毎日新聞「くりぱる」2004.1.25特集掲載⑧

素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)

「番外編」

国府宮駅から南西に600㍍。

国府宮神社に続く参道、一の鳥居。

写真は参考

鳥居の南側は、尾西と清洲を結ぶ街道と、名鉄の線路に遮られ、年代物の黄楊の木に囲まれた三角形の小さな田畑が続く。

「ここは昔、昭和27~28年頃まで、国府宮のお田植祭りをやっとった神田だって、わしとこが神社に貸しとったんだわ」。

育ちすぎてしまった大根を自転車の荷台に載せながら、同市高御堂2丁目の大津定雄さん(79)が振り返った。

その後、神田は神社近隣に移転し、大津さんが自宅使いの作物を作るようになった。

その年まで健康でいられる秘訣は、土いじりですかと水を向けてみた。

「何言っとんの、わしはこんでも12年前に胃癌を患ったんだぜ」。

しかしそれ以来、再発も転移も認められないとか。

写真は参考

「こっから毎日、国府宮の神さん拝んどるでだろうか」。

鎌を動かす手を止めて、溌剌と笑った。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

毎日新聞「くりぱる」2004.1.25特集掲載⑦

素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)

「尾張大國(おおくに)(たま)神社(国府宮)」

写真は参考

厄年、裸男、なおいぎれ、神男、大鏡餅と言えば、国府宮の「はだか祭り」を連想する人が多いことだろう。

この一般に呼ばれる「はだか祭り」とは、尾張大國霊神社(国府宮)で毎年旧暦の1月13日に行われる「儺追神事」のこと。

今年(2004年)は、2月3日火曜日となる。

祭りのクライマックスは、なおい笹を掲げて神社に寄せ来る裸男たちの集団が、「儺追人=神男」に触れて厄や穢れを払い落とそうと、壮絶に揉み合う勇壮なシーンが有名だが、これは江戸時代末頃に一般向けに始まったとか。

本来は、翌日午前3時に斎行される「夜儺追神事」のことで、称徳天皇の勅命により、悪疫退散の祈祷が全国各地の国分寺で行われた際、尾張国司が総社である国府宮神社において祈願したのが始まりと伝えられている。

「私も神官でなければ、裸男の一人となって、あの勇壮な祭りの中に飛び込みたいほどです」と、 尾張大國霊神社(国府宮)の(ごん)禰宜(ねぎ)の片山貢さん(40)。

儺追神事を取り巻く行事は、旧歴正月2日の標柱(しめばしら)建式と儺追人(神男)選定に始まり、旧歴1月25日のおない茶会まで、のべ24日15行事に渡る。

それら全ての神事や行事には、どれも(おろそ)かに出来ない大地の神と密接に結び付いた、深く壮大な意味合いが存在する。

参考資料

一千年を超える(いにしえ)から、先達(せんだつ)の遺した悪疫追放の厳かな儀式が、時を超え(うつつ)の世に蘇る。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

毎日新聞「くりぱる」2004.1.25特集掲載⑥

素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)

「藤市酒造」

美濃街道に面し、堂々とした風格の佇まいを横たえる、明治初期から続く造り酒屋。

写真は参考

山田錦で醸造した大吟醸に「()()い」を冠し、陶器製の徳利詰めで発売してかれこれ20年とか。

「陶器はビンと違い、光を通さず酒に優しいから」と、稲沢市稲葉の 藤市酒造、三代目・加藤睦郎さん(72)。

郷土に伝わる天下の奇祭「はだか祭り」。

練るも語るも、美酒なくしては始まらない。

郷土を愛して誇る、平成の武士(もののふ)とも言うべき裸男たち。

写真は参考

寒さを物ともせぬ男たちの五臓六腑は、「儺追い酒」が引き受けた。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

毎日新聞「くりぱる」2004.1.25特集掲載⑤

素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)

とんかつの店「スエヒロ」

店内の品書きの札が、油染みで茶色く変色している。

写真は参考

繁々と眺めれば「とんかつ定食480円(2004年1月時点)」に目が止まった。

「もう15年以上前の、そのまんまの値段だわ」と、稲沢市高御堂 とんかつの店「スエヒロ」二代目店主・山田芳之さん(67)が揚げ物の手を止めた。

創業当時、店の前は近隣の町を結ぶ馬車道の停車場。

写真は参考

そこで先代は、おでんやうどんを扱う軽食屋を開業した。

とんかつ屋に鞍替えして早40年。

ほどよい厚さの柔らかなとんかつ2枚に、無くてはならないシャキシャキのキャベツの千切り。

写真は参考

そしてサラダと手作りの漬物に、ご飯と味噌汁。

これで〆て480円(2004年1月時点)、しかも消費税込みとは何とも嬉しい限り。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

毎日新聞「くりぱる」2004.1.25特集掲載④

素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)

「つちや菓子舗」

美濃街道の旧道沿いに立ち並ぶ、ノスタルジックな街並み。

写真は参考

ここも裸男たちが「天下御免」の褌姿で、儺追(なおい)殿(でん)目指して勇壮に駆け抜ける目抜き通りの一つだ。

「昔は忙しくって、立ち話も出来んほどだったよ。でもそんな時代も終わって、今は夫婦二人で細々とやっとるだけ」。

二代目女将の吉田芳子さん(66)が、出来たての和菓子を菓子箱に詰めながらつぶやいた。

写真は参考

稲沢市小沢のつちや菓子舗は、昭和10年創業。

はだか祭りの縁起菓子として知られた幻の「福槌(ふくづち)最中」は、職人の高齢化で昭和35年頃にお蔵入りとなった。

今は稲沢で唯一となった「きび羊かん」が、ショーケースの中で旨そうな昭和の光沢を放つ。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

毎日新聞「くりぱる」2004.1.25特集掲載③

素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)

「裸宿の美人女将」

褌姿の裸男に力水をつけ、祭りへと送り出す「裸宿」。

写真は参考

「一番大変なのは、祭りの後。酔いつぶれて迷子になる者や、怪我して病院に担ぎ込まれる人達を、宿まで連れ戻さなきゃあ」と、一宮市大和町のお好み焼・焼そば「のんのん」の美人女将・伊藤敏子さん(55)は笑う。

なるほど、宿を出る男たちの身体には、マジックで大きく宿の電話番号と、「のんのん1」の認識番号が描かれている。

写真は参考

まるで安全祈願の護符のようだ。

宮崎県出身の敏子さんと、大分県出身のご主人・浩志さん(60)は、共に九州の故郷を出て一宮に就職。

二人は一宮の地で出逢い結ばれた。

「お父さんは、私と結婚する前からはだか祭りにはまって、友達と一緒に毎年褌参戦する始末」。

20年ほど前に「のんのん」を開業。

写真は参考

以来、店のお客さんや口コミで集まる、はだか祭り好きのために宿を提供し始めた。

宿といっても、完全な無料奉仕。

「裸男が店に入りきれないほど集まる年は、さすがに溜め息が出たほど」。

祭り当日。

男たちは店の風呂場で冷水を浴びて身を清め、二人掛かりで褌を締め上げる。

冷酒を浴びるように喉に流し込んで、粗塩で身体中を揉みしだく。

裸男の身体には、冒頭の電話番号と認識番号、そして「○子命」といったメッセージが書き込まれ、胸にガムテープでお賽銭が貼り付けられる。

写真は参考

そして腰元の褌にスルメを差し、紙パックの酒を片手に、国府宮目掛けて「天下御免」と走り出す。

「祭りも終わり夕方になると、必ず電話で呼び出されるの。『お宅の番号が書かれた裸男が、田んぼの中で倒れてる』とか」。

戦線離脱した裸男の回収を無事済ませ、全員が風呂から上がると大宴会。

「でも肝心の裸男たちは、気が抜けたように放心状態だったりするの」。

精も根も尽き果てて、寒風吹きすさぶ裸宿の長い一日が暮れる。

「お父さんはここ2~3年腰を痛めて、あれだけ楽しみにしているはだか祭りに出てないの。『今年の還暦には赤褌で最後を飾る』って張り切ってたのに。今年はどうだろうかね」。

写真は参考

敏子さんのしみじみとした言葉には、夫の最後の赤褌姿を見送ってやりたいと願う、微笑ましい夫婦の情愛が滲んでいた。

ちなみに「のんのん」名代のお好み焼は、500円。

焼そば450円、それに何と言っても人気は、懐かしの「せんべい焼き」100円。

いずれも裸男が作る豪気な料理で、味は絶品。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

毎日新聞「くりぱる」2004.1.25特集掲載②

素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)

『裸男の先達』

「わしゃあ、まぁひゃあ19の頃から籤引いとったでねぇ。そんでやっと3度目で、神男の当り籤引き当てたんだて」。

30年前に神男を務めた、稲沢市六角堂東町の大野善光さん(51)は、ソファに深々と腰掛けた。

何とも存在感のある御仁である。

現在は、歴代の神男を務めた者だけにしか、入会が認められない「鉄鉾会(てつしょうかい)(鉄鉾=木刀と大鳴鈴を結び付けた六尺を越える大榊)」の副会長を務める猛者の一人だ。

「親父が鉄鉾会の前身だった親睦会で、神社のお勝手仕事を手伝っとったんだわ。んだで、わしは1歳と8ヶ月ではだか祭りにデビューして、お婆さんが死んだ年もここへ来とったほどだでなあ」。

大野さんの身体には、はだか祭りに血を(たぎ)らせた男達のDNAが、余すことなく受け継がれているのかも知れない。

小学4年生の年、父が最年長で神男を務めた。

「ほんなもんおめえさん、次の日教室の廊下でわしを神男に見立てて、皆で押し競饅頭だもん。あん時はやっぱり、親父が誇らしくってなあ」。

それから11年後、3度目の儺追人(神男)選定式の籤引きで、見事大役を手中に。

いよいよ儺追(なおい)神事のクライマックス、午後3時。

8000とも10000とも言われる褌姿の裸男たちが、辻々から沸き出でるように現れ、神男に触れ厄を払おうと国府宮神社の境内へと押し寄せる。

写真は参考

「身体中、尻の毛までそって、生まれたまんまのフリチン姿で、神守りの男に守られながら、怒号と興奮で咽返す熱気の渦の中へ放り込まれるんだで」。

儺追殿までのわずかな距離に、幾重にも待ち受ける裸男たちの人垣。

何処をどう進んで行ったかの記憶など何処にも無い。

ただ神守りの男たちの介添えに身を任せるだけ。

大野さんは途中で転倒し、その上に40~50人の裸男達が覆い被さった。

「『まぁかん』と思った瞬間、神様が救いの手を差し延べてくれるんだて。みんな神男は心ん中で『お母さん助けて』って叫んどる筈だわ。お母さんこそが、神様なんだで。そんで最後の力を奮い立たせるんだて」。

全身泥まみれになりながら、儺追殿に逃れた頃は既に放心状態とか。

写真は参考

「土饅頭を口ん中入れられるは、尻の穴に石な詰められるわ。まあもたんぜ、そりゃあ。気がついたら金玉袋が裂けとってなあ、2針縫う名誉の負傷だって。そんでも袋の皮が皺くちゃだもんで、1ヶ月もひっつかんで往生こいた」。

30年前の神男が豪快に笑った。

ありとあらゆる人々の厄を一身に担い、命懸けで神男を務める国府宮の「お祭り男」。

神男の大役を終えたばかりの男の帰りを、ひたすら無事を祈り待ち続けた人がいた。

同級生の広子さん(故人)だ。

大野家に婿入りする形で二人は結ばれ、1男1女を設けた。

「神男が婿に来たって、そりゃあもう、親戚中が鼻高々で。神男なんて、ただのオッチョコチョイでオタンチンなだけなのに」。

昔話に猛者も、思わず照れ笑い。

神男を取り巻く環境は、昔と今では大違い。

農業が中心だった頃の、農閑期の時代であれば、神男が行事で拘束される1週間程度も、それほど気にならなかっただろう。

しかし現代では、神男もサラリーマンだったりする。

「まぁ会社も地域も、みんなはだか祭りを認め合っとるってことだろうな。だから『自分が神男をやった』んじゃなくって、『やらせてもらった』って謙虚な気持ちが無いとかん」。

郷土の祭りを、命懸けで愛する歴代の神男。

どれも国府宮の神に選ばれた、千年の歴史に恥じぬ男たちの凛々しい素顔だ。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

毎日新聞「くりぱる」2004.1.25特集掲載①

今日からは、毎日新聞の「くりぱる」に掲載されたシリーズに、一部加筆修正を加えお読みいただければと思っています。

素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)

寒風吹きすさぶ中、8000人とも10000人とも言われる裸男たちで、町中がごった返す稲沢市国府宮。

今回の「素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)」は、『祭り』をテーマに漫ろ歩いてまいります。

旧暦、新年の「はだか祭り」に託される願いは、悪疫退散。

祭りとは、「祭る、祀る、奉る」の連用形。

差し詰めこの場合は、神々の前に禊ぎを終えた穢れ無き裸の姿と、邪念の無い清浄な心をもって出で、子どもの頃の押し競饅頭の原型を成すような、裸同士のぶつかり合いを通じ、厄や災いを一身に纏う儺追人(神男)を追い詰め、儺追殿へと封じ込める儀式を指す。

8000とも10000とも言われる裸男。

写真は参考

どんな職業で、どんな肩書きを持ち、どんな暮らし振りで、どんな生き方をしているのか?

身体を被う全てを脱ぎ捨てた瞬間、老いも若きも、文字通りたった一人の裸の男に立ち返る。

真っさらな晒しの褌と白足袋姿が、湯気を立ち上げながら揉み合う姿に、爽やかな潔さを感じる。

どこかの映画の宣伝文句では無いが、侍の国の末裔としての記憶が呼び覚まされるのだろうか?

大戦の果てに拠り所を失ったこの国の先達は、敗戦の惨めさを通り越し、正に裸一貫、潔く生き抜く尊さを学んだことだろう。

しかしそれから間も無く60年。

新年そうそうこの国は、先達が敗戦の惨めさから学んだ精神を、いとも簡単に打ち捨て、言葉遊びの果てに、再び愚かな時代への轍を踏み、玉音と共に封印されたはずの扉を開こうとしているのか?。

ご存知「裸の王様」は、愚かな王が騙されて裸になる話。

しからば、一度は封印した筈の終戦の扉を、言葉巧みに押し開こうとする、永田町のお偉い先生方よ。

一度、国府宮の「はだか祭り(儺追神事)」にお出であれ。

あなた方の考え方が本当に相応しいのか、生まれたままの裸になって、大國霊(おおくにたま)の神のご審判を仰いでは如何か。

あなた方こそ、今年の儺追人(神男)に相応しい方は、他に無い。

多くの民が抱える厄や災いを、一身に担い賜え。

いささかイラクを巡り、きな臭いムードの漂う新年ではありますが、国府宮はだか祭りの儺追人(神男)に憂いを託し、のんびりゆっくりと、漫ろ歩いてまいりましょう。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「三河wonder紀行⑯」~最終回~

『ポケットに潜めし浪漫』

2008.秋 季刊誌掲載

閑静な住宅街に小学校のチャイムが鳴り響く。

テスト期間中だからか、校庭を駆けずり回る子どもたちの姿はない。

「ごめん。忘れちゃった」。

「しょうがないから俺のドラクエ貸してやるわ!明日は絶対お前のマリオカード持って来るんだぞ!」。

T字路の突き当りから少年二人の声がした。

横顔に浮かぶあどけなさから見ても、低学年だろう。

向かい合ったまま背の高い方の少年が、ポケットからDSのソフトを引きずり出し、背の低い方の少年の眼前に突き出した。

「うん。必ず明日は忘れずに持って来るから。じゃあね~っ、バイバ~イ」。

二人の少年はT字路を別々の方向へと走り去っていった。

ぼくの子どもの頃とは、えらい違いだなぁ。

ぼくのポケットの中なんて、せいぜいビールの王冠や牛乳瓶の紙の蓋、それにカマキリの卵やらだったのに・・・。

でも今のあの子たちにも負けないくらい、ポケットの中にはちゃあんと「溢れんばかりの夢」が詰まってた気がする。

そう嘆きつつジーンズのポケットをまさぐると、何やら紙片が。

そこには二次会で立ち寄ったスナックで貰ったものか、飲み屋のお姉ちゃんの源氏名が摺込まれた皺くちゃの名刺と、噛み終えて包み紙に丸め込んだガムの残骸。

「溢れんばかりの夢」なんて、どこにも見当たらぬ。

どこからどー見たところで、不精なオヤジの薄汚れたポケットの中身だぁ。

「えっ、ポケットの中に何か忘れものでも?」。

ぼくの嘆きが漏れ聞こえたのか、店先に停めたトラックにクリーニングされたばかりの洗濯物を積み込みながら、初老のオバチャマが親し気に声を掛けて来た。

写真は参考

岡崎市井田町の川村洗濯屋、三代目女将の川村和子さん(68)だ。

昭和9年に名古屋で創業し、戦火を避け岡崎のこの地へ。

「じゃあ、ちょっと配達してくるわぁ」。

夫のクリーニング師、朗(あきら)さん(70)がトラックに乗り込んだ。

「主人はねぇ、中学を出て直ぐに家の店に住み込みで修行に入ってねぇ。4人くらいいた使用人の中じゃあ一番まじめな子だったから、母がいずれ婿にって目ぇ付けとっただぁ。だもんで私が未だに威張っちゃっててねぇ」。

母が見込んだ朗さんの腕前は天下一品。

それが証拠に平成9年には、厚生大臣賞を受賞した程。

中でもこだわりは、背広の首筋から第一ボタンへと続く開襟部のVゾーン。

ピシッとプレスするのではなく、Vゾーンをふんわりとやわらかい折り目に仕立て上げる。

写真は参考

「まだまだ親父の味は出ませんわ」。

四代目を継ぐ昭夫さん(37)が、自慢の作品を手にして誇らしげに笑った。

「それにしたってまぁ、色んなお預かり物がありますって。ラブレターが入ったままの学生服とか。でも洗濯取りに来るのはお母さんでしょ。さすがにお返しするのも気が引けちゃうし」。

「背広のポケットから、茹で卵が出て来たこともあったらぁ。人それぞれの人生の欠片が、ポケットの奥から顔を覗かせるじゃんねぇ」。

女将と朗さんは大笑い。

「そうそう、源氏名入りの飲み屋のお姉さんの名刺なんて、そんなのしょっちゅうよ。洗濯屋に生まれて68年。でもあんたのポケットのように、『溢れんばかりの夢』が入っていた人なんて、今まで誰一人お目に掛ったことなんてないだぁ。意外とあんた、大雑把そうだけど情緒豊かなあかしらぁ」。

褒められてんだか、貶されてんだか、つぶさに汲み取れず、苦笑いで取り繕っていた。

明日からは、新シリーズをお届けいたします。

どうぞよろしくお願いいたします。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「三河wonder紀行⑮」

『俄か仕立ての浜採(はまど)り』

2008.夏 季刊誌掲載

三河湾に面した幡豆郡吉良町の白浜新田。

内海の穏やかな波頭が、早春の陽光をキラキラと弾き返し、綿毛のように柔らかな海風を連れて来る。

競い合うかのように咲き始めたばかりの桜の花びらも、麗らかな春の陽気を一身に浴び、何とも心地よさげに揺れている。

「ああっ!」。

写真は参考

時代がかった小屋の前に立札。

入浜式塩田の跡とか。

昔はこんな長閑な環境の中で、日がな一日かけて塩作りしていたのかぁ。

なになに・・・。

写真は参考

「吉良公の時代には、にがり分の少ない良質の塩が豊富に取れ、饗庭塩(あいばじお)と呼ばれ矢作川を川舟で遡った。そして足助で中馬と呼ばれる木曽馬に荷を載せ替え、長野県の飯田や駒ケ根を越え塩尻を目指した。だから塩の終点、塩の尻って今でも書いて塩尻」なのかぁ。

ここは吉良町歴史民俗資料館に併設する、吉良文化広場に復元された入浜式塩田。

この左官職人が使うような「平」って名の道具で、沼井(ぬまい)の砂を塩田全体に撒いたのかぁ。

ぼくは塩焼き小屋の中から平を取り出し、屁っ放り腰で写真の砂撒きを真似て見た。

写真は参考

しかしどうにもこうにも、手も足もてんでんバラバラ。

「あかんあかん!そんな屁っ放り腰じゃあ!砂撒きだけで一日かかってまうらぁ」。

麦藁帽子に黒の長靴姿。かくしゃくとした老人がどこからともなく現れ出で、手取り足取りの実技指導を始めた。

このご老人こそが何を隠そう、吉良の饗庭塩造りの名人、渡辺友行さん(82)だ。

写真は参考

かつては白浜地区で2反7畝(せ)に及ぶ巨大な塩田を誇った、浜採りの末裔である。

「そんでも昭和28年の13号台風で、この辺りの塩田はまるっきし壊滅だぁ」。

事実上、吉良の饗庭塩は、この世からその姿を消した。

「そんでもなぁ、地元の人らがもう一回塩田を復活させよまいって、5月から毎月第4土曜日に一般参加で塩作りを始めることになっただぁ。そうやって若い人らに昔の塩作りを伝えるのが、当時を知る年寄りの努めらぁ」。

麦藁帽子の庇を持ち上げ、吉良の浜採りは塩焼けた赤ら顔を綻ばせた。

ぼくも来年は参加させてもらって、饗庭塩を手塩にかけて作って見るかぁ!

写真は参考

そしたら三河湾で揚がったばかりの魚を、手作りの饗庭塩を振って塩焼きにして、キリン一番搾りでプッハァ~ッてかぁ!

塩田にはぼくの影が長く伸び、頭上で鳶が呑気にクルリと輪を描いた。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。