「遥かなるカリーテンプルへの道!」(第2話)

2000年9月12日 毎日新聞朝刊掲載

「7人の侍ならぬ7人の僧侶」

インド釈迦成道の聖地、ブッダガヤ。

その土地の寄進を受けることになったものの、「いったいこれから、どないしよう?」。

内田はため息を漏らした。

そこで彼は全幅の信頼を寄せる、福井県南条郡の善導院、清水涼裕(52)住職に声を掛けた。

「ほらぁなんとかせな、しゃあないで」。

この清水の一言で神戸から3人、豊岡から1人、福井からも1人の僧侶が、志を一つに集結した。

総勢7人。

会の名は「お釈迦様の聖地に宿坊を作る会」と定められ、早速その土地の視察へと内田・清水・古本の僧侶3人が1998年7月に渡印。

しかし寄進される予定地は、表通りから他所の土地で遮られたその奥にあった。

建築どころか、人が入ることさえままならない。

ただただ愕然とするばかり。

インド渡航歴が最も豊富な猛者、内田でさえ極度のストレスから40度近くの高熱にうなされた。

しかし寄進を申し出た、ブッタの里の村人の善意を、責め立てることなど到底できない。

3人が肩を落とし帰国準備を始めた頃、もう一人の村人(タルケッシュ・パスワン)から代替地を提供しても良いとの申し出が入った。

写真は参考

わずかな残り時間を費やし、土地の下見と交渉が行われ仮契約に。

たった24時間ぽっきりの、何とも綱渡りのようなブッダガヤ滞在となった。

一度は夢が潰えたかのように、ただ打ちひしがれてばかりだった3人も、口々に「お釈迦のご縁だ!南無阿弥陀仏」と、ブッダの里の大地を茜色に染め上げながら沈みゆく夕陽に向い合掌した。

7人の侍ならぬ7人の僧侶は、20世紀末のカリーテンプル建立に向け、大いなる一歩を踏み出した。

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「遥かなるカリーテンプルへの道!」(第1話)

2000年9月5日 毎日新聞朝刊掲載

この「遥かなるカリーテンプルへの道!」は、「カリーテンプルへの道」というシリーズで、2000年9月3日から2001年3月6日まで、毎日新聞朝刊に連載していただいたものです。

今回はその一部に加筆修正を加え、ブログにアップさせていただきます。

「17年前の300杯のカレー」

「インドに寺を建てなあかんねん!」。そう言って男は、コップ酒を煽った。

男の名は、内田卓也(45)。れっきとした滋賀県八日市市の浄土宗福命寺住職だ。

「なに言うてんねん。この坊んさん?」。ぼくはこっそりつぶやいた。しかし2杯目のコップ酒が空になる頃には、すっかり彼の独演会へとのめり込んでしまったのだ。

彼は1981年から3年間、インド・ビハール州のブッダガヤに日本寺駐在僧として滞在。釈迦成道の仏教の聖地の貧しい村人たち。誰もが慎ましく、支え合って生きる姿に感銘を受けた。

写真は参考

彼は3年間の駐在期間の大半を、貧しい村人たちと過ごし、ヒンディー語も独学で学んでいった。この3年で彼は、物質中心となり果てた日本人の価値観に、大いなる疑問を抱いたという。

彼は任期を終え帰国に際し、世話になった村人たちへのせめてもの礼として、私物を売り払い300杯分のチキンカレーを振舞った。

それから15年後。

ブッダガヤから彼の元に一本の国際電話が入った。

電話の主は、15年前にカレーを食べたという青年から。

ブッダガヤの土地を寄進したいとの申し出であった。

「村人と日本人が、15年前のカリーパーティーのように、共に触れ合える場所を作って欲しい」。

当時の少年は、内田に願いを託した。

「わかった」。

彼はヒンディー語でそう応えたものの、「えらいこっちゃがな!」が、本音だったと振り返る。

カレーが紡いだ不思議な出逢いは、一本の国際電話を境に6.000㌔を隔て、新たな日印の物語を刻み始めた。

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「昭和懐古奇譚(最終回)~下呂膏とお灸」(2019.9新聞掲載)

「下呂膏とお灸」

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「ああ、そこじゃね!もうちっと…、右上や…。おお、そこじゃ、そこじゃ…」。

母方の鹿児島生まれの婆ちゃんは、小さな背を丸め着物の襟を抜き、両肩を露わにしたままぼくにお灸のもぐさを据えさせた。

参考資料

「次は蚊取り線香(せんこ)の火種で、とんがり帽子のようなもぐさの天辺に火を()っくんじゃ…」。

婆ちゃんに言われるまま、ぼくは恐る恐るもぐさに火を灯した。

たちまち縁側に煙が立ち込める。

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とんがり帽子のようなもぐさの火は、真っ赤になりながら、婆ちゃんの肌の方へと降りて来た。

「ねぇ婆ちゃん、熱くないの?」。

婆ちゃんの肌がやけどしないか、ぼくは心配でならずそう尋ねた。

「そげなこちゃない。こん熱さが堪らんとよ。ああ、効いて来た来た」。

婆ちゃんは、わずかに顔をしかめた。

「ねぇお母ちゃん。今日先生が『今度の9月15日は敬老の日です。皆さんが、お爺ちゃんお婆ちゃんを敬い、感謝する日です。お父さんお母さんと相談して、お爺ちゃんお婆ちゃんの大好物をプレゼントするのもいいでしょうし、お爺ちゃんお婆ちゃんに、感謝のお手紙を書いて渡すのもいいでしょう。もちろん肩叩きをしてあげるのもいいですね』って。

だからぼくも婆ちゃんに何かしてあげたいと…。

「ぼくもちょっとだけど、豚の貯金箱のお小遣い出すから、婆ちゃんに何かプレゼントしようと思うんだ…。お母ちゃんは何がいいと思う?」。

半ドンの土曜日。

一目散で学校から駆け戻り、台所で焼き飯を作っていたお母ちゃんに問うた。

「婆ちゃんにか?そうやなあ、いっつも肩が凝った肩が凝ったって、お灸据えてから下呂膏を貼っとるやろ。それやったらお灸のもぐさと、下呂膏をプレゼントしたら、婆ちゃん喜んでくれるんやない?」と、お母ちゃんはいつになく嬉しそうな顔を浮かべた。

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さっそく昼ご飯を終え、お母ちゃんと連れ立ち、近所の薬局へと向かった。

婆ちゃんの肩のお灸の火が消え、縁側にわだかまっていた煙を、ほんのわずかに秋の香りを感じさせる、初秋の風が運び去った。

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あれっ?

婆ちゃんの目から涙が!

「ねぇ、婆ちゃん。やっぱりお灸が熱かったんやない?だって、婆ちゃん泣いてるんだもん…」。

「そじゃねぇ。こん涙は熱くて()てからじゃね。おはんのしおらし心に打たれて流れ出た、うれし涙じゃ。(なん)心配(せわ)すっこっは()。ああ、極楽極楽。こんお灸、ほんのこてようよう効いたわ。あいがとうな。ほな次は、遠慮(えんじょ)のう膏薬(こやっ)を貼ってもらうとするか」、婆ちゃんは燃え尽きたもぐさを器用に摘まみ上げ、灰皿の中へと捨てた。

婆ちゃんの肩のお灸の跡は、薄紅色になって丸い斑点が浮かんでいる。

「ねぇ、婆ちゃん。お灸の跡が、ピンク色になってるけど、本当に痛くないの?」と、ぼく。

()て事なんちない。それどころか、あげんパンパンじゃった肩の凝りも、しったい良くなったようじゃ」と、婆ちゃんは皺だらけの顔を綻ばせ、ぼくを振り返った。

「じゃあ、今度は下呂膏を貼るよ。この辺でいいの?」と、ぼくが婆ちゃんの肩に指を這わせた。

すると婆ちゃんは皺だらけの手をぼくの手に添え、膏薬を貼るツボに導いた。

「ここが膏薬(こやっ)真中(まっぽし)なるように、上手(じょ)しこと貼っとくれ」。

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ぼくは慎重に婆ちゃんの肩に、あの独特な匂いを発する下呂膏を貼り付けた。

「ああ、(ちん)とて気持(きもっ)がええ」。

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婆ちゃんは縁側に坐したまま、気持ちよさ気に目を閉じ、何度も何度も独り言ちながら、湯呑に入った芋焼酎を舐めていた。

※明日からは、新シリーズをお届けいたします。

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「昭和懐古奇譚~ブーブークッション」(2019.8新聞掲載)

「ブーブークッション」

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ブッ ブゥーッ ブッ ブゥーッ。

クラス全員の視線が、ただならぬ音の方に注がれた。

朝礼の日直が「起立、礼、着席」と言った直後の事だ。

誰もが、「まっ、・・・まさか!」と、只ならぬ音の方を振り向き、固唾を飲んだ。

その視線の先の女生徒を見つめ、誰もが言葉を失った。

だってその視線の先には、慌てて椅子から立ち上がった、我がクラスの、いや我が学年の男子たちから、憧れのマドンナと呼ばれる「ヒトミちゃん」がいたからだ。

下賤なぼくらなんぞとは異なり、天使のようなヒトミちゃんが、放屁はおろか大も小も、不浄な事など絶対にしないと、男共は勝手にそう信じ切っていたからである。

すると呆然と立ち尽くしたままのヒトミちゃんは、見る見るうちに真っ赤な顔となり、「ええっ、今のはオナラ?ええっ、ワタシの?」といった感じで、両手で顔を覆い教室を飛び出して行った。

担任の女教師も、ヒトミちゃんを追い、教室を飛び出した。

誰もが席から立ちあがり、先生とヒトミちゃんの行方に目を見張るばかり。

そんな中、ぼくの斜め前方の席で、不審な動きをしている男子生徒がいた。

クラス一のお調子者の忠治である。

ヒトミちゃんの席の後ろから手を伸ばし、忠治が何やらこそこそと、ヒトミちゃんの座席を(まさぐ)っているではないか!

しかしぼくの席からでは、忠治の手元がハッキリと見えない。

…何をしてんだ…

すると隣の席の女子が、忠治の手首を思いっきり掴み上げた。

その女子とは、クラスメイトの皆から、ダンプカーと綽名されていた、相撲部の黒宮さんだ。

そこへ担任の女教師が戻って来た。

「なんですか?それは?」と、先生は黒宮さんに掴み上げられた、忠治が握ったままのオレンジ色をした、平べったい風船のようなものを取り上げた。

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そして先生は、まだ空気を含んでいる風船を椅子に置き、何の躊躇いもなく座って見せたではないか!

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するとまたしても、ブッ ブゥーッ ブッ ブゥーッ。

クラスの皆は、先生の周りを取り囲むように、笑いを押し殺しながら、その一部始終を目の当たりにした。

「どうしたんですか?これは?」と、先生はやさしく忠治に問いかけた。

「…親戚のお兄ちゃんに貰った、ブーブークッション…。だってこれを自分の好きな女子の椅子に置いて、その子が座って音が鳴ったら、もっともっと仲良くなれるって…」と、忠治が告白。

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「それはお兄さんが、面白がって君をからかったのよ。まあそれを真に受けた、君の素直さについては、先生も褒めてあげるけど。でもヒトミちゃんの気持ちはどう?皆の前で、まるで自分がオナラをしたみたいに思われちゃって。さあすぐに追いかけて、ヒトミちゃんに自分の言葉でちゃんと謝って来なさい」と先生。

忠治はブーブークッションを片手に、ヒトミちゃんを追いかけて行った。

ただ忠治の悪戯だけを頭ごなしに叱り付けるのではなく、自らブーブークッションに座って見せることで、ヒトミちゃんの名誉も瞬時に回復。

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それにも増して、お調子者の忠治にも、再起のチャンスを与えた女教師に、あの時代劇の名奉行、「大岡裁き」も真っ青だった。

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「昭和懐古奇譚~怒髪天を衝く!」(2019.7新聞掲載)

「怒髪天を衝く!」

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「おはよう!」「オッス!」「おはようさん!」。

皆口々に朝の挨拶を交わし、それぞれの教室へと消え入る。

ぼくも3年2組の自分の教室へと入った。

するとどうしたことか!

教室の一番後ろの席に皆が集まり、男も女も大声で大笑いしているではないか!

何事かと、ランドセルだけ自分の机の上に放り出し、ぼくも野次馬のように輪の中へと飛び込んだ。

輪の中心にいるのは、いつも突拍子もない事を言っては、皆を笑わせるお調子者の忠治だった。

今日はまた何をやらかしたのかと、よくよく覗き込むと、お調子者の忠治の髪の毛が、全て天に向かって逆立っているではないか!

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その異様な忠治のヘアスタイルを眺めながら、皆は腹を抱えて笑い転げている。

すると忠治のお調子こきは、とめどなくエスカレートしていった。

ついには隈取こそないものの、大仰に目を寄せ、歌舞伎の成田屋もどきにらみ(・・・)を利かせ、「ドハツテンヲツク!」と渋い台詞回しで、見得まで切るから手に負えぬ。

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ところがそうこうしているうちに、梅雨の湿り気のせいか、逆立っていた忠治の髪の毛が、いつの間にか元通りとなり、ただの坊ちゃん刈りに。

すると忠治は、慌ててセルロイドの下敷きを取り出し、自分の脇の下に挟んで、下敷きを擦り始めたではないか!

そして今度はやおら、下敷きを水平に頭髪に宛がい、そのまま頭上に持ち上げた。

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すると忠治の総髪は、再び天に向かって逆立つではないか?

子供なんてぇものは、何時の世でも同じ。

ちょっと珍しい事があると、すぐに真似て見たくなるのもけだし人情。

ついに忠治の周りを取り囲んでいた、男女が一斉にセルロイドの下敷きを擦り出し、呪文のような「ドハツテンヲツク!」の言葉と共に、髪の毛を逆立て出したから始末に負えない。

そこに何とも間合いが良いのか悪いと言おうか、歌舞伎の幕間を告げる、一丁の()のような始業のチャイムが鳴り響き、担任教師が教室に入って来たからさあ大変!

さすがの担任教師も、生徒の髪型が皆、天を衝くように皆逆立っている、そのただならぬ異様さに一瞬思わず言葉を失ったようだ。

しかしそこはさすがのベテラン教師。

何故そんな事態になったのかを、過去の事例から瞬時に思い出したのだろう。

何食わぬ顔で、朝礼を始めた。

子供らはと言えば、担任からさりとて咎められるわけでもなく、まるで何事もなかったかのように、淡々と普通を装って朝礼を始める教師の違和感と、自分の前の席に座る子供の、逆立ったヘアスタイルを眺め笑いをこらえるのがやっとだった。

ぼくはあの、成績の出来はお世辞にも良くはなかった忠治が、大仰に目を寄せ、歌舞伎の成田屋もどきにらみを利かせ、「ドハツテンヲツク!」と(のたも)うた、あの呪文のような渋い台詞が、気になって仕方がなかった。

家に帰るとさっそく下敷きを擦り付け、髪の毛を逆立てお母ちゃんを脅かそうと、「ドハツテンヲツク!」と、両目を寄せにらみを利かせた。

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するとお母ちゃんは、「どうしたんや?熱でもあるんとちゃうか?」と、逆立った髪の毛には何の関心も示さず空振り。

逆にぼくは自分の間抜けな姿が、一輪車から転げ落ちたピエロのようで、とてもやるせなかった。

そしてそれが、静電気なるものの仕業だと分かるのは、まだまだ随分と先の事であった。

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「昭和懐古奇譚~煙草の煙の輪っか」(2019.6新聞掲載)

「煙草の煙の輪っか」

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昭和半ば。

お父ちゃんのホンコンシャツは、いつも煙草の匂いがした。

胸ポケットには、プラスチックの煙草入れと、桃印のマッチ箱。

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両切り煙草の「SINSEI」を一本抜き取り、左手の親指の爪に当てトントントン。

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縁側の陽だまりに腰かけ、マッチで火を灯す。

そして煙草を大きく吸い込むと、顔を上に向けて口を開き、右手で頬を軽くポンと一叩き。

するとあら不思議!

白いドーナツのような大きな輪っかが空へと舞い上がり、そよぐ風になびき姿を変え、やがて周りの風景に溶け入る。

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「父ちゃん、もっと輪っか出して!」とぼくがねだる。

すると父は嬉しそうに、小さな輪っかを連ちゃんで吐き出したり、特別大きな輪っかを吐き出す。

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ぼくは父とのそんな戯れが好きだった。

そして何度もその輪っかを手に取ろうと負いかけもしたものだ。

でもあとちょっとと言うところで、いつもいつも煙の輪っかにものの見事にはぐらかされた。

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ある日のことだ。

毎日母から貰えるお小遣いを貯め、近所の駄菓子屋で、念願だったシガーチョコを手に入れた。

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どうしてもお父ちゃんの真似をしてみたくって。

台所の一口コンロに母が火を点けるために置いてある、大きな徳用の桃印のマッチ箱を拝借し、縁側に陣取った。

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まるで父の仕草をなぞるようにして、シガーチョコを一本抜き取り、左手の親指の爪に当てトントントン。

そしておもむろに口に咥え、マッチで火を灯した。

しかし本物のお父ちゃんの「SINSEI」とは異なり、吸っても吸っても煙を吸い込めなければ、火も灯らない。

やがて洗濯物を取り込もうと、縁側へやって来た母に見つかり、「あんたぁ、何やっとんの!見て見やあ、シャツやズボンにチョコが垂れてまっとるがね!」と大目玉。

近所の子らと缶蹴りに講じていた時だ。

何の話からか、「家のお父ちゃん、ものすっごい大きな、煙草の煙の輪っか作るんやぞ!」と、自慢話しが始まった。

すると皆も口々に、「家のお父ちゃんの方が、絶対大きな輪っかや!」と、負けず嫌いの応酬へと発展。

すると皆から一目置かれていたマー君が、「だったら皆で、お父ちゃんをこの公園に連れ出して、煙の輪っか競争をしたらどうやろ」と一言。

ぼくらは言葉巧みに、それぞれの父親を公園へと誘いだした。

「ねぇねぇお父ちゃん、お友達のオジチャンたちと一緒に、このベンチに座って!」と。

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するとマー君が、「これから誰のお父さんが、一番大きな煙の輪っかを作れるか、競争していただきます」と、高らかに告げた。

3人掛けのベンチ2台、計6人のお父ちゃんたちは、一斉にホンコンシャツの胸元から煙草ケースを取り出す。

「よーいドン!」。

マー君の掛け声で、お父ちゃんたちは一斉に煙草に火を点け、プカプカと白い煙の輪っかを吐き出し始めた。

ところがどこのお父ちゃんが吐き出す煙の輪っかも大同小異。

ぼくらにはその優劣など見極められようもない。

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するとたまたま、買い物帰りのお母ちゃんが通りかかり、その異様な光景に目を止めた。

「お父ちゃん、そんなとこで何やっとんの!いつまでも油打っとらんと、さっさと帰って台所の棚吊ってよ!」と、お母ちゃんの一声。

たったその一声で、「煙の輪っか競争」も見事に煙に巻かれてしまった。

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「昭和懐古奇譚~ツイスターに胸キュン」(2019.5新聞掲載)

明けましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いいたします。そして皆々様にとって今年が、素晴らしい年となりますように!

「ツイスターに胸キュン」

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小学校の3年生になった頃のことだ。

サッチャン家に上がり込んで、ぼくはサッチャンとチラシ広告の裏を使い、三目並べに没頭中。

すると玄関先で、中学生になったばかりのサッチャンのお姉ちゃんの声がした。

しかもワイワイガヤガヤと。

お姉ちゃんは同級生の男女3人を従え、三目並べに夢中のぼくらを蹴散らす。

そしてやおら、茶の間の卓袱台を片付け始めた。

ますますぼくらは、茶の間の隅っこへと追い払われる。

すると間髪入れず、お姉ちゃんの指示で、友達が持参したハイカラな敷物を広げ始めた。

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およそ畳一枚分ほどのビニールシートには、赤・青・黄・緑の円が4列6個ずつ、びっしりとシートを埋め尽くしている。

ぼくもサッチャンも、初めて目にするハイカラな玩具。

すると一人の男子がシートの外に立ち、スピナーと呼ばれるルーレットのような物を回し、針が止まった所に表示された、「右手を黄色へ」と呼びあげる。

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するとサッチャンのお姉ちゃんと、もう一人の女子と男子の3人が一斉に、自分の立っている近くの黄色の円に右手を乗せた。

すると「次は、左足を赤へ」と、次々に指示が繰り出される。

やがてゲームに没頭する男子も女子も、不格好な四つん這い状態。

学生服の男子はともかく、セーラー服にスカート姿の女生徒も、まったくお構いなし。

ぼくとサッチャンは、サッチャンのお姉ちゃんではない女生徒の、露わになった真っ白な太腿に目を奪われた。

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「何か心臓が、急にバクバク鳴り出して来ちゃった!」とサッチャン。

「えっ、ぼくも心臓が口から飛び出しそうやて!」。

とは言え、二人は壁の隅に身を寄せたまま、女生徒の真っ白な太腿の行方に、ボーッとしたまま釘付け。

見えそうで見えぬもどかしさに翻弄され、その奥に潜む未だ見ぬ女体の神秘への妄想が渦巻く。

ゲームが進むにつれ、女生徒の真っ白な太腿もが、シートの上を右へ左へと揺れる。

その度にスカートの裾も翻り色香が漂い、ぼくとサッチャンは何度も生唾を飲み込んだ。

「あー楽しかった!このツイスターって最高やて!」と、サッチャンのお姉ちゃん。

そこで初めてその艶めかしいケームが、「ツイスター」と呼ばれるものだと知った。

「サトシとミノ君もやってみたいやろ?」と。

サッチャンのお姉ちゃんに促され、シートの上にぼくらも立った。

サッチャンのお姉ちゃんの対面がぼく。

さっきの真っ白な太腿の女生徒の対面がサッチャン。

ゲームが進むたびに、全員が四つん這いの団子状態。

一歩でもぼくの右側の、真っ白な太腿の女生徒の方へと近付きたい。

しかしいかんせん、小学校低学年のぼくらと、中学生のお姉ちゃんたちとは、手も足も長さが違い過ぎる。

「次は、右手で黄色へ」と指示が飛んだ。

だがぼくの近いところには、黄色が見当たらぬ。

すると一か所だけ、何とか手が届きそうなところがあるではないか!

「えいっ、ままよ!」と右手を伸ばし、黄色い円に手を伸ばした。

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すると頭上から、サッチャンのお姉ちゃんの声が!

「ミノ君、嫌らしい!今スカートの中覗いたやろ!」と。

ぼくなんて四つん這いになりながら、両手両足を必死に踏ん張り円を押さえるのに一杯で、顔を上げることなどままならぬと言うのに…。

「畜生!濡れ衣だあ!」

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「昭和懐古奇譚~銭湯の番台に咲く姥桜」(2019.4新聞掲載)

「銭湯の番台に咲く姥桜」

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「お婆ちゃん、大人一人、子ども一人ね」。

母は女湯の暖簾を潜り、引き戸を開けると番台にチョコんと座った、お婆ちゃんに小銭を手渡す。

「そういやぁあんたとこのミノ君、今日は小学校の入学式やったんやなぁ。おめでとう。しっかり勉強するんやよ」。

そう言うとお婆ちゃんは番台から手を伸ばし、白い封筒に新聞社名の入った、二本入りの鉛筆を差し出した。

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「あらお婆ちゃん、そんな入学祝いなんて・・・。ありがとう」。

母はぼくの頭を手で抑え、「ありがとう」の言葉を添え、深々と頭を下げさせた。

我が家が内風呂になったのは、ぼくが小学3年になってから。

だからそれまでは、母に手を引かれ、近所の銭湯の女湯のお世話になったものだ。

でもひと月に一日二日は、父に連れられ男湯に浸かった。

何でひと月に一日二日、男湯なのかと幼いながら疑問に感じたものだ。

その朧げな疑問が判明したのは、中学に上がった年の保健体育の時間だった。

「そうか!そう言うことやったんや」と、男女の生理的な隔たりに、妙に納得したのを覚えている。

「ねぇねぇお父ちゃん。今日は何でお母ちゃんは、後からお風呂行くって言うの?」。

男女の生理的な違いを露知らぬぼくは、そんな質問を父に浴びせ、父を困らせたものだ。

その都度口下手な父は、答えに窮しながらも「お母ちゃん、今日は仕舞い湯がええんやと」と、言葉を濁すのが精一杯であった気がする。

お風呂に浸かり体を洗い、脱衣場へ上がれば、爺様からオッチャン、そしてぼくら男坊主どもも、番台の正面に据え付けられた白黒テレビに、みな素っ裸のまま釘付け。

ちょうど脱衣場の男湯と女湯を隔つ、壁の上にテレビが据え付けられていた。

爺様もオッチャンも、そしてぼくら男坊主どもも、テレビに映し出されるプロレスラー豊登の姿を真似、両足を肩幅ほどに広げ、両腕を広げた姿勢から胸元でクロスさせ、脇の下でカッポーン、カッポーンと良い音を鳴らしたものだ。

番台のお婆ちゃんは、そんな男どもにゃ無関心。

せっせと毛糸の編み棒を繰っていた。

ある日のこと。

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番台にお婆ちゃんの姿は無く、お爺ちゃんが男湯の方に顔を向け、居心地悪そうに座っているではないか?

すると銭湯代をお爺ちゃんに手渡しながら、お父ちゃんが問うた。

「爺様、お婆ちゃんどこぞ具合でも悪いんか?」。

すると「ああ!昔看板娘やった家の姥桜か!今日は孫んたーと、姥桜が夜桜見に行っとんやて」と。

「でもたまにゃあ爺様、番台座るのんもええもんやろ。目の保養にもなるし」と、心なしか羨まし気なお父ちゃん。

「わしも、いっぺんでええで、番台に座れるもんなら座ってみたいもんや」。

お父ちゃんが爺様を茶化す。

「馬鹿言うんやない。そんなもんうっかり女湯をボーッと見とってみい、『キャーッ、いやらしい、この助兵衛じじい』って、言われるのがオチやで、こうして狭い窮屈な番台に座って、体ごと男湯の方に向けとらんなんのやで、わしかて誰かに代わってまえるもんなら、代わってまいたいもんやて」。

爺様はそう言いながら、石鹸箱を取る振りをして、一瞬こっそり女湯を確かに覗き見た。

「まあ、ゆっくり温まってってな」。

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爺様は、ぼくらに見咎められたと気付いたようで、照れ臭そうにその場を取り繕った。

今年も一年、ブログをご訪問下さり、誠にありがとうございました。来年もどうぞよろしくお願いいたします。

どうぞよいお年を!

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「昭和懐古奇譚~ブリキの蝉の鳴き声は、ペッコンペッコン」(2019.3新聞掲載)

「ブリキの蝉の鳴き声は、ペッコンペッコン」

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あっちでペッコン、こっちでペッコン。

たったそれだけの、わずか数秒にも満たない、刹那的な子どもの遊び道具だ。

それがぼくらを虜にした、ブリキの玩具の蝉である。

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ましてや周りの皆がブリキの蝉をペッコンペッコンやっているのに、自分だけが蚊帳の外ではなおさらのこと。

もう何としても、どんな姑息な手を使ってでも、ブリキの蝉を手に入れねば、にっちもさっちもいかない。

それは子どもが子どもである、証だったのかも知れぬ。

近所の氏神様の縁日。

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数々の屋台が立ち並び、多くの家族連れで賑わった。

昭和半ばの時代を顧みれば、それは年に一度訪れる、近在の衆が首を長くして待ち侘びた、大切な晴れの日でもあった。

中でも一番人気は射的の屋台。

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ライフルの先っちょの銃口に、コルクの弾を込め、それで的を射抜くと言う、今でもたまに見かける単純極まりない遊びだ。

遊技代はと言うと、当時のぼくの小遣いからすりゃあ、とても高根の花だった。

確か一回で大枚50円ほど。

一日たった10円の小遣いの身からすれば、悠に5日分。

遊技代を屋台のオッチャンに手渡すと、オッチャンは不愛想な顔で、引き換えにベコベコに凹んだブリキの皿にのせたコルク弾5個を手渡す。

そして射撃台に紐で括り付けられたライフルを手にする。

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次にライフルの横に飛び出た、ボルトレバーを手前に引き、銃口にコルク弾を込め、ひな壇に飾られた豪華なお菓子に狙いを定め、「ええい!ままよ」と引き金を引く。

見事に的のお菓子を撃ち落せば、それが射的の景品となる寸法だ。

そんな射的屋の傍には、洟垂れ小僧やお転婆娘たちが犇めく。

そして皆申し合わせたかのように、片手でブリキの蝉を弾いて、ペッコンペッコン。

今まさに引き金を引かんと、ライフルを構える子どもの先の、ひな壇を見据える。

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ポンッ。

間の抜けたライフルの発射音がした。

ぼくも慌ててひな壇を眺めた。

しかしひな壇に飾られた豪華なお菓子は、小動(こゆるぎ)もしない。

するとオッチャンが、「はい、ボク。おおきに。ホレッ、残念賞や!」そう言って、あのペッコンペッコンのブリキの蝉が無造作に手渡されるではないか!

ぼくは一目散に、家へと帰った。

道々、お母ちゃん口説き落とし、何とか50円を手にする口述を考えながら。

「ねぇお母ちゃん。屋台の射的で皆が遊ぶもんだから、ぼくも一緒になって射的したら、射的代が50円もしたんやて。でもそんなお金持っとらんってオッチャンに言ったら、『オッチャンおまはんを信じて、ここで待っとったるで、今から家まで行ってもらって来い』って」。

「たぁけやなあ、この子は!」。

そう言うとお母ちゃんは、渋々がま口を開き50円を握らせ「オッチャンにちゃんと、ごめんなさいって言うんやで」と、言葉を添えた。

まんまと50円を手にし、急いで射的の屋台へと向かった。

カランカラーン。

射的屋のオッチャンが鐘を鳴らした。

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「坊、ええ腕しとるなあ。5発とも命中されたら、オッチャン商売あがったりや!」と。

紙袋一杯のビスケットやらチョコレートをぼくは抱えた。

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周りで子どもらのため息がする。同時にぼくもため息をついた。

だってこんな筈じゃなかったんだから。

きっと5発とも的を外し、残念賞の念願だったブリキの蝉を、皆みたいにペッコンペッコンやりながら、意気揚々と家へと引き上げるつもりが…。

だからぼくは、紙袋の景品を恨めしそうに眺めている、近所のトモちゃんに言った。

「トモちゃん、このチョコレートと、トモちゃんのブリキの蝉と交換してくれん?」と。

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見事に子ども同士の利害が一致し、ぼくは念願のブリキの蝉を手に、ペッコンペッコン、飽きもせず鳴らしたものだ。

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「昭和懐古奇譚~そんな残酷な!孫の手を取るだなんて!」(2019.2新聞掲載)

「そんな残酷な!孫の手を取るだなんて!」

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「やぁ殻い、婆さんやい!孫の手どこやったか知らんか?ちょっと取ってくれんか」と、隣の隠居部屋から爺ちゃんの声がした。

とは言え、爺ちゃんとは、ぼくの本物の祖父ではない。

父方の遠縁にあたる菊池の爺ちゃんだ。

随分のち。

三重の山奥へご先祖様の墓参りに詣でた折のこと。

ぼくの父方の祖父と祖母が眠る、小さな墓石に手を合わせた。

すると父は墓地の一番奥にデーンと居座る、立派な墓前へと向かう。

そして手を合わせ、水と線香を懇ろに手向けた。

「ここが、菊池の爺さんの墓や。大きいやろ。その昔はなぁ、爺ちゃんのそのまた爺ちゃんが、お医者様をやって見えたんや」と、父の問わず語りを今でも覚えている。

恐らく遠い明治の世にでも、岡田の家から分家したのが菊池なのか、そのまた逆か。

苔むした墓石の並ぶ墓地の位置関係からすると、菊池の分家が岡田の家と見える。

しかし山奥の集落は、見渡す限り岡田を名乗る家ばかり。

菊池の家はとんと見当たらない。

だとすれば、やはり岡田の家から分家した者の中に、鳶が鷹を生んだような秀才が現れ、医学の道へと進み、やがて菊池家に入り婿でもしたとは考えられぬだろうか。

それはともかく昭和の30年代、菊池家は名古屋の南区にあった。

そして菊池の爺ちゃん家の隣にアパートが立ち、新婚間もない父は遠縁の菊池の爺ちゃんの伝手を頼り、そこに狭いながらも新居を構え、ぼくが生まれたという寸法になる。

だからぼくの「稔」と言う名は、この菊池の爺ちゃんの命名である。

爺ちゃん家の隣には、爺ちゃんの二人の倅の住まいがあり、それぞれ一人ずつ息子がいた。

ぼくより二つ年上の「香」、そして同い年の「守」だ。

いずれも爺ちゃんの命名であり、どれも漢字一字だけの名を賜ったことになる。

「おお~い、婆さんや!まだ孫の手は、見つからんのか?早う取ってくれんか」と、再び隣の隠居部屋から爺ちゃんの声がした。

同い年の守君と、たまたま爺ちゃんの隠居部屋の隣の部屋で、二人して遊んでいる最中の事だ。

思わずぼくは、「マモ君、聞いた?お爺ちゃんが孫の手取って来てくれって、お婆ちゃんに言うたの!お爺ちゃんの孫って言ったら、香お兄ちゃんか、マモ君しかおれへんのやで、逃げやなかんのやない?」と真顔のぼく。

ところがマモ君は動じない。

「だってそんなん、いつものことやし!」と。

ぼくはどうにも落ち着かなかった。

だって年に一度お年玉を頂戴しに、両親と共に伺候する爺ちゃんの隠居部屋は、ぼくにとっちゃあ異界そのもの。

床の間の香炉からは香が燻り、床柱には能面の翁やら般若に山姥といった、奇怪なものがぼくを睨みつけているようで、居心地の悪さはこの上なし。

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「なんやったら、そこの襖ちょっとだけ開けて、隙間から覗いとってみ」と、マモ君。

恐る恐る固唾を飲んで、事の次第を見守った。

「はいはい孫の手、お待たせしました。茶の間の新聞の下に置いてありましたよ」と、お婆ちゃんが孫の手なるものを差し出すではないか!

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それは家ではついぞ見たことも無い、竹製の耳かきのお化けのような物。

長さは30cmほどで、棒の先が猫の手の様に少し曲がっている。

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爺さんは棒の先っちょを、着物の襟元から背中へと差し込み、柄を掴んだまま上下に動かし始めた。

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「おうおう、極楽、極楽!婆さんや、これぞ正しく痒い所に手が届く、孫の手の効能よのう」と。

いつもは苦虫でも噛み潰した様な、しかつめ顔の爺ちゃんが、まったくもって相好を崩し、腑抜け面をしているではないか!

これまで一度も目にしたことのなかった、爺ちゃんの素の姿に接し、近付き難い印象がほんの少し和らいだ気がしたものだ。

まあそれにしても、マモ君の手が取られずに済み、何より何よりと、当時のぼくは胸を撫で下ろした。

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