毎日新聞「くりぱる」2004.7.25特集掲載⑧

素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)

「ラジオ体操と手押しポンプの井戸水」

釣瓶(つるべ)から手押しポンプへ。

写真は参考

そして水道のコックを回して、蛇口に口付け喉の渇きを癒した鉄管ビールの時代。

挙句に手をかざすだけで、センサーが感知して自動で水が流れ出す現代へ。

ってことは、停電になったら、電力が供給されなかったら水も出ないってこと?

ぼくらの子供時代には、まだ公園の片隅に手押しポンプの、井戸水飲み場があった。

寝惚(ねぼ)(まなこ)をこすりながら、ランニングシャツと半ズボンに真っ黒なズック靴でラジオ体操の公園へ。

バッド・チューニング!

ノイジーなラジオ体操第一の曲が割れんばかりに(ひず)んだ音で流れ出す。

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首から毛糸の紐に(つな)いだ、出席カードをぶら下げて。

体操が終わると、一目散に駆け出した。

子ども会のオバサンにスタンプを押してもらうためだ。

一日も休まず出席したって、たったの鉛筆一本だったかな?

でもそれはそれで、当時のぼくには何物にも替えがたい宝物だった。

体操が終わると公園の片隅に駆け出すんだ。

手押しポンプの井戸水飲み場へ。

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朝早くて誰も使っていないポンプからは、色の付いた鉄臭い味の井戸水が(あふ)れ出す。

ぼくらは喉を鳴らしながら、水が透明になるのを待ち続けた。

ゴボゴボと音を立てて溢れ出す冷たい井戸水。

ぼくらは皆で群がって、先を競い合うように渇きを(うるお)した。

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あの懐かしい井戸水を、もう一度形振り構わず浴びるように飲んでみたい。

今日もそんな真夏日だ。

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毎日新聞「くりぱる」2004.7.25特集掲載⑦

素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)

「焼きはまぐり処 魚力(うおりき)

「今しそんな人らは、そうそうおらんようになったけど、ここらは赤須賀の漁師町やで、昔からみんな開放的やったでな。お風呂屋から出ると、腰巻一枚で、おっぱいブラブラでアッパッパーやて」。

焼きはまぐり処 魚力(桑名市開勢町東)の女将・服部たゑ子さん(59)は、大声で笑い転げた。

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冒頭の漁師「大ちゃんドバッと丸裸」の話をしたからだ。

ここはランチタイム中心の営業。

但し予約があれば、夜も貸切で「蛤づくしフルコース」がいただける。

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値段はとにかくお値打ち。

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それもそのはず、女将は志ぐれ蛤の貝増商店の女将であり、酒好きのご主人と友人相手に趣味で始めた商売っ気のない店。

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しかし蛤料理は逸品。

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毎日新聞「くりぱる」2004.7.25特集掲載⑥

素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)

「十一万石」

「今し梅雨が明けるまで、(はまぐり)しるこは湿気(しけ)るもんで(つく)とらんのやさ」。

明治末期創業の御菓子司・十一万石(桑名市伊賀町)の三代目・石田()己生(きお)さん(53)は、申し訳なさそうにつぶやいた。

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()(あん)を乾燥させ砂糖と合わせて白玉あられを加え、白色した蛤型の最中(もなか)の片側に詰め、もう片側の最中を被せて蛤型に。

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椀に蛤しるこをそのまま入れ、熱湯を上から注ぐと、蛤の貝が開き中のおしるこが溶け出し、最中が餅状になって浮かぶ仕組み。

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何とも風情を楽しめる逸品。

1個160円(2004.7.25時点)。

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毎日新聞「くりぱる」2004.7.25特集掲載⑤

素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)

三桝屋(みますや)

柴犬が店番をする店先には、一俵桶(いっぴょうおけ)に入った色とりどりの豆。

シロハナ豆、トラ豆、大福豆、(うずら)豆、丹波の黒豆、ムラサキハナ豆。

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「さて、あなたはどれだけの豆を知っていますか?どれだけの豆の食べ方を知っていますか?」と、並んだ豆桶に問い掛けられるような気がした。

「昔は裏の水路を使こて、運搬しとたらしいんさ」。

創業100年を超えた雑穀卸の三桝屋(桑名市江戸町/2004.7.25時点)、四代目・T.Iさん(35)は、柴犬の頭を()で付けた。

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もちろん桶の中の豆は、ご近所の方用に量り売りもする。

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毎日新聞「くりぱる」2004.7.25特集掲載④

素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)

六華苑(ろっかえん)

だいたい門を通り抜けてから、屋敷にたどり着くまでの間に、アイスクリームが融け出すほど歩かなければならないような、そんな大それた家には住みたくないよなあと、ついつい馬鹿げた幻想を抱いてしまう。

写真は参考

鹿鳴館の設計者による洋館と、庭園を眺められる和風の建物が見事にドッキングした大正2年(1913)建築の旧諸戸清六邸だ。

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和を従えた洋館の建築は、洋が和を急速な勢いで、駆逐し始めた時代の先駆けであり、また同時にそれは富の象徴でもあったのだろう。

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毎日新聞「くりぱる」2004.7.25特集掲載③

素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)

「七里の渡し跡」

東海道五十三次の四十二番目の桑名宿。

参考資料

宮の熱田から海路七里の距離にあり「七里の渡し」と呼ばれた。

写真は参考

また伊勢路に向かう大鳥居は、伊勢の国一の鳥居と呼ばれる。

船着場から南へ伸びる干からびた水路。

左手には桑名城を二重に取り囲む外堀の石垣、右手には旧東海道に沿って(くるわ)や料亭が軒を連ねていたことだろう。

写真は参考

「ちょいと、そこゆく旅の旦那」な~んて、鼻に掛かった声でもかけられようものなら、はてさていったい。

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毎日新聞「くりぱる」2004.7.25特集掲載②

素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)

「桑名市界隈」

今回の「素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)」は、ゴンチキチンの(かね)の音に酔う、天下の奇祭「石取祭(いしどりまつり)」を次週に控える三重県桑名市へ。

七里の渡しから揖斐川沿いを南へ。

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戊辰(ぼしん)の戦では朝敵(ちょうてき)の汚名を浴びせられながらも、最後まで徳川への義を貫き通した旧桑名藩。

最後の侍たちの根城、桑名城址を右手に眺めつつ、崇高(すうこう)な武士道精神は持ち合わさぬが、旧東海道を行き交った江戸時代の庶民を想いうかべ、のんびりと漫ろ歩いてまいります。

揖斐・長良の一級河川は、河口から5㌔ほど上流で合流し、そのまま伊勢湾へと注ぎ込む。

ちょうど揖斐・長良が一つに交わるあたりには、沢山の漁船が係留(けいりゅう)されていた。

写真は参考

「あれれ?」。

日影一つ無い堤防を、ズンズン突き進む。

その向うからこちら岸に向かって、何とも涼しげなパンツ一丁の漁師が、小さな漁船を(あやつ)っている。

伊勢湾からの南風が川面を遡上(そじょう)し、赤銅色(しゃくどういろ)に日焼けした老人の白髪を揺らしていた。

写真は参考

「これ見てみい。ええシジミやろ。身がプリップリに入っとっんやさ」。

桑名市赤須賀の漁師・S.Mさん(71)は、今獲ったばかりという、バケツ一杯分の大粒のシジミを、船の舳先(へさき)から岸に揚げた。

Sさんは、直径2㌢ほどの黒々としたシジミを、コンクリートに投げ付けて割り、貝の中身をご開帳。

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「パンパンに身がつまっとんやさ。シジミ汁にするとええ出汁(だし)出るんやさ」。

5~6年ものの大粒が、この辺りにはゴロゴロとか。

「伊勢湾の潮水と、揖斐川の清流が混じりおうて、シジミもアサリもハマグリも、みんなよう育つんやろな」。

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中学を出てから55年、海と川との狭間で、貝漁一筋に生き抜いた。

Sさんの唯一の趣味はカラオケとか。

自慢の喉をと所望(しょもう)すると、船の中央へと移動して腰を振り始めた。

「大ちゃんドバッと丸裸」と大きな歌声と同時に、ラクダの股引(ももひき)色したボクサーパンツをずり下ろしながら、(なまめ)かしい振り付けまで披露。

何とも大らかな、漁師町の風情に絶句。

さあそれでは、日本一やかましい、喧嘩祭としてその名を()せる「石取祭」一色に染まる旧東海道の桑名の宿を、のんびりと漫ろ歩いてまいりましょう。

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毎日新聞「くりぱる」2004.7.25特集掲載①

素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)

「日本一やかましい喧嘩祭」

「この町で生まれたもんは、みな母親のお(なか)ん中で、ゴンチキチンの(かね)の音聞いて育つんやで、喧嘩祭の血が(たぎ)っとんやさ」。

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三重県桑名市生まれのM.Oさん(46)。

日本一やかましい喧嘩祭として、全国にその名を()せる「石取祭(いしどりまつり)」。

だが意外にも、優男(やさおとこ)の風貌。

「本当に?」と、思わず疑ってしまった。

今年の石取祭は、7月31日から。

幕開けは、提灯に火が灯る夕刻。

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法被(はっぴ)姿の少年たちが辻々を練りながら、歌い上げる“お勝っつあんは うちにか 蟹が桃はさんで はさみちぎって ほったった ほったった” の歌に始まる。

夜も(ふけ)ると、今度は法被姿の青年たちが、口々に「お勝っつあん」を歌い上げながら、祭の無事を祈って徒党を組んで、参拝のため春日神社へと練り込んでゆく。

浴びるほど(あお)った酒で酔いも回り、一触即発状態の緊張感が参道を(うず)め尽くす。

各町々の祭車(さいしゃ)の周りでは、午前0時の叩出(たたきだ)しの瞬間を、今や遅しと待ち構える。

叩出しの合図は、春日神社の神官が(みことのり)を上げ、神楽太鼓が鳴り渡ると、石取祭青年連盟の会長が、赤提灯を振り上げ祭の始まりを告げる。

神社から4㌔も離れた町では、辻々に伝令を配し、次から次へと送り提灯で叩出しの灯りを町へと送る。

(ねじ)り鉢巻き、紺木綿の股引(ももひき)と、腹当てに揃いの半纏(はんてん)地下足袋(ぢかたび)姿。

ビンロウジ(鉦を叩くT字型の金属製の(ばち))で鉦に刻む五拍子・七拍子のゴンチキチンが、一斉に町中に響き始める。

男は勇を、女は艶姿(あですがた)を競い、年に一度の(やかま)しいハレの日が幕を落す。

誰よりも祭を愛するOさんは、ゴンチキチンの喧噪(けんそう)(むせ)(かえ)渦中(かちゅう)に、生後1ヶ月にも満たない赤子の長男を連れ出したほど。

それから13年、赤子も今では立派に少年会の一員として、ビンロウジを巧みに操る。

「戦前は臨時列車が出るほどやったんさ。今しも、この奇祭を一目見ようゆうて、全国から10万人の人らがおいでるんやでな」。

8月1日、夕刻6時30分。

いよいよ祭のクライマックスが訪れる。

年に一度のこの日のために磨き上げられ、豪華絢爛さを競い合う神殿を模した三輪の祭車が、春日神社の参道目掛け町々から繰り出す。

写真は参考

参道に連なる40台に及ぶ祭車の行列は2㌔とも。

迂闊(うかつ)に祭車に近付くと祭男とみなされ、ビンロウジで殴りあうこともあるといわれる、喧嘩祭の渦中へと引き()り込まれる。ご用心、ご用心。

「一年祭のために、頑張って働くんやでな。普段は質素に暮らしよって、石取でパーアッと使こたるんさ。それがこの町に生きるもんの誇りなんやさ」。

これだけ自分たちの町に伝わる祭と伝統を、情熱的な口調で誇らしげに語る男をぼくは知らない。

「太鼓と鉦の音があれば、桑名の人らは嬉しいんやでさ」。

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喧嘩祭と称されるほど、物騒で血の気の多い石取祭。

何とも不似合いな優男のOさんだが、桑名の夏の夜を焦がす祭の自慢話は、まだまだ終わりそうにない。

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毎日新聞「くりぱる」2004.6.27特集掲載⑥

素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)

「俳人町長」

明和町長の木戸口眞澄さん(69/2004.6.27時点)。

父の影響もあり、10歳の年に句会にデビューした。

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デビュー作はと問えば、鸚鵡返しに「校庭に 叱られてる子 朝寒し」「毬のよう 猫走り出す 梅林」と、澱みなく(そら)んじる姿にただ天晴(あっぱ)れ。

「どっちか言うと、多作濫作(らんさく)の方やろな」と言うだけあって、一日に50句詠むことも(いと)わない。

まるで日常の会話そのものが、五七調の小気味いい調子を刻むようだ。

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毎日新聞「くりぱる」2004.6.27特集掲載⑤

素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)

擬革紙(ぎかくし)・三忠」

擬革紙(ぎかくし)とは、皮を模造した特製の和紙で、煙草入などに用いられた。

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伊勢参宮時に革の持込は、不浄とされその代用品に。

古くは貞享元年(1684)、伊勢の国新茶屋村(現、明和町新茶屋)の三島屋忠次郎(三忠)により考案されたとか。

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時代の変遷の谷間で、昭和10年(1935)に擬革紙の需要が減り、三忠も廃業し加工技術も途絶えたままとなった。

八代目当主の堀木茂さんは、擬革紙復興に努める。

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掘木さんのまちかど博物館「擬革紙三忠」(明和町新茶屋)は予約制。

(*いずれも2004.6.27時点)

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