「昭和懐古奇譚~そんな残酷な!孫の手を取るだなんて!」(2019.2新聞掲載)

「そんな残酷な!孫の手を取るだなんて!」

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「やぁ殻い、婆さんやい!孫の手どこやったか知らんか?ちょっと取ってくれんか」と、隣の隠居部屋から爺ちゃんの声がした。

とは言え、爺ちゃんとは、ぼくの本物の祖父ではない。

父方の遠縁にあたる菊池の爺ちゃんだ。

随分のち。

三重の山奥へご先祖様の墓参りに詣でた折のこと。

ぼくの父方の祖父と祖母が眠る、小さな墓石に手を合わせた。

すると父は墓地の一番奥にデーンと居座る、立派な墓前へと向かう。

そして手を合わせ、水と線香を懇ろに手向けた。

「ここが、菊池の爺さんの墓や。大きいやろ。その昔はなぁ、爺ちゃんのそのまた爺ちゃんが、お医者様をやって見えたんや」と、父の問わず語りを今でも覚えている。

恐らく遠い明治の世にでも、岡田の家から分家したのが菊池なのか、そのまた逆か。

苔むした墓石の並ぶ墓地の位置関係からすると、菊池の分家が岡田の家と見える。

しかし山奥の集落は、見渡す限り岡田を名乗る家ばかり。

菊池の家はとんと見当たらない。

だとすれば、やはり岡田の家から分家した者の中に、鳶が鷹を生んだような秀才が現れ、医学の道へと進み、やがて菊池家に入り婿でもしたとは考えられぬだろうか。

それはともかく昭和の30年代、菊池家は名古屋の南区にあった。

そして菊池の爺ちゃん家の隣にアパートが立ち、新婚間もない父は遠縁の菊池の爺ちゃんの伝手を頼り、そこに狭いながらも新居を構え、ぼくが生まれたという寸法になる。

だからぼくの「稔」と言う名は、この菊池の爺ちゃんの命名である。

爺ちゃん家の隣には、爺ちゃんの二人の倅の住まいがあり、それぞれ一人ずつ息子がいた。

ぼくより二つ年上の「香」、そして同い年の「守」だ。

いずれも爺ちゃんの命名であり、どれも漢字一字だけの名を賜ったことになる。

「おお~い、婆さんや!まだ孫の手は、見つからんのか?早う取ってくれんか」と、再び隣の隠居部屋から爺ちゃんの声がした。

同い年の守君と、たまたま爺ちゃんの隠居部屋の隣の部屋で、二人して遊んでいる最中の事だ。

思わずぼくは、「マモ君、聞いた?お爺ちゃんが孫の手取って来てくれって、お婆ちゃんに言うたの!お爺ちゃんの孫って言ったら、香お兄ちゃんか、マモ君しかおれへんのやで、逃げやなかんのやない?」と真顔のぼく。

ところがマモ君は動じない。

「だってそんなん、いつものことやし!」と。

ぼくはどうにも落ち着かなかった。

だって年に一度お年玉を頂戴しに、両親と共に伺候する爺ちゃんの隠居部屋は、ぼくにとっちゃあ異界そのもの。

床の間の香炉からは香が燻り、床柱には能面の翁やら般若に山姥といった、奇怪なものがぼくを睨みつけているようで、居心地の悪さはこの上なし。

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「なんやったら、そこの襖ちょっとだけ開けて、隙間から覗いとってみ」と、マモ君。

恐る恐る固唾を飲んで、事の次第を見守った。

「はいはい孫の手、お待たせしました。茶の間の新聞の下に置いてありましたよ」と、お婆ちゃんが孫の手なるものを差し出すではないか!

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それは家ではついぞ見たことも無い、竹製の耳かきのお化けのような物。

長さは30cmほどで、棒の先が猫の手の様に少し曲がっている。

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爺さんは棒の先っちょを、着物の襟元から背中へと差し込み、柄を掴んだまま上下に動かし始めた。

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「おうおう、極楽、極楽!婆さんや、これぞ正しく痒い所に手が届く、孫の手の効能よのう」と。

いつもは苦虫でも噛み潰した様な、しかつめ顔の爺ちゃんが、まったくもって相好を崩し、腑抜け面をしているではないか!

これまで一度も目にしたことのなかった、爺ちゃんの素の姿に接し、近付き難い印象がほんの少し和らいだ気がしたものだ。

まあそれにしても、マモ君の手が取られずに済み、何より何よりと、当時のぼくは胸を撫で下ろした。

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「昭和懐古奇譚~ブリキのおもちゃポンポン船」(2019.1新聞掲載)

「ブリキのおもちゃポンポン船」

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小学校低学年の頃まで、家には風呂が無く銭湯通いだった。

だから近所のマー君が、羨ましくてならなかったものだ。

マー君家は多分家より遥かに裕福だったのだろう。

当時子どもたちの間で話題になる、最先端のおもちゃを、必ずと言っていいほど持っていたのだから。

中でも一番羨ましかったのは、ブリキのおもちゃのポンポン船。

「お風呂にポンポン船を浮かべ、ロウソクに火を灯すと、ポンポンと音を立てながら、お風呂の中を走り回るんだって!」。

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それはそれはマー君の自慢話は、当時のぼくにとって衝撃的だった。

ポンポン船で遊ばせてもらうために、何かいい知恵は無いものかと、ぼくはそればかりを考えていたものだ。

そして閃いた!

「そうだ!マー君を銭湯に連れ出し、ポンポン船を持ってこさせればいいんだ!」と。

それからぼくは、マー君と顔を合わせる度に、銭湯の楽しさを吹聴し説得を試みた。

電気風呂や薬草風呂もあるし、風呂上がりの一杯の、コーヒー牛乳やフルーツ牛乳、そしてスマックの旨さなど。

さらには、10円玉一個で動く、電動マッサージ機の話とか。

そして止めは「大きな銭湯の湯船に、マー君のポンポン船を浮かべ豪快に走らせたら、皆ビックリ仰天するって」と。

マー君も満更でもなさ気だった。

「マー君と二人やでって、調子に乗って銭湯の中で大騒ぎしたら、お母ちゃん承知せんで!」と、母は渋々年季の入ったがまぐちを開け、銭湯代とコーヒー牛乳代を手渡した。

マー君を迎えに行くと、着替えの入った風呂敷包みを背中にからげ、両手で石鹸箱と自慢のポンポン船が入った、洗面器を抱えているではないか!

「やったぁ!」。

夕間暮れの空から舞い落ちる雪もなんのその。

ぼくらは二人して、銭湯までの道程を小走りで駆け出した。

チャッポーン ザッバーン 「おお、極楽極楽!」。

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銭湯の男湯のあちらこちらで、湯船に浸った時の決め台詞が聞こえる。

男湯の中央にある、一際大きな湯殿に、ぼくらも恐る恐る浸かった。

早くも湯殿は、千客万来。

よく見かけるご隠居さんから、職人さん、それに立派な倶利伽羅紋紋を背負った、鯔背なお(あに)いさんが、湯けむり越しにぼくら二人に視線を向ける。

「どうしよう…ミノ君。こんなとこでポンポン船を走らせたら、おじちゃんたちに叱られるんやない?」と、急に心細気なマー君。

「そんなんええって。子どもの事やで、みんなオッチャンたーも大目に見てくれるって」と、ぼくはマー君を宥めた。

するとマー君は恐る恐る、湯船に浮かべた洗面器の中で準備を開始。

まず船尾のストローのようなホースから湯を注ぎ入れ、小さなロウソクにマッチで火を灯し、ちょっと斜めになった燭台に乗せ、湯を入れたタンクの下へと設置するのだが、これがなかなか思うように行かず、たちまち火が消えるばかり。

「おお、坊。ちょっと貸してみぃ!」と、俱梨伽羅紋紋のお(あに)いさんが、手際よく火を灯しタンクの下へと設置し、湯船に浮かべてくれた。

しばらくすると「ポンポンポ~ン」と、まるでエコーのかかったような、景気の良い音を響かせ、ポンポン船が時計回りに、湯浴み客の周りを滑り出した。

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すると湯浴み客の口から、やんややんやの喝采が!

何に付けても緩やかだったあの昭和。

今年の4月一杯で平成も終わり、新たな時代が始まる。

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同時にぼくが愛して止まない昭和は、あの銭湯の湯けむりの向こうへと、ゆっくりゆっくりと消え行ってしまうのだろう。

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「昭和懐古奇譚~ひっつき虫」(2018.12新聞掲載)

「ひっつき虫」

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冬枯れた畦道や原っぱを駆け回ると、この時期必ずと言っていいほど、「ひっつき虫」がセーターの至る所や、髪の毛にくっついて来たものだ。

全体に棘々の突起があり、ピーナッツ位の大きさをした「オナモミ」の仲間や、ハートマークを半分にしたような、一辺が5mm程の薄っぺらな「ヌスビトハギ」の仲間。

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さらには、細長い2cm程の棒状の「センダングサ」の仲間など。

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もっともそれらの植物の名など、子供の頃には知る由もなく、ただただそれらをひとまとめに、「ひっつき虫」とぼくらは呼んだ。

中でもぼくらは、全体に棘々の突起があり、ピーナッツ位の大きさをした「ひっつき虫」を好んだ。

それを手に仮面の忍者赤影を真似、手裏剣に見立てては、友のセーターや髪の毛目掛け投げつけて遊んだもの。

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ところがそんな忍者ごっこにも、すぐに飽きてしまう。

なぜなら、誰もがヒーローの、飛騨の忍者赤影や白影、そして青影役になるばかりで、誰一人敵役である金目教の、奇怪な忍者役を引き受ける奇特な者などないからだ。

となるといずれも、正義の味方ばかりで、どんなに「ひっつき虫」の手裏剣を、見事に命中させようが皆が皆不死身。

それではさすがに子どもといえど、辟易としじきに「一抜けた~っ!」となるのがオチ。

ところがそれで諦めるかと思えば、そうでもない。

何やかやと知恵を絞り、次なる遊びを編み出すから、子どもは遊びの天才である。

「よーし!せーので、一緒に積み藁に体をぶっつけて、ひっつき虫をどんだけ多く、セーターにひっつけるかで勝負だ!」と、ヤンチャ坊主のチャコの提案で、新たな遊びが始まる。

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「じゃあ皆、セーターに着替えて、またここに集合だ!」と、チャコの合図でみんな一斉に家へと駆け出した。

ぼくも家へと向かう道すがら、新たな遊びへの有利な作戦を思い描いたものだ。

セーターに着替えて田んぼへ戻ると、いよいよ新たな遊びの始まりだ。

「ミノ君のセーター、へ~んなの!」と、友が指摘した。

「あっ、本当だ!ガブガブのブッカブカだし、膝っ小僧まで隠れる長さや!何か女のスカートみたいやあ!」と囃し立てる。

(今のうちに、何とでもほざくがいい!あとで吠え面かくのはお前らや!)と、ぼくは心の中でほくそ笑んだ。

「じゃあ、始めるぞ!題して『ひっつき虫の体当たり競争』よーいドン!」と、チャコが大声を張り上げた。

「1位は断トツでミノ君が優勝!」。

(そりゃそうやて。だってわざわざ、タバコ臭い匂いの染みついた、ガブガブでブッカブカな、お父ちゃんのセーター引っ張り出して、皆に笑われるも覚悟で着て来たんだから。どー見たって皆のセーターの、倍の面積はあるんだから、話になるわけもない)と、ぼくは再び心の中でほくそ笑んだ。

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ところがお父ちゃんのセーターを、そのままタンスにこっそり戻しておいてから、さあ大変!

「うわっ!なんやこれ?」と、お父ちゃん。

日曜のまだ寝静まった早朝。

物音を立てぬよう、鮒釣りに出掛ける支度をしていたお父ちゃんが、素っ頓狂な声を上げ、寝室の裸電球を灯した。

寝ぼけ眼の視界には、体中にひっつき虫をまとった、タバコ臭いセーターを着た、不気味なお父ちゃんの姿があった。

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「昭和懐古奇譚~鼾封じにウルトラハンド」(2018.11新聞掲載)

「鼾封じにウルトラハンド」

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ググッ グッ ガガァアー。

夕餉のビールで酔っぱらったお父ちゃんは、真っ赤な顔で座布団を枕に大鼾。

「もう、せっかくええとこやのに!」と、母はTVのボリュームの摘まみを捻る。

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「もう、(うる)そうて(かな)んで、あんたがサッチャンから借りて来た、あれ(・・)でお父ちゃんの鼻摘まんだり!」と、お母ちゃんはぼくを促した。

ググッ グッ…。

「あいたたた!」。

サッチャンから借りて来た、ウルトラハンドの先っちょの吸盤で、見事お父ちゃんの鼻を摘まみ上げた。

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すると「ちょっと面白そうやな。どれ、お母ちゃんにも貸してみ!」と、ウルトラハンドを奪い取るではないか。

「あいたたた!」。

寝ぼけ顔のお父ちゃんの頬っぺが、ウルトラハンドの先っちょの吸盤で、見事につねくられ羽二重餅のようにビョ~ンと伸びた。

「ちょっと、なっ、なにすんのや!」と、いとも情けないお父ちゃんの顔。

お母ちゃんとぼくは、腹を抱えて大いに笑い転げたものだ。

「ねぇねぇ、これ。何や知っとる?」。

サッチャンは神社の境内で、自慢気に風呂敷に包んだ、真新しい箱を見せびらかした。

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箱には、「ウルトラハンド」の文字と、子どもの兄弟がウルトラハンドなるものを操り、帰宅した父親のカバンを摘まみ上げ、大はしゃぎしている絵が描かれている。

「こうやって両手で、このグリップを掴んで、両手を合わせると、ほら!」。

サッチャンは得意満面な顔で、どーよとばかりに、ウルトラハンドなるものを巧みに操り、境内の渋柿を捥ぎ取った。

「スッ、スゲー!」。

ぼくはただただ恐れ入るばかり。

「誕生日のプレゼントで買ってもらったんだ。ミノ君にも、1日5円で貸してやってもいいよ!」とサッチャン。

当時1日の小遣いが、母のがま口から支給される10円と決まっていた。

その10円玉一つで、半分の5円を友と半分ずっこにするアイスキャンディーを買い、残りの5円でくじ引きに挑むのが毎日の日課。

やっぱりサッチャンに5円払ってでも、家では到底買っては貰えぬウルトラハンドで、悪戯三昧を一度くらい楽しんでみたいと、ついに誘惑に負けてしまった。

意気揚々とウルトラハンドを片手に、わが家へと戻ると、まずは老犬のバカ犬ジョンの小屋へと向かった。

何はともあれ、悪戯の第一弾は、ここで腕試しだ。

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ジョンは都合よく、小屋の中で寝息を立てているではないか。

ぼくはジョンに向かって、ウルトラハンドを伸ばし、ジョンの垂れ下がった耳を掴んだ。

するとジョンは何事かと目を見開き、初めて目にしたウルトラハンドにパニックとなり、恐れおののき吠えまくった。

見事腕試しの悪戯は、大成功。

「なんやの、それっ?面白そうな玩具やなあ」と、洗濯物を取り入れながら、お母ちゃんが笑った。

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サッチャンから1日だけ借りたことを告げると、「ほんなんやったら、まっとええ使い道があるで、後はお母ちゃんに任せとき!」と。

心なしかその時お母ちゃんは、ほくそ笑んだようだった。

それがまさかお父ちゃんの、鼾封じの悪戯だったとは。

天晴れ!お母ちゃん!

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「昭和懐古奇譚~ファンシーケースは、秘密の花園?」(2018.10新聞掲載)

「ファンシーケースは、秘密の花園?」

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「ねぇねぇサッチャン、これって何なの?」。

お向かいのサッチャン家に、上がり込んで遊んでいた時のこと。

サッチャンのお姉ちゃんの、部屋の片隅に置かれた、小ぶりな電話ボックスのような物を眺め、ぼくはサッチャンに問うた。

それは四方が、実にカラフルな色合いのビニールで覆われ、ともかく目が奪われてならない。

「これ姉ちゃんがセーラー服やブラウスとか、大切な服を吊り下げてしまっとく、ファンシンケース言うんやったか、ファンシーケースとか言うんもんやて」と、年下のサッチャン。

「『ファンシンケース』やったとしたら、阪神タイガースにそんな『ケース』なんて選手おったやろか?いやいや、『ファンシーケース』にしたって、そんな言葉聞いたこともない。せいぜいそれに近いのなんて『ルーシーショー』くらいやもん」とぼく。

「ねぇねぇミノ君。こっそり姉ちゃんの、ビニールの箱ん中覗いて見たい?」と、妙に思わせぶりなサッチャン。

「このチャックを下に降ろして、こっちを右に開けば、ほらっ!」。

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サッチャンは慣れた手つきで、ビニールの箱を開けた。

その瞬間、得も言われぬ、甘酸っぱい香りが鼻先を掠める。

年頃の娘などいない、三人家族のわが家には存在しない、クラクラと眩暈を覚えるような、甘酸っぱい香りがした。

「どうしたのミノ君?なんやポーッとしてまって、顔も真っ赤しけやよ!」と、サッチャンの声でふと我に返った。

「ねぇこれ何か知っとる?」。

サッチャンは得意げに、まるでぼくを茶化すかのように、お椀を二つ伏せたような真っ白な下着のような物を、自分の胸の前で広げた。

「・・・?なんやのそれ?」とぼく。

すると突然襖が開いた。

「サトシ!やめてよ!私のブラジャー、玩具にせんといて!」。

サッチャンのお姉ちゃんが、ものすごい剣幕で白い下着のようなものを奪い取ると、サッチャンに拳骨を見舞った。

その場に居合わせただけのぼくも、何だかバツが悪く、逃げ出すように玄関を飛び出したものだ。

しばらくその出来事が理解できず、ぼくは公園のブランコで揺られていた。

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するとサッチャンが照れ臭そうにやって来て、別に何か言い訳をするでもなく、隣でブランコを揺らし始める。

「さっきがたのアレねぇ。姉ちゃんがこないだ買ってもらった、大切なブラジャーってもんなんやて。年頃になると女の子は、オッパイが膨らんで来るから、あのブラジャーってのでオッパイを大切に包むんやと」と、サッチャンは物知り顔でつぶやいた。

「お母ちゃん!何でお母ちゃんは、ブラジャーせんの?」。

家に帰ると、ただいまの代わりに母に問うた。

すると「何んやのこの子は、藪から棒に!」と、母は一瞬戸惑ったようだ。

「だってさっき・・・」と、サッチャンに教そわった、ブラジャーの効能を口にした。

「トロくっさい!子どもはそんなこと、知らんでええ!それにお母ちゃんたーが若い頃は、戦時中やったで、そんなハイカラなもんだーれもしとらなんだわ。それにそんなもん、今更着けやんだってええ!」と、とにかくえらい剣幕。

それも昭和と言う時代を二分した、戦中と戦後の価値観の違いと、急激な生活様式の変化と言う、忘れ形見そのものだったのだろうか。

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「昭和懐古奇譚~エッチー!な外国土産のボールペン」(2018.9新聞掲載)

「エッチー!な外国土産のボールペン」

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ぼくが子どもの頃の外国は、今よりもっともっと遠かった。

まさかいつの日か、自分が飛行機に搭乗し、海外の見知らぬ国に行くなど思いもよらぬ時代。

だから、洋行帰りだなんて言ったら大騒ぎ!

「ちょっとちょっと聞いた?隣町のあの洒落た洋館に住んどらっせる、あそこの息子さんが嫁さん貰わしてなぁ。そいでもって、新婚旅行でハワイへ行って来たげな」と、たちまち近隣の町々で、オバちゃんたちの井戸端会議の、トップニュースに躍り出たものだ。

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中学に上がったばかりのある日。

クラスでも、おませな事なら天下一品!

こいつの右に出る者は無しとまで言わしめた、忠治に誘われクラスの仲間4~5人が、荒れ寺の境内奥の林の中に呼び出された。

中学1年にもなると、おおよそ男どもは思春期を迎え、異性への関心も高まる。

ぼくらはきっと、忠治がお兄ちゃんのお下がりの、エロ本でもこっそり持ち出してきて、ぼくらに自慢するのだろうと、半ばそんな期待もあって、忠治の招集に応じた。

ところがぼくらを待ち受けていた 忠治 は手ぶら。

ぼくらはみんな「?????」。

忠治はと言うと、ぼくらの落胆した顔を見比べながら、妙に一人でニタニタとしている。

「今日はなあ、もっとええ物見せたるわ」と。

でもどこからどう見ても、忠治は手ぶらだ。

ただいつもの勉強嫌いな忠治が、中学の夏服の開襟シャツのポケットに、珍しくボールペンを差しているくらいだった。

「これや、これやて!」と自慢気に忠治は、開襟シャツの胸ポケットのボールペンを取り出し、フンッと鼻の穴を膨らませた。

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忠治が手にしたボールペンは、筆先から半分ほどの所から、クリップ側の半分に、ビキニ姿の褐色の肌の女性の絵が描かれている。

忠治はボールペンを水平に保ちながら、「どうや、ビキニのお姉ちゃんや!ええやろ!」と、益々の穴を膨らませひけらかす。

すると「変わったボールペンやなあ?それ、どこのなん?」と、クラス仲間の一人がつぶやいた。

「これはお前、アメリカ製のハワイ土産やて!」と、よくぞ聞いてくれたとばかりに忠治。

しかし、その日集まった忠治ん家を含むクラスメイトの家庭は、どこもかしこも典型的な庶民ばかり。

とても海外旅行など、我が身ばかりか、親類縁者を含め夢のまた夢。

誰もが、何でそんなハワイ土産を、忠治がひけらかしているのか、不思議でならなかった。

すると「このボールペン、不思議なことにペン先を下に向けると、ホレッこの通り!」と、忠治の鼻息がより一層荒くなった。

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ぼくらは顔を突き合わせ、忠治がペン先を下に向けた、ボールペンのビキニ姿の美女に固唾を飲んで見入ってしまった。

すると褐色の肌を纏っていた黒いビキニが、おもむろに脱げていくではないか!

「どうや!」。

忠治はドヤ顔で得意満面。

「こらっ坊主!そのボールペン、どこで拾ったんや!ちょっと見せてみい!」と、荒れれ寺の坊さんが不意に顔を出し、忠治の手からボールペンを捥ぎ取った。

「ここにホレっ、R.Iとイニシャルが彫ったるやろ。これは檀家さんのハワイ土産にもらった、わしのボールペンや!」と、坊さん。

「ヤバイ!逃げろ」と、忠治の声に従い、ぼくらはまるで蜂の巣を突いたように、一斉に逃げ出した。

今にして思えば何故忠治は、わざわざヌードボールペンを拾った荒れ寺の境内で、ぼくらに自慢したのだろう。

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しかしその後しばらくすると、海外旅行の土産と称した子ども騙しなヌードボールペンは、あちらこちらで見かけられるようになり、それほど話題にも上らなくなった。

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「昭和懐古奇譚~貝合わせの貝殻って?蛸の吸出しの入れ物?」(2018.8新聞掲載)

「貝合わせの貝殻って?蛸の吸出しの入れ物?」

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「ええっ!これってさあ、富山の薬屋さんが持って来る、薬箱の中に入っとるやつや!あの大きな貝殻に入った、膿を吸い出す蛸の吸出しやない?こんなんで遊ぶのが『貝合わせ』って言うん?」とぼく。

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すると、ご近所でも指折りのお嬢様である、同い年のフミちゃんは、「???」と怪訝そうにぼくを見つめた。

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夏休みの真っ最中。

この日はフミちゃんのお誕生日会とやら。

ぼくとサッチャン、そして女の子はフミちゃんと仲良しの、ハルちゃんがお呼ばれになったのだ。

明らかにぼくんちやサッチャンちと、フミちゃんちの暮らしぶりは雲泥の差。

見るもの聞くものすべてが、これまで目にしたこともなければ、耳にしたことなどない、家具や調度品に電化製品で溢れ返り、壁際のステレオからは、高貴で軽やかなクラッシック音楽が奏でられ、とにかくぼくとサッチャンは借りて来た猫状態。

ぼくらはそれでも、なけなしのお小遣いで駄菓子屋で買った、紙石鹸やらリリアンと言った、チープなお誕生日プレゼントをコソッとフミちゃんに差し出した。

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恐らくフミちゃんは、駄菓子屋なんかに行ったこともないのだろう。

矯めつ眇めつ眺めまわし、「お母様。こんな素敵なプレゼントいただいちゃったわ!」と。

するとフミちゃんのおばちゃんも、「あらまあ、なんて可愛らしいの。良かったわね。さあ皆、どうぞ沢山召し上がれ!」と。

百貨店の食堂のショーケースの中の、蝋細工でしか見たこともないような、高級そうな洋食を次々に運んで来たのだ。

ご馳走を鱈腹いただいたところで、今度は立派なデコレーションケーキを切り分けたお皿の上に、これまでに見たこともないプリュンプリュンと揺れる、黄色い物体が登場。

おまけにその上には、黒いドロッとした液体が覆っているではないか?

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するとサッチャンが小声で「ミノ君、これって洋風の茶わん蒸しやろか?」と、小声でささやきかけ、居ても立ってもいられぬ様子で、「ねぇ、フミちゃん。これって洋風の茶わん蒸し?」と尋ねてしまった。

フミちゃんは一瞬キョトンとしたものの、「そうねぇ、確かに茶わん蒸しみたいだけど、それはプリンって言うデザートよ。甘くって美味しいから、召し上がってみて」と。

正直サッチャンに感謝した。

だってぼくだってその正体が分からず、もう少し遅かったら、ぼくだって矢も楯もたまらずフミちゃんに尋ね、恥をかくところだったのだから、クワバラクワバラ。

でもそれが、ぼくとサッチャンにとって、互いに人生初のプリンとの出会いとなった。

この世にこんなに美味しいものがあったんだと、しみじみお母ちゃんの茶わん蒸しとの差を感じ入ったものだ。

「ねぇ、貝合わせって、平安時代の遊び教えてあげようか!」。

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そう言って、フミちゃんはキラキラ輝く、螺鈿細工の施さされた貝桶から、ハマグリを床に並べ始めた。

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それを見たぼくは、ついつい失礼にも冒頭の「ええっ!これって、富山の薬売りさんの薬箱に入っとる、膿を吸い出す蛸の吸出しや?こんなんで、遊ぶのが『貝合わせ』って言うん?」と、今想っても実に恥ずかしいことを宣うたものだ。

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何もかも自分の知り得る、小さな世界の中の物に、置き換えてしまうと、大変な恥をかくとつくづく教えられた。

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それほど、ぼくんちやサッチャンちとフミちゃんちとでは、文化度に大きな開きがあったのだ。

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「昭和懐古奇譚~卓上お御籤灰皿」(2018.7新聞掲載)

「卓上お御籤灰皿」

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「ねぇお母ちゃん、一生のお願い!一回でいいから、このお御籤引かせて!」。

そう言えば、ぼくは母に対して、これまでに何度「一生のお願い!」と言う台詞を、軽々しくも使った事だろう?

家族連れでごった返す、百貨店の食堂。

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入り口脇のショーケースには、本物そっくりな蝋細工のご馳走が居並ぶ。

ぼくも両親も、散々迷いからかした挙句、結局は毎月同じお子さまランチと、中華そばに落ち着き、母が入り口で食券を買い求めた。

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そしてもう食べ終わりそうな席の近くに陣取り、席が空くのをひたすら待ったものだ。

しかしこれがまた運が悪いと、一旦食べ終わったかに見えたものの、気を持たせるように徐にオバちゃんが立ち上がり、再び食券売り場へ。

「あ~あ…」。

言葉にならない溜息を上げ、その場にへたり込みそうになったこともしばしば。

しばらくすると何とも贅沢な、プリンアラモードやらソフトクリームが運ばれて来て、こっちは今更食事を終えそうな家族連れを探して、移動するのもままならずただただ待ち惚け。

そんな運の良し悪しをグイッと呑み込み、やっとのことデコラ張りの4人掛けテーブルに席を得たところだ。

どこのデコラ張りのテーブルの中央にも、プラスチック製の割り箸入れと、卓上お御籤灰皿が置かれていた。

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この卓上お御籤灰皿とは、高さ12~13cmほど、直径12cmほどの円柱形。下に脚が付き、天辺にブリキの灰皿が載っている。

そして円柱部分が12等分に分かれ、「1月生まれ」から「12月生まれ」と表示され、その上部に100円玉の投入口が開いていた。

硬貨を投入し、円柱の下部にあるレバーを引くと、幅2.5cmほどで真ん中がビニールの輪っかで止められた、巻紙状のお御籤がコトリと落ちると言う仕組みであった。(それから程なく、誕生月の表示から、誕生星の表示に切り替わった記憶がある)

「ねぇお母ちゃん、一生のお願い!一回でいいから、このお御籤引かせて!」。

思えばいかにも安っぽい「一生のお願い!」の呪文を、もう一度唱えて見た。

しかしお母ちゃんには、トンと通じる気配すらない。

むしろ気付かぬふりをしていたのかも知れない。

とは言えこっちとて、駄目元で呪文を繰り返す。

するとまるで顔の周りを、五月蠅く飛び回る蠅を追い払うかのように、「そんなもんやめとき!お母ちゃんたーの中華そば(ぼくの微かな記憶によると、確か中華そば一杯は70円くらいだった)もう一杯食べたって、まんだお釣りが来るほどなんやで!」と。

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確かに当時のお小遣いなんて、一日たったの10円。

しかもそれすら、毎日内職の針仕事をする母の膝前に座り込み、ご本尊でも拝み倒すようにして、やっとのことでガマグチから10円玉一枚を手にしたものだ。

「ほれみぃ、周りの人んたーなんて、だーれもやっとる人おらんやろ!」。

母が追い打ちをかけた。

お御籤一つに大枚100円を投じるならば、両親が注文した一番安い中華そばも、豪華な叉焼入りにしてあげるべきだと、幼いながらも妙に納得してしまったものだ。

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「昭和懐古奇譚~古新聞は万能なりし家庭の必需品!」(2018.6新聞掲載)

「古新聞は万能なりし家庭の必需品!」

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パシン!

「ほれっ、どうや!お父ちゃんの、必殺新聞蠅叩きや!お見事、命中」。

お父ちゃんは、お母ちゃんとぼくにドヤ顔を向けた。

左手にビールを注いだコップ、右手には古新聞を丸めた蠅叩きを掲げ。

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食卓の片隅に止まり、今し大皿に盛ったコロッケへ飛び移らんとした蠅を、その寸でのところで、お父ちゃんは丸めた古新聞で、器用に叩き潰した。

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「まあ、お父ちゃんの取り柄ゆうたら、蠅叩きとゴキブリ叩きくらいなもんやでなあ」。

お母ちゃんは事も無げにそう(のたも)うと、キルト製のお(ひつ)カバーを外し、ご飯茶碗にご飯をテンコ盛りによそいながら鼻先で笑った。

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「あっ、お父ちゃん。蠅を叩いた新聞紙、古新聞の束と一緒にせんと、ちゃんとゴミ箱に捨てといてよ。この前なんて、古新聞の束と一緒にしたったで、そんなこと知らんと、危うくお隣さんへお裾分けする、キュウリ包んで持ってくとこやったんやて!うっかりしとったら、えらい恥かくとこやったわ。間違(まちご)うてお隣さんがキュウリの包み広げてみ。中から干からびてペッちゃんこの蠅が、キュウリにへばり付いとったら、さぞかし気色(きしょく)悪いやろ!」。

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お母ちゃんの怒りが再燃。

「そやなあ。お母ちゃんの言う通りや」と、お父ちゃんはお母ちゃんの怒りも何のその。

いつものようにそんな言葉で煙に巻き、ただただ嵐が早く収まるようにと、黙々とビールを煽り箸を進めた。

昭和半ばは、読み終えた古新聞と言えど、立派な家庭の再利用資源であった。

弁当箱や野菜を包んだり、時にはちょっとした包装紙にも早変わり。

また、新聞紙を細かく千切って水を含ませれば、座敷の埃を箒で掃き出す、埃吸着シートに。

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果ては揚げ物の油切りから、七輪の火熾し用の着火剤、そして蠅叩きとしてと、兎にも角にも丁々発止の大活躍振りだった。

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何もそれは家庭に留まらず、量り売りの煎餅やあられの菓子屋でも、お好みや焼きそばにタコ焼き屋から、肉屋に魚屋、八百屋まで、古新聞で作った袋や包装紙を極々普通に、何の衒いも無く使っていたものだ。

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今の世では、古新聞や雑誌類は、資源回収され再利用がなされる。

しかし今ほど物が豊でなかった昭和の半ばは、資源回収に回すまでも無く、皆が皆、それぞれに知恵を絞って、限りある資源を大切にしたものだ。

幼稚園の頃、田舎のお婆ちゃん()へ行き、離れに設けられた厠へ入ると、チリ紙籠に程よい大きさに切った、古新聞が束にして積み上げられていた。

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それがチリ紙の代用品とは思えず、泣きながら大声でお母ちゃんを呼んだ。

するとボットン便所にでも落ちたのかと、お母ちゃんが必死の形相で飛んで来てくれた。

「どうしたんや?便所にでも落ちたんか?」とお母ちゃんが、力任せに引き戸を開けた。

「だって、お尻拭くチリ紙がないんやもん」とぼく。

するとお母ちゃんは、「これを揉み解したるで、これで拭いとき」と。

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お母ちゃんは驚くでもなく、チリ紙籠の古新聞を揉みしだいた。

新聞は、その日その日の出来事を伝える一方、生活必需品の一部としても、限りなく役に立つものだと子どもながらにつくづくそう感じた。

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「昭和懐古奇譚~うどん粉って?メリケン粉?」(2018.5新聞掲載)

「うどん粉って?メリケン粉?」

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「すまんな、まだ寝とんのに。悪いけどうどん粉って、どこの棚に仕舞うたった?」。

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お父ちゃんは日曜日の早朝、まだ暗いうちから起き出して、台所の片隅で何やらゴソゴソやっていた。

どうせ鮒釣り用の餌でも拵えようとしていたのだろう。

ところが肝心要のマッシュポテトもうどん粉が見当たらず、寝室に早変わりした茶の間の襖を、恐る恐るそ~っと開け、小声でお母ちゃんに尋ねたのだ。

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「もう朝早うから!いったい今何時やと思っとるの!せっかくの日曜やに!うどん粉うどん粉って、そんな事で起さんで欲しいわ、まったく!メリケン粉やったら、右側の棚の一番下の、大きなアラレの入っとった缶の中やて!」。

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お母ちゃんはそう吐き捨てると、不機嫌極まりない顔で、布団の中へと潜り込んでしまった。

「うどん粉」に「メリケン粉」。

その明確な違いも判らず、わが家ではぼくが子どもの頃から、何の違和感もなく、父は「うどん粉」、母は「メリケン粉」と、そう呼んでいた。

それでも普通に父も母も、あまつさえこのぼくでせさえ、意味を違うことなく互いに理解し合っていたようだ。

もっともうどん粉は、うどんの素になる粉であると、朧げに思っていたから、そう呼ばれるのも頷ける。

しかしそれにしてもメリケン粉とは、これまた大胆不敵で不思議な名前だ。

でもだからといって、メリケン粉の語源が腑に落ちようが落ちぬとも、別段日々の暮らしに影響もないから、ずっと有耶無耶のままであった。

小学校の高学年になり、家庭科の時間のこと。

確か調理台を囲んで、男女3人ずつが一組となっていた気がする。

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「それでは次に、ボールに小麦粉1カップと、牛乳50ccを入れて、泡だて器でかき混ぜてください」と、家庭科の先生。

するとぼくらの組の、何でもかでも知ったかぶりで直ぐに口を挟む、まあよく言えばリーダーシップを発揮する、男共にとって天敵のような女子が指示を飛ばした。

「井上君はボールと泡だて器を、棚から出して洗って。それから植田君は、牛乳を50ccカップで計って。えーっと岡田君は、小麦粉1カップを教壇へ行って貰って来て」と。

「ええっ、小麦粉って、うどん粉やメリケン粉とは違うの?」。

ぼくは今更恥ずかしい気がして、そう心の中で呟いた。

あの彼女は今頃どうしているであろう?

恐らく押しも押されもせぬ、立派な鬼嫁殿として、今尚我が世の春とばかりに、亭主を尻に敷き君臨しているに違いない。

嗚呼!

クワバラクワバラ。

教壇には既に他の組の女子たちが集まっていた。

しかも男が小麦粉を取りに来ているのは、ぼくらの組だけではないか。

女子たちは小麦粉と書かれた大きな紙袋から、カップ一杯の小麦粉を器用に掬い出しながら、「うどんこって、1カップやったね」「そうや!カップ1杯のメリケン粉やよ」と。

良かったわが家だけじゃなかった!

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どこの家でも、それぞれに「うどん粉」やら「メリケン粉」で、罷り通っていたようだ。

だって誰一人として、「小麦粉」なんて呼ばなかったのだから。

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