまでピクリッと首をすくめてしまった。

「天然の落ち鮎はみんな、お腹ん中いっぱいに卵を宿してるんだから、力強く握っちゃったら卵が潰れちゃうじゃない!」。

岡崎市淡渕町の男川やな、女将の梅村成美さん(59)は、立たされ坊主のように思わず首をすくめたぼくを前に、そう言い放った。

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「これで黒板消しでも持たせたら、昔のヒステリックな担任そのものだなぁ」。

思わず心の中で毒づいてしまった。

「あっ、ごめんごめん。ついつい昔の癖で、パンパンッと言っちゃって。だってさあ、その情けない姿が、まるで昔の出来損ないの教え子みたいだったから」。

成美さんがやっと親し気に笑ってくれた。

「ってことは、元は先生だったってこと?」。

「そうそう。20歳の4月から、44歳でこの簗を始めるまではね」。

岡崎市内の小学校4校で、教鞭を揮ったそうだ。

「さあ、召し上がれ!」。

はち切れんばかりのお腹に無数の卵を抱いた、落ち鮎の塩焼きが差し出された。

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「はふはふはふ・・・。うっめ~っ!若鮎とはこれまた一味違って別物みたい」。

ぼくはひたすら美味なる落ち鮎に夢中でかぶりついた。

「3月から4月の若葉の頃まで、上り鮎が男川を遡上し、川上で雌鮎と恋をして、子を成し産卵のため川を下って来るのよ。それが落ち鮎」。

再び落ち鮎を簗場で待ち受けていると、痩せっぽちの体が傷だらけでボロボロになった鮎が簾の上に。

「それはねぇ、雄の落ち鮎よ!」。

ぼくの驚きを成美さんが笑い飛ばした。

「雄の宿命よねぇ。精魂尽き果てて体もボロボロ。それでも必死で雌のお腹に子を託し、この世に別れを告げてゆくんだから」。

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何とも重すぎるお言葉。

紛れも無く雄そのものであるぼくは、肩を落とし簗場でただただ項垂れた。

そして簾の上で動かなくなった雄の落ち鮎を、男川の水の中へ。

すると川の流れに身を任せ、ボロボロの体で微かに尾鰭を振り、静かに下り始めた。

「雄鮎よ、お疲れさまでした!」。

天国はこの川の先に、きっとある。

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「三河wonder紀行⑧」

『香嵐渓の〝かえで路″』

2006.秋 季刊誌掲載

梅雨の恋しい季節は、まるで束の間の逢瀬を弄ぶように、何とも思わせ振り。

突然雲の幕間がギラギラと照りかえり、ラメを全身にまとったマツケンサンバの一団が現れ出でるようだ。

そんな梅雨の中休み。

夏真っ盛りの陽射しが、ベネチアングラスのようにキラキラと透き通る足助川の川面へと、惜しげも無く降り注ぐ。

瀬音が山間から涼を運べば、川面に夏の青葉の影も踊る。

森も木も昆虫も、そしてぼくら人間だって、みんなみんな夏が恋しくてたまらないんだ。

君はサンダルを片手に、裸足のまま川縁の石を渡り、青春映画さながらにおどけて振り向いた。

川面は太陽を照り返す、まるでレフ板のよう。

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君が逆光の渦の中へと溶け入った。

カアー カァー カアー

間の抜けたカラスの鳴き声で、淡い想いの幻は粉々に砕け散ってしまった。

「なんてこったぁ~」。

しばし古い街並みを行くと、鄙の菓子屋を発見。

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「この『かえで路』は、死んだ亭主が昭和26年に考案しただよ。素朴な風味の白味噌仕立てのカステラで、芥子の実を振って。だもんできっと懐かしい味がするだよ」。

ショーウィンドーの奥から、豊田市足助町の加東家、初代女将の加藤綾子さん(85)が親し気に笑った。

「家のお婆ちゃんとこの『かえで路』は、今やすっかり足助の名物だもんね」。

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傍らから二代目女将の美子さん(54)が顔を覗かせた。

「あんたよかったら、こっちの座敷で食べていきん。お茶入れたげるで」。

店舗の隣には、漆喰壁に遮られた立派なお座敷と、中庭には飛び石が。

「あれっ?何だろう?あの中途半端な床柱は?」。

「江戸時代ここは造り酒屋で、加茂一揆の時に農民に押し入られ、床柱を切り取られたらしいじゃんねぇ」と、綾子さん。

「酒樽全部割られて、庭中酒浸しだったって」と、美子さんが補足。

「実は戦後になってから、ここを買っただけど」。

もはや切り取られたなどと言う、生易しいものではない。

鉈か斧で捥ぎ取られたような凄まじさだ。

それにしてもこの『かえで路』は滅茶うまの絶品!

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それほど甘党ではないぼくですら、1本丸ごと恵方巻のように丸かじりできるほど。

香嵐渓の紅葉を愛で、お抹茶を啜りながらいただいたら、この世の物とは想えぬほど至福の時間が味わえるんだろうなぁ。

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「三河wonder紀行⑦」

『いちめんのなのはな』

2006.夏 季刊誌掲載

「♪菜の花畑に 入日薄れ~♪ ハッハッハァ~クション」。

幼き頃の唱歌を口ずさんだまではいいものの、たちまち花粉症の襲来に喘ぎまくる始末。

どうやらこれほど麗らかな春の日は、花粉たちにとっても我が世の春真っ盛りで絶好調のようだ。

「とんでもなく立派な梁だぁ!」。

まるでこのところ流行となった、耐震性とやらでも確かめるかのように、腕組みをしたまま民家の吹き抜けを見上げた。

「この『あぶら館』は、ぼくが育った家なんです。創業100年の節目に移築して改装し、家の製品や油に関する資料を展示しているんです」。

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明治35年創業、岡崎市福岡町の太田油脂(株)。

三代目の取締役社長太田進造さん(69)は、昭和12年頃に導入されたという、鋳物製の頑丈な搾油機(さくゆき)を指差した。

「もともと愛知県は、国内でも指折りの菜種産地でしたから。ここら一帯も菜の花畑が、ず~っと広がっててねぇ」。

地元の菜種を仕入れ、篩(ふるい)にかけ鞘や小石と土を落とし、大きな煎り釜で10分ほど炒って、件の搾油機にかけて油を搾り取った。

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1台1日フル操業で200kg。

現在に比べ圧搾率が悪く、半分ほどの油しか搾り取れなかったとか。

最盛期の昭和25年から30年代にかけ、愛知県内で200社を数えた搾油会社も今やわずかに3~4社。

館内を隈なく見学していると、改めて気付くことも多い。

油の絞り粕を肥料とするリサイクルなど。

植物油の製造は元より、園芸用肥料からカットわかめの製造まで。

最近ではオイリィーシーズニングと呼ばれる、調味機能が付加された次世代油も手掛ける。

「ああっ!」。

床の間を模した小さな座敷には、昔の行燈と御燈明油。

写真は参考

「宮中の神嘉殿(しんかでん)、皇霊殿(こうれいでん)、賢所(かしこどころ)の三殿で、古来より灯し続けられる御燈明が、戦後の物資不足に難渋されていると伺い、昭和24年から宮内庁にお納めするようになって、その後伊勢神宮へも」。

宮内庁、伊勢神宮、奈良東大寺の御用達を務めるのは全国唯一ここだけ。

♪いちめんのなのはな いちめんのなのはな・・・♪

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山村暮鳥の「風景~純銀もざいく」。

ところで皆々様は、ご存知でしょうか?

♪一面のなのはな♪って、いったい全部で何回歌われているか?

そう、数えきれないくらいなんですよねぇ。

だって一面に菜の花畑が広がってたら、とても数えきれっこありませんものねぇ。

そんなの数えてたら、とっくの昔に春が行き過ぎちゃいますよねぇ。

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「三河wonder紀行⑥」

『雲のお母さんと鈴の音』

2006.春 季刊誌掲載

「ここらぁ八ツ面山(やつおもてやま)じゃあ、こんな千枚めくりの白雲母(はくうんぼ)がゴロゴロ転がっとっただぁ」。

陽だまりの作業場。

左手の掌で瓦粘土を丸め、右手の親指を押し込むと、あっと言う間に茶碗型から壺型へ。

写真は参考

器用な手捻りを止め、男は振り向いた。

愛知県西尾市八ツ面町で雲母(きらら)鈴を作り続ける松田克己さん(64)だ。

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「こうやって指先でちょっと触るだけで、直ぐにめくれるだで」。

松田さんは長さ25cm、厚さ5cm程の、巨大な白雲母を弄んだ。

写真は参考

「しかしこんだけ大っきいと、千枚以上はめくれちゃうんじゃ?」と、つい大きく身を乗り出し、あわや座卓の上のコーヒーがカップの中でユ~ラユラ。

鈴の表面のラメのように光る雲母もキ~ラキラ。

「ちょっとぼくもめくって見てもいいですか?」。

そう言うよりも早く、白雲母の塊を手にした。

「ぼく、子どもの頃から、瘡蓋をめくるのが大好きだったんですよ」。

夕暮れの田んぼ道。

汗で黄ばんだランニングシャツに、継ぎ接ぎだらけの半ズボン。

野球小僧たちの膝や肘には、赤チンが真っ黒く変色した瘡蓋のエンブレム。

昭和半ばを駆け抜けたぼくらには、瘡蓋の勲章が腕白坊主の証だった。

それにしても今になって思い返せば、瘡蓋めくりなんて趣味も悪すぎ。

しかも生乾きの時にめくろうものなら、また新たに血が滲み、やがて新しい瘡蓋が傷口を覆う。

そんな事を愚かにも繰り返したものだ。

「本当にキラキラしてるわぁ!」。

めくり取った瘡蓋ならぬ雲母を、窓越しに傾き始めた冬の西日に翳し、矯めつ眇めつ眺めた。

「なんだかガラスでもないし、金属でもない不思議な光!薄っぺらな雲母ながら、太陽の光を呑み込み、溜め込んだ光を集めて、もう一度キラキラと光を放っているようだ」。

もしかすると古代人も、今ぼくが感じたように雲母を眺めていたのかも知れない。

雲の隙間からポッカリ顔を出す太陽と、少しだけ乳白色の雲母越しに見るお日様が似ていて。

だからお日様をすっぽり包み込む雲が、慈愛に満ちた母のように見えたのだろうか。

「あっ痛たっ!」。

暇乞いをして座を立とうとした瞬間。

座卓の天板に膝っ小僧を思いっきり打ち付けてしまった。

カランコローン。

日本一涼やかと言われる音色の雲母鈴が、座卓の上を転がった!

写真は参考

もしかしたら、いま座卓で嫌っというほど打ち付けた膝に傷が出来、大好きだった瘡蓋が出来るやも!

雲母鈴の涼やかな音色のご利益か!

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「三河wonder紀行⑤」

『馬耳東風でストレスフリー!』

2005.冬 季刊誌掲載

「『天高く馬肥ゆ』『秋茄子、嫁に食わすな』ってかあ!」。

抜ける様な青空を見上げ、夏の間に調子をこいて飲み過ぎたビールの祟りか、ポッコリ迫り出たお腹をポ~ンと一叩き。

その小気味いい音に、馬場をゆっくりと巡る馬も慌てて「ヒヒ~ン」といなないた。

抜ける様な秋晴れの下、悠然と馬場を巡るサラブレツドやアングロ・アラブ種の馬たちを眺めていると、長閑な風情が満喫できる。

がしかし、そんな長閑さを嘲笑うかのように、引っ切り無しな車のエンジン音が背後で行き交う。

それもその筈、ここは泣く子も黙る交通量の多い国道248号線。

まるで荒れ狂う大河の流れのように、猛スピードで車が行き交い、静かな田園風景の残る額田郡幸田町を南北に貫く。

今回ぼくが訪ねたアオイ乗馬クラブは、けたたましくノイジーな国道脇に、まるでポッカリ口を空けたオアシスのようだ。

どことなく漂うノスタルジックでウッディーなクラブハウス。

写真は参考

すぐ隣には、11頭の馬たちが一列に並ぶ厩舎が続く。

オーナーの花井さんご夫婦に伴われ、厩の中へと。

愛くるしい真っ黒な20の瞳がぼくに向けられた。

「ちょっと待てよ!」。

「11頭いるんだから・・・瞳が2個足りなくない?」。

「ああぁ、馬にもいるんだ。ぼくのように臍曲がりなヤツが!」。

10頭の馬たちとは異なり、頭と尻が逆向きになった馬が1頭!

長く真っ白な尻毛を、時折りブラ~ンブラン。

「芦毛のサラブレッド、騙馬(せんば)のメリーって言うだぁ」。

芦毛とは白毛。

騙馬とは、去勢した牡馬(ぼば)の呼び方とか。

「ええっ!じゃあ、サラブレッドのニューハーフってぇこと?」と、思わず囁いてしまったぼくの言葉が聞こえたのか、花井さんが付け足した。

「若い頃、気性が荒かったり、悪癖が強かっただなぁ。だで玉を抜かれただ」。

競走馬としての人生を7~8歳(人間に当てはめると25~26歳)で終え、花井さんの元で第二の人生、もとい「第二の馬生」を送る馬たち。

写真は参考

「ここで20年近くを過ごし、天寿を全うする馬たちは幸せもんだて」。

ここを訪れる馬たちは、競馬新聞にも掲載されるレース・ネームが名付けられている。

まるで瞬くネオンの下で、怪しく咲くニューハーフの源氏名のように。

「だもんでぇ、第二の人生に相応しいよう、わしらや常連さんらで新しい名前を付けたるだぁ。なぁ」。

花井さんは、愛妻のはな江さんを見つめた。

「ちなみにこのメリーは、ここに来てからの名前。昔の名前は『パルフェ』だったの」。

はな江さんは、メリーの大きくて長い鼻筋をやさしく撫で付けた。

「最初っから真っ白じゃないだわ。生まれたては、みんな真っ黒か茶色。ほんでもって3~4歳になって芦毛にだんだん生え変わってくるだぁ」。

中でも一番の凛々しさは、黒鹿毛の四白(よんぱく)流星とか。

黒鹿毛は、黒味のある鹿毛。

四白とは、蹄の上の毛が10cmほど、白足袋を履いたような4本脚を指す。

流星は、眉間に浮かぶ白い菱形状の毛が、鼻筋を流れる様に気品溢れる毛並みとか。

いずれの馬たちも、アスリートとしての現役時代を終え、花井さん夫婦の元で穏やかな第二の馬生を謳歌している。

「大きな大きな子供さんたちに囲まれ、幸せですねぇ」。

思わずぼくがひとりごつ。

すると。

「この子らは、人間と違って文句一つ言わんらぁ」。

花井さんがメリーのたてがみを撫で付けた。

「馬は人の気持ちが良くわかる生きもんだもんで、瞳と瞳で意思を伝えあうだ」。

はな江さんがメリーの瞳をやさしく見つめた。

メリーは馬耳東風そのままに、我関せずで飼葉を旨そうに食べ始めた。

これからはぼくも、メリーたちのように、煩雑極まりない世事に振り回わされたりせず、都合の悪い事はみんな「馬耳東風」で生きて見るか。

ストレスフリーな生き方こそ、贅沢極まりない生き方に違いないから!

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「三河wonder紀行④」

『石窯職人の武骨なパン』

2005.秋 季刊誌掲載

キュルキュル!キュルキュル!

初夏の陽射しを遮る、100%総天然色のサンシェイド、新緑の広葉樹。

野鳥たちの声が冴えわたる。

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葉裏から太陽を透かし見ると、葉脈がまるで血管のように浮かび上がり、森の生命が静かな営みを続ける。

ガザガサ!

枝先が揺れ、二羽のヒヨドリがお目当ての桜を目指し飛来した。

が、しかし!

白いネツトにその行く手を阻まれ、ヒヨドリたちは右往左往ならぬ、上昇下降を繰り返す。

「こいつらぁさぁ、ヘリがホバリングでもするように、うまいこと空中でサクランボを啄むだよ!今年もほとんどやられちまったぁ」。

人懐っこい笑顔で、石窯職人の磯貝安道さん(56)は、森に帰って行くヒヨドリを見詰めた。

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律儀にも、サクランボの小枝に種だけを残して。

待てよ!

何かどっかで見たような光景?

そうだ!

確か数十年前、彼女との初デート。

喫茶店の片隅で向き合ったまま、何をどう話して良いものやら・・・。

今のような「初デート攻略本」なんて何処にも無い冷酷な時代。

それでも何とか彼女の気を惹こうと、しどろもどろ。

吹き出す汗のように、水滴がアイスコーヒーのグラスを滴る。

焦れば焦るほど、話題はどれもショート・センテンス。

長い沈黙だけが、会話と会話の間にドッカと横たわり、グラスの水滴もいつしか乾き切ってしまった。

伏し目がちな彼女の前には、ペロッと平らげられたバナナサンデーの干からびた残骸。

写真は参考

なのに彼女の口は、終始微かな動きを刻み続けている。

どうにも盛り上がりに欠け、形勢不利な状況を跳ね返す術もない。

ましてやこれといった画期的な打開策などあろうはずも無く、ただただ空しく時間だけが気忙しそうに過ぎて行った。

しかしこのまま店を出ようものなら、掛け替えのない飲食代680円が水の泡。

二度と彼女にデートの約束を取り付けることもままならぬ。

焦りのあまり深く考えもせぬまま、言葉が先に重い口を衝いて飛び出した。

「〇子さん、今からもう一軒梯子しない?駅裏の喫茶店でチョコレートパフェでも?」。

「はぁ?・・・」。

そういうと彼女は徐に席を立ち、終始モゴモゴさせていた口から、サクランボの小枝を吐き出し、空っぽの灰皿に放り出し、そそくそと立ち去って行ってしまった。

真っ白な灰皿に、無情にも投げ捨てられたサクランボの小枝。

しかも小枝は、器用に両端が結ばれている。

そう言えば誰かが言ってたっけ!

『サクランボの枝を口の中で結べる奴は、Kissのテクニシャンなんだぞ!』。

いつだって物知り顔をひけらかす、あのいけすかない奴の言葉が脳裏を駆け巡った。

しおらしい素振りで、ペロッとバナナサンデーを平らげといてぇ!

ぼくはKissなんて、一度もしたこと無いってぇのに!

・・・ってぇことは、あの娘がテクニシャンってぇことかよ!

儚い恋心は、無残にも砕け散った。

でも白状すれば、その時ぼくの心の中に巣食った魔物が「灰皿のサクランボの小枝は、さっきまであの娘の口の中に入っていたんだぞぅ~っ!今ならまだ、ファーストKissの出汁が出ているぞぅ~っ!」と、まことしやかに囁きかけてきたものだ。

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「さあ、お待たせ!」。

石窯職人は窯の蓋を開け、武骨な焼き立てパンを取り出した。

淡く切ない回想シーンに浸っていたぼくは、職人の声で現実の森へと舞い戻った。

「今日は騙されんかったぞ!」。

「ええっ?騙すって、いったい誰が!」。

「窯だよ、石窯!」。

10t近い総重量の石窯は、地中60㎝を掘り返しステコンと鉄筋を入れ、赤煉瓦を腰高まで積み上げる。

写真は参考

囲った煉瓦の中には、残土を入れて搗き固め、保温のために川砂を被せる。

その上に鉄製の窯を配置し、再び窯の上から直火に強い雌石(めいし)で隙間なく覆う。

そのため窯の蓄熱率が非常に高く、前の日の余熱も失われない。

だから窯内の温度が同じであっても、二つと同じ焼き上がりの石窯パンは仕上がらない。

「だから!石窯パンらぁ」。

そう言われちまっては、いかにももっとも過ぎて、返す言葉すら見当たらない。

が、しかし!

えも言われぬ美味しさが、ほっこりと口の中に広がったぁ!

写真は参考

石窯職人が焼く武骨なパンは、たったの3種。

しかも完全予約制。

武骨パンの神髄「プレーン」は600円。

「レーズン」「クルミ」がいずれも680円。

素材はすべてこだわりのオーガニックという頑固技。

石窯パンと、家庭用石窯造りのご相談は、0564-83-2881エトセ工房まで。

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