「昭和懐古奇譚~舶来ビールの王冠バッヂ!」(2018.4新聞掲載)

「舶来ビールの王冠バッヂ!」

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昭和半ばの時代。酒やビールにジュース、醤油から酢まで、酒屋のお兄ちゃんが御用聞きにやって来ては、頑丈な自転車で配達してくれたものだ。

わが家でも、勝手口の開き戸を開けると、その内側に御通い帳が吊り下がっていた。

「毎度~っ!奥さん、三河屋で~す。ビールここに置いときますよ!」と、近所の酒屋、三河屋のケンちゃんが、開き戸から顔を覗かせた。

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すると奥の茶の間で、内職に勤しんでいた母が、腰を上げ勝手口へ。

割烹着のポケットから、チリ紙に包んだ飴玉を、ケンちゃんに握らせた。

「いつもご苦労さんやねぇ。これ、ほんのちょっとやけど、道々舐めてって」と。

するとケンちゃんは、野球帽を取ってペコリ。

「おおきに!」と一言。

玄関先の頑丈な自転車にまたがって、玄関脇にボ~ッと突っ立っていたぼくを手招いた。

ケンちゃんは三河屋と、白く染め抜かれた帆前掛けの、前にあるポケットをまさぐり、「ぼう、珍しい舶来ビールの王冠やろか?」と。

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もちろん興味津々でケンちゃんに駆け寄った。

すると緑色の太いドーナツ状の円形の中に、白色のアルファベットが浮き上がり、真ん中に真っ赤な星が描かれた、これまで一度も目にしたことの無い、綺麗な王冠を取り出した。

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「これ、ええやろ。ハイネッケン(・・・・・・)と言う、オランダのビールの王冠やて。どうや、バッヂにしたろか?」。

嬉々として頷くと、ケンちゃんは器用にポケットから釘を取り出して、王冠の内側のコルクを見事な手付きで剥がし取った。

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そしてぼくのランニングシャツの、左胸の辺りに内側からコルクをあて、外側に王冠を宛がい嵌め込んだ。

すると見事に、世にも珍しい王冠バッヂが、ぼくの薄汚れたランニングシャツの左胸に、燦然と輝いた。

「ありがとう、ケンちゃん」。

ぼくが目を輝かせながらそう言うと、ケンちゃんは「また、珍しい舶来ビールの王冠手に入れたら、ぼうにまた持って来るでな。さあ、皆に自慢して来たれ!」と。

気をよくしていつもの公園へ向かうと、直ぐに草野球チームの仲間が寄って来た。

そしてぼくの左胸の勲章、舶来ビールの王冠を羨まし気に、繁々と眺め始めた。

「それって、どこの国のビールの王冠や?」とか、「どうしてそんな珍しいもん、持っとんや!どこで手に入れたんや?」と、もうとにかくヤイノヤイノ。

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皆の胸には精々、国産ビールの王冠やら、サイダーの王冠がやっと。

だからぼくは、もう鼻高々の有頂天。

皆の羨望の眼差しを一身に受けながら、いつものように草野球が始まった。

この日は、舶来ビールの王冠の魔法か?投げて良し打って良し、それに走って良しに滑り込んで良しと、すこぶる絶好調。

棒っ切れで線を引いただけの、ダイヤモンドならぬ三角ベースの球場を、縦横無尽の大活躍だった。

「あれっ?ミノ君、あの舶来ビールの王冠は?」と、サッチャンが問う。

慌てて胸元を確かめると、左胸のシャツに御用聞きのケンちゃんが取り付けてくれた、自慢のバッチがなくなっているではないか!

目の色変えて慌てて探し回り、やっとバッターボックスの所で、土に埋もれたバッチを発見。

ところが既に、何度も皆のズック靴に踏まれペッチャンコ。

だからか、今でもスーパーのビール売り場で、「Heinekenハイネケン」のロゴを目にする度、あの日の事を懐かしく思い出してしまう。

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「昭和懐古奇譚~大は小を兼ねる!刃傷(にんじょう)松の廊下」(2018.3新聞掲載)

「大は小を兼ねる!刃傷(にんじょう)松の廊下」

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東京銀座の中央区立泰明小学校が、高級ブランド「アルマーニ」監修の制服、一式9万円にも及ぶものを採用するとかしないとかで、先だって来おおいに物議を醸しだした。

その記事に触れながら、小学6年の今頃をつい懐かしく思い出した。

「何はともあれ、3年間は持たせなあかんで。どうせならこれくらい大きい方がええんやない?」。

お母ちゃんに伴われ、小学校卒業を目前にした、バス停前の洋品店「マルエ」の店内での事。

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この「マルエ」は、ぼくが通学する中学校指定の制服を扱っており、店内は同い年の男女とその母親らで、てんやわんやの大騒ぎ。

どこの家でも同じような会話が、交わされていた。

「皆さん大は小を兼ねるゆうて、3サイズくらいは大きいな、ブカブカの制服を選んでかれるよ」と、客の対応で天手古舞な「マルエ」のオバちゃん。

「さあ、いっぺん学生服に袖通して、ズボンも履いてみ!ズボンの裾とか胴回りやら、制服の袖の長さを直したらなかんで!」と、「マルエ」で買ったばかりの、ボール紙製の衣装箱から、母が学生服を取り出した。

すると「お父ちゃんも、お前の制服姿、いっぺん見せてまわなかん」と、父まで卓袱台を片隅に寄せ、ビール片手に早くも地歌舞伎の大向うの観客のよう。

すると茶の間の座敷の真ん中まで、まるで小さな舞台のようではないか!

お母ちゃんに言われるまま、試着が始まった。

学生ズボンの胴回りはどうみても、もう一人ぼくが入れるのではないか、と思えるほどのブカブカ。

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しかもズボンの裾は、足の裏から優に30cm以上も長く、畳の上を引き摺る格好だ。

すると赤ら顔した父が、「いよっ、浅野内(あさの)匠頭(たくみのかみ)!刃傷松の廊下や。『各々方(おのおのがた)、 各々方!お出合いそうらえ! 浅野殿刃傷にござるぞ!』」と、囃し立てる。

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お母ちゃんがズボンの裾を折り返し、待ち針を打ちながら笑い転げた。

ぼくはブカブカダボダボの学生服を羽織らされたまま、この先の中学校生活が妙に思いやられてならなかった気がする。

銀座の小学校のアルマーニの制服ほどではないにせよ、両親にすれば小学生から中学生に上がる時の出費は、そりゃあ並々ならぬものがあったことだろう。

現にぼくの同級生でも何人かは、お兄ちゃんやお姉ちゃんのお下がりだと言う、着古された学生服やセーラー服で、入学式に臨んだ者も間々あった。

その点わが家は一人っ子のため、何から何まで新品で揃えるしか手立てはなく、お母ちゃんの遣り繰り算段も、さぞや大変だったに違いない。

だから学生服だって、体の成長に応じ3年間で2着も3着も、その都度買い替えるなど以ての外。

となれば後は、母の得意の洋裁に物を言わせるしかない。

3サイズも大きな学生服上下を、まずは手頃なサイズに縮め、その先はぼくの成長に応じ、胴回りも袖も裾も、折り畳んで隠してあった生地を、徐々に伸ばして行けばよい。

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あの時代は、どこのお母さん方も同じ考えだったようだ。

何故なら、ズボンの裾も上着の袖も、2年生になると1本線が入り、3年生になると2本線が、まるで皆で申し合わせたように、くっきりと浮き出していたのだから。

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「昭和懐古奇譚~百貫でぶと、骨皮筋衛門」(2018.2新聞掲載)

「百貫でぶと、骨皮筋衛門」

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♪でぶでぶ百貫でぶ 車に轢かれてぺっちゃんこ ぺっちゃんこは煎餅 煎餅は丸い 丸いはたまご たまごは白い 白いはうさぎ うさぎは跳ねる 跳ねるはカエル カエルは緑 緑はきゅうり きゅうりは長い 長いはへび へびは怖い 怖いは幽霊 幽霊は消える 消えるは電気 電気は光る 光るは親父のハゲ頭♪

昭和の半ば。

小学生低学年の頃の事。

太っちょな子を見掛けると、これといった悪意もなく、こんな()れ歌をよく口ずさんだ。

すると「♪でぶでぶ百貫でぶ♪」と言われた、太っちょな子からは決まって、「へぇ~ん、だ!お前なんて骨皮筋衛門の癖に!」と、これまた決まり文句のような、応酬の台詞をオウム返しにされたもの!

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でもさすがに女子に向って「骨皮筋子」とは、誰も言わなかった気がする。

だからと言って、百貫でぶだとか、骨皮筋衛門と茶化されようが、それを根に持つ子など誰れ一人としていなかった。

しかしこれが、平成も末の世ともなると、やれ虐めだ、やれ差別だと、茶化された当の本人より、(はた)がやいのやいのと難癖をつける。

たかが所詮、子どもの仲良し喧嘩なのに。

眉間に皺を寄せ子どもの世界に割って入る、何とも大人げない大人たちもいたものだ。

当時の子どもらは、そもそも「♪でぶでぶ百貫でぶ♪」の「百貫」に、どんな意味があるかさえ知らず、ただ耳馴染みや調子のよい節回しと、尻取り唄が可笑しく皆が好んで口にした。

百貫とは、一貫が3.75kgだから、375kgとなる。

当時は、長さを「尺」、質量に「貫」を使った、日本固有の尺貫法が、昭和34年に廃止され、メートル法へと移行されて間もない頃だ。

とは言え、未だ戦後20年足らずのこと。

今ほど食生活自体決して豊かではなく、児童の肥満も問題視されるほどでもなかった。

当時も今も、375kgも体重のある百貫でぶの子がいたなら、正直お目に掛かりたいくらいのものである。

さすがにこれだけ飽食の時代となった現代でも、大相撲の力士二人分に相当する、そんなにも体重のある巨漢の児童など、見たことも聞いた試しも無い。

思うに「♪でぶでぶ百貫でぶ♪」の戯れ歌は、食糧事情の悪かった時代、栄養の行き届いていない瘦せっぽちな子からの、やっかみ半分の嫉み節であったのではなかろうか。

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当時、うちの両親を含め大人たちは、そんな戯れ歌を(とが)めることもなかった。

一方、「骨皮筋衛門」呼ばわりされた子のお親だって、いちいちそれに目くじらを立て、やれ虐めだやれ差別だなどとは、決して言わなかったものだ。

ぼくも小学校3~4年頃までは、「骨皮筋衛門」と皆から笑われるほど、貧相な体型をしていた。

だから皆からそう揶揄(からか)われたくなく、よく食べよく遊んだ。

その甲斐あってか、小学5年になると急激に成長を遂げ、健康優良児として他校の生徒と、体格や体重を競い合う大会へ出場するほどとなった。

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そこで止まればいいものを、そのままどんどん成長が続き、今度は逆に「♪でぶでぶ百貫でぶ♪」と茶化される羽目に。

一番困ったのは、両親であったに違いない。

我が子が日に日に、急成長を遂げる姿は、両親にすれば嬉しくもあり、また一方、次々と洋服のサイズが合わなくなってしまい、家計を逼迫させる羽目ともなり、さぞかし痛し痒しの想いであったに違いない。

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「昭和懐古奇譚~ショチョウのお赤飯?」(2018.1新聞掲載)

ショチョウ(・・・・・)のお赤飯?」

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「こんにちは」。

その声に応じるように、母が玄関の引き戸を開ける。

するとそこには、いつになくめかし込んだ着物姿の、3軒向こう隣のタカちゃんのオバちゃんだ。

紅白の水引きの掛かった、折り詰めを差し出し「この子もやっと大人の仲間入りさせて貰いましたで、これからもどうかよろしく」と。

よく見るとオバちゃんの後ろで、着物姿のタカちゃんが頬を赤らめ、恥ずかしそうにもじもじしているではないか!

「そうか、タカちゃん。それはおめでとさん」。

母は折り詰めを押し頂きながら、こっそり胸元からポチ袋を取り出すと、タカちゃんの襟元へと偲ばせた。

「さあ、タカちゃんのお祝いのお赤飯やで、有難くみんなで頂こう!」。

母は卓袱台の上で折り詰めを広げ、胡麻塩を振り掛けた。

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「そうかタカちゃん、もう紅いお印があったんか!そりゃ目出度いな」と、お父ちゃんも嬉しそうだ。

「?????」。

ぼくには何が何やら、さっぱりチンプンカンプンだった。

「ねぇねぇ、お母ちゃん。ぼくとタカちゃんは、同い年だから、小学5年のまんだ11歳なのに、なんでタカちゃんだけ今日から大人なの?ぼくなんてまだバス賃だって、子ども料金やよ?それに何でタカちゃんは、お赤飯拵えてまって、近所回しに配って歩くん?」。

その晩ぼくは、どうにも腑に落ちず、お母ちゃんを問い詰めた。

「そっ、それは…。そんなことは、お父ちゃんに聞き!」と。

風呂上がりを待ち構え、お父ちゃんに尋ねて見る。

すると「お父ちゃんは…、男やし…」と、とにかく歯切れが悪い。

それでもお赤飯の由来をどうしても知りたくて、お隣のご隠居、澄川さん家の婆ちゃんにこっそり尋ねて見た。

「そりゃあなぁ、女の子には『ショチョウ』って言うてな、大人の女になった証しに、紅っかいお印のお遣いがやって来るんやて。まぁ、ミノ君ももう少し大人になったら、自然とその意味が分かるでええって」と。

それにしても、その「ショチョウ」と「紅いお印」と言う、耳慣れぬ言葉が、どうにも頭から離れなかった。

しばらく経った授業中のこと。担任の女教師が「来年、いよいよ平和の『象徴』として、「人類の進歩と調和」をテーマに、大阪万博が開催されます」と、晴れやかな声を上げ、黒板に書き綴った。

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「ショチョウ」じゃなくって、『ショウチョウ』ってことか?

またしてもぼくの頭の中では、「ショチョウ」と「紅いお印」に「象徴」が三つ巴となってグルグル回り出す。

どうにも我慢出来ず、職員室の担任女教師に尋ねた。

すると先生も一瞬口ごもり、「そ、それは…、保健室で保健の先生に尋ねなさい」と。

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保健室の女の先生は、「もう少しすると、保健体育の時間で、男子も教わるから、それまで待ちなさい」とのこと。

結局ぼくは、保健体育で真実を教わるまで、恥ずかしながら「初潮」を「象徴」と勝手に思い込んでいた。

おまけに「紅いお印」とやらは、大阪万博会場に棚引く、紅い日の丸だと思うことで、そのモヤモヤを打ち消していたのだ。

でも大人たちを真似、うっかりタカちゃんに「お目出とう」なんぞと、知ったかぶりして口を滑らせなくて良かったのかも知れない。

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「昭和懐古奇譚~ネズミの歯になぁ~れ!?」(2017.12新聞掲載)

「ネズミの歯になぁ~れ!?」

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「ネズミの歯になぁ~れ!」。

昭和半ばの時代、乳歯が抜けると子どもたちは、母から教わり下の歯が抜けたら屋根へ。

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上の歯は縁の下へ向かって、節回しこそすっかり忘れ果てたが、「ネズミの歯になぁ~れ!」と、口々に唱えながら、投げさせられたものだ。

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結構ぼくも母と一緒に愉しみだったように記憶している。

当時は、何でその呪文が、よりにもよって嫌われ者の「ネズミ」だったのか?

そんなことは、とんと気にも掛けていなかった気がする。

まだまだ今と比べたら、とんでもなく不衛生な時代であったものの、わが家の中でネズミを見かけたことはなかった。

時折見掛けるにしても、下水溝のドブの中をササッ走って逃げる姿くらいを目にする程度。

もっとも古くから立ち並ぶ、飲食店の方がネズミにとってお目当ての餌も、わが家なんぞより遥かに豊富だっに違いない。

だからぼくなんぞは、白黒テレビで楽しみに欠かさず見ていた「トム&ジェリー」の、あの愛らしいネズミのジェリーへの愛着の方が、不衛生の権化の様に忌み嫌われる本物のネズミよりも勝り、「ネズミの歯になぁ~れ!」と唱えることに、いささかの抵抗もなかった。

後になって分かった事だが、ネズミのように強い永久歯が生えますように、との意味合いがあるようで、地方によっては「ネズミの歯」の代わりに、「鬼の歯」「雀の歯」などが使われる地域もあったとか。

ちなみに西洋では、トゥース・フェアリーなる歯の妖精が存在し、抜けた乳歯を枕の下に置いて寝ると、翌朝その妖精がプレゼントやコインと交換してくれるとか!

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一方フランスにも、日本同様ネズミの歯のまじないが存在したそうだ。

何でもネズミの歯は、人間と異なり、生涯伸び続けるとかで、永久歯が丈夫になるようにとの、そんな願いも込められていたのだ。

ところが、乳歯が難なく抜けた後の「ネズミの歯になぁ~れ!」と、屋根や縁の下へ放り投げるのは楽しいものの、その前の恐怖の儀式だけは嫌で嫌でしかたなかった。

乳歯がグラグラになってくると、母は何だか嬉しそうに「お母ちゃんが、そっと痛ないように抜いてやるで!」と、妙に意気込んだものだ。

まずは母の膝枕で仰向けとなり、口をこれでもかって言うほど大きく開かせられる。

次に母は、木綿糸をグラグラになった乳歯に巻き付け、「エイヤー!」っと気合もろとも引っこ抜く、そんな前時代的で手荒な抜歯術であった。

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しかしそれを拒もうものなら、鉄板を掴むヤットコを、お父ちゃんの大工道具から取り出し、「そんなに糸で抜くのが嫌やったら、ヤットコで掴んで簡単に済ませたろか?」と。

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こうなったら手も足も出しようがない。

まるで俎板(まないた)の鯉の気分で観念し、母の手荒な抜歯術が一刻も早く終わるよう、目を瞑ったままひたすら祈り続けたものだ。

「よっしゃ~っ!抜けた、抜けた!」。

今にして思えば、母が一番嬉しそうだった気がする。

いつの間にか高度成長時代の置き土産の様に、高層マンションが立ち並び、「ネズミの歯になぁ~れ!」と、まじないを唱え投げたくとも、もう何処にもそんな手頃な屋根も縁の下もなくなってしまった。

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確かに手荒な抜歯術だけは、何ともおぞましい儀式ではあったが、「ネズミの歯になぁ~れ!」と純真な心で、母と一緒に唱えたあの頃が、今となっては無性に恋しくてならない。

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「昭和懐古奇譚~学芸会の役どころ」(2017.11新聞掲載)

「学芸会の役どころ」

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「それでは、今度の学芸会で演じる劇『真っ赤っかの長者』の、配役を発表します」。

昭和半ばの小学校4年のこと。

担任の竹田信子先生が教壇に立ち、クラスの皆を眺め渡しそう告げた。

どうかどうか、主役である「真っ赤っかの長者」役を、このぼくが射止められますようにと、心の中で願った。

ところが、主役の「真っ赤っかの長者」役は、学級委員長で成績もクラスで1番の、佐原君と決まった。

まあしかし、それが全うと言えば全うであると、妙に幼心に納得したものだ。

しかし心の中のぼくは、「何でなんだよ~っ!」と、竹田先生をちょっぴり恨んだものだ。

確かに優秀な佐原君に比べ、ビリから数えた方が早いようなぼくなど、手の届かぬ高嶺の花の主役だった。

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ならばせめてもと、ガリ版刷りの台本を佐原君から借り受け、一晩掛けてノートに書き写し、毎日毎日お経でも唱えるように、台本を繰り返し繰り返し読み耽ったものだ。

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その時の、お母ちゃんの驚き用は、今でも忘れたことがない。

いつもはあれだけ口が酸っぱくなるほど、「宿題済んだのか?予習は終わったのか?時間割の教科書は、ランドセルに入れたのか?」と、内職の洋裁の手も止めず、目も逸らさず、ぼくの気配を察して、一つ覚えの念仏のように繰り返すばかりだったのに。

必死になって台本を読み耽る姿に恐れをなしたのか、突然ぼくのおでこに手を当て、「ちょっとあんた、熱でもあるんやない?」とか、「ココアでも入れたろか?」と。

こっちの方が、いつにない母の優しさに、何か良からぬことの前触れではないかと、脅えるほどであった。

その甲斐あってか、学芸会の日には、すっかり台本一冊分の台詞が、空で言えるほどになった。

ところが端役も端役の、単なる立木役のぼくの台詞なんて、ひとっこともない。

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だから本番で緊張し、頭が真っ白になり、台詞がちっとも出てこないクラスメイトに、小声で教えてやる程だった。

それ故ますますもって、主役の「真っ赤っかの長者」役が演じたくて、居ても立っても居られない。

そこへ子供会のクリスマス会で、何か出し物をと言う、渡りに船の話が舞い込んだ。

ぼくは有無を言わさず、学芸会で果たせなかった、「真っ赤っかの長者」をやろうと、近所の子どもたちを説き伏せ、台本が丸々頭に入っている利点を活かし、まんまと主役を手にした。

ところが、肝心の衣装も小道具も、自分たちだけで全て工面することに。

ぼくの役である主役の「真っ赤っかの長者」は、着物姿に丁髷(ちょんまげ)を結い、草履履きで、鼻の頭を真っ赤にしなければならない。

着物と草履は、お父ちゃんが正月にだけ着る一張羅を、そして真っ赤な鼻の頭は、お母ちゃんの鏡台から、一本きりの口紅で何とかなった。

しかし最大の問題は、丁髷。

紅白裏表の体操帽の白い方に、肌色と水色の絵の具を塗り付け、水色の絵の具で月代を(さかやき)を描く念の入れよう。

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しかしその後の(まげ)(もとどり)が、如何ともしがたく悩んでいると、隣のご隠居がやって来て、わが家の老犬ジョンの抜け毛を集めて来いと言う。

ジョンの小屋に潜り込み、抜け毛を集めた。

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「よっしゃー、これでどうだ!」と、ドヤ顔のご隠居。

何だかとても長者さんの丁髷とは、お世辞にも言えぬ様な、百日蔓頭(かずら)だ。

しかし贅沢など言えぬ。

いよいよクリスマス会本番。

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お父ちゃんの着物の裾が長く、引き摺りながら演じていると客席から「いよーっ、赤穂の殿様か?それとも吉良様か?」と囃子声。

まさに殿中松の廊下さながら。

それはともかく、頭の体操帽の(かつら)からは、ジョンの獣臭さが鼻を突き、何とも言えぬ「真っ赤っかの長者」、初主演の舞台と相成った。

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「昭和懐古奇譚~人間かせくり機」(2017.10新聞掲載)

「人間かせくり機」

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秋風がひんやりし始めると、母が押入れから柳行李を引っ張り出す。

そして柳行李の奥底から、虫が食った穴開きの、古ぼけたセーターを引っ張り出した。

毎年この風景を見る度に、しずしずと秋が深まり、やがて冬が訪れるのだと、子どもながらに感じたものである。

両親の着古した穴開きのセーターや、ぼくの袖が短くなったツンツルテンで寸足らずのセーターが、手際よく解体されていく。

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そしてそれぞれ、毛糸の色や太さごとに分け、母は徐に宙をながめる。

中途半端な、色や太さの異なる毛糸を紡ぎ、何とか冬が来るまでに、ぼくのセーターを仕立て直してやりたいと、きっとそんな想いを巡らせていたに違いない。

しかしこっちゃあ、遊び盛りの腕白少年。

何とかその場を抜け出し、友の待つ草野球に早く合流せねばと、隙を伺うばかり。

するとまるで、そんな姑息な考えを見抜いたような母の声。

「ちょっと。両手をまっすぐ前に突き出して、肘を垂直に曲げて!そうそう、指先を天に突き出すように!」と。

毎年この時期恒例とも言える、かせくり機役を仰せつかったものだ。

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後は逃げ場を失い、仕方なく母に言われるまま、左右の腕を交互に前後させ、母が繰り出す毛糸を両腕に束ねて行く。

するとわずか5分も経たないうちに、両腕がプルプルと震えだす。

「なんや情けない、もっとしっかり両腕開いて!」と、容赦ない母の声に打ちのめされた。

晩御飯の片づけが終わると、お父ちゃんやぼくが寝静まってからでも、母は小さな裸電球の薄明りを頼りに、せっせと編み棒の先を絡ませ、一編み一編みセーターを編み上げてくれたのだろう。

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それから幾日かが過ぎ、いつものように学校から戻ると、母が玄関でぼくを待ち構えていた。

「やっとセーター編み上がったで、ちょっといっぺん袖通してみ」と、母。

ランドセルを投げ出すや否や、手編みのセーターを頭から被せられた。

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「どうや?ちょっと後ろ向いてみ?うん、袖丈も裾の長さもぴったりや!」と、母はご満悦。

「今度の遠足の日にでも、着てったらええわ!皆、ハイカラナセーターやで、きっと腰抜かすで!」と。

母はすこぶるご機嫌な様子だった。

丸首の何でもないセーターだが、毛糸の色が首から胸までと、胸から臍の辺りまで、さらにはそこから裾までと色がまちまちなのだ。

しかも極めつけは、左右の袖の色も別々。

服飾デザイナーが予め計算し、デザインされたものならば、それなりのお洒落な柄として映るはずだが。

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しかも母の手編みのセーターは、色も太さも長さすらまちまち。

異なる毛糸をただただ便宜的に、紡ぎ合わせただけの作品である。

だから何処からどう見たところで、解体したセーターの毛糸で編み直した事など一目瞭然。

ぼくは正直、遠足の日が憂鬱でならなかった。

遠足当日。

気恥ずかしい思いのまま登校すると、クラスの10人ほどが、ぼくに負けず劣らず不格好なセーターを、何の躊躇いもなく着ていた。

そうなりゃあ、もう気恥ずかしさなんて何処へやら。

ぼくの不格好なセーターからは、時折母の匂いと、袖からは父の煙草の匂いがほんのり漂う。

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この世にたった一つきりの、母の温もりに満ちたとても暖かなセーターだった。

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「昭和懐古奇譚~懐かしきパン食い競争」(2017.9新聞掲載)

「懐かしきパン食い競争」

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昭和の半ばは、今と比べると何もかもが、良く言えば「大らか」、言い替えれば何かにつけ「緩い」時代であった気がする。

それを象徴するものの一つが運動会の競技だ。

それにしても、昭和半ばには大人気だった種目が、何やかやと父兄からのクレームとかで、もうお目に掛かれないのが、どうにも切ない。

ぼくがいつか大人になって、子を持つ親となったら何をさて置いても、出場しようと心に決めていたのは「パン食い競争」。

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剥き出しのアンパンに直接紐を結わえ付け、7~8mほど間隔の開いた竹棹と竹棹の先端にロープを渡し、そこからアンパンを紐で吊るす。

よーいドンで走者はトラックを50mほど走り、アンパンの下へと駈け込む。

そのまま両手を使わず大口を開け、パンに(かじ)り付いて紐から引きちぎり、アンパンを口に咥えたまま再びゴールを目指す。

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今にして思い返せば、恐ろしいほど不衛生で、大変行儀の悪い競技でもあった。

しかし当時は、これがあまたある競技の中でもすこぶる人気。

微かなぼくの記憶によると、このパン食い競争は、昼休みの余興のような存在であった気がする。

子どもたちの応援を出汁に、どこの家庭もトラックの周りに(むしろ)を敷いて陣取る。

両親や祖父母に、親類縁者は元より、なぜだか近所のご隠居なんぞも混ざって、弁当のお重を囲んで車座になり、呑めや歌えの賑やかな昼休みだった。

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そして宴も酣となった辺りで、赤ら顔してすっかり出来上がった父兄により、パン食い競争が始まる。

我が家の私設応援団は、両親に母方の祖母、そしてお隣のご隠居さんの少人数。

昼休みになると同時に、母が朝早くから作った弁当のお重を広げ、大人たちは湯呑に冷酒でちょっとした宴会気分。

宴も(たけなわ)となった辺りで場内放送が入り、父兄によるパン食い競争の出場希望者を募り始めた。

するとやおら赤ら顔したご隠居が立ち上がり、「一丁、わしがええとこ見せたろ」と(のた)もうて、千鳥足で集合場所の入場門へと向かう。

既に出来上がっている父も、「ご隠居、そんな酔狂はやめとかんと、腰抜かすのがオチやで」と茶化した。

「それではこれより、父兄の部のパン食い競争を始めます。よーいドン!」。

いよいよ余興の目玉、パン食い競争が始まった。

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すると何と赤ら顔したご隠居が、捩じり鉢巻き姿でヨタヨタと走り出したではないか!

とは言え他の走者も似たり寄ったり。

家族の中のお調子者が大半。

皆一様に赤ら顔した千鳥足の走者ばかり。

応援席からヤジや失笑が飛び交う。

そしてついにご隠居も、竹竿の先端からアンパンが吊り下がったポイントに到達。

ところがこれが、なかなか一筋縄にはいかない。

隣のオッチャンがパンに噛り付くたび、吊り下がるアンパンが上下左右に揺れ、中々思い通りに(かぶ)り付けないのだ。

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何度か空振りした後、ついにご隠居がアンパンを咥えた。

「よっしゃー、そのまま引き千切って走れ~っ!」。

わが家の応援団も皆立ち上がり、口々に声援を送った。

しかし次の瞬間、会場は笑いの渦に!

ご隠居が咥え千切ったはずのアンパンが、空中を上下にブラ~ンブラン。

しかもよく見ると、アンパンにはご隠居の、総入れ歯が食い込んだまま。

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それを見上げたままご隠居はへたり込んでしまった。

そしてブラ~ンブランと揺れるアンパンを睨み付け、口を開けフガフガと言葉にならぬ声を発し、悔しさを滲ませている。

ぼくら家族はもう、他人の振りを決め込み、笑いを堪えるのに必死であった。

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「昭和懐古奇譚~高嶺の花の昆虫採集セット!」(2017.8新聞掲載)

「高嶺の花の昆虫採集セット!」

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たもを片手に、虫を追う子どもらの姿を、見掛けなくなってもうどれくらいだろう。

巨人大鵬卵焼き世代のぼくらの時代は、夏休みの宿題なんて放ったらかし。

真っ黒な日焼けを勲章に、明けても暮れても虫捕りに精を出した。

黄ばんだランニングシャツに、擦り切れた半ズボン。

ゴム草履を突っ掛けて麦わら帽子をかぶり、片手に竹の長柄のタモと、首からプラスチック製の虫籠をぶら下げ。

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腕白坊主共は皆一様に、示し合わせたかのような格好で、氏神様の境内やら小川の畔を駆けずり回った。

「ねぇ、昆虫標本セットって知っとる?」。

ある日、お向かいサッチャンが突然問うた。

「物すっごく高い物らしいけど、学級委員の佐原君が、お母さんに買って貰ったんだって。捕った虫が腐らんようにする、そんな液体を虫に注射する注射器や、それにピンセットとかもあって。おまけに昆虫を虫ピンで留めて標本にする、コルクの板と、ガラスの上蓋まで付いとるんやと。なあ、ちょっと見せてまってこ!」と。

ぼくらは佐原君()へと向かった。

すると佐原君が、標本箱の底のコルク板に、自慢の昆虫たちを虫ピンで留め、夏休みの自由研究を完成させようとしている真っ最中。

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ぼくらはあまりの羨ましさに、溜息交じりに佐原君の手元の、ガラスの上蓋がついた、昆虫標本箱を眺めた。

「お母ちゃん、ぼくも佐原君みたいに、昆虫採集セットと標本箱買って!」とぼく。

するとお母ちゃんは、「そんなもん、他所は他所。家の何処にそんな高価なもん、買うお金があると思っとるんや!」と。

項垂れるぼくを横目で眺め、再びお母ちゃんが言った。

「なぁ~んも心配せんでええ。ちゃあんとお母ちゃんが、恥ずかしないように、まわししといたるで」と。

夏休みも後3日に迫った。

手付かずのままの宿題はもはや手遅れ。

ならばせめて、昆虫たちの死骸だけは山ほどあるからと、自由研究に取り組み始めた。

「ほんならこれを、昆虫の標本箱にしたらええわ」と、お母ちゃんが差し出したのは、身欠き(にしん)の干物が入っていた、杉板の箱である。

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横には「丸ス」と赤字の屋号が摺り込まれているものだ。

やはりどう見ても、ガラスの上蓋の標本箱とは天と地。

しかも菓子箱の上蓋の、縁だけ残して切り取り、裏側からラップをあてがった、似て非なるまがい物。

拍子抜けした顔を見咎められ、「そんなもん、入れもんなんかより、よ~は中身が勝負や。佐原君がよう捕らんかった虫があんのやったら、それで勝負したらええがな!」、とお母ちゃん。

確かに、佐原君の標本は、蝉とカブトムシに蝶とバッタばかりだった。

だがぼくには、初めて捕まえた、自慢のタマムシがあった。

お母ちゃんの一言で、キラキラと不思議な光を放つ、タマムシを標本箱の真ん中に据え、新学期の自由研究を提出した。

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するとなぁ~のことはない。皆の標本箱も菓子の空箱の代用やらで、ドッコイドッコイ。

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だがぼくの標本箱だけが、塩干物の生臭さを放ち、子どもながらに恥ずかしかった。

今にして思えばお母ちゃんは、高価なガラスの上蓋のついた昆虫箱こそ、買い与えてはくれなかったもが、それよりも大切なことを教えてくれた。

そう言えば当時、母はいつも、「♪ボロは着てても心の錦 どんな花より綺麗だぜ♪」と、水前寺清子の歌を、鼻唄交じりでゴキゲンに歌っていたものだ。

嗚呼、実に懐かしい!

さあそろそろ、迎え火でも焚くとするか!

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「昭和懐古奇譚~『TVに釘付け!世界40か国以上、5億人以上分の1のぼくの眼(まなこ)』」(2017.7新聞掲載)

「TVに釘付け!世界40か国以上、5億人以上分の1のぼくの(まなこ)

写真は参考 朝日新聞 1969年7月21日付け 人類月に到着 アポロ11号/号外

今も忘れない。小学校6年の夏休みに、入ってすぐの事だった。

人類が月を闊歩すると言う、あられもない大事件が、TVの生放送で世界中に中継されたのは!

わが家の茶の間に居座るカラーテレビは、その日の未明から延々とこの大事件を伝え続けていた。

たまたまその日は日曜日。

まだ日も昇らぬうちから布団も上げ、家族全員が寝ぼけ(まなこ)をこすりながら、歴史的な瞬間の目撃者たらんと、(まばた)きすらためらうように、ブラウン管に食い入った。

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そうあれは、昭和44年7月20日の日曜。

アポロ11号から切り離された、月面着陸船イーグルは、日本時間の午前5時17分に月面へ、無事着陸を果たした。

この映像は世界40か国以上に、瞬時に同時中継され、この地球上で5億人以上の人々が、固唾を呑んで見守ったとされる。

着陸成功時の瞬間視聴率は、なんと68.3%にも及んだそうだ。

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ただただ天晴れ!

その後、アームストロング船長の地球に贈ったメッセージが、通訳を介して伝えられると、ぼくでさえ心が震え、思わず目頭が熱くなったのを、今でも鮮明に記憶している。

そうあの名台詞。

「これは一人の人間にとっては、小さな一歩だが、人類にとっては、偉大な飛躍である」だ。

ぼくは夏休み中、連日報道される一連の新聞記事を丁寧に切り抜き、それをB紙に貼って、アポロ11号の「月までの旅」と題した、夏休みの自由研究をまとめ上げた。

いつもの年ならば、夏休みが残り後3日になっても、まったく手も付けられなかったのに。

だからお母ちゃんなんて、こともあろうに「あんたが進んで夏休みの宿題やるなんて、なんぞ悪い事でも起こらにゃええが」と、真顔で首を傾げたほどだ。

いよいよ二学期の始業式。

初めて自力でやり抜いた、自由研究のB紙を筒状に巻いて、意気揚々と登校した。

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ところが教室に入ってビックリ!

だってクラスの男子生徒の大半が、同じようにB紙を丸けた紙の筒を、自慢げに机の上に置いているではないか!

あまりの光景に目を疑うと同時に、自分があまりに平均的な凡人であることも悟った。

とは言え、所詮はまだまだ子どものこと。

放下時間になろうものなら、校舎の階段の踊り場は、月面着陸船イーグルから、人類初の月面への第一歩を踏み出す、アームストロング船長のあのシーンを、皆が真似た。

口を少し手で覆い、あたかも遠く離れた月から地球への無線交信を装い、アームストロング船長の台詞を口々に真似るのだ。

特に男子生徒たちは、誰もが想像を超えた月への第一歩に、果てしない未来への希望と、大いなる憧れを抱いたものであった。

あの月面に印した、人類初となった第一歩のTV中継に心振るわせた者たちは、あの日の澄んだ心を見失ったのだろうか?

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少なくとも、人類が一つになって、大いなる夢が垣間見られたあの時代のあの瞬間を。

人類が人類を殺め合う愚かしい戦争や紛争、それにテロや暴動など、これほど頻繁にはなかったはずだ。

あの瞬間に心振るわせた、当時の少年少女たちが紛れもなく、今世界中の舵取り役を果たしているのではないのか。

そろそろもう一度、あの時の瞬間の様に、眩いばかりの希望を、全ての人類が抱き合えた、そんな地球に戻して欲しいものだ。

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