「三河wonder紀行⑮」

『俄か仕立ての浜採(はまど)り』

2008.夏 季刊誌掲載

三河湾に面した幡豆郡吉良町の白浜新田。

内海の穏やかな波頭が、早春の陽光をキラキラと弾き返し、綿毛のように柔らかな海風を連れて来る。

競い合うかのように咲き始めたばかりの桜の花びらも、麗らかな春の陽気を一身に浴び、何とも心地よさげに揺れている。

「ああっ!」。

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時代がかった小屋の前に立札。

入浜式塩田の跡とか。

昔はこんな長閑な環境の中で、日がな一日かけて塩作りしていたのかぁ。

なになに・・・。

写真は参考

「吉良公の時代には、にがり分の少ない良質の塩が豊富に取れ、饗庭塩(あいばじお)と呼ばれ矢作川を川舟で遡った。そして足助で中馬と呼ばれる木曽馬に荷を載せ替え、長野県の飯田や駒ケ根を越え塩尻を目指した。だから塩の終点、塩の尻って今でも書いて塩尻」なのかぁ。

ここは吉良町歴史民俗資料館に併設する、吉良文化広場に復元された入浜式塩田。

この左官職人が使うような「平」って名の道具で、沼井(ぬまい)の砂を塩田全体に撒いたのかぁ。

ぼくは塩焼き小屋の中から平を取り出し、屁っ放り腰で写真の砂撒きを真似て見た。

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しかしどうにもこうにも、手も足もてんでんバラバラ。

「あかんあかん!そんな屁っ放り腰じゃあ!砂撒きだけで一日かかってまうらぁ」。

麦藁帽子に黒の長靴姿。かくしゃくとした老人がどこからともなく現れ出で、手取り足取りの実技指導を始めた。

このご老人こそが何を隠そう、吉良の饗庭塩造りの名人、渡辺友行さん(82)だ。

写真は参考

かつては白浜地区で2反7畝(せ)に及ぶ巨大な塩田を誇った、浜採りの末裔である。

「そんでも昭和28年の13号台風で、この辺りの塩田はまるっきし壊滅だぁ」。

事実上、吉良の饗庭塩は、この世からその姿を消した。

「そんでもなぁ、地元の人らがもう一回塩田を復活させよまいって、5月から毎月第4土曜日に一般参加で塩作りを始めることになっただぁ。そうやって若い人らに昔の塩作りを伝えるのが、当時を知る年寄りの努めらぁ」。

麦藁帽子の庇を持ち上げ、吉良の浜採りは塩焼けた赤ら顔を綻ばせた。

ぼくも来年は参加させてもらって、饗庭塩を手塩にかけて作って見るかぁ!

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そしたら三河湾で揚がったばかりの魚を、手作りの饗庭塩を振って塩焼きにして、キリン一番搾りでプッハァ~ッてかぁ!

塩田にはぼくの影が長く伸び、頭上で鳶が呑気にクルリと輪を描いた。

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「三河wonder紀行⑭」

『メガ牛丼を超えた、メガ五平餅』

2008.春 季刊誌掲載

紅葉シーズンが終わった足助の町並みって、浮付いてチャラチャラした感じもすっかり取れちゃって、ロマンスグレー色ってか、どうにも妙に大人っぽさが感じられる。

巴川に架かる橋の上から川面を眺めていると、ついつい調子に乗ってついさっき平らげたしまった、メガ牛丼が逆流してくるようだ。

もういつまでも若くはないんだから、どんなに腹ペコでも腹八分んめかぁ。

ところで世の中には、メガ牛丼にメガマック、メガサイズのコンビニ弁当とか、ここのところやたらとメガサイズ流行(ばやり)か?

だったらメガたこ焼きなんてどうよ!

ソフトボールほどもあろうかと言う巨大なたこ焼きの中に、蛸の足が丸ごと一本入ってたりとか・・・。

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そんなどうでもいいことを考えながら、まだ松飾りも残る家並を眺めながら、足助大橋を西へと渡った。

するとどこぞからか、堪んなく馨しい香りが!

そうだ、炭火に落ちてジュッと焦げた醬油と、こってりと甘味をまとった味噌の香だ。

ってことは、足助名物の五平餅かぁ?

スタコラサッサと暖簾を分け入り、迷うことなく店内へ。

「焼き立ての五平餅一本~ッ!」。

喉元過ぎればなんとやら。

さっきまでメガ牛丼の祟りに苦しめられていたというのに!

我ながら自分の学習能力のなさに、今更ながら呆れ返った。

「あらっ、いらっしゃい!お客さんくらい大男で男前だったら、五平餅の2~3本なんて目じゃないらぁ?」。

みそ五平餅「びっくりや」のとってもチャーミングな二代目女将、安藤千栄子さん(59)の挑発にまんまと引っ掛かってしまった。

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「そ、そ、そりゃあそうだよねぇ。やっぱ五平餅3本にして!」。

ついつい脂下(やにさ)がってしまう自分に、これまたびっくり!

「ハイ!お待ちどうさま」。

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「・・・・・」。

とてもチャーミングな女将には似つかわしくないほど、メガトン級の五平餅3本が重なり合うようにデデ~ン!

またしてもさっき食べたメガ牛丼が逆流してくるようで、ただただ項垂れるばかり。

「安くって大きくって美味しいの、三拍子揃ったところが、先代からの『びっくりや』の信条!長さ約18cm、幅8cm。でもお客さんなら、そんなのペロッよ!ね~ぇ!」。

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チャーミングな女将に、そう同意を求められちゃあ、否とは言えまい。

ぼくは薄ら笑いで取り繕い、黙々とメガ五平餅3本に挑んだ。

傍から見れば、なんとも直向きなその姿は、一心不乱に滝に打たれながら真言を唱える、穢れ鳴き修行僧のように映ったに相違あるまい。

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「三河wonder紀行⑬」

『メタボ親父とアイビールツク』

2007.冬 季刊誌掲載

秋の七草。

萩、薄(すすき)、葛、撫子、女郎花、藤袴、桔梗。

粥に入れる春の七草とは異なり、秋の七草は花の可憐さを愛でるものとか。

でも何で、秋の七草は食べられないものばかりなんだろう。

刈谷駅から線路に沿って西へ。

そうかぁ!

秋にわざわざ七草なんてものを食べなくったって、収穫の秋に相応しい、旬の食材がテンコ盛りだからかぁ。

秋刀魚に秋茄子、それに松茸や栗に銀杏と。

そいつをあてに人肌の熱燗をキュ~ッなんて!

まだ真っ昼間だから、居酒屋のシャッターも半分降りたままだ。

しかしついつい今夜の晩酌に、想いは馳せる一方。

気を取り直して歩きだした途端。

「あれれっ?」。

あの人が履いてるスニーカーって、本物のVANのブレーバーじゃないのかなぁ?

写真は参考

でもそれにしたって、もしそうだったら30年近く前のものだし、とっくにボロボロになってるだろし・・・。

それとも30年も履かずに大切にとってあったんだろうか?

んなこたぁないだろうから、VAN擬きのフェイクってとこか?

いやいやそんなこたぁなさそう!

金メッキの金具といい、輝ける60’s後半を一世風靡したVANに相違ない気がする。

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歩道の脇から少年?が、年季の入った笑顔を振りまきやって来た。

「本物のVANだよ、これっ!でも正解はラダー。一番最初は単にスニーカーと呼ばれ、やがてブレーバーへ。そして最後はラダーと商品名が変わっていったんだって。まぁ、店の中に本物があるから見せたげるわ」。

刈谷市桜町のメンズショップ「KENNEDY」、二代目オーナーの青山善一さん(47)は、雑然とした店内へと導いた。

写真は参考

学生時代VANなんて高嶺の花。

せいぜいバーゲンを待ち侘びたもの。

そして黒山の人だかりを掻き分け、やっとの思いでコッパンとボタンダウンを引っ掴んだものだ。

だからパンツもシャツもコーディネートなんて望めぬ、バラッパラでトンチンカンな最悪。

コッパンだと思って掴んだものが、マドラス柄のバミューダーパンツだったり、ペイズリー柄のシャツだったり・・・。

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「元々紳士服の仕立て職人だった父が、昭和39年にVAN SHOPに鞍替えしたのが始まり。でもVANが潰れてからは、アメカジに転向」。

チョイ悪系のアメカジでキメた善一さんが笑う。

「VANの全盛時代に親父がトラック一杯分仕入れた商品も、今となってはお宝だわ。ネットで探し当て、団塊の世代の人たちがスタジャンやジャケットを買いに来るんだって。みんな『昔はよう手が出んかった』って。すっかり肉体的は老いさらばえたって、心は今でも夢から覚めぬ万年少年ばっかりだわ。男なんていくつになったって」。

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どうやらご自分の事はすっかり棚上げのご様子。

東京オリンピック開催に、東海道新幹線の開通。

東京銀座のみゆき通りは、石津謙介が生んだVANのアイビールックを着こなす若者で溢れ返り、一大社会現象を巻き起こした昭和39年。

時を同じくして生まれた、若者のバイブル平凡パンチ。

創刊号の表紙には、大橋歩のイラストでオープンカーを取り囲むアイビーの若者たちが描かれている。

戦後19年にして訪れた「男のお洒落」時代の幕開けだった。

「じゃあぼくもこのジャケットでも羽織って、刈谷の御幸町でも漫ろ歩いて『みゆき族』でも気取って見るかぁ!」。

チャコールグレーのジャケツトをハンガーラックから抜き取り、袖を通して見たものの!

「あいたたたっ!」。

何とか片腕は袖を通ったものの、反対側の腕が入りきらず、朝礼の「前へならへ」の逆反り状態。

「まぁ30年前だったら、今ほどメタボじゃなかったってことだわさ!」。

善一さんが他人ごとのように笑い転げた。

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「三河wonder紀行⑫」

『夢?の揺りかご』

2007.秋 季刊誌掲載

辺り一面、青々とした稲田が続く。

ギラギラと容赦なく照り付ける夏の太陽を、稲田にたっぷりと満ちた水面が弾き返す。

汗と土埃に塗れて黄ばんだランニングシャツ。

継ぎ当てだらけの半ズボン姿。

磨り減ってペラッペラになったビーチサンダルを突っ掛け、そこらじゅうにペタペタッと薄っぺらな音を撒き散らしたものだ。

昭和半ば生まれのぼくは、毬栗頭を麦藁帽子で被い、首から斜めに竹の虫篭をぶら下げ、タモを片手に日が暮れるまで駆けずり回ったものだ。

ところが目の前に広がる光景は、そんな記憶の中の風景とは異なる。

夏休みの真っただ中だというのに、学習塾の入り口に屯する子どもらの姿。

ぼくが子どもの頃なんて、夏休みの宿題をいつまで放ったらかしにしてあったかが、腕白どもの勲章のようなものだったのに・・・。

日焼けの黒さや、生け捕りにした昆虫たちの数、カブトやクワガタの大きさがモノを言ったものだ。

ここは碧南市寄りの安城市東端町。

安城と言えば、ぼくの小学校の教科書には「日本のデンマーク」なんて書かれていたもの。

写真は参考

確か社会見学で連れて来てもらった記憶が。

その名の通り、見渡す限り一面が田んぼだらけだったはず!

と言ったところで、本物のデンマークは見たことも無いのだが・・・。

でも今じゃあそんな面影すらすっかりなくなり、アチコチに街が伸びて大きな工場が立ち並ぶ。

じゃあもう小学校の教科書には、「日本のデンマーク」っていう、あのフレーズも消え果たのかなぁ。

この辺りに昔懐かしい乳母車屋があると聞き、あっちをウロウロ、こっちをウロウロ。

「あっ、ここだ、ここ!」。

ガラス戸越しに乳母車を発見。

写真は参考

あんな立派な乳母車に、一度は乗せてもらいたかったなぁ・・・。

ぼくが子どもの頃なんて、あれほど立派な籐製の乳母車なんて、大きなお百姓さん家とかお金持ちの家でしか見かけなかったものだ。

「まぁ、中に入ってゆっくり見て行きん」。

店の奥から女将さんが顔を覗かせた。

インテリア磯村の二代目女将、磯村芳子さんが親しみのある笑顔で手招いてくれた。

「昔は嫁さんの実家から嫁ぎ先に、お宮参りの時に贈られたじゃんねぇ」。

乳母車の両脇には、浮彫りのように、嫁ぎ先の家紋が編み上げられ初孫の誕生を寿いだ。

「これまた立派!枕と日除けの幌までついちゃって」。

写真は参考

「これは完成までに3週間ほどはかかるらぁ」。

店の奥の作業場から、二代目乳母車職人の磯村義勝さんが姿を見せた。

「結婚して子どもが出来た頃は、どんどんどんどん売れて、すぐに在庫がなくなってまうもんで、奥に隠しとったほどじゃんねぇ」。

「だから家の二人の息子らも、結局乳母車に乗せんじゃって、背に負んで育てただもん」。

妻は懐かし気に夫を見つめた。

まあしかし、豪華な乳母車に乗せてはもらえなかったが、ちゃんと立派に育ったのだから、何はともあれ両親に感謝感謝。

そしてやがて最後は、煌びやかな車に乗せられて、焼き場へと向かう運命か!

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「三河wonder紀行⑪」

『78歳の万年少年』

2007.夏 季刊誌掲載

いつもより早い春の訪れを、三河湾から寄せ来る柔らかな風に感じた。

海沿いに竹島を眺めながら。

すると防波堤の上で観光客のオッチャンが、両手で竿を海に向かって投げる仕草を、ひたすら繰り返しているではないか!

あのオッチャンも釣り道具を携えてくればよかったと、春の訪れを体全体で感じてるんだろうなぁ。

そんな仕草に、オッチャンの心の声まで聞こえて来るようだ。

大昔の人気テレビ番組「ジェスチャー(NHKで1953~1968年まで放送)」の柳家金語楼と水の江滝子でもあるまいに。

この時点で「ああっ、懐かしい!」とうかつにも思わず頷いてしまったあなたは、紛れも無く昭和半ばの立派な生き証人のお一人に違いない。

ブゥウウ~ン ブゥウウウ~ン

時ならぬ爆音を撒き散らしながら、さざ波に爆ぜる様な小さなボートが、ぼくの視界の先を右から左へと跳ね飛んで行った。

あれってまったくもって、完全にスピード違反じゃないのか?

いや待て、たかだかラジコンボートごときを、海上保安庁が取り締まるはずもあるまい。

写真は参考

すると再びブゥウウウ~ン。

今度はさっきとは反対方向から、ぼくの視界にフレームイン。

どこで誰が操縦してるんだ?

それらしいマニアックな人影も見当たらない。

「それにしたって、とんでもないスピードじゃないか?」。

ぼくの独り言に「まぁだいたい60~70kmくらいは出とるだぁ」と、堤防に腰掛けていた老人が振り返り、親し気に笑いかけて来た。

どうやら日向ぼっこに高じていたわけでもなさそうだ。

すると再びブゥウウウ~ン。

あれれっ!

堤防に腰掛けている老人は、太腿辺りにラジオのような機械を抱え、レバーをしきりに操っているではないか!

するとまるで老人の仕草に呼応するかのように、爆走ボートが我が物顔で湾内を飛び跳ねているではないか!

「ええっ、まさかぁ!」。

「ラジコンは愉しいだぁ!」。

老人はまるで少年のように嬉々として笑った。

蒲郡市竹島町、ちどりや模型店の酒井正敏さん(78)だ。

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酒井さんのスピードボートのラジコン歴は、昭和30年にまで遡る。

「あんな頃は、まんだラジコン屋なんて豊橋と岡崎にしかあれへんかっただぁ。だもんでしかたなしに、サラリーマン勤めしながら自分で模型屋やりかけただわさ。ほんだで店に並べとる商品なんて、みーんな自分が欲しかったものばっからぁ」。

ラジコンのスロットルを戻しながら何とも愉快そう。

「ヘリに比べたらボートなんて簡単だわ。ヘリは上下左右に操らなかんけど、ボートのレースは片っ方にしか舵切らんでもええだで」。

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やっぱり伊達や酔狂で、半世紀以上もラジコン遊びに呆けて来ただけじゃない。

天下一の万年少年だったから達観できた、神憑りの離れ業だ。

「でもよくよく考えて見ると、それって・・・。神憑りの離れ業とか、そんな崇高なモノじゃなくって、言い換えればただのズボラな操縦で万事OKってことだよなぁ」。

ぼくのつぶやきが聞こえたのか!

「ま~ったくそうだわ!だもんで俺みたいに年喰ったって、ボートならいまだにチョチョイのチョイで操れるだぁ」。

万年少年が大笑い。

天晴れ天晴れ!

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「三河wonder紀行⑩」

『こいつが極上!三河の明石焼きだぁ!』

2007.春 季刊誌掲載

鈍色の空。

冬枯れの田んぼ。

吹き抜ける北風に向かって駆け出す少年。

地面すれすれをのた打ち回っていた奴凧が、北風を孕み見る見る間に天空へと舞い上がる。

まるでその手応えを感じたように少年は、歩を止め身を翻し巧みに凧糸を操った。

半ズボンから覗く膝頭は真っ白。

穴ぼこの開いたチンチクリンのセーターには、冬の腕白小僧の勲章「盗人萩(ぬすびとはぎ)」の茶色い種子がワンサカ。

袖口にはコッペコペに乾き切った鼻水模様。

昭和半ばの正月休みといえば、あちらこちらでそんな少年たちを見かけたものだ。

刈谷市井ヶ谷町の喫茶店の窓から、かつては一面に広がっていたであろう在りし日の田んぼと、そこを我が物顔で駆け回ったであろう、昭和の腕白小僧たちに心を馳せながら独り言をつぶやいた。

すると「わしもその腕白小僧の慣れの果てだて」。

喫茶田園のマスター、清水和治さん(56)がカウンター越しに笑った。

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「あの頃はみんなそんなもんだったって!正月だろうが真夏だろうが。半ズボン一つで朝から晩まで駆けずり回ったもんだて」。

腕白小僧の大先輩とすっかり意気投合。

「カッチン玉にペッシャン、缶蹴りにケンケンパ!まあかん!やりたくなって来てまうって。あんたとは何だか話も合うで、まあこれでも食べてきゃあ」。

そう言ったかと思った瞬間、和治さんは銅板のたこ焼きマシンの上に、手前が低くなった台をひっくり返して合わせ、たこ焼きマシンごとでんぐり返し。

マシンをそっと持ち上げれば、台の上には8つの明石焼きがプルルン。

鰹・昆布・醤油・味醂・酒に紅生姜の隠し味。

出し汁に浸して「いただきま~す!」。

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ハフハフを頬張れば言葉にならないほどの旨さが広がる!

蛸も親指の第一関節ほどあろうかと言う、大胆過ぎるブツ切り。

卵色したフワフワの皮の中からプリプリの蛸が、ほっかほかの湯気と共に姿を現した。

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「見栄張ってあんたの蛸だけ、特別大きくしたんじゃないでね!」。

喫茶店なのに明石焼き?

しかもお食事らしきメニューは、たこ焼きシリーズだけ。

シンプルなたこ焼きは400円。

明石焼きとミックス焼きが500円。

「このミックス焼きは、チーズ・ベーコン・コーンを入れたもんで、まあ邪道と言えば邪道。まるでわしの人生そのまんまだて」。

和治さんは次男として豊田市で誕生。

大阪の大学へと進学した。

しかし2年後、警察の機動隊員であった兄が殉職。

「すきなことやらせたるで」と言う父の言葉を鵜吞みに帰郷。

翌年、高校時代に見初めた一つ年下の美千代さん(55)と所帯を構えた。

「何にも知らんと騙されて、もう35年だもん」。

カウンターの中で妻が苦笑。

「オヤジが『豊田の実家の辺りだと、みんなに迷惑がかかるで』って、それで愛知教育大学が出来たもんでここへやって来たんだわ」。

一階がビリヤードと喫茶、二階が雀荘。

親許を離れた学生たちで大いに賑わった。

「それから12~13年してからだて。見よう見真似でたこ焼き焼くようになったんわ。なぁ、母さん」。

和治さんは妻を振り返った。

「それが三河の明石焼きの始まり!」。

妻が慣れた手付きで銅板をひっくり返した。

「元々明石では蛸がようけ獲れたもんで、玉子焼きに包んで焼いたのが明石焼きの始まりらしいわ。だで卵の量が命だって」。

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和治さんのモットーは、“他人に厳しく自分に甘く”とか。

「なぁ~んだ、ぼくと一緒じゃん!」。

「ほおかぁ、あんたもかぁ」。

すっかりまたしても意気投合。

が、しかし!

あたかも“ああぁ~っ、何たる嘆かわしさ”と、そんな奥方様の心の声が聞こえた気がしてならなかった。

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「三河wonder紀行⑨」

『落ち鮎たちの宿命』

2006.冬 季刊誌掲載

くりがら渓谷から山間を下る男川の清流。

川面へと迫り出す木の葉も、心なしかその色を染め、本格的な秋の訪れを待ち侘び、その身を焦がすようだ。

水面に浮かぶ影二つ、風と戯る秋茜。

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森に宿る生きとし生けるものすべてが、息を凝らすように儚い秋を惜しみ、自らの短い命と引き換えに、やがて訪れる春に期し、新たな生命を大地や水中へと託す。

額田の森が誕生してから今日まで、連綿と繰り返される森羅万象の逞しき営みだ。

男川の簗場。

簗で堰き止められ、なすすべもなく簾の上で跳ねる、鰺かと見紛うほど大きな落ち鮎。

鮎もここで捕まってはなるものかと、尾を竹の簾に叩きつけながら、簗場から決死の脱出を試みる。

そんな鮎を子どもたちが素手で追い駆ける。

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見ている者には滑稽なものだが、その実物凄くシリアスなドラマが、生と死の淵を境に繰り広げられていた。

お腹の子を何としても守り抜こうとする、母鮎の姿が労しい。

「やったぁ!」。

鮎を両手で見事掴み上げた、男の子の奇声がこだました。

「だめよ!そんなに強くいつまでも握ってちゃ!」。

まるで背後から、遠き日の鬼担任みたいに容赦ない声が飛ぶ。

悪戯を咎められたかのように、ついついぼくまでピクリッと首をすくめてしまった。

「天然の落ち鮎はみんな、お腹ん中いっぱいに卵を宿してるんだから、力強く握っちゃったら卵が潰れちゃうじゃない!」。

岡崎市淡渕町の男川やな、女将の梅村成美さん(59)は、立たされ坊主のように思わず首をすくめたぼくを前に、そう言い放った。

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「これで黒板消しでも持たせたら、昔のヒステリックな担任そのものだなぁ」。

思わず心の中で毒づいてしまった。

「あっ、ごめんごめん。ついつい昔の癖で、パンパンッと言っちゃって。だってさあ、その情けない姿が、まるで昔の出来損ないの教え子みたいだったから」。

成美さんがやっと親し気に笑ってくれた。

「ってことは、元は先生だったってこと?」。

「そうそう。20歳の4月から、44歳でこの簗を始めるまではね」。

岡崎市内の小学校4校で、教鞭を揮ったそうだ。

「さあ、召し上がれ!」。

はち切れんばかりのお腹に無数の卵を抱いた、落ち鮎の塩焼きが差し出された。

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「はふはふはふ・・・。うっめ~っ!若鮎とはこれまた一味違って別物みたい」。

ぼくはひたすら美味なる落ち鮎に夢中でかぶりついた。

「3月から4月の若葉の頃まで、上り鮎が男川を遡上し、川上で雌鮎と恋をして、子を成し産卵のため川を下って来るのよ。それが落ち鮎」。

再び落ち鮎を簗場で待ち受けていると、痩せっぽちの体が傷だらけでボロボロになった鮎が簾の上に。

「それはねぇ、雄の落ち鮎よ!」。

ぼくの驚きを成美さんが笑い飛ばした。

「雄の宿命よねぇ。精魂尽き果てて体もボロボロ。それでも必死で雌のお腹に子を託し、この世に別れを告げてゆくんだから」。

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何とも重すぎるお言葉。

紛れも無く雄そのものであるぼくは、肩を落とし簗場でただただ項垂れた。

そして簾の上で動かなくなった雄の落ち鮎を、男川の水の中へ。

すると川の流れに身を任せ、ボロボロの体で微かに尾鰭を振り、静かに下り始めた。

「雄鮎よ、お疲れさまでした!」。

天国はこの川の先に、きっとある。

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「三河wonder紀行⑧」

『香嵐渓の〝かえで路″』

2006.秋 季刊誌掲載

梅雨の恋しい季節は、まるで束の間の逢瀬を弄ぶように、何とも思わせ振り。

突然雲の幕間がギラギラと照りかえり、ラメを全身にまとったマツケンサンバの一団が現れ出でるようだ。

そんな梅雨の中休み。

夏真っ盛りの陽射しが、ベネチアングラスのようにキラキラと透き通る足助川の川面へと、惜しげも無く降り注ぐ。

瀬音が山間から涼を運べば、川面に夏の青葉の影も踊る。

森も木も昆虫も、そしてぼくら人間だって、みんなみんな夏が恋しくてたまらないんだ。

君はサンダルを片手に、裸足のまま川縁の石を渡り、青春映画さながらにおどけて振り向いた。

川面は太陽を照り返す、まるでレフ板のよう。

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君が逆光の渦の中へと溶け入った。

カアー カァー カアー

間の抜けたカラスの鳴き声で、淡い想いの幻は粉々に砕け散ってしまった。

「なんてこったぁ~」。

しばし古い街並みを行くと、鄙の菓子屋を発見。

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「この『かえで路』は、死んだ亭主が昭和26年に考案しただよ。素朴な風味の白味噌仕立てのカステラで、芥子の実を振って。だもんできっと懐かしい味がするだよ」。

ショーウィンドーの奥から、豊田市足助町の加東家、初代女将の加藤綾子さん(85)が親し気に笑った。

「家のお婆ちゃんとこの『かえで路』は、今やすっかり足助の名物だもんね」。

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傍らから二代目女将の美子さん(54)が顔を覗かせた。

「あんたよかったら、こっちの座敷で食べていきん。お茶入れたげるで」。

店舗の隣には、漆喰壁に遮られた立派なお座敷と、中庭には飛び石が。

「あれっ?何だろう?あの中途半端な床柱は?」。

「江戸時代ここは造り酒屋で、加茂一揆の時に農民に押し入られ、床柱を切り取られたらしいじゃんねぇ」と、綾子さん。

「酒樽全部割られて、庭中酒浸しだったって」と、美子さんが補足。

「実は戦後になってから、ここを買っただけど」。

もはや切り取られたなどと言う、生易しいものではない。

鉈か斧で捥ぎ取られたような凄まじさだ。

それにしてもこの『かえで路』は滅茶うまの絶品!

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それほど甘党ではないぼくですら、1本丸ごと恵方巻のように丸かじりできるほど。

香嵐渓の紅葉を愛で、お抹茶を啜りながらいただいたら、この世の物とは想えぬほど至福の時間が味わえるんだろうなぁ。

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「三河wonder紀行⑦」

『いちめんのなのはな』

2006.夏 季刊誌掲載

「♪菜の花畑に 入日薄れ~♪ ハッハッハァ~クション」。

幼き頃の唱歌を口ずさんだまではいいものの、たちまち花粉症の襲来に喘ぎまくる始末。

どうやらこれほど麗らかな春の日は、花粉たちにとっても我が世の春真っ盛りで絶好調のようだ。

「とんでもなく立派な梁だぁ!」。

まるでこのところ流行となった、耐震性とやらでも確かめるかのように、腕組みをしたまま民家の吹き抜けを見上げた。

「この『あぶら館』は、ぼくが育った家なんです。創業100年の節目に移築して改装し、家の製品や油に関する資料を展示しているんです」。

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明治35年創業、岡崎市福岡町の太田油脂(株)。

三代目の取締役社長太田進造さん(69)は、昭和12年頃に導入されたという、鋳物製の頑丈な搾油機(さくゆき)を指差した。

「もともと愛知県は、国内でも指折りの菜種産地でしたから。ここら一帯も菜の花畑が、ず~っと広がっててねぇ」。

地元の菜種を仕入れ、篩(ふるい)にかけ鞘や小石と土を落とし、大きな煎り釜で10分ほど炒って、件の搾油機にかけて油を搾り取った。

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1台1日フル操業で200kg。

現在に比べ圧搾率が悪く、半分ほどの油しか搾り取れなかったとか。

最盛期の昭和25年から30年代にかけ、愛知県内で200社を数えた搾油会社も今やわずかに3~4社。

館内を隈なく見学していると、改めて気付くことも多い。

油の絞り粕を肥料とするリサイクルなど。

植物油の製造は元より、園芸用肥料からカットわかめの製造まで。

最近ではオイリィーシーズニングと呼ばれる、調味機能が付加された次世代油も手掛ける。

「ああっ!」。

床の間を模した小さな座敷には、昔の行燈と御燈明油。

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「宮中の神嘉殿(しんかでん)、皇霊殿(こうれいでん)、賢所(かしこどころ)の三殿で、古来より灯し続けられる御燈明が、戦後の物資不足に難渋されていると伺い、昭和24年から宮内庁にお納めするようになって、その後伊勢神宮へも」。

宮内庁、伊勢神宮、奈良東大寺の御用達を務めるのは全国唯一ここだけ。

♪いちめんのなのはな いちめんのなのはな・・・♪

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山村暮鳥の「風景~純銀もざいく」。

ところで皆々様は、ご存知でしょうか?

♪一面のなのはな♪って、いったい全部で何回歌われているか?

そう、数えきれないくらいなんですよねぇ。

だって一面に菜の花畑が広がってたら、とても数えきれっこありませんものねぇ。

そんなの数えてたら、とっくの昔に春が行き過ぎちゃいますよねぇ。

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「三河wonder紀行⑥」

『雲のお母さんと鈴の音』

2006.春 季刊誌掲載

「ここらぁ八ツ面山(やつおもてやま)じゃあ、こんな千枚めくりの白雲母(はくうんぼ)がゴロゴロ転がっとっただぁ」。

陽だまりの作業場。

左手の掌で瓦粘土を丸め、右手の親指を押し込むと、あっと言う間に茶碗型から壺型へ。

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器用な手捻りを止め、男は振り向いた。

愛知県西尾市八ツ面町で雲母(きらら)鈴を作り続ける松田克己さん(64)だ。

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「こうやって指先でちょっと触るだけで、直ぐにめくれるだで」。

松田さんは長さ25cm、厚さ5cm程の、巨大な白雲母を弄んだ。

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「しかしこんだけ大っきいと、千枚以上はめくれちゃうんじゃ?」と、つい大きく身を乗り出し、あわや座卓の上のコーヒーがカップの中でユ~ラユラ。

鈴の表面のラメのように光る雲母もキ~ラキラ。

「ちょっとぼくもめくって見てもいいですか?」。

そう言うよりも早く、白雲母の塊を手にした。

「ぼく、子どもの頃から、瘡蓋をめくるのが大好きだったんですよ」。

夕暮れの田んぼ道。

汗で黄ばんだランニングシャツに、継ぎ接ぎだらけの半ズボン。

野球小僧たちの膝や肘には、赤チンが真っ黒く変色した瘡蓋のエンブレム。

昭和半ばを駆け抜けたぼくらには、瘡蓋の勲章が腕白坊主の証だった。

それにしても今になって思い返せば、瘡蓋めくりなんて趣味も悪すぎ。

しかも生乾きの時にめくろうものなら、また新たに血が滲み、やがて新しい瘡蓋が傷口を覆う。

そんな事を愚かにも繰り返したものだ。

「本当にキラキラしてるわぁ!」。

めくり取った瘡蓋ならぬ雲母を、窓越しに傾き始めた冬の西日に翳し、矯めつ眇めつ眺めた。

「なんだかガラスでもないし、金属でもない不思議な光!薄っぺらな雲母ながら、太陽の光を呑み込み、溜め込んだ光を集めて、もう一度キラキラと光を放っているようだ」。

もしかすると古代人も、今ぼくが感じたように雲母を眺めていたのかも知れない。

雲の隙間からポッカリ顔を出す太陽と、少しだけ乳白色の雲母越しに見るお日様が似ていて。

だからお日様をすっぽり包み込む雲が、慈愛に満ちた母のように見えたのだろうか。

「あっ痛たっ!」。

暇乞いをして座を立とうとした瞬間。

座卓の天板に膝っ小僧を思いっきり打ち付けてしまった。

カランコローン。

日本一涼やかと言われる音色の雲母鈴が、座卓の上を転がった!

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もしかしたら、いま座卓で嫌っというほど打ち付けた膝に傷が出来、大好きだった瘡蓋が出来るやも!

雲母鈴の涼やかな音色のご利益か!

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