「昭和Nostalgia」(478)

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これまた縁日の夜店にゃ欠かせない、ヨーヨー風船釣り!

ところがこれが簡単そうに見えながら、その実なかなか難しいものでした。

何と言っても紙縒りの先に取り付けられた、『W』のような針金の針が曲者!

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『W』のように、山と谷が深く曲げられていて、ヨーヨー風船の小さな輪ゴムに針先を通そうとすると、どうしても『W』を横に寝かせるようにせねばならず、ついつい紙縒りが水に濡れてしまい、やっと針先に輪ゴムをひっかけれた~って思い、意気揚々とヨーヨー風船を吊り上げると『ボット~ン』と、紙縒りが千切れて『W』の針とヨーヨー風船が水槽に落っこち、ハイッそれま~でよ!

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何度悔しい思いをしたことやら!

そうして苦労の末手にしたヨーヨー風船のゴムの輪っかに指を通し、その名の通りヨーヨーのように掌で弾いては風船を放し、ゴムの反発でまた掌の中に戻るといった、そんな単純な遊びではありましたが、キャッキャキャッキャと愉しんだ幼き日。

でも翌日になるとヨーヨー風船は、昨夜よりも一回りも小さくなり、その翌日にはまた一段と小さくなって、3日もするとすっかり窄んでしまったものでした。

ヨーヨー風船は、その儚い命を、まるで全うしたかのように!


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「昭和Nostalgia」(477)

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これこれ!

これをご存知の方は、これまた押しも押されもせぬ、昭和半ば生まれに違いないでしょう!

ぼくが初めてこのスーパーボールとやらと出逢ったのは、小学2~3年の頃の事だったように記憶しています。

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恐らくご近所の中学生のお兄さんたちが、スーパーボールをアスファルトの地面に叩きつけると、とんでもなく高くまでボールが跳ね返る姿に、ただただ度肝を抜かれるほど驚いたものです。

でも中学生のお兄さんたちから、まずもってそのスーパーボールを貸してもらえるはずもなく、ぼくらは遠巻きにその不思議な威力を発揮するボールの行方を目で追ってばかりだったように記憶しています。

どこへ行けば売っているのやら、いったいいくらするやら?

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しかしそれから半年くらい経つと、いつもの一文菓子屋の店先にも、スーパーボールが並べられておりました。

果たしてそれがいくらだったのやら?

一日10円の小遣いだったぼくには、とても買えなかったわけですから、そんなにお安くは無かったってぇ気がします。

しかし、腕白小僧の友の中には、羽振りの良い奴もおりまして、さっそくスーパーボールを手に入れ、自慢げにコンクリートブロックの塀を相手に、とんでもない威力を発揮して跳ね返って来るスーパーボールで、自慢げに遊ぶ輩も登場したものです。

そんな友の周りには、ぼくのようにおいそれと小遣いで買えないものが集まり、スーパーボールを貸してもらえるのをひたすら待ち続けたものでした。

まぁ、今にして思うと、とんでもない威力を発揮して跳ね返ってくる以外、さりとてこれと言った他に芸のあるものでもなかったのに、ただただその反発力が驚くほどだったために、喉から手が出るほどに、スーパーボールに憧れたのかも知れません。

まだまだ、お祭りの夜店でスーパーボールすくいなるものが、登場する前の話しであった気がします。

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大人になってから夜店の出し物で、スーパーボールすくいを見かけた頃は、もうすっかりスーパーボールの魅力も消え失せちゃってましたですねぇ。

そんな腕白坊主共の目を虜にしたスーパーボールは、昭和39(1964)年の東京五輪の年に、アメリカの化学者ノーマン・スティンレー (Norman Stingley) の手により開発されたものだったようです。

「Super Ball」は爆発的にヒットを記録し、最盛期には日に17万個が生産されたとか。

その後しばらくして、日本にも上陸したんでしょうねぇ。


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「昭和Nostalgia」(476)

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夏祭りや花火大会が各地で催され、それはそれはとても賑わっているようですねぇ。

何と言っても、夏祭りの夜店のぼく的な主役は、金魚すくいに射的と決まったものでした。

特に金魚すくいの夜店の周りは、どこもかしこも子ども連れで大賑わい!

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アルマイトの容器を片手に、輪っかになった針金に薄い和紙が貼られた「ポイ」と呼ばれるもので、お目当ての金魚をすくい上げるという単純な遊びながら、これがなかなか簡単にはいかなくって、いつだって悔しい思いをしたものです。

それでも懲りずに、次の年も飽くなき挑戦を繰り返したものです。

一匹もすくうことが出来ないまま、ポイの和紙が破れてしまうと、夜店のオッチャンが小さなビニール袋に、金魚を2~3匹入れて「残念やったなぁ。これ残念賞や」とかなんとか言って、哀れなぼくを見かねて持たせてくれたものでした。

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って、それはなにもぼくだけじゃなく、一匹もすくえない者たちへの、お約束事のような残念賞でした。

家に帰るとお母ちゃんが、どこぞかで買った駅弁の、釜飯の土器の釜に水を張り、金魚を泳がせたものです。

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ぼくはガラス製の、フリルの金魚鉢で泳がせてやりたかったのに、

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金魚のためにそんなハイカラな金魚鉢など買ってももらえず、近くの小川で取って来た、ホテイアオイを浮かべて釜飯の釜の金魚鉢の中を覗き、それぞれ金魚に命名した名を呼んだものでした。

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って、どの金魚が何という名前だったか、こんがらがってしまってばかりでしたが・・・

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しかしそれも幾日もしない内に、一匹また一匹と死なせることとなってしまい、アイスクリームの棒を墓標に見立て、亡くなった金魚の名を書き、猫の額ほどの花壇に埋葬し手を合わせたものでした。

合掌


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「昭和Nostalgia」(475)

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夏休み本番となり、海や山へのレジャーシーズン到来!

海や山でキャンプを楽しまれる方も、さぞや多いことでしょうねぇ。

しかし、こんな昔ながらの飯盒を使って、ご飯を炊くような方は、最近のお洒落なキャンパーにゃあ、見かけられないかも知れませんですねぇ。

キャンプ用品も随分とファッショナブルになりましたものねぇ。

ぼくは小学2年でカヴスカウト名古屋第1団に入団し、その後団員が増えたためか、名古屋第36団へと分割されました。

カヴスカウト時代は、お寺の本堂とかに寝泊まりするキャンプの真似事でしたが、その後小学5年になってからだったか、ボーイスカウトとなってから、本格的な野営のキャンプになりました。

とは言え、今のような整備の行き届いたキャンプ場などではなく、まさに原野を切り開いてテントを張り側溝を掘ったものでした。

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そして周辺から薪を集め、立ち竈を作って煮炊きしたものです。

自慢じゃありませんが、こんな不器用なぼくでも、有り合わせの木の枝なんぞを拾い集め、立ち竈を先輩の指導の下、作れちゃったんですから!

もう今じゃあ、麻紐の縛り方もさっぱり忘れちゃいましたが・・・。

火に掛けた飯盒の中のご飯の炊きあがりは、上蓋に枝先を当てお米がグツグツ煮えている振動で、炊き上がりのタイミングを推し量ったものです。

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グツグツといった振動がある内はまだ炊き上げの最中で、枝先から何も振動が伝わらなくなったその時が、炊き上がりの瞬間!

飯盒を火からおろし、そのまま上下を逆さまにして、上になった飯盒の底を、そこら辺の草でこすって、しばらく蒸らしてから、再び飯盒の上下を反転させ、上蓋を開けてご飯をほぐしたものです。

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ぼくは飯盒の底で焦げたご飯が、結構好きだったようです。

香ばしくって、食感がカリカリとしていて!

今のお利口な炊飯器じゃ、お焦げなんてちっとも出来ませんからねぇ。

これも懐かしい、ぼくの夏休みの味わいだったのかも知れませんです。


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「昭和Nostalgia」(474)

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お父ちゃんは日曜日になると、朝早くから布団を抜け出し、台所で何やらゴソゴソ!

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「あっ、鮒釣り用の餌の準備だぁ!」と、ぼくも布団を抜け出し、置いてけぼりを喰らわないよう、お父ちゃんの元へ!

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するとお父ちゃんは、ボールにマッシュポテトの粉と水を入れ、粘り気が出るまで手で捏ねながら、鼻歌なんぞを歌っていたものです。

そしてお母ちゃんを起さぬよう、鳴りを潜めるようにして、自転車に二人乗りして近くの川へと向かったものでした。

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河原に陣取ると、釣り道具箱を店開き。

お父ちゃんは慣れた手つきで、竹竿に釣り糸や浮に錘、そして釣り針を取り付けてくれたものです。

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あとはマッシュポテトを、パチンコ玉程度の大きさに指先で丸め、釣り針をそれで隠すように包み込み、ビュ~ンと竹竿をしならせ、川の中心部辺りへと釣り糸を投げ込む!

でもぼくの釣り糸は、お父ちゃんのように上手くは投げられず、手前の川面にポチャリ!

見るに見かねたお父ちゃんが、ぼくの竿とお父ちゃんの竿とを交換してくれたものでした。

後は朝ご飯のアンパンに噛り付き、牛乳をゴクリと煽りながら、それでも片時も浮の動きから目が離せなかったものです。

根気の良いお父ちゃんとは違い、何事にも直ぐ飽いてしまうぼくは、小一時間もしない内に鮒釣りから離脱。

草むらの中に寝転がったり、草笛を拵えたり、小さな虫を追い駆けたり。

お昼ご飯の時間が近付く頃まで、お父ちゃんの周りを退屈そうにウロウロしたものです。

「ほな、ボチボチ帰ろかぁ?」と、お父ちゃん。

お父ちゃんがぶら提げるバケツの中には、その日の釣果であるヘラブナが数匹。

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そう言えば真冬のある日、火鉢に鍋を掛け、お父ちゃんがコトコトコトコトと、鮒味噌を作ってくれたことがありました。

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骨ごと食べられるほどに煮込まれた鮒味噌は、炊きたての温かご飯に相性抜群で、お母ちゃんと一緒に「美味しい美味しい」と平らげたものです。

もう二度と味わう事の出来ぬ、お父ちゃんお手製の「鮒味噌」。


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「昭和Nostalgia」(473)

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今夜あたりから、各地で納涼花火が打ち上がるようですねぇ!ぼくの夏花火をどうぞ!

「夏花火」

(たらい)に浮かぶ打ち上げ花火 スイカ冷やした夏の宵 髪を束ねた浴衣姿の 君のうなじがいとしくて

 夏よ二人の時間(とき)を止めて 今のまま君を閉じ込めたい 輝き放ち一瞬(ひととき)で散る 花のように短い夏花火

縁に腰掛け団扇で君が (くゆ)らす煙の蚊遣り豚 そんな仕草の一つ一つに ぼくの心は震え出すよ

 夏よこのまま時間を止めて 今のこの君を忘れたくない 輝いただけ儚くも散る 人の世の定めと夏花火

 夏よこのまま時間を止めて 記憶に君を焼き付けたい 輝き放ち一瞬で散る 花のように短い夏花火

大きな花火大会を見上げるのも圧巻ではありますが、縁側の蚊遣り豚で蚊取り線香を燻らせながら、両親と線香花火に興じた子どもの頃がついつい思い出されてなりません。

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小学校の高学年になると、バケツに水を張り公園で子供だましな花火で愉しんだものです。

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こんなネズミ花火!懐かしいですねぇ!

「ねずみ花火」は、「花車」とも呼ばれる花火で、その名の通り火が着くとくるくると回り出し、あっちへこっちへ!

キャッキャキャッキャと逃げ回ったものでした。

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こんなのや、

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こんなのもありましたねぇ!

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それからこんなドラゴンも、懐かしい限りです!

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そして子どもたちの花火の最後は、こんな線香花火と決まっていた気がします。

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その儚い感じの火玉を眺めると、ちょっぴりセンチメンタルな気分を、子ども心にも感じた気がします。

その線香花火ですが、火を灯してから火玉が落ちるまで、4段階の変化が愉しめるそうですねぇ。

「つぼみ」「牡丹」「松葉」「散り菊」と、移り変わる様を植物に見立てて名付ける辺りに、日本人らしい風情が感じられます。

たかだか線香花火と言えど、昨今ではマンションのベランダで興じるわけにもいかず、もどかしい限りです!


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「昭和Nostalgia」(472)

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これは幼稚園に上がる前の、4歳くらいのぼくと、同じアパート住まいだった、二階の佐藤のオジちゃんです。褌の代わりは、お父ちゃんの浴衣用?の帯だったような?

何てったって昭和半ば生まれですから、泣く子も黙る、押しも押されもせぬ「巨人大鵬玉子焼き」世代!

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広っぱでの遊びと言えば、草野球に子ども相撲。

晩御飯のご馳走と言えば、誰が何と言おうと「卵焼き」!

そんな子ども時代を謳歌していたものです。

子供会とかの活動も活発で、夏休みだったかに「子ども相撲大会」とかってぇのがあったものです。

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公園の地面に子供会の役員さんが、土俵に見立てた円を描き、半ズボンにランニングシャツ姿の子どもたちの、取り組みが行われたものです。

ぼくなんていっつも、これでもかってぇほど籤運が悪いと言うか、とんでもなく体格のいい対戦相手との取り組みとなってしまい、あれよあれよと言う間に土俵から押し出されたり、投げ飛ばされたりともう散々!

確か優勝者には、新聞社名の入った大学ノートと、鉛筆セットだとかが授与されていた気がします。

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それでもみんな優勝賞品欲しさで、必死になって自分よりも遥かに体格のいい、お兄さんたちに玉砕覚悟で、立ち向かって行ったものでした。


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「昭和Nostalgia」(471)

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もうこんな木製の盥なんて、なかなかお目に掛れなくなってしまいましたですよねぇ。

ぼくも幼稚園の頃までは、猫の額ほどの庭先で、盥に水を張って行水と言うか、水浴びとでも言うか、暑さしのぎに木製プールのような盥の中で、水遊びに興じた記憶があります。

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お父ちゃんかお母ちゃんがお相手で、頭から水を掛けられるたびに、キャッキャキャッキャと、大はしゃぎだったことでしょう。

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昭和半ばの三種の神器の一つ、電気洗濯機がわが家にお目見えする前は、この盥に洗濯板を入れて、お母ちゃんが手洗いで洗濯していたものです。

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小学校に上がってしばらくすると、ちょっと裕福な近所の友人の家に、こんなビニールプールが登場し、腕白坊主共は海水パンツ一丁で、プールに入れてもらいたい一心で、炎天下の中列をなしたこともありました。

そりゃあ羨ましくって羨ましくって!

小学生になって体も成長し、これまでのように盥で水遊びをするには、盥のプールが小さくなっちゃってましたからねぇ~っ!


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「昭和Nostalgia」(470)

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小学生の頃は、ぼくの中で夏休みの音ってぇのがあったものです。

牛乳配達のオジサンが漕ぐ頑丈な自転車の、ブレーキが軋み音を発し、ガチンゴチンと牛乳瓶が触れ合う音、そして自転車のスタンドが立てられる音。

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そして玄関へ向かうオジサンの足音がして、続いて木製の牛乳箱の蓋が開く音、そして牛乳瓶がコトンと入れられる音。

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しばらくすると同じように、頑丈な自転車のブレーキが軋む音がして、玄関の新聞受けにこれまたコトンと新聞が入れられる音。

そしてアブラゼミの喧しい鳴き声!

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これらがぼくに夏休みの朝を告げたものでした。

って、アブラゼミの鳴き声はともかく、牛乳配達も新聞配達も、何も夏休みだけの物じゃないんですけどねぇ。

恐らく振り返って考えてみると、学校へ登校しなきゃ行けない日も、同じように牛乳配達や新聞配達の音を聴いていたはずなのに、夏休みの音としか認識していなかったのは、「今日も夏休みだぁ!」と言う開放感のある朝と、「↓今日も学校かぁ・・・↓」と言う、閉塞感の漂う朝との違いではなかったかと思えます。

やっぱり子どもの頃の夏休みってぇのは、さりとて何処かへ連れて行ってもらえるわけでもなくったって、朝が来るのが待ち遠しくって待ち遠しくって!

でもお盆も過ぎ、夏休みも残り一桁となると、手を付けていなかった宿題の事が頭を離れず、沈鬱な想いに覆われた夏休みの第4コーナーでした。

今じゃあ牛乳配達も、新聞配達の音も、すっかり聞こえなくなってしまいました。

あの音はまさに、ぼくにとっての忘れ得ぬ、昭和のざっばな環境音だったって事に違いありません。


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「昭和Nostalgia」(469)

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これは付箋のポストイットではありませんよねぇ!

小学校の理科の時間にお世話になった、あのリトマス試験紙ですねぇ。

ぼくなんてリトマス試験紙こそ覚えちゃいましたが、それが何を測るものだったのかも、恥ずかしながらこれっぽっちもすっかり覚えちゃおりませんでした。

まぁ情けないったら、ありゃしないってぇ感じです。

改めて調べてみて、やっと思い出しましたぁ!

参考

リトマス試験紙に液体を付け、その色の変化で、酸性・中性・アルカリ性を判定するものでしたですねぇ。

身近なミカンの果汁で実験したような?

色の変化により、酸性(青 → 赤)、アルカリ性(赤 → 青)、中世(変化なし)を判定したんでしたですよねぇ。

見事なまでに忘れちゃっておりましたが!

リトマスとは、紫色の色素のことを指すようで、主に地中海地方・西アフリカ沿岸に分布する、リトマスゴケから抽出したものだそうです。

写真は参考

そのリトマスゴケは、1300年頃にスペインの医師であり、薬剤師でもあったと言うアルナルドゥス・デ・ビラ・ノバ(Arnaldus de Villa Nova)によって発見されたのだとか。

日本の鎌倉時代には、既にリトマス試験紙の元となるものが、既にヨーロッパで応用されていたとすると、リトマス試験紙の歴史たるや、相当なものでありますねぇ!


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