毎日新聞「くりぱる」2004.9.25特集掲載①

素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)

「伊勢市しんみち商店街界隈」

今回の「素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)」は、「伊勢おおまつり」を、2週間後に控える三重県伊勢市へ。

伊勢市駅を線路沿いに北西に向かうと、背の高いアーケードのしんみち商店街が、鰻の寝床のように奥へと続く。

写真は参考

「伊勢おおまつり」は、この商店街も舞台の一つとして、伊勢の神域全体を巻き込みながら壮大に繰り広げられる。

明治28年に始まり、今年ではや110回目の開催となるそうだ。

何処(どこ)彼処(かしこ)も、駅前商店街が辿(たど)った平成の衰退は、もはや往時の賑わいを伝える影すら、綺麗サッパリ拭い去ってしまったようだ。

人気の少ない商店街を老婆が手押し車で、ゆっくりゆっくりと歩を進める。

写真は参考

開け放たれた店先から、何ともほっこりとした語韻(ごいん)の伊勢(なま)りが舞う。

老婆の顔に笑みが広がる。

「今日もあんたの顔見たさで、ついつい出てきてもうたわ」とでもいいたげな素振り。

「気い付けてゆくんやんな」と、店先で(はた)きを振るう店の主。

ぼくらの愛した昭和の町並みには、必ずこんな光景が対を成していた。

誰かが誰かと、今思えばお節介なほど、関わり合って暮らしを営んでいた。

しかし、後もう2週間もすれば、このアーケードに往時の人波が押し寄せる。

年に一度の「伊勢おおまつり」は、110年を経た今も、他の何処へもゆきはしない。

普段は、郊外の大型ショッピングセンターへと車で向かう人々も、この日ばかりは車から降り、しんみち商店街を(そぞ)ろ歩きながら祭りを愉しむ他はない。

年に一度、しんみち商店街に、往時の賑わいが束の間(よみがえ)る。

心なしかせつない想いに駆られながら歩を進め行くと、真っ黒に変色した招き猫と福助人形が、店先のショーウィンドーに(ほこり)をかぶって鎮座している。

色褪せた暖簾には、御好焼「おもかげ」の文字。

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何でもしんみち商店街の盛衰と、半世紀以上を共にした店だとか。

90歳を越えるお婆ちゃんが、店を切り盛りするそうだ。

そんな話を聞いてしまった以上、ぼくに選択の余地などない。

「ここでお昼にしよう」と(きし)む入口のドアを押し開けた。

「Y子ちゃん!Y子ちゃん!ウンコや!」。

「ちょっと待ってぇや」。

「いらっしゃいませ」代わりに、店内と奥の座敷に飛び交う会話が、何の違和感も無くぼくを迎えた。

「すいませんなあ」。

Y.Sさん(38)が、注文を取りに来た。

ぼくは至極当り前のように「豚玉のお好み焼」と。

熱せられる鉄板を前に、お腹の虫の騒ぎを(なだ)めながら待つことしばし。

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その間中、奥の座敷からは、「Y子ちゃん!ウンコや!」「ちょっと待ってぇや」「もう、あかんわ」「あかんことないない。もうちょっと、辛抱しとき」の応酬。

「お待たせ」。

お好み焼の材料が乗った、セルフサービス用の皿が届いた。

「あの声、お婆ちゃん?」。

「4年ほど前までは達者やったのに、それから寝込んでもうて。この頃、いっつもあんな調子で」。

Yさんのお婆ちゃん、T.Sさん(97)は、半世紀以上前にこの店を開業した。

一銭洋食とまで呼ばれ、昭和の庶民の胃袋を支えたお好み焼。

ぼくが少年時代の、お好み焼屋のおばちゃんと、奥で寝込むお婆ちゃんの顔が重なった。

「いただきま~す!」。

ぼくは昔取った杵柄ならぬ(こて)(さば)きで、せっせとお好み焼を胃袋へと運ぶ。

美味(うま)い!やっぱりお好み焼は、洒落た綺麗な店よりも、少々昔がかったこんな店の方が味わい深いなぁ」と、ついついひとりごちたものだ。

「Y子ちゃ~ん!今度はシッコや!」。

「またかいな!」。

「ああっ、あかん!ちびってもうたわ」。

何とも微笑ましい、健気(けなげ)に老婆を看取(みと)る孫の姿。

しかしこの国の行く末を想うと、美味いはずのお好み焼も、明日だけに生きられたあの頃とは、どうにもこうにも違う味がした。

さあそれでは、今年は9日間に及び、伊勢の神域全体を舞台に繰り広げられる、「伊勢おおまつり」を2週間後に控えたしんみち商店街を、一足お先にのんびりと漫ろ歩いてまいりましょう。

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毎日新聞「くりぱる」2004.8.29特集掲載⑧

素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)

「レストランクラブ」

何ともイカした(いにしえ)の店と出逢った。

末広町商店街の中ほど。

看板には意味深な「レストランクラブ」の文字。

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蛍光灯の消えたショーウィンドーの中には、黒ずんだロウ細工のオムライスとチキンライス、ハムエッグとチャーハンが、何十年か前に置き去られたままの状態で、道行く人を眺めてる。

薄っすら開いた入口から、店内をこっそり覗き見ると、四本足の(いか)ついソファーとデコラ張りのテーブルが、整然と配置されていた。

「巨人・大鵬・卵焼き」世代のぼくにとって、このレストランは高嶺(たかね)の花だったんだろうな。

店内から香るケチャップの匂いに()かれ、思わず立ち止まろうものなら、「何してるの!早く行くよ!」ってな調子で、母にいきなりこっぴどくどやされ、ぼくの小さな手が強引に引っ張られたことだろう。

そう言えば、子供の頃よくレストランのショーウィンドーに立ち止まって、まだ一度も食したことの無い外国風の料理を眺めては、「いったいどんな味がするんだろう?」「どうやって食べるんだろう?」と、食べられもしないのに独り考えたものだ。

でも決って最後は母に見つかり、強引に手を引かれて連れ去られたもの。

母の目には「(いや)しい子だ」と映っただろうか?

ぼくはショーウィンドーに見とれる姿を、母に見つかるたび、いつも気まずい想いに駆られた。

貧しかったぼくの家は、一家揃っての外食なんて何年かに一度、有るか無しかだった。

だから万一母から「レストランに入ろうか?好きなもの何でもお食べ」なんて言われたらどうしようって、いつも考えてた。

そんなこと、もし母が突然言い出そうものなら、何か途方も無く悪いことが、わが家を襲って来るようで怖かった。

だからぼくはそんなことがあったら、「ぼくお母ちゃんの目玉焼きと味噌汁がいいだもん!」って答えようって、小さな心にずっと決めていた。

でもとうとう、ぼくが大きくなるまで、お母ちゃんはそんなこと一度も言ってくれなかったね。

お母ちゃん、今度は彼岸に逢いに行くからね。

お母ちゃんの好物だった、おはぎを持って。

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毎日新聞「くりぱる」2004.8.29特集掲載⑦

素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)

「川村屋 賀栄(がえい)

瀬戸川に面した川村屋賀栄(がえい)は、江戸末期の創業。

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毎日米(こうじ)ともち米を発酵させては、その絞り粕を代々受け継がれてきたものと混ぜ合わせる。

そこに小麦粉を入れて、(さら)(あん)(くる)めば出来上がり。

「秘伝の菌を死なせんようにせんと」。

六代目の女将・加藤由美子さん(49)は、酒蒸「瀬戸川饅頭」の命とも言うべき菌の培養に心を配る。

ほんのりと漂う酒の香と、ほっこりと口中に広がる上品な甘さの晒し餡。

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絶妙のハーモニーが、1個105円(2004.8.29時点)でふんだんに愉しめる。

川村屋 賀栄 瀬戸市栄町

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毎日新聞「くりぱる」2004.8.29特集掲載⑥

素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)

「手しごとや ()ん」

銀座通り商店街を西に抜けてすぐ。

年代を感じさせる店舗の入口には、右から左に向かって書かれた「若松屋洋服店」の看板と、手作り風の趣のある「手しごとや ()ん」の看板。

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「30年前に、主人が二代目だった洋服屋を閉めて。今から4年前、昔の店をほんの少しだけ改装して、私の趣味で手作り物の器の店にしたの」と、二代目夫人の小塚洋子さん(53)。(2004.8.29時点)

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作家を紹介する店を作りたかったという小塚さんの元には、瀬戸を拠点とする陶芸家やガラス細工職人ら20人ほどが集まり、それぞれ自慢の作品がお値打ちに並ぶ。

手しごとや 阿ん 瀬戸市朝日町

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毎日新聞「くりぱる」2004.8.29特集掲載⑤

素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)

「深川神社」

宮町地下商店街の賑わいを他所に、突き当たりに静まり返る高台の鎮守の(もり)

瀬戸の産土神(うぶすながみ)(まつ)られる深川神社だ。

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陶祖と(あが)められる加藤四郎左エ門景正(藤四郎)が参拝の折り「辰巳(たつみ)(東南)の方角、祖母懐(そぼかい)の地に良土がある」という神のお告げを受け、良い木節(きぶし)粘土を発掘したとされる。

深川神社 瀬戸市深川町

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毎日新聞「くりぱる」2004.8.29特集掲載④

素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)

「うなぎの田代」

創業80年とか。

店先の窓を開け放ち、その場で(さば)いた活け(うなぎ)を串刺しにし、備長炭でこんがりと焼き上げる。

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1日多い日で何本ほど焼くか尋ねてみた。

すると「数えとったらやっとれへん」と、何ともぶっきらぼうなご返答。

4代目の伊藤和裕さん(33)だ。

額の汗を拭う間も無く、捌いては焼き加減を確かめる。

その鋭い眼に狂いは無い。

「昔はよう賑ってね。1日とか16日とか、この辺の人らの給料日ともなると、『深川行かな()れん』と言われたほど賑ったんやて」と、大女将。

並のうな丼1600円(2004.8.29時点)には、丼からはみ出さんばかりに、丸ごと一匹の鰻入りという大胆さ。

うなぎの田代 瀬戸市深川町

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毎日新聞「くりぱる」2004.8.29特集掲載③

素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)

「焼きそば 大福屋」

白衣にタオルの(ねじ)り鉢巻きが、いかにも頑固親父の風貌を漂わす。

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がっしりとした体格の親父は、鉄板山盛りの10人前以上はあろうかと思われる焼きそばを、見事な(こて)(さば)きでなんなくひっくり返しては、「ジュー」っと音を立てながらソースを注ぎ込む。

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行列の出来る焼きそばは、350円(2004.8.29時点)。

味の凍み込んだ関東煮も実に美味そう。

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焼きそば 大福屋

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毎日新聞「くりぱる」2004.8.29特集掲載②

素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)

「せともの祭大廉売市」界隈

今回の「素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)」は、「せともの祭大廉売市」を、2週間後に控える愛知県瀬戸市へ。

軒を連ねる露天には、きっと色とりどりの陶磁器の花が咲き乱れることだろう。

瀬戸川沿いをちょいと、深川神社に向かって北へ曲がると、またしても昭和のノスタルジーがぼくを待ち受けていた。

小さく狭くて距離も短い商店街は、案の定アーケードの軒も低い。

看板には宮町地下商店街と。

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しかしエッコラエッコラと、地下へと続く階段を駆け下りた記憶など無いし、何処からどう贔屓目(ひいきめ)に見たにせよ、天下の大道に相違ない。

周りを見渡せば、瀬戸川沿いに西へと向かう「銀座通り商店街」。

少し南を東に向かう「末広町商店街」。

どちらも全国津々浦々で見かける、無難な商店街の名称が掲げられていた。

にも関わらず「宮町地下商店街」とは、何とも大胆不敵。

深川神社の門前ゆえ、宮町はまだわかるとしても、「地下商店街」の由来が気に掛かる。

居ても立ってもおられず、鰻屋の前で順番待ちのおじさんに、何気なく問うてみた。

「ここって、本当は『宮町イケシタ商店街』って言うんじゃない?」。

「はぁあ?」。

「だからここの商店街の名前ですって」。

「ああそのことか。たいがいの人が、何でやってよう言うんやけど、この裏の一段高い駐車場から見ると、まるで地下に商店があるように見えるからやろ」。

まあ何とも、嘘臭い由来に思えるが、もしそれが真実であるならば、見方も考え方もまったく異なる。

ここを洒落心一杯に「地下商店街」と、そう親しげに呼んだ人々の、(ゆる)やかで(おだや)かな昭和の欠片(かけら)の時間が偲ばれるからだ。

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100㍍にも満たない商店街には、歩道から人が溢れ出している。

近付いてみれば、歩道に面した一角で、大柄な白衣の店主が(ねじ)り鉢巻き姿で、汗を拭いもせず寡黙(かもく)にせっせと焼きそばを焼き続けている。

10人分以上を一度に(こて)でひっくり返しながら、ソースを垂らしこむ。

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鉄板に弾けるソースの豪快な音と、鼻に突き刺さるような刺激臭に、待ち()びる客も生唾をごくり。

そのも一つ向こうが、備長炭直火焼の鰻屋。

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ここも歩道の客待ちが絶えない。

さらに門前へと歩を進めると、家庭を顧みる(いとま)も無く、ただひたすら昭和の時代を走り抜けた男たちを、癒しては送り出したであろうスタンドバーの手垢(てあか)(まみ)れた木製ドア。

まるで生まれ故郷のような、郷愁の時代の片鱗(へんりん)に触れ、ほだされることしきり。

それはそうとさっきから、鰻のタレが備長炭の(おこ)りに()ぜ、鼻先を(かす)める。

たまらなく芳ばしい匂いに釣られ、ぼくはどうにも居ても立ってもおられず、思わず「鰻丼一丁、それとビールの大瓶もねぇ」と腹の底から叫んでしまった。

さあそれでは、2日間で50万人の買い物客や観光客で賑うと言う、「せともの祭大廉売市」開催間近の瀬戸の町を、一足お先にのんびりと漫ろ歩いてまいりましょう。

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素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)

「せともの祭」

「瀬戸の雀はみな真っ黒やったでねぇ。白いワイシャツなんて禁物。すぐに真っ黒やで」。

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愛知県瀬戸市最大のイベント、「せともの祭」。

中でも全国にその名が(とどろ)く呼び物「大廉売市」の実行委員長を、13年も続けた加藤光男さん(76)は、()く夏を惜しむように窓外を(なが)めた。

瀬戸川沿いに1000軒近くの、せとものを売る露天が立ち並び、大勢の買い物客と観光客で騒然とごった返す「せともの祭大廉売市」。

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今年は、9月11日(土)・12日(日)の2日間。

窯焼(かまやき)屋の(せがれ)として生まれた加藤さんは、23歳の年に陶器の企画と販売を主とするマルミツ陶器を創業し、2年後の昭和28年(1953)に「大廉売市」に軒を並べて初出店を飾った。

「当時は道路事情も今ほどうるさないし、車もめったに通らんかったでなあ。近在のお客が、自転車の荷台に八百屋の(かご)(くく)りつけて、夜中の0時を待ってゾロゾロやって来るんやで。みんな問屋が蔵出ししたばかりの『せともの』の中から、少しでもええ品を安う買おうと」。

戦後の統制経済からも開放され、喰うだけの時代から、食べることに潤いを求める時代へと、昭和が少しずつ明るさを取り戻しつつあった。

「よう売れたでなあ、あの頃は。リヤカー山積みにして、何杯運んだことか。茶碗だけで10.000個は売り(さば)いとったな。帰る時は、パッパと(てのひら)(ちり)を払うほど、何一つ残らんかったほどやて」。

陶器の町は、輸出の花形産業として持て囃され、一際輝きを放つ時代を迎えようとしていた。

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「今みたいにカタログなんてもんあれへんし、でっかい鞄に見本のせともの山ほど詰め込んで、あっちこっち売りに歩いたもんやて」。

友人の口利きで28歳の年に、瀬戸市出身の妻を迎えた。

「まだ昭和も30年代半ば頃までは、窯で石炭燃やしとったで、瀬戸の空は煤煙で年がら年中(すす)けてまって。女房は洗濯もんも外へ干せんし、どこの家もみな苦労したもんだて」。

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輸出に潤った瀬戸の町ではあったが、昭和も40年代を下り始めると、窯焼屋の煙突から一本また一本と煙が消えて行った。

自動車業界では、国産の大衆車が発売され、徐々に輸出産業の要へと勢力範囲を拡大。

輸出の王道を自動車業界に明け渡した。

同時に中国製の陶器の輸入が、瀬戸の衰退に追い討ちをかけた。

「瀬戸は分業制で、土の原料屋・原料を調合する土屋・原型師・窯焼屋・釉薬(ゆうやく)屋でなりたっとって、瀬戸の6割くらいの家が窯業(ようぎょう)(たずさ)わっとったけど、今は1~2割ぐらいだろか。どこも三ちゃん工業で、朝早よから夜遅までが当り前の時代だったでな」。

焼き物の代名詞として親しまれる「せともの」。

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焼き物としての「せと物」は、磁祖加藤民吉に端を発する「せと者」と呼ばれた数々の陶匠たちの、土に(まみ)れた指先に支えられた。

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毎日新聞「くりぱる」2004.7.25特集掲載⑧

素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)

「ラジオ体操と手押しポンプの井戸水」

釣瓶(つるべ)から手押しポンプへ。

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そして水道のコックを回して、蛇口に口付け喉の渇きを癒した鉄管ビールの時代。

挙句に手をかざすだけで、センサーが感知して自動で水が流れ出す現代へ。

ってことは、停電になったら、電力が供給されなかったら水も出ないってこと?

ぼくらの子供時代には、まだ公園の片隅に手押しポンプの、井戸水飲み場があった。

寝惚(ねぼ)(まなこ)をこすりながら、ランニングシャツと半ズボンに真っ黒なズック靴でラジオ体操の公園へ。

バッド・チューニング!

ノイジーなラジオ体操第一の曲が割れんばかりに(ひず)んだ音で流れ出す。

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首から毛糸の紐に(つな)いだ、出席カードをぶら下げて。

体操が終わると、一目散に駆け出した。

子ども会のオバサンにスタンプを押してもらうためだ。

一日も休まず出席したって、たったの鉛筆一本だったかな?

でもそれはそれで、当時のぼくには何物にも替えがたい宝物だった。

体操が終わると公園の片隅に駆け出すんだ。

手押しポンプの井戸水飲み場へ。

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朝早くて誰も使っていないポンプからは、色の付いた鉄臭い味の井戸水が(あふ)れ出す。

ぼくらは喉を鳴らしながら、水が透明になるのを待ち続けた。

ゴボゴボと音を立てて溢れ出す冷たい井戸水。

ぼくらは皆で群がって、先を競い合うように渇きを(うるお)した。

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あの懐かしい井戸水を、もう一度形振り構わず浴びるように飲んでみたい。

今日もそんな真夏日だ。

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