「遥かなるカリーテンプルへの道!」(第11話)

2000年11月28日 毎日新聞朝刊掲載

「路上の髭剃り屋さん?」

ブッダガヤの昼下がり。

相変わらずバザールは、老若男女で沸き返っている。

「あっ、床屋さんみたいだぁ!」。

薄暗い店内に目を凝らし、矯めつ眇めつ眺め回した。

「あれっ、ここにも床屋さんが?」。

店先の路上では、しゃがみ込んだジサンが、やっぱり同様に向かい合ってしゃがみ込むオジサンの顎髭をジョリジョリ。

またしても現れ出でた摩訶不思議な光景について、思わずガイドのバサックに尋ねた。

バサックの解説によれば、理髪店内での散髪料はおよそ日本円で150円。

散髪に髭剃り付きである。

それに引き換え、路上の髭剃り屋の髭剃り代は、およそ10分の1の日本円で15円程度とか。

見事に客の懐具合やら、散髪はまだいいけど髭を当たって欲しいなという、客の心情を読み切った分業制が成立しているかのようだ。

確かにインドは、床屋だけに限らず、煙草屋の前の路上でタバコのばら売りする者やら、路面店の前に陣取って軒先産業に勤しむ者たちも多い。

そうした分業制が容認されているから、10憶の民がなんとか痛み分けをしつつも、倹しやかに暮らしてゆけるのだろうか?

ぼくもホテルの裏庭のベンチに腰掛け、ブッダガヤの散髪を試みた。

料金はバザールの路上の髭剃り屋よりは割増の約30円。

もちろん蒸しタオルもなければ、シャンプーやコンディショナーなどあろうはずも無し。

たった1本こっきりの、何とも切れの悪い錆びの浮いた鋏一丁で、髪全体がカットされる。

椅子はベンチゆえ、電動で上下したり、背もたれがリクライニングになったりするはずもない。

だから全てが人力。

床屋のお兄ちゃんは力任せに、ぼくの頭を上下左右に動かし、自分がカットしやすい姿勢を強要される始末だ。

何とも首も方も凝る散髪である。

ともすると切れの悪い鋏に髪が挟まったまま、力尽くで容赦なく引っ張られるから、堪った物じゃない。

驚くことにインドでは職業が細分化されている。

はっきり言って、日本を席巻するリストラの嵐から見ると、余剰人員ばかりだ。

煙草屋の店先の地べたに座り、煙草を一本ずつ小分けしてばら売りする者、独自で契約した店先の一角を、飽けても暮れても黙々と履き続ける者・・・。

一見不合理と思われるような職業が、この国では罷り通るのだ。

しかしそれは、10憶の民が等しく共存するため、いたって合理的な「生」と真っ向から向き合う術であるかのように。

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「遥かなるカリーテンプルへの道!」(第10話)

2000年11月21日 毎日新聞朝刊掲載

「ニムの歯ブラシ?」

ブッダガヤを取り囲む集落の朝は、すこぶる早い。

怠け者の早起き鶏など、足元にも及ばない。

子どもらは眠い目をこすりながら、近くの井戸まで水汲みに出掛ける。

幼い子らは、さらに幼い弟や妹を背負い、竈で火を熾す母の周りを行ったり来たり。

そのうち兄弟の中でも木登り自慢が、手慣れた調子でニム(栴檀)の木によじ登り、太さ直径1cmほどの枝を折って地上へと降り立つ。

既に口の中には、長さ10cmほどのニムの枝が咥えられ、枝の先っちょを奥歯で嚙み砕いている。

そして枝に手を添えたまま、まるで歯ブラシさながらに、上下左右の歯に宛がいクチュクチュクチュクチュ。

ほかの枝は家族全員に配られ、それぞれの仕事の片手間にクチュクチュクチュクチュ。

ぼくにはそれが歯ブラシであるなど到底思いも及ばず、「もしかしたらサトウキビのように甘いんだろうか?」などと、見当違いも甚だしいかぎり。

どうにも気になって、ガイドのバサックに尋ねると、昔ながらのインド人の歯磨きに欠かせぬ歯ブラシだとか。

歯ブラシと聞いて益々興味津々。

どうしても手土産代わりに持ち帰りたいと、木登り上手な娘からニムの枝を分けてもらった。

枝の匂いを嗅いでは見たものの、別段どーってことはない。

帰国後、お調子者の友人に「これがインドのニムの木の歯ブラシだわ」と差し出すと、目論見通り彼は興味津々。

ぼくのインドの話などもどかし気に、あっという間に口の中へ。

しかも枝を折った時に生じた、ささくれだった方でやおら歯をゴシゴシと磨き始めたではないか!

「インドの人たちし、みんなこんなにも痛い思いをしながら、毎朝歯をみがいとるんか?」と訝しむ。

ぼくは敢え無く次の言葉を飲み込んだ。

「本物は枝から折ったばかりの小枝の生木。でもそれは、すっかり自然乾燥してしまった、インドの枯れ木だって!」とは、とても言えたものじゃなかった。

歯ぐきに薄っすらと血を滲ませる彼に向って!

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「遥かなるカリーテンプルへの道!」(第9話)

2000年11月14日 毎日新聞朝刊掲載

「ブッダガヤのバザールだがや!」

ブッダガヤの朝はひときわ早い。

大塔東側のバザールには、何処からともなく人が湧き出で、空気の濃度も一気に薄まる。

もぎたての野菜がいっぱい詰まった頭上の籠を、他人の軒先に我が物顔で下ろし、麻袋を地べたに広げ何食わぬ顔で店開きを始めた、サリー姿のオバハン。

値札もなけりゃあ、秤も無く、もちろん気の利いたセールストークなど以ての外。

ただただひたすら地べたに座り込み、日がな一日客を待つ。

野菜を全て売り尽くせば、今日一日の仕事はお仕舞い。

明日の分までついでに稼ごうなどとは、微塵も考えていない様子だ。

やがてあちこちから朝飯の煙が立ち上り、サラサの葉を乾燥させ形成した小皿に、カレーとライスや、チャパティー(丸い小麦の無発酵パン)を盛り付け、人々は道端にしゃがみこんだり突っ立ったまま食事に勤しむ。

食べ終えれば、葉っぱの小皿はそのまま足元にうっちゃられ、元の枯葉となってやがて土に還ってゆく。

日本寺に20年以上も勤めているチャリタル爺さん(年齢不詳)に連れられ、ぼくは彼の家を訪ねた。

娘夫婦と孫、三世代で暮らす家は最近、政府の援助で建て替えたというコンクリート製。

間取りは、平屋で6畳二間ほどと、軒先に囲いの付いた竃があるだけと質素な造りだ。

ここで家族9人が寄り添い合って暮らす。

むろん冷蔵庫やテレビなど、無用の長物である。

そう言えば、バザールを観察していると気が付く。

村人たちは決して余分な買い物をしない。

その日の必要な最低限の食材だけを調達するだけだ。

ぼくらのように、明日明後日とか、向こう一週間分などと、買い置きなど一切しない。

方やわが家の冷蔵庫の奥の院には、いつから君はそこにいたのだとでも言いたくなるような、黄緑色の芽を吹きだした玉ねぎを見かけたりする。

いくらスーパーの安売りだったとはいえ、いやはや。

余分なモノに囲まれることが豊かさだろうか?

村人たちの暮らしぶりを思い出す度、ふと考え込んでしまう。

しかしぼくは、それを妻に決して指摘をしない。

だって「ここは日本!インドじゃないのよ!」。

そんな一言でさっさと片付けられるのが落ちだからだ。

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「遥かなるカリーテンプルへの道!」(第8話)

2000年11月7日 毎日新聞朝刊掲載

「ブッダガヤのカリーテンプル建築風景だがや!」

午前8時。

カリーテンプルの建築現場に、隣村から筋張った男たちが集まり始める。

Tシャツに腰巻き、頭にはタオルの頬っ被り。

足元はビーチサンダルか裸足のままだ。

どうやらこれが、カリーテンプル建築に携わる作業員たちの制服のようだ。

もちろんヘルメットもなければ、軍手や安全靴などもってのほか。

子どもの頃目にした光景がよみがえった。

作業員の数は、時間を追うごとに何処からともなく湧き出る様に増え、それぞれ持ち場に散って黙々と作業を始める。

点呼や朝礼はもちろん、日本でおなじみのラジオ体操など一切無し。

まるで業務用の中華鍋を思わせる、鉄製の大きな盥にセメントを山盛りに詰め、軽々と頭の上に乗せ凸凹の足場の悪い地面を飄々と渡る。

そして目指す型枠にいともたやすく流し込んだ。

一方、敷地の片隅では、長い鉄柱を地べたに横たえ、親方と思しき年配の男が巨大なやっとこ鋏を鉄柱に宛がい、若い相方の弟子がこれまた巨大なハンマーを振り下ろし、次から次へと鉄柱を切断している。

しかしどこからどう眺めていても、一向に鉄柱の長さを測っている気配がない。

すべて親方の勘だけが頼りか?

そう言えば現場監督らしき者でさえ、設計図を確認するどころか、設計図そのものも見当たらぬ。

何か問題が生じると、その都度現場監督やらトラストの理事長に親方衆が集まり、話し合いが始まる。

でもしばらくすると「問題ナイヨ。ノン・プロブレム」の決め台詞と笑い声が聞こえて来るだけ。

これで見事、一件落着。

ここにはクレーンや掘削機も生コン車もない。

もっとも隣村までゆけば、それらの重機も手配は可能だ。

しかし「一人でも多くの村人たちに働く場を提供したい。」

それもトラストの重要な役割でもあると、理事長のジャガットは、素焼きのぐいのみから淹れ立てのチャイを一口で飲み干した。

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「遥かなるカリーテンプルへの道!」(第7話)

2000年10月31日 毎日新聞朝刊掲載

「夜行列車はガヤを目指すがや!」

「ハイーッ、シッカリシッカリ!」。

オンボロ乗り合いバスの乗降口から、大きく身を乗り出した男が大声を張り上げた。

ガイドのバサック曰く「男はバスの車掌で、恐らくベンガル語で『早く乗って、早く乗って!』と言っていたんだろう」と、何ともつれない。

オンボロバスは力一杯クラクションを鳴らし、歩道脇に屯する人だかりに向って徐行もせずに近付いてゆく。

すると同時に、歩道脇で屯していた人だかりが一斉に駆け出し、動いているバスに我先にと飛び乗って行くではないか!

車の排気ガスに霞む、カルカッタの夕方のラッシュアワーは、まさに壮絶そのもの。

夥しい数の車と自転車、それに力車とオートバイが犇めき合い、わずか数10cmの隙間を縫って人や牛車がこともなげに横切って行く。

初めてそんな光景を目の当たりにした時は、その無秩序さに無性に腹が立ったものだ。

しかし、そんな生死をも厭わぬ、混沌の中に身を置いていると、新たな想いが過る。

この街で、いや10憶の民が暮らすこの国で、生き抜こうとする者同士、阿吽の間合いを保ちながら、あくまで自己責任の範疇において、必要最低限のルールとマナーを生み出しているのではないかと。

たとえ車道を強引に横切り、車に追突されようが、無事に渡り遂せようが、すべては自己責任と言うわけだ。

何かにつけ過保護な国に生まれ育ったぼくは、つい「きっと車の方が止まってくれるはず」などと、他人任せな勘違いのまま自己中心な考えを当たり前のように貫いていた気がする・・・。

カルカッタ2日目はこうして暮れ、西へ500kmのカリーテンプルを目指すべく、ハウラー駅深夜11時半発の夜行列車へと飛び乗った。

「ハイーッ、シッカリシッカリ!」。

件の車掌の声が耳をかすめる。

記憶の中に残ったその声は、「早く乗って」と呼びかけると同時に、カルカッタの喧騒にちょっぴり打ちのめされたぼくを、「シッカリせんか!」と叱咤しているようでもあった。

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「遥かなるカリーテンプルへの道!」(第6話)

2000年10月24日 毎日新聞朝刊掲載

「ちょっと待ってよ!カルカッタ」

「ちょっと待ってよ!もう、どうなっとるの!」。

同行したイラストレーターの、記念すべきカルカッタ上陸第一声だ。(※2001年までは英語化されたカルカッタ (Calcutta) の名称が用いられたが、2001年以降ベンガル語の呼称「コルカタ」に正式名称が変更された。)

まるでこの先2週間に及ぶインド取材が、感動と興奮に満ち溢れるであろうことを、予言するかのような一言でもあった。

1999年暮れ、ぼくと彼は関空発のエアー・インディアでインド東部の最大都市カルカッタへと向かった。

なにゆえ怪しいオヤジ二人のインド珍道中かと言えば、彼がカリーテンプル支援のためイラスト制作を申し出、会の募金活動にポストカードを発売することになったからだ。

これまでの彼は、海外と言えばパリしか知らず、洗練されたヨーロッパ文化に純正培養されていた。

だから夜中にもかかわらず、人人人でごった返す暗くて狭く、とにかくくそ暑いカルカッタ国際空港に早くもビックリ。

唖然とする彼を引き連れ、タクシー乗り場へ。

いきなり闇に溶け入りそうなほど真っ黒な老若男女が、ぼくらを狙い定めたように取り囲む。

もちろん顔見知りでも無ければ、親類縁者であろうはずなどない。

一方的にヒンディー語かベンガル語が浴びせられる。

するといつの間にか彼のスーツケースを乗せたカートは、少年の手で人波を掻き分け進んでいるではないか!

「いっやーっ!みんな何だかとっても親切なんだもん!」と、感慨ひとしおの彼。

ぼくは思わず、「アッチャー!」。

少年はタクシーのトランクに、手慣れた様子でスーツケースを積み込む。

やっとのことで取り巻きを振りほどき、無事に冷房がギンギンのタクシーに乗り込んだ。

いざ出発!

しかしタクシーのドアの外には、彼が勝手に善意のサポーターと勘違いした少年の姿が!

窓ガラスをドンドンと両手で叩き、大声を張り上げながら動き出したタクシーに追いすがる。

何事かと言わんばかりに驚いた表情の彼を尻目に、ガイドのバサックがバッサリ一言。

「少年はあれが商売ネ。人の好さそうな外国人を見つけては、頼まれもしないのに勝手に荷物を運んでお金貰うネ。だから少年は言っている。外国人の中でも、一番のお得意様は日本人だって!」。

その後、ホテルまでの車中、カルチャーショックの洗礼が応えたのか、彼は終始無言のままだった。

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「いよいよ15日『飛騨古川三寺まいり』~瀬戸川沿いに千の灯りが点ります!」

新型コロナの影響により、去年も大幅に規模が縮小されながらも、地元の伝統行事としての「三寺まいり」は粛々と開催されました。

今年もやはり同様に規模が縮小されながらも、いよいよ15日に「三寺まいり」が開催されます。

今年は雪も期待でき、さぞや幻想的な風景が瀬戸川沿いに描き出されることでしょう!

※今年の「三寺まいり」概要(飛騨市観光協会フェイスブックより)

開催日 令和4年1月15日 12:00~21:00

【実施】
・雪像ろうそく
・山門ライトアップ
・門前市(テイクアウトできる物のみ販売)
・千本ろうそく
・とうろう流し

【中止】
・レンタル着物
・和装モデル

イベント当日は体調が悪い、熱がある場合はご来場をお控え下さい。
お越しになる場合はソーシャルディスタンスの確保、マスクの着用、こまめな消毒にご協力ください。

https://www.facebook.com/hidakankou/

ぼくももう一度飛騨古川の地を訪ね、「三寺まいり」を拝見したいものです。

そんな冬の風情溢れる情景を唄った、ぼくの「三寺まいり」をお聴きください。

「三寺まいり」

                        詩・曲・歌/オカダ ミノル

瀬戸川に 明りが燈る  雪闇浮かぶ 白壁土蔵

 千の和灯り 千の恋  千の祈り 白い雪

飛騨古川 三寺まいり  娘御たちの 願い叶えや

瀬戸川に 灯篭流し  お七夜(しちや)様に 掌を合わす

千の和灯り 千の恋  千の祈り 白い雪

寒の古川 三寺まいり  娘御たちに 縁紡げや

 嫁を見立ての 寺詣り  小唄も囃す 白い息

飛騨古川 三寺まいり  娘御たちの 願い届けや

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「遥かなるカリーテンプルへの道!」(第5話)

2000年10月17日 毎日新聞朝刊掲載

「世紀越えの大カリーパーティーと、15.000杯のカレー?」

カリーテンプルは紛れもなく、300杯のカレーが取り持ったご縁の賜物。

カリーテンプルが20世紀末の完成となるならば、いっそ20世紀最後の大晦日に、村人たちを全員招待して世紀越でカリーパーティーを開こう。

それでこそのカリーテンプルだ。

そんな遊び心が現実のものとなった。

20世紀最後の大晦日から、21世紀最初の元旦にかけ、「世紀越え大カリーパーティー」が開催されることとなった。

ブッダの里で20世紀最後の夕陽を見送り、バナナの葉を皿代わりにチキンカレーを頬張る。

そして村人たちの民族音楽や踊りを鑑賞し、21世紀初のご来迎を仰ぎ見る。

会はそんな果てしない夢を、一口1.000円の募金に託し、「一杯のカレー引換券」を発行することとなった。

この引換券を持参してブッダの里のカリーテンプルを自力で訪れれば、本場のチキンカレーが食せるというもの。

現在までに約1.500万円の善意が寄せられ、「カレー引換券」は既に15.000枚も発行された勘定となる。

万が一、15.000人が現地を訪れたら、いったい誰が15.000杯のカレーを作るんだ!

でも仮にそんなことが起きようとも、村人たちは必ず決まって口々にこう言うであろう。

「問題ないよ!ノン・プロブレム」と。

彼らはいつだってそんな調子だ。

でもそこが実に良い!

しかしそれは、彼らが物事に対していい加減なのではなく

「そうなったらそうなったで、皆で知恵を絞って何とかしよう」という、とても前向きな意味合いだからであり、日印の習慣の違いなのだ。

カリーテンプル建立費用の目標額までようやく半分。

当然会としては、今後も募金を募る。

いや待て!

万が一目標額が達成されたら・・・・・。

30.000杯のカレー・・・・・。

それこそ「一体だれが作るんだ!」である。

でも答えはきっと一言。

「ノン・プロブレム」。

実に素敵すぎる言葉じゃないか!

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「遥かなるカリーテンプルへの道!」(第4話)

2000年10月3日 毎日新聞朝刊掲載

「晴れて炎天下で地鎮祭」

1999年4月2日。

インド・ブッダガヤのカリーテンプルの敷地で、厳かに地鎮祭が執り行われた。

出席者は、内田・清水・紀氏の3人の僧侶とぼくだ。

敷地の入り口には竹竿が立ち、その天辺には紙垂のようにマンゴーの葉を吊るした藁縄が張り巡らされている。

敷地の四隅に植えられたマンゴーの木は、魔除けだとか。

祭壇は、白布をかけただけの簡素なテーブル。

色とりどりの花や供物と線香も準備されている。

地鎮祭で導師を務めるのは最年長の清水だ。

両脇を内田と紀氏が固める。

3人とも法衣を纏った正装である。

まだ午前9時だというのに、ブッダの里の気温は既に30度をはるかに上回った。

何はともあれ早速、清水導師による酒水(しゅすい/祭壇の四隅に水を振り掛け清める)と呼ばれる儀式が始まり、読経へと続いた。

約15分ほどの地鎮祭ながら、村人たちがあちらこちらから「何事が始まるんだ!」とばかりに集まり始めた。

サリー姿の女たちや、真っ黒な顔に筋張った体の男たちは、思い思いに足を止め、読経に合わせ申し合わせたように誰もが合掌する。

彼らの大半はヒンドゥー教徒であるにもかかわらず。

しかし熱心に祈りをささげる姿は、宗教心の薄いぼくの心にさえも染み入った。

読経が止み、最後の合掌も終わった。

3人の僧侶がゆっくりと顔をもたげた。

エエッ!

導師の清水が泣いているではないか!

しかもはたを憚らぬ号泣ではないか!

何故?

重責を務め終えた開放感からであろうか?

様々な想いがよぎる。

しかし確かに清水の頬を、涙が止めどなく伝っていた。

ただただ涙することで、大いなる夢にまた一歩、確実に近付いたことを自ら確かめでもするかのように。

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「遥かなるカリーテンプルへの道!」(第3話)

2000年9月26日 毎日新聞朝刊掲載

「平成の寺子屋たれ!」

1998年は、和歌山カレー事件に続き、福岡でもカレーに薬物を混入させる保険金殺人事件が発生。

庶民の味カレーは、とんでもない汚名を着せられた。

その頃インドで設立された「仏心寺パブリック・チャリタブルトラスト(理事長、ジャガット・プラサド・アグラワール)」に、インド政府から承認が下りた。

このトラストが、カリーテンプルを7人の僧侶に代わり、現地で運営に当たるのだ。

7人の僧侶とトラストは、約350坪の敷地に「祈りの本堂」と、世界中からブッダの聖地を訪れる観光客が、異教徒であっても布施だけで泊まることが出来る「宿坊(約30人収容)」の建設に取り掛かった。

写真は参考

次はいよいよ多難な建立資金集め。

7人の僧侶にぼくも紛れ、議論が続けられた。

「一般からの募金集めは?」。

「〝お釈迦様の聖地に宿坊を作る会″では宗教色が強すぎる」など。

しかし最後は、300杯のカレーが紡いだご縁が、この活動の発端であったことに帰結した。

ならば日本人にも親しみのある「カリーテンプル(カレー寺)」とでも、気軽に呼び募金を募ろうではないか!

そして会の呼称も「カリーテンプルプロジェクト」と、親しみのある名称がより相応しいのではとの、ぼくの意見も取り入れられた。

折しもマスコミでは、不登校問題やいじめに関する記事が目立ち、彼ら僧侶も何かしなくてはと、考えあぐねている時期でもあった。

すると7人の僧侶の誰かがつぶやいた。

「昔の子らの学び舎は、寺子屋だった。寺で読み書きを教え、寺は子らの成長を見守った。もう一度カリーテンプルから、子らと向き合って見ようじゃないか!平成の世の寺子屋で」。

参考資料

多難な建立事業に向け、また一歩7人の心が夢に向かった。

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