毎日新聞「くりぱる」2004.5.30特集掲載③

素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)

「奥の細道むすびの地」

水門川は最上橋の袂で牛屋川と二つに分かれ、大垣城を取り囲むように流れ下り、貝殻橋の僅か上で再び一つに結ばれる。

さらに南に下り住吉橋を越えると、左手に住吉燈台の(やぐら)が川沿いの大木を見下ろす。

写真は参考

この対岸が、芭蕉の「奥の細道むすびの地」として知られるゆかりの場所だ。

初夏の新緑を身にまとい、穏かな風に枝を揺らす川岸の木々。

緩やかな流れをたたえる川面。

写真は参考

そんな風景の中、俳諧心もわからぬ無粋者ではあるが、(うつつ)をけたたましく流れる(せわ)しない時が、確かに一瞬止まったように感じられたから不思議だ。

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毎日新聞「くりぱる」2004.5.30特集掲載②

素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)

「大垣市郭町界隈」

今回の「素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)」は、大垣市郭町で洋傘店を営む小倉登羊衣(とよえ)さん(68)のナビで、芭蕉生誕360年祭に沸く大垣市を、俳人気取りで「あっ、奥に細道!」なんて洒落ながらのんびりと漫ろ歩いてまいります。

大垣駅前から南へ。

目抜き通りをしばし進めば、水の都大垣の象徴でもある水門川にさしかかる。

郭町の商店街に、(いにしえ)の昭和の残像を偲びつつもう少し行けば、戦国の武士(ものの)()どもの生き証人、大垣城の城壁が右手に立ちはだかる。

城の東脇には細い路地。

「やった、奥に細道!」。

バックパックからデジカメを取り出し、まるで魂が何物かに吸寄せられるように、袋小路の中へと。

肩を寄せ合うように(ひしめ)き合う一杯呑み屋の軒先。

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酔いどれ女が厚化粧も落さずそのまま寝入り、所々化粧の剥がれ落ちた素顔を、煌々と朝陽に照らし出されたようなやりきれなさ。

まるでふざけ過ぎた祭りの後のような、呑み屋街の残骸が広がっていた。

この呑み屋街でいったい、どれだけの男達が憂さを晴らし、どれだけの恋が生まれ砕け散ったことだろう。

最後まで取り込まれなかった縄暖簾に、びっしりと張り巡らされた蜘蛛の糸が、人波の耐えた年月を物語る。

写真は参考

「あったよなぁ、昔。こんな風景」。

デジカメのシャッター音だけが、昭和の残骸の町に空しく響く。

「ここら辺りも、みんな再開発やて」。

登羊衣さんが、遠ざかる昭和に溜め息を落とした。

「開けっ放しの引き戸の奥から、女将さんが通り過ぎるぼくらを、親しげに呼び止めるんだろうな」。

「でもそんな風に声かけられたら、一巻の終わり。一杯だけだよって、やっぱ呑んじゃうんだよね」。

立ち止まってひとりごちた。

写真は参考

お向いのスタンドバーから、流しのギターに合わせ、調子っぱずれの濁声でも聞こえれば、色褪せた昭和の時代にいつでも戻ってゆけることだろう。

「紫陽花も 酒の吐息に 頬染める」 旅の詠人

さあそれでは、芭蕉生誕360年祭に彩られる大垣市の街並みを、のんびりゆっくりと、漫ろ歩いてまいりましょう。

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毎日新聞「くりぱる」2004.5.30特集掲載①

素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)

「紫陽花の夫婦」

梅雨の訪れを待ち侘びる、庭先の紫陽花。

大粒の雨を全身で受け止めようと、黄緑色の葉を大きく広げている。

写真は参考

頬に張り付くような南風を感じたら、梅雨はもうそこまで忍び寄っているだろう。

「ここで買って貰った傘の修理は、皆無料やて。何十年前に買って貰ったもんでも。高い部品の交換は、原価をいただくだけ」。

店先に大きな笑い声。

写真は参考

大垣市郭町のオグラ洋傘店・小倉登羊衣(とよえ)さん(68)だ。

「何でこの店で買ったのがわかるの?」。

素朴な疑問を投げかけてみた。

「ここんとこにな、お客さんの名前が彫り込んだるんやて」。

柄と骨の付け根のところに、小刀で刻み込まれた苗字が浮かぶ。

写真は参考

「これが主人の字で、こっちが私。主人が5年前に亡くなって、それからは私が見よう見真似で」。

店の入口脇の、一段高い小さな座敷が名入れの作業場。

登羊衣さんは両足を伸ばして深々と座り込み、丸い柄にスラスラと名を彫り込む。

「モノが売れんと世間で言われながら、私ら傘一本で3人の子供育てて来たんやで。代々続けて来た、この名入れのおかげやろな」。

明治10年代の創業当時は、和傘・番傘・蛇の目傘。

写真は参考

戦後になって洋傘へと主流が変わった。

登羊衣さんは岐阜県垂井町の出身。

高校時代から大垣へと通った。

「私、ソフト部だったの。毎日、大垣公園のグランドで練習してると、初老の紳士が回転焼きにラムネ買って、部員全員に配ってくれるんやて。『何処の誰か知らんけど、いい人やね』って皆で言ってたら、高校3年の夏休みに『ぼくの家にも、君と同じ高校出た息子がおるんや。お友達になったってもらえんやろかなあ』って」。

それが夫、一ニ(いちじ)さんと将来の義父との出逢いだった。

一二さんとは同じ高校の一つ違い。

しかし学び舎では、恋の芽生える気配すらなかった。

「ちょくちょく遊びに行くうちに、夫よりも家族と仲良しになって」。

一二さんは、女5人の姉妹に囲まれた只一人の男。

登羊衣さんの母が、結納前夜にこっそり洩らした。

「断るなら、今しかないよ。玄関から堂々と帰ってくるのはいいが、裏からこそこそは絶対ダメ」と。

義父に見初められ、息子の嫁にとまで口説かれた。

「でも主人が結婚前に言ったの。『あんたは、親父の嫁さんじゃない。俺が嫁さんに来て欲しいんやで』と、その言葉で嫁に入る決心がついたんやて」。

登羊衣さんは3人の子育てに追われながら、傘の仕入れから販売、そして値付けまでを担当し、一二さんは客の名入れ一筋に走り続けた。

雨宿りのような人生。

義父が差し掛けた一本の雨傘。

義父との相合傘は、やがて生涯を連れ添う伴侶との相合傘へと挿げ変わった。

参考資料

傘屋一筋、40年の歳月を共に歩んだ老夫婦。

二人の姿が、雨に打たれる度、その色を深めゆく紫陽花のけな気な姿と重なり合った。

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毎日新聞「くりぱる」2004.4.25特集掲載①

素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)

「社会人野球の監督だぁ!」

「ゲームセット」。

ベンチからグランドに一歩踏み出し、帽子を取った白髪の背番号30番は、深々と頭を垂れた。

愛知県東海市の硬式野球チーム・東海REX監督のY.Tさん(66)だ。

写真は参考

「グランドに一歩入ったら、そこは修行の場だでな。礼に始まり礼に終わる」。

日本で3番目に高齢な日本選手権優勝監督は、白い歯を見せて穏やかに笑った。

この東海REXは、旧新日鉄社会人チームであったが、九州八幡製鉄の野球部が廃部に追い込まれる中、企業・自治体・民間の協力を得て、昨年1月に社会人広域チームとして生まれ変わった。

写真は参考

「たった15人だけのヘボチーム、端から引き受ける気なんてなかったて」。

しかしもう一度ユニフォームを着たい。

そんな想いが、グランドに半世紀を賭けた男の魂を衝き動かした。

「やっぱりユニフォーム着ると、歳忘れるねえ。まあ俺にとっては、これがスーツだでな。それに子供たちから、エネルギー貰らっとるしな」。

終戦後、疎開先から名古屋市天白区の生家に戻った監督は、布を繋ぎ合せて作った粗末な手袋型のグローブで「野球ゴッコ」に高じた。

「野球馬鹿の虫があったんだろうな」。

小学4年の時、叔父から譲り受けた古い皮のグローブを手に、野球部へ入部。

半世紀以上の野球人生が、プレイボールとなった。

中学3年の2学期、東邦高校野球部監督の目に止まり、東邦中学に編入し公式野球部へ。

甲子園の晴れ舞台を目指し、名門中京商業とも互角に渡り合った。

その後、社会人野球の製鉄釜石に所属し、グランドに数々の名プレーを刻み込んだ。

25歳の年に、幼馴染のK子さん(67)を妻に迎え、釜石での新婚生活が始まった。

翌年には長女が誕生。

昭和41年(1976)、生後間もない次女を伴い、東海市の新日鉄社会人チームに移籍し、コーチ兼キャプテンに就任した。

写真は参考

30歳の若さで監督へ。

「息子だったらなあ。キャッチボームでも出来たんだろうが」。

野球一筋に打ち込むあまり、二人の娘を何処へも連れて行く暇さえない。

幼い娘達の元へは、義理の弟がよく遊びに訪れていた。

しかし監督は朝から晩まで野球。

「あの頃、よう女房が嘆いとった。『あそこの旦那は、野球やっとるわりに小さな人だね』と、近所で噂されて困ると」。

しかしそうは言うものの、半世紀以上に渡り夫のユニフォーム姿を支えた妻は、家庭と言うベンチで家族の生活に采配を振るった。

「歳喰う毎に不思議なもんで、段々女房孝行するようになってきた」。

日焼け顔が思わず綻んだ。

「4年生になる孫がおるんだが、これがサッカー少年でな。やっぱり今時の子だでなあ」。

寂しげな言葉を、監督はポトリと落とした。

「でもこの前、グローブを持って遊びに来て『お爺ちゃんキャッチボール教えて』と。娘に吹き込まれたんだろうか。ちょっとだけスナップ効かせてやったら、『お爺ちゃん凄い』だと。これまでの野球人生の中でも、一番嬉しいひと時だったかな」。凄みを放つ強面の顔が、一瞬好々爺の表情に挿げ変わった。

写真は参考

無心でひたすら白球を追いかけた55年の歳月。野球人生に何も悔いはない。内野の要、ショートを守り抜いた監督のグローブは、髪に白髪が目立ち始めた初老の妻の心を、今はしっかりと受け止めている。

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毎日新聞「くりぱる」2004.3.28特集掲載⑧

素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)

「コカコーラ」

辺り一面コーラの山。

それもそのはず、ここはコーラの生みの親。

中京コカ・コーラボトリング東海工場だ。

写真は参考

ナビのIさん夫婦の出逢いの場。

「見学するとお土産ももらえるし」。

Iさんの一言に釣られてちゃっかり社会見学へ。

参考資料

昭和39年(1964)の東京オリンピックの年から始まったという工場見学は、年間2万人、これまでに70万人が訪れたことになる。

写真は参考

一貫した製品管理の工程を目の当たりにし、あたり前のように自販機で買っていたコーラにも、新たな親近感を覚えた。

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毎日新聞「くりぱる」2004.3.28特集掲載⑦

素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)

「大池公園」

「アーッ、ウゥーッ」。

ナビのHくんが、芝生の上を駆け出した。

その先にはアライグマとホロホロ鳥。

写真は参考

ここ大池公園は、東海市民の憩いの場。

多くの家族連れが弁当を広げ、ボール遊びや桜の花見を楽しんでいる。

写真は参考

ここには小さな動物園と、も一つ小さなポニー牧場もある。

写真は参考

さっきまでへこたれ顔で坂を登っていたHくんは、動物達のエネルギーを得て笑顔満面。

この後しばらく、ぼくは足止めを喰うはめに。

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毎日新聞「くりぱる」2004.3.28特集掲載⑥

素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)

「ノンナカコーレ」

丘陵地に広がる南欧の片田舎。

そんな気になってしまいそう。

写真は参考

200坪の庭には、大きく育ったオリーブやレモンの木、花壇に揺れるローズマリーやイタリアンパセリ。

牧歌的な入口を入ると、生簀の中からオマール海老がお出迎え。

「近くに農園を持っていまして、店で使うハーブや野菜も自家栽培しています」と、カナダ・オタワの日本大使館の料理長も務めたと言う、加木屋町のノンナカコーレ、凄腕の総料理長・橘秀希さん(35)。

ピザ生地もパスタも全て自家製のこだわり。

写真は参考

ランチ980円には、メインにピザかパスタ、それにサラダとドリンク付き。今春からは癒しふんだんのハーブガーデンに囲まれて、レストランウエディングも始まる。

思わずカンツォーネの一節が口をついた。

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毎日新聞「くりぱる」2004.3.28特集掲載⑤

素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)

「おさかな工房」

どんでん広場には、飲食店や八百屋、植木屋から魚屋まで、庶民の店が集まっている。

写真は参考

その一角の「おさかな工房」では、師崎の元漁師のY.Tさん(34)が、捕れたてのキハダマグロの中落ちをこそぎ落としていた。

「もともと漁師だったで、活きの良し悪しにはうるさいわさ」。

写真は参考

店に吹き込む春風が、大漁旗をなびかせた。

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毎日新聞「くりぱる」2004.3.28特集掲載④

素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)

「しあわせ村」

聚楽園の大仏様の東に広がる、ヤカン池を取り囲む一円が「しあわせ村」。

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自然の地形を活かした公園が大半を占め、温水プールやトレーニング施設と14種のスパ、さらにハーブ園からキャンプ場、おまけに茶室までのなんでもあり。

写真は参考

今回のナビゲーターであるY子さんも、ミセスの子育てサークルでこの施設を利用し、3歳児までの子を持つお母さん達と、月2回のペースで情報交換や、パーティーを楽しんでいるとか。

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毎日新聞「くりぱる」2004.3.28特集掲載③

素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)

「シュークリームと整理券?」

「美味しいって評判の、シュークリーム屋に行って見ませんか?」。

ナビを務めるY子さんの甘い誘惑にほだされて、歩き疲れた身体に鞭打ちながらも、その店を目指した。

写真は参考

さすがに評判だけあって、店内に人が溢れている。

やっとのことショーケースの前に進み出て、店員から声が掛かるのを待った。

しかし待てど暮らせど、一向に呼ばれる気配がない。

ましてや「いらっしゃいませ」の、お愛想もない。

「○○番の方どうぞ」。

「???」。

ふと銀行のロビーにでもいるのかと、自分の耳を疑った。

しかし鼻先には、相変わらず甘い香りが立ち込めている。

「ハイッ」。

女性客がレシートのような紙切れを差し出した。

相対する店員は、20代前半の今時の娘。

「ご注文の()(ほう)どうぞ」「お後の()(ほう)は、宜しかったでしょうか?」。

「お会計の()(ほう)、失礼します」。

やっぱりこいつは、紛うことなき「ホウホウ星人」に違いない。

もうこの時点でぼくの心から、シュークリームを味わう気持ちなど消え失せてしまった。

店内の客は、何時呼ばれるとも知らず、苛立ち顔。

一方、無愛想なしかめっ面で、淡々と自分の仕事をこなす、バイトのホウホウ星人たち。

何かが狂ってる、そんな気がしてならない。

もう少し観察してやろうと、整理券の発券機とやらを探し出した。

写真は参考

銀行にある、あのぶっきらぼうな機械と同じだ。

「『いらっしゃいませ』さえ、機械に言わせなければならぬほど、客が来て迷惑なのか?」。

ふと、そんな訝しさが芽生えた。

慇懃に下賜付かれるのも迷惑千万だが、店員のシカトよりはましだ。

本来この手の商品は、ショーケース越しにアレコレ品定めしている時間が、最も楽しみのはずでは?

腹立たしさでお腹も一杯。

あっ、また客だ。

自動ドアが開き、春の爽やかな風が吹き込んだ。

これ見よがしに広げられている雑誌の、紹介記事風の広告ページが風にめくり飛ばされた。

「奢れるもの久しからずや~人の噂も七十五日」とか。

また2ヶ月半したら、ぶらりと覗いてみるのも一興か。

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