「三河wonder紀行⑤」

『馬耳東風でストレスフリー!』

2005.冬 季刊誌掲載

「『天高く馬肥ゆ』『秋茄子、嫁に食わすな』ってかあ!」。

抜ける様な青空を見上げ、夏の間に調子をこいて飲み過ぎたビールの祟りか、ポッコリ迫り出たお腹をポ~ンと一叩き。

その小気味いい音に、馬場をゆっくりと巡る馬も慌てて「ヒヒ~ン」といなないた。

抜ける様な秋晴れの下、悠然と馬場を巡るサラブレツドやアングロ・アラブ種の馬たちを眺めていると、長閑な風情が満喫できる。

がしかし、そんな長閑さを嘲笑うかのように、引っ切り無しな車のエンジン音が背後で行き交う。

それもその筈、ここは泣く子も黙る交通量の多い国道248号線。

まるで荒れ狂う大河の流れのように、猛スピードで車が行き交い、静かな田園風景の残る額田郡幸田町を南北に貫く。

今回ぼくが訪ねたアオイ乗馬クラブは、けたたましくノイジーな国道脇に、まるでポッカリ口を空けたオアシスのようだ。

どことなく漂うノスタルジックでウッディーなクラブハウス。

写真は参考

すぐ隣には、11頭の馬たちが一列に並ぶ厩舎が続く。

オーナーの花井さんご夫婦に伴われ、厩の中へと。

愛くるしい真っ黒な20の瞳がぼくに向けられた。

「ちょっと待てよ!」。

「11頭いるんだから・・・瞳が2個足りなくない?」。

「ああぁ、馬にもいるんだ。ぼくのように臍曲がりなヤツが!」。

10頭の馬たちとは異なり、頭と尻が逆向きになった馬が1頭!

長く真っ白な尻毛を、時折りブラ~ンブラン。

「芦毛のサラブレッド、騙馬(せんば)のメリーって言うだぁ」。

芦毛とは白毛。

騙馬とは、去勢した牡馬(ぼば)の呼び方とか。

「ええっ!じゃあ、サラブレッドのニューハーフってぇこと?」と、思わず囁いてしまったぼくの言葉が聞こえたのか、花井さんが付け足した。

「若い頃、気性が荒かったり、悪癖が強かっただなぁ。だで玉を抜かれただ」。

競走馬としての人生を7~8歳(人間に当てはめると25~26歳)で終え、花井さんの元で第二の人生、もとい「第二の馬生」を送る馬たち。

写真は参考

「ここで20年近くを過ごし、天寿を全うする馬たちは幸せもんだて」。

ここを訪れる馬たちは、競馬新聞にも掲載されるレース・ネームが名付けられている。

まるで瞬くネオンの下で、怪しく咲くニューハーフの源氏名のように。

「だもんでぇ、第二の人生に相応しいよう、わしらや常連さんらで新しい名前を付けたるだぁ。なぁ」。

花井さんは、愛妻のはな江さんを見つめた。

「ちなみにこのメリーは、ここに来てからの名前。昔の名前は『パルフェ』だったの」。

はな江さんは、メリーの大きくて長い鼻筋をやさしく撫で付けた。

「最初っから真っ白じゃないだわ。生まれたては、みんな真っ黒か茶色。ほんでもって3~4歳になって芦毛にだんだん生え変わってくるだぁ」。

中でも一番の凛々しさは、黒鹿毛の四白(よんぱく)流星とか。

黒鹿毛は、黒味のある鹿毛。

四白とは、蹄の上の毛が10cmほど、白足袋を履いたような4本脚を指す。

流星は、眉間に浮かぶ白い菱形状の毛が、鼻筋を流れる様に気品溢れる毛並みとか。

いずれの馬たちも、アスリートとしての現役時代を終え、花井さん夫婦の元で穏やかな第二の馬生を謳歌している。

「大きな大きな子供さんたちに囲まれ、幸せですねぇ」。

思わずぼくがひとりごつ。

すると。

「この子らは、人間と違って文句一つ言わんらぁ」。

花井さんがメリーのたてがみを撫で付けた。

「馬は人の気持ちが良くわかる生きもんだもんで、瞳と瞳で意思を伝えあうだ」。

はな江さんがメリーの瞳をやさしく見つめた。

メリーは馬耳東風そのままに、我関せずで飼葉を旨そうに食べ始めた。

これからはぼくも、メリーたちのように、煩雑極まりない世事に振り回わされたりせず、都合の悪い事はみんな「馬耳東風」で生きて見るか。

ストレスフリーな生き方こそ、贅沢極まりない生き方に違いないから!

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「三河wonder紀行④」

『石窯職人の武骨なパン』

2005.秋 季刊誌掲載

キュルキュル!キュルキュル!

初夏の陽射しを遮る、100%総天然色のサンシェイド、新緑の広葉樹。

野鳥たちの声が冴えわたる。

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葉裏から太陽を透かし見ると、葉脈がまるで血管のように浮かび上がり、森の生命が静かな営みを続ける。

ガザガサ!

枝先が揺れ、二羽のヒヨドリがお目当ての桜を目指し飛来した。

が、しかし!

白いネツトにその行く手を阻まれ、ヒヨドリたちは右往左往ならぬ、上昇下降を繰り返す。

「こいつらぁさぁ、ヘリがホバリングでもするように、うまいこと空中でサクランボを啄むだよ!今年もほとんどやられちまったぁ」。

人懐っこい笑顔で、石窯職人の磯貝安道さん(56)は、森に帰って行くヒヨドリを見詰めた。

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律儀にも、サクランボの小枝に種だけを残して。

待てよ!

何かどっかで見たような光景?

そうだ!

確か数十年前、彼女との初デート。

喫茶店の片隅で向き合ったまま、何をどう話して良いものやら・・・。

今のような「初デート攻略本」なんて何処にも無い冷酷な時代。

それでも何とか彼女の気を惹こうと、しどろもどろ。

吹き出す汗のように、水滴がアイスコーヒーのグラスを滴る。

焦れば焦るほど、話題はどれもショート・センテンス。

長い沈黙だけが、会話と会話の間にドッカと横たわり、グラスの水滴もいつしか乾き切ってしまった。

伏し目がちな彼女の前には、ペロッと平らげられたバナナサンデーの干からびた残骸。

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なのに彼女の口は、終始微かな動きを刻み続けている。

どうにも盛り上がりに欠け、形勢不利な状況を跳ね返す術もない。

ましてやこれといった画期的な打開策などあろうはずも無く、ただただ空しく時間だけが気忙しそうに過ぎて行った。

しかしこのまま店を出ようものなら、掛け替えのない飲食代680円が水の泡。

二度と彼女にデートの約束を取り付けることもままならぬ。

焦りのあまり深く考えもせぬまま、言葉が先に重い口を衝いて飛び出した。

「〇子さん、今からもう一軒梯子しない?駅裏の喫茶店でチョコレートパフェでも?」。

「はぁ?・・・」。

そういうと彼女は徐に席を立ち、終始モゴモゴさせていた口から、サクランボの小枝を吐き出し、空っぽの灰皿に放り出し、そそくそと立ち去って行ってしまった。

真っ白な灰皿に、無情にも投げ捨てられたサクランボの小枝。

しかも小枝は、器用に両端が結ばれている。

そう言えば誰かが言ってたっけ!

『サクランボの枝を口の中で結べる奴は、Kissのテクニシャンなんだぞ!』。

いつだって物知り顔をひけらかす、あのいけすかない奴の言葉が脳裏を駆け巡った。

しおらしい素振りで、ペロッとバナナサンデーを平らげといてぇ!

ぼくはKissなんて、一度もしたこと無いってぇのに!

・・・ってぇことは、あの娘がテクニシャンってぇことかよ!

儚い恋心は、無残にも砕け散った。

でも白状すれば、その時ぼくの心の中に巣食った魔物が「灰皿のサクランボの小枝は、さっきまであの娘の口の中に入っていたんだぞぅ~っ!今ならまだ、ファーストKissの出汁が出ているぞぅ~っ!」と、まことしやかに囁きかけてきたものだ。

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「さあ、お待たせ!」。

石窯職人は窯の蓋を開け、武骨な焼き立てパンを取り出した。

淡く切ない回想シーンに浸っていたぼくは、職人の声で現実の森へと舞い戻った。

「今日は騙されんかったぞ!」。

「ええっ?騙すって、いったい誰が!」。

「窯だよ、石窯!」。

10t近い総重量の石窯は、地中60㎝を掘り返しステコンと鉄筋を入れ、赤煉瓦を腰高まで積み上げる。

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囲った煉瓦の中には、残土を入れて搗き固め、保温のために川砂を被せる。

その上に鉄製の窯を配置し、再び窯の上から直火に強い雌石(めいし)で隙間なく覆う。

そのため窯の蓄熱率が非常に高く、前の日の余熱も失われない。

だから窯内の温度が同じであっても、二つと同じ焼き上がりの石窯パンは仕上がらない。

「だから!石窯パンらぁ」。

そう言われちまっては、いかにももっとも過ぎて、返す言葉すら見当たらない。

が、しかし!

えも言われぬ美味しさが、ほっこりと口の中に広がったぁ!

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石窯職人が焼く武骨なパンは、たったの3種。

しかも完全予約制。

武骨パンの神髄「プレーン」は600円。

「レーズン」「クルミ」がいずれも680円。

素材はすべてこだわりのオーガニックという頑固技。

石窯パンと、家庭用石窯造りのご相談は、0564-83-2881エトセ工房まで。

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「三河wonder紀行③」

『犬好き親子は、わん!ダフル?』

2005.夏 季刊誌掲載

「わんわんわん!」「クゥ~ン!」「ウォン!」「キャィ~ン」。

360度の大パノラマで、犬たちが歓迎の鳴き声を上げる。

「これで犬の言葉が理解出来たら、楽しいのになぁ」。

犬好きのぼくは、取材の事などすっかり忘れ、もう無我夢中。

ここは春を待ち侘び続けた、岡崎市大平町のわんわん動物園。

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「ああ~っ!」。

少年が駆けだした。

岡崎市立藤川小学校3年のK.A君だ。

「K君!」。

お母さんのY子さんの声など、耳に届くはずもない。

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「お母さ~ん!ねぇねぇ、見て見て!ボルドーマスティフのジャイだって!大きいよ!」。

K君の家は、家族揃って大の生き物好きとか。

ミニチュアダックスのレオ君は3歳。

まだまだヤンチャなお年頃。

それに8ヶ月になる、亀のピエール。

「???」。

『なんとも洋風な亀だなぁ・・・』。

一瞬そう思ったぼくの心を、見透かされたのか「本当はママ、ペ・ヨンジュンって名前にしたかったんだよ!」と、小声でこっそり教えてくれた。

『なんとも大胆な!』。

亀に人格など無論ないが、それにしたって・・・せめて亀格くらいはあるのやもしれぬ。

だとすれば余りにも身勝手甚だしい、人間の傲慢さが闊歩した命名となってしまうではないか!

しかしお母さんときたら、まったく意に介していないご様子。

「わたし海と山に囲まれた、長崎育ちだから。自然が周りに一杯で」と。

これまでのペット歴は、犬5頭に猫10匹、それにインコとウサギとか。

「動物と目が合うと、もうその場に釘付け」。

写真は参考

そう言うお母さんの言葉尻から、K君は大型犬の金網の前で、ディアーハウンドのガディスとアイコンタクト中。

もう何人たりともこの親子を止めることなど出来ぬ。

この楽園の主たち、137種300頭すべての犬たちを、とことん制覇し尽くすまでは。

なんとも微笑ましい限りの仲良し親子。

両手一杯に犬たちのよだれがねっちょり。

写真は参考

だがそんなことなど一向にお構いなし。

大の犬好き親子は、わんわん動物園の隅から隅まで、虱潰しに歩き回り、ゲージの前に立ち止まっては片っ端から犬を撫でまわす。

まるで散歩の途中、犬が片足を上げ自分の縄張りを主張する、マーキング行為そのままに。

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「三河wonder紀行②」

『ガリバーの国のロールケーキ?』

2005.春 季刊誌掲載

「鬼は外、福は内」

家々の引き戸が、ガラガラガラっとけたたましい音を立て、開いたり閉じたり。

町内のあちらこちらで、子どもたちの声が上がったものだった。

でももう、そんな昭和中ごろの風景は、記憶の片隅に消え入ろうとしている。

節分の豆まきは、もともと柊の枝に鰯の頭を刺して戸口に立て、鬼打豆と称す炒り大豆をまいた習慣に由来するとか。

写真は参考

近年ではそれが簡略化し、柊の枝に刺さったグロテスクな鰯の頭という、豆まきの儀式を鬼気迫るものとして演出したはずの装置も、住環境の変化で不要になったとでも言うのか、なかなか見かけられなくなってしまった。

でも何でそれが鰯だったの?

鰺や秋刀魚じゃあ役不足?

でも鬼を駆逐する戸口の飾りが、「魚」偏に「弱」いと書く鰯とは何とも心許ないものではないか!

新春恵方詣りの駅貼りポスターを眺めながら、ぼくはしきりに首を傾げていた。

しばらくすると・・・。

「あのう・・・」。

「あっ!あれっ?」。

別にプラトニックでとても清らかな関係の、文通相手と初めて出逢ったような逢瀬の一コマではない。

今回の旅のナビゲーターである、岡崎市のNさんとJR安城駅で落ち合った瞬間の一コマである。

はてさて一体ぼくは、これから何処へ導かれるのやら。

「いつも車で通りながら眺めてるだけだから・・・ええっと・・・」。

早速一抹の不安がぼくを襲う。

「確か・・・こんな感じの、古びた商店街の途中だったような気が・・・」。

Nさんは交差点で立ち止まり、あっちをキョロキョロ、こっちをキョロキョロ。

それに釣られてぼくも一緒にキョロキョロ。

時折り通り過ぎる車の運転手までもが、何かあったのかとノロノロ運転。

それでも何とかかんとか、目指す洋菓子工房「Tin-Ker-Bell」を発見!

写真は参考

「なんじゃあ、こりゃあ!」。

昔のTVドラマ「太陽にほえろ」のジーパン刑事の殉職シーンを気取ったわけではない。

とにかく馬鹿でかいロールケーキが、メルヘンチックな宝石箱のようなショーケースの最上段に、その巨体を横たえていた。

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長さ50cm、幅20cmの生地を巻き上げた、直径7cmのつわもの。

「ちょっと待ってよ!こんなの誰が一気に食べるっちゅ~の!」。

妄想が暴走してゆく。

「米粉の生地を、コメのカスタードクリームと生クリームで巻き上げ、イチゴとキーウィにオレンジをトッピングしました」と、オーナーの香村政人さん。

その名も「長すぎるロールケーキ」とは、いかにも分かりやすすぎ。

お代は2000円ポッキリ。

「子どものお誕生日とか、ホームパーティーにはピッタリでお値打ちかも!」と、Nさんもすっかりその気に。

2004年の5月から販売を始め、口伝に噂が広がり、今では1日に15本ほども売れる人気商品だ。

物は試しと1本買い込んで見た。

う~ん、なんとも言えぬ重さがズシリ。

2000円の重みが、しみじみと感じられる。

でも待てよ!

ラベルの片隅の文字に目が留まった。

「本日中にお召し上がり下さい」だって!

ええっ!わが家はたったの3人家族。

それを今日中に食べきれと言うのか!

写真は参考

ああっ、ガリバーならきっと一口なのに!

「ならばいっそ、今年の節分の恵方である西南西を向いて、ガリバーの国のロールケーキとやらを、一息に喰らい尽くしてやるか!」。

独りよがりのぼくの空しい叫びを『この愚か者めが!』と、春一番が嘲笑うように吹き飛ばしていった。

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「三河wonder紀行①」

『真烏賊の押し焼き』

2004.冬 季刊誌掲載

「『俺がここに並んどったるで、お前ら買いもんでもしてこい』って、30分でも1時間でも、文句一つ言わず家族のために辛抱強く、行列について周って待っとるだで、いいお爺ちゃんでしょう」。蒲郡市のUさんは、実の父の言葉を真似て明るく笑った。

漁港特有のねっとりとした、ディープな潮の薫りが鼻を衝く。

海鳥が何処までも高い秋の空に吸い込まれて行った。

ここは愛知県三大漁港の一つ、一色漁港。

一角には、人々を惹き付けて止まない「一色さかな広場」が光彩を放つ。

駐車場には次から次へと観光バスが横付けされ、何とも賑やかなりしオバサマご一行が吐き出され、瞬く間にさかな広場へと吞み込まれてゆく。

それと入れ替わりに、今度は両手一杯のスーパーバッグを携えた、オバサマ一行がやって来た。

写真は参考

まるで勝ち名乗りを上げた力士さながらに。

勇み足で花道を誇らしげに引き上げ、バスの中へとズンズン音を立てながら消えてゆくではないか!

「ちょっと待ってよ!どーなっとるの、あのオバサンたち!」。

さかな広場の入り口に立ち尽くしたまま呆然。

「だもんでー、土日はこんな調子で買い物客で一杯らぁ。怯んどったら何にも買えんだで。さあ、行くよ!」。

Uさんの先導で幾分オバサマご一行に気圧されながらも、さかな広場の奥へと。

う~ん!

思わずビールでも一杯遣りたくなってしまうような、乾き物のエキゾチックな匂いに咽返る。

「ほらねぇ、あれ見りん」。

Uさんの指先には、老若男女の長蛇の列。

まるで戦争の焼け跡で、配給でも待ち続けるかのよう。

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「みんなお目当ては、ここの真烏賊の押し焼きを待っとるじゃんねぇ」。

さすがに人いきれで、ぼくはもはや戦闘不能状態。

しかしここまで来て、押し焼きも喰わずして帰られようものか!

馨しき一枚420円の真烏賊の押し焼き。

なんとももどかしいほど、遥かなFaraway。

まるで愛しい人を、手に入れるまでの果てしない距離と似ている。

ここ「五代目網元 宝生丸岩ヱ門」は、元々が漁師の出。

内臓と目玉を取り除いた真烏賊を一杯なり、一晩醤油と秘伝のスパイスに漬け込む。

仕上げに馬鈴薯の澱粉を絡めて、押し焼き用の鉄板でふんわりと焼き上げる。

烏賊は「キュッ」と鳴き、鉄板に挟まれ約4分。

写真は参考

生の真烏賊は、身の中に潮水を宿した状態で焼き上がり、押し焼きと言うそれはそれは有難い逸品として生まれ変わる。

烏賊は「キュッ」と一声だけを遺し、次から次へと鉄板で身を焦がす。

4分の時を旅し、愛しい誰かの胃袋を満たすために。

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「カリーテンプルへの道!~世紀越え大カリーパーティー・ルポ④」(シリーズ最終回)

2001年1月9日 毎日新聞朝刊掲載

「言葉を越えたいっぱいのカレー」

たかが一杯のカレー。

されど一杯のカレーは、人と人の心を巧みに紡ぎ合わせ、言葉も国境も越え人間同士のやさしさを、見事なまでに織り成していく。

会場には、カレーのスパイシーな香りと、人間同士の発散する生なるエネルギーが満ち溢れ、一つの絶妙なハーモニーが奏でられ続けた。

予め用意された約2000杯のカレーは、午後10時過ぎに全て空っぽ。

この日パーティーに訪れた、マスティープール村、ミヤビカ村、ピーパルパーティー村の、約1500人の村人達の、至福の笑顔とともに彼らの胃袋に消えた。

彼らの体内に宿った七士のカレーは、間違いなく21世紀に語り継がれ、カリーテンプルを舞台に、新たな日印の民間交流史が刻まれ続けて行くことだろう。

明日からは、季刊誌に連載した「三河wonder紀行」をお届けいたします。

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「カリーテンプルへの道!~世紀越え大カリーパーティー・ルポ③」

2001年1月9日 毎日新聞朝刊掲載

「世紀越え大カリーパーティー」

大晦日、午前10時10分。

カリーテンプルゲート前正面には日本の七士、そして右側に外国人僧りょのテラワダ僧(上座部仏教)約30人、左手に外国人僧侶のラマ僧(チベット・ラマ教)約30人が集まり、読経が始まった。

日本のお経に続き、テラワダからラマのお経へ。

それぞれの国の僧侶たちの祈りは、真新しいカリーテンプルに魂を吹き込み、ブッダの聖地に生を授ける。

大晦日、午後5時。

ゲート前には、既に多数の村の子供たちが列を成し、カリーパーティーの始まりを今や遅しと待ち構えている。

午後6時30分。

カリーテンプル中庭に設けられた特設ステージで、セレモニーがスタート。

七士の加藤代表からの挨拶に続き、トラストのジャガット理事長の祝辞へと続く。

もう既にカリーテンプルに隣接する公道は、パーティーを待ち侘びる老若男女の、村人約500人程で埋め尽くされている。

大晦日、午後7時。

パーティー会場には、最初の村人たち180人が入場。

約8割が子供で、残りは子供を持つ母親と老人達で占められた。

あたかも無秩序に並んでいるかに見えた村人たちだが、その実子供や小さな子を持つ母親、それに老人と身体の不自由な村人は、優先的に会場内に送り込まれ、健康な若者や男達は、会場の外で気長に順番が来るのを待ち続けていた。

後になって気付いたものの、村人たちの連帯感の強さと、思いやりに満ち溢れている姿勢に、見習うべき点の多さを感じた。

会場内には、このパーティーのためのツアーで、日本の全国各地から参加した50名と、ブッダガヤを訪問中の8人の日本人も加わった。

村人たちは、会場のカーペットの上に座り込み、カレーの配給を待つ。

まず最初にサラサの葉を組み合わせて乾燥させた、直径約30㎝のお皿が配られる。

次にインディカ米、そしてステンレス製のバケツに取り分けられた、チキンや野菜、それに豆のカレーが盛り付けられていく。

また油で揚げたプリと呼ばれるパンと、牛乳と麦で作られた甘く冷たいお団子のようなデザートが添えられ、これで一人前が完成。

老若男女とも、分量は全く同じ。

会場内には、ヒンディー語が飛び交い、右手だけを巧みに使っての賑やかなディナーパーティーの宴が始まる。

一列に並んで、カレーをむさぼり、喜びを分かち合う兄弟姉妹。

孫と隣り合わせて座る老人は、民族楽器のシタールとドラムの生演奏に合せ、身体を揺すりながら歓喜を表した。

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「カリーテンプルへの道!~世紀越え大カリーパーティー・ルポ②」

2001年1月9日 毎日新聞朝刊掲載

「二十世紀最後の大晦日」

いよいよ二十世紀最後の大晦日。

大塔の南東、尼連禅河から朝日が昇る。

感無量のぼくを尻目に、ブッダガヤの村人たちは、世紀越えなど全く持って無関心そのもの。

いつもと変わらぬ毎日を、何時もと何一つ変わらぬリズムで、淡々と刻んでいる。

しかし子供たちの行動からは、いつもと違う只ならぬ気配を感じる。

普段と違い子供たちは、カリーテンプルがかすかに見渡せる範囲内に身を置き、世紀越えカリーパーティーの準備の具合に、明らかに注意を払いつつ遊んでいる。

ぼくらの子供時代、嫁入りの家の前で、餅投げや菓子撒きが始まるのを、今や遅しと待ち構えていたあの頃を思い出してしまった。

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「カリーテンプルへの道!~世紀越え大カリーパーティー・ルポ①」

2001年1月9日 毎日新聞朝刊掲載

「カリーテンプル七士が到着」

2000年の大晦日のオープンを、目前に控えたブッダガヤ。

続々とカリーテンプル・プロジェクトの七士が到着した。

まず28日には、17年前に300杯のカレーを振る舞った張本人、滋賀県八日市市・福命寺住職・内田卓也(46)。

そして宿坊の設計者でもある神戸市北区・極楽寺住職・古本肇滋(49)が到着。

翌29日にはぼくが、予定より2日遅れで到着。

乗り替え地ネパールのカトマンズで出くわした、ネパーリーの暴動に遭遇したからだ。

そして翌30日には、プロジェクトの代表でもある福井市・泉通寺住職・加藤光照(59)、福井県南条郡・善導院住職・清水涼裕(52)、神戸市長田区・極楽寺住職・伊藤涼導(49)が朝一番に到着。

さらに午後には、神戸市中央区・浄福寺住職・浅野正運(65)、そして兵庫県豊岡市・来迎寺住職・紀氏隆宏(45)の全七士が集結。

早速翌日に迫ったカリーテンプル祈りの本堂の落慶法要と、世紀越え大カリーパーティーの準備が進められた。

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「遥かなるカリーテンプルへの道!」(第21話)

2001年2月27日 毎日新聞朝刊掲載

「世紀越えに集いし二十歳の群像」

世紀越え大カリーパーティーには、約50人の日本人が訪れた。

その中には、今年新成人となった5人の若者の姿もあった。

誰もが世紀越えのカレーと、素朴な村人達とのふれあいを心から求めて。

しかし会場は、日本人と村人達との間が仕切られ、ライフルで武装した警備員が配置されていた。

「なんで日本人と村人を隔てるんだろう?」。

まったく腑に落ちない。

しかしそれには理由があった。

大晦日の前日、村人達の間で抗争が起き、一人の村人が殺されていたからだ。

大半の日本人を引率してきた某旅行会社は、客に危険が及ばぬようにと、会場の中を日本人と現地人との間を分割してしまったのだ。

結局日本人は会場の奥の安全な場所に囲い込まれ、スチール製のトレイにカレーを盛り付けスプーンでカレーを食す始末。

「これじゃあ日本で、インスタントカレー食べるのと一緒だよ!」、そうぼくは呆れ返ってしまった。

確かに旅行会社とすれば、危険を回避したい気持ちはわかる。

しかしだからといって、村人達と共にカレーを食べたいと、遥々やって来た日本人たちの行動を抑制し、感動を不完全燃焼に終わらせる権利は何人にも無い筈だ。

やがて1回に付き200人ほどの村人達が入場。

地べたに整列して座り、サラサの葉を乾燥させたお皿に料理が盛られる。

会場入口を数100人の村人達が取り囲んでいたものの、何の混乱も無く子供達と小さな子を持つ母親、それに老人や障害者が優先的に席に付いたのだ。

そこには予め整理券を配ったり、大声を張り上げて誘導したわけでもなく、ごくごく当たり前の行為として、若者や男たちは外にたむろし子供や老人に先を譲っている。

警備員の間をかいくぐり、日本の若者たちは村人達が食事を始めた会場に入り込み、一心不乱にカメラのシャッターを切ったり、ボディーランゲージを駆使して「美味しいかい?」と訊ねた。

やがて年配の日本人達も一人増え二人増え、気が付いた時にはほとんどの者が村人達を囲む。

福井から参加した加藤えい子さん(19)は、「子供達の目の輝きと、細い足で大地を踏みしめ、力強く生きている姿に心奪われました。20歳の節目に来てよかった。生きてるって凄いことだと、ここへ来て肌で感じました。」と。

良かった良かった。

それがだって、何よりの心の記念になるのだから!

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