毎日新聞「くりぱる」2004.3.28特集掲載②

素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)

「聚楽園界隈」

今回は趣向を凝らして、読者ミセスをナビゲーターに、お気に入りスポットをご案内いただきました。

今回の「素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)」は、「くりぱる」2004.3.28特集掲載①でご紹介した、東海市富木島町にお住まいのY.I子さん(28)とHくん(2)のナビで、桜もほころぶ東海市の街並みを、心UkiUkiいつにもましてのんびりと漫ろ歩いてまいります。

待ち合わせは、名鉄常滑線の聚楽園駅前。

といっても、およそ駅前らしい賑わいなど何処にも無い。

ただ丘の上に大仏様がデーン。

写真は参考

春のうららかな陽射しを一身に浴び、下界で蠢く我らをお守り下さる様で何とも頼もしい。

早速、2歳になったばかりのHくんの歩速にあわせ、階段を一段一段踏みしめ大仏様を目指した。

聚楽園の大仏様は、昭和2年に昭和天皇のご成婚を祝して建立されたとか。

子供の頃、潮干狩りに向かう電車の中から眺めた、遠い日が思い出された。

当時は今ほど、工場も巨大ではなく乱立してもおらず、高層マンションも建ち並んでいたわけではない。

だから今よりもっと、異様に大きな大仏様に見えたはずだ。

車窓を飛び去る景色の中に、いつまでも大仏様の姿を捉えることも出来たろう。

「大仏さんって、風邪ひかないのかな?だって雨降ったら?あんなに大きな傘あるわけないし」ってなことを、きっとぼくは母につぶやいて、目的地までの退屈な時間を弄んだことだろう。

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桜並木に見とれ、鳥の歌声にうっとりしていると、再び「アーッ、ウゥーッ」の声。

一足先を行く階段の上で、Hくんが仁王立ち。

人差し指を真っ直ぐ伸ばした先には、身の丈5㍍はあろうかという仁王様が恐ろしい形相で立ちはだかっている。

さらに仁王様の間から見上げる大仏様の顔。

小さなHくんは、三方から巨大な像に射すくめられ固まってしまったようだ。

まるでウルトラマンの悪役怪獣を前にした、善良で無抵抗な市民のように。

偉大さや威厳の表現手段として、巨像が用いられるのは古今東西を問わない現象。

しかし小さなHくんからすれば、それは途轍もなく恐ろしいものに映った筈。

とてもわずか2歳のHくんには、この世を彷徨う人間を、まっとうにお導き下さる慈悲深い神や仏には見えなかったことだろう。

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毎日新聞「くりぱる」2004.3.28特集掲載①

素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)

「逞しき主婦の底力」

「家の子、未だにパパママって言ってくれなくって。二人で心待ちにしてた最初の言葉も『アンパンマン』。それってなんだか…」。

膝の上の子供の口に、ラムネ菓子を放り込みながら、東海市富木島町新米ママのY.I子さん(28)は、やっぱり少しガッカリ気味。

Hくん(2)が、バッグの中のラムネ菓子に向かって、人差し指を反り返るほど真っ直ぐ伸ばして「アーッ、ウゥーッ」。

「ハイハイ。もうこれで最後だからね」。

Hくんの声に合わせ、Y子さんの表情と声は、瞬時に慈愛に満ちた母親の姿へと戻っていった。

遠い日、小さな娘のあどけなさに接した、ぼくにとって至福のあの瞬間がよみがえった。

どんなに逆立ちしたって、取り戻すことなど叶わない、過ぎ去った日々。

子供は成長と言う名の下に、親から少しずつ、しかし確実に距離を置く。

「パパの事が『fun』で、私は『fun fun』みたい。いつも欲しい物を指差しては、『fun』とか『fun fun』って」。ちょっと物足りなさそうなY子さん。

だがそんな頃が、とても懐かしく思えて仕方の無い日が、きっと訪れる。

それまでは思う存分、Hくんの心の言葉に耳を傾ければいい。

Y子さんは名古屋市北区に生まれ、小学3年の時の社会見学で、東海市にあるコカコーラの工場を訪ねた。

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「案内のお姉さんが優しくって、憧れちゃった。コーラもお腹一杯ただで飲めるし、帰りにお土産もらえるし」。

子供心は何時の世も、いたって現金なもの。

それから10年後、Y子さんは憧れの制服を身にまとい、工場見学の案内役として颯爽とデビューした。

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地味な工場にあって、うら若き社内のコンパニオン嬢は職場の華。

当然コンパを装って、社内の男達が群がった。

「遅くなると必ず送ってくれた、3つ年上の人が今の夫」。

約3年に及ぶ交際を経て結婚へ。

「二人とも家が欲しくて、お金を貯めまくって。だからデートはいつも、不動産屋とハウジングセンター回りばっか。おかげで住宅会社の粗品で一杯」。

結婚式の一月前、念願のスイートホームが完成。

しっかりもののI家に、やがて小さな命が宿った。

「夫は女の子が欲しくって、『男だったらダッコなんて絶対しないぞ』って言ってたわりに、この子が生れた途端にもうベロベロ」。

ご主人はオムツの世話からお風呂まで、息子の成長に積極的に関わっている。

「『Hくんはオリコウチャンデチュネー』って猫なで声で顔中キスするもんだから、この子は嫌がっちゃって。でも夫はこの子が喜んでるって疑わないんだから。大いなる親バカぶりってやつかな」。

福々しいホッペのHくんが再びラムネ菓子を所望した。

「fun fun、アーッ、ウゥーッ」。

「この子が小学生になったら、家族みんなで工場見学に行くのが夢なの。そして帰りに3人分のお土産貰って。それって可笑しいかな?夫が勤めている工場に。しかも昔、自分が案内してた場所なのに」。

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可笑しくなんて一つも無い。

むしろ微笑ましい限りだ。

夫の仕事に誇りを感じ、最愛の一人息子を連れ、夫婦の原点である出逢いの場所を訪ねる。

どんな豪華な海外旅行よりも、片道10分で行ける素敵な旅に違いない。

何と美しく気高い家族だろう。

帰りの電車の中で、Y子さんの台詞を思い出していた。

「いや、ちょっと待て・・・?」。

た、確か工場見学の後に「3人分のお土産貰って」って・・・。ちゃっかり物の逞しき主婦の底力。

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毎日新聞「くりぱる」2004.2.29特集掲載⑧

素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)

「家庭料理 でんでん」

「くりぱる」2004.2.29特集①で取り上げたこの店「家庭料理 でんでん」は、池下駅のすぐ北側。

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明美ママと早苗ママの美人姉妹が、持ち回りで自慢の家庭料理を披露する。

ちなみにこの日の献立の一部は、ヒジキのかき揚や、厚揚げと牛蒡の卵とじ。

中でも単身赴任者に人気は、料理3品とプチ飲み物付¥1000。

単身赴任者でなくても、嬉しい限り。

一人で何品もちょこちょこ摘みたい欲張り向きには、活きのいいお刺身2~3切れのプチサイズもあるから心憎い。

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中でも圧巻は、「きよコロ・きよメンチ」。

その由来は、常連客の「きよちゃん」が、飲みに訪れるついでに仕入れた、円頓寺にある評判の肉屋の請売りとか。

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上は80歳から下は20歳代後半まで、老若男女が愛するお袋の味。

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毎日新聞「くりぱる」2004.2.29特集掲載⑦

素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)

「池下囲碁クラブ」

静まり返った入口を、そっと開けると32の眼に、ぼくは射すくめられた。

次の瞬間、16人の棋士たちは、何事もなかったかの様に、再び静かに碁盤へ眼を伏せた。

碁打ちたちが、新たな対戦相手の登場かと、一瞬気色ばんだのだ。

しかしそれにしても、想像していた紫煙渦巻く碁会所の雰囲気とは、ずいぶんとかけ離れた印象だ。

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対戦席は1組ずつ籐製のソファセットが配され、奥には座敷と、洋風リビングがゆったりと構えられている。

「去年急に兄が他界して、碁にまったく疎い私が席主のはめに。でも周りの方達に助けられて」。

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千種区池下の池下囲碁クラブ、足立千代子さん(65)は、碁を心から愛した兄の志を継いだ。

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「どうしても年配の方も多いでしょう。だから失礼ですけどって、血液型と掛かり付けの病院を伺っとくの」。

元々、京懐石の店を切り盛りした美人女将だけあって、心配りには余念がない。

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毎日新聞「くりぱる」2004.2.29特集掲載⑥

素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)

「びんか堂」

「やっぱりその国に生まれ育った人の手で、その国で作られたモノは売らなきゃあ。そう思ったのが、この店を始めたきっかけかな」。

千種区春岡の「びんか堂」、店主のM.Iさん(40)。

学生の頃から手作り品が好きで、輸入雑貨の店に勤務し、海外の旅先でも自然と手工芸品に目を奪われた。

ある国で先住民族が営む、日本製品の店に入って冒頭の核心に触れたそうだ。

店内には、日本の四季の淡い色合いで彩られた、手漉き和紙から民芸品、陶磁器・民具・玩具といった品々で一杯。

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一番の売れ筋は、裸電球を覆う手漉き和紙のランプシェードとか。

「一度は廃れ、遠く置き去りにされてしまった、民衆の中に根付いた文化。その素晴らしさの断片を、この店の中で感じてほしい」。

毎週定休日には、日本各地に直接出向き、作り手と語らい商品を仕入れる念の入れよう。

3月は、和布の袋物展。

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毎日新聞「くりぱる」2004.2.29特集掲載⑤

素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)

理容「フナハシ」

「すいません、トイレが詰まっちゃって。あの棒の先にお椀型したゴムが付いてて、排水口を吸い上げるアレ下さい」。

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40代の主婦が訪れた。

「お客さん痒い所はありませんか」。

隣からはそんな会話が聞こえ、シャボンの香が立ち込める。

主婦は目を白黒させながら、店内をキョロキョロ。

「ええっ、ここって金物屋さんじゃあ?」。

それもそのはず、ここはれっきとした昭和22年開業の理髪店。

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現在は、老朽化した店の建替えで、仮店舗で営業中。

ただややこしいのは、仮店舗の元が金物・荒物屋で、現在も当時の看板が大きく掲げられている点だ。

「昔ながらの人は、今でも金物屋だと疑わないようで。1ヶ月に二人ほど勘違いされた方がいて、慌てて床屋の看板掲げる始末」。

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千種区高見の「理容フナハシ」、二代目店主の船橋光明さん(57)が、鋏を片手に笑った。

新築オープンは、5月中旬(2004年)。

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毎日新聞「くりぱる」2004.2.29特集掲載④

素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)

「カサブランカ」

看板もネオンも見当たらない。

ましてや高らかに安売りを誇張する、下品な貼り紙すら一枚もない。

「本当に店だろうか?」。

訝しそうに立ち止まり、恐る恐る店内へと踏み込んでみた。

インド・中近東系の音楽が流れ、店中エスニックな薫りに包まれる。

何ともご機嫌な気分。

天然素材の手作り衣類から雑貨、インテリア小物までがギッシリ。

「沈む夕陽で大地が真っ赤に色付く、そんなモロッコを持ち帰りたかった」。

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この店、千種区高見の「カサブランカ」、主人の浅野健一郎さん(56)は詩的につぶやいた。

昭和48年に春岡通りで開店。

「当時は皆、怖がっちゃってよう店ん中まで入ってこんかった。ちょっと時代が早すぎたんだよな」。

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一流ファッション誌のグラビアを飾るものなど何も無い。

しかしこの店の衣類やアクセサリー達は、見も知らぬ作り手の体温を宿し、優しく語りかけて来るようだ。

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毎日新聞「くりぱる」2004.2.29特集掲載③

素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)

「池下、幻の『ときわ喪(そう)』」

蝮ヶ池八幡宮、裏手の坂道にその館はあった。

数々の漫画家を生み出したとされる、かの有名な「ときわ荘」とはまったくスケールも異なるが、ぼくにとっては名古屋の、いやもう少し小さなサイズの池下「ときわ荘」だったことに違いはない。

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その館は、とあるアパレル関係の社員寮。

そこの住人二人とぼくが、その後の30年近く、互いの人生に深く関わり合おうとは、誰一人気付いていなかった。

住人の一人、背の高いカーリーヘアーの細身の男は、起き抜けにミスドで5つもドーナツを平らげ、カツカツと栄の婦人服売り場へと向かう。

彼の愛称は、「Cさん」。

もう一人の住人は、ヒョウヒョウとして当り障りのない、人畜無害の優男「Kくん」。

ぼくはバンド活動を通じて、Kくんと知りあった。

Kくんがドラムで、ぼくが作詞作曲ボーカルの、美味しいところ総取り。

その頃ぼくは、地元ラジオのパーソナリティーとして活躍されていた、Iさんとボロアパートで同居しており、夜の店を梯子して唄い歩き、下手糞なギターで歌伴を付けながら生計を立てていた。

ある時クラブのオーナーから、栄で閉めている店をぼくらの好きなように営業してみないかとお誘いがあり、Iさんと共に気が向けばライブもやるという、不埒な店を始めた。

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そこにKくんが練習ついでに立ち寄り、客として連れてきたのがカーリーヘアーのCさんだった。

「ぼく、絵描きになろうと思って。お金貯めたらパリへ行くんだ」。

Cさんの一言を今でもぼくは鮮明に記憶している。

しかしその店も敢無く1年足らずで閉店。

3人とも音信普通に。

それから6年。

既にCさんはあの夜の夢を実現し、パリで絵描きの勉強を終え、帰国後大きな賞を受賞し、イラストレーターとして輝いていた。

一方ドラマーのKくんは、何故かカメラマンに変身しており、これまた月刊誌の表紙を撮影するほどの売れっ子に。

よくよく考えれば、ぼくだけ何者ともつかぬ生き方のまま、ただ漠然と時を過ごしてしまった。

『ああっ、あの日、あの時。彼等二人の寮に潜り込んででも、池下「ときわ荘」の住人に、強引でもなっていれば・・・!』

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ただ今となっては、無情にも()きわ(・・)()失、後の祭りだ。

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毎日新聞「くりぱる」2004.2.29特集掲載②

素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)

「池下界隈」

学生街でもない。

かといって、ビジネス街とも違うし、商業集積街でもない。

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ましてや大自然に囲まれた三世代同居の街でもない。

それらのすべての要素が適度にない交ぜになった街、それが名古屋市千種区池下。

今回の「素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)」は、掴み所のない池下界隈を宛ても無く漫ろ歩いてまいります。

池下交差点を北に進めば、あのマリナーズのICIROを生み出した、愛工大名電高校の学生服とすれ違う。

もっとも制服は当時と変わったかも知れないが、紛れもないあのICHIROの後輩達である。

学び舎の近く、今も1杯450円のカツカレーを昔のままの味で、料金据え置きで営む店がある。

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残念ながらご主人の意向で店名こそ明かせないが、数々の球史や角界に名を残した選手達も、さぞやこのカレーで空腹を満たしたことだろう。

しかし店内には、その痕跡とも呼ぶべき、たった一枚のサイン色紙すらも掲げられてはいない。

中にはこれ見よがしに、どこそこテレビで何時なんどきに放送とか、挙句には名も知らぬタレントのサイン色紙まで掲げられている店もあるというに。

「有名だろうがなかろうが、一杯のカレーを喰う客に分け隔てはない」。

ご主人の言葉は、一見冷たそうに聞こえる。

しかしそれは、有名無名を問わず、人として人に対して保つべき距離感を心得ている証しではないか。

だから今尚、店を訪れる学生達が引きも切らない。

一刻な美学を貫き通す老夫婦。

学生の出来不出来がどうあれ、その子が将来有名になろうがなるまいが、今日も老夫婦は淡々と、まるで我が子のように分け隔てない愛を注ぎ、山盛りカレー一杯を平らげるまでの、わずかなひと時を心から楽しんでいるようだ。

三寒四温に春の気配を感じつつ、のんびりゆっくりと、漫ろ歩いてまいりましょう。

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毎日新聞「くりぱる」2004.2.29特集掲載①

素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)

「やめてくれよ、キャサリン!」。

「何よザビエル、今さら」。

「た、たのむ。お、俺が悪かった、助けてくれ!」。

「何さっきから芝居じみてんのよ」。

「じゃあ君は、もうどうあっても許してくれないと?」。

「何バカな事言ってんのよ。単なるお遊びじゃない。こんな枕投げごっこで、許すも許さないもないじゃない」。

「あっ痛っ!待ってくれよ、今度はマリアからの一撃かよ」。

おっと失礼。

三文芝居は程々に、まずはこの状況を説明しておこう。

これは名古屋市千種区池下にある、家庭料理「でんでん」の店に集う仲間達で出かけた、お泊り旅行での枕投げの一コマ。

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「場所柄、単身赴任のお客さんが多くって、皆何時の間にか家族未満、友達以上の関係に」。

この店のママ・柴田明美さん(55)は、開店前の掃除の手を止めた。

「誰が言うとも無く、今度の旅行は何処へ行こうって、いつもそんな調子で常連さんと皆で温泉ツアーに出掛けたりするのよ。いつも宴会の後は、決って修学旅行さながらに、いい年したオヤジとオバサンが枕投げに熱中」。

カウンターの中で揚げ物の傍ら、もう一人のママ・岡田早苗さん(50)が、大きな思い出し笑いを一つ。

二人のママは、実の姉妹。

子供の頃から「いつか二人でお店をやりたいネ」と夢を膨らませた。

少女から大人へ。

やがて姉妹は恋に落ち、別々の家庭を築き、それぞれの人生へと漕ぎ出した。

子育ても一段落した95年、幼い日の夢がこの店で結実。

「ズブの素人主婦が、銀行に融資の相談したら『えっ、調理師免許も無く、どこかの店で修業したこともないって・・・店なんて本当にやれるんか!』って、鼻も引っ掻けてもらえない始末」。

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「そうよマリアちゃん、私ら主婦歴なら負けないのにね」と、妹の早苗さん。

この店には、誰が決めた訳でもないが、厳格な不文律が存在する。

店に一歩入った瞬間から、立派な会社の社長であろうがなかろうが、会社のでかさも肩書きだって糞の蓋にもならない。

互いに氏素性も年齢も明かさず、名主のような常連によって即座に渾名が申し渡される。

好むと好まざるとに関わらず、有難いその渾名を心底愛し拝命せねばならない。

ちなみに姉の明美ママは「マリア」。

妹が「サナちゃん」。

冒頭の「キャサリン」は、いつも和服姿の書道家。

少し人より頭の薄い「ザビエル」さん。

そんな哀愁漂う客の中には、自らを「キムタク」と呼んで憚らない男がいる。

林家三平似の明美ママのご亭主だ。

もちろん早苗ママの連れ合いも、「ナオパパ」の愛称で一座を盛り立てる。

「たまに常連さん同士が、仕事の途中、街中ですれ違ったりすると『やあ、ザビエルさん』『あれっ、アミーゴさん』なんて調子で、スーツ姿の怪しげなオッサンが挨拶してるんだから、周りの人はさぞ不思議だと思うよ」。

早苗ママが菜箸を振りながら笑った。

店名「でんでん」の由来は、柴田の田と、岡田の田を重ねた洒落心。

単身赴任が解けて東京に戻ったビジネス戦士達は、池下に負けじと東京でんでんを自主的に組織し、姉妹を東京に招き、隅田川の花火を肴に一杯とか。

夜な夜な単身赴任の()兵衛(べえ)(どら)が、遠く離れた家庭の味と一時の団欒を求めて訪れる。

「やっぱりこの店の大虎一番は、『あいちゃん』かな」。

早苗ママが焼酎のボトルを見つめながらつぶやいた。

あいちゃんとは、大層立派な会社のお偉いさんだとか。

「酔っ払って家に帰ったら、さっきまで着てたはずの下着からスーツまで、一枚も無いんだって。しかたないから元来た道を辿ってみると、玄関にパンツ、マンションの入口にシャツ、そして電信柱にズボンってな具合。でも良かったわよ、警察にお目玉喰らわなくって」。

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明美ママが吹き出した。

「去年87歳で亡くなった私たちの父・タロウちゃんも、実の親子関係をひた隠し亡くなる前日までここで呑んでたわよ」。

今では母・京子ちゃん(80)が、亡き夫の指定席を暖める。

「母はこの頃少し呆けちゃってね。朝起きられないって寝込んでても、『今晩店においでよ』って誘ってやるの。すると夕方シャンシャンして店に現れるわけ。ちょっとお化粧して口紅注すだけで、たちまち女に戻っちゃうんだから」と、明美ママ。

誰にも平等に訪れる「老い」。

しかし、一塗りの口紅と、一杯の酒があれば、人は忽ち5年も10年も若返る。

ガラガラガラ、建付けの悪い引き戸が開いた。

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「おお、寒う~っ。まずは熱燗1本!」。

さあ「でんでん」の開店だ。

春まだ早い寒空の下、凍えそうな心に人肌の温もりを求め、今宵も疲れ果てた呑ん兵衛虎が、ヨタヨタと一人また一人と集い始める。

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