『俄か仕立ての浜採(はまど)り』
2008.夏 季刊誌掲載
三河湾に面した幡豆郡吉良町の白浜新田。
内海の穏やかな波頭が、早春の陽光をキラキラと弾き返し、綿毛のように柔らかな海風を連れて来る。
競い合うかのように咲き始めたばかりの桜の花びらも、麗らかな春の陽気を一身に浴び、何とも心地よさげに揺れている。
「ああっ!」。

時代がかった小屋の前に立札。
入浜式塩田の跡とか。
昔はこんな長閑な環境の中で、日がな一日かけて塩作りしていたのかぁ。
なになに・・・。

「吉良公の時代には、にがり分の少ない良質の塩が豊富に取れ、饗庭塩(あいばじお)と呼ばれ矢作川を川舟で遡った。そして足助で中馬と呼ばれる木曽馬に荷を載せ替え、長野県の飯田や駒ケ根を越え塩尻を目指した。だから塩の終点、塩の尻って今でも書いて塩尻」なのかぁ。
ここは吉良町歴史民俗資料館に併設する、吉良文化広場に復元された入浜式塩田。
この左官職人が使うような「平」って名の道具で、沼井(ぬまい)の砂を塩田全体に撒いたのかぁ。
ぼくは塩焼き小屋の中から平を取り出し、屁っ放り腰で写真の砂撒きを真似て見た。

しかしどうにもこうにも、手も足もてんでんバラバラ。
「あかんあかん!そんな屁っ放り腰じゃあ!砂撒きだけで一日かかってまうらぁ」。
麦藁帽子に黒の長靴姿。かくしゃくとした老人がどこからともなく現れ出で、手取り足取りの実技指導を始めた。
このご老人こそが何を隠そう、吉良の饗庭塩造りの名人、渡辺友行さん(82)だ。

かつては白浜地区で2反7畝(せ)に及ぶ巨大な塩田を誇った、浜採りの末裔である。
「そんでも昭和28年の13号台風で、この辺りの塩田はまるっきし壊滅だぁ」。
事実上、吉良の饗庭塩は、この世からその姿を消した。
「そんでもなぁ、地元の人らがもう一回塩田を復活させよまいって、5月から毎月第4土曜日に一般参加で塩作りを始めることになっただぁ。そうやって若い人らに昔の塩作りを伝えるのが、当時を知る年寄りの努めらぁ」。
麦藁帽子の庇を持ち上げ、吉良の浜採りは塩焼けた赤ら顔を綻ばせた。
ぼくも来年は参加させてもらって、饗庭塩を手塩にかけて作って見るかぁ!

そしたら三河湾で揚がったばかりの魚を、手作りの饗庭塩を振って塩焼きにして、キリン一番搾りでプッハァ~ッてかぁ!
塩田にはぼくの影が長く伸び、頭上で鳶が呑気にクルリと輪を描いた。
このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。