「遥かなるカリーテンプルへの道!」(第20話)

2001年2月13日 毎日新聞朝刊掲載

「一度で六個の出入国スタンプ」

再再再出国を果し、登場ゲート前で待つ事約3時間半。

真っ青なカトマンズの空に轟音が響き渡り、エアー・インディアの機影が見えた。

思わず待ち合いロビーからは、一斉に拍手喝采が鳴り響く。

その光景は、肌の色も言語も国境も飛び越え、あたかもオリンピックスタジアムで一番乗りのマラソンランナーを迎えるかのような有り様だった。

テロ警戒のため二度に渡る入念なセキュリティーチェックを経て、やっとの思いで機内へ。

西に向けわずか1時間半ほどのフライトで、インド西部の首都デリーへ。

インド入国後、午後9時のチャーター便に乗り換え、デリーからバラナシへと、1時間かけて今度は東に戻る。

日本出国から3日目にして、やっとの思いで目的地バラナシに到着。

既に真夜中のバラナシからガヤに向う列車は無く、市内のホテルに余分に一泊することとなった。

写真は参考

「でも、まっいっかぁ!おかげで想定外ながら、バラナシにもまた泊まれるんだから!」と、すっかりアバウトそのものが大手を振ってまかり通る、インド時間に慣れきってしまった自分に愛想が付きた。

日本出国から4日目の朝。

バラナシのホテルを午前8時に出発し、ガヤ駅へ午後1時に到着。

ホテルからの迎えの車に乗り込み、やっとのことでカリーテンプルに到着。

既に現地には、2日前に日本を出発した僧りょたちが先に待ち構えている。

「何してはったん?もうきーへんかと思てたんやー!」って、そりゃあないでしょ!

遥かなりしカリーテンプルへの道は、カトマンズを出たり入ったりの繰り返し。

お陰で一生分の想い出を得られたのと同時に、ぼくのパスポートには、ネパールの出入国スタンプが、わずか正味24時間の滞在にもかかわらず、これでもかとばかりに6個も刻印されてしまった。

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「遥かなるカリーテンプルへの道!」(第19話)

2001年2月6日 毎日新聞朝刊掲載

「バックパッカーと機関銃」

日本を発って3日目の午前11時。

やっと航空会社から連絡が入り、空港へ向う事となった。

やがてホテルの玄関に1台の大型バスが到着。

窓ガラスには、投石の痕が生々しい。

バスの前後左右中央部には、機関銃を携え武装したネパール軍兵士8名と、インド人や外国人が10名ほど乗り合わせている。

写真は参考

まさかこんなバスに乗せられようとは、ぼくらを含めフライト・キャンセルとなった外国人旅行者達は、誰も想像していなかっただろう。

しかしどこをどう眺め回したところで、後にも先にもこのバスしか見当たない。

まるで強制収容所に連行される難民のように、鮨詰め状態でバスに押し込まれ、ものものしい状態のまま、厳戒態勢下のカトマンズ市内を走行し空港へ向って走り出した。

間近に機関銃の銃口をさらされ、誰しもが緊張状態にある中、バスの後方から一人のネパーリーが大声を張り上げ、鮨詰めの人ごみをかき分けながら前方へと強引に進んで来る。

写真は参考

どうやらその男は、このバスの車掌らしく、乗客から一人70ネパールルピーの運賃を、この非常事態にもかかわらずせっせと徴収して回る。

それでも何とか十分足らずで空港に到着し、難民バスから開放され、バラナシ行きのチェックインを済ませる。

フライト・キャンセルとなった外国人旅行者全員の顔には、やっと安堵の色が広がりネパールのイミグレーションを再出国。

航空会社が用意した、ランチボックスをむさぼり始めると、またもや昨日の航空会社職員が現れ、今度はバラナシ行きがキャンセルになりデリーに変更となったので、もう一度チェックインをやり直すようにとのこと。

しかし我々外国人旅行者は、もう誰も刃向かう気力も無く、訪れる運命の悪戯に翻弄されながらも、それを必死で受け止めようと、航空会社職員の後を追った。

またしてもイミグレーションを再再再入国して、エアー・インディアのカウンターで、バラナシからデリー行きに変更しチェックインを完了。

またまた出国書類を調え、再再再出国を果たす。

しかし誰もがまだ、決して気を許したわけではない。

出国したとは言っても、ゲート一つ隔てただけのこと。

また何時連れ戻されるかも知れないのだ。

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「遥かなるカリーテンプルへの道!」(第18話)

2001年1月30日 毎日新聞朝刊掲載

「ぼくは弾除け?国際ボランティア活動」

カトマンズで勃発したネパーリーとインド人の一触即発事態に、期せず居合わせる羽目となったぼくらのワゴンには、たまたま南アフリカ人ビジネスマンが乗り合わせていた。

彼の両親は父親がインド人、母親がネパーリー。

何ともこの期に及んで最も悲惨な組み合わせの生い立ちだ。

彼は強力なるDNAの成せる業か、何処からどう見ても紛れも無い立派なインド人そのものだ。

人の良い世話焼きカナダ人カップルが、南アフリカの彼が市中を走るワゴンの中で、インド人と間違われ襲撃を受けてはいけないと人道的な提案を行い、ぼくらの間に南アフリカの彼を挟んで座ることとなった。

写真は参考

つまりぼくが窓側に座り、南アフリカの彼が後部座席の真中に隠れるように座る状態で、言わばぼくが彼の弾除けとされたわけである。

いやはや2001年は、国際ボランティア年とか。

しかし2001年までにはまだ4日ある。

なのに語学力に乏しいぼくは、それを拒む事も出来ずただヘラヘラ笑って、結局弾除けのボランティアに貢献するはめとなった。

他の外国人の目には、さも立派な日本人と映ったかも知れないが、何とも情けない始末。

こんなことなら、駅前留学の一つでもやっぱりしておくべきであった。

ホテルに向うワゴンの、汚れきった窓から覗き見るカトマンズ市内の要所要所には、カナダ人カップルの説明通り、ネパール軍兵士と警察がフル装備で警戒に当っている。

ぼくたち外国人旅行者を乗せた4台のワゴンは、護衛の車に先導され一列に並んで裏道を抜け、市中のアンナプルナホテルに到着。

その日の特急電車の予約も、ホテルの予約も、全て一瞬にして水泡と帰し、予定外のカトマンズに一泊する運命となった。

果たして明日は本当に、インドにたどり着けることやら?

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「遥かなるカリーテンプルへの道!」(第17話)

2001年1月23日 毎日新聞朝刊掲載

「カトマンズの動乱」

カトマンズ空港には、ほんの3時間のトランジットと高を括ったのが運の尽き。

その日のうちにインド・バラナシに向かう予定が、待てど暮らせど飛行機はやって来ず、ついに一方的にフライトがキャンセルされた。

今や国境も肌の色も言語も越え、運命共同体的存在となった、約40名の外国人同乗予定者ご一行様とぼくも一緒に、ネパールにしかたなく再び入国。

翌日の出発まで、航空会社が手配したホテルで過ごす事となった。

またご一行様は勝手に行動せず、すべて一緒に行動するようにとの指示が言い渡された。

写真は参考

どうやら「何か?」があったに違いない。

しかし一向に航空会社から正式な発表は無い。

いや発表があったにせよ、ぼくの語学力では、それ以上の解読が不可能であった。

急遽旅の道連れとなったメンバーは、イタリア人の団体客約25人とフランス人の老夫婦。

それにインド人の家族連れ、イギリス人中年夫婦、アメリカ人母娘、さらにカナダ人の若者カップル等とぼく。

カトマンズ空港正面に横付けされた、航空会社が急遽チャーターしたワゴンに分乗する。

しかしワゴンとは名ばかりで、ほとんどその辺の農家から、急場凌ぎに借り集められたような、申し訳程度の屋根と椅子が付いたワゴンばかりである。

ぼくらのワゴンには、カナダ人で日本に半年滞在し競輪選手を目指したという青年とガールフレンド、それにアメリカ人母娘、そして南アフリカ人のビジネスマンが乗り合わせた。

中でもしばらくカトマンズに滞在していたと言う、カナダ人カップルの説明によれば、インドの人気映画スターがネパール人を軽蔑するような発言を繰り返したとか。

それが発端となり、昨日インド大使館をネパーリーの学生らが包囲し、火炎ビンや投石を繰り返す大掛かりなデモ行為が勃発し、弾圧に向ったネパール軍との間で衝突が起き、二人のネパーリー学生が死亡したとか。

カトマンズでは、ネパーリーとインド人との関係が、一触即発の危機的事態となっており、市中も厳戒体制下にあるという。

「えらい時に、えらい場所に来ちゃったもんだ? 嗚呼、神様、お釈迦様!」。

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「遥かなるカリーテンプルへの道!」(第16話)

2001年1月16日 毎日新聞朝刊掲載

「ほんの三時間のトランジットのつもりが・・・」

昨年末ぼくは、世紀越えのカリーパーティーを一目見ようと、師走の賑わいを見せる名古屋を後にした。

今回のインド取材は、一旦名古屋からシンガポールに入り、翌日ネパールのカトマンズを経由して、三時間の乗り継ぎでインドのバラナシに入国。

その後夜行列車で東に3時間のガヤへと向かい、真っ暗な夜道を車でひた走り目的のブッダガヤを目指すという、2日間の超強行スケジュールであった。

しかしあくまで予定は、予定。

しかも相手は、一筋縄ではいかぬインドの移動だ。

波乱含みの幕開けは、12月26日の名古屋空港から始まった。

未明より降り始めた雪が薄っすらと名古屋空港を覆い、早くも2時間遅れのスタートとなった。

2日目シンガポールを出国し、ネパールのカトマンズへはお昼前に到着。

乗り換えのエアー・インディアのインド・バラナシ行きの出発まで3時間。

余裕でネパールに入国。

すぐお隣の出発ロビーに移動して、早めにチェックイン・カウンターの前に並び、さびれたサンドイッチバーで仕入れ込んだ、チキンカレーのパイを頬張りご満悦。

それから一時間半、チェックインを済ませ再びネパールを出国。

搭乗ゲート前のロビーで待つ事しばし。

同乗便を待つ外国人旅行者が突然色めき立ち、口々にディレイ・ディレイと呪文のように繰り返し、ロビーを右往左往。

どうやら飛行機の到着が遅れ、出発も遅れる見込みとか。

しかしカトマンズ空港のアナウンスなど全く無い。

しばらくしてやっと航空会社の職員が現れ、約30分から1時間半の遅れだと告げて回る。

すると出発ロビーの片隅にある、うらぶれた一軒のサンドイッチバーがいきなり大混雑。

あっと言う間に、おいしそうな50ネパール・ルピー(約100円)のサモサが飛ぶような売れ行き。

それから再び待つ事、約2時間。

再び航空会社の職員が姿を見せると、一斉に外国人旅行者が取り囲む。

どうやら今日のバラナシ行きのフライトがキャンセルとなり、翌日同時刻に振替運行をするとのこと。

一筋縄ではいかぬインドから、早くもフライトキャンセルという形で洗礼を受けてしまった。

この先一体、何が待ち受けるというのか?

ちなみに今日、ひとり娘が嫁ぎ行きます。

コロナで延び延びになっていた、娘の結婚式です。

これから貸衣装のモーニングに着替え、娘の晴れ姿を拝みながら、娘夫婦の幸せを祈ってまいります。

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「遥かなるカリーテンプルへの道!」(第15話)

2000年12月26日 毎日新聞朝刊掲載

「年越し蕎麦ならぬ世紀越えカレー」

いよいよ世紀越え大カリーパーティーは、秒読み段階に入った。

ブッダガヤに電話を入れ、気になるカリーテンプルの状況を、トラストのジャガット理事長に聞いてみた。

後五日後に、落慶法要が執り行われるカリーテンプルは、全貌のほぼ九割が完成し、現在は宿坊に備品を設置したりと、最後の準備が進められているという。

まさにカリーテンプルは、今か今かと七人の僧りょの到着を待ち侘びているのだ。

中でも一番心待ちにしているのは、他でもない。

17年前、青年僧の内田が、帰国に際し振舞ったカレーを、嬉々として食べた村人たちであり、土地の寄進を申し出た当時の少年たちに他ならない。

内田の送別会を兼ねた、カレーしかない当時のパーティーは、300人の村人たちに囲まれ夜通し続けられたそうだ。

ワインもサラダもない、所詮一杯のカレー。

されど一杯のカレーだけで、ここまで人は喜びを分かち合えるものなのだと、その時内田は感じたという。

物の量や質ではない「ありがたみ」の存在に。

インドには、新年を祝う風習がない。

ましてや新世紀などといったところで、その日を暮らすためだけに生きる村人たちにとっては、所詮他所事に過ぎない。

しかし、さすがに今年の大晦日だけは、特別だという。

村人たちの間には、日本から内田がやって来て、またカレーを振舞うという噂が広がり、既に隣りの村にまで聞こえているという。

一体、世紀越え大カリーパーティーには、どれだけのインド人たちが押し寄せるというのだ。

心配はないかと内田に尋ねると、「大丈夫。ノン・プロブレム。何とかなるやろ!」の一言で片付けられてしまった。

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「遥かなるカリーテンプルへの道!」(第14話)

2000年12月19日 毎日新聞朝刊掲載

「いざ!カリーテンプルへ。七人の僧りょは世紀末のインドを目指す」

いよいよ残り僅かで、カリーテンプルが産声を上げる。

七人の僧りょが二十世紀末に思い描いた夢は、新世紀の訪れと共に花開らこうとしていた。

滋賀県八日市の福命寺住職内田卓也(46)は、20年前に釈迦成道の地に駐在僧として赴いた。

そして彼は、村人たちとその3年間の多くの時間を共にしていた。

当時の日本は、我が世の春とばかりにバブル時代が幕を切って落とさんばかり。

全てにカネとモノが最優先を極め、事の善悪をも牛耳る時代が待ち受けていた。

彼は当時の日本人と対極に位置しながらも、逞しく生きる村人たちの、多くを望まない質素な暮らしに心打たれるばかり。

彼は日課のように村を訪ねた。

村人たちは、自分たちの倹しい食事から、その一部を布施として彼に振舞う。

ある日彼は、村の長老を訪ねた。

長老は彼の眼鏡を見て尋ねる。

「それは何だ?」。

「暗い部屋で釈迦の経典を読むため、目が悪くなった。眼鏡があれば良く見える。」と彼が答える。

すると長老は「釈迦の教えは、目を悪くするのか?」と問う。

また次に彼の時計を見つめ、「それは何だ?」と長老が尋ねた。

彼は「時を計る道具です」と答える。

長老は「そんなものが、なぜ必要なのか?」と再び問う。

そして長老は「朝日が昇れば朝。お日様が頭の天辺に昇ったら昼。日が沈んだら夜。それだけで人が暮らすには十分ではないのか?」と。

長老は地球の何処にあるのかさえも知り得ぬ、日本からやって来た青年僧りょを不思議そうに眺めた。

彼は、返す言葉を失った。

全てにおいて貨幣という紙切れと、モノに囲まれる事を豊かさと履き違えた、これまでの自分を彼は恥じた。

長老や村人たちから学んだものは、何物にも代え難く、僧りょとして生きようとする彼の根底に宿ったという。

今、夢の落慶を目前に控え、彼はこう語った。

「夢の始まりはこれから。カリーテンプルは、明日という未来を生きる人々が、自分自身で〝囚われない心〟を見い出す場所であって欲しい」と。

あと残り12日。

夢を現実にするべく、七人の僧りょはインドを目指す。

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「遥かなるカリーテンプルへの道!」(第13話)

2000年12月12日 毎日新聞 朝刊掲載

「カリーテンプルを設計したただならぬ僧侶」

ブッダガヤ、茜色に染まるカリーテンプル。

既に工事も大半が完了。

大晦日のオープンを、待ち構えている。

カリーテンプルは、約30名を収容する宿坊(宿泊は無料だが、寄付が必要)と、釈迦成道の聖地に因み、仏像だけが安置される、宗旨宗派を超えた祈りの本堂からなる。

このカリーテンプルを設計し、昨年末から四度も足を運んび現場の監督指揮に当たった男がいる。

古本肇滋(ふるもと ちょうげん)49歳。

神戸市北区浄土宗極楽寺住職であり、カリーテンプル七士の一人である。

古本は大学時代、工学部を専攻し卒業後建築関係の仕事に携わり、13年前に住職になった変わり種。

17年前ブッダガヤの村人たちにカレーを振舞った、滋賀県八日市の内田住職から、今を遡る2年半前「ブッダガヤにちょっと用があって出掛けることになったんですわ。良かったら一緒に行かしまへんか?」と誘われたのが運の尽き。

「今思うと内田君は、ぼくの経歴を最初から知っていて、それで誘ったんやないかなあ」と古本は振り返る。

最初は雲を掴む様な話も、図面を引き出すともう止まらない。

本業の傍ら、夢中で建築に向け走り出した古本に対し「またインドやて。お父さんインドに狂うてもうたんや」。

家族の誰もが最初は無関心であった。

しかし古本は、たった一人でブッダガヤの現場に何度も足を運んだ。

まさに自分が手塩に掛けた子供の成長を見守るかのように。

今年春、ぼくは古本さんのお寺を訪ねた。

奥様と雑談を交わし「全国7~8万人ともいわれる僧りょの中でも、ブッダの聖地に自分で設計監督し、寺を建てたのは後にも先にもたった一人、お宅の物好きなご主人くらいですわ!」と笑った。

しかしその一言から、家族の理解も得られるようになったとか。

多少はこんなぼくでも、お役にたてたのだろうか?

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やっとやっと、どうにかこうにか!

ブログの機能を完全しようとして、ウッカリをやってしまいました。

でもサーバーのサポートで、何とかかんとか、やっとやっと、どうにかこうにか修復することが出来ました。

感謝感謝です。

また明日から頑張ります!

ちなみにこれは、昨年末にやっとやっと収穫できた、その前の年の天突き南蛮の子どもたちです。

種まきが遅れてしまって、たったこれだけしか色付きませんでしたが、美味しくいただけました。

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「遥かなるカリーテンプルへの道!」(第12話)

2000年12月5日 毎日新聞朝刊掲載

「ゴハリ?牛はやっぱり神様の乗り物だぁ」

ブッダガヤの村の外れ。

家の前の日当たりの良い場所に、家族全員がしゃがみ込み、何やら楽しそうに話し合いながら、土のようなモノを手で丸めている。

写真は参考

そして見る見るうちに丸く平べったいピザの生地のように伸ばされ、日当たり良好な家の壁面にペタリと貼り付けられてゆく。

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一方母親は、自然乾燥したピザ生地のような物体を、一枚一枚丁寧に剥ぎ取り、数十枚地べたに積み上げ、藁縄で器用に束ねている。

写真は参考

「これまで口にしたことのない、食べ物なのだろうか?いや、それにしてもちょっと不衛生じゃないか?」などと思いながら、どうにも堪らずガイドのバサックを見やった。

バサックは「またかよ!」とでも言いたそうなうんざりとした顔で、「それはゴハリね」とぶっきらぼうに答えた。

「なかなか旨そうな名前じゃないか?」と思った矢先、再びバサックが解説を加えた。

「ゴハリとは牛の糞。ワカリマスカ?牛のウンコね。それを乾燥させ竃の火種として使うネ」。

ぼくは思わず「ウエッ!」。

しかし巧みなリサイクル術に感心するばかり。

何とか土産代わりに日本へ持ち帰りたいと思ったほどだ。

しかし仮にゴハリを持ち出し、日本の空港の検疫を無事に通過できたとしても、果たして土産に貰って喜ぶ者などいるのだろうか?

そう考えると意気消沈。

昭和半ばの七輪で火熾しをしていた時代ならば、大いに重宝したかも知れぬが。

牛はインドの神様の乗り物とか。

牛は日がな一日そこらじゅうの草を食み、もよおせば公道のマン真ん中であろうが、バザールの店先だろうが、お構いなしに用を足す。

そうしてゴハリの原料がボドンとひり落とされる。

すると子供らがせっせと拾い集め、家へと急いで持ち帰る。

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何もこの光景は、ブッダガヤだけで見られるものではない。

カルカッタでもベナレスでも、ニューデリーの大都市の裏路地でも見かけられる。

庶民の暮らしの中に古より連綿と受け継がれてきた、見事なまでのリサイクル術なのだ。

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車は排気ガスを撒き散らすが、牛のあり難き廃棄物からは、火を熾すことができ、暖を取ることも出来る。

さすがに牛は、インドの神が選びし地球にやさしい乗り物であった。

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